令和三年十一月六日~~
吉野櫻雲
小林秀雄著『本居宣長』(昭和五十一年連載終了:七十四歳)
《各主題及び各項の「關係論」的纏め》
〔三十五章〕主題P333~9
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《言葉で作られた『物』(言靈・神・宣命・歌)⇒のありようの『いはではやみがたき』を感知(事の世界:D1の至大化)⇒音聲の文(あや)に出現〔言(こと)の世界〕⇒言語共同体體の形成》:その「關係論」的纏め。 P336關係論: ①言葉で作られた『物』(物:場 C‘)⇒からの關係:「◎:①の『いはではやみがたき』ありようの感知(D1の至大化)〔事(こと)の世界〕⇒「②:あはれ(F)/文(あや:F)」(◎的概念F)⇒E:聲(F)ほどよく長めて②をうたふが歌の本義(Eの至大化)〔言の世界〕」(②への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P333~4關係論: #小林秀雄 著 #本居宣長 三十五章〔小生的纏め〕 ① 言葉で作られた[物](言霊:神)②心③宣命④言霊⇒からの關係:①の[ありやう]を感知(『事の 世界』)とは⇒⑤文(あや)⇒②が直かに感ずる(『事の世界』)、⑤といふ經驗(『言(こと)の世界』).即ち[⑥⑦の聞て心にしめて感(かま)くべく(『事の世界』)其詞に⑤をなし美麗] (『言(こと)の世界』).③の④は,先づ宣る(『事の世界』)といふ事が作り出す,音聲の⑤(『言(こと)の世界』)に現れた⇒⑥神⑦人 P334關係論: #小林秀雄 著 #本居宣長 三十五章 ① 磐戸(『神代記』)③日の神④#言霊⑤幸はふ國⑥言葉⑦宣命⇒からの關係:⑩が想ひ描いたのは,②の中の③と外の⑪との間を取結んでゐる④の⑤であつた.其處で,⑪の間を行き交ふ⑥は,⑨としての⑥である。故に⑦宣命の④言霊は,先づ宣る(『事の世界』)といふ事が作り出す⇒⑨音聲の文(あや)⇒⑨(『言(こと)の世界』)に現れたのである⇒⑩宣長⑪神々 |
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P339關係論: #小林秀雄 著 #本居宣長 三十五章 ② 私の話②私③私の思ひ④音聲の文(あや)⑤物⇒からの關係:①を聞いてゐる⑦にしても,語る ③ の④を,耳で辿ることが,③を直に理解する事になる.然らば,②が確かに思つてゐる(『事の世 界』)のは,話をしてゐる(『言(こと)の世界』)といふ事になる.⑤を言ふといふ事(わざ:『事の世界』)の本義は⑧に聞かする所『言(こと)の世界』にある⇒⑦相手⑧人
P340關係論: #小林秀雄 著 #本居宣長 三十五章 ① 言擧げする②言語③『言靈の祐(さき)はふ(栄える)』④神ながら(神代・神の国柄)⇒か らの關係:複雑な②表現(『事の世界』)にまで育てあげるといふ鋭い意識を⑦は①といふ言葉で⑧知らず現してゐた(『事の世界』).そして⑦は⑨もかりず既成の②による絆を解き,又これを結び直すといふ事をする.③は④(神代)と合點〔つまり:『言靈の祐(さき)はふ』は『神代』だからと合點(『事の世界』)〕したのは、『ま福(さき)くありこそ(恙なくあれ)』と①こと(音聲の文:言の世界)に依つてであつた⇒「⑤:見易い所」⇒⑥は,皆んなと一緒に暮す〔共同生活:『言の世界』〕爲に,實際に何をしたかといふ⑤〔つまり:共同生活の爲に『音聲の文(あや) による挨拶(F)交換(Eの至大化)』をしたといふ所〕を,見極めるのがいいのだ.(つまり)⑥は,互ひに眼を交す(Eの至大化)とか,名を呼び合ふ(Eの至大化)とかいふ,些細だが,しつかりした行爲(言の世界)を,複雑な②表現にまで育てあげる〔とは:『言靈の祐(さき)はふ』は『神代』だからと合點(『事の世界』)出來たのは、『ま福くありこそ(ご無事で/恙なくあれ)』と、先づ『音聲の文:言の世界』で、言擧げする事が出來たからなのだの意。つまり言靈は、先づ『音聲の文(あや)』に出現し、出現に依り、③は④だからと合點させられるといふ事〕といふ,⑩の努力によつて,互ひに結び合つた(共同生活に客體化)のである⇒⑥私達⑦歌人⑧われ⑨誰の手⑩自分達。 (詳しくは以下參照) ~~~~(注:以下項への補足⇒⑧私達⑨自分達⑩歌人⑪われ⑫誰の手⑬人(△枠)~~~~~ P340關係論: #小林秀雄 著 #本居宣長 三十五章 ① 言擧げする(物:場 C‘)②言語(物:場 C‘)③言語財(物:場 C‘)④言葉(物:場 C‘) ⑤『言靈の祐(さき)はふ』(物:場 C‘)⑥『神ながら(神代・神の国柄)』(言靈。物:場 C‘)⑦歌(物:場 C‘)⇒からの關係:複雑な②表現(『事の世界』:D1の至大化)にまで育てあげるといふ鋭い意識(D1の至大化)を、⑩歌人(△枠)は①といふ言葉で、われ知らず(D1の至小化)現してゐた(『事の世界』)、と言つていい。そして、彼(歌人)は誰の手(△枠)もかりず(D1の至大化)、既成の②による絆を解き(D1の至大化)、又これを結び直すといふ事(D1の至大化)をする。⑤(『既成の言語』)は⑥(『結び直す』)と合點(D1の至大化)したのは〔とは:『言靈の祐(さき)はふ』(物:場 C‘)は『神ながら(神代だから)』(物:場 C‘)と合點したのは〕、先づ『音聲の文(あや):言の世界』で、『ま福(さき)くありこそ(恙なくあれ)』と①ことに依つてであつた(尚、この傍線部分はつまる處、以下『言靈の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化』に換言が可能なのでは?)
ところで、「先づ『音聲の文(あや):言の世界』で、『ま福(さき)くありこそ(恙なくあれ)』と『言擧げ』することに依つてであつた」とは何を意味するかと言ふと、以下となる。 即ち「依つてであつた」とは、『言靈の祐(さき)はふ』(物:場 C‘)のありやう(D1の至大化)を、「我國は神代(物:場 C‘)なのだから」と感知(合點D1の至大化:『事の世界』)したので、『いはではやみがたき』の思ひ(D1の至大化)から、それを先づ、『音聲の文(あや):言の世界』で、『ま福(さき)くありこそ(恙なくあれ)』と、言擧げする(音聲の文)氣になつた事に依つてであつた、を意味する」。(以下關係論參照)
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P339關係論: #小林秀雄 著 #本居宣長 三十五章 ④ 私の話②私③私の思ひ④音聲の文(あや)⑤物⇒からの關係:①を聞いてゐる⑦にしても,語る ②の④を,耳で辿ることが,③を直に理解する事になる.然らば,②が確かに思つてゐる(『事の世界』)のは,話をしてゐる(『言(こと)の世界』)といふ事になる.⑤を言ふといふ事(わざ:『事の世界』)の本義は⑧に聞かする所『言(こと)の世界』にある⇒⑦相手⑧人。 〔上項は以下三項に置き換へが可能〕
〔以下は上記三項の詳細説明〕 *P340關係論:①『言靈の祐(さき)はふ』(物:場 C‘)②『神ながら(神代・神の国柄)』(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②なのだからだ、のありやうを、⑥は「◎:『いはではやみがたき』と感知(合點)する(『事の世界』D1の至大化)⇒「③『ま福(さき)くありこそ(恙なくあれ)』:音聲の文(あや)」(◎的概念F)⇒E:それが故に、先づ③と言擧げした(『言(こと)の世界』)。言擧げする事(音聲の文・『言(こと)の世界』)で、『言靈の祐(さき)はふ』(物:場 C‘)は『神ながら(神代だから)』(物:場 C‘)と合點させる事(『事の世界』)が可能となつたのである〔即ち、言靈は先づ音聲の文(あや)に出現する、と言ふ事〕。 尚、「『言靈の祐(さき)はふは神ながら(神代/神の国柄)』と合點(『事の世界』D1の至大化)したのは、『ま福くありこそ(恙なくあれ)』と『言擧げ』すること〔音聲の文(あや)〕に依つてであつた」、と言ふ事を理解するには以下文が重要となる。 「④は、皆んなと一緒に暮す(共同生活:言の世界)爲に、實際に何をしたかといふ見易い所〔つまり『音聲の文(あや) による挨拶(F)の交換(Eの至大化)』をしたといふ所〕を、見極めるのがいい〔とは、『ま福(さき)くありこそ(恙なくあれ)』と言ふ『音聲の文(あや) なる挨拶(F)』の交換を取交す事(Eの至大化:『言の世界』)で、『言靈の祐(さき)はふは、神ながら(神代・神の国柄)』との合點(『事の世界』D1の至大化)が成立したのだと言ふ事を意味する〕。(つまり)④は、互ひに眼を交す(Eの至大化)とか、名を呼び合ふ(Eの至大化)とかいふ、些細だが、しつかりした行爲〔即ち、言(こと)の世界〕を、複雑な言語(物:場 C‘)表現(D1の至大化)にまで育てあげる〔『事の世界』〕といふ、⑤の努力(D1の至大化)によつて、互ひに結び合つた(『言語共同體』形成)のである」と⇒④私達⑤自分達⑥歌人(△枠):①への適應正常。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ P339關係論: #小林秀雄 著 #本居宣長 三十五章 ①#言霊 のさきはふ國②言葉⇒からの關係:①にあつて,言擧げする④は②で充滿してゐて,②の他に[わが思ふ事]など這入つて來る餘地はない.思ふといふ事をしてくれるのは②也⇒③日常の會話⇒これは⑤が③で言葉をやりとりし乍ら經驗してゐるところ⇒④者の心⑤私達誰も P339關係論: #小林秀雄 著 #本居宣長 三十五章 ①宣長⇒からの關係:③の考へるところは①と逆になり,④と言へども,反省すれば,問題はどう歌うかにはなく,何を歌ふかにある位の事は,わかる筈と⇒②思ふ事(理)⇒歌はれる物が②なら②をはつきり認識する.故に言葉は認識過程に随伴する單なる目印しと⇒③理學風④#歌人 P339關係論: #小林秀雄 著 #本居宣長 三十五章 ①歌②言語③問題⇒からの關係:①をどう詠むか[いはではやみがたき,を人に聞かするか]が①の本義は⇒理學の風のうちに在つた⑤には無縁.⑤は①といふ技藝を演ずる④の⑥を悦ばす工夫裡に,言葉で作られた物(言霊:神)の感知がある,とは考へない⇒④歌人⑤識者達⑥聞く者 P339關係論: #小林秀雄 著 #本居宣長 三十五章 ①#歌②何⇒からの關係:詠歌といふ行爲の特色は,どう詠むかにあつて,②を詠むかにはない.②を歌ふかはどう歌ふか[どう,いはではやみがたきを④に聞かする]によつて決まる他はないからだ⇒③歌の本義⇒其處から⑤の[④に聞かする所もつとも③]は發してゐる⇒④人⑤宣長 P336關係論: #小林秀雄 著 #本居宣長 三十五章 ①言語秩序②言語③言語觀⇒からの關係:⑤が驚いたのは,[いひきかせたりとても⑥にも我にも何の益もあらね共いはではやみがたきは自然の事]といふ,②に内在してゐる純粋な表現力が⇒④共同生活⇒⑦に④を可能にしてゐるといふ考へ.是が⑤の③の本質⇒⑤宣長⑥人⑦私達 P336關係論: #小林秀雄 著 #本居宣長 三十五章 ①歌②言語③事實④自國語⑤自國の歴史⑥國語⇒からの關係:⑨は④の完全な組織を持つてゐた.⑤が考へられる限り,⑤を遡つてみても⑥の完成された傳統的秩序に組込まれた⇒⑦生活⇒⑩の⑦しか見つかりはしない.この事に⑧は深く驚く事の出來た人⇒⑧宣長⑨私達⑩人間達 P336關係論: #小林秀雄 著 #本居宣長 三十五章 ①#歌②#言語③事實⇒からの關係:①は,②の働き[言葉で作られた物(#言霊 #神)のありやうの感知]といふものの本然を現す,といふ考へがある.②といふ紐帯で結ばれてゐなければ⑦には共同生活は営めないといふ解り切つた③を,⑥ほど深く考へた人はなかつた⇒⑥宣長⑦私達 P336關係論: ①言葉で作られた『物』(物:場 C‘)⇒からの關係:「◎:①の『いはではやみがたき』ありようの感知(D1の至大化)〔事(こと)の世界〕⇒「②:あはれ(F)/文(あや:F)」(◎的概念F)⇒E:聲(F)ほどよく長めて②をうたふが歌の本義(Eの至大化)〔言の世界〕」(②への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 P335關係論: #小林秀雄 著 #本居宣長 三十五章 ①#歌②詞③神代④こなたの心⇒からの關係:①といふ物は,⑦の聞て⑤とおもふ所が大事。其②に⑥をなし聲ほどよく長めてうたふが,①の本然にして,③よりしかある事也⇒⑤#あはれ⑥文(あや)⇒其②に⑥をなし,聲ほどよく長めてうたふを聞く⑦,⑤とおもへば④晴るる⇒⑦人 P335關係論: #小林秀雄 著 #本居宣長 三十五章 ①#心②おかしき事⇒からの關係:すべて①にふかく感ずる事は,④にいひきかせではやみがたき物也,②なども見聞て①に感ずる時は,必ず④にもいひきかせまほしくて,①にこめがたし。いはではやみがたきは自然の事⇒③#歌⇒③も此心ばへ也。④に聞かする所,③の本義⇒④人 P333~4關係論:〔小生的纏め〕 #小林秀雄 著 #本居宣長 三十五章 ①言葉で作られた[物](言霊:神)②心③宣命④言霊⇒からの關係:①の[ありやう]を感知とは⇒⑤文(あや)⇒②が直かに感ずる⑤といふ經驗.即ち[⑥⑦の聞て心にしめて感(かま)くべく其詞に⑤をなし美麗].③の④は,先づ宣るといふ事が作り出す,音聲の⑤に現れた⇒⑥神⑦人 P334關係論: #小林秀雄 著 #本居宣長 三十五章 ②磐戸③日の神④#言霊⑤幸はふ國⑥言葉⑦宣命⇒からの關係:⑩が想ひ描いたのは,②の中の③と外の⑪との間を取結んでゐる④の⑤であつた.其處で,⑪の間を行き交ふ⑥は,⑨としての⑥.⑦の④は,先づ宣るといふ事が作り出す⇒⑨音聲の文(あや)⇒⑨に現れた⇒⑩宣長⑪神々 P333關係論: #小林秀雄 著 #本居宣長 三十五章 ① 宣命②命(みこと)宣(のる)③勅命⇒からの關係:①とは,②といふ言葉で,『③をうけ給はりて,宣聞する事[事の世界]をさしていへる目(な)⇒④文(あや)⇒[①を⑤又⑥の聞て,心にしめて感(かま)くべく,①に④をなして[言の世界],美麗く作れるもの』であつた⇒宣長⑤神⑥人 |
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〔以下は三十五章各項:纏め〕
P333關係論:①『續記』(物:場 C‘)②宣命(物:場 C‘)③後世の漢文(物:場 C‘)④詔勅(物:場 C‘)⑤皇國言(物:場 C‘)⑥上代の詔勅(物:場 C‘)⑦『命(みこと)宣(のる)』(物:場 C‘)⑧勅命(おほみこと。物:場 C‘)⑨文(ぶん。物:場 C‘)⑪詔書(物:場 C‘)⇒からの關係:①に初めて出て來る(D1の至大化)②といふ言葉につき、⑫は、かういふ事を言つてゐる(D1)。③で書かれた④と區別して、⑤で記された(D1の至大化)⑥を、②と普通呼んでゐるが、もともと②とは、⑦といふ言葉で、――『⑧をうけ給はりて(D1の至大化)、「◎:宣聞(のりきか)する事(わざ:D1の至大化)〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕をさしていへる目(な)にこそあれ」、その⑨をさしていふ名』ではなかつた(D1の至小化)、と言ふ⇒「⑩:『宣命譜』」(◎的概念F)⇒E:今は傳はらない(Eの至小化)が、⑩といふ古書があつた(Eの至大化)。儀式(F)をととのへて(Eの至大化)、⑪を宣(の)る(D1の至大化)際の、その『讀揚(よみあげ)ざま(Eの至大化)、音聲(F)の巨細長短昂低曲節(Eの至大化)などを、しるべしたる物』と思はれるが、②といふ『事(わざ)』(D1の至大化)〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕は、餘程やかましい(D1の至大化)ものであつた。『(②を)⑬又⑭の聞て(D1の至大化)、心にしめて感(かま)く(D1の至大化)べく〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕、其詞(②に)に文(あや)をなして(Eの至大化)〔言(こと:F)の世界〕、美麗(うるはし)く作れる(Eの至大化)もの』であつたと言ふ」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑫宣長⑬神⑭人(△枠):①への適應正常。 P333關係論:①『神代記』(物:場 C‘)②『天の石屋戸の段』(物:場 C‘)③言詞(物:場 C‘)④近き世(場 C‘)⑥歌(物:場 C‘)⑦詞(ことば)(物:場 C‘)⑧わが國(場 C‘)⑨傳説(つたへごと。物:場 C‘)⑩言語觀(物:場 C‘)⑭古への意(物:場 C‘)⇒からの關係:①の②からの引用(D1)。⑪曰く。「◎:(前略:參照P333)『⑫も、殊に③のうるはしき(D1の至大化)〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕を感(めで)給ふ(D1の至大化)ことをしるべし、』」⇒「⑤:漢意(からごころ)」(◎的對立概念F)⇒E:④の⑬のごとく、ただ空理(むなしごと:F)をのみ説きて〔理に還元(Eの至小化):つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕、③をなほざりに思ひすつる(D1の至小化)は、例の⑤にして、⑭にあらず(D1の至小化)』と言ふ。⑥の上で、意(こころ:語釋D1の至小化)より⑦を先きとする(D1の至大化)といふ、⑮の主張(D1の至大化)は、少しも勝手なものではない(D1の至大化)。それは、⑧の一番古い⑨に現れた(D1の至大化)⑩だといふわけなのである」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑪宣長⑫神⑬ものしり人共⑮自分(△枠):①への適應正常。 P334關係論:①上代(場 C‘)②言語(物:場 C‘)⇒からの關係:①の④は、ただ②を信じ(D1の至大化)、言語活動の内に素直に生きてゐた(即ち、合體Eの至大化)のだが、②は、「◎:さういふ④にしか見せない顏を見せてゐた(D1の至大化)と、さう⑤は考へてゐる」⇒「③:分析的な考へ」(◎的對立概念F)⇒E:言語組織に關する③〔理に還元(Eの至小化):つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕では、到底摑む事の出來ぬ(Eの至小化)②の生態(F)が、全的に摑まれてゐる(Eの至大化)」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④人々⑤宣長(△枠):②への適應正常。 P334關係論:①『神代記』(物:場 C‘)②磐戸(場 C‘)③日の神(物:場 C‘)④『言靈』(物:場 C‘)⑤『幸はふ國』(物:場 C‘)⑥言葉(物:場 C‘)⑦宣命(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。要するに、①から引用しながら、⑩が想ひ描いた(D1の至大化)のは、②の中の③と外の⑪との間を取り結んで(D1の至大化)ゐる④の⑤であつた、と言つていい(D1の至大化)だらう。そして、其處で、「◎:神々(③と⑩)の間を行き交ひ(D1の至大化)、神々(③と⑩)を動かしてゐる⑥は、意(こころ:D1の至大化)としての、と言ふより、むしろ⑨(F)としての言葉であつた(Eの至大化)といふ事になる」。⑦の④[言葉で作られた物(神代/神)〕は、先づ宣(の)る(D1の至大化)といふ事(わざ:D1の至大化)〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕が作り出す、」⇒「⑨:文(あや)」(◎的概念F)⇒E:音聲の⑨に宿つて現れた(Eの至大化)〔言(こと:F)の世界〕。これが自明ではなかつた(Eの至小化)⑫に、どうして『宣命譜』(F)などが必要だつただらうか(Eの至小化)」(⑨への距離獲得:Eの至大化)⇒⑩宣長⑪神々⑫人々(△枠):④⑤への適應正常。 P334關係論:①(物:場 C‘)②眼の表情(物:場 C‘)③身振り(物:場 C‘)④態度(物:場 C‘)⑤心(物:場 C‘)⑥身體(物:場 C‘)⑦言語(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。何も音聲の文(あや)(F)だけに限らない、②であれ、③であれ、④であれ、内の⑤の動き(『いはではやみがたき、ありやう』:D1の至大化)を外に現さう(D1の至大化)とする⑥の事(わざ:D1の至大化)〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕の、「◎:多かれ少かれ意識的に制御された⑧〔言(こと:F)の世界〕は、すべて廣い意味での⑦と呼べる事を思ふなら、」⇒「⑧:文(あや)(F)(◎的概念F)⇒E:初めに⑧があつた(Eの至大化)のであり、初めに意味(F)があつたのではない(Eの至小化)といふ言ひ方も、無理なく出來るわけであり、少なくとも、先づ意味(F)を合點して(Eの至小化)からしゃべりだす〔理に還元(Eの至小化):つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕といふ事は、非常に考へにくくなる(Eの至小化)だらう」(⑧への距離獲得:Eの至大化)⇒人(△枠):①への適應正常。 P334關係論:①言葉(物:場 C‘)②言語(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。口眞似(D1の至大化)が、①のやりとりに習熟する(D1の至大化)、「◎:④もやつて來た、たつた一つの道(D1の至大化)であつた事は、忘れ勝ちだ(D1の至小化)」。そればかりではない」⇒「③:生きた言語の活動の内(F)」(◎的概念F)⇒E:⑤になつたからと言つて、日に新たな、③に身を置いてゐる(Eの至大化)〔言(こと:F)の世界〕以上、この、②を學ぶ(D1の至大化)基本的態度〔口眞似(D1の至大化)が、①のやりとりに習熟する(D1の至大化)〕を變更するわけにはいかないのである」」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④自分⑤大人(△枠):①への適應正常。 P334關係論:①言詞(物:場 C‘)②日常會話の世界(物:場 C‘)③言葉(物:場 C‘)④心(物:場 C‘)⑥言語(物:場 C‘)⑦『言靈のさきはふ國』(物:場 C‘)⇒からの關係:『①をなほざりに思ひすつる』⑧〔理に還元人間:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)人間〕に、②で、「◎:どうして二つの別々な③を必要としてゐる(D1の至大化)か、といふ事については、鈍感なもの(D1の至小化)である」⇒「⑤:『眞言(まこと)F』(◎的對立概念F)⇒E:⑨の考へからすると、彼等(⑧)の説くところは、③としての實質を缺いた(D1の至小化)『空言(むなしごと:F)』〔理に還元?:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)?〕であり、④が直かに感ずる〔言(こと:F)の世界の〕文(あや:F)といふ實質を備へた(Eの至大化)⑤ではない。さういふ、一と口で言へば、⑥に關し、『身に觸れて知る』【とは:④が直かに感ずる〔言(こと:F)の世界の〕文(あや:F)の事】といふ、しつかりした經驗〔言(こと:F)の世界〕を『なほざりに思ひすつる』(Eの至小化)⑩は、⑦の⑪とは認められない」(④への距離不獲得:Eの至大化)⇒⑧ものしり人⑩人々⑪住人(△枠):⑨宣長⑪(△枠):①②への適應正常。 P335關係論:①言語共同體(物:場 C‘)②言葉(物:場 C‘)③言語(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。この①《とは:『身に觸れて知る』【即ち:心(物:場 C‘)が直かに感ずる〔言(こと:F)の世界の〕文(あや:F)の事】といふ、しつかりした經驗、を共有する『言靈のさきはふ國』の事》を「◎:信ずる〔(D1の至大化)即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕とは、」⇒「④:文(あや:F)」(◎的概念F)⇒E:②が、⑤に固有な、表現的な動作や表情(F)のうちに深く入り込み〔言(こと:F)の世界:即ち、合體Eの至大化〕、その(深く入り込みの)徴(しるし)として生きてゐる(即ち、合體Eの至大化の)理由を、即ち②のそれぞれの④に擔はれた(即ち、合體Eの至大化の)意味を、信ずる(Eの至大化)事〔言(こと:F)の世界〕に他ならないからである〔即ち『事の世界:D1の至大化』=言の世界:Eの至大化〕。更に言へば、其處【表現的な動作や表情(F)のうちに深く入り込み〔言(こと:F)の世界:即ち、合體Eの至大化〕の世界】に⑥が逸する③の眞の意味合(D1の至大化)を認めるなら、この意味合(D1の至大化)は、表現〔言(こと:F)の世界:文(あやF)〕と理解〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』:『ありやう』の感知(D1の至大化)〕とが不離な、生きた言葉(物:場 C‘)のやりとり(D1の至大化)の裡にしか現れまい。實際にやりとり【表現〔言(こと:F)の世界:文(あやF)〕と理解〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』:『ありやう』の感知(D1の至大化)〕のやりとり】をしてみることによつて、それ〔③の眞の意味合〕は明瞭化し、錬磨され、成長もする(D1の至大化)であらう」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤各人⑥辭書(△枠):①への適應正常。 P335《『文義(物:場 C‘)の心得がたき(D1の至小化)ところを、はじめより、一々に解せん(D1の至大化)としては、とどこほりて(D1の至小化)、すすまぬことあれば、聞えぬところ(物:場 C‘)は、まづそのまま(D1)にして、過すぞよき(D1の至大化)、殊に世(場 C‘)に難き事にしたる(D1の至小化)ふしぶし(物:場 C‘)を、まづ知らんとするは、いといとわろし(D1の至小化)、ただよく聞えたる所(物:場 C‘)に、心をつけて(D1の至大化)、深く味ふべき也(D1の至大化)、こ(物:場 C‘)はよく聞えたる(D1の至大化)事也と思ひて、なほざりに見過せば(D1の至小化)、すべてこまかなる意味もしられず(D1の至小化)、又おほく心得たがひ(D1の至小化)の有て、いつまでも、其誤りをえさとらざる(D1の至小化)事有る也』(うひ山ぶみ)》 P335關係論:①言語の世界(物:場 C‘)②性質(物:場 C‘)⇒からの關係:①の、感得(D1の至大化)されてはゐるが、まことに説明し難い(D1の至小化)決定的な②〔性質情状(あるかたち・ありやう)〕(とは以下參照)
を、③は、穏やかに、何氣なく(D1の至大化)語つてゐる(上記)」(D1の至大化)⇒
P335關係論:①心(物:場 C‘)②めづらかなる事(物:場 C‘)③おそろしきこと(物:場 C‘)④おかしき事(物:場 C‘)⑤歌(物:場 C‘)⑥わがおもふ事(物:場 C‘)⑦實(まこと)の歌(物:場 C‘)⑧眞實の歌(物:場 C‘)⑨詞(物:場 C‘)⑩神代(場 C‘)⑪こなたの心(我心。物:場 C‘)⑫今(場 C‘)⑬世中(物:場 C‘)⑭神代の歌(物:場 C‘)⑮ことば(物:場 C‘)⇒からの關係:『すべて①にふかく感ずる(D1の至大化)事は、⑱にいひきかせでは(D1の至小化)やみがたき(D1の至小化)物也、あるひは②③④なども見聞て(D1)①に感ずる(D1の至大化)ときは、必ず⑱にもいひきかせまほしくて(D1の至大化)、①にこめがたし(D1の至小化)、さていひきかせたり(D1)とても、⑱にも我(物:場 C‘)にも何の益(やく)もあらね共(D1の至小化)、いはではやみがたき(D1の至大化)は自然の事(D1の至大化)にして、⑤も此心ばへ(いはではやみがたき:D1の至大化)ある物なれば、⑱に聞かする(D1の至大化)所、もつとも⑤の本義(D1の至大化)にして、假令(けりょう)の事(D1の至小化)にあらず、此ことはり(D1の至大化)をわきまへぬ(D1の至小化)⑱は、「◎:ただ⑥を、よくもあしくも有りのままにいふ(D1の至小化)こそ⑦なれ、⑱の聞く所にかかはる(D1)は⑧にあらず(D1の至小化)といふ、是れひとわたりはげに(D1の至大化)と聞ゆれ共、⑤といふ物の眞(まこと)の義(ことはり:D1の至大化)を知らぬ也(D1の至小化)』」⇒「⑯あはれ(F)/⑰文(あや:F)」(◎的對立概念F)⇒E:――⑤といふ物は、⑱の聞て(D1の至大化)⑯とおもふ(Eの至大化)所が大事(Eの至大化)なれば、其⑨に⑰をなし(Eの至大化)、聲(F)ほどよく長めてうたふ(Eの至大化)が、⑤の本然(ほんぜん:D1の至大化)にして、⑩よりしかある事(D1の至大化)也、これ〔其⑨に⑰をなし(Eの至大化)、聲(F)ほどよく長めてうたふ(Eの至大化)〕を聞く(Eの至大化)人(△枠)感(⑯)とおもへば(Eの至大化)、⑪もはるる(D1の至大化)事こよなし(D1の至大化)、きく(D1の至大化)⑱感(⑯)と思はざれば(D1の至小化)、⑪のぶる(伸びる?:D1の至大化)事すくなし(D1の至小化)、是れ自然の事(D1の至大化)也、⑫⑬にある事に引きあてて心得べし(D1の至大化)、①にあまる(D1の至大化)事を⑱にいひきかせても(D1の至大化)、其⑱⑯とおもはざれば(Eの至小化)、なんのかひなし(Eの至小化)、⑯ときかるれば(Eの至大化)こそ、①はなぐさむわざなれ〔(D1の至大化)即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕、されば⑤は⑱のききて(D1の至大化)感(⑯)とおもふ(Eの至大化)所が緊要也(Eの至大化)、この故に⑭とても、おもふ(D1の至大化)①のありのままにはよまず(D1の至小化)、必ず⑮を⑰なして(Eの至大化)、聲(F)おかしく(Eの至大化)⑰にうたへる(Eの至大化)物也』(石上私淑言)」」(⑯⑰への距離獲得:Eの至大化)⇒⑱人(△枠):①⑤への適應正常。 P336關係論:①歌(物:場 C‘)②言語(物:場 C‘)③事實(物:場 C‘)④自國語(和語?。物:場 C‘)⑤自國の歴史(物:場 C‘)⑥國語(和語?。物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。「背景に、①は、凡そ②の働き(D1の至大化)〔言葉で作られた『物』(言霊:神代/神)⇒『ありやう(いはではやみがたき)』の感知(D1の至大化)と同意?〕といふものの本然(D1の至大化)を現す、といふ考へがある。②といふ紐帯(D1)で結ばれてゐなければ(D1の至大化)、⑧には共同生活(F)は営めない(Eの至小化)といふ、解り切つた(D1の至大化)③を、彼ほど深く考へた(D1の至大化)人はなかつた。『文字といふさかしら』〔理に還元?:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)?〕などを待つまでもなく、⑧は④の完全な組織を持つてゐた。⑤といふものが、しつかりと考へられる(D1の至大化)限り、これ(⑤)をどこまで遡つてみても、「◎:⑥の完成された傳統的秩序(D1の至大化)〔即ち『言靈』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化、の意か?〕に組み込まれた」⇒「⑦:生活」(的概念F)⇒E:⑨の生活〔言(こと:F)の世界〕しか、見つかりはしない(Eの至大化)。この事に、誰よりも深く驚く(D1の至大化)ことの出來た人だつたと言つてよい」(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠)⑧私達⑨人間達(△枠):①への適應正常。 P336關係論:①言語秩序(物:場 C‘)②事物(物:場 C‘)③文(物:場 C‘)④語(物:場 C‘)⑤言語(物:場 C‘)⑥言語觀(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。さういふ出來上つて了つた(D1の至大化)①を、一應②(言葉で作られた『物』。物:場 C‘)のやうに見なして、その構造を分析する(D1の至大化)事は出來るのだし、その點で、⑧が、③の文法的構造(D1)や④の辭書的意味(D1)に精通(D1の至大化)してゐた⑨であつた事は、言ふまでもない事だが、彼(⑧)が驚くことが出來た(D1の至大化)とここで言ふのは、さういふ⑤の現象の鳥瞰圖の見易い眺め(D1の至小化)にはなかつた。彼(⑧)の言葉を借りれば、『いひきかせたり(D1)とても、⑩にも我(物:場 C‘)にも何の益(やく)もあらね共(D1の至小化)、いはではやみがたき(『ありやう』D1の至大化)は自然の事(D1の至大化)』といふ、「◎:さういふ⑤に本來内在(D1)してゐる純粋な表現力(D1の至大化)〔『いはではやみがたき(D1の至大化)』と言ふ『ありやう・性質情状(あるかたち)』の感知(D1の至大化)〕が、」⇒「⑦:共同生活(F)」(◎的概念F)⇒E:⑪に、しつかりした⑦〔言(こと:F)の世界:あはれ(F)/文(あや:F)をなす〕を可能にしてゐる(Eの至大化)、言はば、發條(D1の至大化)となつてゐるといふ考へが、彼(△枠)の⑥の本質を成してゐた(D1の至大化)」(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧宣長⑨國學者⑩人⑪私達(△枠):①への適應正常。 P337關係論:①言語秩序(物:場 C‘)②自然環境(物:場 C‘)③言語環境(物:場 C‘)④言語(物:場 C‘)⑤傳統的組織(物:場 C‘)⑥何時(場 C‘)⑦環境(物:場 C‘)⑧心(物:場 C‘)⇒からの關係:私達(△枠)が、既成の①に組み込まれてゐる(D1の至大化)といふ事は、②の中にあるやうに、③に取り巻かれてゐる(D1)といふ事ではあるまい。④の秩序(D1)は、⑩から與へられた(D1の至大化)ものでもない、⑪自身の手によつて成つたものだからだ。ところが、この、⑪が作り、傳へて來た(D1の至大化)⑤の、⑥、⑩が、どう作り(D1の至大化)、どう傳へた(D1の至大化)かといふ經緯については、⑩もはつきり知らない(D1の至小化)。知る事が出來ない(D1の至小化)のである。或は、⑦と呼ぶには、あまりに⑪に近すぎる(D1の至大化)もの、⑪の⑧に直結してゐる(D1の至大化)、⑫(=①)のやうなもの、とも言へるだらう。確かに⑬の所有(D2の至小化)でありながら、「◎:⑬が(①に)所有(D1の至大化)されてゐる、といふ氣味合のものである。どうでもなるやうでゐて、どうにもならぬものがある」⇒「⑨:共同生活」(◎的概念F)⇒E:それといふのも、⑪の⑨〔言(こと:F)の世界〕に備はつた、④といふ共通の財は、④の形に収つた私達めいめいの⑧といふ私財の、ただの寄せ集め(D1の至小化)といふやうな簡明なものではないからだ〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』に關聯するものなのだといふ事〕」(⑨への距離獲得:Eの至大化)⇒⑩誰⑪私達⑫私達の身體⑬こちら(△枠):①への適應正常。 P337關係論:①言語共同體(物:場 C‘)(物:場 C‘)⇒からの關係:「◎:『言(こと)F』は『事(わざ:D1の至大化)』であるとする③の考へ方(D1の至大化)からすると、」⇒「②:音聲の文(あや:F)」(◎的概念F)⇒E:④が共同生活〔言(こと:F)の世界〕を營む基本となるものは、特にどういふ益を目當にしたものでもない挨拶(F)、互ひに親しみを現さう(Eの至大化)、解り合はう(Eの至大化)として行ふ〔即ち:『言(こと:F)の世界』で行ふ〕、『やみがたく自然』〔即ち:心(物:場 C‘)⇒『ありやう』D1の至大化〕な挨拶といふ事(わざ)。即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕を取り交す(D1の至大化)にあるならば〔即ち:『言(こと:F)の世界』=『事(こと)の世界(物:場 C‘)』にあるならば〕、そのうちで、一番有效な(Eの至大化)②による挨拶の交換(Eの至大化)〔『言(こと:F)の世界』〕が、①を成立(D1の至大化)させてゐる〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』を成立(D1の至大化)させてゐる〕といふ事になるだらう」(②への距離獲得:Eの至大化)⇒③宣長④私達(△枠):①への適應正常。 P337關係論:①言語(物:場 C‘)②言語共同體(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。「先づ言葉の文(あや:F)を交換してみる(Eの至大化)〔言(こと:F)の世界〕といふ事がなければ、①表現がどう定式化(D1の至大化)し、どういふ意味を宿す(D1の至大化)〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕やうになるかは、④にも解るまい。かういふ〔言葉の文(あや:F)を交換してみる(Eの至大化)といふ〕一種の實驗を、反覆して、やり直して行かなければ(Eの至大化)、「◎:②は、生きつづける事(D1の至大化)〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕が出來まい(D1の至小化)」⇒「③:共同生活の精神」(◎的概念F)⇒E:それほど、③〔言(こと:F)の世界〕に寄せる⑤の信頼の情は深い(Eの至大化)のである。言つてみれば、⑥が、この精神【共同生活の精神〔言(こと:F)の世界:文(あやF)〕】を信じて(Eの至大化)、これを自分流にわがもの〔P225『おのが腹の内の物』(F)に譯(うつ)す(即ち、合體Eの至大化)と同意〕とする以外に、この精神【共同生活の精神〔言(こと:F)の世界:文(あやF)〕】の普遍性(即ち『言靈』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)を保證する(Eの至大化)どんな道もない、さういふ風に、言葉の世界〔『言(こと:F)の世界』=『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕で、私達(△枠)は振舞つてゐる(Eの至大化)のである」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④誰⑤私達⑥各自(△枠):①②への適應正常。 P338關係論:①己れの個性(物:場 C‘)②他(物:場 C‘)③心(物:場 C‘)④『言靈』(物:場 C‘)⑤古人(物:場 C‘)⇒からの關係:『いはでやみがたき』(『ありやう』の)表現の要求(D1の至大化)〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕に、誰(△枠)も從ふ(D1の至大化)までで、①を捨てる(D1の至小化)者もないが、特に、②に異ならん(D1の至大化)と願ふのでもない。己れの③の徴〔しるし(D1の至大化):即ち『いはでやみがたき』=『ありやう』『具體的な經驗』(D1の至大化)〕を交換し合ひ〔とは「言(こと:F)の世界」での:言葉の文(あや:F)を交換し合ひ(Eの至大化)を意味する〕、どういふ事になるか、安心して樣子を見てゐる。これ〔言葉の文(あや:F)を交換し合ひ、安心して樣子を見てゐる。「言(こと:F)の世界」(即ち、合體Eの至大化)〕に就いては、あたかも、深い暗黙の合意が、既に成り立つてゐる樣子である(言(『こと:F)の世界』の「深い暗黙の合意」とは、以下參照)。
かういふ風に書くと、言葉を弄してゐるやうに受取られさうだが、そんな事はない。むしろ、④の働き(即ち『言靈』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)を、見えるがまま(即ち、轉義D1の至大化)に、感じるがまま(即ち、合體Eの至大化)に歌つた(Eの至大化)⑤に倣ふ(D1の至大化)のである。『言靈のさきはふ國』(物:場 C‘)『たすくる國』(物:場 C‘)を深く信じて(D1の至大化)、万葉歌人(人麿△枠)が言語表現〔言葉で作られた『物』(言霊:神代/神)〕(物:場 C‘)につき、どう歌つたか(D1の至大化)は周知の事(D1の至大化)だ。これ〔『言靈のさきはふ國』(物:場 C‘)を深く信じて(D1の至大化)、萬葉歌人(△枠)が言語表現(物:場 C‘)につき、どう歌つたか(D1の至大化)、即ち以下人麿歌〕を、そのまま素直に(D1の至大化)受取らぬ理由はあるまい(D1の至大化)、――『葦原の 水穂の國(物:場 C‘) 神〔言葉で作られた『物』(言霊)〕ながら〔神(言靈)の国柄として〕 言擧げ〔(Eの至小化)理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕せぬ國(物:場 C‘) 然れども 言擧〔言語表現(物:場 C‘)〕ぞわが(△枠)する(D1の至大化)〔即ち:『言靈(神)』の働き(即ち『言靈』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)を、見えるがまま(即ち、轉義D1の至大化)に、感じるがまま(即ち、合體Eの至大化)に歌ふぞと〕 言幸く〔神(言靈)の国柄(物:場 C‘)として、ご無事でと〕〔言(こと:F)の世界?〕 眞幸く坐せ〔神(言靈)の国柄(物:場 C‘)として、ご無事でいらつしやいませと〕(D1の至大化)と 恙(つつみ)なく 福(さき)く坐(いま)さば〔神(言靈)の国柄として、何事もなくご無事でいらつしやつて、變はらぬ今の姿(神:言靈の国柄)のままお逢ひしたうございます〕 荒磯浪 ありても見むと 百重波 千重浪しきに〔荒磯に寄せるに百重波、千重浪のやうに幾度もご無事であれと〕 言擧す(D1の至大化)われ(△枠)』(巻十三)」(D1の至大化) P338關係論:①歌(物:場 C‘)②人麿の歌(物:場 C‘)③意見(物:場 C‘)④『石上私淑言』(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。『人(△枠)に聞かする(D1の至大化)所、もつとも①の本義(D1の至大化)にして、假令(けりょう:大概・およそ:D1の至小化)の事にあらず』と言ふ宣長(△枠)の言葉は、この②とその發想(D1の至大化)〔即ち:『歌(物:場 C‘)を人(△枠)に聞かする(D1の至大化)』=言葉で作られた『物』(即ち言霊:神。物:場 C‘)を歌ふ(言擧す:D1の至大化)〕を同じくする。ところで、『假令(けりょう:大概・およそ:D1の至小化)の事にあらず(D1の至大化)』と斷つてゐるのだから、假令(けりょう:大概・およそ:D1の至小化))の事と見過ごされて(D1の至小化)ゐた事だつたに違ひない。見過ごされて(D1の至小化)、P335『ただわがおもふ事(物:場 C‘)を、よくもあしくも有りのままにいふ(D1の至小化)こそ實(まこと)の歌(物:場 C‘)なれ、人(△枠)の聞く所にかかはる〔即ち:『歌(物:場 C‘)を人(△枠)に聞かする(D1の至大化)』〕は眞實の歌(物:場 C‘)にあらず(D1の至小化)』といふ③が通つてゐたのである。成る程『ひとわたりはげに(D1の至大化)と聞ゆ』る③だが、この③は、何事につけ、『ひとわたりはげに(D1の至小化)と聞ゆ』る論を成したがる(D1の至小化)、『今の世のものしり人共』(△枠)の『心ばへ』〔『ひとわたりはげにと聞ゆ』の『心ばへ』(D1の至小化)〕」を現してゐるので、④の初めにあるやうに、『神代の歌(物:場 C‘)も今のはやり小歌(物:場 C‘)もひとつにしてかはる事な』き(D1の至大化)、その歌(物:場 C‘)といふものの『おもむき心ばへ(D1の至大化)』(即ち:『いはではやみがたき』D1の至大化)を現してゐるものではない(D1の至小化)、といふのが宣長(△枠)の考へだ。 P338關係論:①『歌の本義』(物:場 C‘)②『八雲の神』(言靈。物:場 C‘)③本義(物:場 C‘)④『今のはやり小歌』(物:場 C‘)⇒からの關係:①を言ふ(D1の至大化)⑥の念頭(D1の至大化)にあるのは、『②詠(D1の至大化)』であり、その〔『八雲の神(言靈。物:場 C‘)詠(D1の至大化)』の〕⑤(例:人麿)によつて摑まれてゐた、その③〔『おもむき心ばへ(D1の至大化)』即ち:(P335)『いはではやみがたき』(D1の至大化)『八雲の神』(言靈。物:場 C‘)を人(△枠)に聞かする(D1の至大化)〕である。そして④も、その⑤によつて摑まれてゐる(D1の至大化)限り、その③〔『おもむき心ばへ(D1の至大化)』即ち:(P335)『いはではやみがたき』D1の至大化)を⑦に聞かする(D1の至大化)〕は變る筈はない、といふ考へだ」⇒ P339關係論:①歌(物:場 C‘)②何(物:場 C‘)⑨言語(物:場 C‘)⑩問題(物:場 C‘)⇒からの關係:④は、①を詠む(D1の至大化)といふ事(わざ)〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕によつて、①を體得(D1の至大化)してゐるのであつて、その外に、①を知る(D1の至大化)どんな道(D1)も知らない(D1の至小化)し、必要ともしてゐない(D1の至小化)。詠歌(D1)といふ行爲の特色(D1の至大化)は、どう詠むか(D1の至大化)〔即ち:『いはではやみがたき』D1の至大化)を⑤に聞かする(D1の至大化)〕にあつて、②を詠む(D1)かにはない。②を歌ふかは、どう歌ふか(D1の至大化)〔即ち:『いはではやみがたき』D1の至大化)を⑤に聞かする(D1の至大化)〕によつて決まる(D1の至大化)他はないからだ。其處【どう歌ふか(D1の至大化)〔即ち:『いはではやみがたき』D1の至大化)を人(△枠)に聞かする(D1の至大化)〕によつて決まる(D1の至大化)】から、⑥の「◎:『人(△枠)に聞かする(D1の至大化)所、もつとも歌(物:場 C‘)の本義(D1の至大化)』といふ言葉は發してゐる」⇒「③:理學の風」(◎的對立概念F)⇒E:だが、かういふ考へ方【どう詠むか(D1の至大化)〔即ち:『いはではやみがたき』D1の至大化)を人(△枠)に聞かする(D1の至大化)か〕が、もつとも歌(物:場 C‘)の本義(D1の至大化)】は、③〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕のうちに在つた世の一般の⑦には、無縁なもの(Eの至小化)であつた。彼等(⑦)は、①といふ技藝の一流を演ずる(D1の至大化)〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕者(④)の、⑧を悦ばす爲の工夫〔即ち合體Eの至大化=言(こと:F)の世界〕の裡に、⑨のまともな⑩〔徂徠『物あれば名あり』=宣長:言葉で作られた『物』(即ち言霊:神。物:場 C‘)の『ありやう』の感知(D1の至大化)〕が隱れてゐる(Eの至大化)などといふ事は、夢にも考へはしなかつた(Eの至小化)」(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑦識者達(△枠) ④歌人⑤人⑥宣長⑧聞く者(△枠)(△枠):①への適應正常。 P339關係論:①宣長(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。従つて、③の考へるところ(D1)は、①と食違ふどころか、逆になり(D1の至小化)、④と言へども、まともに反省〔理に還元(Eの至小化):つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕すれば、問題は、どう歌うか〔即ち:『いはではやみがたき』D1の至大化)を、『人(△枠)に聞かする(D1の至大化)所が、もつとも歌(物:場 C‘)の本義(D1の至大化)』〕にはなく、「◎:何(即ち②F)を歌ふ(E)かにあるくらゐの事は、わかる(Eの至大化)筈だといふ事になる」⇒「②:思ふ事(理)」(◎的概念F)⇒E:歌はれる物が『⑤②(理)』なら、これ〔②〕をはつきり認識する(Eの至大化)〔理に還元(Eの至小化):つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕のが先決〔即ち:言葉で作られた『物』(言霊・神。物:場 C‘)の感知(D1の至大化)よりも、自分流(わが思ふ事の)理附け(Eの至小化)が先決〕であり、これに成功したら(Eの至大化)、後はもう〔『⑤②(理F)』を〕有りの儘を言へば(Eの至小化)よい。上手に言はう〔聞く者(△枠)を悦ばす爲の工夫(Eの至大化)〕などとは餘計な事(Eの至小化)だ。さういふ事になるのも、言葉(F)は認識過程〔理に還元(Eの至小化):つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕に随伴する(Eの至小化)、その單なる目印し(F)の如きものと見られてゐる(Eの至小化)からだ」(②への距離不獲得:Eの至小化)⇒③彼等④歌人といふ技藝の人⑤わが(△枠):①への適應異常。 P339關係論:①『詞』(物:場 C‘)②『花』(物:場 C‘)③言語觀(物:場 C‘)④八雲の神(言靈。物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。「◎:①より『意(語釋・理F)』が、②より『實(み:理F)』が取上げられる(Eの至小化)」⇒「⑤:理(F)」(◎的概念F)⇒E:⑤が先きに歩く(Eの至小化)のである〔理に還元(Eの至小化):つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕。言葉(F)はその足跡(Eの至小化)に過ぎない。『意(語釋・理F)』は『實(み)F』を認識(Eの至小化)する『理』〔理に還元(Eの至小化):つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕の方に在り、『詞』(F)の方は、言はば『理F』のまとふ寸法〔つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕の合つた(Eの至大化)着物(F)のやうなものだ、さういふ考へがあるからである。⑥に言はせれば、まさに、⑦の『心ばへ』(D1の至小化)を現す③なので、このやうな③を持つ(D1の至小化)樣になるには、『④詠(D1の至大化)』などからは、遙かに遠く來て(D1の至小化)、知性の要求〔理に還元(Eの至小化):つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕に應ずるやうに、大きく修正された(Eの至小化)言語組織(分析的な考へ:即ち理學の風・朱子學F)に慣れて了はねばならない(Eの至小化)」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦『今の世のものしり人共』⑥宣長(△枠):①への適應正常。 P339關係論:①『言靈のさきはふ國』(物:場 C‘)②言葉(物:場 C‘)③私の話(物:場 C‘)④私(物:場 C‘)⑤私の思ひ(物:場 C‘)⑫物(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。①にあつて、『言擧げ』する(『人に聞かする』:D1の至大化)⑧は、②で充滿(D1の至大化)してゐて〔即ち:次項P340の『神ながら(神の国柄)』と言ふ『いはではやみがたき』D1の至大化)氣分で充滿〕、②の他に、『わが思ふ事(F)』〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕など這入つて來る餘地はなからう(D1の至小化)。②にかまけてゐるからでない。思ふ(D1の至大化)といふ事(わざ)〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕をしてくれるのは、②に他ならない〔つまり:言葉で作られた『物』⇒の『ありやう』の感知(思ふ:D1の至大化)といふ事〕からだ。「◎:これ〔言葉で作られた『物』⇒の『ありやう』の感知(思ふ:D1の至大化)。即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕は、」⇒「⑥日常の會話(F):⑦音聲の文(あや:F)」(◎的概念F)⇒E:⑨が、⑥で、言葉(F)をやりとり(Eの至大化)し乍ら、經驗してゐる(Eの至大化)〔言(こと:F)の世界〕ところだ。⑩は、語り(日常の會話し)ながら(Eの至大化)、又別に、言葉(F)といふ目印し(F)に照らして(Eの至小化)、みづから思ふ(理)〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕といふやうな事は、決してない(Eの至小化)のだし〔とはつまり後述:『さういふ次第〔『言(こと:F)の世界』=『事(こと)の世界(物:場 C‘)』なら、私(物:場 C‘)が確かに思つてゐる(D1の至大化)のは、話(F)をしてゐる(Eの至大化)、といふ事〔言(こと:F)の世界〕だけにならう』の事〕(とは更に以下參照)、
① を聞いてゐる(D1の至大化)⑪にしても、語る(D1の至大化)④の⑦(F)を、耳で辿 ること(Eの至大化)〔言(こと:F)の世界〕が、⑤を、直に理解(D1の至大化)する事〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕に他なるまい〔とは:言葉で作られた『物』(物:場 C‘)⇒の『ありやう』を感知(D1の至大化)と同意〕。さういふ次第〔『言(こと:F)の世界』=『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕〕なら、④(物:場 C‘)が確かに思つてゐる(『事の世界』)(D1の至大化)のは、話(F)をしてゐる(Eの至大化)、といふ事〔言(こと:F)の世界〕だけにならう。それなら、凡そ⑫を言ふ(D1の至大化)〔つまりは:私の話(物:場 C‘)を聞かする(D1の至大化)と同意〕といふ事(わざ)〔『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕の『本義』(D1の至大化)は、つまるところ、『⑬に聞かする(D1の至大化)所』にあると言つていいわけで(以下參照)、ただ、これ〔物(物:場 C‘)を言ふは『人(△枠)に聞かする(D1の至大化)所』にあるといふ『本義』〕が、『言擧げす』といふやうな場合〔即ち:『いはではやみがたき』(D1の至大化)を人(△枠)に聞かする(D1の至大化)』場合〕に、特に明白(D1の至大化)になつて來るのである」(⑥⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧者の心⑨私達誰も⑩私⑪相手⑬人(△枠):①②への適應正常。
P340關係論:①『言擧げす』(物:場 C‘)②言語(物:場 C‘)③言語財(物:場 C‘)④言葉(物:場 C‘)⑤『言靈の祐(さき)はふ』(物:場 C‘)⑥『神ながら(神代・神の国柄)』(言靈。物:場 C‘)⑦歌(物:場 C‘)⇒からの關係:①といふ言葉は、議論する(D1)といふ意味によく取られる(D1の至大化)が、①を、特に『言(げん)にあげて、つらふ』と解する理由はあるまい。よく意識された(D1の至大化)②表現(D1)、の意味に解してよい(D1の至大化)。⑧は、習慣化(D1の至大化)し固定した(D1の至大化)共有の③のうちにゐる他はなく、この財〔③〕を互に交換し合つて(Eの至大化)は消費するのが、あんまりわかり切つた、たやすい事(Eの至大化)なので、(とは以下傍線參照)
⑧が宰領し保管(D1)してゐるのは、實は、④の助け(D1の至大化)などを借りぬ(D1の至小化)理の働き〔理に還元(Eの至小化):つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕である、とつい考へたがる(Eの至小化)のであらう。そんな事より、⑧は、皆んなと一緒に暮す爲〔言(こと:F)の世界〕に、實際に何をしたかといふ見易い所(つまり續文)を、見極めるのがいいのだ。⑧は、互ひに眼を交す(Eの至大化)とか、名を呼び合ふ(Eの至大化)とかいふ、些細だが、しつかりした行爲〔參照:上枠文傍線、即ち、言(こと:F)の世界〕を、複雑な②表現(D1の至大化)にまで育てあげる〔例人麿歌:D1の至大化:即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕といふ、⑨の努力(D1の至大化)によつて、互ひに結び合つた〔Eの至大化:言(こと:F)の世界〕のである。その鋭い意識(D1の至大化)を、⑩は『言擧げす』(D1の至大化)といふ言葉で、⑪知らず(D1の至小化)現してゐた、と言つていい。そして、彼(⑩)は⑫もかりず(D1の至大化)、既成の②による絆を解き(D1の至大化)、又これを結び直すといふ事(D1の至大化)をする。⑤(『既成の言語』)は⑥(『結び直す』)と合點(D1の至大化)したのは、『ま福(さき)くありこそ(D1の至大化)』〔ご無事(D1の至大化)でと〕と、『言擧げ』する(D1の至大化)ことに依つてであつた、とも言へるであらうか。『⑬に聞かする(D1の至大化)所、もつとも⑦の本義(D1の至大化)』といふ主題(物:場 C‘)については、まだまだ變奏が書けさうな氣がする」⇒「 |
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〔三十四章〕主題norinaga34.pdf へのリンク 《『神代の卷』を本當に知る(轉義)とは、言葉で作られた『物(神代/神)』に、人麿が感知してゐた處の「言靈(即ち,神代/神)」の、そつくりそのままの力に、捕らへられる事(合體)であらう》 P328關係論:①物(物:場 C‘)②天地(物:場 C‘)③男女(めを。物:場 C‘)④水火(ひみづ。物:場 C‘)⑤基本的な知慧(物:場 C‘)⇒からの關係:空理(F)など頼まず(Eの至小化)、①を有るがまま(D1の至大化)に、『②はただ②、③はただ③、④はただ④』と受取れば、それで充分(D1の至大化)ではないか。⑧が行つてゐる、①との、この一番直か(D1の至大化)で、素朴な附き合ひ(D1の至大化)〔即ち:有るがまま(D1の至大化)〕のうちに、⑦の言ひ方で言へば、「◎:①には『おのおのその性質情状(あるかたち)』が有る(D1の至大化)、といふ疑ひやうのない⑤〔有るがまま(D1の至大化)の智慧?〕を、⑧が、おのづから得てゐる(D1の至大化)とする」⇒「⑥:學問」(◎的概念F)⇒E:これ〔①には『おのおのその性質情状(あるかたち)』が有る(D1の至大化)〕は、⑦が、どんな場合にも、決して動かさなかつた(Eの至大化)確固たる考へ(F)なのであつて、彼は、⑥はそこ〔①には『おのおのその性質情状(あるかたち)』が有る、と言ふ基本的な知慧〕から出直さなければならない(Eの至大化)、と言ふのである」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長⑧誰も(△枠):①への適應正常。 P328關係論:①『古事記』(物:場 C‘)②物(物:場 C‘)③『古への傳説(つたへごと)』(物:場 C‘)④正實(まこと。物:場 C‘)⑤今日の世(場 C‘)⇒からの關係:①といふ②に添うて、考へ詰めた(D1の至大化)ところに、「◎:③の④の趣(『言靈』)は、⑤にも新しい意味合を帶びて(即ち、轉義D1の至大化)」⇒「⑥:生きてゐる」(◎的概念F)⇒E:(即ち、合體Eの至大化)のを見た。⑦はそこ(即ち『言靈』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)まで、①を讀み熟(こな)した(D1の至大化)」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦彼(宣長△枠):①への適應正常。 P328關係論:①宣長の思想(物:場 C‘)②不可知論(物:場 C‘)③實證主義(物:場 C‘)④十九世紀の西歐(場 C‘)⑤思想的背景(物:場 C‘)⇒からの關係:①に於ける②と③といふことが、⑦の間で、しきりに言はれる(D1の至大化)が、言ふまでもなく、かういふ言葉が現れて來た④の⑤など、⑧には全く無縁(D1の至小化)なものだし、餘程の無理(D1の至小化)をしなければ、①の説明(D1)に、かういふ言葉(②③)を使ふのはむつかしい(D1の至小化)筈である。「◎:そんな言葉(②③)に助けを求める(D1の至小化)より、」⇒「⑥:學問の出發點」(◎的對立概念F)⇒E:なるほど學問の方法(F)に關する⑧の説明は不足(Eの至小化)だし、混亂もしてゐる(Eの至小化)が、そのやうなもの(不足・混亂)を氣にせず(Eの至大化)、⑥として、⑧がしつかりと摑んでゐた(Eの至大化)ところ〔物(物:場 C‘)には『おのおのその性質情状(あるかたち)』が有る(D1の至大化)〕を、出來るだけその摑み方〔物(物:場 C‘)には『おのおのその性質情状(あるかたち)』が有る(D1の至大化)〕に倣つて(Eの至大化)、讀み直さうと努める(Eの至大化)のが、何を置いても大事(Eの至大化)だと思ふ」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧宣長(△枠)⑦宣長研究者達:①への適應正常。 P329關係論:①『物』(物:場 C‘)②心(物:場 C‘)③諸の神(物:場 C‘)④神代の神(物:場 C‘)⑤今(場 C‘)⑥その代(場 C‘)⑦天照大御神(場 C‘)⇒からの關係:宣長(△枠)にとつて、①の經驗(D1の至大化)とはどういふものであつたか。『(前略)②などと云物は、他へは觸れざれども、思念(おもふ)(D1の至大化)といふ事有てこれ(②)をしる(D1の至大化)、③も同じこと〔とは:『思念(おもふ)(D1の至大化)といふ事有てこれ(D1の至大化)をしる』〕にて、④は、⑤こそ目には見え給はね(D1の至小化)、⑥には目に見えたる(D1の至大化)①也、其中に⑦などは、⑤も諸人の目に見え給ふ(D1の至大化)、(後略)』(參照⇒P329『余が本書・・云々』)と答へてゐる」 P330關係論:①物(物:場 C‘)②あらゆる智識(物:場 C‘)③議論(物:場 C‘)④『古事記』(物:場 C‘)⑤『古への傳説(つたへごと)』(物:場 C‘)⑥『古語物(ことどひもの)』(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。宣長(△枠)の言ひ分は、確かに感知される(D1の至大化)①が、②の根本をなす(D1の至大化)といふ考へに歸する、といふだけの話なら、一應は、簡單な話と言へよう。だが、⑧は③などしてゐるのではなかつた(D1の至小化)。「◎:①のたしかな感知(D1の至大化)といふ事で、自分に一番痛切な經驗(D1の至大化)をさせたのは、④といふ書物であつた、と端的に語つてゐる(D1の至大化)のだ」(D1の至大化)⇒「⑦:言葉で作られた『物』」(◎的概念F)⇒E:更に言へば、この⑤に關する⑥が提供してゐる(D1の至大化)、⑦の感知(Eの至大化)が、自分(⑧)にはどんなに豐かな經驗(Eの至大化)であつたか、これ〔『古語物(ことどひもの)』が提供してゐる、言葉で作られた『物』〕を明らめよう(Eの至大化)とすると、學問の道(F)〔即ち:「學問は『物(物:場 C‘)には、おのおのその性質情状(あるかたち)が有る(D1の至大化)』〕から出發」〕は、もうその【⑦の〔性質情状(あるかたち)が有るの〕感知(Eの至大化)の】外に無い、といふ一と筋に、おのづから繋がつてしまつた(Eの至大化)、それ〔⑥が提供してゐる(Eの至大化)、⑦の感知(Eの至大化)〕が⑨に解つて欲しかつた(Eの至大化)のである」(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧宣長⑨皆んな(△枠):④⑤⑥への適應正常。 P330關係論:①學問の方法(物:場 C‘)②『古事記』(物:場 C‘)③古代の人々の音聲(物:場 C‘)⇒からの關係:①に關する、④の折に觸れての、ばらばらな發言(D1の至大化)は、皆この一と筋【言葉で作られた『物』の〔性質情状(あるかたち)が有るの〕感知(Eの至大化)】に向ふ。「◎:言はば、その(感知に向かふの)方向感覺を隱し持つた(D1の至大化)ものだと言つてよい。⑤が、②から直に聞いた(D1の至大化)③は、まさに、『⑥に聞えたるまま(D1の至大化)【即ち:言葉で作られた『物』(物:場 C‘)である、『古への傳説(つたへごと):②』に關する『古語物(ことどひもの:③)』〔つまり性質情状(あるかたち)〕の』感知(D1の至大化)】(とは、以下參照)
にて、其外に何も無こと(D1の至大化)ぞ』と言ふ、完全な形式(D1の至大化)をとつたもので、④は、これを、極めて自然に受入れた(D1の至大化)」⇒④彼(宣長△枠)⑤宣長⑥耳(△枠):①②への適應正常。 P330關係論:①『古事記』(物:場 C‘)②歴史風の歌物語(物:場 C‘)⇒からの關係:①は理屈〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕でもなければ、正確を期する、どんな種類の記述でもない。④が文に書きうつすのに困つたほど、「◎:『言意並びに朴』(D1の至大化)なる②である」⇒「③:『源氏』の讀み方」(◎的概念F)⇒E:⑤にとつて、①の讀み方は、③と本質的には違ひはなかつた(とは、以下參照:「あるがままの世界(即ち、Eの至大化:言の世界=D1の至大化:事の世界)を深く信じた」)。何時の間にか、話が又そこに戻つて來るのも、問題の奥行きの深さ〔つまり、言葉で作られた『物』の性質情状:あるかたち(例古代の人々の音聲:物:場 C‘)。「あるがままの世界(即ち、Eの至大化:言の世界=D1の至大化:事の世界)を深く信じた」の事〕に、おのづから誘はれるからである」」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④安萬侶⑤宣長(△枠):①②への適應正常。 P331關係論:①『神代の卷』(物:場 C‘)②自分の歌(物:場 C‘)③『神代』とか『神』(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。それなら、「◎:①を本當に知る〔即ち、事の世界〔直接經驗の世界:實情世界(物:場 C‘)⇒經驗D1の至大化〕とは、例へば⑤が②に詠みこんだ、「◎:③とかいふ言葉に感知(とは:言葉で作られた『物』に感知D1の至大化)してゐた」⇒「④:『言靈』」(◎的概念F)⇒E:④(=『神代』『神』)の、そつくりそのままの力(F)に捕らへられる事〔「言(こと)の世界」即ち、合體Eの至大化〕であらう【つまり:『神代の卷』(物:場 C‘)を本當に知る(即ち、事の世界)=『言靈』の力に捕らへられる事〔「言(こと)の世界」即ち、合體Eの至大化〕】」(②への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤人麿(△枠)(△枠):①への適應正常。 P331《ここで、明らかに考へられてゐるのは、有る物(物:場 C‘)〔此處では神(物:場 C):『物(物:場 C‘)には、おのおのその性質情状(あるかたち)が有る(D1の至大化)』〕へのしつかりした關心(D1の至大化)、具體的な經驗(物:場 C‘)〔あるがままの世界((物:場 C‘)の經驗(D1の至大化)〕の、彼の用語で言へば、『徴(しるし)』(物:場 C‘)としての言葉〔此處では神(物:場 C)〕が、言葉本來の姿(物:場 C‘)であり力(D1の至大化)であるといふ事だ》 P331關係論:①神代の神(物:場 C‘)②今(場 C‘)③その代(場 C‘)④物(物:場 C‘)⑤有る物(物:場 C‘)⑥具體的な經驗(物:場 C‘)⑦『徴(しるし)』(物:場 C‘)⑧言葉本來の姿(物:場 C‘)⑨見えたがままの物(物:場 C‘)⑩神(物:場 C)⑪言葉(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。宣長(△枠)によれば、この事(承前)を、端的に言ひ直すと、『①は、②こそ目に見え給はね(D1の至小化)、③には目に見えたる(即ち、轉義D1の至大化)④なり』となるのである。ここで、明らかに考へられてゐるのは、⑤〔此處では神(物:場 C):『物(物:場 C‘)には、おのおのその性質情状(あるかたち)が有る(D1の至大化)』〕へのしつかりした關心(D1の至大化)、⑥〔あるがままの世界((物:場 C‘)の經驗(D1の至大化)〕の、彼の用語で言へば、⑦としての言葉〔此處では神(物:場 C)〕が、⑧であり力(D1の至大化)であるといふ事だ。⑨を、⑩と呼ばなければ(D1の至小化)、それは人ではない(即ち神である)とは解るまい(D1の至小化)。⑨の「性質情状(あるかたち)」(D1)は、決して明らかにはなるまい(D1の至小化)。直かに觸れて來る④〔『風(物:場 C‘)や、其の外何にても(物:場 C‘)みな、觸(ふる)る(D1の至大化)ところ有て知る(D1の至大化)事也』〕の經驗(D1の至大化)も、裏を返せば、⑦〔つまり:あるがままの世界((物:場 C‘)の經驗(D1の至大化)〕としての⑪の經驗(D1の至大化)なのである。兩者は離せない。どちらが先でも後でもない」 |
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P《 》 P327關係論:①『六經』(物:場 C‘)②『物』(物:場 C‘)③『古事記』⇒からの關係:⑤が、①といふ②の『格(きた)る」(D1の至大化)のを待つたやうに、「◎:⑥は、③といふ②を『むかへ』(D1の至大化)に行つた⇒「④:『事實』と『理論』」(◎的概念F)⇒E:二人の仕事の間の繋りが、實際にどういふものであつたかを想ひ描いて貰はなければ、何んにもならない。例へば、徂徠學と宣長學との方法論上の共通な性質は、理論より事實を尊重するといふところにあつた、といふ風な一應の説明では足りない。足りないどころか、②と『理』〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕といふ言葉の、『事實』と『理論』といふ現代語譯による説明は、受取りやうでは、有害無益なものになり兼ねない(二人とも『理』を全否定してゐる譯ではないからだ、を含意?)」(④への距離不獲得:Eの至大化)⇒⑤徂徠⑥宣長(△枠):①②③への適應正常。 ~~~~~以下參照~~~~~~~ P322關係論:①『物は教への條件也』(物:場 C‘)②『古事記』(物:場 C‘)③『物』(物:場 C‘)④『御國ごころ』〔物(物:場 C‘)〕⑤學問(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。かういふ(⑦)の文章(P322前項參照)にしても、やはり⑧の①といふ強い考へ〔物(物:場 C‘)⇒教へ(D1の至大化)〕が、その〔前項文『其(道)はただ物(物:場 C‘)にゆく道(D1の至大化)こそ有りけれ』の〕骨格を成して(D1の至大化)ゐる。⑦は一切の言擧(ことあげ:理F)を捨てて(Eの至小化)、直ちに②といふ③に推參(D1の至大化)し、これに化するといふ道(D1の至大化)を行つた。其處で、骨格に④〔漢意(ごころ)ではなく〕といふ肉附け〔+(物:場 C‘)〕が、おのづから行はれた(D1の至大化)といふ事が、「◎:彼の⑤を決定(D1の至大化)したのであつた〔とはつまり、宣長の⑤:『古事記』+『御國ごころ』〔漢意(ごころ)ではなく〕といふ物(物:場 C‘)⇒に推參(D1の至大化)し、これに化する(D1の至大化)といふ道『(物)にゆく道(D1の至大化)こそ有り』〕」⇒「⑥:『異國のさだ』」(◎的對立概念F)⇒E:その爲に、理〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕を教への條件(Eの至小化)とするといふ、⑧が極力反對した考への方は、⑥となり『漢(から)ごごろ』となつた(Eの至小化)わけだ」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧徂徠⑦宣長(△枠):①②④への適應正常。 P321關係論:①『大學』(物:場 C‘)②『格物致知』(物:場 C‘)③『格』(物:場 C‘)④道(物:場 C‘)⑤『物』(物:場 C‘)⇒からの關係:①にある②といふ言葉にしても(『辨名』)、③の古訓(D1の至大化)は『來る(D1の至大化)』であり、古訓(D1の至大化)に順じて、素直に讀む(D1の至大化)なら、④といふ⑤が、當方(△枠)に來る(格物)のを迎へ(D1の至大化)、これを収めて(D1の至大化)、わが有となす(D1の至大化)、「◎:さういふ、⑤の親身な經驗(D1の至大化)を重ねてゐるうちに、無理なく知見は開けて來る(致知:D1の至大化)、といふ意味合に受取れる」(D1の至大化)⇒「⑥:窮理(F)」(◎的對立概念F)⇒E:ところが、今日(徂徠の時代)では、格物〔物⇒格(來る)〕を⑥〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕と解する(Eの至小化)⑦の説が行はれて(Eの至小化)、知を致さん(致知:D1の至大化)と思ふなら、先づ⑤の理〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕に至り、これ〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕を窮めよ(Eの至小化)、とさういふ意味にとられてゐる。しかし、これでは、⑤を捨てて(D1の至小化)、理〔理に還元:自分流理附け(定義附け・原理附け)〕を得よ(Eの至小化)と主張するに等しいではないか、と⑧は言ふ」(⑥への距離不獲得:Eの至大化)⇒⑦朱子⑧徂徠(△枠):②への適應正常。 ~~~~~以上參照~~~~~~~~~~~ P327關係論(傍線倒置有り):①物事(物:場 C‘)②學問(物:場 C‘)③心の汚れ(物:場 C‘)④生活態度(物:場 C‘)⇒からの關係:これ(以下傍線)が妨げとなつて、①を直に見ない(D1の至小化)、さういふ慣しが固まつて了つた(D1の至小化)。⑥の願ふところは、ただ②の、このやうな病んだ異常な状態(D1の至小化)を、健康で、尋常な状態(D1の至大化)に返すにある。(中略)③を、清く洗ひ去れ(D1の至大化)、別の言葉で言へば、⑦は、①に對する學問的態度(D1=窮理Eの至小化))と思ひ込んでゐるものを捨て(D1の至小化)、⑧の極く普通な④に還れ(D1の至大化)、いふだけなのだ」⇒「⑤:空理」(的概念F)⇒E:理といふものは、今日ではもう、⑤〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕の形で、⑨に深く染付き、②の上でも、すべての①が、これ(⑤)〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕を通してしか見られない(Eの至小化)。(⇒上へ續く)」(④への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥自分(宣長△枠)⑦學者⑧一般の人々⑨人の心(△枠):①②への適應異常。 P328關係論:①物(物:場 C‘)②天地(物:場 C‘)③男女(めを。物:場 C‘)④水火(ひみづ。物:場 C‘)⑤基本的な知慧(物:場 C‘)⇒からの關係:空理(F)など頼まず(Eの至小化)、①を有るがまま(D1の至大化)に、『②はただ②、③はただ③、④はただ④』と受取れば、それで充分(D1の至大化)ではないか。⑧が行つてゐる、①との、この一番直か(D1の至大化)で、素朴な附き合ひ(D1の至大化)〔即ち:有るがまま(D1の至大化)〕のうちに、⑦の言ひ方で言へば、「◎:①には『おのおのその性質情状(あるかたち)』が有る(D1の至大化)、といふ疑ひやうのない⑤〔有るがまま(D1の至大化)の智慧?〕を、⑧が、おのづから得てゐる(D1の至大化)とする」⇒「⑥:學問」(◎的概念F)⇒E:これ〔①には『おのおのその性質情状(あるかたち)』が有る(D1の至大化)〕は、⑦が、どんな場合にも、決して動かさなかつた(Eの至大化)確固たる考へ(F)なのであつて、彼は、⑥はそこ〔①には『おのおのその性質情状(あるかたち)』が有る〕から出直さなければならない(Eの至大化)、と言ふのである」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長⑧誰も(△枠):①への適應正常。 P328關係論:①基盤(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。この①〔物(物:場 C‘)には『おのおのその性質情状(あるかたち)』が有る〕を踏み外さず(D1の至大化)に、「◎:考へを進めて行く(D1の至大化)限り、」⇒「②:『尋常(よのつね)の理』」(◎的概念F)⇒E:理(F)の働きは、いよいよ精しく(Eの至大化)なるのは當り前で、さういふ顯は(事實)に見える理(F)の働き(Eの至大化)を、否む理由はない(Eの至大化)。③の歩いた道も、言つてみれば、②〔顯は(事實)に見える理(F)〕を超えて(Eの至大化)、『妙理(くすしきことはり)』(F)に至る(Eの至大化)、この一と筋であつた」(②への距離獲得:Eの至大化)⇒③自分(宣長△枠):①への適應正常。 P328關係論:①『古事記』(物:場 C‘)②物(物:場 C‘)③『古への傳説(つたへごと)』(物:場 C‘)④正實(まこと。物:場 C‘)⑤今日の世(場 C‘)⇒からの關係:①といふ②に添うて、考へ詰めた(D1の至大化)ところに、「◎:③の④の趣(『言靈』)は、⑤にも新しい意味合を帶びて(即ち、轉義D1の至大化)」⇒「⑥:生きてゐる」(◎的概念F)⇒E:(即ち、合體Eの至大化)のを見た。⑦はそこ(即ち『言靈』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)まで、①を讀み熟(こな)した(D1の至大化)」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦彼(宣長△枠):①への適應正常。 P328關係論:①宣長の思想(物:場 C‘)②不可知論(物:場 C‘)③實證主義(物:場 C‘)④十九世紀の西歐(場 C‘)⑤思想的背景(物:場 C‘)⇒からの關係:①に於ける②と③といふことが、⑦の間で、しきりに言はれる(D1の至大化)が、言ふまでもなく、かういふ言葉が現れて來た④の⑤など、⑧には全く無縁(D1の至小化)なものだし、餘程の無理(D1の至小化)をしなければ、①の説明(D1)に、かういふ言葉(②③)を使ふのはむつかしい(D1の至小化)筈である。「◎:そんな言葉(②③)に助けを求める(D1の至小化)より、」⇒「⑥:學問の出發點」(◎的對立概念F)⇒E:なるほど學問の方法(F)に關する⑧の説明は不足(Eの至小化)だし、混亂もしてゐる(Eの至小化)が、そのやうなもの(不足・混亂)を氣にせず(Eの至大化)、⑥として、⑦がしつかりと摑んでゐた(Eの至大化)ところ〔物(物:場 C‘)には『おのおのその性質情状(あるかたち)』が有る(D1の至大化)〕を、出來るだけその摑み方〔物(物:場 C‘)には『おのおのその性質情状(あるかたち)』が有る(D1の至大化)〕に倣つて(Eの至大化)、讀み直さうと努める(Eの至大化)のが、何を置いても大事(Eの至大化)だと思ふ」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧宣長(△枠)⑦宣長研究者達:①への適應正常。 P329關係論:①『天地はただ天地』(物:場 C‘)②『物』(物:場 C‘)③經驗的事實(物:場 C‘)④科學的事實(物:場 C‘)⑤事實(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。さうすれば、⑦が、①と有るがままに受取れ(D1の至大化)、と言ふ、そのあるがままの②は、今日、③とか④とかと使はれてゐる、「◎:その⑤といふ言葉とは、まるで意味合の違つた(D1の至小化)ものである事に厭でも思ひ當る(D1の至大化)筈である」⇒「⑥:學問の進歩」(◎的對立概念F)⇒E:私が、このやうな言ひ方がしたくなるのも、⑥といふ、漠然とした自負の念(Eの至大化)を通さず(Eの至小化)に、宣長の學問(F)を見る(Eの至大化)事が、⑧には、容易ではない(Eの至小化)のを思ふからだ」(⑥への距離不獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長⑧後世の研究者達(△枠):①への適應異常。 P329關係論:①學問(物:場 C‘)②經驗的所與(物:場 C‘)③『物』(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②から出發(D1の至大化)しなければならぬ〔とはP328出:「學問は、『物(物:場 C‘)には、おのおのその性質情状(あるかたち)が有る(D1の至大化)』〕から出發(出直す)しなければならぬ」を意味する〕、と⑤が考へたのは正しかつた(D1の至大化)が、彼が③と呼んだ(D1の至大化)、その②の概念〔とは、『おのおのその性質情状(あるかたち)が有る(D1の至大化)』から來る(⇒)概念(物)〕は、「◎:大變曖昧(D1の至小化)なものであり、未熟(D1の至小化)なものであつたから、」⇒「④:事實(F)」(◎的對立概念F)⇒E:經驗(F⇒Eの至大化)に與へられた④(F)の、例證(F⇒Eの至大化)の爲の合理化(F⇒Eの至大化)とか客觀化(F⇒Eの至大化)とかが、充分に行はれなかつた(Eの至小化)のも無理はない。さういふ身勝手な見方〔例證(F⇒Eの至大化)の爲の合理化(F⇒Eの至大化)とか客觀化(F⇒Eの至大化)〕から、きつぱりと手を切る(Eの至大化)事は、容易ではない(Eの至小化)」(④への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑤宣長(△枠):①②③への適應正常。 P329關係論:①『物』(物:場 C‘)②心(物:場 C‘)③諸の神(物:場 C‘)④神代の神(物:場 C‘)⑤今(場 C‘)⑥その代(場 C‘)⑦天照大御神(場 C‘)⇒からの關係:宣長(△枠)にとつて、①の經驗(D1の至大化)とはどういふものであつたか。『(前略)などと云物は、他へは觸れざれども、思念(おもふ)(D1の至大化)といふ事有てこれ(心)をしる(D1の至大化)、③も同じこと〔とは:『思念(おもふ)(D1の至大化)といふ事有てこれ(D1の至大化)をしる』〕にて、④は、⑤こそ目には見え給はね(D1の至小化)、⑥には目に見えたる(D1の至大化)①也、其中に⑦などは、⑤も諸人の目に見え給ふ(D1の至大化)、(後略)』(參照⇒P329『余が本書・・云々』)と答へてゐる」 P330關係論:①物(物:場 C‘)②あらゆる智識(物:場 C‘)③議論(物:場 C‘)④『古事記』(物:場 C‘)⑤『古への傳説(つたへごと)』(物:場 C‘)⑥『古語物(ことどひもの)』(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。宣長(△枠)の言ひ分は、確かに感知される(D1の至大化)①が、②の根本をなす(D1の至大化)といふ考へに歸する、といふだけの話なら、一應は、簡單な話と言へよう。だが、⑧は③などしてゐるのではなかつた(D1の至小化)。「◎:①のたしかな感知(D1の至大化)といふ事で、自分に一番痛切な經驗(D1の至大化)をさせたのは、④といふ書物であつた、と端的に語つてゐる(D1の至大化)のだ」(D1の至大化)⇒「⑦:言葉で作られた『物』」(◎的概念F)⇒E:更に言へば、この⑤に關する⑥が提供してゐる(D1の至大化)、⑦の感知(Eの至大化)が、自分(⑧)にはどんなに豐かな經驗(Eの至大化)であつたか、これを明らめよう(Eの至大化)とすると、學問の道(F)〔即ち:「學問は『物(物:場 C‘)には、おのおのその性質情状(あるかたち)が有る(D1の至大化)』〕から出發」〕は、もうその【⑦の〔性質情状(あるかたち)が有るの〕感知(Eの至大化)の】外に無い、といふ一と筋に、おのづから繋がつてしまつた(Eの至大化)、それ〔⑥が提供してゐる(Eの至大化)、⑦の感知(Eの至大化)〕が⑨に解つて欲しかつた(Eの至大化)のである」(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧宣長⑨皆んな(△枠):④⑤⑥への適應正常。 P330關係論:①學問の方法(物:場 C‘)②『古事記』(物:場 C‘)③古代の人々の音聲(物:場 C‘)⇒からの關係:①に關する、④の折に觸れての、ばらばらな發言(D1の至大化)は、皆この一と筋【言葉で作られた『物』の『古への傳説(つたへごと)』に關する『古語物(ことどひもの)』〔即ち:性質情状(あるかたち)〕の感知(Eの至大化)】に向ふ。「◎:言はば、その(感知に向かふの)方向感覺を隱し持つた(D1の至大化)ものだと言つてよい。⑤が、②から直に聞いた(D1の至大化)③は、まさに、『⑥に聞えたるまま(D1の至大化)【即ち:言葉で作られた『物』(物:場 C‘)である、『古への傳説(つたへごと)』に關する『古語物(ことどひもの)〔つまり性質情状(あるかたち)〕の』感知(D1の至大化)】にて、其外に何も無こと(D1の至大化)ぞ』と言ふ、完全な形式(D1の至大化)をとつたもので、④は、これを、極めて自然に受入れた(D1の至大化)」⇒④彼(宣長△枠)⑤宣長⑥耳(△枠):①②への適應正常。 P330關係論:①古人の『言問ひ』(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。この簡明な經驗(D1の至大化)は、同時に、①(『古語物(ことどひもの)』)は、これをそつくりそのまま信ずる(D1の至大化)か、全く信じない(D1の至小化)か、どちらかであるといふ、「◎:はつきりした意識(D1の至大化)であつた事を忘れてはならない」⇒「②:態度」(◎的對立概念F)⇒E:この點では、③の②は、まだまだ曖昧(Eの至小化)なものであつた」(②への距離不獲得:Eの至小化)⇒③眞淵 ④宣長(△枠):①への適應正常。 P330關係論:①『古事記』(物:場 C‘)②歴史風の歌物語(物:場 C‘)⇒からの關係:①は理屈〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕でもなければ、正確を期する、どんな種類の記述でもない。④が文に書きうつすのに困つたほど、「◎:『言意並びに朴』(D1の至大化)なる②である」⇒「③:『源氏』の讀み方」(◎的概念F)⇒E:⑤にとつて、①の讀み方は、③と本質的には違ひはなかつた(とは、以下參照:「あるがままの世界(即ち、Eの至大化:言の世界=D1の至大化:事の世界)を深く信じた」)。何時の間にか、話が又そこに戻つて來るのも、問題の奥行きの深さ〔つまり「あるがままの世界(即ち、Eの至大化:言の世界=D1の至大化:事の世界)を深く信じた」の事〕に、おのづから誘はれるからである」」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④安萬侶⑤宣長(△枠):①②への適應正常。
P331《『神代の卷』(物:場 C‘)を本當に知る〔即ち、事の世界〔直接經驗の世界:實情世界(物:場 C‘)⇒經驗D1の至大化〕とは、人麿が、『神代』とか『神』(物:場 C‘)にに感知(D1の至大化)してゐた『言靈』の、そつくりそのままの力(F)に捕らへられる事〔「言(こと)の世界」即ち、合體Eの至大化〕であらう》 P331關係論:①『神代の卷』(物:場 C‘)②自分の歌(物:場 C‘)③『神代』とか『神』(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。それなら、「◎:①を本當に知る〔即ち、事の世界〔直接經驗の世界:實情世界(物:場 C‘)⇒經驗D1の至大化〕とは、例へば⑤が②に詠みこんだ、「◎:③とかいふ言葉に感知(とは:言葉で作られた『物』に感知D1の至大化)してゐた」⇒「④:『言靈』」(◎的概念F)⇒E:④(=『神代』『神』)の、そつくりそのままの力(F)に捕らへられる事〔「言(こと)の世界」即ち、合體Eの至大化〕であらう【つまり:『神代の卷』(物:場 C‘)を本當に知る(即ち、事の世界)=『言靈』の力に捕らへられる事〔「言(こと)の世界」即ち、合體Eの至大化〕】」(②への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤人麿(△枠)(△枠):①への適應正常。 P331關係論:①『神代』『神』(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。その限り、言葉についての、さういふ經驗〔『言靈』(=『神代』『神』)の、そつくりそのままの力(F)に捕らへられる經驗〕は自明(D1の至大化)なもので、「◎:①の眞僞の問題(D1の至小化)など、現れて來る餘地はない」(D1の至大化)⇒「②:應答」(◎的概念F)⇒E:③の抗議はどうでもいい事で、ここで大事なのは、④の②の方だ」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒③市川匡④宣長(△枠):①への適應正常。 P331關係論:①言葉の世界(物:場 C‘)⇒からの關係:③は④を捕へた①【つまり:『神代の卷』(物:場 C‘)を本當に知る(事の世界)=『言靈』の力に捕らへられる事〔「言(こと)の世界」即ち、合體Eの至大化〕】を、「◎:一歩も出ようとはしない(D1の至大化)」⇒「②:彼の應答」(◎的概念F)⇒E:その中(②)に居て(Eの至大化)、相手(市川匡:F)をその中(②)に引入れて(Eの至大化)、相手の疑問(F)に答へてゐる(Eの至大化)。それが、先に引いた『くず花』にある。②〔物(物:場 C‘)の經驗(D1の至大化)とはどう言ふものか〕の姿なのだ」(②への距離獲得:Eの至大化)⇒③宣長④自分(△枠):①への適應正常。 P331關係論(傍線倒置有り):①『神代』とか『神』(物:場 C‘)②人々の心(物:場 C‘)⇒からの關係:(下から續く)、それでなければ、廣く②に訴へよう(D1の至大化)とした④が、「◎:これを取り上げた〔(轉義D1の至大化)即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕筈もない」⇒「③:生き生き」(◎的概念F)⇒E:①といふ言葉は、勿論、⑤の生活の中で、③と使はれてゐたもの〔言(こと:F)の世界、即ち、合體Eの至大化〕で、(上へ續く)」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤古代の人々(△枠) ④歌人(△枠):①への適應正常。 P331《ここで、明らかに考へられてゐるのは、有る物(物:場 C‘)〔此處では神(物:場 C):『物(物:場 C‘)には、おのおのその性質情状(あるかたち)が有る(D1の至大化)』〕へのしつかりした關心(D1の至大化)、具體的な經驗(物:場 C‘)〔あるがままの世界((物:場 C‘)の經驗(D1の至大化)〕の、彼の用語で言へば、『徴(しるし)』(物:場 C‘)としての言葉〔此處では神(物:場 C)〕が、言葉本來の姿(物:場 C‘)であり力(D1の至大化)であるといふ事だ》 P331關係論:①神代の神(物:場 C‘)②今(場 C‘)③その代(場 C‘)④物(物:場 C‘)⑤有る物(物:場 C‘)⑥具體的な經驗(物:場 C‘)⑦『徴(しるし)』(物:場 C‘)⑧言葉本來の姿(物:場 C‘)⑨見えたがままの物(物:場 C‘)⑩神(物:場 C)⑪言葉(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。宣長(△枠)によれば、この事(承前)を、端的に言ひ直すと、『①は、②こそ目に見え給はね(D1の至小化)、③には目に見えたる(即ち、轉義D1の至大化)④なり』となるのである。ここで、明らかに考へられてゐるのは、⑤〔此處では神(物:場 C):『物(物:場 C‘)には、おのおのその性質情状(あるかたち)が有る(D1の至大化)』〕へのしつかりした關心(D1の至大化)、⑥〔あるがままの世界((物:場 C‘)の經驗(D1の至大化)〕の、彼の用語で言へば、⑦としての言葉〔此處では神(物:場 C)〕が、⑧であり力(D1の至大化)であるといふ事だ。⑨を、⑩と呼ばなければ(D1の至小化)、それは人ではない(即ち神である)とは解るまい(D1の至小化)。⑨の「性質情状(あるかたち)」(D1)は、決して明らかにはなるまい(D1の至小化)。直かに觸れて來る④〔『風(物:場 C‘)や、其の外何にても(物:場 C‘)みな、觸(ふる)る(D1の至大化)ところ有て知る(D1の至大化)事也』〕の經驗(D1の至大化)も、裏を返せば、⑦〔つまり:あるがままの世界((物:場 C‘)の經驗(D1の至大化)〕としての⑪の經驗(D1の至大化)なのである。兩者は離せない。どちらが先でも後でもない」 P331關係論:①『古事記傳』(物:場 C‘)②意(こころ。物:場 C‘)③言(物:場 C‘)④書(ふみ。物:場 C‘)⑤上つ代(場 C‘)⑥人(物:場 C‘)⑦『徴(しるし)』(物:場 C‘)⑧言辭(ことば)⇒からの關係:①の初めにある、『抑(そもそも)②と事〔こと(D1の至大化)『事(こと)の世界』〕と言〔ことの世界:F⇒Eの至大化)とは、みな相稱(あいかな)へる物〔即ち『言靈』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)〕にして』云々の文は、其處まで考へ詰められた(D1の至大化)言葉と見なければならないものだ。『すべて②も事(こと:D1の至大化)も、③を以て傳ふる(D1の至大化)ものなれば、④(『古事記』)はその記せる(D1の至大化)言辭(ことば)ぞ主(むね)には有りける』とつづく文も、②は『心ばへ』(D1の至大化)、『事(こと)』は『しわざ』(D1の至大化)で、『⑤のありさま(D1の至大化)、⑥の事態(しわざ。D1の至大化)心ばへ(D1の至大化)』の「◎:⑦としての⑧は、すべて露は(D1の至大化)であつて、」⇒「⑨:理(ことわり)」(◎的對立概念F)⇒E:その外には、『何の隱れたる②をも⑨〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕をも、こめたるものにあらず(Eの至大化)』といふ⑩の徹底した態度(Eの至大化)を語つてゐる」(⑨への距離獲得:Eの至大化)⇒⑩宣長(△枠):①②③への適應正常。 P332關係論:①上代(場 C‘)②言葉(物:場 C‘)③不思議な靈(物:場 C‘)④今日(場 C‘)⑤物的(物:場 C‘)⑥過去(場 C‘)⑦『言靈』(物:場 C‘)⑧古語(物:場 C‘)⇒からの關係:①の⑩は、②には、⑪を動かす(D1の至大化)③が宿つてゐる(D1の至大化)事を信じて(D1の至大化)ゐたが、④になつても、②の力(D1の至大化)を、どんな⑤な力(D1の至大化)からも導き出す事が出來ず(D1の至小化)にゐる以上、『◎:これを⑥の迷信(D1の至小化)として笑ひ去る(D1の至大化)事は出來ない(D1の至小化)。⑦といふ⑧は、」⇒「⑨:生活(F)」(◎的對立概念F)⇒E:⑨(F)の中に織り込まれた(即ち、合體Eの至大化)言葉だつたが、『言靈信仰』(F)といふ現代語(F)は、机上のもの(Eの至小化)だ」(⑨への距離獲得:Eの至大化)⇒⑩人々⑪人・宣長(△枠):⑦⑧への適應正常。 P332關係論:①古代(場 C‘)②言葉(物:場 C‘)③『言靈』(物:場 C‘)④尋常な生活(物:場 C‘)⑤道具(物:場 C‘)⇒からの關係:①の⑦が、②に固有な働き(D1の至大化)をそのまま認めて、これを③と呼んだのは、④の智慧(D1の至大化)だつたので、特に信仰(C⇒D1の至大化)と呼ぶやうなものではなかつた(D1の至小化)。言つてみれば、それは、⑧を動かす(D1)のに⑤が有效である(D1の至大化)のを知つてゐた(D1の至大化)やうに、「◎:⑨を動かす(D1の至大化)のには、驚くほどの效果を現す②といふ⑤の力(D1の至大化)を知つてゐた(D1の至大化)といふ事であつた」(D1の至大化)⇒「⑥:上手に使はれる」(◎的概念F)⇒E:⑩は⑪として、使用する⑤(つまり②)のそれぞれの性質には精通してゐた(Eの至大化)に相違なく、⑤(つまり②)を上手に使ふとは、又⑤(つまり②)に⑥事だ、とよく承知してゐた(Eの至大化)であらう〔③と呼んだのは、④の智慧(D1の至大化)と同意〕。」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦人々⑧物⑨人の心⑩彼等⑪生活人(△枠)(△枠):③への適應正常。 P332關係論:①呪文(物:場 C‘)②山(物:場 C‘)③社會生活(物:場 C‘)④天も海も山も(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。従つて、①で②を動かさう(D1の至大化)とする人(△枠)もゐなかつた(D1の至小化)筈である。そのやうな狂愚(D1の至小化)を、秩序ある(D1の至大化)③を營む(D1の至大化)⑦が、許すわけがなかつたらう(D1の至小化)。④、⑥の力(D1の至大化)で、「◎:少しも動ずる事はない(D1の至大化)が、」⇒「⑤:人の心」(◎的對立概念F)⇒E:これ(④)を眺める(D1)⑤(F)は、僅かの⑥(F)が作用しても(即ち、合體Eの至大化)動揺する。⑨に、④動く(Eの至大化)と見える(Eの至大化)くらゐ當り前な事(Eの至大化)はない(次項の『自由な感情表現』に接續)」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥言葉⑦知慧⑧人の心⑨心動くもの(△枠):①への適應正常。 P332關係論:①天や海や山(物:場 C‘)②『言辭(言葉遣ひ)の道』(物:場 C‘)③自分達(物:場 C‘)④神(物:場 C‘)⑤言葉(物:場 C‘)⇒からの關係:①に、名を付けた(D1の至大化)時に、⑦は、この②を歩き出した(D1の至大化)のである。①にしても、③を④と呼ばれて(D1の至大化)みれば、⑧の仲間入り(D1の至大化)をせざるを得ず、其處(仲間入り)に開けた⑧との交はり(D1の至大化)は、(人間側の)⑤の上の工夫次第(D1の至大化)で、「◎:望むだけ(D1の至大化)、恐ろしくも(D1の至小化)、尊くも(D1の至大化)、豐かにも(D1の至大化)なつただらう」⇒「⑥:自由な感情表現」(◎的概念F)⇒E:この⑥の行く道(即ち、合體Eの至大化)を、日常生活(F)が歩く合理的な道(Eの至小化)と、⑦は混同する(Eの至小化)筈はなかつた(Eの至大化)であらう。『太古朴陋(ぼくろう:素朴でいやしい)の俗』(Eの至小化)で濟ませるやうな事ではない(Eの至大化)」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦人々⑧人間(△枠):①②④⑤への適應正常。 |
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〔三十三章〕主題: 《《漢意(からごころ。物:場 C‘)即ち宋儒(朱子學:理附け)の害と、それに千餘年の間、洗腦・隷属化され、しかもそれを悟らなかつた我が國》 P317關係論:①『學問之方』(物:場 C‘)②古(物:場 C‘)③學問の根本の態度(物:場 C‘)⇒からの關係:⑤は言葉を續ける。(上述で)⑤は、ただその①を語る(D1の至大化)のだ。『信じて②を好む(D1の至大化)』といふ「◎:③から、極めて自然に生れて來る(D1の至大化)①が語られてゐるのだ、と⑥は言ふ」⇒「④:『辨道』『辨名』」(◎的概念F)⇒E:この『學の道は、黙して之を識るに在り』といふ考へは、④の中にもいろいろな言葉で、説かれてゐる(Eの至大化)ところで、解りにくい所もある大事な考へ(Eの至大化)である」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤孔子⑥徂徠(△枠):①への適應正常。 P317關係論:①言語(物:場 C‘)②事物(物:場 C‘)③認識の常道(物:場 C‘)④義(物:場 C‘)⑤實用的な働き(物:場 C‘)⑥眞の學問の道(物:場 C‘)⇒からの關係:①の説明(D1)による②の理解(D1の至大化)が、③のやうに思はれてゐる(D1の至小化)が、これは、②のはつきりした④の傳達と理解(D1の至大化)といふ「◎:①の⑤が、⑧を、廣く領してゐる(D1の至大化)からである」⇒「⑦:理學(F)」(◎的概念F)⇒E:當今の⑦の方法(E)は、この全く在り来りの言語觀〔つまり『言語の説明(D1)による事物の理解(D1の至大化)が、認識の常道』〕の延長(Eの至小化)の上に、立つ(Eの至小化)もので、この言語(F)に對する一種の輕信(即ち同上:Eの至小化)が、⑥を妨害(D1の至小化)してゐる、と⑨は見る」(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧私達の實生活⑨徂徠(△枠):①②⑥への適應正常。 P317關係論:①物の義(物:場 C‘)②物(物:場 C‘)③義(物:場 C‘)④學問(物:場 C‘)⑤思惟の道(物:場 C‘)⇒からの關係:臆(自己の臆見:F)に任せて、①(物の意味・字義)を定めれば〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕、①(物の意味・字義)は盡くされた(D1の至小化)として、②は棄てて了ふ(D1の至小化)、「◎:③(意味・字義)は②を離れて(D1の至小化)孤行し、」⇒「⑥:『義(意味字義)の論説』」(◎的概念F)⇒E:⑥〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕といふ形で、空言巧言(F)への道を開く(Eの至小化)。是が④で貴ぶ⑤を阻げる」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒徂徠(△枠):④⑤への適應正常。 P319關係論:①古言(物:場 C‘)②條件(物:場 C‘)③言語表現(物:場 C‘)④定式定隼(物:場 C‘)⑤『易』(物:場 C‘)⑥『禮記』(物:場 C‘)⑦言語觀(物:場 C‘)⑧物(物:場 C‘)⇒からの關係:①(物)の表現(D1の至大化)、少なくとも、⑩が教へ(D1の至大化)の②として取り上げた③〔即ち『物(即ち:禮樂・孝悌仁義と言ふ物)を『教への條件』(物:場 C‘)と定めた』〕は、それ自身の動かせぬ(D1の至大化)④を備へてゐた、と⑪は見る。この間の消息を、次のやうにも説いてゐる。⑤(五經の一つ易經:孔子作では無い)には、『言(D1の至大化)に物(物:場 C‘)有りて、行ひに恆(D1の至大化)有り』とあるし、⑥(五經の一つ禮經:孔子作では無い)には、『言(D1の至大化)に物(物:場 C‘)有りて、行ひに格(さだまり:D1の至大化)有り』とあるやうに、さういふ言ひ方〔『物⇒行ひに恆・格(D1の至大化)』と言ふ、對『物』への重要視〕は、⑫の⑦をよく示してゐるので、古い時代には、⑬は、①(物)を誦(暗誦)(D1の至大化)するといふのが、普通の事であつた。「◎:①を記憶する(D1の至大化)こと、あたかも胸中に⑧を藏する(D1の至大化)が如くであり、⇒「⑨:勝手な説明や解釋」(◎的對立概念F)⇒E:⑨〔理つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕を、この⑧に代へる(Eの至小化)といふやうな事はしなかつたものである」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑩孔子⑪徂徠⑫古人⑬君子(△枠):①⑧への適應正常。 P319關係論:①物(物:場 C‘)②學界(宋儒系。物:場 C‘)③『禮樂』(物:場 C‘) P323關係論(傍線倒置有り):①『古事記』(物:場 C‘)②古言(物:場 C‘)⇒からの關係:④にとつて、③の排斥といふ事は、①の②を明らめる(D1の至大化)といふ、今まで⑤しなかつた「◎:大仕事を成し遂げた感動(D1の至大化)と離せない事であつた」(D1の至大化)⇒「③:『漢意(からごころ)』(◎對立的概念F)⇒E:理〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕に關する⑥の考へ方は、既記の通りだが、④の場合は、理の意味合が、③の意味合と混じて、大變面倒な事(Eの至小化)になつた。」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤誰も⑥徂徠④宣長(△枠):①への適應正常。 P323關係論:①漢意(からごころ。物:場 C‘)②古き書(物:場 C‘)⇒からの關係:「『◎:②の趣をよくえて(D1の至大化)』」、『①といふ物をさとりぬれば(D1の至大化)、おのづからいとよく分るる(D1の至大化)を、』」⇒「③:漢國(からくに:F)」(◎的對立概念F)⇒E:『何わざも③をよし(Eの至小化)として、かれ(③)をまねぶ(Eの至小化)世のならひ、千年にもあまりぬれば(Eの至小化)、おのづからその意(こころ:善惡是非を論ひ・物の理り)〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕世の中にゆきわたりて、④の底にそみつきて(Eの至小化)、つねの地となれる故に、我は①もたらずと思ひ、これは①にあらず、當然理也(しかあるべきことはりなり=理に精しき)と思ふことも、なほ①〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕をはなれがたき(Eの至小化)ならひぞかし』。『おしなべて⑤の心の地、みな①〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕なるがゆゑに、それ(①)をはなれて(D1の至大化)、さとる(D1の至大化)ことの、いとかたき(D1の至小化)ぞかし』。」(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒④人の心⑤世の人(△枠):①への適應異常。 P326關係論:①古傳説(物:場 C‘)②正實(まこと。物:場 C‘)③漢意(からごころ。物:場 C‘)④『漢籍説(からぶみごと)』(物:場 C‘)⇒からの關係:(『書記』以降)、①の②【とは、古傳説に、歴史の現實的意味合〔つまり『佛説の天堂は高天の原、地獄は夜見(よみ)の國、龍宮は海神宮(わだつにのみや)に、いといとよく似たる』〕を讀み取る(D1の至大化)事】を捨てて(D1の至小化)以來、「◎:千餘年、⑥の『③の痼疾(ふかきやまひ:D1の至小化)』(一例:陰陽の空理)は治らない」⇒「⑤:天地自然の理(F)」(◎的概念F)⇒E:④に迷つた(F⇒Eの至小化)⑦には、陰陽の理(F)と言はれれば、⑤(F)として(F⇒Eの至小化)、すべての物も事も、この理(⑤天地自然の理)〔老子・宋儒が行つた、理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕(以下參照)
を離れては考へられぬ(F⇒Eの至小化)。病(F⇒Eの至小化)は其處まで來てゐる」(⑤への距離不獲得:Eの至大化)⇒⑥識者達⑦病者(△枠):①②への適應異常。 |
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〔以下は三十三章各項:纏め〕 |
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P317《孔子は言葉を續ける:『黙して之を識り、學んで厭はず、人に誨(をし)へて倦まず、何んぞ我に有らんや』》 P317關係論:①之(物:場 C‘)②人(物:場 C‘)⇒からの關係:『黙して①を識り(D1の至大化)、學んで厭はず(D1の至大化)、「◎:②に誨(をし)へて倦まず(D1の至大化)、」⇒「③我」(◎的對立概念F)⇒E:『何んぞ③(『當行の理』:自分流の原理・定義附け)に有らんや』(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④孔子(△枠):①への適應正常。 P317關係論:①『學問之方』(物:場 C‘)②古(物:場 C‘)③學問の根本の態度(物:場 C‘)⇒からの關係:⑤は言葉を續ける。(上述で)⑤は、ただその①を語る(D1の至大化)のだ。『信じて②を好む(D1の至大化)』といふ「◎:③から、極めて自然に生れて來る(D1の至大化)①が語られてゐるのだ、と⑥は言ふ」⇒「④:『辨道』『辨名』」(◎的概念F)⇒E:この『學の道は、黙して之を識るに在り』といふ考へは、④の中にもいろいろな言葉で、説かれてゐる(Eの至大化)ところで、解りにくい所もある大事な考へ(Eの至大化)である」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤孔子⑥徂徠(△枠):①への適應正常。 P317關係論:①言語(物:場 C‘)②事物(物:場 C‘)③認識の常道(物:場 C‘)④義(物:場 C‘)⑤實用的な働き(物:場 C‘)⑥眞の學問の道(物:場 C‘)⇒からの關係:①の説明(D1)による②の理解(D1の至大化)が、③のやうに思はれてゐる(D1の至小化)が、これは、②のはつきりした④の傳達と理解(D1の至大化)といふ「◎:①の⑤が、⑧を、廣く領してゐる(D1の至大化)からである」⇒「⑦:理學(F)」(◎的概念F)⇒E:當今の⑦の方法(E)は、この全く在り来りの言語觀〔つまり『言語の説明(D1)による事物の理解(D1の至大化)が、認識の常道』〕の延長(Eの至小化)の上に、立つ(Eの至小化)もので、この言語(F)に對する一種の輕信(即ち同上:Eの至小化)が、⑥を妨害(D1の至小化)してゐる、と⑨は見る」(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧私達の實生活⑨徂徠(△枠):①②⑥への適應正常。 P317《更に徂徠曰く『〔言ひて喩(さと)らば(Eの至小化)、人(△枠)以てその義(F)是れに止まると爲し(Eの至小化)、復た其の餘(物:場 C‘)を思はざる(D1の至小化)也。是れ其の害は、人(△枠)をして思はざらしむる(D1の至小化)に在るのみ』》 P317關係論(倒置型):①物の義(物:場 C‘)②餘(物:場 C‘)⇒からの關係:(下から續く)『其の(①の)②を思はざる(D1の至小化)也。是れ其の〔②を思はざるの〕害は、④をして〔餘(物:場 C‘)を〕思はざらしむる(D1の至小化)に在るのみ』」(D1の至大化)⇒「③:その義」⇒E:(③=理:を)『言ひて喩(さと)らば、④以て③是れに止まると爲し(Eの至小化)』、(⇒上へ續く)」(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒④人(△枠):①への適應異常。 P317關係論:①物の義(物:場 C‘)②物(物:場 C‘)③義(物:場 C‘)④學問(物:場 C‘)⑤思惟の道(物:場 C‘)⇒からの關係:臆(自己の臆見:F)に任せて、①(物の意味・字義)を定めれば〔理附け(定義附け・原理附け:Eの至小化)〕、①(物の意味・字義)は盡くされた(D1の至小化)として、②は棄てて了ふ(D1の至小化)、「◎:③(意味・字義)は②を離れて(D1の至小化)孤行し、」⇒「⑥:『義(意味字義)の論説』」(◎的概念F)⇒E:⑥〔理附け(定義附け・原理附け:Eの至小化)〕といふ形で、空言巧言(F)への道を開く(Eの至小化)。是が④で貴ぶ⑤を阻げる(D1の至小化)。⑦は、黙して識る(D1の至大化)といふ處を、思ひて識る〔つまり、歴史(物:場 C‘)のうちに投げ入れる(D1の至大化:無私?)〕と言つてもよかつたのである」(④への距離不獲得:Eの至大化)⇒⑦徂徠(△枠):①への適應異常。 P318《更に徂徠曰く『蓋し先王(物:場 C‘)は、言語(空言巧言:F)を以て、人(△枠)を教ふるに足らざる(Eの至小化)を知る、故に禮樂(物:場 C‘)を作りて、以て之を教ふ』》 P318關係論(倒置型):①先王(物:場 C‘)②禮樂(物:場 C‘)③言語認識(物:場 C‘)⇒からの關係:(下から續く)故に②を作りて、以て之(②)を教ふ(D1の至大化)』」⇒「④:言語」(的概念F)⇒E:蓋し①は、④(空言巧言:F)を以て、⑤を教ふるに足らざる(Eの至小化)を知る、(⇒上へ續く):その④とは、空言巧言(F)の意味であり、①の空言(F)への鋭敏(Eの至大化)が、その(①の)③の深さ(D1の至大化)を示す、と言ひたいのだ。そして、ここでも背景にあるものは、『詩』(F)は言語の教へ(即ち、F⇒合體Eの至大化)である、といふ孔子の言語觀(即ち『言靈』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)である」(③への距離不獲得:Eの至大化)⇒⑤人(△枠):①②への適應異常。 P318關係論:①吾が道(物:場 C‘)②道(物:場 C‘)③先王(物:場 C‘)④禮樂(物:場 C‘)⑤『物』(物:場 C‘)⇒からの關係:⑦は、好んで(D1の至大化)、『①は、一を以て之(①)を貫く(D1の至大化)』といふ事を言つたが、何を以て貫く(D1の至大化)かは言はなかつた(D1の至小化)。言へなかつた(D1の至小化)からだ。⑦の②は、勿論③の②である。『若し②をして一言に瞭然(D1の至大化)たらしめば、「◎:則ち③、⑦も已に之〔『一を以て之(①)を貫く(D1の至大化)』〕を言はん』」⇒「⑥:『教への條件』」(◎的概念F)⇒E:③は、後世、⑧から、禮の義(字義)は『序』であり、樂の義(字義)は『和』である、などと言つて貰ふ〔理附け(定義附け・原理附け)の〕爲に、④と言ふ⑤を作つたわけではないのだ。⑤(即ち:禮樂・孝悌仁義と言ふ物)を⑥(物:場 C‘)と定めたからである」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦孔子⑧宋儒(△枠):①への適應正常。 P318《更に徂徠曰く『教ふる(D1の至大化)に物(物:場 C‘)を以てする者は、必ず事(物:場 C‘)を事とすること〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕有り。教ふる(E)に理(F)を以てする者は、言語(空言巧言:F)詳(つまびら)か(Eの至小化)也』》 P302關係論:①物(物:場 C‘)②事(物:場 C‘)⇒からの關係:『教ふる(D1の至大化)に①を以てする④は、「◎:『必ず②を②とする〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕こと有り』」⇒「③:理(F)」(◎的對立概念F)⇒E:『教ふる(E)に理(F)を以てする④は、言語(空言巧言:F)詳(つまびら)か(Eの至小化)也』」(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒④者(△枠):①への適應異常。 P318關係論(傍線倒置有り):①『物』(物:場 C‘)②『事』(物:場 C‘)③形(物:場 C‘)④準(物:場 C‘)⇒からの關係:⑥の良く使ふ①といふ言葉は、時には②とも使はれるが、『⑤(F)に對する①といふところは、はつきりしてゐる。③有り④(定準)有るものが、①に違ひない。従つて、①(即ち:禮樂・孝悌仁義)を明らめる學問(D1の至大化)で、『必ず②を②とすること〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕有り』と言ふのは、それぞれ特殊な、具體的な③に即して、それぞれに固有な意味なり價値なりを現してゐる(D1の至大化)、「◎:さういふ(固有な意味なり價値なりを現してゐる)、①を見定める(D1の至大化)といふ事にならう〔とはつまり、『性(物:場 C‘)は人々殊(こと)なり(D1の至小化)、⑨各々(△枠)、その性(物:場 C‘)に近き所に隨ひ(D1の至大化)』營爲(D1の至大化)する他はない」と同質の内容(以下傍線參照)〕⇒「⑤:理」(◎的對立概念F)⇒E:『⑤は③無し(Eの至小化)、故に④(定準)無し(Eの至小化)』と言ふ」(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥徂徠(△枠):①への適應正常。 ~~~~~以下參照~~~~~~~ P311關係論:①老子(物:場 C‘)②人爲(物:場 C‘)③眞實(物:場 C‘)④自然(物:場 C‘)⑤天地の道(物:場 C‘)⑥人の性(物:場 C‘)⇒からの關係:(前略)。營爲運用(D1の至大化)する所ある者は、⑥也』(『辨道』)と。更に曰く、『性(物:場 C‘)は人々殊(こと)なり(D1の至小化)』、『⑨、その性(物:場 C‘)に近き所に隨ひ(D1の至大化)』營爲(D1の至大化)する他はないのだが、この考への重點(D1の至大化)は、凡そ人(⑨と同意)の營爲(D1の至大化)は、ことごとく、『物(物:場 C‘)あれば(D1の至大化)名(物:場 C‘)あり(D1の至大化)』といふ、基本的な經驗(D1の至大化)の上に立たなければ(D1の至大化)、行はれない、としたところにある」(D1の至大化)⇒⑦孔子⑧徂徠⑨各々(△枠):③⑥への適應正常。 P313關係論:①『辨名』(物:場 C‘)②物(物:場 C‘)③名(物:場 C‘)④名教(物:場 C‘)⑤學問(物:場 C‘)⇒からの關係:①で扱はれてゐるのは、凡て②の形なき者〔禮樂・孝悌仁義等(物:場 C‘)〕につき、⑧の立てた③〔道(物:場 C‘)といふ統名〕だけである。恐らく⑨は、それで充分と見たのだ。④(『教への存する所』)とは一種の⑤ではない、「❻:凡そ⑤とは④に他ならぬ、といふ確信を語るのには、それで足りると見たからであらう」(D1の至大化)⇒「⑦:『②あれば③あり』」(❻的概念F)⇒E:だが、言ふまでもなく、④の基盤は、『生民より以來、⑦』といふ、⑩にとつて親しい(Eの至大化)、疑う餘地のない經驗(Eの至大化)なのである」(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧聖人⑩萬人⑨徂徠(△枠):①②③への適應正常。 ~~~~~以上參照~~~~~~~~~~~ P319關係論:①古言(物:場 C‘)②條件(物:場 C‘)③言語表現(物:場 C‘)④定式定隼(物:場 C‘)⑤『易』(物:場 C‘)⑥『禮記』(物:場 C‘)⑦言語觀(物:場 C‘)⑧物(物:場 C‘)⇒からの關係:①(物)の表現(D1の至大化)、少なくとも、⑩が教へ(D1の至大化)の②として取り上げた③〔即ち『物(即ち:禮樂・孝悌仁義と言ふ物)を『教への條件』(物:場 C‘)と定めた』〕は、それ自身の動かせぬ(D1の至大化)④を備へてゐた、と⑪は見る。この間の消息を、次のやうにも説いてゐる。⑤(五經の一つ易經:孔子作では無い)には、『言(D1の至大化)に物(物:場 C‘)有りて、行ひに恆(D1の至大化)有り』とあるし、⑥(五經の一つ禮經:孔子作では無い)には、『言(D1の至大化)に物(物:場 C‘)有りて、行ひに格(さだまり:D1の至大化)有り』とあるやうに、さういふ言ひ方〔『物⇒行ひに恆・格(D1の至大化)』と言ふ、對『物』への重要視〕は、⑫の⑦をよく示してゐるので、古い時代には、⑬は、①(物)を誦(暗誦)(D1の至大化)するといふのが、普通の事であつた。「◎:①を記憶する(D1の至大化)こと、あたかも胸中に⑧を藏する(D1の至大化)が如くであり、⇒「⑨:勝手な説明や解釋」(◎的對立概念F)⇒E:⑨〔理つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕を、この⑧に代へる(Eの至小化)といふやうな事はしなかつたものである」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑩孔子⑪徂徠⑫古人⑬君子(△枠):①⑧への適應正常。 P319關係論:①物(物:場 C‘)②學界(宋儒系。物:場 C‘)③『禮樂』(物:場 C‘) ~~~~~以下參照~~~~~~~ P317關係論:①言語(物:場 C‘)②事物(物:場 C‘)③認識の常道(物:場 C‘)④義(意味。物:場 C‘)⑤實用的な働き(物:場 C‘)⑥眞の學問の道(物:場 C‘)⇒からの關係:①の説明(D1)による②の理解(D1の至大化)が、③のやうに思はれてゐる(D1の至小化)が、これは、②のはつきりした④の傳達と理解(D1の至大化)といふ「◎:①の⑤が、⑧を、廣く領してゐる(D1の至大化)からである」⇒「⑦:理學(F)」(◎的概念F)⇒E:當今の⑦の方法(E)は、この全く在り来りの言語觀〔つまり『言語の説明(D1)による事物の理解(D1の至大化)が、認識の常道』〕の延長(Eの至小化)の上に、立つ(Eの至小化)もので、この言語(F)に對する一種の輕信(即ち同上:Eの至小化)が、⑥を妨害(D1の至小化)してゐる、と⑨は見る」(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧私達の實生活⑨徂徠(△枠):①②⑥への適應正常。 P318《更に徂徠曰く『蓋し先王(物:場 C‘)は、言語(空言巧言:F)を以て、人(△枠)を教ふるに足らざる(Eの至小化)を知る、故に禮樂(物:場 C‘)を作りて、以て之を教ふ』》 P318關係論(倒置型):①先王(物:場 C‘)②禮樂(物:場 C‘)③言語認識(物:場 C‘)⇒からの關係:(下から續く)故に②を作りて、以て之(②)を教ふ(D1の至大化)』」⇒「④:言語」(的概念F)⇒E:蓋し①は、④(空言巧言:F)〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕を以て、⑤を教ふるに足らざる(Eの至小化)を知る、(⇒上へ續く):その④とは、空言巧言(F)の意味であり、①の空言(F)への鋭敏(Eの至大化)が、その(①の)③の深さ(D1の至大化)を示す、と言ひたいのだ。そして、ここ〔先王の空言(F)への鋭敏(Eの至大化)〕でも背景にあるものは、『詩』(F)は言語の教へ(即ち、F⇒合體Eの至大化)である、といふ孔子の言語觀(即ち『言靈』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)である」(④への距離不獲得:Eの至大化)⇒⑤人(△枠):①②への適應異常。 ~~~~~以上參照~~~~~~~~~~~ P319關係論(傍線倒置有り):①(物:場 C‘)⇒からの關係:。これ(下から續く内容)は④風に言へば、『言(D1の至大化)に①有る事』(物あれば名ありと同意?)と『行ひに格(さだまり:D1の至大化)有る事』とは、「◎:不離(D1の至大化)なものだといふ事にならう」〔即ち:『物(物:場 C‘)⇒からの關係:言(D1の至大化)&行ひ(D1)に格(さだまり:D1の至大化)』と言ふ、物(物:場 C‘)への重要視を意味する。以下(Ⅳ)參照〕⇒「③:言語活動」(◎的概念F)⇒E:⑤には、③(言語F⇒活動Eの至大化)が、先ず何を置いても、己の感動(F)を現はす(Eの至大化)行爲であつた。比喩的な意味(對「感動」の比喩)で、行爲と言ふのではない〔とはつまり、言語活動(言語F⇒活動Eの至大化)は感動(F)の行爲化(Eの至大化)なのだ、と言ふ事〕。⑥、内の感動(F)を、思はず知らず(Eの至大化。以下參照:壱・參傍線)、身體の動き(F)〔即ち行爲「例:長息・手脚の流動F」〕によつて、外に現はさざるを得ない(Eの至大化)とすれば、言語(F)が生れて來る(Eの至大化)基盤は、其處〔感動に伴ふ行爲(感動F⇒行爲Eの至大化):詳細は續文〕にある。感動(F)に伴ふ態度なり(Eの至大化。例:長息・舞踊)の全體〔とは、全的な(局所的ではない)態度・體制。即ち、全體的・無意識的動作「例:長息・手脚の流動」)〕を、一つの行爲と感得し〔つまり:全體(F)⇒行爲と感得(Eの至大化)〕、これ〔全體的・無意識的動作(長息・手脚の流動F)〕を意識化し、規制する〔即ち「歌化・舞踊化(Eの至大化)」〕といふその事が、言語(F)による自己表現〔(Eの至大化);言はば「一つの合體Eの至大化」〕に他ならないと言ふ考へは、ごく自然なものであらう(⇒上へ續く)」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④徂徠(△枠)⑤古人⑥誰も(△枠):①への適應正常。 ~~~~~以下參照~~~~~~~ 壱)二十三章P212關係論:①『長息』(物:場 C‘)②内部に感じられる混亂〔亂れる心(物:場 C‘)〕⇒からの關係:私達が、思はず知らず、①をするのも、②を「③:整調〔『しずむ』『すます』『定むる』『晴らす』(歌の實)(D1の至大化)〕しようとして、極めて自然に取る私達の動作であらう」(D1の至大化)⇒「④:歌」(③的概念F)⇒E:其處(『長息』に據る整調『しずむ』『晴らす』)から④といふ最初の言葉が『ほころび出』ると⑤は言ふ。或は私達がわれ知らず取る動作が(即ち『思はず知らず、①をする』と同樣ゆえ)既に言葉なき④だとも、彼は言へたであらう」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①への適應正常。 弐)P220關係論:①生活の表現(物:場 C‘)②言語(物:場 C‘)③言語活動(物:場 C‘)⑥語り手(物:場 C‘)⇒からの關係:⑨は①としての②を言ふより、「④:むしろ、③と呼ばれる生活を、端的に指す」(D1の至大化)⇒「⑤:語」(③的概念F)⇒E:解り切つた事だが、⑤のうちに含まれて變らぬ、その(⑤の)意味などといふものはありはしない(Eの至小化)。⑥の語りやう(D1)、⑦の聞きやう(E)で、⑤の意味は變化(「Eの至大化」or「Eの至小化」)して止まない。私達(⑥と⑦)の間を結んでゐる(關係:D1)、言語(⑤)による表現(E)と理解(E)との生きた關係(即ち、Eの至大化=D1の至大化)といふものは、まさしくさういふものであり、この不安定な關係(即ち、Eの至大化=D1の至大化)を、不都合(D1の至小化)とは⑧も決して考へてゐない(D1の至大化)のが、普通である。互ひ(⑥と⑦)に『⑤』といふ『わざ』を行ふ(Eの至大化)私達(⑥と⑦)の談話が生きてゐる(D1の至大化)のは、⑤の『いひざま、いきほひ』(Eの至大化)による(即ち、Eの至大化=D1の至大化)、と⑨は言ふ。その全く個人的(⑥と⑦)な⑤(F)感(Eの至大化)を互ひ(⑥と⑦)に交換し合ひ(即ち、Eの至大化=D1の至大化)、即座に飜譯(Eの至大化)し合ふといふ離れ業(Eの至大化)を、われ知らず樂しんでゐる(即ち、Eの至大化=D1の至大化)のが、私達(⑥と⑦)の尋常な談話(D1の至大化)であらう」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦聞き手⑧誰(△枠)。⑨宣長(△枠):③への適應正常。 *(參)P215?關係論:①言葉(物:場 C‘)②母體(物:場 C‘)③全的(非局所的)な態度なり體制〔全體的動作即ち無意識的動作『歌(長息)・舞踊(言葉なき歌)』(物:場 C‘)〕⇒からの關係:ただ確かなのは、⑥が、①の生れ出る②として、私達が、生きて行く必要上、「④:われ知らず(無意識的に)取る或る③なりを考へてゐた事である」(D1の至大化)⇒「⑤:局所(非全的)の考案」(④的對立概念F)⇒E:①は、決して頭腦といふ⑤によつて、生れ出たものではない。この⑥の言語觀の基礎にある考へは、明記して置いた方がよい」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①への適應正常。 *(Ⅳ)P302:「『禮記』(五經の一つ禮經:孔子作では無い)には、『言(D1の至大化)に物(物:場 C‘)有りて、行ひに格(さだまり:D1の至大化)有り』とあるやうに、さういふ言ひ方〔『物(物:場 C‘)⇒言(D1の至大化)&行ひ(D1)に格(さだまり:D1の至大化)』と言ふ、『物』(物:場 C‘)への重要視〕は、古人の言語觀をよく示してゐる」 ~~~~~以上參照~~~~~~~~~~~ P320關係論:①『詩書禮樂』(物:場 C‘)②古人の行爲(物:場 C‘)③古人(物:場 C‘)④『物』の歴史的個性(物:場 C‘)⇒からの關係:①を學ぶ(D1の至大化)⑥は、さういふ②〔つまり(前項記述の)、全體的・無意識的動作(長息・手脚の流動F)を、意識化し、規制する(即ち「詩歌化・舞踊化:Eの至大化)」〕といふその事〕の迹(あと)を、③の身になつて、⑦辿つてみる(即ち、轉義D1の至大化)他はないだらう。「◎:①といふ、③の遺した④を會得する(即ち、轉義D1の至大化)には、」⇒「⑤:自分の心中(F)」(◎的概念F)⇒E:作つた人(③)の、(①)制作の經驗〔とは、『詩』(F)は言語の教へ(即ち、F⇒合體Eの至大化)〕を、⑤(F)で、そのまま經驗(即ち、F⇒合體Eの至大化)してみる他に、道はあるまい(Eの至大化)」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥者⑦みづから(△枠):①③への適應正常。 P320關係論:①古人(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。さういふ〔とは『①の身になつて、③辿つてみる(即ち、轉義D1の至大化)』〕、『(古を)信じて好む』道を行く(D1の至大化)④の裡にある、「◎:おのづからな(自然な)知慧の働き(D1の至大化)を、」⇒「②:『黙して』(◎的概念F)⇒E:⑤は『②(無私で?:D1の至大化)之〔『詩書禮樂』と言ふ『物』(物:場 C‘)〕を知る(D1の至大化)』と言つたとするのが、⑥の解である」(②への距離獲得:Eの至大化)⇒③みづから④者⑤孔子⑥徂徠(△枠):①への適應正常。 P320《孔子曰く:『黙して之(物:場 C‘)を識れば(D1の至大化)則ち好む(D1の至大化)、好めば則ち學びて厭はず(D1の至大化)、厭はざれば則ち樂しむ(D1の至大化)、樂しめば則ち人(△枠)に誨(をし)へて倦まず(D1の至大化)』》 P320關係論:①之(物:場 C‘)⇒からの關係:黙して①〔『詩書禮樂』と言ふ『物』(物:場 C‘)〕を識(し)れば(無私で?:D1の至大化)則ち好む(D1の至大化)、好めば則ち學びて厭はず(D1の至大化)、厭はざれば則ち樂しむ(D1の至大化)、樂しめば」⇒「②誨(をし)へて」 P320關係論(傍線倒置有り):①『學問の方』(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。従つて、上記《孔子曰く:文》といふ風に、③の言葉を受取つてよい」。「⑤でも久しく習ふ(D1の至大化)うちに、自然と喩(さと)る(D1の至大化)ところがあるもので、さういふ、⑥の自得(D1の至大化)に俟つ自分としては、教育法(F⇒Eの至大化)につき、兎や角いひたくない。「◎『四時行はれ(D1の至大化)、百物(物:場 C‘)生ず。學之道(物:場 C‘)は其れかくのごときか』とするのが、⑦の註である」⇒「②:『何んぞ我にあらんや』(◎的概念F)⇒E:そしてさういふ①を、③は、當然、②〔即ち『何んぞ我(『當行の理』:自分流の原理・定義附け)に有らんや』(P317參照)〕、④の力(理:F)で、どうかしよう(Eの至小化)とするのではないのだと言ふ」(②への距離獲得:Eの至大化)⇒③孔子④自分⑤誰⑥學ぶ者⑦徂徠:①への適應正常。 P320關係論:①物(物:場 C‘)②固有な性質(物:場 C‘)③學問(物:場 C‘)⇒からの關係:①を以てする③の方法(D1の至大化)は、①に習熟(即ち、轉義D1の至大化)して、①と合體(即ち、合體Eの至大化?)する事である。①の内部に入込んで(D1の至大化)、「◎:その①に②と一致する事を目指す道(D1の至大化)だ」⇒「④:觀察の觀點」(◎的對立概念F)⇒E:理〔つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕を以てする教へ(E)となると、その理解は、①と共感し(D1の至大化)一致する確實性(D1の至大化)には、到底し得ない。①の周りを取りかこむ④(定義附け・原理附け)を、どんなに増やしても(Eの至小化)、従つてこれ〔④(定義附け・原理附け)〕に因る分析的な記述的(Eの至小化)な言語(F)が、どんなに詳しくなつても(Eの至小化)、(①を)習熟の末(D1の至大化)、おのずから自得する(D1の至大化)⑤の安心(D1の至大化)は得られない(Eの至小化)」(④への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑤者(△枠):①への適應異常。 P320《徂徠曰く『禮樂(物:場 C‘)いはず(D1の至小化)、何(物:場 C‘)を以て言語(F)の人(△枠)を教ふる(Eの至小化)〔理:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕に勝るや(D1の至大化)。(禮樂といふ物に)化する(D1の至大化)が故也。習ひて(D1の至大化)以て之〔禮樂(物:場 C‘)〕に熟すれば(D1の至大化)、未だ喩(さと)らず(D1の至小化)と雖も、其の心志身體(△枠)既に潜(ひそか)に之〔禮樂(物:場 C‘)〕と化す(D1の至大化)、終(つい)に喩(さと)らざらんや(D1の至大化)』》 P302關係論(傍線倒置有り):①禮樂(物:場 C‘)⇒からの關係:『①いはず(D1の至小化)〔即ちP320:孔子曰く『黙して之(物:場 C‘)を識れば(D1の至大化)』の謂ひ〕。(下:傍線へ續く)(①といふ物に)化する(D1の至大化)が故也。習ひて(D1の至大化)以て之(①といふ物に)に熟すれば(D1の至大化)、未だ喩(さと)らず(D1の至小化)と雖も、』「◎:『其の③既に潜(ひそか)に之(①といふ物に)と化す(D1の至大化)、終(つい)に喩(さと)らざらんや(D1の至大化)』」⇒「②:言語(F)」(◎的對立概念F)⇒E:『何(物:場 C‘)を以て、②の④を教ふる(Eの至小化)〔理:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕に勝る(D1の至大化)や』」(②への距離不獲得:Eの至小化)⇒③心志身體④人(△枠):①への適應正常。 P320關係論:①之〔禮樂(物:場 C‘)〕⑤心身(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。前項の『其の心志⑥既に「◎:潜(ひそか)に①と化す(D1の至大化)』とは、」⇒「②:『心を操ることの鋭なる』」(◎的對立概念F)⇒E:教ふる(Eの至小化)に理〔(F)つまり、自分流理附け(定義附け・原理附け)〕を以てする(Eの至小化)③、或は言語(F)を以てする〔同上:Eの至小化)③の弱點を突いたものだ。さういふ②〔理つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕④は、どうしても知的な意識(F)に頼り(Eの至小化)、意識(F)に上がらぬ(Eの至小化)⑤のひそかな働き(D1の至大化)を輕んずる(Eの至小化)」(②への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥身體(△枠)③者④人達(△枠):①への適應異常。 P320《徂徠曰く『古言(物:場 C‘)を知らざる(D1の至小化)の失のみ。古へ(場 C‘)は身(△枠)と心(△枠)とを以て對言(D1の至小化)する者無し。凡そ身(△枠)と言ふ者は皆己れ(△枠)を謂ふ也。己れ(△枠)なれば豈心(△枠)を外にせん(D1の至小化)や』》 P320關係論:①徳(物:場 C‘)②古言(物:場 C‘)③古へ(場 C‘)⇒からの關係:『①は⑤に得る(D1の至大化)也』といふ言ひ方は、②では普通(D1の至大化)なのだが、」――(⑧曰く)『②を知らざる(D1の至小化)の失のみ。「◎:③は⑤と⑥とを以て對言(D1の至小化)する者無し。凡そ⑤と言ふ者は皆⑦を謂ふ也。⑦なれば豈⑥を外にせん(D1の至小化)や』」⇒「④:朱子」(◎的對立概念F)⇒E:④のやうな學者には、⑥に得ると言はないで、⑤に得るといふのが淺薄と映る(Eの至小化)」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤身⑥心⑦己れ⑧徂徠(△枠):①②への適應正常。 |
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P321《 》 P321關係論:①正統(物:場 C‘)②儒學(物:場 C‘)⇒からの關係:徂徠(△枠)が、①と信じた(D1の至大化)②の方法(D1の至大化)のうちで、使はれてゐる『思ふ』(D1の至大化)、或は『思惟』(D1の至大化)といふ言葉は、全的な經驗(D1の至大化)、體驗、體得といふ意味合〔とは、局所的ではない態度・體制。即ち、全體的・無意識的動作「例:長息・手脚の流動」)〕のものであつた。この方法(全的な經驗:D1の至大化)は、宣長(△枠)によつて精讀され、繼承された〔即ち、歌論の全體的・無意識的動作「例:長息・手脚の流動」)〕と見てよい」 P321關係論:①學問(物:場 C‘)②主(むね)(物:場 C‘)③『道』(物:場 C‘)④古事記書記の二典(ふたみふみ。物:場 C‘)⑤神代(場 C‘)⑥上代(場 C‘)⑦事跡(物:場 C‘)⑧歴史事實(物:場 C‘)⇒からの關係:⑩の①でも、『②としてよるべきすぢ』は③であつたが、『其③は、いかなるさまの③ぞといふに、此③は、④に記されたる、⑤⑥の、もろもろの⑦のうへに備はりたり(D1の至大化)、此の(④)の、⑥の巻巻を、くりかへしくりかへしよくよみ見るべし(D1の至大化)』(うひ山ぶみ)と言ふ。「◎:③の①の目指す(D1の至大化)ところを、一と口で言ふなら、さういふ⑧〔とは、『④に記されたる、もろもろの⑦』〕を學び明らめる(D1の至大化)にある、他に何の仔細もない、」⇒「⑨:言ひ方」(◎的概念F)⇒E:と言ふ考へは、⑪のもので、殆ど⑨まで同じだ(D1の至大化)と言つてよい」(⑨への距離獲得:Eの至大化)⇒⑩宣長⑪徂徠(△枠):①③への適應正常。 P321關係論:①道(物:場 C‘)②歌(物:場 C‘)③あがたゐのうし(物:場 C‘)④古の書共(物:場 C‘)⑤古(物:場 C‘)⇒からの關係:『⑦は、①の事も②のことも、③(眞淵)の教のおもむき(D1の至大化)によりて、ただ④を、かむがへさとれる(D1の至大化)のみこそあれ』(『玉かつま』)と⑧は言ふ。彼も亦、『述べて作らず〔理:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)をせず、と言ふ事〕、』「◎:『(⑤を)信じて⑤を好む(D1の至大化)』(孔子の辯)①を行つたのである」⇒「⑥:『思ひて喩(さと)る』」(◎的概念F)⇒E:従つて、その『(④を)かむがへさとる(D1の至大化)』といふ言葉は、⑨の『(⑤を)⑥』といふ言葉と同じ意味合で使はれてゐたと考へていい」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦おのれ⑨徂徠⑧宣長(△枠):①②への適應正常。 P321關係論:①『大學』(物:場 C‘)②『格物致知』(物:場 C‘)③『格』(物:場 C‘)④道(物:場 C‘)⑤『物』(物:場 C‘)⇒からの關係:①にある②といふ言葉にしても(『辨名』)、③の古訓(D1の至大化)は『來る(D1の至大化)』であり、古訓(D1の至大化)に順じて、素直に讀む(D1の至大化)なら、④といふ⑤が、當方(△枠)に來るのを迎へ(D1の至大化)、これを収めて(D1の至大化)、わが有となす(D1の至大化)、「◎:さういふ、⑤の親身な經驗(D1の至大化)を重ねてゐるうちに、無理なく知見は開けて來る(D1の至大化)、といふ意味合に受取れる」(D1の至大化)⇒「⑥:窮理(F)」(◎的對立概念F)⇒E:ところが、今日(徂徠の時代)では、格物〔物⇒格(來る)〕を⑥〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕と解する(Eの至小化)⑦の説が行はれて(Eの至小化)、知を致さん(D1の至大化)と思ふなら、先づ⑤の理〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕に至り、これ〔理に還元(F⇒Eの至大化)〕を窮めよ(Eの至小化)、とさういふ意味にとられてゐる。しかし、これでは、⑤を捨てて(D1の至小化)、理〔理に還元:自分流理附け(定義附け・原理附け)〕を得よ(Eの至小化)と主張するに等しいではないか、と⑧は言ふ」(⑥への距離不獲得:Eの至大化)⇒⑦朱子⑧徂徠(△枠):②への適應正常。 P322關係論:①『かむがへ』物:場 C‘)②『かんがふ』(物:場 C‘)③あれ(物:場 C‘)④古人(物:場 C‘)⇒からの關係:⑤は言ふ。以下は要略。――①は未だ思ひ得ずといふ『か』を發語として輕く見て置くなら、②とは、③と⑥とが『相むかふ』(D1の至大化)、その關係(D1)について思ひめぐらす(D1の至大化)事だとする。『むかふ』(D1)は『身交(むか)ふ』〔身(△枠)⇒D1〕であるから、④について考へる(D1)といふのも、その本義(D1の至大化)はといふ事になれば、④と出來るだけ親身(D1の至大化)になつて、交はり(D1の至大化)、その交はりを思ひ明らめる(D1の至大化)といふ事にならう」(D1の至大化)⇒ P322《宣長著『直毘霊』(物:場 C‘)には、『古へ(場 C‘)の大御世(おほみよ。物:場 C‘))には、道(物:場 C‘)といふ言擧(ことあげ:D1)もさらになかりき(D1の至小化)、其はただ物(物:場 C‘)にゆく道(D1の至大化)こそ有りけれ、物(物:場 C‘)のことわり〔理:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕あるべきすべ、萬(よろづ)の教へごと〔とは:『教ふる(Eの至小化)に理(F)つまり、自分流理附け(定義附け・原理附け)を以てする(Eの至小化)、或は言語(F)を以てする』の意〕をしも、何の道くれの道〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕といふことは、異國(あだしくに。場 C‘)のさだなり』》 P322關係論:①『直毘霊』(物:場 C‘)②古へ(場 C‘)③大御世(おほみよ。物:場 C‘)④道(物:場 C‘)⑤物(物:場 C‘)⇒からの關係:宣長著①には、『②の③には、④といふ言擧(ことあげ:D1)もさらになかりき(D1の至小化)』、「◎:『其はただ⑤にゆく道(D1の至大化)こそ有りけれ、』」(D1の至大化)⇒「⑥:『萬(よろづ)の教へごと』」(◎的對立概念F)⇒E:⑤のことわり〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕あるべきすべ、⑥〔とは:『教ふる(Eの至小化)に理(F)つまり、自分流理附け(定義附け・原理附け)を以てする(Eの至小化)、言語(F)を以てする』の意〕をしも、何の道くれの道〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕といふ(Eの至小化)ことは、異國(あだしくに。場 C‘)のさだ(Eの至小化)なり」(⑥への距離不獲得:Eの至大化)⇒宣長曰く(△枠):④⑤への適應正常。 P322關係論:①『物は教への條件也』(物:場 C‘)②『古事記』(物:場 C‘)③『物』(物:場 C‘)④『御國ごころ』〔物(物:場 C‘)〕⑤學問(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。かういふ(⑦)の文章(前項參照)にしても、やはり⑧の①といふ強い考へ〔物(物:場 C‘)⇒教へ(D1の至大化)〕が、その〔前項文『其(道)はただ物(物:場 C‘)にゆく道(D1の至大化)こそ有りけれ』の〕骨格を成して(D1の至大化)ゐる。⑦は一切の言擧(ことあげ。D1の至大化)を捨てて、直ちに②といふ③に推參(D1の至大化)し、これに化するといふ道(D1の至大化)を行つた。其處で、骨格に④といふ肉附け〔+(物:場 C‘)〕が、おのづから行はれた(D1の至大化)といふ事が、「◎:彼の⑤を決定(D1の至大化)したのであつた〔とはつまり、宣長の⑤:『古事記』+『御國ごころ』といふ物(物:場 C‘)⇒に推參(D1の至大化)し、これに化する(D1の至大化)といふ道『(物)にゆく道(D1の至大化)こそ有り』〕」⇒「⑥:『異國のさだ』」(◎的對立概念F)⇒E:その爲に、理〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕を教への條件(Eの至小化)とするといふ、⑧が極力反對した考への方は、⑥となり『漢(から)ごごろ』となつた(Eの至小化)わけだ」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧徂徠⑦宣長(△枠):①②④への適應正常。 P323關係論(傍線倒置有り):①『古事記』(物:場 C‘)②古言(物:場 C‘)⇒からの關係:④にとつて、③の排斥といふ事は、①の②を明らめる(D1の至大化)といふ、今まで⑤しなかつた「◎:大仕事を成し遂げた感動(D1の至大化)と離せない事であつた」(D1の至大化)⇒「③:『漢意(からごころ)』(◎對立的概念F)⇒E:理〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕に關する⑥の考へ方は、既記の通りだが、④の場合は、理の意味合が、③の意味合と混じて、大變面倒な事(Eの至小化)になつた。」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤誰も⑥徂徠④宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P323《『清々(すがすが)しき御國ごころ(△枠)もて、古典(ふるきふみ)(物:場 C‘)どもをよく學びてよ(D1の至大化)、然りせば受行(うけおこなふ)べき道〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕なきことは、おのづから(△枠)知りてむ(Eの至大化)、其(そ)〔御國ごころ(△枠)⇒古典(ふるきふみ)(物:場 C‘)〕をしる(D1の至大化)ぞ、すなはち神の道(物:場 C‘)をうけおこなふ(D1の至大化)にはありける』》 P323關係論:②古典(ふるきふみ。物:場 C‘)③神の道(物:場 C‘)⇒からの關係:清々(すがすが)しき①もて、「◎:②どもをよく學びてよ(D1の至大化)、」⇒「④:『受行(うけおこなふ)べき道』」(◎對立的概念F)⇒E:然りせば、④(道といふ言擧)〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕なきことは、⑤知りてむ(Eの至大化)、其(そ)〔御國ごころ(△枠)⇒古典(ふるきふみ)(物:場 C‘)〕をしる(D1の至大化)ぞ、すなはち③をうけおこなふ(D1の至大化)にはありける〕」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒①御國ごころ⑤おのづから⑥宣長(△枠):②③への適應正常。 P323關係論:①前項赤文(物:場 C‘)②『古事記』(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。①といふ思ひ掛けない發見(D1の至大化)の衝撃の色合(D1の至大化)で、③といふ言葉は染められてゐた(Eの至小化)と言つてよい。「◎:④が②と取結んだ(D1の至大化)、親身な緊張した人間的關係(D1の至大化)の只中で、」⇒「③:『漢意(からごころ)』」(◎的對立概念F)⇒E:③といふ言葉を生き生きと發言(Eの至大化)してゐる」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④宣長(△枠):①への適應正常。
P323關係論:①漢意(からごころ。物:場 C‘)②漢國(からくに。物:場 C‘)③かの國(物:場 C‘)⇒からの關係:『①とは、②のふりを好み(D1の至大化)、「◎:『③をたふとぶ(D1の至大化)のみをいふにあらず、』」⇒「④:漢籍(からぶみ)」(◎的概念F)⇒E:『大かた⑤の、萬の事の善惡是非(よさあしさ)を論ひ(Eの至小化)、物の理りをさだめいふ〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕たぐひ(Eの至小化)、すべて(善惡是非を論ひ・物の理りを含め)みな④の趣なるをいふ也。さるは④をよみたる(Eの至小化)⑥のみ、然るにはあらず、書(F)といふ物一つも見たることなき(Eの至小化)⑦までも、同じこと也、そも④をよまぬ人(Eの至小化)は、さる心〔物の理り・善惡是非を論ひ=理(F)を嫌ふ『善惡相代(あいかはる)と云ふ理窟』即ち相對的觀測〕にはあるまじき(Eの至小化)わざなれども、何わざも②をよし(Eの至小化)として、かれをまねぶ(Eの至小化)世のならひ、千年にもあまりぬれば(Eの至小化)、おのづからその意(こころ:善惡是非を論ひ・物の理り)〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕世の中にゆきわたりて、⑧の底にそみつきて(Eの至小化)、つねの地となれる故に、我は①もたらずと思ひ、これは①にあらず、當然理也(しかあるべきことはりなり=理に精しき)と思ふことも、なほ①〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕をはなれがたき(Eの至小化)ならひぞかし。そもそも人の心は、皇國も外つ國も、ことなることなく、善惡是非(よさあしさ)に二つ(異論)なければ、別(こと)に①といふこと、あるべくもあらずと思ふは、一わたりさることのやうなれど、然思ふもやがて①〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕なれば、とにかくに此意(①)は、のぞこりがたき(Eの至小化)物になむ有ける、人の心(F)の、いづれの國(場 C‘)もことなることなき(Eの至大化)は、本のまごころ(F)こそあれ(Eの至大化)、からぶみ(F)にいへるおもむき(E)は、皆⑨のこちたき(事痛し=仰々しい:Eの至小化)さかしら(賢しら=物知り振り:Eの至小化)心(F)もて、いつはりかざりたる(Eの至小化)事〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕のみ多ければ、眞心(F)にあらず(Eの至小化)、かれ(⑨)が是(よし)とする事、實の是(よき)にはあらず、非(あし)とすること、まことの非(あしき)にあらざるたぐひ〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕もおほかれば、善惡是非(よさあしさ)に二つ(異論)なしともいふべからず、又當然之理(しかあるべきことはり)とおもひとりたるすぢも、①の當然之理〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕にこそあれ、實の當然之理(しかあるべきことはり)にはあらざる(Eの至小化)こと多し、大かたこれらの事、古き書(物:場 C‘)の趣をよくえて(D1の至大化)、①といふ物をさとりぬれば(D1の至大化)、おのづからいとよく分るるを、おしなべて⑤の心の地、みな①〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕なるがゆゑに、それ(①)をはなれて(D1の至大化)、さとる(D1の至大化)ことの、いとかたき(D1の至小化)ぞかし』」(④への距離不獲得:Eの至大化)⇒⑤世の人⑥人⑦者⑧人の心⑨かの國人(△枠):①への適應異常。 P324關係論:①直毘霊〔なおびのみたま(物:場 C‘)〕②『道といふことの論(あげつら)ひ』③世(場 C‘)④學界(物:場 C‘)⇒からの關係:①は、②の別題を持つ。⑤はこれ(②)を③に問ふた(D1)が、「◎:④を納得させる事は、思ひも寄らなかつた(D1の至小化)」⇒「⑤:『神皇(すめろぎ)の道』」(◎的對立概念F)⇒E:⑤といふやうな全く聞き慣れぬ(Eの至小化)言葉が、先づ、『聖人の道』といふ通念(F)に、齒の立ちやうがなかつた(Eの至小化)」(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑤宣長(△枠):①への適應正常。 P324關係論:①問題(物:場 C‘)②『受行(うけおこなふ)べき道なき』(物:場 C‘)③道(物:場 C‘)④『神の道』(物:場 C‘)⑤『道といふことの論(あげつら)ひ』の本(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。①の本質的な困難(D1の至小化)は、②(『道といふ言擧』なき)『理に還元』なき:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)の無き〕を③とする④が、「◎:⑤(『直毘霊』の別本)で、説明がつくわけがない(D1の至小化)といふところにあつた」(D1の至大化)⇒「⑥:『古事記』」(◎的對立概念F)⇒E:そして、これ(説明がつくわけがない)にはつきり気付いてゐた(Eの至小化)のは、⑦獨りであつた。⑥を『かむがへ〔か身交(むか)ふ〕』(D1の至大化)て、得られた確信(以下參照)
が、いよいよ明瞭(Eの至大化)になるとは、これ(『古事記』『神の道』)を分析的に説く(Eの至大化)事が、いよいよ難しくなる(Eの至小化)事に、他ならなかつたからである」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):①④⑤への適應正常。 P325關係論:②儒學(物:場 C‘)③『理』(物:場 C‘)④事(物:場 C‘)⑤『陰陽の理』(物:場 C‘)⇒からの關係:①の②攻撃(D1の至大化)は、②の頼む③〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕への攻撃(D1の至大化)の上に立つてゐるので、⑦の③についての見解(D1)は、そこで一と通り説かれる事になつた。それは、一と口に言ふなら、④と③とを混同(D1の至小化)してはいけない、混同(D1の至小化)から、あらゆる迷妄(D1の至小化)が生ずる、といふ考へである。彼は③といふものを頭から否定するのではない(徂徠に近し)」⇒「⑥:『空論理窟』(的概念F)⇒E:ただ、己の智(さとり)を頼む〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)する〕者が迷ひ込む(Eの至小化)⑥を、極力排斥するのである。空理と言つても、自分の言ふのは、例へば佛道が、世間の萬の物も事もみな空なり、と説く空理のやうなものを指すのではなく、全く簡明に、『無きことを、③(自分流理附け)を以て、有りげにいひなす(D1の至小化)』(即ち⑥)のを指すのだと言ふ。⑧の言ふ⑤にしても、『もし陰陽も、火水の熱く寒きが如く、④(事實)にてあらはなる物なりせば、僞ならぬこと明らかなれば、これを僞り事(D1の至小化)とはいふことあたはざる(D1の至大化)を、陰陽は④(事實)にあらず、その③〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕なる故に、あらは(顯は:事實)ならぬ(D1の至小化)物にて、その僞ならぬ(D1の至大化)證據は無ければ(無いならば:D1の至小化)、などか僞也(D1の至小化)といはざらん(僞ではない證據が無いならば、どうして僞也と言はないのだ!の意:反語的表現』」(⑥への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑧儒者①『くず花』(宣長著△枠)⑦宣長(△枠):③④への適應正常。 P325關係論:①『己も善惡相代(あいかはる)と云ふ理窟』(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。③曰く。『これ〔①を立て説く(D1の至小化)』〕は、此の④のみにもあらず、「◎吾⑤も難ずる事(D1の至小化)也、」⇒「②:顯はに見えたる理」(◎的對立概念F)⇒E:然れ共それは、ただ理(F)〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕といふ事を嫌ふ(F⇒Eの至小化)に過ぎて、明らかに見えたる(前項で言ふ事の領域の)理を得知らざる也、いかに理を言ふ事を厭へばとて、②(F顯在物:前項で言ふ事の領域)をも、しひて覆ひ隱す(F⇒Eの至小化)べきにあらず、そもそも此の善惡たがひに相根(あひね)ざす理〔『善惡相代(あいかはる)と云ふ理窟』即ち顯はに見えたる物への相對的觀測〕は、神代の黄泉(よみ)の段より始めて、今の代にいたる迄、和漢の變化の事跡に就きて、委曲に(くはしく)考へて見よ、妙にことごとく此の理(②)にあたれり、然るを此所〔②〕にしも心をとどめて考へざる(D1の至小化)は、漢人(からびと)のつねにいふなる理窟〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕のたぐひに似たる故なれど、似たりとて、實に有る事〔顯はに見えたる物(F)への相對的觀測(F⇒Eの至大化)〕を捨つ(Eの至小化)べきにあらず、佛説の天堂は高天の原、地獄は夜見(よみ)の國、龍宮は海神宮(わだつにのみや)に、いといとよく似たる、これらをばいかにとかせん』と言ふのである」」(②への距離獲得:Eの至大化)⇒③宣長 ④難者(批判者:市川匡)⑤古學の輩(△枠):①への適應異常。 P326關係論:①答へ(物:場 C‘)②無きこと(物:場 C‘)③有る事(物:場 C‘)④顯はに見えた理(物:場 C‘)⑤空理(物:場 C‘)⑥實理(物:場 C‘)⑦古傳説(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。この①〔即ち『實に有る事〔顯はに見えたる物(F)への相對的觀測(F⇒Eの至大化)〕を捨つ(Eの至小化)べきにあらず』〕で、先づ、明らかな事(D1の至大化)は、②を、有りげにいひなす(D1の至小化)理〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕と、③の上に、④と、言はば⑤と⑥とを、⑨ははつきりと區別(D1の至大化)して、考へてゐる事だ。次にこの⑥(④)を掴んで(D1の至大化)、考へを深めて行けば(D1の至大化)、當然、理(⑥)はいくらでも精しくなる(徂徠と一致:D1の至大化)。「◎:⑦に、歴史の現實的意味合〔つまり『佛説の天堂は高天の原、地獄は夜見(よみ)の國、龍宮は海神宮(わだつにのみや)に、いといとよく似たる』〕を讀み取る(D1の至大化)事も出來るやうになる」⇒「⑧:『古事記傳』」(◎的對立概念F)⇒E:の言ひ方(Eの至大化)で言へば、『尋常(よのつね)の理(F)』(④)に精しく(Eの至大化)なれば〔つまり宋儒の理は精しからずの意〕、『其の外(④の外:F)に測りがたき(Eの至小化)妙理(くすしきことはり:F)のあることを知る(F⇒Eの至大化)』やうになる。さういふ考へだ。」(⑧への距離獲得:Eの至大化)⇒⑨宣長(△枠):①への適應正常。 P326關係論:②空理(物:場 C‘)③實理(物:場 C‘)④疑問(物:場 C‘)⑤『古事記傳』(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。①は、さう(前項の如く)考へる(D1の至大化)とともに、②を捨てて(D1の至小化)、③を取る(D1の至大化)といふ當り前な事(D1の至大化)が、何故、かうもむつかしい(D1の至小化)のか。何故、世の⑦は、皆争つて②〔無きこと(物:場 C‘)を、有りげにいひなす(D1の至小化)理〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕に走る(D1の至小化)のか、といふ④に出會ふ(D1の至大化)。「◎:この④は、⑤を書く動機【とは、古傳説に、歴史の現實的意味合〔つまり『佛説の天堂は高天の原、地獄は夜見(よみ)の國、龍宮は海神宮(わだつにのみや)に、いといとよく似たる』〕を讀み取る(D1の至大化)事を捨てて(D1の至小化)しまつた識者達、と言ふ現実】と堅く結ばれてゐる(D1の至大化)」⇒「⑥:『天地(あめつち)の初發(はじめ)のありさま(F)』(◎的概念F)⇒E:わが國で一番古い、又今日まで一番重んじられて來た史書『書記』(F)を開けば、一目瞭然(F⇒Eの至大化)の事だが、⑥が、もう陰陽の②〔『天地自然の理』に連結する宋儒の弊害。理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕によつて説かれてゐる(F⇒Eの至小化)始末である」(⑥への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑦識者達 ①宣長(△枠):②③への適應正常。 P326關係論:①古傳説(物:場 C‘)②正實(まこと。物:場 C‘)③漢意(からごころ。物:場 C‘)④『漢籍説(からぶみごと)』(物:場 C‘)⇒からの關係:(『書記』以降)、①の②【とは、古傳説に、歴史の現實的意味合〔つまり『佛説の天堂は高天の原、地獄は夜見(よみ)の國、龍宮は海神宮(わだつにのみや)に、いといとよく似たる』〕を讀み取る(D1の至大化)事】を捨てて(D1の至小化)以來、「◎:千餘年、⑥の『③の痼疾(ふかきやまひ:D1の至小化)』(一例:陰陽の空理)は治らない」⇒「⑤:天地自然の理(F)」(◎的概念F)⇒E:④に迷つた(F⇒Eの至小化)⑦には、陰陽の理(F)と言はれれば、⑤(F)として(F⇒Eの至小化)、すべての物も事も、この理(⑤天地自然の理)〔老子・宋儒が行つた、理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕(以下參照)
を離れては考へられぬ(F⇒Eの至小化)。病(F⇒Eの至小化)は其處まで來てゐる」(⑤への距離不獲得:Eの至大化)⇒⑥識者達⑦病者(△枠):①②への適應異常。 |
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〔三十二章〕主題: norinaga32.pdf へのリンク 關係論壱:①言語の道②詩(物:場‘ C)⇒からの關係:④の註解[#論語 徴]によれば,[凡そ①は,②これ(①)を盡す(D1の至大化)]といふ考へ⇒③:[孔子の眼]⇒③はさういふ處,つまり自在な表現[興之功:言の世界]が,自在な認識[觀之功:事の世界]と結んでゐる處に(即ち,言霊の合體/轉義)まで届いてゐたと⇒孔子(△枠)④徂徠曰く(△枠)。 關係論弐:①言(#言靈)②#道(即ち #古聖人 の #礼楽 と言ふ治績)(物:場 C‘)⇒からの關係:『①は②を載せて(即ち #転義)』⇒『以て遷る(即ち #合体)』⇒徂徠『学則』二。 關係論參:①#冠辭考②#徂徠(物:場 C‘)⇒からの關係:④の①は,⑤の思想に大きく影響.④の文(①)から浮かび上つて來る(D1の至大化)ものは②の言語觀⇒[③:興之功]⇒④が冠辭(枕詞)の名の下に直面したのは,②の言ふ,詩に於ける③[#詩 の用(働き)が盡くしてゐるのは,言語の用の事]であつた⇒④#眞淵⑤宣長。 關係論肆:①言語(物:場 C‘)②言靈(物:場 C‘)③環境(物:場 C‘)⇒からの關係:「①は②といふ自らの衝動を持ち(D1の至大化)、③に出會ひ(D1)、「④:自發的にこれに處してゐる〔『鋭敏に反應』(轉義:D1の至大化)〕」⇒「⑤:姿」(④的概念F)⇒E:事物に當つて、己(①)を驗し、事物に鍛へられて、己の⑤(F)を形成(合體:Eの至大化)してゐるものだ」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 關係論伍:①道(物:場 C‘)②禮樂(物:場 C‘)③古言(『言靈』物:場 C‘)⇒からの關係:「知り難く言ひ難い①(即ち②といふ聖人の治績)を、「➍:⑦の思惟の努力(無私と心眼:D1の至大化)のうちに、③に徴す(D1の至大化)〔とは、P307:古註には『道(物:場 C‘)は禮樂(物:場 C‘)を謂ふ』に徴す、を意味する〕」⇒「⑤:理」(➍的對立概念F)⇒E:それとは對照に、⑥は、⑤を頼む〔とは、自分流に、⑤に還元(Eの至小化:假説附け・定義附け・原理附け)する〕」(⑤への距離不獲得:Eの至大化)⇒⑥宋儒⑦學者(徂徠△枠):①③への適應正常。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《以下は主題的重要項目》 P306關係論:①言語(物:場 C‘)②物(物:場 C‘)③類(物:場 C‘)⇒からの關係:①は、②の意味〔觀之功(D1の至大化)即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕を傳へる(D1の至大化)「◎:單なる道具ではない。『⑤は、③に觸れて賦し〔轉義D1の至大化(即ち:類例『萬葉集』『古今集』『新古今』)〕』(徂徠:詩經之教)」⇒「④:新しい意味(F)」(◎的對立概念F)⇒E:『從容として以て發す〔合體Eの至大化:例『ますらをぶり・心餘りて・反省・批評・歌の自律的な表現性』〕』。即ち、①は、④を生み出して行く(興之功:即ち、合體Eの至大化)働きである」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤詩人(△枠):①への適應正常。 P310關係論:①道(物:場 C‘)②實(物:場 C‘)③先王(物:場 C‘)④道(物:場 C‘)⑤古言(物:場 C‘)⑥歴史(物:場 C‘)⑦文章(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。そこ〔前項:三つ(理を言ふ事・自然を貴ぶ事・先王の道を廢する事)が一つに歸する學問(宋儒:朱子學)、即ち⑩〕では、①といふ諸觀念の、理詰め〔自分流に、理附け(F:假説附け・定義附け・原理附け)〕な整理が行はれてゐるに過ぎず、而も整理の仕方は、人によつて異なる以上(即ち、自己主人公化)、⑪の見る所(自分の臆見)が、①とされるのも仕方がない。この(『各自の見る所の理詰めな整理』と言ふ)、議論の精を競う學問(宋儒:朱子學)の、空しい①(とは、禮樂といふ聖人の治績を示さない①)を廢するには、知り易く言ひ易い理〔F:自分流に、理附け(假説附け・定義附け・原理附け:Eの至小化)〕から、知り難く言ひ難い〔⑤・禮樂(物:場 C‘)を無私と心眼(D1の至大化)で思ふ〕②への、思ひ切つた囘心(D1の至大化)を行ふ他はないのだ。それならば、③の④(禮樂といふ聖人の治績)といふ知り難く言ひ難い②が、⑫の思惟の努力(無私と心眼:D1の至大化)のうちに、⑤に徴すれば〔とは、P307:古註には『道(物:場 C‘)は禮樂(物:場 C‘)を謂ふ』に徴すを意味する〕、思ひ描く事が出來る(D1の至大化)以上、學問(D1の至大化)は⑥に極まる(D1の至大化)ではないか。思惟(D1)は、理(F:假説・定義・原理)を捨てはしないが、理を頼み〔F:自分流に、理附け(假説附け・定義附け・原理附け)に還元(Eの至小化)〕はしない。理窟(理詰め・假説附け・定義附け:F⇒Eの至小化)にはならないが、「➑:⑦にはなる。⑦は、ただ⑬の表面的な理解(D1の至小化)に應ずるものではない、」⇒「⑨:深切著明」(➑的概念F)⇒E:經驗の深所に達して〔『言(こと:F)の世界:即ち、合體Eの至大化』に達して〕、相手(⑬)を納得させるものだ〔即ち『諸(これ:道)を行事〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』に施す〕。この働きを、⑭は⑨と言つた〔つまり『諸(これ:道)を行事〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕に施して⑨(D1の至大化)なり』と言ふ事〕。⑭には、何も彼も〔つまり『言(こと:F)の世界』は『事(こと)の世界(物:場 C‘)』也と〕わかつてゐた、と⑮はいふのである」(⑨への距離獲得:Eの至大化)⇒⑩老子の徒⑪各自⑫學者⑬讀者⑭孔子⑮徂徠(△枠):①②③④への適應正常。 P311《人の營爲(D1の至大化)は、『物(物:場 C‘)あれば(D1の至大化)名(物:場 C‘)あり(D1の至大化)』といふ、基本的な經驗(D1の至大化)の上に立つ(徂徠『辨道』)》 P311關係論:①老子(物:場 C‘)②人爲(物:場 C‘)③眞實(物:場 C‘)④自然(物:場 C‘)⑤天地の道(物:場 C‘)⑥人の性(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。『性(物:場 C‘)は人々殊(こと)なり(D1の至小化)』、『⑨、その性(物:場 C‘)に近き所に隨ひ(D1の至大化)』營爲(D1の至大化)する(徂徠『辨道』)他はないのだが、この考への重點(D1の至大化)は、凡そ人(⑨と同意)の營爲(D1の至大化)は、ことごとく、「◎『物(例:禮樂・孝悌仁義。物:場 C‘)あれば(D1の至大化)名(例:道。物:場 C‘)あり(D1の至大化)』といふ、基本的な經驗(D1の至大化)の上に立たなければ(D1の至大化)、行はれない、としたところにある」⇒「⑩:人爲の虚僞」(◎的概念F)⇒E:どうしても、①は孔子(△枠)の思想とは相容れない。①が、⑩(F)として、棄てる(Eの至小化)ところ〔とは『道(物:場 C‘)を、物(物:場 C‘)も無く(D1の至小化)、名(物:場 C‘)も無い(D1の至小化)、虚無の理(F)に載せる(理に還元:F⇒Eの至小化)事』〕を、⑦は、人間の③として、取上げる(D1の至大化)からだ。⑧は言ふ。『④にして然る者は、⑤也。營爲運用(D1の至大化)する所ある者は、⑥也』(『辨道』)と。」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦孔子⑧徂徠⑨各々(△枠):③⑥への適應正常。 P312關係論:①無名(物:場 C‘)②名教(物:場 C‘)③道德(物:場 C‘)④儒教(物:場 C‘)⑤『辨名』(物:場 C‘)⑥古言(物:場 C‘)⇒からの關係:⑨の①の教へ(D1の至大化)に對し、⑩の教へが②と呼ばれて以來、これ(②)は、③の名目を説く④の別名となつた。「➐:⑪が⑤を書いたのは、⑥(即ち②)の正解(D1の至大化)を占めさうとしてであつた」⇒「⑧:『教への存する所』」(➐的概念F)⇒E:その序に、⑧として、②といふ言葉を持ち出してゐるが、これは、この言葉(②F)の通念化(Eの至小化)を脱して、改めてその本來の意味合(⑧)を見直せ(Eの至大化)、と言ふ考へからであつた」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑨老子⑩孔子⑪徂徠(△枠):②⑥への適應正常。 P312《道(物:場 C‘)といふ營爲(即ち、禮樂といふ治績)の完成(D1の至大化)=道(物:場 C‘)といふ名(物:場 C‘)を統名(統一名。物:場 C‘)として、確立(D1の至大化)といふ事。「道(物:場 C‘)といふ統名を數へれば、禮樂から孝悌仁義(物:場 C‘)に至るまで、まことに樣々な名(物:場 C‘)が現れる」とは、「禮樂・孝悌仁義」の統名が道と言ふ事。即ち、古聖人の治績「禮樂・孝悌仁義」の集合を、道と命名(統名)したと言ふ事》 P312關係論:①『辨名』(物:場 C‘)②學問(物:場 C‘)③道(物:場 C‘)④名(物:場 C‘)⑤統名(物:場 C‘)⑥禮樂(物:場 C‘)⑦孝悌仁義(物:場 C‘)⇒からの關係:①は⑩の、②上の主張である。例へば、③は、統名と解するのが正解であるといふ時、彼は、かういふ風に考へてゐる。⑪が、久しい間かかつて、心力智力を盡くして(D1の至大化)、③といふ營爲(即ち、禮樂といふ治績)を完成した(D1の至大化)とは、即ち③といふ④を⑤(統一名)として、確立した(D1の至大化)といふ、その事であると。車を數へて、輪とか幅とかいふ新しい名が現れるやうに、「➑:③といふ⑤(統名)を數へれば、⑥から⑦に至るまで、まことに樣々な④(名)が現れる」(D1の至大化)⇒「⑨:人生の意味の構造」(⑧的概念F)⇒E:これを示した①は、そのまま、⑪によつて捕へられ、生きられた(Eの至大化)⑨(F)なのである」(⑨への距離獲得:Eの至大化)⇒⑪古聖人等⑩徂徠(△枠):①③⑤への適應正常。 P314《その昔、(聖人により)人の生きる(人生の)意味が問はれ(D1)、道(物:場 C‘:禮樂・孝悌仁義といふ聖人の治績)といふ名(物:場 C‘)が立てられた(D1の至大化)。『皆聖人(物:場 C‘)の道(物:場 C‘:禮樂・孝悌仁義といふ聖人の治績)有るに因つて(D1の至大化)、借りて以て之(天の道・地の道)を言ふのみ』(『辨名』)。自然(物:場 C‘)に冠せた道(物:場 C‘)といふ名(物:場 C‘)は、假名(F)に過ぎない》 P315《徂徠(△枠)は、『孔子(△枠)の學ぶ(D1の至大化)所を學ばんと欲し(轉義D1の至大化)』た。孔子(△枠)の學んだ(D1の至大化)先王(物:場 C‘)の營爲(物:場 C‘)(即ち、禮樂・孝悌仁義といふ治績)は、物(「禮樂・孝悌仁義」といふ物?)と名(道)とが、しつかり合つたこの種〔物(「禮樂・孝悌仁義」といふ物?)+命名(道と言ふ名を⇒命ずD1の至大化)の種〕から育つた(即ち、轉義D1の至大化)》 P315關係論:①『子路篇』(物:場 C‘)②孔子の言葉(物:場 C‘)③名(物:場 C‘)④言(物:場 C‘)⑤言語(物:場 C‘)⑥大樹(物:場 C‘)⑦先王(物:場 C‘)⑧營爲(物:場 C‘)⑨物(物:場 C‘)⇒からの關係:⑪は①から②をひく、『③正しからざれば(D1の至小化)、則ち④順(したが)はず(D1の至小化)』と。⑤活動(D1の至大化)とは、言はば命③(③を⇒命ずD1の至大化)といふ單純な經驗〔即ち、意識的行爲(物:場 C‘)の端緒(前項參照)〕を種として育つて、繁茂する(D1の至大化)⑥である。⑪は、『⑫の學ぶ(D1の至大化)所を學ばんと欲し(轉義D1の至大化)』た。⑫の學んだ(D1の至大化)⑦の⑧(即ち、禮樂・孝悌仁義といふ治績)は、「◎:⑨(禮樂・孝悌仁義といふ物?)と③(道)とが、しつかり合つたこの種〔⑨(禮樂・孝悌仁義といふ物?)+命③(道と言ふ名を⇒命ずD1の至大化)の種〕から育つた(即ち、轉義D1の至大化)⇒「⑩:思想や感情」(◎的概念F)⇒E:健全な言語(F)活動に貫かれてゐた(即ち、合體Eの至大化)と見た。⑦の⑧を學ぶ(即ち、轉義D1の至大化)とは、⑦自身が、その掛け代へのない⑩を語つてゐるところ(即ち、合體Eの至大化)を學ぶといふ、その事に他ならないといふ考へである〔つまりは、『言靈』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化、が此處にも含意されてゐるのでは?〕〕」(⑩への距離獲得:Eの至大化)⇒⑪徂徠⑫孔子(△枠):①②⑦への適應正常。 P315關係論:①自然の歴史(物:場 C‘)②名(物:場 C‘)③歴史(物:場 C‘)④出來事(物:場 C‘)⑤人生(物:場 C‘)⑥人間(物:場 C‘)⇒からの關係:①とは、假の②に過ぎず(D1の至小化)、③といふ實②がしつくりと合つてゐる(D1の至大化)のは、④の上(人爲上)に限られる(D1の至大化)。③上の④が、「◎:どうしても⑤の行爲(D1の至大化)といふ形を取らざるを得ない(D1の至大化)のも、」⇒「:⑦自己を表現・證明」(◎的概念F)⇒E:行爲(E)によつて、⑦する(Eの至大化)のが、人間(F)たる一番顕著な印し(Eの至大化)だからだ」(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒徂徠(△枠):③への適應正常。 P316關係論(文を倒置):①歴史(物:場 C‘)②禮樂(物:場 C‘)③事實(物:場 C‘)④『知命之言』(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。②を作つたのは⑥であつて、⑦ではなかつた、といふ③を(朱子△枠は)看過する(D1の至小化)。作らない(D1の至小化)當人(⑦)が、作らないと言ふ〔『信じて古(物:場 C‘)を好む(D1の至大化)』〕のが、何故、辭の謙(謙遜の辭)なるものであるか(D1の至小化)。これ〔『信じて古(物:場 C‘)を好む(D1の至大化)』〕は、決して⑦の謙語ではない(D1の至小化)。彼の④〔とは、『(天・古聖人:C‘の)命ずる(C⇒D1の至大化)を知る』、の言〕である、と⑧は言ふ。自ら②は作らず(D1の至小化)、既に作られた②を祖述(D1の至大化)するといふ仕事をするのも、①のめぐり合せ(即ち、轉義D1の至大化)であるとして、「◎:これ(作られた②)に隨順(D1の至大化)した人(⑦)の言であるとした」⇒「⑤:理智」(◎的對立概念F)⇒E:一體、⑤(自分流の原理・定義附け:F)の不動を重んずる(Eの至大化)者(宋儒)は、①の推移(即ち、轉義D1の至大化)を輕んずる(D1の至小化)ものである」(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥古聖人達⑦孔子⑧徂徠(△枠):①②④への適應正常。 |
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〔以下は、三十二章各項:纏め〕 |
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P302《「孔子⇒徂徠⇒宣長」と敷衍する言語觀》 P302關係論:①宣長學(物:場 C‘)②徂徠學(物:場 C‘)⇒からの關係:①が②の影響下にあつた(D1の至大化)事については、「➌:村岡典嗣氏の『本居宣長』で、早くも説かれたところで、以來、宣長研究者の間の定説となつた」(D1の至小化)⇒「④:(徂徠の)主要な著作」(➌的對立概念F)⇒E:④も⑤の京都遊學中に、殆ど讀まれてゐた(Eの至大化)事が確實になつた」(④への距離獲得:Eの至代化)⇒⑤宣長(△枠):②への適應正常。 P302關係論:①『答問書』三巻(物:場 C‘)⇒からの關係:①(『辨道』『辨名』の内容をとつた平易和文)は、『學問(D1)は歴史(C’)に極まり候(D1の至大化)事に候』といふ文句で始まり、『惣而學問の道(D1の至大化)は文章(物:場 C‘)の外之無く候』といふ文句で終る體裁を成してゐる。」(D1の至大化)⇒「②『古文辭學』(的概念F)⇒E:即ち、②と呼ばれた學問の體裁(Eの至大化)なのである」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒徂徠(△枠):①への適應正常。 P302關係論:①徂徠の著作(物:場 C‘)②詩(物:場 C‘)③孔子(物:場 C‘)④徂徠學(物:場 C‘)⇒からの關係:①の中で、②について語らうとして、「❺:(徂徠が)、③の意見を援用してゐる(D1の至大化)箇所は、⑦所蔵の稿本にも、重複を厭はず、すべて印寫されてゐる」(D1の至大化)⇒「⑥:徂徠學の急所」(❺的概念F)⇒E:⑦が、そこ〔②(F)についての③の意見(Eの至大化)〕に、④の⑥がある(Eの至大化)と認め、これを是とし、これに動かされた(Eの至大化)と推定して、先づ間違ひはない」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):②③への適應正常。
P302關係論:①『論語(季氏:孔子&弟子達の言行思想編纂集)』(物:場 C‘)⇒からの關係:『①(「言行思想編纂集」で孔子が言ふ)に、詩(F)を學〔即ち、言(こと:F)の世界〕ばず(Eの至小化)んば、以て言〔もの(物:場 C‘)いふこと(D1の至大化)〕無し〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕と之有り➋:詩三百(F)を學びて(Eの至大化)〔即ち、言(こと:F)の世界〕、四方(物:場 C‘)に使ひ(D1の至大化)して〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕、専ら對(對立:D1の至小化)すること能はず(季氏:子路との答問項)〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』の盤石〕と之有り候。(後略)』、と徂徠は自著『答問書』で記してゐる」(D1の至大化)⇒「③:言語」(➋的概念F)⇒E:又、『論語:子路』の文章でも、やはり、詩(F)は③の教へ〔言(こと)の世界〕(Eの至大化)であるといふ考へを述べたもの。即ち、ただ澤山の詩(F)を諳んずる(Eの至小化)のが、『詩』(F)を學ぶ事(Eの至大化)ではない(Eの至小化)。本當に『詩〔言(こと:F)の世界〕』を學んだ(Eの至大化)人なら、④(△枠)となり、他國(場 C‘)に使し、誰(物:場 C‘)と會つて、どんな應對(D1の至大化)を〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』を〕しなければならぬ(即ち、轉義D1の至大化)事になつても、適切で、完全な③表現〔言(こと)の世界(即ち合體:F⇒Eの至大化)〕が發明できる筈だ(即ち、合體Eの至大化=轉義D1の至大化)、と⑤(孔子)は言ひたいのである。『詩』(F)が教へる(Eの至大化)のは、凡そ③表現(F⇒Eの至大化)の基本〔つまり『心(物:場 C‘)のあるやう(D1の至大化)を、ただに、うち出たる趣(Eの至大化)なる物』の事(『古今集遠鏡』項P219):以下參照〕であつて、詩術といふ特別なものではない。『詩』(F)の内容(E)は、民衆の述懐〔P233『源氏』項『誰にも親しい日常言語』(F『やまと魂:『心かしこし』の意』:俗言今言と同)〕を出ないのであるが、その(民衆の述懐の)自在な表現〔以下參照「『語(F)』の『いひざま、いきほひ』(Eの至大化)による〕表現〕には驚くべきものが見られる。これについて、徂徠著の『論語徴(註釋書)』(庚)には、面白い言ひ方が見られる。『凡そ天下(物:場 C‘)の事〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕言はざる莫(な)き(D1の至大化)は、唯詩〔言(こと:F)の世界〕のみ。凡そ天下(物:場 C‘)の理(D1)、知らざる莫(な)き(D1の至大化)は、亦、唯詩〔言(こと:F)の世界〕のみ。是れ、豈に、理學者(朱子學)流の能く知る所ならんや(徂徠著『論語徴(註釋書)』)』(とは即ち、合體Eの至大化=轉義D1の至大化、の事)。⑤(孔子)の眼はさういふ處(即ち、合體Eの至大化=轉義D1の至大化、の事)にまで、つまり、自在な表現〔『言(こと:F)の世界』:以下參照「『語(F)』の『いひざま、いきほひ』(Eの至大化)による〕表現〕が、自在な認識〔〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』の認識(D1の至大化)〕〕と結んでゐる(とは即ち、合體Eの至大化=轉義D1の至大化、の事)ところにまで届いてゐた、と徂徠は解した」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④政治家⑤孔子(△枠):①への適應正常。 ~~~~~以下參照~~~~~~~ P219(Ⅰ)關係論:①すべて人・よみ人(物:場 C‘)②心(物:場 C‘)⇒からの關係:①の②を、「③:おしはかりえて(D1の至大化)」⇒「④:詞・語」(③的概念F)⇒E:④のいひざま(E:型)、いきほひ(E:型)にしたがひて(「Eの至大化」or「Eの至小化」)、深くも(Eの至大化)、淺くも(Eの至小化)、をかしくも(Eの至大化)、うれたくも(Eの至小化)聞ゆるわざ(E:型)にて、歌(かたち:E)は、ことに、②のあるやう(D1の至大化)を、ただに、うち出たる趣(Eの至大化)なる物也(即ち、D1の至大化=Eの至大化)。故に、その(③の)いきほひ(E:型)を譯(うつ)すべき(Eの至大化)也」(即ち、Eの至大化=D1の至大化、といふ事)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長『古今集遠鏡』(△枠):①への適應正常。 ① P219:宣長の言語觀『云々(しかじか)の言(『萬葉集』の言)は、云々(しかじか:歌人古人)の意に用ひたり(即ち、轉義D1の至大化)といふことを、よく明らめ知る(即ち、合體Eの至大化)を、要とすべし』・・・とは、P220『語(F)』といふ『わざ』を行ふ(F⇒合體Eの至大化)、『語(F)』の『いひざま、いきほひ』(F⇒合體Eの至大化)による、と宣長は言ふ。 P220「互ひ(語り手と聞き手と)に『語(F)』といふ『わざ』を行ふ(Eの至大化)私達(語り手と聞き手)の談話が生きてゐる(D1の至大化)のは、『語(F)』の『いひざま、いきほひ』(Eの至大化)による(即ち、Eの至大化=D1の至大化)、と⑨は言ふ。その全く個人的(語り手と聞き手)な『語(F)』感(Eの至大化)を互ひ(語り手と聞き手)に交換し合ひ(即ち、Eの至大化=D1の至大化)、即座に飜譯(Eの至大化)し合ふといふ離れ業(Eの至大化)を、われ知らず樂しんでゐる(即ち、Eの至大化=D1の至大化)のが、私達(語り手と聞き手)の尋常な談話(D1の至大化)であらう。 P229關係論:①『よろづの事』(物:場 C‘)②心(物:場 C‘)③事の心(物:場 C‘)④物の心(物:場 C‘)⑤其のしな〔喜怒哀楽の情(こころ。物:場 C‘)〕⇒からの關係:⑨は經驗(D1の至大化)といふ言葉は使はなかつた。『①を、②にあぢはへて(經驗:D1の至大化)、その①の②を、わが心にわきまへしる(經驗:D1の至大化)。是③をしる(D1の至大化)也、④をしる(D1の至大化)也。』(中略)「❻:『わきまへしりて(D1の至大化)〔即ち、P219『すべて人・よみ人(物:場 C‘)の心(意:D1)を、おしはかりえて(D1の至大化)』〕、⑤にしたがひて(D1の至大化)』」⇒「⑦:物のあはれ」(❻的概念F)⇒E:感ずる所が⑦【換言すると『云々(しかじか)の言(F)は、云々〔しかじか:古人(物:場 C‘)〕の意(D1の至大化)に用ひたり(Eの至大化)といふことを、よく明らめ知る(即ち、Eの至大化=D1の至大化)』と言ふ事】。⑧は、このあるがままの世界〔即ち、⑤〔喜怒哀楽の情(こころ。物:場 C‘)にしたがひて(D1の至大化)、感ずる所〔物のあはれ(F)を感ずる(Eの至大化)。即ち(D1の至大化=Eの至大化)〕を深く信じた」(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧宣長(△枠):①③⑦(事の世界)への適應正常。 P268:「國語に、この獨特の基本構造〔即ち助辭(てにをは)『いともあやしき言靈のさだまり(格)』〕があればこそ、國語(『言靈』?)はこれ〔即ち助辭(てにをは)『いともあやしき言靈のさだまり(格)』〕に乘じて(即ち、轉義D1の至大化)、われわれの間を結び(即ち『言靈』の、轉義D1の至大化)、『いきほひ』(Eの至大化)を得、『はたらき』(Eの至大化)を得て生きる(即ち、合體Eの至大化)のである(即ち『言靈』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)」。 ~~~~~以上參照~~~~~~~~~~~ P303關係論:①『詩』(物:場 C‘)②『書』(物:場 C‘)⇒からの關係:⑤が、①を言ふ時には、必ず『詩書』の對立が意識されてゐる。②は聖賢(物:場 C‘)の格言(つまり:道)を盛つた、典則的な文章だが、「➌:①の方は、人々の日常生活(F)から生れた(Eの至大化)、微婉〔びえん:微妙で美しい(Eの至大化)〕を旨とする歌(F)である。⑥の言ひ方では、前者(②)を『正言』と呼ぶなら、後者(①)は『微言』を出ないのだから、學ぶ(D1の至大化)と言へば、普通、誰も②を學ぶ(D1の至大化)と言ふ」(D1の至大化)⇒「④:奥深く隱し持つてゐる」(➌的對立概念F)⇒E:しかし①は、學ばるべき(D1の至大化)理由を、實は④(即ち、Eの至大化=D1の至大化?)のだ、といふのが孔子の考へなのである」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤孔子⑥徂徠(△枠):①への適應正常。 P302關係論:①徂徠著『論語徴(論語註釋書)』(物:場 C‘)⇒からの關係:④が書寫した①の全文は、『詩(物:場 C‘)之用(はたらき:D1の至大化)』は、『興之功』(Eの至大化)『觀之功』(D1の至大化)の二者に盡きるといふ意見が、説かれてゐるのだが、基本となつてゐるのは、⑤の『詩〔(F):人々の日常生活(F)から生れた(Eの至大化)、微婉〔びえん:微妙で美しい(Eの至大化)〕を旨とする歌(F)〕を學〔即ち、言(こと:F)の世界〕ばずんば(Eの至小化)、以て言〔もの(物:場 C‘)いふこと(D1の至大化)〕無し』〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』無し?〕といふ考へ、「➋:徂徠の註解(『論語徴』)によれば、『凡そ言語(物:場 C‘)の道(D1の至大化:以下參照)は、詩(F)これを盡す(Eの至大化)』といふ考へ(以下參照)であるとするのだから、」(D1の至大化)⇒「③:興觀之功」(➋的概念F)⇒E:詩(F)の用(働き:Eの至大化)が盡くしてゐる(Eの至大化)のは、言語(F)の用(働き:Eの至大化)なのである。従つて、ここに説かれてゐる③とは、言語(物:場 C‘)の働き(D1の至大化)を成立させてゐる、基本的な二つの要素、即ち物(物:場 C‘)の意味〔觀之功(D1の至大化):即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕と形(E)に關する語(F)の用法(興之功:Eの至大化)〔即ち言(こと:F)の世界〕を言ふ事になる」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④宣長⑤孔子(△枠):①への適應正常。 ~~~~~以下參照~~~~~~~ P99?關係論:①言(物:場 C‘)②道〔變らぬもの(物:場 C‘)〕③古今〔即ち、歴史(遷り變るもの:物:場 C‘)〕⇒からの關係:世(歴史)は①を「④:載せて以て(D1の至大化)遷(うつ)る』のである。②は何を載せても遷(うつ)らぬ」(D1の至大化)⇒「⑤:歴史(遷り變るもの)」(④的概念F)⇒E:⑤を「②は貫透する。⑤から浮き上がるのではない」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒徂徠曰く(△枠):①②への適應正常。 ~~~~~以上參照~~~~~~~~~~~ (參考文:「禮樂・孝悌仁義」(物:場 C‘)と言ふ物(物:場 C‘)を、道(物:場 C‘)と名づける) P305關係論(倒置法):①言語(物:場 C‘)②形象(物:場 C‘)③物(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。『觀之功(D1の至大化)』〔〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕の方も同樣で、⑥(△枠)に、②を喚起する(とは、名附けは「②:物」を喚起する:D1の至大化)①の根源的な機能(D1の至大化)と受取られてゐる。
③の意味(物:場 C‘)が、語る(F⇒Eの至大化)につれて發展〔合體:即ち、言(こと:F)の世界?〕すれば、これ〔發展(合體)〕と表裏をなして、「➍:③の形(形象。物:場 C‘)は、『黙して之〔發展(合體Eの至大化)〕に存し、情態〔③の情態(物:場 C‘)〕目に在り(とは、名附けは物を喚起する:D1の至大化)』(即ち、Eの至大化=D1の至大化)、『觀〔即ち『事(こと)の世界』〕とは是(即ち、Eの至大化=D1の至大化)なり』とある」(D1の至大化)⇒「⑤:言語の意味(F)」(➍的概念F)⇒E:⑦が、興〔即ち、言(こと:F)の世界?〕の古註を是とする時に、考へてゐるのは、言はば、①の本能としての、比喩の働き〔F⇒Eの至大化:合體?〕であつて、意識的に使用される、普通の意味での比喩ではない。⑤は、『其の自ら取るに從ひ、展轉(即ち、合體Eの至大化?)して已まず』と、彼は言つてゐるが、「➋:さういふ⑤の發展(合體?)の動力として、本來、①(『言靈』と同?)に備つてゐる比喩の働き〔F⇒Eの至大化:合體〕が考へられてゐる」」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥人の心中⑦徂徠(△枠):①への適應正常。 P305關係論:①詩經之教(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。『①にて、人性(F)に通達申さず(Eの至小化)候へば、物(物:場 C‘)申す(D1)事は成り申さず(D1の至小化)物に候』とあつたが、今度の場合では、詩に於ける『興之功』〔即ち、言(こと:F)の世界〕により、人性(F)の意味合が、自在に展開(前項參照:合體?)して、刻々に新たになる(合體:人性F⇒Eの至大化)なら、これを裏附けてゐる『觀之功』〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕は、――『(前後略:P305參照)盛代(物:場 C‘)に在つては以て衰世(D1の至小化)を識る(轉義??)可く、君子(物:場 C‘)に在つては、以て小人(D1の至小化)を識る(轉義??)可く、平常(物:場 C‘)に在つては、以て變亂(D1の至小化)を識る(即ち、轉義D1の至大化)可く、「➋:天下(後述「言語傳統」。物:場 C‘)の事、皆(物:場 C‘)我(△枠)に集(?)まる(轉義:D1の至大化)者』、――と一層強い言ひ方で説かれてゐる」(D1の至大化)⇒「③:『天下(後述「言語傳統」。物:場 C‘)に施す(D1の至大化)』(➋的概念F)⇒E:この『皆(物:場 C‘)我(△枠)に集まる(轉義:D1の至大化)』といふ言葉に注意したい。と言ふのは、『興之功』〔即ち、言(こと:F)の世界〕の方も、やはり、『(人性Fを)取つて(Eの至大化)④(△枠)自(よ)りする(合體F⇒Eの至大化)者は、天下(後述「言語傳統」。物:場 C‘)に施す(觀之功:即ち、轉義D1の至大化)可し』(即ち、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)と同じ言ひ方で終つてゐるからだ」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④我れ(△枠):①への適應正常。
P305關係論(倒置法):①物(物:場 C‘)②興觀之功(物:場 C‘)⇒からの關係:①の名も①に附した單なる記號(D1の至小化)ではない。「➌:①の姿(形象。物:場 C‘)を、心に映し出す〔關係(恆存):(即ち、轉義D1の至大化??)力である」(D1の至大化)⇒「④意味」(➌的對立概念F)⇒E:言語(F)は①の④〔觀之功(D1の至大化):即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕(を傳へる單なる道具(Eの至小化)ではない(以下參照)。
新しい意味(F)を生み出して行く(興之功:即ち、合體Eの至大化)働きである。さういふ言語觀(即ち、觀之功:D1の至大化=興之功:Eの至大化)に基いて、⑤が、②といふ言葉を使用してゐるのは明らかであり、さういふ働き(即ち、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)としての言語(『言靈』。物:場 C‘)を、理解する(D1の至大化)には、働き(即ち、合體Eの至大化)のうちに、入込んでみる他はあるまい。さういふ事(即ち、合體Eの至大化)にかけては、言語(『言靈』。物:場 C‘)を信じ(D1の至大化)、言語を樂しみ(D1の至大化)、ただその働き(Eの至大化)と一體〔即ち『助辭(てにをは)F』『いともあやしき言靈のさだまり(F格)』と一體(F⇒合體Eの至大化)〕となる事に、自足してゐる、歌うたふ者(△枠)、或は、これに耳を傾ける者(△枠)に、如くものはなからう」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤徂徠(△枠):①②への適應正常。 P306《さういふ〔『天下(物:場 C‘)の事、皆(物:場 C‘)我(△枠)に集(?)まる(轉義??:D1の至大化)』といふ〕言ひ方は、言語生活の生命(F)〔とはつまりP302『人々の日常生活(F)から生れた(Eの至大化)、微婉(微妙で美しい:Eの至大化)の事〕が捕へられてゐる(即ち、合體Eの至大化)といふ、その捕へ方〔即ち『形(E)に關する語(F)の用法(興之功:Eの至大化):即ち言(こと:F)の世界〕に他ならない》 P306關係論:①類(物:場 C‘)⇒からの關係:『④(△枠)は、①に觸れて賦し〔轉義D1の至大化(即ち:類例『萬葉集』『古今集』『新古今』)〕』、「➋:『從容として以て發す〔合體Eの至大化:例『ますらをぶり・心餘りて・反省・批評・歌の自律的な表現性』〕』と、⑤は言ふ。其處〔『①に觸れて賦し(轉義D1の至大化)、從容として以て發す(合體Eの至大化)』〕に、一旦、意味附けの端緒(所謂『詩は徂徠學の急所』P302なるもの)を摑めば、彼(⑤)はもうこの緒〔從容として以て發す(合體Eの至大化)〕を手離しはしないだらう。ただの記號に成り下がつた、ばらばらな單語も、その繭〔①に觸れて賦し(轉義D1の至大化)、從容として以て發す(合體Eの至大化)〕から紬き出す緒(Eの至大化)で、連結(合體)されれば新たな意味の脈絡を生み、實物(F)の味ひ(即ち、合體Eの至大化)を取り戻す。かういふ事(即ち『言靈』(物:場 C‘)の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)を行ふ④のうちに入込んだ⑤の發言が、『天下(物:場 C‘)の事、皆(物:場 C‘)我(△枠)に集(?)まる(轉義??:D1の至大化)』といふ風な言ひ方〔『言靈』『天下』の同じプロセス(物:場 C‘)的表現〕になるのは、全く自然な事だと言つてよからう』」⇒「③:言語生活の生命(F)」(➋的概念F)⇒E:さういふ〔『天下(物:場 C‘)の事、皆(物:場 C‘)我(△枠)に集(?)まる(轉義??:D1の至大化)』といふ〕言ひ方は、外からは、決して摑む事の出來ない③〔とはつまりP302『人々の日常生活(F)から生れた(Eの至大化)、微婉(微妙で美しい:Eの至大化)の事〕が捕へられてゐる(即ち、合體Eの至大化)といふ、その捕へ方〔即ち『形(E)に關する語(F)の用法(興之功:Eの至大化):即ち言(こと:F)の世界〕に他ならないからである」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④詩人⑤徂徠(△枠):①への適應正常。 P306《この共通の基盤〔とは、言語(言靈)の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化〕に、保證されてゐるといふ安心(Eの至大化)がなくて、自分流(F)に物を言つて〔(Eの至小化):向後、P312~3項目『理(定義附け・原理附け)』への展開内容〕、新しい意味(合體)〔とは、P305『言語(F)は新しい意味(F)を生み出して行く(興之功:即ち、合體Eの至大化)』といふ内容〕を打ち出す自由など、誰にも持てる筈はない》 P306關係論:(補Ⅰ)言語生活(物:場 C‘)①自國(物:場 C‘)②言語傳統(言靈。物:場 C‘)③國語(物:場 C‘)⇒からの關係:正常な意味合で、(補Ⅰ)といふものは、何ヶ國語に通じてゐようが、語學の才などとはまるで違つた營みである。①の②といふ厖大(D1の至大化)な、而も曖昧極まる(D1の至小化)力を、そつくりそのまま身に引受け(D1の至大化)ながら、これ(①の②を身に引受け)を重荷と感ずる(D1の至小化)どころか、これ(同前)に殆ど氣附いてゐない。「➍:それほど③といふ共有の財〔即ち『言靈』(物:場 C‘)〕が深く信頼(D1の至大化)されてゐる。さういふ事である〔即ち、(補Ⅰ)とは『③といふ共有の財が深く信頼』されてゐる事である〕。⑥が『天下(物:場 C‘)』といふ名で呼んだのは、この世界〔『③といふ共有の財が深く信頼』の世界:即ち『言靈』(物:場 C‘)の世界?〕だ(前項參照)。⑦が皆合意(D1の至大化)の下(『そつくりそのまま身に引受け』と同意)に、協力して蓄積(D1の至大化)して來た、この(共有の財として深く信頼の)言語(『言靈』。物:場 C‘)によつて組織された〔組織(『萬葉集』『古今集』『新古今』等)へ、轉義D1の至大化されての〕、」⇒「⑤:自分流(F)」(➍的對立概念F)⇒E:意味(F)の世界(即ち、合體Eの至大化)の事である、この共通の基盤〔とは、言語(言靈)の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化〕に、保證されてゐるといふ安心(Eの至大化)がなくて、⑤に物を言つて〔(Eの至小化):向後、P312~3項目『理(定義附け・原理附け)』への展開内容〕、新しい意味(合體)〔とは、P305『言語(F)は新しい意味(F)を生み出して行く(興之功:即ち、合體Eの至大化)』といふ内容〕を打ち出す自由など、誰にも持てる筈はない。⑥の考へは、其處〔とは、⑤で新しい意味(合體)を打ち出す自由など、誰にも持てる筈はない〕まで徹底してゐたと見てよい。でなければ、『詩(F)は言語(言靈。物:場 C‘)の道(D1の至大化)を盡す〔とは、言語(言靈。物:場 C‘)の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化、の意〕』といふ、彼の言葉が解らなくなる」(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥徂徠⑦人々(△枠):補Ⅰ②③への適應正常。 ~~~~~以下參照~~~~~~~ P305關係論(倒置法):①言語(物:場 C‘)②形象(物:場 C‘)③物(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。『觀之功(D1の至大化)』〔〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』?〕の方も同樣で、⑥に、②を喚起(D1の至大化)する①(『言靈』と同?)の根源的な機能(D1の至大化)と受取られてゐる。③の意味(F)が、語る(F⇒Eの至大化??)につれて發展〔合體:即ち、言(こと:F)の世界?〕すれば、これ〔發展(合體)〕と表裏をなして、「➍:③の形(形象。物:場 C‘)は、『黙して之〔發展(合體Eの至大化)〕に存し、情態〔③の情態(物:場 C‘)〕目に在り(D1の至大化)』(即ち、Eの至大化=D1の至大化)、『觀〔即ち『事(こと)の世界』〕とは是(即ち、Eの至大化=D1の至大化)なり』とある」(D1の至大化)⇒ ~~~~~以上參照~~~~~~~~~~~ P306《徂徠の言ひ方(『興觀之功』)では『言語(物:場 C‘)の道(D1の至大化)に於いて、人々(△枠)は、深く契るところ(即ち、轉義D1の至大化=合體Eの至大化、の事)がある。従つて、此處〔言語(物:場 C‘)の道(轉義D1の至大化)〕では、誰もが、知らずして詩人であり、人々(△枠)の間に、言語表現(F)の切磋〔例:古今『自覺・反省・批評』:即ち、F⇒合體Eの至大化〕がおのづから行はれる》 P306關係論(倒置法):①言語(物:場 C‘)⇒からの關係:⑤の言ひ方で言へば、①の道(D1の至大化)に於いて、⑧は、「➋:深く契るところ(即ち、轉義D1の至大化=合體Eの至大化、の事)がある」⇒「③言語表現④言語生活:F」(➋的概念F)⇒E:従つて、此處〔①の道(轉義D1の至大化)〕では、⑥が、知らずして⑦⑦詩人であり、⑧⑧人々(△枠)の間に、③の切磋〔例:古今『自覺・反省・批評』:即ち、F⇒合體Eの至大化〕がおのづから行はれる。そこで、文明(F)批評(Eの至大化:觀之功?)といふものも、『詩經』にあるやうな政治(F)批評(Eの至大化)の形式、怨〔F⇒Eの至大化(批評:興之功?)〕と呼んでいい姿、『言ふ(F)者(△枠)は罪無く(Eの至大化)、聞く(F)者は怒らず(Eの至大化)』(興之功?)といふ柔軟婉曲(③の切磋:即ち、合體Eの至大化))なものになる。健全な④(F:以下參照)を營む(Eの至大化)ものは、⑥、語る事(Eの至大化)が即ち語り合ふ事〔『柔軟婉曲』(③の切磋:即ち、合體Eの至大化):つまり宣長言語觀『語(F)感(Eの至大化)を互ひ(語り手と聞き手)に交換し合ひ(即ち、Eの至大化=D1の至大化)、即座に飜譯(Eの至大化)し合ひ、われ知らず樂しむ』事:以下參照〕である事を承知してゐる」(③④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤徂徠⑥誰も⑦詩人⑧人々(△枠):①への適應正常。 ~~~~~以下參照~~~~~~~ 全く個人的(語り手と聞き手)な『語(F)』感(Eの至大化)を互ひ(語り手と聞き手)に交換し合ひ(即ち、Eの至大化=D1の至大化)、即座に飜譯(Eの至大化)し合ふといふ離れ業(Eの至大化)を、われ知らず樂しんでゐる(即ち、Eの至大化=D1の至大化)のが、私達(語り手と聞き手)の尋常な談話(D1の至大化) ~~~~~以上參照~~~~~~~~~~~ |
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P307《徂徠:詩(F)に於ける『興之功』⇒眞淵『冠辭考』⇒宣長「言語觀(『言靈』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)》 P307關係論:①『冠辭考』(物:場 C‘)②徂徠(物:場 C‘)⇒からの關係:⑤の①は、⑥の思想に大きく影響(D1の至大化)したものであつた。「➌:⑤の文(①)から浮かび上つて來る(D1の至大化)ものは、やはり②の言語觀である」⇒「④:『興之功』」(➌的概念F)⇒E:⑤が冠辭(枕詞)の名の下に直面したのは、②の言ふ、詩(F)に於ける④(F⇒Eの至大化)〔とは、P302『詩(F)の用(働き:Eの至大化)が盡くしてゐる(Eの至大化)のは、言語(F)の用(働き:Eの至大化)』の事〕に他ならなかつた」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤眞淵⑥宣長(△枠):①への適應正常。 P307《古註には『道(物:場 C‘)は禮樂(物:場 C‘)を謂ふ』とある通り、はつきりと古聖人(△枠)の遺した(D1の至大化)、具體的な治績(物:場 C‘)を指した〔即ち、道=治績(禮樂。物:場 C‘)←遺した(D1の至大化)←古聖人(△枠)〕言葉。それに反し、宋儒は道(物:場 C‘)を訓じて、理(定義附け・原理附け)となす(Eの至小化)が、明らかに、今言(次頁『自分の臆見』)を以て、古言(C’)を見る姿である》 P307關係論:①禮樂(物:場 C‘)②治績(物:場 C‘)⇒からの關係:道(物:場 C‘)といふ古言は、古註には『道(物:場 C‘)は①(物:場 C‘)を謂ふ』とある通り、はつきりと⑤の遺した(D1の至大化)、具體的な②を指した〔即ち、道=②治績(①禮樂。物:場 C‘)←遺した(D1の至大化)←古聖人(△枠)〕言葉であつて、「➌:これ(①=②)を離れて(D1の至小化)、別に道(D1の至大化)といふやうなものはなかつた(D1の至小化)のである」⇒「④:理(定義附け・原理附け)」(➌的對立概念F)⇒E:⑥は道(物:場 C‘)を訓じて、④となす(Eの至小化)が、明らかに、今言(次頁『自分の臆見』)を以て、古言(C’)を見る姿である。彼等(⑥)はそれに氣附いてゐない。といふのは、世(世の中)は言を載せて遷る歴史(C’)の流れ(D1)に、ただ流されるまま(即ち、AAなる平面に横這ひ:D1の至小化)になつてゐるので、歴史(C’)の流れ(D1)を、さういふもの〔世(世の中)は言(言靈)を載せて遷る(轉義)〕として受止める(即ち『言靈の轉義D1の至大化』と受止める:以下參照)、『不昧なる(くらくない)心』(B⇒C:實在觀)が、彼等には缺けてゐる、と徂徠(△枠)は見る(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宋儒(朱子學)⑤古聖人:①への適應正常。 ~~~~~以下參照~~~~~~~ P99?關係論:①言(物:場 C‘)②道〔變らぬもの(物:場 C‘)〕③古今〔即ち、歴史(遷り變るもの:物:場 C‘)〕⇒からの關係:世(世の中)は①を「④:載せて以て(D1の至大化)遷(うつ)る』のである。②は何を載せても遷(うつ)らぬ」(D1の至大化)⇒「⑤:歴史(遷り變るもの)」(④的概念F)⇒E:⑤を「②は貫透する。⑤から浮き上がるのではない」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒徂徠曰く(△枠):①②への適應正常。 *『世(世の中)は言(言靈)を載せて以て遷り(即ち、轉義D1の至大化)、言(言靈)は道(古聖人の禮樂と言ふ治績)を載せて以て遷る(即ち、轉義D1の至大化)(道は何を載せても遷らぬ)』(徂徠『學則』二) ~~~~~以上參照~~~~~~~~~~ P308關係論:①言葉(言靈。物:場 C‘)②歴史(物:場 C‘)③言語(物:場 C‘)④古文辭學(物:場 C‘)⑤『辨道』(物:場 C‘)⇒からの關係:①の變遷といふ小さな事實を、見詰めてゐるうちに、そこから②と③とは不離のもの〔即ち『世(世の中)は言(言靈)を載せて遷る(轉義D1の至大化)』〕であるといふ、大きな問題が生じ、これが育つて、遂に④といふ形で、はつきりした應答(D1の至大化)を迫られ、⑧は、五十を過ぎて、「❻:病中、意を決して、⑤(前項の以上參照)を書いた」⇒「⑦:説き切れぬ思ひ」(❻的概念F)⇒E:書いてみると、この問題〔②と③とは不離、即ち『世(世の中)は言(言靈)を載せて遷る(轉義D1の至大化)』〕に關して、彼は、言はば、説いても説いても⑦をしたのであるが、その姿(⑦)が、其處(⑤)によく現れてゐる」(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧徂徠(△枠):①②③への適應正常。 P308關係論:①『辨道』(物:場 C‘)②道(物:場 C‘)⇒からの關係:①にて⑤曰く『②(即ち:禮樂といふ治績)は知り難し(D1の至小化)。亦言ひ難し(D1の至小化)。其の〔②(即ち:禮樂といふ治績)の〕大なる(D1の至大化)が爲の故なり。「➌:⑥は、各々見る所(自分の臆見:私見)を②とす。皆一端(只の端緒)なり』と」⇒「④:古人(古聖人)の行爲(F)」(➌的對立概念F)⇒E:「つまり、⑦のやうに、自分の臆見(私見・我意假説・只の端緒)で、古人の道(禮樂といふ治績)を明らかにする(Eの至小化:即ち、我意我見主張する)のは、容易であらうが、道と呼ばれた④(即ち、禮樂といふ治績)をそつくりそのまま受取らう(無私:心眼で:Eの至大化)とすれば、さうはいかない(Eの至小化)と言ふ事(宣長文『意は似せ易く姿は似せ難し』と同意か?)。」(④への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑤徂徠⑥後世の儒者⑦宋儒(朱子學)(△枠):②への適應異常。 P308《『學問の道(物:場 C‘)は、思ふこと(D1の至大化)を貴ぶ』、の對照としての『理(定義附け・原理附け)未だ精しからざる(D1の至小化)や、是(精しからざる)を以て理(定義附け・原理附け)に滯る(D1の至小化)』》 P308關係論:①『辨道』(物:場 C‘)②古今(場 C‘)③六經(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。①は、次のやうに終る。『(前略)。②遙かなり。③殘缺す(缺けて不完全)。要は理(定義附け・原理附け)を以て之を推さざるを得ず。理(定義附け・原理附け)を以て之を推す者は、⑥これがこうし(筆頭)なり。祇(ただ)その理(定義附け・原理附け)未だ精しからざる(D1の至小化)や、是(精しからざる)を以て理(定義附け・原理附け)に滯る(D1の至小化)。』「➍:(滯らずに)『之(理)を精しくし又これを精しく(D1の至大化)せば、豈⑥及び⑦の過ち(D1の至小化)有らんや』『且つ學問の道(物:場 C‘)は、思ふこと(D1の至大化)を貴ぶ(『學んで思はざれば險ふし』の意)。思ふ(D1の至大化)時に方(あた)りては、老佛の言(物:場 C‘)と雖も、皆⑧(⑨)(△枠)が助けと爲す(D1の至大化)に足る。何ぞ況や⑥及び⑦の説をや(⑥⑦も助けとなる)』と。だが、⑨は、ここで、妥協(D1の至小化)、寛大な態度(D1の至小化)をとつた譯ではない。そのまま⑨の思惟の姿(D1の至大化)を現してゐる。彼は、問題(學問の道)は、考へれば考へる(D1の至大化)ほど難解(D1の至小化)なものだ、と非常に正直(D1の至大化)に言つてゐるのだ。」⇒「⑤:苦し氣」(➍的概念F)⇒E:「ここでは、理といふ言葉(F)の、⑤な使ひ方(Eの至小化)〔即ち『②遙かなり。③殘缺す(缺けて不完全)。要は理(定義附け・原理附け)を以て之を推さざるを得ず』〕が現れてゐる」(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥宋儒⑦諸家⑧吾⑨徂徠(△枠):①への適應正常。 《以下項の簡略説明P308關係論:①學問の道(物:場 C‘)②歴史(物:場 C‘)⇒からの關係:『①は、思ふこと〔切實な『思』或は『思惟』(D1の至大化:對象への無私的行爲)〕を貴ぶ』である。⇒「③:一定の定義(定義附け・原理附け:F)」⇒E:即ち、④の行爲の樣な、①や②が③に還元される(Eの至小化)〔例:①②が『事物當行之理』『天地自然之道』と言ふ定義附け・原理附けに還元される(Eの至小化)〕ものではない」(②への距離不獲得:Eの至小化)⇒④宋儒(△枠):①への適應異常》 《徂徠の考への中心は、『學問の道(物:場 C‘)は、思ふこと(D1の至大化)を貴ぶ』(『學んで思はざれば危ふし』の含意か?)といふその事にあつて、(それが)理〔定義附け・原理附け、つまり『宋儒の、自分の臆見(F: 定義附け・原理附け)で、古人の道(即ち、禮樂といふ聖人の治績)を明らかにする』方法(即ち、道F⇒還元『天地自然之道』:Eの至大化)〕にはない。貴ぶといふのは、學者として生きる者の、切實な『思』或は『思惟』(D1の至大化)(對象への無私的行爲?)と呼ぶものがなければ、學問は成立するわけがない、といふ意味》 P308關係論:①道(物:場 C‘)②歴史(物:場 C‘)③『六經』(物:場 C‘)⇒からの關係:①(即ち、禮樂といふ治績)とは、②上の事實だが、今は既に無い事實を、直に觀察するわけにはいかない(D1の至小化)。それ〔①(即ち、禮樂といふ治績)〕は、③といふ、現に在る若干の古言(物:場 C‘)の證據を通じて、知る(D1の至大化)他はない。その意味では、『要は理〔定義附け・原理附け(F⇒Eの至大化)〕を以て之を推さざるを得ず』と言へるわけだから、⑥が、理によつて道を推す事自體を、兎や角言ふのではない。しかし、①即ち理〔定義附け・原理附け(F⇒Eの至大化)〕である〔とは、①(F)が『一定の定義(『事物當行之理』『天地自然之道』と言ふ定義)に還元(定義附け・原理附け)される(即ち、道F⇒還元『天地自然之道』:Eの至大化)』〕といふ主張となれば、話は別なのである(以下參照)。⑦の考への中心は、『學問の道(物:場 C‘)は、思ふこと(D1の至大化)を貴ぶ』(『學んで思はざれば危ふし』の含意か?)といふその事にあつて、(それが)理〔定義附け・原理附け、つまり『宋儒の、自分の臆見(F: 定義附け・原理附け)で、古人の道(即ち、禮樂といふ聖人の治績)を明らかにする』方法(即ち、道F⇒還元『天地自然之道』:Eの至大化)〕にはない。貴ぶといふのは、學者として生きる者の、切實な『思』或は『思惟』(D1の至大化)(對象への無私的行爲?)と呼ぶものがなければ、學問は成立するわけがない、といふ意味であらう。理(定義附け・原理附け)は思惟の本質ではないが、理(定義附け・原理附け)の働きを借りなければ、思惟の發展(D1の至大化)は望めまい。「➍:ただ、この學者各自に切實な思惟(D1の至大化:對象への無私的行爲)といふ實を離れて(D1の至小化)、」⇒「⑤:理(定義附け・原理附け)に滯る」(➍的概念F)⇒E:理を何處か〔自分の臆見(自分流・私見)〕へ祭り上げる(自己主人公化)のは無用である働き〔とはつまり、P305『言靈(物:場 C‘)の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化:無私的行爲)で、言語(F)は新しい意味(F)を生み出して行く(即ち、興之功:合體Eの至大化)』働きとは、正反對(即ち、歴史のA’⇒Aなる平面に横這ひ)の働き〕である。⑥が理(F:定義附け・原理附け)を貴ぶ(Eの至大化)のは、彼等(⑥)の思惟(D1)では理(F:定義附け・原理附け)が正當に扱はれてゐない(Eの至小化)〔例:道(F)を『事物當行之理』『天地自然之道』に還元(Eの至小化)としてしまふ〕。逆に、理(F:定義附け・原理附け)に思惟(D1)のほうが扱はれ、⑤といふ事〔とは、①②への思惟(D1)が『一定の定義(定義附け・原理附け)に還元される(Eの至小化)』といふ事〕が起つてゐるからだ。従つて、(⑦が謂ふには)彼等(⑥)の學問(朱子學)に於いては、理(F:定義附け・原理附け)が未だ『精しからず(Eの至小化)』とされ、『之(理F)を精しくし又これを精しく(Eの至大化)』する必要が言はれてゐるのは、『之(此處では①②?)を思ひ之(①②?)を思ひ、之(①②?)を思つて(D1の至大化)、通ぜずんば(D1の至小化)、鬼神(C)將に之(①②?)を通ぜん(D1の至大化)とす』(『辨名』)と表現する處の、所謂「思惟の精到(D1の至大化)」に歸する、と受け取つてよい」(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥宋儒⑦徂徠(△枠):①②への適應正常。 ~~~以下參照~~~~ 《(道〔變らぬもの(物:場 C‘)〕は)歴史〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕が展望出來る(D1)一定の觀點(理:定義附け・原理附け)といふやうな便利なものではない(D1の至小化)。歴史〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕は、『事物當行之理』(理:定義附け・原理附け)でもなければ、『天地自然之道』(理:定義附け・原理附け)でもない。本質的に人間といふ『活物』〔變化物(物:場 C‘)〕の道〔變らぬもの(物:場 C‘)〕である(「道は歴史を貫透する」の逆表現的)》 P??關係論:①歴史〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕②人間といふ『活物』〔變化物(物:場 C‘)〕③道〔變らぬもの(物:場 C‘)〕⇒からの關係:①は「④:本質的に②の③である(D1の至大化)⇒「⑤:原理(理:定義附け・原理附け)」(④的對立概念F)〕⇒E:一定の⑤(F)に「現に暮らしてゐる世(場 C‘)が還元(Eの至小化)して了へるものなら、⑤とは空言であらう。①は『事物當行之理』(⑤)でもなければ、『天地自然之道』(⑤)でもない」(Eの至小化)(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒徂徠(△枠):①への適應正常。 P306「この共通の基盤〔とは、言語(言靈)の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化〕に、保證されてゐるといふ安心(Eの至大化)がなくて、自分流(F)に物を言つて(Eの至小化)、新しい意味(合體)〔とは、P305『言語(F)は新しい意味(F)を生み出して行く(興之功:即ち、合體Eの至大化)』といふ内容〕を打ち出す自由など、誰にも持てる筈はない。 P307《古註には『道(D1の至大化)は禮樂(物:場 C‘)を謂ふ』とある通り、はつきりと古聖人(△枠)の遺した(D1の至大化)、具體的な②を指した〔即ち、治績(禮樂。物:場 C‘)←道(D1の至大化)←古聖人(△枠)〕言葉》 P307關係論:①禮樂(物:場 C‘)②治績(物:場 C‘)⇒からの關係:道(D1の至大化)といふ古言は、古註には『道(D1の至大化)は①(物:場 C‘)を謂ふ』とある通り、はつきりと⑤の遺した(D1の至大化)、具體的な②を指した〔即ち、②治績(①禮樂。物:場 C‘)←道(D1の至大化)←古聖人(△枠)〕言葉であつて、「➌:これ(①=②)を離れて(D1の至小化)、別に道(D1の至大化)といふやうなものはなかつた(D1の至小化)のである」⇒「④:理(定義附け・原理附け)」(➌的對立概念F)⇒E:⑥は道(即ち、禮樂といふ治績)を訓じて、④となす〔とは、『道(即ち、禮樂といふ治績C’)を、一定の定義(F:原理・權衝・觀點)に還元(Eの至小化)』〕が、明らかに、今言(次頁:自分流・『自分の臆見』)を以て、古言(C’)を見る姿である。彼等(⑥)はそれに氣附いてゐない。といふのは、世(世の中)は言を載せて遷る歴史(C’)の流れ(D1)に、ただ流されるまま(即ち、AAなる平面に横這ひ:D1の至小化)になつてゐるので、歴史(C’)の流れ(D1)を、さういふもの〔世(世の中)は言(言靈)を載せて遷る(轉義)〕として受止める(即ち『言靈の轉義D1の至大化』と受止める:以下參照)、『不昧なる(くらくない)心』(B⇒C:實在觀)が、彼等には缺けてゐる、と徂徠(△枠)は見る(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宋儒(朱子學)⑤古聖人:①への適應正常。 P??關係論:①歴史〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕②人間といふ『活物』〔變化物(物:場 C‘)〕③道〔變らぬもの(物:場 C‘)〕⇒からの關係:①は「④:本質的に②の③である(D1の至大化)⇒「⑤:原理〔權衝・觀點(④的對立概念F)〕⇒E:一定の⑤(F)に「現に暮らしてゐる世(場 C‘)が還元して了へる(Eの至小化)ものなら、⑤とは空言であらう。①は『事物當行之理』(⑤)でもなければ、『天地自然之道』(⑤)でもない」(Eの至小化)(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒徂徠(△枠):①への適應正常。 P??關係論:①歴史〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕②人間といふ『活物』の道〔變らぬもの(物:場 C‘)〕③本質的な性質(眞相。物:場 C‘)⇒からの關係:①(又は言)は②を「④:載せて以て(D1の至大化)遷(うつ)る【言(『言靈』)は道〔古聖人の禮樂と言ふ治績(物:場 C‘)〕を載せて以て遷る(即ち、轉義D1の至大化)】と言ふ③は」(D1の至大化)⇒「⑤:〔後世利口之徒(現代風歴史理解)〕(④的對立概念F)⇒E:⑤に「對象化されて定義〔原理(權衝・觀點)に還元(Eの至小化)〕される事(意識的な餘りに意識的Eの至小化)を拒絶(Eの至大化)してゐる」(Eの至大化)(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒徂徠(△枠):①への適應正常。 ~~~以上參照~~~~ P309關係論:①歴史(物:場 C‘)②古言(物:場 C‘)③古事(物:場 C‘))⇒からの關係:(承前)。この、言はば①的思惟の透徹(①⇒思惟・學問:D1の至大化)するところ、②(『言靈』と同意?)を載せた③の姿(例:『古事記』。即ち、轉義D1の至大化)が、「➌:いよいよ鮮やかに、心眼に映じて來る(即ち、合體Eの至大化)のは必至であると、⑥は信じた(D1の至大化)」⇒「⑤:學問の要」(➍的概念F)⇒E:⑤は、これ〔②(言靈)を⇒載せての③の姿(例:『古事記』への轉義)を心眼に映ず(即ち、合體Eの至大化)〕に盡きると見定め(Eの至大化)ないで、『學問(D1)は歴史(物:場 C‘)に極まり(D1の至大化)候事に候』といふやうな、思ひ切つた言ひ方(Eの至大化)が出來た筈もない。彼は自分の學問は實學であつて、理學〔即ち『歴史(物:場 C‘)が、一定の定義(道理・原理・權衝・觀點:F)」に還元される(Eの至小化)』〕ではないと言つてゐた。そして、實とは言を載せた世だ〔とはつまり『世(世の中)は言(『言靈』)を載せて以て遷る(即ち、轉義D1の至大化)』の事:以下參照〕、その他に實といふものはない、と答へたであらう」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥徂徠(△枠):①②への適應正常。 P309關係論:①實學(物:場 C‘)②歴史學(物:場 C‘)③歴史(物:場 C‘)⇒からの關係:①と言ふ、自分(⑤)の②では、凡そ現實とは、③的現實の事だし、認識(D1)とは、③的認識(D1の至大化)の事だ、敢て言へば、さう⑤が答へたと考へても、差し支へない」(D1の至大化)⇒「④:⑤の思想(F)」⇒E:さう〔『現實とは、③的現實。認識(D1)とは、③的認識(D1の至大化)』と〕考へて話を進めるのが、④を解きほぐして行く(Eの至大化)のにはいい」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤徂徠(△枠):②③への適應正常。 ~~~~~以下參照~~~~~~~ 著 #本居宣長 十章 ①#言②#道(變らぬもの)③古今(#歴史:變るもの)⇒からの關係:①は②を[④『載せて以て遷(うつ)る』のである.②は何を載せても遷らぬ]⇒[⑤歴史]⇒⑤を②は貫透する。⑤から浮き上がるのではない⇒#徂徠。 著 #本居宣長 十章 ①#歴史(遷り變るもの)⇒からの關係:①は[②:思ひ出すといふ #心法(#無私)に據る]⇒即ち[③像④繪](②的概念)⇒①は[心法(無私)が作り上げる③、想像裡に描き出す④である]⇒#徂徠:①への適應正常。 ~~~~~以上參照~~~~~~~~ P310《孔子曰く『春秋』を『空言に載せん(Eの至小化)』〔とは、理(定義附け・原理附け:F)に還元(Eの至小化)せん〕は、之(『春秋』)を行事(こうじ)〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕に見(しめ)すの深切著明(D1の至大化)なるに如かざる也(とても及びはしない:Eの至小化)』と》 P310關係論:①『辭(ことば)』(物:場 C‘)②『事(こと)』(物:場 C‘)③孔子(物:場 C‘)④『春秋』(物:場 C‘)⇒からの關係:①〔即ち、言(こと:F)の世界:興之功〕についてもさうであつたが、②〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』:觀之功〕についても、或は『辭(ことば)と嫺(なら)ふ』『事(こと)』(即ち、合體Eの至大化=轉義D1の至大化:以下參照)についても、⑦の師は、やはり③であつた。「❺:③は④制作の理由につき、かういふ事を語つた、と⑧は傳へる、」⇒「⑥:空言」(❺的對立概念F)⇒E:つまり③曰く『⑨、之(④)を⑥に載せん(Eの至小化)〔とは、理(定義附け・原理附け:F)に還元(Eの至小化)せん〕と欲す。之(④)を行事(こうじ)〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕に見(しめ)すの深切著明(D1の至大化)なるに如かざる也(とても及びはしない:Eの至小化)』と」(⑥への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑦徂徠⑧司馬遷⑨我(孔子)(△枠):①②への適應正常。 ~~~~~以下參照~~~~~~~ 十章關係論:①辭(ことば)は事(物:場 C‘)②言は世といふ事(物:場 C‘)③物(物:場 C‘)⇒からの關係:①②と言ふ③が「④:遷るのが」(D1の至大化)⇒「⑤:歴史といふ物(④的概念F)⇒E:⑤と「⑥は考へてゐた」(Eの至大化)(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥徂徠(△枠):③への適應正常。 十章關係論:①辭(ことば)は事と嫺(なら)ふ(物:場 C‘)②言は世といふ事と習ひ熟す(物:場 C‘)③物(物:場 C‘)④歴史といふ物(物:場 C‘)⇒からの關係:①②のさういふ③が「⑤:遷るのが④」(D1の至大化)⇒「⑥:歴史的事實(⑤的概念F)⇒E:今日の學問に準じて使はれる⑥には「結び附かない」(Eの至小化)(⑥への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑦徂徠(△枠):④への適應正常。 關係論:①歴史〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕⇒からの關係:①は「②:思ひ出すといふ心法〔無私(D1の至大化)〕に據る」(D1の至大化)⇒「③像④繪(②的概念F)⇒E:①は「心法(無私)が作り上げる③、想像裡に描き出す④である」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒徂徠(△枠):①への適應正常。 ~~~~~以上參照~~~~~~~~~~~ P310《近世新興學者(徂徠他)と、その對照としての「理學(宋儒・朱子學)」との懸隔理由》
P310關係論:①道(物:場 C‘)②禮樂(物:場 C‘)③古言(『言靈』物:場 C‘)⇒からの關係:知り難く言ひ難い①(即ち②といふ聖人の治績)を、「➍:⑦の思惟の努力(無私と心眼:D1の至大化)のうちに、③に徴す(D1の至大化)〔とは、P307:古註には『道(物:場 C‘)は禮樂(物:場 C‘)を謂ふ』に徴すを意味する〕」⇒「⑤:理」(➍的對立概念F)⇒E:それとは對照に、⑥は、⑤を頼む〔とは、自分流に、⑤に還元(Eの至小化:假説附け・定義附け・原理附け)する〕」(⑤への距離不獲得:Eの至大化)⇒⑥宋儒⑦學者(徂徠△枠):①③への適應正常。〕》《『六經(物:場 C‘)には、道(即ち、禮樂といふ聖人の治績)は具(つぶさ)に存す(D1の至大化)。『諸(これ:道)を行事(こうじ)〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕に施して深切著明(D1の至大化)なり』。その理由は、『聖人の空言〔と扱はれる、即ち、理(定義附け・原理附け:F)に還元(Eの至小化)される事〕を悪みし(Eの至小化)也』》 P310關係論:①六經(物:場 C‘)②物(物:場 C‘)③道(物:場 C‘)④行事(こうじ。物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。この孔子の言葉(前項參照)は、徂徠『學則』の中では、次のやうな形で現れる。『夫れ、①は②(例:禮樂・孝悌仁義)なり、③(②⇒③と名附く)は(①に)具(つぶさ)に存す(D1の至大化)』。「❺:(①は)『諸(これ:③)を④〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕に施して深切著明(D1の至大化)なり』」⇒「⑥:空言」(❺的對立概念F)⇒E:『とは⑦の、⑥〔即ち、理(定義附け・原理附け:F)に還元(Eの至小化)する事〕を悪みし(Eの至小化)也』(徂徠『學則』)」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦聖人(△枠):①への適應正常。 〔孔子及び徂徠(實學)の、先王の道(物:場 C‘)(即ち禮樂といふ聖人の治績)探究、⇔對照、自然〔即ち理『(自然的概念の)天地自然之道』〕を貴ぶ老荘の徒(理學:宋儒)〕 P310《 この(老子)鋭才の成功(D1の至大化)以來、『老荘の徒(宋儒)、盛んに理(各自に據る、假説附け・定義附け・原理附け:F)を言ふ者は、先王の道(物:場 C‘)(即ち禮樂といふ聖人の治績)を廢する(D1の至小化)が故也。自然〔即ち理『(自然的概念の)天地自然之道』〕を貴ぶが故也』(『辨名』)》 310關係論:①『辭(ことば)』(物:場 C‘)②『事(こと)』(物:場 C‘)③孔子(物:場 C‘)④道(物:場 C‘)⑤老子(物:場 C‘)⇒からの關係:⑧が③の言葉を借りて、言はうとしたところ(P310:前項參照)は明らかであらう。ここ(前項:徂徠文參照)に言ふ空言とは、理に頼る〔自分の臆見に據る理(假説・定義附け・原理附け:F)に還元(Eの至小化)する〕説明の意味に取つていいだらうが、④(即ち禮樂といふ聖人の治績)を『天地自然之道』、或は『事物當行之理』と假定〔自分の臆見に據る、理附け(假説附け・定義附け・原理附け:F)を〕した上なら〔とは、人爲的概念である④を、自然的概念である『天地自然之道』、或は『事物當行之理』と假定(自分の臆見に據る理附けを)した上なら、と言ふ事〕、④(即ち禮樂といふ聖人の治績)を空言に載せる事〔とは、各自に據る、理(假説附け・定義附け・原理附け:F)に還元(Eの至小化)する事に〕に成功もしよう。いや、恐らく成功の道は他(各自に據る、理附けの他)にはない。當今の理學(宋儒)もこれを遡つて行けば、⑤に行き着くのであり、④(即ち禮樂といふ聖人の治績)を空言に載せた〔人爲的概念である④を自然的概念である『天地自然之道』と言ふ、理(假説附け・定義附け・原理附け:F)に還元(Eの至小化)させた〕この(⑤の)鋭才の成功(D1の至大化)以來、「❻:『⑨、盛んに理(各自に據る、假説附け・定義附け・原理附け:F)を言ふ者は、先王の④(即ち禮樂といふ聖人の治績)を廢する(D1の至小化)が故也。自然〔即ち理『(自然的概念の)天地自然之道』〕を貴ぶが故也』(『辨名』)とあるやうに、」⇒「⑦:學問(宋儒:朱子學)」(❻的概念F)⇒E:理(F:各自に據る、假説附け・定義附け・原理附け)を言ふ事(Eの至小化)、自然〔即ち理『F:(自然的概念の)天地自然之道』〕を貴ぶ事(Eの至小化)、先王の④(即ち禮樂といふ聖人の治績)を廢する事(D1の至大化)、これら三つが一つに歸する、さういふ⑦の一と筋の流れを、⑧は考へてゐる」(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧徂徠⑨『老荘の徒』(△枠):③④への適應異常。 P310《先王(物:場 C‘)の道(物:場 C‘)(禮樂といふ聖人の治績)といふ知り難く言ひ難い實(物:場 C‘)が、學者の思惟の努力(無私と心眼:D1の至大化)のうちに、古言(物:場 C‘)に徴すれば〔とは、P307:古註には『道(物:場 C‘)は禮樂(物:場 C‘)を謂ふ』に徴すを意味する〕、思ひ描く事が出來る(D1の至大化)以上、學問(D1の至大化)は歴史(物:場 C‘)に極まる(D1の至大化)ではないか。 孔子には、何も彼も〔つまり『言(こと:F)の世界』は『事(こと)の世界(物:場 C‘)』也と〕わかつてゐた、と徂徠(△枠)はいふのである》 P310關係論:①道(物:場 C‘)②實(物:場 C‘)③先王(物:場 C‘)④道(物:場 C‘)⑤古言(物:場 C‘)⑥歴史(物:場 C‘)⑦文章(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。そこ〔前項:三つ(理を言ふ事・自然を貴ぶ事・先王の道を廢する事)が一つに歸する學問(宋儒:朱子學)、即ち⑩〕では、①といふ諸觀念の、理詰め〔自分流に、理附け(F:假説附け・定義附け・原理附け)〕な整理が行はれてゐるに過ぎず、而も整理の仕方は、人によつて異なる以上(即ち、自己主人公化)、⑪の見る所(自分の臆見)が、①とされるのも仕方がない。この(『各自の見る所の理詰めな整理』と言ふ)、議論の精を競う學問(宋儒:朱子學)の、空しい①(とは、禮樂といふ聖人の治績を示さない①)を廢するには、知り易く言ひ易い理〔F:自分流に、理附け(假説附け・定義附け・原理附け:Eの至小化)〕から、知り難く言ひ難い〔⑤・禮樂(物:場 C‘)を無私と心眼(D1の至大化)で思ふ〕②への、思ひ切つた囘心(D1の至大化)を行ふ他はないのだ。それならば、③の④(禮樂といふ聖人の治績)といふ知り難く言ひ難い②が、⑫の思惟の努力(無私と心眼:D1の至大化)のうちに、⑤に徴すれば〔とは、P307:古註には『道(物:場 C‘)は禮樂(物:場 C‘)を謂ふ』に徴すを意味する〕、思ひ描く事が出來る(D1の至大化)以上、學問(D1の至大化)は⑥に極まる(D1の至大化)ではないか。思惟(D1)は、理(F:假説・定義・原理)を捨てはしないが、理を頼み〔F:自分流に、理附け(假説附け・定義附け・原理附け)に還元(Eの至小化)〕はしない。理窟(理詰め・假説附け・定義附け:F⇒Eの至小化)にはならないが、「➑:⑦にはなる。⑦は、ただ⑬の表面的な理解(D1の至小化)に應ずるものではない、」⇒「⑨:深切著明」(➑的概念F)⇒E:經驗の深所に達して〔『言(こと:F)の世界:即ち、合體Eの至大化』に達して〕、相手(⑬)を納得させるものだ〔即ち『諸(これ:道)を行事〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』に施す〕。この働きを、⑭は⑨と言つた〔つまり『諸(これ:道)を行事〔即ち『事(こと)の世界(物:場 C‘)』〕に施して⑨(D1の至大化)なり』と言ふ事〕。⑭には、何も彼も〔つまり『言(こと:F)の世界』は『事(こと)の世界(物:場 C‘)』也と〕わかつてゐた、と⑮はいふのである」(⑨への距離獲得:Eの至大化)⇒⑩老子の徒⑪各自⑫學者⑬讀者⑭孔子⑮徂徠(△枠):①②③④への適應正常。 P311《人の營爲(D1の至大化)は、『物(物:場 C‘)あれば(D1の至大化)名(物:場 C‘)あり(D1の至大化)』といふ、基本的な經驗(D1の至大化)の上に立つ(徂徠『辨道』)》 P311關係論:①老子(物:場 C‘)②人爲(物:場 C‘)③眞實(物:場 C‘)④自然(物:場 C‘)⑤天地の道(物:場 C‘)⑥人の性(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。『性(物:場 C‘)は人々殊(こと)なり(D1の至小化)』、『⑨、その性(物:場 C‘)に近き所に隨ひ(D1の至大化)』營爲(D1の至大化)する(徂徠『辨道』)他はないのだが、この考への重點(D1の至大化)は、凡そ人(⑨と同意)の營爲(D1の至大化)は、ことごとく、「◎『物(例:禮樂・孝悌仁義。物:場 C‘)あれば(D1の至大化)名(例:道。物:場 C‘)あり(D1の至大化)』といふ、基本的な經驗(D1の至大化)の上に立たなければ(D1の至大化)、行はれない、としたところにある」⇒「⑩:人爲の虚僞」(◎的概念F)⇒E:どうしても、①は孔子(△枠)の思想とは相容れない。①が、⑩(F)として、棄てる(Eの至小化)ところ〔とは『道(物:場 C‘)を、物(物:場 C‘)も無く(D1の至小化)、名(物:場 C‘)も無い(D1の至小化)、虚無の理(F)に載せる(理に還元:F⇒Eの至小化)事』〕を、⑦は、人間の③として、取上げる(D1の至大化)からだ。⑧は言ふ。『④にして然る者は、⑤也。營爲運用(D1の至大化)する所ある者は、⑥也』(『辨道』)と。」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦孔子⑧徂徠⑨各々(△枠):③⑥への適應正常。 P312《『禮樂』の造築=禮樂と言ふ名の成立發明》 P312關係論:①聖人(物:場 C‘)②道(物:場 C‘)⇒からの關係:言ふまでもなく、①も亦人(前項『人爲』と同意)であり、⑤にとつて、②を明らめる(D1の至大化)とは、古の①達が、ただ一度だけ行つた(D1の至大化)、或る特殊な(即ち、禮樂といふ聖人の治績と言ふ)營爲を明らめる事(D1の至大事)であつた、と⑤は解した。そこで、「➌:『②は禮樂(物:場 C‘)を謂ふ』とは、①によつて『禮樂』といふ物(物:場 C‘)が造られた時、これにならふ『禮樂』といふ名(物:場 C‘)も造られたといふ事に他ならない」(D1の至大化)⇒「④:常の道に非ず」(➌的對立概念F)⇒E:それなら、老子の辯『道の道とす可きは、④〔とは即ち、『人爲(①含む)』ではない『天地の道・天地自然之道』を指す〕といふやうな事が言へる筈はない」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤徂徠(△枠):①②への適應正常。 P312關係論:①無名(物:場 C‘)②名教(物:場 C‘)③道德(物:場 C‘)④儒教(物:場 C‘)⑤『辨名』(物:場 C‘)⑥古言(物:場 C‘)⇒からの關係:⑨の①の教へ(D1の至大化)に對し、⑩の教へが②と呼ばれて以來、これ(②)は、③の名目を説く④の別名となつた。「➐:⑪が⑤を書いたのは、⑥(即ち②)の正解(D1の至大化)を占めさうとしてであつた」⇒「⑧:『教への存する所』」(➐的概念F)⇒E:その序に、⑧として、②といふ言葉を持ち出してゐるが、これは、この言葉(②F)の通念化(Eの至小化)を脱して、改めてその本來の意味合(⑧)を見直せ(Eの至大化)、と言ふ考へからであつた」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑨老子⑩孔子⑪徂徠(△枠):②⑥への適應正常。 P312《道(物:場 C‘)といふ營爲(即ち、禮樂といふ治績)の完成(D1の至大化)=道(物:場 C‘)といふ名(物:場 C‘)を統名(統一名。物:場 C‘)として、確立(D1の至大化)といふ事。「道(物:場 C‘)といふ統名を數へれば、禮樂から孝悌仁義(物:場 C‘)に至るまで、まことに樣々な名(物:場 C‘)が現れる」とは、「禮樂・孝悌仁義」の統名が道と言ふ事。即ち、古聖人の治績「禮樂・孝悌仁義」の集合を、道と命名(統名)したと言ふ事》 P312關係論:①『辨名』(物:場 C‘)②學問(物:場 C‘)③道(物:場 C‘)④名(物:場 C‘)⑤統名(物:場 C‘)⑥禮樂(物:場 C‘)⑦孝悌仁義(物:場 C‘)⇒からの關係:①は⑩の、②上の主張である。例へば、③は、統名と解するのが正解であるといふ時、彼は、かういふ風に考へてゐる。⑪が、久しい間かかつて、心力智力を盡くして(D1の至大化)、③といふ營爲(即ち、禮樂といふ治績)を完成した(D1の至大化)とは、即ち③といふ④を⑤(統一名)として、確立した(D1の至大化)といふ、その事であると。車を數へて、輪とか幅とかいふ新しい名が現れるやうに、「➑:③といふ⑤(統名)を數へれば、⑥から⑦に至るまで、まことに樣々な④(名)が現れる」(D1の至大化)⇒「⑨:人生の意味の構造」(⑧的概念F)⇒E:これを示した①は、そのまま、⑪によつて捕へられ、生きられた(Eの至大化)⑨(F)なのである」(⑨への距離獲得:Eの至大化)⇒⑪古聖人等⑩徂徠(△枠):①③⑤への適應正常。 P313《凡そ學問とは、名教〔聖人の立てた名(とは:道『禮樂・孝悌仁義』)の教へ〕に他ならぬ、といふ徂徠の確信》 P313關係論:①『辨名』(物:場 C‘)②物(物:場 C‘)③名(物:場 C‘)④名教(物:場 C‘)⑤學問(物:場 C‘)⇒からの關係:①で扱はれてゐるのは、凡て②の形なき者につき、⑧の立てた③〔即ち「名=禮樂・孝悌仁義」。その統名が道(物:場 C‘)〕だけである。恐らく⑨は、それで充分と見たのだ。④(『教への存する所』)とは一種の⑤ではない、「❻:凡そ⑤とは④に他ならぬ、といふ確信を語るのには、それで足りると見たからであらう」(D1の至大化)⇒「⑦:『②あれば③あり』」(❻的概念F)⇒E:だが、言ふまでもなく、④の基盤は、『生民より以來、⑦』といふ、⑩にとつて親しい(Eの至大化)、疑う餘地のない經驗(Eの至大化)なのである」(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧聖人⑩萬人⑨徂徠(△枠):①②③への適應正常。 《『辨名』(物:場 C‘)とは、即ち、失はれた古言(物:場 C‘)の字義(物と名との均衡關係)の囘復を言ふ》 P313關係論:①『辨名』(物:場 C‘)②(物:場 C‘)③古言(物:場 C‘)⇒からの關係:①といふ、後世失はれた③の字義(物と名との均衡關係)の囘復(とは、囘復の役割を果たした①)は、「➍:凡そ③には、空言(D1の至小化)は一つもないといふ、はつきりした主張に、裏附けられてゐると言つてよい」(D1の至大化)⇒「⑤:字義」(➍的概念F)⇒E:⑥にとつて、⑤(F)とは、物(物:場 C‘)と名(物:場 C‘)との、しつかりした均衡關係(D1の至大化)を言ふ」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥徂徠(△枠):①②③への適應正常。 P313《理〔F:自分流に、假説附け・定義附け・原理附け、に還元(Eの至小化)〕とは名(物:場 C‘)とは言へぬ、道〔(物:場 C‘)即ち、禮樂といふ聖人の治績)〕といふ統名(物:場 C‘)の仲間入り(D1の至大化)は出來ぬ》 P313關係論:①物(物:場 C‘)②名(物:場 C‘)③『辨名』(物:場 C‘)④道(物:場 C‘)⑤統名(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。さういふ次第〔即ち『字義とは、物(物:場 C‘)と名(物:場 C‘)との、しつかりした均衡關係(D1の至大化)を言ふ』〕で、①と②とが會ふ(D1の至大化)、或は①と②とがたがはぬ(D1の至大化)、とはどういふ事かを、「❻:宗として説いた(D1の至大化)③では、」⇒「⑦:無名無物」(❻的對立概念F)⇒E:當然、理(F)といふ言葉を、まともに扱ふ事は出來ない(Eの至小化)。理〔F:自分流に、假説附け・定義附け・原理附け、に還元(Eの至小化)〕とは②とは言へぬ、④(即ち、禮樂といふ聖人の治績)といふ⑤の仲間入り(D1の至大化)は出來ぬ、といふ事は、言はねなならなかつた(Eの至大化)。理(F)とは何者かを強ひて言ふなら、⑧も、⑨とともに、⑦〔即ち、無名(物:場 C‘)無物(物:場 C‘)〕〔即ち、F:自分流に、理附け(假説附け・定義附け・原理附け:還元Eの至小化)〕なる者といふより仕方がなかつた。その點、⑨と同意見であつたとさへ言つてもいい。理(F)といふものの性質〔F:自分流に、理附け(假説附け・定義附け・原理附け:還元Eの至小化)〕は、⑨によつて、正確に見抜かれてゐた事を、⑧は、よく承知してゐたからだ」(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒⑨老子⑧徂徠(△枠):①②への適應正常。 P313《理といふものが、彼(老子)の行く道を誤らせた、といふ事が、徂徠は言ひたかつたのであつた。のみならず、老子は、『其の心を操ること〔とは、自分流に、理に還元(F⇒Eの至小化:假説附け・定義附け・原理附け)〕の鋭(Eの至大化)なる』(『學則三』)人であつたが、さういふ人だつたからこそ、躓いた(Eの至小化)といふ性質が、理(F)といふものには、まさしく具つてゐる(Eの至小化)》 P313關係論:①老子(物:場 C‘)⇒からの關係:④は『聃(たん=①)の徒』を輕んじてゐた(D1の至小化)が、「➋:①を誤解も輕蔑(D1の至小化)もしてゐなかつた」⇒「③:心を操ること」(➋的對立概念F)⇒E:理といふものが、彼(①)の行く道を誤らせた、といふ事が、言ひたかつたのであつた。のみならず、①は、『其の③〔とは、自分流に、理に還元(F⇒Eの至小化:假説附け・定義附け・原理附け)〕の鋭(Eの至大化)なる』人であつたが、さういふ人だつたからこそ、躓いた(Eの至小化)といふ性質が、理(F)といふものには、まさしく具つてゐる(Eの至小化)、さういふ風に考へられてゐる(『學則三』)。理(F)の抽象性(假説附け・定義附け・原理附け:Eの至小化)、④が、『形無し(Eの至小化)、故に準(標準)無し』と言ふその性質(F)に、『③の鋭(Eの至大化)なる』⑤が誘はれて、努めて、道〔禮樂といふ治績(物:場 C‘)〕を言はん(D1の至大化)事を求めれば、『徒(D1の至小化)名(物:場 C‘)にして物(物:場 C‘)なく(D1の至小化)、空言(D1の至小化)にして之を状(かたど)る(D1の至小化)』他はない。(後略)」(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑤者④徂徠(△枠):①への適應正常。 〔聖人の治績(物に)⇒道と名を立てる(命名)〕 P314《その昔、(聖人により)人の生きる(人生の)意味が問はれ(D1)、道(物:場 C‘:禮樂・孝悌仁義といふ聖人の治績)といふ名(物:場 C‘)が立てられた(D1の至大化)。『皆聖人(物:場 C‘)の道(物:場 C‘:禮樂・孝悌仁義といふ聖人の治績)有るに因つて(D1の至大化)、借りて以て之(天の道・地の道)を言ふのみ』(『辨名』)。自然(物:場 C‘)に冠せた道(物:場 C‘)といふ名(物:場 C‘)は、假名(F)に過ぎない》 P314關係論:①自然(物:場 C‘)②歴史(物:場 C‘)③學問(物:場 C‘)③’『倫』(C)④天地自然の道(物:場 C‘)⑤道(物:場 C‘)⑥名(物:場 C‘)⑦聖人(物:場 C‘)⑧人生(物:場 C‘)⑨思想(物:場 C‘)⑩天(物:場 C‘)⑪地(物:場 C‘)⑫日月の運行(物:場 C‘)⑬目的(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。つまる處は、①(物質・自然現象的概念)を取るか、②を取るかといふ、③上の根本の態度の相違(D1の至大化)となる。①と②とが、全く③’(C)を異にする〔即ち、人爲對物質(D1の至大化)〕ものだといふ⑮の考へは、徹底したもの(D1の至大化)であつた。④といふ言葉さへ、彼には氣にいらなかつた(D1の至小化)。④と當り前のやうに言つて、⑯怪しまない(D1の至小化)が、一體、何故さういはれるやうになつたのか。日月星辰の運行、寒暑昼夜の往來、萬物の資生と歸藏(自然現象)、静かにこれを觀ずれば、『その由る所の者(C的)あるに似たり』と言ふ。だが、①の動き(自然現象)に、何か(C的)意味があるやうに思へて來る(D1の至大化)のも、⑧には何か意味がある(D1の至大化)といふ⑨を、⑰が抱いてゐればこそ(D1)だ。その昔、人の生きる(⑧の)意味が問はれ(D1)、⑤(禮樂・孝悌仁義といふ聖人の治績)といふ⑥が立てられた(D1の至大化)事を思へば、⑩(自然現象)の道と謂ひ、⑪(物質・自然現象)の道と謂ひ、――「●『皆⑦の⑤(禮樂・孝悌仁義といふ聖人の治績)有るに因つて(D1の至大化)、借りて以て之(⑩の道・⑪の道)を言ふのみ』(『辨名』)⇒「⑭:假名(F)」(●的對立概念F)⇒E:①に冠せた⑤といふ⑥は、⑭(F)に過ぎない(Eの至小化)、と⑮は見てゐるのである。もし實名(Eの至大化)であるとするなら、例へば⑫といふ出來事は、⑱の、何かの⑬があつての營爲(D1)でなければならず〔とは、日月の運行といふ目的(物:場 C‘)⇒からの關係:營爲(D1)⇒誰か(人爲△枠)〕、その⑨〔即ち、目的(物:場 C‘)⇒からの關係:營爲(D1)⇒誰か(人爲△枠)〕、が、⑰に理解出來(Eの至大化)なければならない。そのやうな事〔とは、日月の運行といふ目的(物:場 C‘)⇒からの關係:營爲(D1)⇒誰か(人爲△枠)〕は常識(F)では考へられない(Eの至小化)ではないか、と⑮は言ふのだ」(⑭への距離獲得:Eの至大化)⇒⑮徂徠⑯誰も⑰私達⑱誰か(人爲)(△枠):①への適應異常。 P314關係論: P314《意識的行爲(物:場 C‘)の端緒〔即ち、命名行爲(物に名⇒命ずD1の至大化)〕が、歴史(物:場 C‘)といふものの端緒》 P314關係論:①名(物:場 C‘)②物(物:場 C‘)③意識的行爲(物:場 C‘)④歴史(物:場 C‘)⑤先王(物:場 C‘)⑥學問(物:場 C‘)⇒からの關係:①は、②に、自然にありはしない。②につき、⑧が①を立てるといふ事がなければ、①は無いだらう。しかし、この命名といふ行爲(①⇒命ずD1)は、あんまり自然で基本的なものだから、特に意識に上るといふ事がなく、⑨が、單に②あれば①ありと思ひ込んでゐる。さういふ風に、⑩は考へてゐる。凡そ、「◎:人間の③の、最も單純(D1の至大化)で、自然な形としての、命名行爲(①⇒命ずD1の至大化)が考へられてゐる。言はば③の端緒、即ち④といふものの端緒が(徂徠には)考へられてゐる」⇒「⑦:先王の行爲」(◎的概念F)⇒E:⑦(F)を、⑥としての主題(Eの至大化)とした⑪にとつて、名(F)は教への存するところ(Eの至大化)〔徂徠『辨名』では『名教』(物:場 C‘)〕であつたのは、まことに當然な事〔とは、『先王の禮樂・孝悌仁義(物:場 C‘)⇒を道と命名(①を⇒命ずD1の至大化)する、であるから、命①は(先王の)教への存するところ』〕であつた」」(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒⑪孔子⑧人⑨誰も⑩徂徠(△枠):③④への適應正常。 P315《徂徠(△枠)は、『孔子(△枠)の學ぶ(D1の至大化)所を學ばんと欲し(轉義D1の至大化)』た。孔子(△枠)の學んだ(D1の至大化)先王(物:場 C‘)の營爲(物:場 C‘)(即ち、禮樂・孝悌仁義といふ治績)は、物(「禮樂・孝悌仁義」といふ物?)と名(道)とが、しつかり合つたこの種〔物(「禮樂・孝悌仁義」といふ物?)+命名(道と言ふ名を⇒命ずD1の至大化)の種〕から育つた(即ち、轉義D1の至大化)》 P315關係論:①『子路篇』(物:場 C‘)②孔子の言葉(物:場 C‘)③名(物:場 C‘)④言(物:場 C‘)⑤言語(物:場 C‘)⑥大樹(物:場 C‘)⑦先王(物:場 C‘)⑧營爲(物:場 C‘)⑨物(物:場 C‘)⇒からの關係:⑪は①から②をひく、『③正しからざれば(D1の至小化)、則ち④順(したが)はず(D1の至小化)』と。⑤活動(D1の至大化)とは、言はば命③(③を⇒命ずD1の至大化)といふ單純な經驗〔即ち、意識的行爲(物:場 C‘)の端緒(前項參照)〕を種として育つて、繁茂する(D1の至大化)⑥である。⑪は、『⑫の學ぶ(D1の至大化)所を學ばんと欲し(轉義D1の至大化)』た。⑫の學んだ(D1の至大化)⑦の⑧(即ち、禮樂・孝悌仁義といふ治績)は、「◎:⑨(禮樂・孝悌仁義といふ物?)と③(道)とが、しつかり合つたこの種〔⑨(禮樂・孝悌仁義といふ物?)+命③(道と言ふ名を⇒命ずD1の至大化)の種〕から育つた(即ち、轉義D1の至大化)⇒「⑩:思想や感情」(◎的概念F)⇒E:健全な言語(F)活動に貫かれてゐた(即ち、合體Eの至大化)と見た。⑦の⑧を學ぶ(即ち、轉義D1の至大化)とは、⑦自身が、その掛け代へのない⑩を語つてゐるところ(即ち、合體Eの至大化)を學ぶといふ、その事に他ならないといふ考へである〔つまりは、『言靈』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化、が此處にも含意されてゐるのでは?〕〕」(⑩への距離獲得:Eの至大化)⇒⑪徂徠⑫孔子(△枠):①②⑦への適應正常。 P315關係論:①自然の歴史(物:場 C‘)②名(物:場 C‘)③歴史(物:場 C‘)④出來事(物:場 C‘)⑤人生(物:場 C‘)⑥人間(物:場 C‘)⇒からの關係:①とは、假の②に過ぎず(D1の至小化)、③といふ實②がしつくりと合つてゐる(D1の至大化)のは、④の上(人爲上)に限られる(D1の至大化)。③上の④が、「◎:どうしても⑤の行爲(D1の至大化)といふ形を取らざるを得ない(D1の至大化)のも、」⇒「:⑦自己を表現・證明」(◎的概念F)⇒E:行爲(E)によつて、⑦する(Eの至大化)のが、人間(F)たる一番顕著な印し(Eの至大化)だからだ」(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒徂徠(△枠):③への適應正常。 P316關係論:①『述而篇』(物:場 C‘)②古(物:場 C‘)③學問(物:場 C‘)④歴史(物:場 C‘)⇒からの關係:①の冒頭で、⑥は言つてゐる、『述べて作らず(即ち、『述べて作る:自己流定義附け』なる理に對する否定)、信じて②を好む(D1の至大化)』と。(この言への)「◎:⑦の解には、抜き差しならぬ(D1の至大化)ものがあつた」⇒「⑤:根本態度」(◎的概念F)⇒E:とは「凡そ③とは④に極まる(D1の至大化)と信じた⑥の③上の⑤についての、率直な發言(D1の至大化)、とこれ(『信じて②を好む』)を解した(『論語徴』)から(Eの至大化)である」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥孔子⑦徂徠(△枠):①への適應正常。 P316關係論:①朱註(物:場 C‘)②古聖人(物:場 C‘)③孔子(物:場 C‘)④事實(物:場 C‘)⇒からの關係:⑥の註解(D1)では、いつも①が、目の敵(D1の至小化)なのだが、ここ(前項參照)でも、「◎:⑦が、これ〔『信じて古(物:場 C‘)を好む(D1の至大化)』〕を、②に對する、⑧の謙遜の辭と讀んでゐる(D1の至小化)のを難じ(D1の至小化)、」⇒「⑤:智(F)」(◎的概念F)⇒E:⑦は、⑤を以て、自ら高し(Eの至大化)としてゐる自分の心(Eの至小化:『自己流定義附け』なる理:朱子學)で、③を視る(D1の至小化)から、そんな事(⑧の謙遜の辭)を言ふので、⑧は、ただ、④を④として言つてゐる(D1の至大化)に過ぎない」(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑦朱子(△枠):⑥徂徠⑧孔子(△枠):②④への適應正常。 P316關係論(文を倒置):①歴史(物:場 C‘)②禮樂(物:場 C‘)③事實(物:場 C‘)④『知命之言』(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。②を作つたのは⑥であつて、⑦ではなかつた、といふ③を(朱子△枠は)看過する(D1の至小化)。作らない(D1の至小化)當人(⑦)が、作らないと言ふ〔『信じて古(物:場 C‘)を好む(D1の至大化)』〕のが、何故、辭の謙(謙遜の辭)なるものであるか(D1の至小化)。これ〔『信じて古(物:場 C‘)を好む(D1の至大化)』〕は、決して⑦の謙語ではない(D1の至小化)。彼の④〔とは、『(天・古聖人:C‘の)命ずる(C⇒D1の至大化)を知る』、の言〕である、と⑧は言ふ。自ら②は作らず(D1の至小化)、既に作られた②を祖述(D1の至大化)するといふ仕事をするのも、①のめぐり合せ(即ち、轉義D1の至大化)であるとして、「◎:これ(作られた②)に隨順(D1の至大化)した人(⑦)の言であるとした」⇒「⑤:理智」(◎的對立概念F)⇒E:一體、⑤(自分流の原理・定義附け:F)の不動を重んずる(Eの至大化)者(宋儒)は、①の推移(即ち、轉義D1の至大化)を輕んずる(D1の至小化)ものである」(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥古聖人達⑦孔子⑧徂徠(△枠):①②④への適應正常。 P316關係論(文を倒置):①歴史(物:場 C‘)②古(物:場 C‘)⇒からの關係:①に對しては、④を①のうちに投げ入れる(D1の至大化:無私?)、全く違つた態度(D1の至大化)を取らねばならない。その態度〔①のうちに投げ入れる(D1の至大化:無私?)〕の、簡勁(かんけい:簡潔で力強い:D1の至大化)で、充分な表現(D1の至大化)を、⑤は、「◎:『信じて②を好む(D1の至大化)』といふ言葉にみたのである」⇒「③:當行の理」(◎的對立概念F)⇒E:事物に、③(自分流の原理・定義附け:F)ばかり讀んでゐるやうな認識(Eの至小化)は、①には通用しない(D1の至小化)。⑤の所謂「心を操ることの鋭なる」〔とは、自分流に、理に還元(F⇒Eの至小化:假説附け・定義附け・原理附け)に鋭敏な〕⑥の認識(Eの至小化)では、①は扱へない(D1の至小化)」(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥傍觀者:④自分⑤徂徠(△枠):①②への適應正常。 |
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〔三十一章〕主題: 《宣長の『見る・知る(事の世界):語る〔言(こと)の世界〕』一體觀と、光圀/澹泊『大日本史』・白石『古史通』等〔事の世界『實(事實)に據つて事を記す』偏重〕との懸隔》:その「關係論」的纏め。 宣長:『事の世界は、言(こと)の世界でもあつた』(P229) 《P297『見る・知る(事の世界)』『語る〔言(こと)の世界〕』(物:場 C‘)といふ私達の働きは、特に意識して離さうとしない限り、一體をなしてゐる》 P295關係論:①神代(物:場 C‘)⇒からの關係:①の記載をそのまま「➋:受取つてはならぬといふのが④の考へである」(D1の至小化)⇒「③『詞』」(➋的概念F)⇒E:宣長では、決して離れる事のなかつた③〔言(こと)の世界〕と『意』(事の世界)とが、離れる(Eの至小化)のである」(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒④白石(△枠):①への適應異常。 P297關係論:①『見る・知る(事の世界)』『語る(言(こと)の世界』(物:場 C‘)②『朴陋(ぼくろう:素朴でいやしい)の俗』(物:場 C‘)③古人(物:場 C‘)⇒からの關係:①といふ私達の働きは、特に意識して離さうとしない限り、一體をなしてゐる。このやうに考へる⑥と、②を批判し、「➍:觀察して③(を知らう(客觀・實證的)とした⑦とは、事ごとに話が食違ふ(D1の至小化)事になる」⇒「⑤:歴史の形で書かれた神の物語」(➍的對立概念F)⇒E:特に兩者の場合、扱はれた古記が、⑤であつたが爲に、二人の歩いた道に、大變際立つた(Eの至小化)對照が現れるといふ事になつた」(白石:⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥宣長⑦白石(△枠):①への適應異常。 P297關係論:①『太古朴陋(ぼくろう:素朴でいやしい)の俗』(物:場 C‘)②太古(場 C‘)⇒からの關係:⑤は①による言葉の使ひ方を、正さうとするのだが、②の人々の素朴な意のうち〔とは、古言の『ふり』、即ち『内にある古人の意(こころ)の外への現れ』の事〕に、「➌:素直に這入つて行く(D1の至大化)⑥には、①といふやうな⑤の言ひ方は、全く無縁なのである」(D1の至大化)⇒「④:古語の義」(➌的概念F)⇒E:古人の意のうちに居て、その意〔古言の『ふり』:内にある古人の意(こころ)の外への現れ〕を通して口を利いてみなければ、どうして④などが解けようか」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤白石⑥宣長(△枠):①への適應正常。 《『大日本史』(物:場 C‘)も、白石『古史通』(古傳の無理な合理化)も、客觀的、實證的は、『通鑑綱目』を典範とする朱子學史觀の強い影響下。『實(事實)に據つて事を記す』史家の立前(客觀的、實證的)から、即ち『事の世界』から離れられない。實(事實)とは、人の世の實であり、神の世は、定義上、歴史から切捨てるといふ事で充分だ。白石とても、この點〔實(事實)とは、人の世の實〕では、同じ》 P300關係論:①『大日本史』(物:場 C‘)②近世の史學(物:場 C‘)③研究方法(物:場 C‘)⇒からの關係:①は、②の上で、最大の努力(D1の至大化)が拂はれ、最高の成績(D1の至大化)があげられた仕事だが、「➍:編纂者、光圀以下の⑥の意識的な努力は、③の上で、出來るだけ客觀的、實證的にならうとしたところがあつた〔『通鑑綱目』を典範とする朱子學史觀の強い影響下〕」(D1の至小化)⇒「⑤:白石と澹泊(『大日本史』編纂者)」(➍的概念F)⇒E:⑤との場合にしてもその點(客觀的、實證的)を見損なつてはなるまい」(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥史家達(△枠):①への適應正常。 |
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以下は〔三十一章〕各項目纏め |
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P294《『古事記』(物:場 C‘)の神代之卷(F)の荒唐無稽(Eの至小化)な内容は、近世に這入ると、もう歴史家達を當惑させてゐた(Eの至小化)。『大日本史』にしても、『本朝通鑑』にしても、歴史家達は敬遠して、神武から始めざるを得なかつた。このやうな時世(場 C‘)にあつて、新井白石がただ一人、歴史家として、この問題(『神代之卷』敬遠)を囘避せず、正面からこれに取組んだ(『古史通』)》 P294關係論:①『古事記』(物:場 C‘)②文學(物:場 C‘)③歴史(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②としては、興味あるものだが、③としては信用するわけには參らない。「➌:今日では、さう考へるのが常識となつてゐる」(D1の至大化)⇒「④:神代之卷」(➌的概念F)⇒E:だが、①の④の荒唐無稽(Eの至小化)な内容は、近世に這入ると、もう⑤を當惑させてゐた(Eの至小化)。『大日本史』にしても、『本朝通鑑』にしても、④は敬遠して、神武から始めざるを得なかつた」(④への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑤歴史家達(△枠):①への適應異常。 P294關係論:①時世(場 C‘)②『神代之卷』敬遠(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。このやうな①にあつて、⑤がただ一人、歴史家として、この問題(②)を囘避せず、「➌:正面からこれに取組んだ(『古史通』)」(D1の至大化)⇒「④:『歴代君臣の事業』(➌的概念F)⇒E:『舊事紀』『記紀』は皆わが朝廷の④を記した實録であつて、神代の記録があるからと言つて、敬遠(Eの至小化)したり、神典扱ひしたるする理由はない(Eの至大化)といふ考へは、當時としては大膽(Eの至大化)なものであつた」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤新井白石(△枠):②への適應正常。 P295《神代(物:場 C‘)の記載をそのまま受取つてはならぬといふのが白石の考へであり、宣長では、決して離れる事のなかつた『詞』〔言(こと)の世界〕と『意』(事の世界)とが、離れる(Eの至小化)》 P295關係論:①神代(物:場 C‘)⇒からの關係:①の記載をそのまま「➋:受取つてはならぬといふのが④の考へである」(D1の至小化)⇒「③『詞』」(➋的概念F)⇒E:宣長では、決して離れる事のなかつた③〔言(こと)の世界〕と『意』(事の世界)とが、離れる(Eの至小化)のである」(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒④白石(△枠):①への適應異常。 P295關係論:①『古史通』(物:場 C‘)②江戸期(場 C‘)③古語(物:場 C‘)④『古事記傳』(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②の古代史研究の高峰として、特に③の吟味(D1の至大化)を土臺としてゐる點で、「❺:④と並び稱されてゐるのが普通のやうだが」(D1の至大化)⇒「⑥:仕事の性質」(❺的對立概念F)⇒E:並稱されるには、⑥があまり違ひすぎる(Eの至小化)」(⑥への距離不獲得:Eの至小化)⇒白石(△枠):①への適應正常。 P297《太古(場 C‘)の人々の素朴な意のうち〔とは、古言の『ふり』:内にある古人の意(こころ)の外への現れ、の事〕に、素直に這入つて行く(D1の至大化)宣長には、『太古朴陋(ぼくろう:素朴でいやしい)の俗』といふやうな、白石の言ひ方は、全く無縁なのである》 P297關係論:①『太古朴陋(ぼくろう:素朴でいやしい)の俗』(物:場 C‘)②太古(場 C‘)⇒からの關係:⑤は①による言葉の使ひ方を、正さうとするのだが、②の人々の素朴な意のうち〔とは、古言の『ふり』:内にある古人の意(こころ)の外への現れ、の事〕に、「➌:素直に這入つて行く(D1の至大化)⑥には、①といふやうな⑤の言ひ方は、全く無縁なのである」(D1の至大化)⇒「④:古語の義」(➌的概念F)⇒E:古人の意のうちに居て、その意〔古言の『ふり』:内にある古人の意(こころ)の外への現れ〕を通して口を利いてみなければ、どうして④などが解けようか」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤白石⑥宣長(△枠):①への適應正常。 P297《『見る・知る(事の世界)』『語る(言(こと)の世界』(物:場 C‘)といふ私達の働きは、特に意識して離さうとしない限り、一體をなしてゐる。このやうに考へる宣長と、『太古朴陋(ぼくろう:素朴でいやしい)の俗』を批判し、觀察して古人(物:場 C‘)を知らう(事の世界)とした白石とは、事ごとに話が食違ふ(D1の至小化)事になる》 P297關係論:①『高天原』(物:場 C‘)⇒からの關係:④にとつて、①といふ言葉(F)を正しく使ふ事(Eの至大化:『言(こと)の世界』)と、①といふ物(物:場 C‘)を正しく知る事(D1の至小化:『事の世界』)とが、「➋:どうして區別出來ようか」⇒「③:言葉」(➋的概念F)⇒E:③の使ひ方(Eの至大化)は、物(事實。場 C‘)の見方(D1の至大化)に、どう仕様もなく見合ふ(即ち、Eの至大化=D1の至大化)ものだ。(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④古人(△枠):①への適應正常。 P297關係論:①『見る・知る(事の世界)』『語る(言(こと)の世界』(物:場 C‘)②『朴陋の俗』(物:場 C‘)③古人(物:場 C‘)⇒からの關係:①といふ私達の働きは、特に意識して離さうとしない限り、一體をなしてゐる。このやうに考へる⑥と、②を批判し、「➍:觀察して③を知らうとした⑦とは、事ごとに話が食違ふ(D1の至小化)事になる」⇒「⑤:歴史の形で書かれた神の物語」(➍的對立概念F)⇒E:特に兩者の場合、扱はれた古記が、⑤であつたが爲に、二人の歩いた道に、大變際立つた(Eの至小化)對照が現れるといふ事になつた」(白石:⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥宣長⑦白石(△枠):①への適應異常。 P298《白石・宣長、共に極端な説を成して誤つたのも、尚古主義(昔の文物・制度を模範標準)と結んだ觀念的な合理主義(儒學の考へ方)が、客觀的な歴史研究(以下參照)への道を阻んだと津田左右吉は見る。このやうに、歴史研究の方法の未熟といふ面から、津田が問題を割り切らうとしても、二人が取り組んだ歴史問題〔宣長は以下參照『事の世界は、言(こと)の世界でもあつた』P229〕の實質には、觸れないで過ぎて了ふ》 P298關係論:①『記紀』(物:場 C‘)②上代(場 C‘)⇒からの關係:⑤と⑥とが、①の②の記述につき、極端な説を成して誤つたのも、元を尋ねて行けば、やはり、「➌:儒學の考へ方に捕らへられてゐたが爲だ、と⑦は見る」(D1の至大化)⇒「④:觀念的な合理主義」(➌的概念F)⇒E:尚古主義(昔の文物・制度を模範標準)と結んだ④が、客觀的な歴史研究(以下參照)への道を阻んだと見る。このやうに、歴史研究の方法の未熟といふ面から、問題を割り切らうとしても、二人が取り組んだ歴史問題〔宣長は以下參照『事の世界は、言(こと)の世界でもあつた』P229〕の實質には、觸れないで過ぎて了ふやうに思はれる」(④への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑤白石⑥宣長⑦津田左右吉(△枠):①への適應未熟。 ~~~~~~以下參照~~~~~ P278關係論:①天武天皇(物:場 C‘)②『古事記』(物:場 C‘)③『古語』(物:場 C‘)⇒からの關係:序で語られてゐる①の②撰録の理由(參照P279)にしても、①の意は③の問題にあつた。「➍:③が失はれれば、それと一緒に『古の實(まこと)のありさま』も失はれるといふ問題にあつた、⑥は、さう直ちに見て取つた。彼の見解は正しいのである。ただ、正しいと言ひ切るのを、現代人はためらふだけであらう」(D1の至大化)⇒「⑤:『ふるごと』」(➍的概念F)⇒E:⑤とは、『古事』でもあるし、『古言』でもある、といふ⑥の眞つ正直な考へが、何となく子供じみて映るのも、事實(古事)を重んじ、言語(古言)を輕んずる現代風の通念から眺めるからである。だが、この通念〔史學の事實(古事)偏重(Eの至小化)〕が養はれたのも、客觀的な歴史事實といふやうな、愼重に巧まれた現代語の力を信用すればこそだ、と氣附いてゐる人は極めて少い」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①②③への適應正常。 P290關係論:①證言(物:場 C‘)②證據(物:場 C‘)③歴史研究(物:場 C‘)⇒からの關係:凡庸な⑥は、外から與へられた①やら②やらの權威から、なかなか自由になれないものだ。①②のただ受身な整理が、③の風を裝つてゐるのは、極く普通の事だ。さういふ研究者達の心中の空白ほど、⑦の心から遠いものはない事を思へばよい。と言つて、⑦は、心のうちに、何も餘計なものを貯へてゐるわけではない。「➍:その心は、ひたすら觀察し、批判しようとする働きで充たされて、隅々まで透明(所謂『無私』?)なのである」(D1の至大化)⇒「⑤:強い人柄」(➍的概念F)⇒E:「ただ、何が知りたいのか、知る爲にはどのやうに問へばよいのか、これを決定するのは自分自身であるといふはつきりした自覺が、その研究を導くのだ。研究の方法を摑んで離さないのは、つまるところ、⑦の⑤なのである。彼は、②など要らぬと言つてゐるのではない。與へられた①の言ふなりにはならぬ〔とは即ち、古言の『ふり=内にある古人の意(こころ)の外への現れ』・古人の『心ばへ』を知る・生きた『言靈』の働きといふ實體に到達出來る、といふ確信がある〕、と言つてゐるまでなのだ」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥歴史家達⑦宣長(△枠):①②への適應正常。 〔人の實の情(物:場 C‘)を知る(事の世界)と、日常言語(F:今言俗言)が作り上げる姿〔『物の哀F』:『言(こと)の世界』〕。『事の世界は、言(こと)の世界でもあつた』P229〕
P229關係論:①『よろづの事』(物:場 C‘)②心(物:場 C‘)③事の心(物:場 C‘)④物の心(物:場 C‘)⑦其のしな〔喜怒哀楽の情(こころ。物:場 C‘)〕⇒からの關係:⑨は經驗といふ言葉は使はなかつた。①を、②にあぢはへて(經驗:D1の至大化)、その①の②を、わが心にわきまへしる(經驗:D1の至大化)。是③をしる也、④をしる也。(中略)「⑥:わきまへしりて(D1の至大化)〔即ち、P219『すべて人・よみ人(物:場 C‘)の心(意:D1)を、おしはかりえて(D1の至大化)』〕、⑦にしたがひて(D1の至大化)、感ずる所〔即ち經驗(D1の至大化)〕が物のあはれ(D1の至大化)也」⇒「⑧:あるがままの世界」(⑥的概念F)⇒E:⑨は、この⑧〔即ち、⑦〔喜怒哀楽の情(こころ。物:場 C‘)にしたがひて(D1の至大化)、感ずる所〔即ち:物のあはれ(D1の至大化)〕を深く信じた」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑨宣長(△枠):②への適應正常。 P229關係論:①この世(場 C‘)⇒からの關係:さうすると(承前)、『物のあはれ』(D1の至大化)は、①に生きる經驗〔即ち『人生(物:場 C‘)が生きられる』經驗(D1の至大化)〕の「②:本來の『ありやう』(D1の至大化)〔つまり、私達の直接經驗の世界(物:場 C‘)の『ありやう』(D1の至大化)、即ち『物事:人生(物:場 C‘)が生きられる(D1の至大化)』事〕のうちに現れる(D1の至大化)と言ふ事になりはしないか」⇒「③:あるがままの世界」(②的概念F)⇒E:④は、この③を深く信じた」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④宣長(△枠):②への適應正常。 P229關係論:①『實(まこと:事實)』の『自然の』『おのづからなる』(物:場 C‘)②事の世界(事實。物:場 C‘)⇒からの關係:「この①などといろいろに呼ばれてゐる(D1の至大化)②は、〔即ち『『よろづの事(事實)』(物:場 C‘)を、心(物:場 C‘)にあぢはへて(D1の至大化)、その『よろづの事(事實)』(物:場 C‘)の心(物:場 C‘)を、わが心にわきまへしる(D1の至大化)。是(これ)事(事實)の心(物:場 C‘)をしる(D1の至大化)也、物の心(物:場 C‘)をしる(D1の至大化)也、わきまへしりて(D1の至大化)、「③:其のしな(實情。物:場 C‘)にしたがひて(D1の至大化)、感ずる所〔とは即ち『云々(しかじか)の言(F)は、云々(しかじか:古人=事實)の意(D1の至大化)に用ひたり(Eの至大化)といふことを、よく明らめ知る(即ち、Eの至大化=D1の至大化)〕が物のあはれ(F) (~~~以下參照~~~) P221の〔『語(物:場 C‘)釋(D1)は緊要にあらず(D1の至小化)』とは〕 關係論:①語義〔然り云ふ本(物:場 C‘)〕②古人(物:場 C‘)⇒からの關係:①を分析して本義正義を定める(D1の至小化)は緊要にあらず(D1の至小化)。「③:②の用ひたる所(D1)を、よく考へて(D1の至大化)〔即ち、P219『すべて人・よみ人(物:場 C‘)の心(D1)を、おしはかりえて(D1の至大化)』〕、⇒『④:言」(③的概念F)⇒E:『云々(しかじか)の④は、云々(②:事實)の意(D1の至大化)に用ひたり(Eの至大化)といふことを、よく明らめ知る(即ち、Eの至大化=D1の至大化)を、要とすべし。④の用ひたる(Eの至大化)意(D1の至大化)〔即ち『よみ人②(物:場 C‘)の心(D1の至大化)』〕をしらで(D1の至小化)は、其所(②)の文意(D1)聞えがたく(D1の至小化)、又みづから(△枠)、物(物:場 C‘)を書く(D1の至小化)にも、④の用ひやう(E)たがふ(Eの至小化)こと也』⇒宣長『うひ山ぶみ』(△枠)。 ~~~~~~以上參照~~~~~ 〔歴史(物:場 C‘)と詩(物:場 C‘)とは、何處でどう違ふのか、何處でどう關係するのか〕 P299關係論:①歴史(物:場 C‘)②詩(物:場 C‘)⇒からの關係:津田も同じ著作で言ふ、①と②とは、「➌:何處でどう違ふのか、何處でどう關係するのか」(D1の至大化)⇒「④:難題」(➌的概念F)⇒E:この殆ど見通しの利かぬ④のうちに、⑤は投げ返される」(④への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑤歴史家(△枠):①②への適應異常。 〔白石『古史通』の事實(古事)偏重(Eの至小化)〕 P299關係論:①『古史通』(物:場 C‘)②神典(物:場 C‘)⇒からの關係:①は、⑤は非常な自信(D1の至大化)を持つてゐたが、「➌:何分にも、②を、ただの實録に引下ろした研究(D1の至小化)の事であつた」(D1の至小化)⇒「④:公表」(➌的對立概念F)⇒E:であるから、當時として、④は先づむつかしい(D1の至小化)ものであつた」(④への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑤白石(△枠):①への適應異常。 〔『大日本史』(物:場 C‘)も、白石『古史通』(古傳の無理な合理化)も、客觀的、實證的は、『通鑑綱目』を典範とする朱子學史觀の強い影響下〕 P300關係論:①『大日本史』(物:場 C‘)②近世の史學(物:場 C‘)③研究方法(物:場 C‘)⇒からの關係:①は、②の上で、最大の努力(D1の至大化)が拂はれ、最高の成績(D1の至大化)があげられた仕事だが、「➍:編纂者、光圀以下の⑥の意識的な努力は、③の上で、出來るだけ客觀的、實證的にならうとしたところがあつた〔『通鑑綱目』を典範とする朱子學史觀の強い影響下〕」(D1の至化)⇒「⑤:白石と澹泊(『大日本史』編纂者)」(➍的概念F)⇒E:⑤との場合にしてもその點(客觀的、實證的)を見損なつてはなるまい」(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥史家達(△枠):①への適應正常。 P301關係論:①『大日本史』(物:場 C‘)②神武(物:場 C‘)③『記紀』(物:場 C‘)④神代(場 C‘)⑤史實(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。⑧が①を②から始めたのも、勿論、『實(事實)に據つて事を記す』史家の立前(客觀的、實證的)からで、「❻:③の④の記述を⑤と認める事は出來ない(D1の至小化)といふ、全く簡單な理由(D1の至小化)に基いた」⇒「⑦:『神は人也』(的概念F)⇒E:實(事實)とは、人の世の實であり、神の世は、定義上、歴史から切捨てるといふ事で充分だ。⑨とても、この點〔實(事實)とは、人の世の實〕では、同じなので、人の世を、②から遡つて擴大させてみても、別段變つた事が出來たわけでもないだらう。(中略:參照P301)⑦といふ命題自體が孕んでゐる矛盾(Eの至小化)の爲に、自滅(Eの至小化)するのである」(⑦への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑧光圀⑨白石(△枠):①への適應異常。 〔白石・『大日本史』、俱に抱へる『神は人也』への論理的矛盾〕 P301關係論:①天地萬物(物:場 C‘)②『大日本史』(物:場 C‘)③神武(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。しかし、⑥はさう(矛盾と自滅)考へなかつた。『凡そ①の始、無よりして有ならずといふ事なし、有は無より生ずといひし即此也』と。すると(『無より生ず』といふ事は、神から生ずではなく)、⑥も亦、「➍:神の世は切捨てた事になる。(切捨てて、人の世とは區別し)、②とともに、『上世(うはつよ)の事は、年代悠遠、神異(人の世とは別)にして測られざれば(測られないので)、總て之を稱して神世と曰ふ』と言つてゐる事になる」(D1の至小化)⇒「⑤:『神は人也』」(➍的對立概念F)⇒E:逆に、③から始めた②にしても、⑤といふ⑥の考へに無縁だつたわけではない(Eの至小化)。東征の③は、勝利あらず、『之を憂ふ、乃ち謀りて曰く、我(③)は是(これ)日神の子孫(みこ)なり』云々、とあるのを見れば、明らかであらう」(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥白石(△枠):①③への適應異常。 |
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〔三十章〕主題
P289關係論:①『なべての地を阿禮が語と定めて』(物:場 C‘)②安萬侶の表記(物:場 C‘)③古人の『心ばへ』(物:場 C‘)④古言の『ふり』(物:場 C‘)⑤『言靈』(物:場 C‘)⇒からの關係:先づ、①、仕事は始まつたのである。『阿禮が語』を『漢(から)のふりの厠(まじ)らぬ、清らかなる古語』と定めて、といふ意味だ。②が、今日となつては、もう謎めいた符號に見えようとも、その(②の)背後には、そのままが③であると言つていい④〔古人の意(こころ)の外への現れ〕がある、文句の附けやうのなく明白な、「❻:生きた⑤の働き(即ち、轉義D1の至大化)といふ實體が在る、それを確信する事によつて、⑧の仕事は始まつた」(D1の至大化)⇒「⑦:自主獨往の道」(❻的概念F)⇒E:其處〔③④:⑤の働きの實體〕に到達出來るといふ確信、或は到達しようとする意志、さういふもの〔到達出來るといふ確信・意志〕が基本となつてゐる(Eの至大化)と見做さないと、⑧の學問の『ふり』〔とは『内にある古人の意(こころ)の外への現れ』を訓む事。參照例⇒「宣長の學問の方法の具體的な『ふり』の適例」P287〕といふものは、考へにくいのである。 さういふもの〔③④:⑤の働きの實體、に到達出來るといふ確信・意志〕が、嚴密な研究のうちにも、言はば、⑦をつけてゐるといふ事があるのだ」(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧宣長(△枠):①③④⑤への適應正常。 P290《古事記傳』完成時詠歌:古事(ふるごと)の ふみをらよめば いにしへの てぶりこととひ 聞見るごとし》 注:『てぶりこととひ』とは、古言の『ふり』の意。 P290關係論:①倭建命の『言とひ』(物:場 C‘)⇒からの關係:①は、「➋:④の意(こころ)に迎へられて(即ち、轉義D1の至大化)、」⇒「③:しつかりした應答」(➋的概念F)⇒E:「『如此(かく)申し給へる御心のほどを思ひ度(はか)り奉るに、いといと悲哀(かな)しとも悲哀(かなし)き御語りにざりける』といふ、③(:古言の『ふり』)を得る(即ち、合體Eの至大化)までは、息を吹き返した(即ち、合體Eの至大化)ことなど、一ぺんもなかつたのである。古學する者にとつて、古事(ふるごと)の眼目は、眼には手ぶり〔即ち『内にある古人の意(こころ)の外への現れ』〕となつて見え、耳には口ぶり〔即ち『同上』〕となつて聞える、その『ふり』である」(③への距離獲得:即ち、合體Eの至大化)⇒④宣長(△枠):①への適應正常。 |
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以下は〔三十章〕各項目纏め |
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P280關係論:②『古事記』修史(物:場 C‘)⇒からの關係:①の②の動機は、尋常な、「➌:實際問題に即したものであつた」(D1の至大化)⇒「④:『正實に違ふ』(➌的概念F)⇒E:即ち、諸家に使へられた書傳への類ひは、今日既に④ものとなつてゐるので、その『僞りを削り、實を定めて』(Eの至大化)これを後世に遺さねばならぬといふのであつた」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒①天武天皇(△枠):①への適應正常。 P280關係論:①『古事記』(物:場 C‘)②書傳への失(物:場 C‘)③言語經驗(物:場 C)⇒からの關係:①撰録の場合、更に特別な考へ方が加はつてゐた。「➍:(古語の)②は上代のわが國の國民が強ひられた、宿命的な③に基いてゐた」(D1の至小化)⇒「⑤:漢文章(からことば)(➍的概念F)⇒E:「⑥曰く『萬の事を漢文に書き傳ふとては、其の度ごとに、⑤に牽(ひか)れて、本の語は漸くに違ひもてゆく故に、かくては後(のち)遂に、古語はひたぶるに滅(うせ)はてなむ物ぞと、(天武天皇)かしこく所思看(おもほしめ)し哀(かなし)みたまへるなり』と。今のうちなら未だ間に合ふ。言傳への純粋な姿は、未だ世上に見られるからだ。『削僞定實』の據りどころは、其處にある。無論、仕事の目的は古語の保存ではない。『邦家の経緯、王化之鴻基』を明らかにするにあつた。編纂が、政策に準じたものだつたにせよ、修史である以上、當時の社會常識によつて、歴史事實と承認されたところを踏へずに、事が運んだわけはないからだ」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①への適應正常。 P281關係論:①天武朝の新政策(物:場 C‘)②氏姓の權威(物:場 C‘)③天武天皇(物:場 C‘)④氏族宗教の司祭(物:場 C‘)⑤氏神(物:場 C‘)⇒からの關係:①は、基本的には、動亂(壬申の亂)によつて動揺した②の始末といふ實際問題の上に、立つものだつたであらう。③は、この機會に、國家の統治者として、またこれと「❻:離せなかつた④として、皇室の神聖な系譜とこれを廻る諸家の、その⑤にまで遡る出自の物語を、改めて制定し、その確認を求めた」(D1の至大化)⇒「⑦:古傳承」(❻的概念F)⇒E:⑧の側に、これを疑はしく思ふ理由が存在しなかつたのは、物語の経緯をなすものが、先づ大體、自分等に親しい⑦の上に立つものだつたからであらう。宣長の直觀が働いたところ(Eの至大化)、書傳へより古い言傳へ(⑦)が、恐らく、書傳へより一層豐富な廣範な生命を保つて、一般の人々の生活のうちに、生きてゐた事を認めざるを得ない、といふことになる」(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧國民(△枠):①④への適應正常。 P282關係論:①漢字(物:場 C‘)②言傳へ(物:場 C‘)③書傳へ(物:場 C‘)④訓讀(物:場 C‘)⇒からの關係:①の渡來以來、「❺:⑦は②と③との間に、④といふ橋を架して往來せざるを得なかつた」(D1の至大化)⇒「⑥:極めて知的な手段」(❺的概念F)⇒E:④と言へば、外國語の特殊な学習法であり、當時の知識人は、この⑥による新知識の獲得に、多忙(Eの至大化)であつた。⑥にかまけてゐたから、④といふ橋を渡つてみて、はじめて、彼我の言語構造を隔てる斷絶が、はつきりして來たといふ裏面の經驗は、容易に意識に上がらなかつた」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦日本人(△枠):①への適應正常。 P282《天武天皇の、『自國の言葉(物:場 C‘)の傳統的な姿(物:場 C‘)が鋭く目覺めた』と言ふ國語意識が、世上に行はれ、俗耳にも親しい、古くからの言傳へ(『言靈』?)と出會ひ、これと共鳴するといふ事がなかつたならば、『古事記』の撰録は行はれはしなかつた。そして、このやうな事件は、其の後、もう二度と起こりはしなかつたのである》 P282關係論:①言語構造(物:場 C‘)②自國の言葉(物:場 C‘)③傳統的な姿(物:場 C‘)⑤修史(『古事記』。物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。『彼我の①を隔てる斷絶』の不安が一たん意識されると、②の③が鋭く目覺めたに違ひなく、「❻:この意識(①を隔てる斷絶』の不安)が、④の⑤の着想の中核をなすものであつた」(D1の至大化)⇒「⑦:『古事記』の撰録」(❻的概念F)⇒E:「當時の知識人の先端を行くと言つてもいい、この先鋭な(『②の③が鋭く目覺めた』と言ふ)國語意識が、世上に行はれ、俗耳にも親しい、古くからの言傳へ(『言靈』?)と出會ひ、これと共鳴するといふ事がなかつたならば、⑦は行はれはしなかつた。そして、このやうな事件は、其の後、もう二度と起こりはしなかつたのである」(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒④天武天皇(△枠):②③⑤への適應正常。 P282關係論:①天武天皇(物:場 C‘)②阿禮(物:場 C‘)③安萬侶(物:場 C‘)⇒からの關係:⑥が①の『哀しみ』を言ふ時、①、②、③の三人の人物の、「➍:まことに幸運な廻り合ひ(D1の至大化)といふ、この事件の個性がはつきりと感じとられてゐた、と見てよい」(D1の至大化)⇒「⑤:歌人の感受性」(➍的概念F)⇒E:⑥が見てとつたところでは、歴史家としての天皇の『哀しみ』は、本質的に⑤から發してゐた(Eの至大化)が、これ(天皇の『哀しみ』)は尋常な一般生活人の歴史感覺の上に立つたものでもあつた。従つて、欽定の國史を、國文(古い言傳へ・古言)によつて記述しようといふやうな企ては、當時としては全く異例な、大膽なものであつた事を天皇自身よく知つてゐた筈であらう。よく知つた上での發想だつたであらう」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①②③への適應正常。 P283關係論:①支那(物:場 C‘)②正史の編纂方法(物:場 C‘)③漢文(物:場 C‘)④史書(物:場 C‘)⑤歴史(物:場 C‘)⇒からの關係:①の②を模倣して、③で立派な④(向後の『日本書紀』)を物したところで、ただ、知的な訓讀によつて歴史の筋書を辿るに止まり、直接心を動かされる④に接してゐたわけではない。そのやうな⑤を掲げ、「❻:これ(①の②の③)に潤色されてゐる國家権威の内容は薄弱(D1の至小化)である」(D1の至小化)⇒「⑦:『削僞定實』」(❻的概念F)⇒E:⑧の⑦といふ歴史認識は、國語(古い言傳へ・古言)による表現の問題に逢着せざるを得なかつた(Eの至大化)のである」(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧天武天皇(△枠):①②⑤への適應正常。 P283關係論:①勅命(物:場 C‘)②天武天皇(物:場 C‘)⇒からの關係:⑤にしてみれば、(②の)①は意外だつたかも知れないが、②の決斷(D1の至大化)の意味するところは、「➌:よく理解された(D1の至大化)に違ひない:以下參照」(D1の至大化)⇒「④:口承による『日繼』とか『世繼』」(➌的概念F)⇒E:現に國民の大多數の生活のうちに生きてゐる歴史と言へば、④とか呼ばれるものの他にはない事を、⑤は最も切實に感じてゐた(Eの至大化)人(即ち語部・巫女)と考へてよささうだからだ。彼は喜んで①を奉じ、努力を惜しまなかつたであらう:以下參照」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤阿禮(△枠):①②への適應正常。 P284關係論:①『勅語の舊辭』(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。④にしてもさうなのだ。口誦の①〔舊辭(物:場 C‘)とは、阿禮が、『天皇の諷誦(よみ)坐す大御言のままを、誦(よみ)うつし』たもの。P261以下參照〕を、「➋:國語(古い言傳へ・古言)に固有な表現性を損はず、そのまま漢字によつて、文章に書き上げる(『天地初發之時、於高天原成神名』云々。以下參照)、さういふ嚴格な企劃は④を驚かしたであらう」(D1の至大化)⇒「③:『謹て敕旨に隨ひ仔細に採りひりふ』(➋的概念F)⇒E:しかし、この鋭敏な知識人(④)の批評意識は強く動かされて、③といふ事になつたに相違ない。彼が、直ちに、漢字による(阿禮、誦み習ひの)國語表記の、未だ誰も手がけなかつた、大規模な實驗に躍り込んだのも、漢字を使つてでも、日本の文章が書きたいといふ、言はば、火を附けられれば、直ぐにでも燃え上がるやうな、ひそかな想ひを、内心抱いてゐた(Eの至大化)が爲であらう〔つまり、前出『三人の人物の、まことに幸運な廻り合ひ(D1の至大化)といふ、この事件の個性』の詳細説明〕(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④安萬侶(△枠):①への適應正常。 ~~~~~以下參照~~P261各項關係論~~~~ P261《『古事記』の特色は、一切が先づ、阿禮(物:場 C‘)の誦み習ひ(D1の至大化)といふ仕事にかかつてゐる、そこにあつたと眞つすぐに、宣長は考へる。「『辭』の字に眼をつけて(Eの至大化)、天武天皇の此の事おもほしめし立(だち)し大御意(Eの至大化)は、もはら古語(『言靈』?)に在りけることをさとるべし』と」。舊辭(物:場 C‘)とは、阿禮(物:場 C‘)が、『天皇の諷誦(よみ)坐す大御言のままを、誦(よみ)うつし』たものとも考へられる、とまで(宣長は)言つてゐる》 P261關係論:①『古事記序』(物:場 C‘)②安萬侶(物:場 C‘)⇒からの關係:⑤が①の漢文體のこの部分に(波立つ心で)聞き別けたのは、「➌:②の肉聲だつた。疑ひやうもなく鮮やかな、これを信じれば足りるといふやうなものだつた」(D1の至大化)⇒「④:稗田阿禮」(➌的概念F)⇒E:『記の起り』を語る②にとつて、④の存命(五十三歳?)は貴重な事實であり、天武天皇が、④の才能を認められた時、④が未だ若かつた(二十八歳)とは、まことに幸運な事であつた。恐らく⑤はさういふ讀み方をした、と私は考へる」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①②への適應正常。 P261關係論:①『記の起り』(物:場 C‘)②『序』(物:場 C‘)③阿禮(物:場 C‘)⇒からの關係:①の問題に對する⑤の態度は、②の語るところを、そのまま信じ、「➌:『記』の特色は、一切が先づ③の誦み習ひ(D1の至大化)といふ仕事にかかつてゐる、そこにあつたと眞つすぐに考へる」(D1の至大化)⇒「④:『舊辭』」(➌的概念F)⇒E:何故文中、『舊事』とはなくて、④とあるかに注意せよ(Eの至大化)と言ふ。「『辭』の字に眼をつけて(Eの至大化)、天武天皇の此の事おもほしめし立(だち)し大御意(Eの至大化)は、もはら古語(『言靈』?)に在りけることをさとるべし』と」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①への適應正常。 P261關係論:①舊記(ふるきふみ:帝紀)(物:場 C‘)②阿禮(物:場 C‘)③舊辭(物:場 C‘)④『古事記』(物:場 C‘)⇒からの關係:『①の本(まき)をはなれて』、「❺:②といふ『人の口に移』された③が、要するに④の素材を成す、と⑦は考へてゐると、⑧はするのだ」(D1の至大化)⇒「⑥:『勅語』」(❺的概念F)⇒E:更に⑧は、『②に⑥して』とか『⑥の③』とかいふ言葉の使ひ方に、特に留意(Eの至大化)してみるなら、③とは②が『天皇の諷誦(よみ)坐す大御言のままを、誦(よみ)うつし』たものとも考へられる、とまで(⑧は)言つてゐる」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦安萬侶⑧宣長(△枠):③への適應正常。 ~~~~~以上參照~~~~~ P284關係論:①安萬侶文『上古之時』云々(P284文。物:場 C‘)②文化意識(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。①の言葉にしても、實驗の強行に驅りたてられた、その複雑な②の告白でもあつたらう。この告白(①)は、「➌:純粋な漢文(訓讀の)で、書かれたのである。當時の常識による正統な文章法(レ點・訓讀)に、⑤は従つたまでであつた。この事ほど、⑤の仕事〔『漢字による(阿禮、誦み習ひの)國語表記』〕が、文字通り、一つの實驗であつた事を、明らかに語つてゐるものはない」(D1の至大化)⇒「④:『漢文訓(からぶみよみ)』(➌的概念F)⇒E:「漢文の訓讀が、知らず識らずのうちに、漢文のふり(レ點)に移つて、宣長の言ふ④となるのは自然の勢ひ(Eの至大化)であつた。この(④の)流れのままに、流れてゐなくて(Eの至大化)は、漢字が、國字に消化されて了ふといふ事〔つまり『漢字による(阿禮、誦み習ひの)國語表記』を指す〕にはならなかつた筈だ。古語に還らんとする⑤の極めて意識的な方法〔『漢字による(阿禮、誦み習ひの)國語表記』〕は、この緩やかな、自然な課程(④)に逆ひ、これを亂すもの(Eの至小化)にならざるを得なかつた」(逆説的:④への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑤安萬侶(△枠):②への適應正常。 P284關係論:①國語散文(『古事記』本文。物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。この(安萬侶の)、誰の手本にもなりやうのない①(『古事記』本文)に關する實驗〔『漢字による(阿禮、誦み習ひの)國語表記』〕は、言つてみれば、「➋:傑作の持つ一種の孤立性(D1の至大化)の如きものを帶びたのであつた」(D1の至大化)⇒「③『古事記傳:書紀(日本書紀)の論ひ』(➋的概念F)⇒E:「さういふところ(傑作の持つ一種の孤立性)に、④の心は、一番惹きつけられてゐた(Eの至大化)のを、③を見ながら、私(小林)は、はつきりと感ずるのである」⇒④宣長(△枠):①への適應正常。 P285關係論:①『古事記』本文(物:場 C‘)②『文體(かきざま)』(物:場 C‘)⇒からの關係:①の散文としての姿、⑥に言はすと、その(①の)地の文の②は、『假字書きの處』『宣命書きの如くなるところ』『漢文ながら、古語の格(さま)ともはら同じき』處、『又漢文に引かれて、古語のさまにたがへる處』さうかと思ふと、『ひたぶるの漢文にして、さらに古語にかなはず』といふ箇所も交つて、「➌:亂脈を極めてゐる」⇒「④:阿禮の口誦」(➌的概念F)⇒E:「が、それ(➌)はどうあつても④を、文に移したいといふ⑤の願ひ(Eの至大化)の、そつくりそのままの姿(F)だ」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤選者(天武天皇)⑥宣長(△枠):①②への適應正常。 P285關係論:①漢文(物:場 C‘)②序文(物:場 C‘)③本文(物:場 C‘)④純粋な國語の訓法(物:場 C‘)⑤撰者〔天武天皇(物:場 C‘)〕⇒からの關係:①で書かれた②の方は、⑧が、それぞれの力量に應じて、勝手に、これを訓讀するのが普通だつただらうが、③の方は、訓讀を⑧に要求してゐた。それも④に從ふ、宣長の所謂『厳重(おごそか)』な訓讀を求めてゐた。だが、勿論、⑨には、「❻:訓讀の基準を定め、後世の人にもわかるやうに、これを明示して置くといふやうな事が出來たわけはなかつた(D1の至小化)」⇒「⑦:『古語のふり』」(❻的概念F)⇒E:「從つて、⑤の要求に應じようとすれば、仕事は、『古事記』に類する、同時代のあらゆる國語資料に當つてみて、先づ⑦を知り(Eの至大化)、⑤の不備な表記を助け(Eの至大化)、補はなければならないといふ、妙な形のもの(Eの至小化)になつた」⇒⑧讀者⑨安萬侶(△枠):③への適應困難。 P285關係論:①「『此記』(『古事記』。物:場 C‘)②阿禮(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。⑤は言ふ。『①は、彼(か)の②が口に誦習(よみなら)へるを錄(しる)したる物なる中に、いと上つ代のままに傳はれりと聞ゆる語も多く、又當時(そのとき)の語(ことば)つきとおぼしき處もおほけえば、「➌:悉く上つ代の語には訓みがたし、さればなべての地を、②が語と定めて、その代のこころばへをもて訓べきなり』(古事記傳、訓法の事)と」(D1の至大化)⇒「④:『移り』『頽れ(くづれ)』」(➌的概念F)⇒E:「⑤に言はせれば、漢字による古語の語法の④といふ事が、絶えず行はれてゐた(Eの至大化)からだ。『漢文にうつし傳へて後、初(はじめ)の古言は絶て、つたはらぬ』といふ事があり、それも、漢文の豐富な語彙に壓迫されて、新たに訓(よみ)が造られて行つたからである」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①②への適應正常。 P285關係論:①安萬侶の表記の用字法・措辭法(物:場 C‘)②阿禮(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。さういふ言葉〔『移り』『頽れ(くづれ)』〕の動揺に影響されながら、逆にこれを利用した、①に足を取られぬ(D1の至小化)爲には、「➌:一たん『なべての地を②が語と定め』たら(D1の至大化)、この假説をしつかり取つて、動かぬ態度(D1の至大化)が肝腎だ」⇒「④:訓法(よみざま)の研究」(➌的概念F)⇒E:「さうでなければ、『古事記』の④など出來はせぬ、さう⑤は言ひたいのである」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①②への適應正常。 P286《「どう訓讀すれば、阿禮の語調に添ふものとなるか」といふ仕事が、一種の冒險を必要としてゐる事を、恐らく宣長は非常によく知つてゐた。この、言はば安萬侶とは逆向き(←訓讀解釋)の冒險に、彼は喜んで躍り込み、自分の直觀と想像(Eの至大化)との力を、要求されるがままに、確信をもつて行使した(即ち、合體Eの至大化)と言つてよい》 P286關係論:①漢文(物:場 C‘)②今日(場 C‘)③『古事記序』(物:場 C‘)⇒からの關係:⑥の學問の大事は、後世(の研究者)の修正を越えたところにあつた。一體、①の訓讀などといふものは、②でも不安定なものだ。③は、當時、大體どういふやうな形式で、訓讀されてゐた(D1の至大化)か、「➍:これを直に證する(D1の至大化)やうな資料が現れぬ限り(D1の至小化)、誰にも正確には解らない(D1の至小化)」⇒「⑤:阿禮の語調」(➍的概念F)⇒E:「まして、どう訓讀すれば、⑤に添ふものとなるかといふやうな、本文の呈出してゐる課題となれば、其處には、研究の方法や資料の整備や充實だけでは、どうにもならないものがあらう。さういふ仕事(どう訓讀すれば、⑤に添ふものとなるか)が、一種の冒險を必要としてゐる事を、恐らく⑥は非常によく知つてゐたといふ事である。この、言はば安萬侶(『阿禮が口に誦習(よみなら)へるを錄(しる)す』:冒險⇒)とは逆向き(←訓讀解釋)の冒險に、⑥は喜んで躍り込み、自分の直觀と想像(Eの至大化)との力を、要求されるがままに、確信をもつて行使した(Eの至大化)と言つてよい」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①③への適應正常。 P286《『訓法(よみざま)の事』は『古事記傳』の土臺であり、宣長の努力の集中したところだが、彼が、『古言のふり』(物:場 C‘)〔『内にある古人の意(こころ)の外への現れ』〕を知つたといふ事には、古い言ひ方で、實證の終るところに、内證が熟したとでも言ふのが適切なものがあつたと見るべき。『古言のふり』〔『内にある古人の意(こころ)の外への現れ』〕は、むしろ發明されたと言つた方がよい。發明されて、宣長の心中に生きたであらうし、その際、彼が味つたのは、言はば、『古言』に證せられる、とでも言つていい喜びだつたであらう》 P286關係論:①『古言のふり』(物:場 C‘)②『古言の調(しらべ。物:場 C‘)③資料(物:場 C‘)⇒からの關係:⑥が①とか②とか呼んだところは、觀察され、實證(D1の至大化)された「➍:③を、凡て寄せ集めてみたところで、その姿(①②)が現ずるといふものではあるまい(D1の至小化)」⇒「⑤:『古言』に證せられる」(➍的對立概念F)⇒E:「『訓法(よみざま)の事』は『古事記傳』の土臺であり、⑥の努力の集中したところだが、彼が、①〔『内にある古人の意(こころ)の外への現れ』〕を知つたといふ事には、古い言ひ方で、實證の終るところに、内證が熟したとでも言ふのが適切なものがあつたと見るべき。これは勿論修正(後世研究者の修正)など利くものではない。(⑥に)『古言』は發見されたかもしれないが、①〔『内にある古人の意(こころ)の外への現れ』〕は、むしろ發明されたと言つた方がよい。發明されて、⑥の心中に生きたであらうし、その際、彼が味つたのは、言はば、⑤、とでも言つていい喜びだつたであらう」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①②への適應正常。 P286關係論:①宣長(物:場 C‘)②『古事記傳』(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。このやうな考へ〔『古言のふり』〔内にある古人の意(こころ)の外への現れ〕は發明された。『古言』に證せられる〕に誘はれるのは、「➌:①の紆餘曲折する努力に、出來るだけ添ふやうにして、②を⑤には、極めて自然な事だと思はれる」(D1の至大化)⇒「④:笹月清美氏」(➌的概念F)⇒E:しかし、はつきりとこのやうな考へに重點を置いて、②が分析されてゐる研究が殆どないのは意外であつた。この點で、私(⑥)が教示を得た(Eの至大化)のは、④の②の方法の分析(F:『本居宣長の研究』)である」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤讀む者⑥小林(△枠):①②への適應正常。 P287關係論:①『古言の調』(しらべ。物:場 C‘)⇒からの關係:①は定義出來ない(D1の至小化)が、これ(①)が④の心中で鳴つてゐる限り、疑ひやうなく明瞭(D1の至大化)なものであり、その「➋:どんな小さな變調も、彼(④)の耳を掠めて通るわけにはいかないやうに見える」(D1の至大化)⇒「③:文(ことばF)の『調』とか『勢』とか『さま』(F⇒E)」(➋的概念F)⇒E:「この調べ(『古言の調』)によつて、訓法(よみざま)の一番難かしい、微妙な箇所となると、いつも斷案が下されてゐる。先づ、③とか呼ばれる全體的なもの(F)の直知(Eの至大化)があり、そこから部分的なものへの働きが現れる。『調』(F⇒E)は完全な形で感じられてゐる(即ち、合體Eの至大化)のだから、(中略)理由ははつきり説明出來ぬし、説明する必要もない、『何とかやことたらはぬここち』がすれば充分なので、訓(よみ)の斷定(即ち、合體Eの至大化)は、遅疑なく行はれる。例へば、『然る訓(よみ)ては、古語にうとければ、よしや撰者(天武天皇)の意には非ずとも』といふ思ひ切つた(Eの至大化)事にもなる」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④宣長(△枠):①への適應正常。 P287~9關係論:①學問の方法(物:場 C‘)②『ふり』(物:場 C‘)⇒からの關係:⑤の①の②の、具體的な適例として「➌:『倭建命の心中を思ひ度る』を(以下に)擧げる(P289參照)」(D1の至大化)⇒「④:内心の聲」(➌的概念F)⇒E:「『いといと悲哀(かな)しとも悲哀(かなし)き』と思つてゐると、『なりけり』と訓み添へねばならぬ(Eの至大化)といふ④〔とは『②〔古人の意(こころ)の外への現れ〕』『内證が熟した』『古言』に證せられる、古人の『心ばへ』を知る、との意〕が、聞えて來る(Eの至大化)らしい。さう訓むのが正しいといふ證據が、外部に見附かつたわけではない。もし證據はと問はれれば、他にも例はあるが、⑤は、阿禮の語るところを、安萬侶が聞き落したに違ひない、と答へるであらう。これでは證據は要らぬといふ事になりはしないか」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):②への適應正常。 P289關係論:①『なべての地を阿禮が語と定めて』(物:場 C‘)②安萬侶の表記(物:場 C‘)③古人の『心ばへ』(物:場 C‘)④古言の『ふり』(物:場 C‘)⑤『言靈』(物:場 C‘)⇒からの關係:先づ、①、仕事は始まつたのである。『阿禮が語』を『漢(から)のふりの厠(まじ)らぬ、清らかなる古語』と定めて、といふ意味だ。②が、今日となつては、もう謎めいた符號に見えようとも、その(②の)背後には、そのままが③であると言つていい④〔古人の意(こころ)の外への現れ〕がある、文句の附けやうのなく明白な、「❻:生きた⑤の働き(即ち、轉義D1の至大化)といふ實體が在る、それを確信する事によつて、⑧の仕事は始まつた」(D1の至大化)⇒「⑦:自主獨往の道」(❻的概念F)⇒E:其處〔③④=⑤の働きの實體〕に到達出來るといふ確信、或は到達しようとする意志、さういふもの〔到達出來るといふ確信・意志〕が基本となつてゐる(Eの至大化)と見做さないと、⑧の學問の『ふり』〔『古人の意(こころ)の外への現れ』を訓み表す。即ち、P287「宣長の學問の方法の具體的な『ふり』の適例」を指す〕といふものは、考へにくいのである。さういふもの〔③④=⑤の働きの實體、に到達出來るといふ確信・意志〕が、嚴密な研究のうちにも、言はば、⑦をつけてゐるといふ事があるのだ」(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧宣長(△枠):①③④⑤への適應正常。 P290關係論:①證言(物:場 C‘)②證據(物:場 C‘)③歴史研究(物:場 C‘)⇒からの關係:凡庸な⑥は、外から與へられた①やら②やらの權威から、なかなか自由になれないものだ。①②のただ受身な整理が、③の風を裝つてゐるのは、極く普通の事だ。さういふ研究者達の心中の空白ほど、⑦の心から遠いものはない事を思へばよい。と言つて、⑦は、心のうちに、何も餘計なものを貯へてゐるわけではない。「➍:その心は、ひたすら觀察し、批判しようとする働きで充たされて、隅々まで透明(所謂『無私』?)なのである」(D1の至大化)⇒「⑤:強い人柄」(➍的概念F)⇒E:「ただ、何が知りたいのか、知る爲にはどのやうに問へばよいのか、これを決定するのは自分自身であるといふはつきりした自覺が、その研究を導くのだ。研究の方法を摑んで離さないのは、つまるところ、⑦の⑤なのである。彼は、②など要らぬと言つてゐるのではない。與へられた①の言ふなりにはならぬ〔とは即ち、古言の『ふり』・古人の『心ばへ』を知る・生きた『言靈』の働きといふ實體に到達出來るといふ確信がある〕、と言つてゐるまでなのだ」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥歴史家達⑦宣長(△枠):①②への適應正常。 P290《宣長の古學の仕事は、その主題をはつきり決めて出發してゐる。主題となる古事(ふること)とは、内にある古人の意(こころ)の外への現れとしての出來事。この現れ〔内にある古人の意(こころ)の外への現れ〕を、宣長は『ふり』と言ふ。古學する者にとつて、古事の眼目は、眼には手ぶり〔即ち『内にある古人の意(こころ)の外への現れ』〕となつて見え、耳には口ぶり〔即ち『内にある古人の意(こころ)の外への現れ』〕となつて聞える、その『ふり』である》 兼題、披書視古: 古事(ふるごと)の ふみをらよめば いにしへの てぶりこととひ 聞見るごとし(『古事記傳』完成時日:寛政十年九月十三日) P290關係論:①歌(物:場 C‘)②『古事記傳』(物:場 C‘)③『古事のふみ』(物:場 C‘)④『古事記』(物:場 C‘)⇒からの關係:これ(上歌)は、ただの喜びの①ではない。②終業とは、彼には遂にこのやうな詠歌に到つたといふその事であつた。「❺:①は、そのまま、彼が③を披(ひら)いて、己に課した問題の解答(D1の至大化)である事を示してゐる」(D1の至大化)⇒「⑥:内にある古人の意(こころ)」(❺的概念F)⇒E:「④といふ③に記されてゐる『古事(ふるごと)』とは何か。⑦の古學の仕事は、その主題をはつきり決めて出發してゐる。主題となる古事(ふるごと)とは、過去に起つた單なる出來事ではなく、古人によつて生きられ、演じられた出來事だ。外部から見ればわかるやうなものではなく、その内部に入り込んで知る必要のあるもの、⑥の外への現れとしての出來事、さういふ出來事に限られるのである。この現れ〔⑥の外への現れ〕を、⑦は『ふり』と言ふ。古學する者にとつて、古事の眼目は、眼には手ぶり〔即ち『⑥の外への現れ』〕となつて見え、耳には口ぶり〔即ち『⑥の外への現れ』〕となつて聞える、その『ふり』である」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):①②への適應正常。 P291關係論:①學問(物:場 C‘)②歴史認識(物:場 C‘)③宣長の歌(物:場 C‘)④證言(物:場 C‘)⇒からの關係:①の上から言つても、正しい②といふものは、さういふ處〔内にある古人の意(こころ)の外への現れ〕にしかない、といふ確信が③に歌はれてゐるのである。過去があつたと言ふ④が現存してゐれば、過去が現在に蘇るといふわけのものではあるまい。「❺:②の發條は、④のうちにはないからだ」(D1の至大化)⇒「⑥:古人が生きた經驗」(❺的對立概念F)⇒E:「⑥(『言靈』?)を、現在の自分の心のうちに迎へ入れて(即ち、轉義D1の至大化)、これを生きてみる(即ち、合體Eの至大化)といふ事は、歴史家が自力でやらなければならない事だ」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①②への適應正常。 P291《(新しい意味を帶びる)歴史傳統の構造〔即ち『言靈』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)〕を確める(D1の至大化)事が、宣長にとつて『古へを明らめる』といふ事であつた》 P291關係論:①過去の姿(物:場 C‘)②現在の關心(物:場 C‘)③新しい意味(物:場 C‘)④歴史傳統の構造(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。そして①が歪められず、そのまま自分の②のうちに蘇つて來る(即ち、轉義D1の至大化)と、これは、おのづから③を帶びる(D1の至大化)、「❺:さういふ(③を帶びる)④(即ち『言靈』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)を確める事が、⑦にとつて『古へを明らめる』といふ事であつた」(D1の至大化)⇒「⑥:『古事記傳』」(❺的概念F)⇒E:「史料の提供する證言にしても、證據にしても、この認識〔④(即ち『言靈』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)を確める=『古へを明らめる』〕を働かす爲に使用される道具に過ぎず、⑥に見られるのは、それら(證言・證據)が、⑦の言ひなりに使はれてゐる(Eの至大化)有樣である」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):①④への適應正常。 P291關係論:①生きられた過去(物:場 C‘)②現在の己の生き方(物:場 C‘)③人間經驗の多樣性(物:場 C‘)⇒からの關係:總じて①〔遠い昔のもの・最近のもの・他人のもの・己自身のもの〕を知るとは、②を知る事に他なるまい。それ(①を知る)は、③を、どこまで己の内部に再生(D1の至大化)して、これを味ふ(D1の至大化)事が出來るか、「➍:その(③の)一つ一つについて、自分の能力を試してみる(D1の至大化)といふ事だらう」(D1の至大化)⇒「⑤:自己主張の自負」(➍的對立概念F)⇒E:「かうして、確實に自己に關する知識を積み重ねて行くやり方は、自己から離脱する事を許さないが、又、其處には⑤も育ちやうがあるまい(Eの至小化)」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①③への適應正常。 P292關係論:①歴史(物:場 C‘)②己(物:場 C‘)③年表(物:場 C‘)⇒からの關係:①を知るとは、②を知る事だといふ、このやうな道が行けない⑥には、言はば、③といふ①を限る枠しか摑めない。「➍:③的枠組みは、事物の動きを象り、その慣性に従つて存續するが、」(D1の至大化)⇒「⑤:人の意(こころ)」(➍的對立概念F)⇒E:「⑤で充された中身の方は、その生死を、後世の⑤に託してゐる(即ち、合體Eの至大化)」(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥歴史家(△枠):①への適應異常。 P292《倭建命の『言とひ』(物:場 C‘)は、宣長の意(こころ)に迎へられて(即ち、轉義D1の至大化)、『如此(かく)申し給へる御心のほどを思ひ度(はか)り奉るに、いといと悲哀(かな)しとも悲哀(かなし)き御語りにざりける』といふ、しつかりした應答を得る(即ち、合體Eの至大化)までは、息を吹き返した(即ち、合體Eの至大化)ことなど、一ぺんもなかつた(Eの至小化)のである》 P292關係論:①倭建命の『言とひ』(物:場 C‘)⇒からの關係:①は、「➋:④の意(こころ)に迎へられて(即ち、轉義D1の至大化)、」⇒「③:しつかりした應答」(➋的概念F)⇒E:「『如此(かく)申し給へる御心のほどを思ひ度(はか)り奉るに、いといと悲哀(かな)しとも悲哀(かなし)き御語りにざりける』といふ、③を得る(即ち、合體Eの至大化)までは、息を吹き返した(即ち、合體Eの至大化)ことなど、一ぺんもなかつた(Eの至小化)のである」(③への距離獲得:即ち、合體Eの至大化)⇒④宣長(△枠):①への適應正常。 P292關係論:①歴史(物:場 C‘)②人間の行動(物:場 C‘)③中心點(物:場 C‘)⇒からの關係:①を限る枠(年表)は動かせないが、「➍:枠の中での②は自由(D1の至大化)でなければ、①はその③を失ふ(D1の至小化)であらう」⇒「⑤:倭建命の『ふり』」(➍的概念F)⇒E:「⑤〔即ち『内にある古人の意(こころ)の外への現れ』〕をこの點(③)に据ゑ、今日も働いてゐる(即ち、轉義D1の至大化)その魅力を想ひめぐらす(即ち、合體Eの至大化)、さういふ、誰にも出來る全く素朴な經驗(魅力を想ひめぐらす)を、學問の上で、どれほど擴大し或は深化(即ち『言靈』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)する事が出來るか、⑥の仕事〔古學する者にとつて古事の眼目は『ふり:内にある古人の意(こころ)の外への現れ』」P290〕は、その驚くべき例を示す」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①への適應正常。 P292關係論:①『古事記』(物:場 C‘)②古人の『てぶり言とひ』(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。それ(學問上での擴大深化)は、①で始められた②〔➌:『内にある古人の意(こころ)の外への現れ』〕が、⇒「④:心眼の世界」(➌的概念F)⇒E:「『古事記傳』(即ち、轉義D1の至大化)といふ⑤の④のうちで、成長し、明瞭化し、完結するといふ姿(即ち、合體Eの至大化)をとる」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①②への適應正常。 |
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〔二十九章〕主題: 《『此間(ここ)の言』(訓讀)の發明。その漢文の格(さま:漢文訓讀)からの脱出(即ち『阿禮:誦習の古語』表記)こそが『古事記』》 norinaga29.pdf へのリンク 274關係論:①『書籍(ふみ:漢書)』(物:場 C‘)②上代日本人(物:場 C‘)③『古事記傳』(物:場 C‘)④言語經驗(物:場 C‘)⑤上代文化(物:場 C‘)⑥『古事記』(物:場 C‘)⇒からの關係:『①と云ふ物渡り参來(まいき)て』幾百年の間、何とかして漢字で日本語を表現しようとした②の努力、惡戰苦闘と言つていいやうな經驗〔とは『此間(ここ)の言(訓讀)』の發明及び、P278『漢字は日本語(口誦のうちに生きてゐた古語)を書く爲に作られた文字ではない』の反省を指す〕。これ(惡戰苦闘)を想ひ描く事が、⑨にとつては、③を書くといふその事であつた。⑨は、「➐:上代人(②)のこの④〔上附記:とは『此間(ここ)の言(訓讀)』の發明及び、云々〕が、⑤の本質を成し、その最も豐かな鮮明な産物〔漢文の格(さま:漢文訓讀)脱出〕が⑥であると見てゐた」(D1の至大化)⇒「⑧:上代文化」(➐的概念F)⇒E:その〔『此間(ここ)の言(訓讀)』の〕複雑な『文體(かきざま)』を分析して、その『訓法(よみざま)』を判定する仕事は、上代人の努力〔『此間(ここ)の言(訓讀)』〕の内部に入込む道を行つて、⑤に直に推參するといふ事に他ならない、と」(⑧への距離獲得:Eの至大化)⇒⑨宣長(△枠):①⑥への適應正常。 P278關係論:①漢字(物:場 C‘)②日本語(物:場 C‘)⇒からの關係:實驗を重ね、①の扱ひ(漢文訓讀による漢文學習)に熟練するといふその事が、「➌:①は②を書く爲に作られた文字ではない、といふ意識を磨ぐ事でもあつた」(D1の至大化)⇒「④:古語」(➌的對立概念F)⇒E:口誦のうちに生きてゐた④が、①で捕へられて、漢文の格(さま:漢文訓讀)に書かれると、變質して死んで了ふ(Eの至小化)といふ、苦しい意識が目覺める(Eの至大化)」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒上代知識人(△枠):①②への適應正常。 P278關係論:①日本語(物:場 C‘)②『古事記』⇒からの關係:(承前)この①に關する、⑤の「➌:最初の反省〔口誦のうちに生きてゐた古語が、漢文の格(さま:漢文訓讀)に書かれると、變質して死んで了ふ〕が、②を書かせた」(D1の至大化)⇒「④:日本の歴史」(➌的概念F)⇒E:④は、外國文明の模倣によつて始まつたのではない。模倣(漢文訓讀による漢文學習)の意味を問ひ、その答へ(即ち➌)を見附けたところに始まつた、②はそれを證してゐる。宣長はさう見てゐた」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤日本人(△枠):①②への適應正常。 P278關係論:①天武天皇(物:場 C‘)②『古事記』(物:場 C‘)③『古語』(物:場 C‘)⇒からの關係:序で語られてゐる①の②撰録の理由(參照P279)にしても、①の意は③の問題にあつた。「➍:③が失はれれば、それと一緒に『古の實(まこと)のありさま』も失はれるといふ問題にあつた、⑥は、さう直ちに見て取つた。彼の見解は正しいのである。ただ、正しいと言ひ切るのを、現代人はためらふだけであらう」(D1の至大化)⇒「⑤:『ふるごと』」(➍的概念F)⇒E:⑤とは、『古事』でもあるし、『古言』でもある、といふ⑥の眞つ正直な考へが、何となく子供じみて映るのも、事實(古事)を重んじ、言語を輕んずる現代風の通念から眺めるからである。だが、この通念〔事實(古事)偏重(Eの至小化)〕が養はれたのも、客觀的な歴史事實といふやうな、愼重に巧まれた現代語の力を信用すればこそだ、と氣附いてゐる人は極めて少い」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①②③への適應正常。 |
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以下は〔二十九章〕各項目纏め |
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P《問ふ人の問ひ方に應じて、平氣で、いろいろに答へもするところに、歴史(物:場 C‘)といふものの本質的な難解性(D1の至小化)がある。現代風な歴史學(津田左右吉著)の方法で照明されると、宣長の古學は、僻見から出發してゐる姿に見える(Eの至小化)、さういふところに、①の奥行きとでも言ふべきものが、おのづから、現れて來る(Eの至大化)》 P270關係論:①津田左右吉氏の『記紀』研究(物:場 C‘)②『記紀』(物:場 C‘)⑤六世紀前後(場 C‘)⑥大和朝廷(物:場 C‘)⇒からの關係:①〔即ち『神代史の新しい研究』等〕は②の所傳に關して、今までにない、「➌:凡そ徹底した所謂科學的批判(D1の至大化)が行はれたといふ事で名高いもの」⇒「④:日本民族の歴史」(➌的對立概念F)⇒E:②は、⑤の⑥が、皇室の日本統治を正當化せんが爲の、基本的構想に従つて、書かれたもの。④といふやうなものではない。この結論(②は皇室の日本統治を正當化せんが爲のもの)に行きつく爲になされた②の歴史資料としての價値吟味(E:即ち唯物史觀)は、今日の⑦に大きく影響(Eの至大化)し、言はばその仕事(古代史研究)の土臺を提供した」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦古代史研究家達(△枠):①への適應正常。 P270關係論:①『古事記』(物:場 C‘)②宣長の『古事記傳』(物:場 C‘)⇒からの關係:①の由來についての②は、「➌:一種の僻見が行はれてゐる」(D1の至小化)⇒「④:阿禮の誦習」(➌的概念F)⇒E:正しく讀めば①の序には、そのやうな④についての宣長記述は書かれてゐない、と(詳細はP271參照)。宣長の誤解(Eの至小化)は、①に現れた國語表現といふものを、重く考へすぎたところから起つた、と⑤曰く」(③への距離:E)⇒⑤津田左右吉(△枠):①への適應。 P270關係論:①歴史(物:場 C‘)④宣長の古學⇒からの關係:問ふ人の問ひ方に應じて、平氣で、いろいろに答へもするところに、「➋:①といふものの本質的な難解性(D1の至小化)があるのであらうか」⇒「③現代風な歴史學(津田左右吉著)」(➋的對立概念F)⇒E:③の方法で照明されると、④は、僻見から出發してゐる姿に見える(Eの至小化)、さういふところに、①の奥行きとでも言ふべきものが、おのづから、現れて來る(Eの至大化)のが感じられて面白く思ふ」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒小林(△枠):①への適應正常。 |
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P278《『此間(ここ)の言』(訓讀)の發明と、其處からの脱出(阿禮:誦習の表記)こそが『古事記』》 P272關係論:①『古事記』(物:場 C‘)⇒からの關係:④が、①の研究を、『これぞ大御國の學問(ものまなび)の本なりける』と書いてゐるのを讀んで、(津田左右吉が?)彼の激しい喜びが感じられない(D1の至小化)やうでは、仕方がない。④にとつて、①とは、吟味すべき「➋:單なる史料でもなければ、何かに導き、何かを證する文獻でもなかつた」(D1の至小化)⇒「③:古人の『言語(ものいひ)のさま』」(➋的概念F)⇒E:そつくりそのままが、古人の語りかけて來るのが直に感じられる、その③であつた。耳を澄まし、しつかりと聞かうとする④の張りつめた期待に『①序』の文が應じたのであつた。『辭』といふ言葉にしても文章と讀者との間の、そのやうな尋常な人間關係のうちで讀まれた」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④宣長(△枠):①への適應正常。 P272關係論:①『辭』(物:場 C‘)②『古事記序』⇒からの關係:津田氏の考へは①の「➌:字義の分析の上に立つ全く理詰めのもの」(D1の至小化)⇒「④:讀者の鋭敏性」(➌的對立概念F)⇒E:それに對し、⑤の考へは、序(②)を信ずる④から、決して離れようとしない(Eの至大化)」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①②への適應正常。 P273關係論:①阿禮(物:場 C‘)②安萬侶(物:場 C‘)③語部(物:場 C‘)⇒からの關係:①といふ人間にしても、②の語り口を見れば、ただ有能な史(ふびと:書記官)と受取るわけにはいかないといふのだ。③といふ事は言はれてゐないが、「❹:何かさういふ(③といふ)含みのある人間と感じ取られてゐる事は明らか」(D1の至大化)⇒「⑤:『誦習(よみならひ)』」(❹的概念F)⇒E:それに順じて、⑤といふ言葉も、大變微妙な含みで、使はれてゐる(Eの至大化)事は、『古事記傳』を注意して讀む者にははつきりした事だ。⑥にしてみれば、⑤とは解讀の意味だ、と簡單に片附けて了ふ(Eの至小化)事は到底出來なかつた(Eの至大化)のである」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①②への適應正常。 P273關係論:①漢文の書籍(物:場 C‘)②わが國の上代(場 C‘)③言語生活(物:場 C‘)⇒からの關係:凡そ讀み書きを覺えるといふ道は、①に習熟するより他に、開けてゐなかつたといふ、②の人達が経験してゐた、「❹:③上の、どうにもならぬ條件に、深く思ひを致す者がない」(D1の至小化)⇒「⑤:『古事記』」(❹的概念F)⇒E:それが、⑥が切り開いた考へだ。そして、この考へに彼を導いたのは、⑤といふただの一つの書であつた(以下參照)」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 ~~~~~~~~~以下參照文~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ P268關係論:①『古事記傳』(物:場 C‘)②『訓法(よみざま)の事』(物:場 C‘)③助字(物:場 C‘)⇒からの關係:①の②のなかには、『古事記』本文中にある「❹:③の種類が悉くあげられ、くはしく説かれてゐる」(D1の至大化)⇒「⑤:古語の世界」(❹的概念F)⇒E:漢文風の文體(かきざま)のうちに埋没した助字を、どう訓むかは、⑤に入る鍵であつた(Eの至大化)」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①③への適應正常。 P268關係論:①助辭(てにをは)(物:場 C‘)②『あやしき言靈のさだまり(格)』(物:場 C‘)⇒からの關係:①を考へて得た、この(①の)②が、文字を知らぬ⑤の口頭によつて、「➌:口頭によつてのみ、傳へられた事について」(D1の至大化)⇒「④:關心」(➌的概念F)⇒E:⑥の④はまことに深い(Eの至大化)ものがあつた」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤上代の人々⑥宣長(△枠):①②への適應正常。 ~~~~~~~~~~~以上參照~~~~~~~~~~~~~ 〔宣長曰く『かならず詞を文(あや:即ち歌)なさずても有るべきかぎりは、みな漢文にぞ書りける』について〕 P273關係論:①古語(ふること。物:場 C‘)②國語の表記法(物:場 C‘)③詞の文(あや)(物:場 C‘)④韻文(物:場 C‘)⇒からの關係:⑦の考へは、大變はつきりしたもので、假字によつて、①のままに書くといふ②は、「❺:③を重んずる④(即ち歌)に關してだけ發達したと見た」(D1の至大化)⇒「⑥:國語の音聲上の文(あや)」(❺的概念F)⇒E:③とは、文字を知らなかつた日本人が育て上げた、⑥を言ふ。これ(③)は漢譯が利かない(Eの至小化)。『國語は先づ歌(韻文はその謂ひ)として生まれた』といふのが⑦の考へ」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):①②への適應正常。 P274關係論:①歌の集(ふみ:『萬葉集』)(物:場 C‘)②歌の表記(物:場 C‘)⇒からの關係:①が編みたくなる、さういふ時期が到來すると、「➌:假字による②の工夫(萬葉假名:D1の至大化)は、一應の整備を見る」(D1の至大化)⇒「④:漢文の格(さま)」(➌的對立概念F)⇒E:それでも同じ集(ふみ:①)の中で、まるでこれに抗するやうな姿で、『かならず詞を文(あや:即ち歌)なさずても有るべきかぎりは』④に書かれてゐる異様な有樣(Eの至小化)〔とは次項の『此間(ここ)の言(訓讀)』を指す〕は、古學者たるものが、しつかりと着目しなければならぬところだ、と⑤は言ひたいのである」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):②への適應正常。 P274關係論:①『書籍(ふみ:漢書)』(物:場 C‘)②上代日本人(物:場 C‘)③『古事記傳』(物:場 C‘)④言語經驗(物:場 C‘)⑤上代文化(物:場 C‘)⑥『古事記』(物:場 C‘)⇒からの關係:『①と云ふ物渡り参來(まいき)て』幾百年の間、何とかして漢字で日本語を表現しようとした②の努力、惡戰苦闘と言つていいやうな經驗〔とは『此間(ここ)の言(訓讀)』の發明及び、P278『漢字は日本語(口誦のうちに生きてゐた古語)を書く爲に作られた文字ではない』の反省を指す〕。これ(惡戰苦闘)を想ひ描く事が、⑨にとつては、③を書くといふその事であつた。⑨は、「➐:上代人(②)のこの④〔上附記:とは『此間(ここ)の言(訓讀)』の發明及び、云々〕が、⑤の本質を成し、その最も豐かな鮮明な産物が⑥であると見てゐた」(D1の至大化)⇒「⑧:上代文化」(➐的概念F)⇒E:その〔『此間(ここ)の言(訓讀)』の〕複雑な『文體(かきざま)』を分析して、その『訓法(よみざま)』を判定する仕事は、上代人の努力〔『此間(ここ)の言(訓讀)』〕の内部に入込む道を行つて、⑤に直に推參するといふ事に他ならない、と」(⑧への距離獲得:Eの至大化)⇒⑨宣長(△枠):①⑥への適應正常。 P275關係論:①訓讀(物:場 C‘)②漢字(物:場 C‘)③國語表現(物:場 C‘)⇒からの關係:①〔つまり『此間(ここ)の言』〕といふものが、②による「➍:③の基礎となつた、と⑥は言ふ」(D1の至大化)⇒「⑤:自國語」(➍的概念F)⇒E:②漢文を、①〔『此間(ここ)の言』〕によつて受止めて、遂にこれを⑤のうちに消化して了ふといふ、鋭敏で、執拗な知慧は、恐らく漢語に關して、日本人だけが働かしたもの」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①への適應正常。 P275關係論:①和訓(物:場 C‘)②漢字(物:場 C‘)③日本語(物:場 C‘)⇒からの關係:①の發明(D1の至大化)とは、はつきりと一字で一語を表はす②が、「➌:形として視覺に訴へて來る著しい性質を、素早く捕へて、これに同じ意味合を表す③を連結する事だつた」(D1の至大化)⇒「④:日本文字」(➌的概念F)⇒E:これが爲に②は、わが國に渡來して、文字としてのその本來の性格を變へて了つた。②の形は保存しながら、實質的には、④と化したのである。これは非常に長い時間を要する仕事。時間だけが解決し得た難題を抱いて、日本人は實に長い道を歩いた。それといふのも、仕事は①の發明といふ、一種の放れ業(詳細:P275~6參照)とでも言つていいものから始まつてゐるからだ」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒上代人(△枠):①への適應正常。 P276關係論:①話される言葉(物:場 C‘)②書かれた言葉(物:場 C‘)③言語生活(物:場 C‘)⇒からの關係:①しかしらなかつた世界を出て、②を扱ふ世界に這入る、「➍:そこに起つた⑥の③上の異變(D1の至小化)は、大變なものだつたであらう(中略:參照P276)」(D1の至大化)⇒「⑤:自問自答」(➍的概念F)⇒E:(簡略すれば)「文字の扱ひ(②)に慣れるのは、黙して⑤が出來る(Eの至大化)といふ道を、開いて行く道だと言へよう」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥上代人(△枠):②への適應正常。 P276關係論:①言語(物:場 C‘)⇒からの關係:①がなかつたら、誰も考へる事も出來まいが、「➋:讀み書きにより文字の扱ひに通じる(D1の至大化)やうにならなければ、考への正確は期し得まい」(D1の至小化)⇒「③:無聲の文字」(➋的概念F)⇒E:個人個人の生活感情にあまり密着しすぎた音聲言語を、③で固定し、整理し、保管(Eの至大化)するといふ事が行はれなければ(Eの至小化)、概念的思考の發達は望まれまい(Eの至小化)」(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒上代人(△枠):①への適應困難性。 P277關係論:①文物(物:場 C‘)②漢文(物:場 C‘)⇒からの關係:向うの優れた①の輸入といふ、實際的な目的に従つて、②も先づ受取られたに相違なく、それには、②によつて何が傳達されたのか、「➌:その(②の)内容を理解して(D1の至大化)、應用の利く智識として吸収(D1の至大化)しなければならぬ」(D1の至大化)⇒「④:此間(ここ)の言(訓讀)」(➌的概念F)⇒E:その爲には、宣長が言つたやうに、『書籍(ふみ:漢書)と云ふ物』を、『④もて讀みなら』ふ事が捷徑(近道)だつた」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒上代人(△枠):②への適應正常。 P277關係論:①漢字(物:場 C‘)⇒からの關係:①の持つ嚴しい顏には、壓倒的なもの(D1の至大化)があり、何時の間にか、これに屈從(D1の至小化)してゐたであらう。屈從する(D1の至小化)とは、「➋:壓倒的な豊富な語彙が、そつくりそのままの形で、流れ込んで來るにまかせる(D1の至小化)といふ事だつた」(D1の至小化)⇒「③:極めて意識的な、知的な作業」(➋的概念F)⇒E:それなら、それぞれの語彙に見合ふ、凡その意味を定めて、早速理解(Eの至大化)のうちに整理しようと努力(Eの至大化)しなければ、どうなるものでもない。この③が、漢文訓讀による漢文學習(Eの至大化)といふものであつた。これ(漢文訓讀による漢文學習)が、わが國④といふものを仕立てあげ、その教養の質を決めた。これが日本の文明は、漢文明の模倣で始まつたと、誰も口先だけで言つてゐる言葉の中身をなす」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④上代の教養人(△枠):①への適應正常。 P278關係論:①漢字漢文(物:場 C‘)⇒からの關係:①の模倣(漢文訓讀による漢文學習)は、「➋:自信を持つて、徹底的に行はれた」(D1の至大化)⇒「③:知的訓練」(➋的概念F)⇒E:④は、一般生活人達に親しい、自國の口頭言語(F)の曖昧な力から、思ひ切りよく離脱(Eの至大化)して、視力と頭腦による①の模倣(漢文訓讀による漢文學習)といふ、自己に課した③とも言ふべき道を、遅疑なく眞つ直ぐ(Eの至大化)に行つた」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④知識人達(△枠):①への適應正常。 P278關係論:①漢文(物:場 C‘)②文體(かきざま)(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)そして遂に、模倣(漢文訓讀による漢文學習)の上で自在を得て(D1の至大化)、①の②にも熟達し(D1の至大化)、「➌:正式な文章と言へば、①の事と、誰もが思ふやうになる」(D1の至大化)⇒「④:反省的意識」(➌的對立概念F)⇒E:其處までやつてみて、⑤の④に、初めて自國語の姿が、はつきり映じて來る(Eの至大化)といふ事が起つたのであつた」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤上代知識人(△枠):①②への適應異常。 P278關係論:①漢字(物:場 C‘)②日本語(物:場 C‘)⇒からの關係:實驗を重ね、①の扱ひ(漢文訓讀による漢文學習)に熟練するといふその事が、「➌:①は②を書く爲に作られた文字ではない、といふ意識を磨ぐ事でもあつた」(D1の至大化)⇒「④:古語」(➌的對立概念F)⇒E:口誦のうちに生きてゐた④が、①で捕へられて、漢文の格(さま:漢文訓讀)に書かれると、變質して死んで了ふ(Eの至小化)といふ、苦しい意識が目覺める(Eの至大化)」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒上代知識人(△枠):①②への適應正常。 P278關係論:①日本語(物:場 C‘)②『古事記』⇒からの關係:(承前)この①に關する、⑤の「➌:最初の反省〔口誦のうちに生きてゐた古語が、漢文の格(さま:漢文訓讀)に書かれると、變質して死んで了ふ〕が、②を書かせた」(D1の至大化)⇒「④:日本の歴史」(➌的概念F)⇒E:④は、外國文明の模倣によつて始まつたのではない。模倣(漢文訓讀による漢文學習)の意味を問ひ、その答へ(即ち➌)を見附けたところに始まつた、②はそれを證してゐる。宣長はさう見てゐた」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤日本人(△枠):①②への適應正常。 P278關係論:①天武天皇(物:場 C‘)②『古事記』(物:場 C‘)③『古語』(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)従つて、序で語られてゐる①の②撰録の理由(參照P279)にしても、①の意は③の問題にあつた。「➍:③が失はれれば、それと一緒に『古の實(まこと)のありさま』も失はれるといふ問題にあつた、⑥は、さう直ちに見て取つた。彼の見解は正しいのである。ただ、正しいと言ひ切るのを、現代人はためらふだけであらう」(D1の至大化)⇒「⑤:『ふるごと』」(➍的概念F)⇒E:⑤とは、『古事』でもあるし、『古言』でもある、といふ⑥の眞つ正直な考へが、何となく子供じみて映るのも、事實(古事)を重んじ、言語を輕んずる現代風の通念から眺めるからである。だが、この通念〔事實(古事)偏重(Eの至小化)〕が養はれたのも、客觀的な歴史事實といふやうな、愼重に巧まれた現代語の力を信用すればこそだ、と氣附いてゐる人は極めて少い」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①②③への適應正常。 |
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〔二十八章〕主題: *小林秀雄著『本居宣長』: 二十八章主題《『古事記』と阿禮『誦習(よみならひ)』〔とは、助辭(てにをは)を明確に現す『祝詞・宣命』(言靈)の語部を言ふ〕。その「關係論」的纏め》 P266關係論:①『古事記』(物:場 C‘)②稗田阿禮(物:場 C‘)③古語(物:場 C‘)④『誦習(よみならひ)』(物:場 C‘)⇒からの關係:「②の誦(よ)み習ふ③を、忠實に傳へる(D1の至大化)のが①の目的である」と言ふ次第で、「❺:⑦は、①を考へる上で、②の④を〔助辭(てにをは)を明確に現す『祝詞・宣命』であるが故に〕、非常に大切(D1の至大化)な事と見た」⇒「⑥:修史の仕事」(❺的概念F)⇒E:記録の内容を旨とする仕事なら、『日本書紀』の場合の樣に、古記録の編纂で事は足りた筈。同時期に行はれた①といふ⑥では、その旨とするところが、内容よりも表現にあつた。その爲に、②の起用が、どうしても必要になつた。⑦曰く、②の仕事も『漢文の舊記に本づいた』のだが、『直(ただ)に書(ふみ)より書にかきうつしては、本の漢字のふり離れがた』いので、『語のふりを、此間(ここ)の古語にかへして、口に唱へこころみしめ賜へるものぞ』(『古事記傳』)と」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):①②④への適應正常。 P268關係論:①助辭(てにをは)(物:場 C‘)②『いともあやしき言靈のさだまり(格)』(物:場 C‘)③祝詞、宣命(物:場 C‘)⇒からの關係:『萬葉』では、歌の句調にはばまれ、『記紀』では、漢文のふりに制せられて、現れ難(にく)かつた、①が、③には、はつきりと現れてゐる(D1の至大化)、といふ⑥の發見。その(③)の誦習(よみならひ)の語部(かたりべ)である、『阿禮』(物:場 C‘)は、『有れ』であり、『御生(みあ)れ』、即ち神の出現の意味だ。名前からして、神懸りの巫女を指してゐる(參照『古事記傳』)。この(①の)②が、〔巫女:語部(かたりべ)〕から、文字を知らぬ⑥の口頭によつて、「❹:口頭によつてのみ、傳へられた事について」⇒「⑤:關心」(❹的概念F)⇒E:⑦の⑤はまことに深い(Eの至大化)ものがあつた。①には、係り結びに關する法則的な『ととのへ』、或は『格(さだまり)』と言ふべきものがある。⑦は、これ〔法則的な『ととのへ』『格(さだまり)』(Eの至大化)〕を、②と呼んだ。國語に、この獨特の基本構造(即ち①②)があればこそ、國語(『言靈』?)はこれ(①②)に乘じて(即ち、轉義D1の至大化)、われわれの間を結び(即ち『言靈』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)、『いきほひ』(Eの至大化)を得、『はたらき』(Eの至大化)を得て生きる(即ち、合體Eの至大化)のである、⑦はさう考へてゐた。文字を知らぬ昔の人々が、唱へ言葉や語り言葉のうちに、どのやうな情操を、長い時をかけ、細心にはぐくんで來たか。さういふ事について、文字に馴れ切つて了つた、當時の教養人達は鈍感に無關心であつた、と(『古事記傳』)」⇒⑥上代の人々⑦宣長(△枠):①②への適應正常。 |
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以下は〔二十八章〕各項目纏め |
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P257《『古事記』(物:場 C‘)と『日本書紀』(物:場 C‘)では、その撰錄上の意圖がまるで異なる。宣長は、これ(撰錄上の意圖)を詳しく、確かに語つた最初の學者である。正史(物:場 C‘)としての體裁を整へるのに熱中してゐた、世世の識者は、わが國(場 C‘)の古傳古意(物:場 C‘)を、漢文體で現す無理(D1の至小化)には氣附かなかつた》 P257關係論:①『源氏』(物:場 C‘)②本質(物:場 C‘)③原文(物:場 C‘)④古事記(物:場 C‘)⑦日本書紀(物:場 C‘)⑧題號(な)(物:場 C‘)⇒からの關係:⑨は①の②を①の③のうちに直に摑んだ(D1の至大化)。その「❺:素早い端的な摑み方(D1の至大化)は④の場合でも全く同じである」⇒「⑥:文體(かきざま)」(❺的概念F)⇒E:大事なのは⑨に言はせれば、③の⑥にある。⑥の在るがままの姿(F)をはつきり捕へる眼力(Eの至大化)さへあれば、⑥の一番簡單な形(物:場 C‘)として、④⑦といふ⑧」が並んでゐるだけで、その(⑧の)姿(F)の別は見える筈だと言ふ」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑨宣長(△枠):①④⑦への適應正常。 P257關係論:①『日本書紀』(物:場 C‘)⑥『古事記』(物:場 C‘)⇒からの關係:①を『④に見せむことをしも、』「➋:『主(むね)として、名づけられむは、いよいよわろしかし(D1の至小化)』」⇒「③:何の奇もない」(➋的對立概念F)⇒E:⑤には、健全なものは、③當り前なもの(Eの至大化)だ、といふどんな場合(物:場 C‘)にも動かぬ、深い思想(D1の至大化)があり、それが、大事な判斷(D1の至大化)となると、必度(きつと)顏を見せるのである。⑥の健康な姿(F)に比べると、①は病身(F)に見えた」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④外つ國人⑤宣長(△枠):①⑥への適應正常。 P258關係論:①『古事記』(物:場 C‘)②『日本書紀』(物:場 C‘)⇒からの關係:①と②では、その「➌:撰錄上の意圖がまるで異なる」(D1の至大化)⇒「④:最初の學者」(➌的概念F)⇒E:⑤はこれ(撰錄上の意圖)を詳しく、確かに語つた④である」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①②への適應正常。 P258關係論:①『古事記』(物:場 C‘)②『日本書紀』(物:場 C‘)⇒からの關係:①は、ただ、「➌:古への事を傳へた古への語言(ことば)を失はぬ事を、主(むね)としたものだが」(D1の至大化)⇒「④淺淺(あさあさ)と聞ゆる」(➌的對立概念F)⇒E:②となると、この①の眞っ正直なやり方が、『あまりただありに飾(かざり)なくて、かの漢(から)の國史どもにくらぶれば、見だてなく④』といふ見地に立つたもの(Eの至小化)だ」(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑤撰者達(△枠):①への適應正常。 P258關係論:①正史(物:場 C‘)②わが國(場 C‘)③古傳古意(物:場 C‘)④『日本書紀』(物:場 C‘)⑤『古事記』(物:場 C‘)⇒からの關係:①としての體裁を整へるのに熱中してゐた⑧は、「❻:②の③を、漢文體で現す無理(D1の至小化)には氣附かなかつた」(D1の至小化)⇒「⑦:史書の體裁のよしあし」(❻的概念F)⇒E:④が『表(おもて)立(たて)られ』、⑤が『裏になりて、私し物の如く』扱はれた理由を、率直に考へれば、ただ淺薄な意味合での、⑦にあつたとは奇怪な事だ。『もし(⑧に)漢(から)に邊(へ)つらふ心しなくば、彼(漢文體)に似ずとて何事かはあらむ』(古事記傳)(⑦への距離不獲得:Eの至大化)⇒⑧世世の識者(ものしりびと△枠):⑤への適應異常。 |
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P258《『古事記傳』(物:場 C‘)といふ劃期的な仕事は、非常に確實な研究だつた(D1の至大化)。總論的に述べられた研究の諸見解(F)も、今日の學問の進歩を以てしても、殆ど動じない(Eの至大化)》 P258關係論:①『古事記傳』(物:場 C‘)⇒からの關係:①といふ劃期的な仕事は、「➋:非常に確實な研究だつた(D1の至大化)」⇒「③:本文の批評や訓法」(➋的概念F)⇒E:③の決定は言ふに及ばず(Eの至大化)、總論的に述べられた研究の諸見解(F)も、今日の學問の進歩を以てしても、殆ど動じない(Eの至大化)」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 P258關係論:①學問上の成績(物:場 C‘)②『學問の本意』(物:場 C‘)⇒からの關係:確實な①を乘せた(D1の至大化)⑤の心の喜び(D1の至大化)と嘆き(D1の至小化)との大きなうねりがあるので、「➌:これ(喜嘆の大きなうねり)がなくては、彼(⑤)に、彼の言ふ②(以下參照)の道は開けた(D1の至大化)筈はなからう」⇒「④:『古事記』(➌的概念F)⇒E:彼の眼は静かで冴えてゐた(Eの至大化)が、傍觀者の眼(Eの至小化)ではなかつた。④といふ對象(F)は、程よい距離を置いて冷静に調査された(Eの至小化)のではない。彼は④のうちにゐて、これ(④の天武天皇の志、即ち起本年『申の年』)と合體(Eの至大化)してゐた」〔とはつまり、『言靈』の、『古事記』へ轉義D1の至大化=天武天皇(申の年)へ合體Eの至大化、といふ事では?〕(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):②への適應正常。 ~~~~~~以下參照~~~~ 《宣長(△枠)は、契沖の學問(物:場 C‘)の方法(訓詁の新しい方法:D1の至大化)と精神〔學問の本意『俗中之眞』(物:場 C‘)〕との違ひを、はつきり見てゐた(D1の至大化)》 關係論:①契沖の沈黙(物:場 C‘)②『俗中之眞』(物:場 C‘)⇒からの關係:⑤が「③:直覺(D1の至大化)し、吾が物(『私物』△枠)とせん(D1の至大化)としたのは、この①(即ち②)である」(D1の至大化)⇒「④:考證訓詁の精到」(③的概念F)⇒E:④を期する契沖は「營々たる努力(Eの至大化)の裏に、②は秘めて置け(D1の至大化)ば、足りるものであつた」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①への適應正常。關係論:①契沖の學問(物:場 C‘)②精神(物:場 C‘)③學問の本意『俗中之眞』(物:場 C‘)⇒からの關係:⑥は①の方法(D1の至大化)と②との「④:違ひを、はつきり見てゐた。その新しい②(③)を語る事はむつかしかつた」(D1の至小化)⇒「④:訓詁の新しい方法」(④的對立概念F)⇒E:④を「『もどく』(眞似る)事(E)は用意(Eの至大化)だとしても」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):③への適應異常。 ~~~~~~以上參照~~~~ P259《宣長は、『古事記』のうちにゐて、これ(『古事記』の天武天皇の志、即ち起本年『申の年』)と合體(Eの至大化)してゐた。先ず天武天皇の志が、しつかりと信じられなければ(即ち合體=『申の年』)、自分の仕事はなかつたといふ思ひであらう》 P259關係論:①『古事記』(物:場 C‘)②天武天皇(物:場 C‘)⇒からの關係:(『合體』は)彼自身がさう言つてゐるのである。「➌:①は②の志のよつて成つた(D1の至大化)。と明記されてゐる(宣長『古事記序』)」⇒「④:『申の年』」(➌的概念F)⇒E:①の起本『②の元年、④のなりし』『撰錄の元明天皇の和銅元年も④なり』『(宣長此傳の著初の)明和元年しも又④にあたれることをなむ、竊かに奇しみ思ふ(『古事記』の起本④Fに合體:Eの至大化)』〔つまりは、『言靈』の、『古事記』へ轉義D1の至大化=天武天皇(申の年)へ合體Eの至大化、といふ事では?〕。「先ず②の志が、しつかりと信じられなければ(即ち合體=天武天皇『申の年』)、自分の仕事はなかつたといふ思ひであらう」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①②への適應正常。 P259關係論:①『古事記序』(物:場 C‘)②文體(かきざま)(物:場 C‘)⇒からの關係:①の②に、⑤は躓いたのだが、⑥は愼重であつた。「➌:⑥は言ふ、これは序とは言へ、當時の常式通り、純粋な漢文調で、當代を贊め、文をかざつたのは當然の事と」(D1の至大化)⇒「④:本文」(➌的對立概念F)⇒E:しかし、一層注意すべきは、この常式通りの『序』が、④は常式を破つた(Eの至大化)ものだと、明言してゐる事だ。何故④では常式を破る事になつたか。④はどういふ書きざま(Eの至大化)になつたかを『序』がかたるところは、大事」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤眞淵⑥宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P261《『古事記』の特色は、一切が先づ、阿禮(物:場 C‘)の誦み習ひ(D1の至大化)といふ仕事にかかつてゐる、そこにあつたと眞つすぐに、宣長は考へる。「『辭』の字に眼をつけて(Eの至大化)、天武天皇の此の事おもほしめし立(だち)し大御意(Eの至大化)は、もはら古語(『言靈』?)に在りけることをさとるべし』と」。舊辭(物:場 C‘)とは、阿禮(物:場 C‘)が、『天皇の諷誦(よみ)坐す大御言のままを、誦(よみ)うつし』たものとも考へられる、とまで(宣長は)言つてゐる》 P261關係論:①『古事記序』(物:場 C‘)②安萬侶(物:場 C‘)⇒からの關係:⑤が①の漢文體のこの部分に(波立つ心で)聞き別けたのは、「➌:②の肉聲だつた。疑ひやうもなく鮮やかな、これを信じれば足りるといふやうなものだつた」(D1の至大化)⇒「④:稗田阿禮」(➌的概念F)⇒E:『記の起り』を語る②にとつて、④の存命(五十三歳?)は貴重な事實であり、天武天皇が、④の才能を認められた時、④が未だ若かつた(二十八歳)とは、まことに幸運な事であつた。恐らく⑤はさういふ讀み方をした、と私は考へる」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①②への適應正常。 P261關係論:①『記の起り』(物:場 C‘)②『序』(物:場 C‘)③阿禮(物:場 C‘)⇒からの關係:①の問題に對する⑤の態度は、②の語るところを、そのまま信じ、「➌:『記』の特色は、一切が先づ③の誦み習ひ(D1の至大化)といふ仕事にかかつてゐる、そこにあつたと眞つすぐに考へる」(D1の至大化)⇒「④:『舊辭』」(➌的概念F)⇒E:何故文中、『舊事』とはなくて、④とあるかに注意せよ(Eの至大化)と言ふ。「『辭』の字に眼をつけて(Eの至大化)、天武天皇の此の事おもほしめし立(だち)し大御意(Eの至大化)は、もはら古語(『言靈』?)に在りけることをさとるべし』と」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①への適應正常。 P261關係論:①舊記(ふるきふみ:帝紀)(物:場 C‘)②阿禮(物:場 C‘)③舊辭(物:場 C‘)④『古事記』(物:場 C‘)⇒からの關係:『①の本(まき)をはなれて』、「❺:②といふ『人の口に移』された③が、要するに④の素材を成す、と⑦は考へてゐると、⑧はするのだ」(D1の至大化)⇒「⑥:『勅語』」(❺的概念F)⇒E:更に⑧は、『②に⑥して』とか『⑥の③』とかいふ言葉の使ひ方に、特に留意(Eの至大化)してみるなら、③とは②が『天皇の諷誦(よみ)坐す大御言のままを、誦(よみ)うつし』たものとも考へられる、とまで(⑧は)言つてゐる」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦安萬侶⑧宣長(△枠):③への適應正常。 P261關係論:①『此記(『古事記』)(物:場 C‘)②古語(物:場 C‘)⇒からの關係:『①は、②(『言靈』?)を傳ふるをもはら旨とせられたる書なれば、中昔(なかむかし)の物語文などの如く、「➌:皇國の語のままに、一もじもたがへず、假名書(かながき)にこそせらるべき』。さうしたかつたのが撰者(安萬侶)の本意でもあつたであらう、と⑤は言つてゐる〔文體(かきざま)の事〕」(D1の至大化)⇒「④:國語表記」(➌的概念F)⇒E:この⑥が、その時、實際に強ひられ、味はつた④の苦勞は、まことに面倒なものであつた。この苦勞を、遡つて考へれば、漢字以外には文字を知らなかつたといふ古代日本人の奇怪な言語生活に行き當る」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長⑥先覺者(安萬侶)(△枠):①②への適應正常。 P264《國語(物:場 C‘)に固有な國字(物:場 C‘)がない事、持ち込まれたのができない相談であつた事が、いよいよ切實に感じられて來た。わが國上代の敏感な知識人(△枠)なら、誰もが出會つてゐた(Eの至小化)一種特別な言語問題があつた。明言し難い惱みに堪へてゐた。安萬侶があからさまに語つてゐるのはその事》 P264關係論:①歴史(物:場 C‘)②日本語(物:場 C‘)③漢字(物:場 C‘)⇒からの關係:①は、言つてみれば、②を③で書くといふ、「❹:できない相談を持ち込んだ」(D1の至小化)⇒「⑤:道具」(❹的概念F)⇒E:書く爲の③を渡されたものは、③のくはしい吟味は後まはしにして、なにはともあれ、自家用としてこれを使つてみたであらう。事に黙つて巻き込まれてみなければ、事の眞相に近づく道は開かれてゐなかつたに相違ない」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒當時人(△枠):②への適應異常。 P264關係論:①漢語(物:場 C‘)②漢字(物:場 C‘)③國語(物:場 C‘)④國字(物:場 C‘)⇒からの關係:①に固有な道具としての②の驚くべき働きが、⑦に次第に明らかになつて來るにつれて、③に固有な④がない事、「❺:持ち込まれたのができない相談であつた事が、いよいよ切實に感じられて來た」(D1の至小化)⇒「⑥:特別な言語問題」(❺的概念F)⇒E:わが國上代の敏感な⑧なら、誰もが出會つてゐた(Eの至小化)一種⑥があつた。理窟の上で割り切る事は出來ないが、生きて何とか納得しなければならない、明言し難い惱みに堪へてゐた。教養人の書く正式な文章とは漢文の通念も惱みを増幅した。安萬侶があからさまに語つてゐるのはその事」(⑥への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑦日本人⑧知識人(△枠):①③への適應異常。 P264《宣長の註に、『此文(安萬侶文『上古之時』云々)を以て見れば、阿禮(物:場 C‘)が誦(よめ)る語のいと古かりけむほど知られて貴し(D1の至大化)』とあり、又『言のみならず、意も朴なりとあるをよく思ふべし(D1の至大化)』と言ふ。安萬侶の『言意並に朴』といふのは、古語(物:場 C‘)の表現形式(Eの至大化)、宣長の言ひ方では、古語(物:場 C‘)の掛け代へのない姿(朴)〔即ち、姿(朴)に合體Eの至大化〕を指して、朴と言つてゐる〔即ち、姿(朴)に合體Eの至大化〕のだと解る》 P264關係論:①詔旨(しし)(物:場 C‘)②阿禮(物:場 C‘)③古語(物:場 C‘)⇒からの關係:⑥は言ふ。謹んで①に隨はうと努めたと。⑦の註に、『此文(安萬侶文『上古之時』云々)を以て見れば、②が誦(よめ)る語のいと古かりけむほど知られて貴し(D1の至大化)』とあり、又「❹:『言のみならず、意も朴なりとあるをよく思ふべし(D1の至大化)』と言ふ」⇒「⑤:姿(朴)」(❹的概念F)⇒E:よく思へば、⑥の『言意並に朴』といふのは、③の表現形式(Eの至大化)、⑦の言ひ方では、③の掛け代へのない⑤(即ち、⑤に合體Eの至大化)を指して、朴と言つてゐる(即ち、⑤に合體Eの至大化)のだと解るだらう」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥安萬侶⑦宣長(△枠):①②③への適應正常。 P264關係論:①六朝風の書ざま〔中國北朝の楷書体(物:場 C‘)〕②國語(物:場 C‘)⇒からの關係:①に習熟してきて(D1の至大化)、⑤の眼には、「➌:②の獨特な構造(即ち、轉義D1の至大化)に密着した」⇒「④:言ひざま(姿)」(➌的概念F)⇒E:④も、はつきり見えて來た(即ち、⑤に合體Eの至大化)のであり、従つて朴とは、朴とでも言ふより他はないその味はひ(姿F:前項參照)だと言つていい」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤安萬侶(△枠):②への適應正常。 P264《私達は知らぬまに、國語(物:場 C‘)(即ち、轉義D1の至大化)の完成された、言ひざま(F)の内にあり〔即ち、言ひざま(F)に合體Eの至大化〕、これに順じて〔言ひざまに合體(Eの至大化)して〕、自分達の思考や感情の動き(F)を整へてゐた(即ち、合體Eの至大化)。ここ(合體Eの至大化)に養はれた私達の信頼と滿足(即ち、合體Eの至大化)とが、おのづから言語傳統〔『言靈』?(物:場 C‘)〕を形成して(即ち、轉義D1の至大化)、生きつづけた(即ち『言靈(言語傳統)』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)のは當り前な事だ。宣長は、これ〔つまり言語傳統:『言靈』?(物:場 C‘)〕を形成して(即ち、轉義D1の至大化)、生きつづけた(即ち『言靈(言語傳統)』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)〕を註して『貴し』と言ふ》 P264關係論:①古語(物:場 C‘)②國語(物:場 C‘)③言語の範例(物:場 C‘)④言語傳統〔以下參照『言靈』?(物:場 C‘)〕⇒からの關係:①(即ち『言靈』)は、⑦が保存(D1)しようとしたから、保存されたのではない(D1の至小化)。⑧は②に先立つて、どんな③も知らなかつた(D1の至小化)のだし、「❺:⑧は知らぬまに、②(即ち、轉義D1の至大化)の完成された」⇒「⑥:言ひざま」(❺的概念F)⇒E:⑥の内にあり(即ち、⑥に合體Eの至大化)、これ〔⑥の内(即ち、⑥に合體Eの至大化)〕に順じて、自分達の思考や感情の動き(F)を整へてゐた(即ち、合體Eの至大化)。ここ(合體Eの至大化)に養はれた⑧の信頼と滿足(即ち、合體Eの至大化)とが、おのづから④を形成して(即ち、轉義D1の至大化)、生きつづけた(即ち『言靈(言語傳統)』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)のは當り前な事だ。⑨は、これ〔つまり:④を形成して(即ち、轉義D1の至大化)、生きつづけた(即ち『言靈(言語傳統)』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)〕を註して『貴し』と言ふのである」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦誰か⑧私達⑨宣長(△枠):①②④への適應正常。 P264關係論(倒置法):①國語(物:場 C‘)②漢字(物:場 C‘)③古語(物:場 C‘)⇒からの關係:①を表記(D1)するのに、②の訓によるのと、音によるのと二つの方法があつたが、「❹:どちらを専用しても、うまくいかない(D1の至小化)、と⑥は言ふ」⇒「⑤:姿」(❹的對立概念F)⇒E:かうして〔とは、古語(『言靈』)⇒國語(即ち、轉義D1の至大化)⇒言ひざま(姿:F)⇒言ひざま(姿:F)に合體Eの至大化)、と〕生きて來た③の⑤が、そのまま、②に書き移せるわけがない。さうとしりながら⑥は強行した」(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥安萬侶(△枠):①②への適應異常。 ~~~以下參照~~~~~~ P248關係論(倒置法):①言語傳統〔換言すれば『言靈』か?(物:場 C‘)〕②意識上(物:場 C‘)⇒からの關係:①は、其處〔『過去が失はれず、現在のうちに生きかへる』(即ち、轉義D1の至大化)〕に、音を立てて流れてゐる(即ち、轉義D1の至大化)のだが、「③:これ(轉義D1の至大化)を⑤で感じ取つて(D1の至大化)ゐながら、②にはつきり描き出す事が出來ず(D1の至小化)にゐる」⇒「④:意味合や味はひ(姿)」(③的概念F)⇒E:⑥は安心して、過去の保存(即ち、轉義D1の至大化)を、これ④(F)に託し(即ち、合體Eの至大化)、過去が失はれず(即ち、轉義D1の至大化)、現在のうちに生きかへる(即ち、合體Eの至大化)のを、期待してゐる。この安心や期待は(中略)、安心し期待しながら、さうとは氣附かぬ(D1の至小化)ものである」(④への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑤身體⑥私達(△枠):①への適應正常。 *『言語(言靈)』(物:場 C‘)⇒轉義(D1の至大化)⇒姿(F)に合體(Eの至大化)、といふ事 關係論:①言語(物:場 C‘)②言靈(物:場 C‘)③環境(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②といふ自らの衝動を持ち(D1の至大化)、③に出會ひ(D1)、「④:自發的にこれに處してゐる〔『鋭敏に反應』(轉義:D1の至大化)〕」⇒「⑤:姿」(④的概念F)⇒E:事物に當つて、己(①)を驗し、事物に鍛へられて、己の⑤(F)を形成(合體:Eの至大化)してゐるものだ」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒(△枠):①への適應正常。 關係論:①『言靈』(物:場 C‘)②『言靈の幸(さきはふ)國』(物:場 C‘)③『言靈の佐(たす)くる國』(物:場 C‘)④母國の言葉(物:場 C‘)⇒からの關係:①といふ言葉は、萬葉⑦にとつて、初めて使ひ出されたもの。②③といふ風に使はれてゐるのであきらかなやうに、④といふ意識、「⑤:これ(④)に寄せる⑦の鋭敏な愛着、深い信頼の情から、先づほころび出た言葉である(以下參照)」(D1の至大化)⇒「⑥:生活經驗」(⑤的概念F)⇒E:⑥が教へるところだが、順境(Eの至大化)が、却つて⑧を眠らせる(Eの至小化)事がある」(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑦歌人⑧人(△枠):①への適應正常。 關係論:①逆境(物:場 C‘)②『言靈の幸(さきはふ)』道(物:場 C‘)③言靈(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)①にあつて(D1の至小化)、はじめて⑥を知る(D1の至大化)といふ事がある。②もさういふもので、「④:環境の抵抗(①)を感ずるやうになつて、③にも、己(③)を摑み直す(D1の至大化)といふ事が起る」⇒「⑤:時代の『おもむき』」(④的概念F)⇒E:さういふ時代が到來する。⑧の言ふ、⑤とは、③のさういふ(己を摑み直す)歴史的生態を指す」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥自己⑦己(△枠)⑧宣長:①③への適應正常。 ~~~~以上參照~~~~~ P265《表記法の基礎となるものは、漢字の和訓であるといふのが、安萬侶(△枠)が『古事記』本文(物:場 C‘)で實行した考へである。言ひ代へれば、國語(物:場 C‘)によつて、どの程度まで、眞字(物:場 C‘)が生かされて(D1の至大化)、現に使はれてゐるか、といふ當時(場 C‘)の言語感覺(物:場 C‘)に訴へた考へである》 P265關係論:①『全く訓を以て録す』(物:場 C‘)⇒からの關係:①と言ふのが、「➋:④の結論なのは明らかな事である(宣長の受取り方も然り)」(D1の至大化)⇒「③:表記法の基礎」(➋的概念F)⇒E:③となるものは、漢字の和訓であるといふのが、④が『古事記』本文で」實行した考へである(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④安萬侶(△枠):①への適應正常。 P265關係論:①國語(物:場 C‘)②眞字(物:場 C‘)③當時(場 C‘)④言語感覺(物:場 C‘)⇒からの關係:(前項を)言ひ代へれば、①によつて、どの程度まで、「❺:②が生かされて(D1の至大化)、現に使はれてゐるか、といふ③の④に訴へた考へである」(D1の至大化)⇒「⑥:『辭の理見え難き』」(❺的對立概念F)⇒E:それでも⑦は心配なので、『⑥は、注を以て意を明す』といふ事になり、極めて複雑な表記となつた」(⑥への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑦安萬侶(△枠):①への適應正常。 P266《『古事記』(物:場 C‘)中には、多數の歌(物:場 C‘)が出て來るが、その表記は一字一音の假字(萬葉假名)で統一されてゐる。阿禮(物:場 C‘)の誦(よ)み習ふ古語(物:場 C‘)を、忠實に傳へる(D1の至大化)のが『古事記』(物:場 C‘)の目的である。阿禮(物:場 C‘)の誦(よ)んだところは、物語であつて、歌〔一字一音の假字(萬葉假名)で統一される歌〕ではなかつた(それ故に、歌への樣に、全く一字一音の假字と言ふ音を以て連ねたならば、後世誰にも讀み解けぬ)。故に安萬侶△枠の表記法を決定したものは、與へられた(『古事記』に於ける)古語の散文性(物語性:F)であつた〔即ち、歌ではなかつた故に、一字一音の假字(萬葉假名)での統一:全部假字書き)は無理であつた〕と言つていい》 P266關係論:①『古事記』(物:場 C‘)②歌(物:場 C‘)③宣命書(物:場 C‘)⇒からの關係:①中には、多數の②が出て來るが、その表記は一字一音の假字(萬葉假名)で統一されてゐる。「❹:いはゆる③(漢字を大きく、一字一音の萬葉假名を小さく)も⑥には親しいもの(D1の至大化)あつた」(D1の至大化)⇒「⑤:『詠(なが)むるもの』(❹的對立概念F)⇒E:しかし⑦に言はせれば、②は⑤、祝詞宣命は『唱ふるもの』であつた。假字と言へば、(祝詞宣命の『唱ふる』)音聲の文(あや)に結ばれた假字(萬葉假名)しか、(安萬侶△枠)の常識にはなかつた(即ち『歌は⑤』はなかつた)」(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥安萬侶⑦宣長(△枠):①への適應正常。 P266關係論:①阿禮(物:場 C‘)②古語(物:場 C‘)③『古事記』(物:場 C‘)⇒からの關係:阿禮(物:場 C‘)の誦(よ)み習ふ古語(物:場 C‘)を、忠實に傳へる(D1の至大化)のが『古事記』(物:場 C‘)の目的である。①阿禮(物:場 C‘)の誦(よ)んだところは、「❹:物語であつて、歌〔一字一音の假字(萬葉假名)で統一される歌〕ではなかつた(それ故に、歌への樣に、全く一字一音の假字と言ふ音を以て連ねたならば、後世誰にも讀み解けぬ)」(D1の至大化)⇒「⑤:古語の散文性(物語性)」(❹的概念F)⇒E:⑥の表記法を決定したものは、與へられた(『古事記』に於ける)⑤であつた〔即ち、歌ではなかつた故に、一字一音の假字(萬葉假名)での統一:全部假字書き)は無理であつた〕と言つていい」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥安萬侶(△枠):③への適應正常。 |
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P266《さういふ〔「阿禮(物:場 C‘)の誦(よ)み習ふ古語(物:場 C‘)を、忠實に傳へる(D1の至大化)のが『古事記』(物:場 C‘)の目的である」と言ふ〕次第で、宣長は、『古事記』(物:場 C‘)を考へる上で、稗田阿禮(物:場 C‘)の『誦習(よみならひ)』(物:場 C‘)を、非常に大切(D1の至大化)な事と見た。『古事記』といふ修史の仕事では、その旨とするところが、内容よりも表現にあつた。その爲に、阿禮(物:場 C‘)の起用が、どうしても必要になつた。『直(ただ)に書(ふみ)より書にかきうつしては、本の漢字のふり離れがた』いので、『語のふりを、此間(ここ)の古語にかへして、口に唱へこころみしめ賜へるものぞ』(『古事記傳』)と》 P266關係論:①『古事記』(物:場 C‘)②稗田阿禮(物:場 C‘)③『誦習(よみならひ)』(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)さういふ〔「阿禮(物:場 C‘)の誦(よ)み習ふ古語(物:場 C‘)を、忠實に傳へる(D1の至大化)のが『古事記』(物:場 C‘)の目的である」と言ふ〕次第で、「❹:⑤は、①を考へる上で、②の③を、非常に大切(D1の至大化)な事と見た」(D1の至大化)⇒「⑤:修史の仕事」(❹的概念F)⇒E:記録の内容を旨とする仕事なら、『日本書紀』の場合の樣に、古記録の編纂で事は足りた筈。同時期に行はれた①といふ⑤では、その旨とするところが、内容よりも表現にあつた。その爲に、②の起用が、どうしても必要になつた。⑤曰く、②の仕事も『漢文の舊記に本づいた』のだが、『直(ただ)に書(ふみ)より書にかきうつしては、本の漢字のふり離れがた』いので、『語のふりを、此間(ここ)の古語にかへして、口に唱へこころみしめ賜へるものぞ』(『古事記傳』)と」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①②への適應正常。 P267關係論:①『阿禮』(物:場 C‘)⇒からの關係:①は『有れ』であり、『御生(みあ)れ』、即ち神の出現の意味だ。「➋:①といふ名前からして、神懸りの巫女を指してゐる、と④は言ふ(『古事記傳』)」(D1の至大化)⇒「③:舎人」(➋的概念F)⇒E:③が④の言ふ樣に男でなければならぬ理由はない」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④宣長(△枠):①への適應正常。 P267關係論:①『言靈』(物:場 C‘)②祭儀(物:場 C‘)③詞(P267關係論:①『古事記』(物:場 C‘)②『口承文藝の臺本』(物:場 C‘)③わが國の文學(物:場 C‘)④語部(かたりべ)(物:場 C‘)⇒からの關係:⑦となると、①を②(著『上世日本の文學』)とまで呼んでゐる。「❺:④の力を無視して、③の發生や成長(即ち『言靈』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)は考へられない、といふ⑦の文學の思想には、あらがへぬものがある」(D1の至大化)⇒「⑥:祝詞と宣命」(❺的概念F)⇒E:⑦が推し進めたのは、③の始まり(即ち、轉義D1の至大化)を考へる上で目安になるものは、⑥であるといふ⑧の考へである」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦折口信夫氏⑧宣長(△枠):①②③への適應正常。 P267關係論:①『言靈』(物:場 C‘)②文學(物:場 C‘)⇒からの關係:先づ①が信じられて(D1の至大化)ゐなければ、「➌:②の發生(即ち、轉義D1の至大化)など、まるで考へられもしない、と⑤も亦、見てゐる」(D1の至大化)⇒「④:價値、言はば威力」(➌的概念F)⇒E:或る纏つた詞が、社會の一部の人々の間にでも、傳承され、保持されて行く爲には、その詞にそれだけの④が備つて(即ち、合體Eの至大化)ゐなければならない(宣長・小林)」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤折口氏(△枠):①への適應正常。 P267關係論:①『言靈』(物:場 C‘)②祭儀(物:場 C‘)③詞(物:場 C‘)④毎年の祭り(物:場 C‘)⇒からの關係:①の力が一番強く發揮される(D1の至大化)のは、「❺:②が必要とする(D1の至大化)③(即ち祝詞)に於いてでであり」⇒「⑥:一定の祝詞(のりと)」(❺的概念F)⇒E:④にとなへられる⑥を、失はぬやう(Eの至大化)、亂さぬさう(Eの至大化)、口から口へと熱意(Eの至大化)を以て、守り傳へる(Eの至大化)といふところに村々の生活秩序のかなめがあつた。政治の中心があつた」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒古代の人々(△枠):①②③への適應正常。 P267關係論:①神(物:場 C‘)②詞(物:場 C‘)③祝詞(物:場 C‘)④宣命(物:場 C‘)⇒からの關係:①から下される②が「❺:③であり、①に申し上げる②が④だ」(D1の至大化)⇒「⑥:語部(かたりべ)」(❺的概念F)⇒E:この種(③④)の呪(まじなひ)詞の代唱者として、⑥といふ聖職が生れて來たのは、自然な事であつた。彼等(⑥)によつて唱へられ、語られる家の、村の、國の由來のうちにしか、⑦には、歴史といふ考へを育てる處はなかつただらう」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦古代の人々(△枠):①③④への適應正常。 P268關係論:①歴史(物:場 C‘)②村の生活(物:場 C‘)④神の歴史(物:場 C‘)⇒からの關係:『昔の人の考へ方で行くと、①は⑤の生活を保證(D1の至大化)してくれるもので、其の①を語り、傳承を續けて行くと、②が正しく(D1の至大化)、良くなつて行く(D1の至大化)のであつた。』「➌:『其の語り傳へられた①の中で最もよく⑤の間に守り續けられて行つたのは、④を説いたものである』」(D1の至大化)⇒「⑤:祝詞及び宣命」(➌的概念F)⇒E:『現在殘つて居るもので、一番④に近いのは、⑤である』(著『上世日本の文學』)と折口氏は言ふ」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤人々(△枠):①②への適應正常。 |
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P268《宣長が、宣命に着目したのは大變早い。『古事記傳』の仕事準備中、眞淵との『續紀宣命』の質疑に移つたのは、明和五年の事。『萬葉』では、歌の句調にはばまれ、『記紀』では、漢文のふりに制せられて、現れ難(にく)かつた(Eの至小化)助辭(てにをは)が、祝詞、宣命には、はつきりと現れてゐる(Eの至大化)、といふ宣長の發見(Eの至大化)が、眞淵を驚かした。國語に、この獨特の基本構造(『てにをは』即ち『いともあやしき言靈のさだまり(格)』)があればこそ、國語はこれ(『いともあやしき言靈のさだまり(格)』)に乘じて、われわれの間を結び(即ち『言靈』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)、『いきほひ』(Eの至大化)を得、『はたらき』(Eの至大化)を得て生きる(即ち、合體Eの至大化)のである、宣長はさう考へてゐた。助辭(てにをは)(物:場 C‘)を考へて得た、この〔助辭(てにをは)の〕『あやしき言靈のさだまり(格)』(物:場 C‘)が、文字を知らぬ上代の人々の口頭によつて、口頭によつてのみ、傳へられた事について」(D1の至大化)、宣長の關心はまことに深い(Eの至大化)ものがあつた》 P268關係論:①祝詞の研究(物:場 C‘)②宣命の研究(物:場 C‘)⇒からの關係:⑤は、①では、眞淵の仕事を受けて、これを整備(參照P268文)し、發展させた。②は、⑤に始まるので、「➌:これが晩年の『續紀歴朝詔詞解』の名著になつて完成した」(D1の至大化)⇒「④:『續紀宣命』の質疑」(➌的概念F)⇒E:⑤が宣命に着目したのは大變早い。『古事記傳』の仕事準備中、眞淵との④に移つたのは、明和五年の事であつた」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①への適應正常。 P268關係論:①奈良朝以前(場 C‘)②古言(物:場 C‘)③延喜式(平安後期律令法典)(物:場 C‘)④『續紀』(歴朝詔詞)が傳へる宣命(物:場 C‘)⇒からの關係:①の②を現した文詞は、③にのつた祝詞の古いものを除いては、「❺:④の他にはない、と⑦は見てゐた」(D1の至大化)⇒「⑥:助辭(てにをは)」(❺的概念F)⇒E:『萬葉』では、歌の句調にはばまれ、『記紀』では、漢文のふりに制せられて、現れ難(にく)かつた(Eの至小化)⑥が、祝詞、宣命には、はつきりと現れてゐる(Eの至大化)、といふ⑦の發見(Eの至大化)が眞淵を驚かした」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):②④への適應正常。 P268關係論:①著『詞の玉緒』(物:場 C‘)②『てにをは』(物:場 C‘)⇒からの關係:①で、②には、「➌:係り結びに關する法則的な『ととのへ』、或は『格(さだまり)』と言ふべきものがある(以下參照)」(D1の至大化)⇒「④:『いともあやしき言靈のさだまり(格)』(➌的概念F)⇒E:⑤は、これ〔法則的な『ととのへ』『格(さだまり)』(Eの至大化)を、④と呼んだ。國語に、この獨特の基本構造(即ち④)があればこそ、國語はこれ(④)に乘じて、われわれの間を結び(即ち『言靈』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)、『いきほひ』(Eの至大化)を得、『はたらき』(Eの至大化)を得て生きる(即ち、合體Eの至大化)のである、⑤はさう考へてゐた(以下參照)」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①への適應正常。 ~~~以下參照~~~~~~ P225關係論:①著『詞の玉緒』(物:場 C‘)②『萬葉』(物:場 C‘)③『新古今』(物:場 C‘)④詠歌(物:場 C‘)⑧言靈(物:場 C‘)⑨さだまり(物:場 C‘)⇒からの關係:①では、②から③に至る④の「⑤:夥しい作例が檢討されて、」(D1の至大化)⇒「⑥:『てにをは』」⑤的概念F)⇒E:⑥の『ととのへ』(Eの至大化)が發見され、『いともあやしき⑧(即ち、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)の⑨』が言はれてゐる。⑦の考への中心は、これら⑩のは、歌を詠むのに(④に)文法(⑥)など少しも必要とはしてゐなかつた(Eの至大化)、⑧の力(即ち、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)を信じてゐれば、それで足りてゐた、さういふ處(即ち、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)にあつたと言つたほうがよい」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長⑩歌人達(△枠):②③④への適應正常。 P224關係論:①『てにをは(Eの至大化)』(物:場 C‘)②事物も觀念(物:場 C‘)③對象(物:場 C‘)④思想感情(物:場 C‘)⑤内的なもの(物:場 C‘)⑧外物(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②も現すものではない(D1の至小化)。「⑥:一應は③化して、しかじかの④と考へられる⑤も指す(D1)事は出來ない(D1の至小化)」⇒「⑦:語」(⑤的概念F)⇒E:とすれば、これを⑦とは呼びにくい。それでも⑦には違ひないのなら、それは、⑦の『用ひ方(Eの至大化)』『いひざま(Eの至大化)』『いきほひ(Eの至大化)』などと呼んでいいもの、どうしても⑧化出來ぬ⑨の心の働き(D1の至大化)を、直に現してゐる(即ち、D1の至大化=Eの至大化)ものだ」(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒⑨私達(△枠):①⑤への適應正常。 關係論:①言語の問題(物:場 C‘)②言語といふ物(物:場 C‘)③言語(物:場 C‘)⇒からの關係:①を扱ふのに、⑦は、⑥に使はれる②に、外から觸れる道(語釋:D1の至小化)を行かず、③を使ひこなす(D1の至大化)⑥の心の働き(D1の至大化)を「④:内から摑まう(『形ある物に見せる』Eの至大化)とする」⇒「⑤:結實」(④的概念F)⇒E:この考へ〔内から摑まう(Eの至大化)〕の⑤が『詞(F)の玉(F)⇒緒(Eの至大化)』といふ勞作だと言へる(即ち、『心の働き』D1の至大化=『内摑/緒/てにをは』Eの至大化)」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥私達⑦宣長(△枠):①への適應正常。 ~~~~以上參照~~~~~~~~~~~~~ P268關係論:①『古事記傳』(物:場 C‘)②『訓法(よみざま)の事』(物:場 C‘)③助字(物:場 C‘)⇒からの關係:①の②のなかには、『古事記』本文中にある「❹:③の種類が悉くあげられ、くはしく説かれてゐる」(D1の至大化)⇒「⑤:古語の世界」(❹的概念F)⇒E:漢文風の文體(かきざま)のうちに埋没した助字を、どう訓むかは、⑤に入る鍵であつた(Eの至大化)」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①③への適應正常。 P268關係論:①助辭(てにをは)(物:場 C‘)②『あやしき言靈のさだまり(格)』(物:場 C‘)⇒からの關係:①を考へて得た、この(①の)②が、文字を知らぬ⑤の口頭によつて、「➌:口頭によつてのみ、傳へられた事について」(D1の至大化)⇒「④:關心」(➌的概念F)⇒E:⑥の④はまことに深い(Eの至大化)ものがあつた」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤上代の人々⑥宣長(△枠):①②への適應正常。 P268關係論:①助辭(てにをは)(物:場 C‘)⇒からの關係:『そもそもこれら〔①の『あやしき言靈のさだまり(格)』〕のみは、漢文にはしるさで、云々(中略)』【とは、前出參照:「『萬葉』では、歌の句調にはばまれ、『記紀』では、漢文のふりに制せられて、現れ難(にく)かつた」の事。そして】、美麗(うるはし)く作れるものにして、一もじも、讀みたがへては有るべからざるが故に、(中略)「➋:漢文ざまには書きがたければ也』(『歴朝詔詞解』)」(D1の至大化)⇒「③教養人達」(➋的概念F)⇒E:文字を知らぬ④が、唱へ言葉や語り言葉のうちに、どのやうな情操を、長い時をかけ、細心にはぐくんで來たか。さういふ事について、文字に馴れ切つて了つた③は鈍感に無關心(Eの至小化)。⑤はこの感情を(上述で)隱してはゐない」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④昔の人々⑤宣長(△枠):①への適應正常。 |
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〔二十七章〕主題: norinaga27.pdf へのリンク*『言語(言靈)』(物:場 C‘)⇒轉義(D1の至大化)⇒姿(F)に合體(Eの至大化)、といふ事 P248關係論:①言語(物:場 C‘)②言靈(物:場 C‘)③環境(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②といふ自らの衝動を持ち(D1の至大化)、③に出會ひ(D1)、「④:自發的にこれに處してゐる〔『鋭敏に反應』(轉義:D1の至大化)〕」⇒「⑤:姿」(④的概念F)⇒E:事物に當つて、己(①)を驗し、事物に鍛へられて、己の⑤(F)を形成(合體:Eの至大化)してゐるものだ」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 P249關係論:①言靈(物:場 C‘)②和歌史(場 C‘)③歌學の基本(物:場 C‘)⇒からの關係:この①の營みを、明瞭に辿る事は誰にも出來ないにせよ、「❹:それ(①)が②を一貫する流れを成してゐるといふのが、⑥の③にある直觀(D1の至大化)である」⇒「⑤:『詞の玉緒』」(❹的概念F)⇒E:⑥が⑤〔詞の玉(F)緒(即ち、合體Eの至大化)〕で究明したのは、⑦が言語を持つてゐるのは、あたかも⑦が肉體〔即ち『文といふ衣(F)を縫ふ縫ひて(E)』『自然、我物〔『おのが腹の内の物』(F)〕なる(Eの至大化)ゆへ也』〕を持つてゐるが如きものだといふ事であつた」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦私達⑥宣長(△枠):①への適應正常。 *貫之『古今集:假名序・土佐日記』及び式部『源氏』に於ける、『言靈』の變遷(轉義D1の至大化=合體Eの至大化) 即ち、『言靈の(己を摑み直す)歴史的生態(轉義D1の至大化)』・『いともあやしき言靈(物:場 C‘)のさだまり(物:場 C‘)』〕の發展(轉義D1の至大化=合體Eの至大化)形態。 關係論:①『源氏』(物:場 C‘)②『古今』(物:場 C‘)③わが國の文學史〔別稱『言靈』(物:場 C‘)〕⇒からの關係:①が成つたのも、詰まるところは、この同じ方法〔即ち『觀念(物:場 C‘)といふ身輕な己の正體に還つて(即ち、轉義D1の至大化)』〕の應用によつたといふところが、⑥を驚かせたのである。「❹:⑥は、②の集成(即ち、轉義D1の至大化)を、③に於ける、」⇒「⑤:自覺とか反省とか批評」(❹的概念F)⇒E:⑤とか呼んでいい精神傾向の開始(即ち、合體Eの至大化)と受取つた。その〔『⑤と呼んでいい精神傾向の開始』(即ち、合體Eの至大化)の〕一番目立つた現れ〔即ち『觀念(物:場 C‘)といふ身輕な己の正體に還つて(即ち、轉義D1の至大化)』〕を、和歌から和文への移り行き(即ち、轉義D1の至大化)に見た。この受取り方〔『⑤と呼んでいい精神傾向の開始』(即ち、合體Eの至大化)の〕正しさを保證するものとして、⑥は①を選んだ。それ〔⑤と言ふ『文學史(即ち言靈)の、合體Eの至大化=轉義D1の至大化』の正しさの保證〕が、②の『手弱女ぶり』といふ眞淵の考へに、⑥が從はなかつた最大の理由だ」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①②への適應正常。
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以下は〔二十七章〕各項目纏め |
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P248《「生きて行く文化(物:場 C‘)自身の深部には、外部から強ひられる(D1の至小化)、不都合な環境(物:場 C‘)にも、鋭敏に反應(即ち、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)して、これに處する道を開いて行く文化の内面(物:場 C‘)が備つてゐる。さういふ知的な意識〔知識、即ち才(ざえ。物:場 C‘)〕には映じにくい、人々のおのづからなる知慧〔姿F(合體):例『やまと魂』〕が、人々の共有する國語傳統の強い底流(轉義D1の至大化=合體Eの至大化:即ち『言靈』)を形成してゐる(以下參照Ⅰ)。宣長はさう見てゐた」。 *『言語(言靈)』(物:場 C‘)⇒轉義(D1の至大化)⇒姿(F)に合體(Eの至大化)、といふ事 p248「つまり、言語(物:場 C‘)は、言靈(物:場 C‘)といふ自らの衝動を持ち(D1の至大化)、環境(物:場 C‘)に出會ひ(D1)、自發的にこれに處してゐる〔『鋭敏に反應』(轉義:D1の至大化)〕。事物に當つて、己(言語・言靈)を驗し(即ち、轉義D1の至大化)、事物に鍛へられて、己の姿(F)を形成(合體:Eの至大化)してゐるものだ」。 「逆境にあつて(D1の至小化)、はじめて自己を知る(D1の至大化)といふ事がある。『言靈の幸(さきはふ)』道(物:場 C‘)もさういふもので、環境の抵抗(逆境)を感ずるやうになつて、言靈(物:場 C‘)にも、己を摑み直す(即ち、轉義D1の至大化)といふ事が起る。さういふ時代が到來する。宣長の言ふ、時代の『おもむき』とは、言靈(物:場 C‘)のさういふ(己を摑み直す)歴史的生態(即ち『言靈』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)を指す》 關係論:①『やまとだましひなる人は、法師ながら、かくこそ有りけれ:勢語臆斷』(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)①を引用した(△枠)の考へとなれば、(△枠)が、史傳『三代實録』から引用したら、「②:業平への批評の『善作レ和歌』より、むしろ『略(ほぼ)才學無し』といふ言葉の方に注意しただらう」⇒「③:無學」(②的概念F)⇒E:④曰く:『史傳『三代實録』の選者等は、何故、歌の上手が③なのは當り前(Eの至大化)といふ口ぶりで物を言つてゐるか」といふ事になつたらう』(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④宣長(△枠):①への適應正常。 《『嵯峨天皇の頃より、漢文もつぱら行はれて、(中略)歌よむ事ははなはだまれなりしとみえたり』(『あしわけ小舟』)。『そのおもむきは『續日本後紀』を見よ』云々:參照P247》 關係論:①『續日本後紀』(物:場 C‘)②國語傳統(物:場 C‘)⇒からの關係:①に、⑤が注目したのは、「③:②の流れ(D1の至小化)であつた」⇒「④:才學の程(漢學の程度)」(③的對立概念F)⇒E:④が、勅撰漢詩集で知られるといふ事になつては、和歌は、公認の教養資格の埒外に出ざるを得ない。極端な唐風模倣(Eの至小化)といふ、平安遷都とともに始まつた朝廷の積極的な政策が、和歌を、才學と呼ばれる秩序の外に、はじき出した」(④への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑤宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①意識的な文化の企劃(物:場 C‘)②文化地圖の塗り替へ(物:場 C‘)③文化の内面(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)しかし、①〔即ち『極端な唐風模倣による、和歌の公認の教養資格の埒外』化〕には、「④:言はば②は出來ても、③深く侵入し、これをどうかうする力はない(D1の至小化)」⇒「⑤:自發性(とは、轉義⇒合體?)」(④的對立概念F)⇒E:生きて行く文化(物:場 C‘)自身の深部には、外部から強ひられる(D1の至小化)、不都合な環境(物:場 C‘)にも、鋭敏に反應(即ち、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)して、これに處する道を開いて行く③が備つてゐる。さういふ知的な意識〔知識、即ち才(ざえ。物:場 C‘)〕には映じにくい、人々のおのづからなる知慧〔姿F(合體):例『やまと魂』〕が、人々の共有する國語傳統の強い底流(轉義D1の至大化=合體Eの至大化:即ち『言靈』)を形成してゐる(以下參照Ⅰ)。⑥はさう見てゐた(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):③への適應正常。 ~~~以下參照~~~ (Ⅰ)P225關係論:①言語の歴史(物:場 C‘)②『雅言』(物:場 C‘)③時代(C’)④古言(物:場 C‘)⇒からの關係:さういふ事〔『自然(Eの至大化)、我物(F)なる』『平生の言語(F)』をあやつつてゐる(F⇒合體Eの至大化)〕を繰返してゐるのが、⑦の①なのだ。②を俗言〔『おのが腹の内の物』(F)〕に譯(うつ)す(轉義D1の至大化)といふのも、二つ〔②と俗言(F)〕の『平生(それぞれの時代)の言語(F)』が③をへだてて相映ずる(轉義D1の至大化=合體Eの至大化:即ち『言靈』)のを見ようが爲だ。「⑤:④は、何時の間にか、今言〔俗言『おのが腹の内の物』(F)〕に移り變る(轉義D1の至大化)」⇒「⑥:(④と今言の)心の本質的な連續性」(⑤的概念F)⇒E:しかし、言語機能の基本的な構造〔即ち『自然(Eの至大化)、我物(F)なる』『平生の言語(F)』をあやつつてゐる(F⇒合體Eの至大化)事〕は變りやうがなく(Eの至大化)、これ〔『自然あやつつてゐる』(Eの至大化)〕は、恐らく⑦の⑥〔本能的な智慧(合體Eの至大化)と同意か?〕に見合ふ(Eの至大化)ものだ、といふのが⑧の考へ」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦私達⑧宣長(△枠):①②④への適應正常。 *古言は、何時の間にか、今言〔俗言『おのが腹の内の物』(F)〕に移り變る(轉義D1の至大化)。しかし、言語機能の基本的な構造〔即ち『自然(Eの至大化)、我物(F)なる』『平生の言語(F)』をあやつつてゐる(F⇒合體Eの至大化)事〕は變りやうがなく、これ〔『自然あやつつてゐる』(Eの至大化)〕は、恐らく私達の(古言と今言の)心の本質的な連續性〔本能的な智慧(合體Eの至大化)と同意か?〕に見合ふものだ、といふのが宣長の考へ。 P221關係論:①『萬葉』(物:場 C‘)②『言靈』(物:場 C‘)③古言(物:場 C‘)⇒からの關係:①に現れた②といふ③に含まれた、②の「④:本義を問ふ〔知的理解、即ち:語(物:場 C‘)⇒釋(D1)する〕のが問題ではない」⇒「⑤:俗言(さとびごと)」(④的對立概念F)⇒E:⑤の働きといふ「具體的な物」(即ち:F⇒Eの至大化)としつかりと合體(Eの至大化)して、この同じ古語(『言靈』)が、どう轉義するか、その樣〔即ち、合體(Eの至大化)=轉義(D1の至大化)〕を眼のあたり見る(Eの至大化)のが肝腎なのである」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長『うひ山ぶみ』(△枠)。 ~~~以上參照~~~ 關係論:①母親(物:場 C‘)②片言といふ種子(物:場 C‘)③母國語の組織〔換言すれば『言靈』か?(物:場 C‘)〕④過去(場 C‘)⇒からの關係:①から教へられた②から育つた(D1の至大化)③だけが、「⑤:⑦が重ねて來た④の經驗(轉義:D1の至大化)の」⇒「⑥:意味合や味はひ(姿)」(⑤的概念F)⇒E:自分等に親しい⑥(姿F)を貯へて置いて(合體:Eの至大化)くれるのである」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦私達(△枠):③④への適應正常。 關係論(倒置法):①言語傳統〔換言すれば『言靈』か?(物:場 C‘)〕②意識上(物:場 C‘)⇒からの關係:①は、其處〔『過去が失はれず、現在のうちに生きかへる』(即ち、轉義D1の至大化)〕に、音を立てて流れてゐる(即ち、轉義D1の至大化)のだが、「③:これ(轉義D1の至大化)を⑤で感じ取つて(D1の至大化)ゐながら、②にはつきり描き出す事が出來ず(D1の至小化)にゐる」⇒「④:意味合や味はひ(姿)」(③的概念F)⇒E:⑥は安心して、過去の保存(即ち、轉義D1の至大化)を、これ④(F)に託し(即ち、合體Eの至大化)、過去が失はれず(即ち、轉義D1の至大化)、現在のうちに生きかへる(即ち、合體Eの至大化)のを、期待してゐる。この安心や期待は(中略)、安心し期待しながら、さうとは氣附かぬ(D1の至小化)ものである」(④への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑤身體⑥私達(△枠):①への適應正常。 *『言語(言靈)』(物:場 C‘)⇒轉義(D1の至大化)⇒姿(F)に合體(Eの至大化)、といふ事 P248關係論:①言語(物:場 C‘)②言靈(物:場 C‘)③環境(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②といふ自らの衝動を持ち(D1の至大化)、③に出會ひ(D1)、「④:自發的にこれに處してゐる〔『鋭敏に反應』(轉義:D1の至大化)〕」⇒「⑤:姿」(④的概念F)⇒E:事物に當つて、己(①)を驗し、事物に鍛へられて、己の⑤(F)を形成(合體:Eの至大化)してゐるものだ」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒(△枠):①への適應正常。 關係論:①『言靈』(物:場 C‘)②『言靈の幸(さきはふ)國』(物:場 C‘)③『言靈の佐(たす)くる國』(物:場 C‘)④母國の言葉(物:場 C‘)⇒からの關係:①といふ言葉は、萬葉⑦にとつて、初めて使ひ出されたもの。②③といふ風に使はれてゐるのであきらかなやうに、④といふ意識、「⑤:これ(④)に寄せる⑦の鋭敏な愛着、深い信頼の情から、先づほころび出た言葉である(以下參照)」(D1の至大化)⇒「⑥:生活經驗」(⑤的概念F)⇒E:⑥が教へるところだが、順境(Eの至大化)が、却つて⑧を眠らせる(Eの至小化)事がある」(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑦歌人⑧人(△枠):①への適應正常。 關係論:①逆境(物:場 C‘)②『言靈の幸(さきはふ)』道(物:場 C‘)③言靈(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)①にあつて(D1の至小化)、はじめて⑥を知る(D1の至大化)といふ事がある。②もさういふもので、「④:環境の抵抗(①)を感ずるやうになつて、③にも、己(③)を摑み直す(即ち、轉義D1の至大化)といふ事が起る」⇒「⑤:時代の『おもむき』」(④的概念F)⇒E:さういふ時代が到來する。⑧の言ふ、⑤とは、③のさういふ(己を摑み直す)歴史的生態を指す」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥自己⑦己(△枠)⑧宣長:①③への適應正常。 關係論:①言靈(物:場 C‘)②環境(物:場 C‘)⑦『言靈の幸(さきはふ)國』(物:場 C‘)⇒からの關係:⑤の共有する①の自己形成力〔己を摑み直す(即ち、轉義D1の至大化)〕が、興福寺法師等の長歌奉獻の機(場 C‘)をどう利用した(即ち、轉義D1の至大化)か、さういふ風に⑥は見た。「➌:①は②と折合をつけて(即ち、轉義D1の至大化)」⇒「④:姿(➌的概念F)・⑧:『唐の詞を假らず』『書記す博士雇はず』」(➌的對立概念F)⇒E:己の④を整へて行く(即ち、合體Eの至大化)と⑥は見た。⑦といふ言葉から、⑧(F)といふ、新しい意味を持つた(即ち、合體Eの至大化)言葉が、子供のやうに生まれて來る(即ち『言靈』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)と⑥は見た」⇒⑤私達⑥宣長(△枠):①への適應正常。 ~~~以下參照~~~ P179《自身の調べを整へるのが先決であり、思ふ事をいふのは末である。歌の姿〔自身の調べ(F) 關係論:①『おもふこと』(物:場 C‘)②言(こと。物:場 C‘)③仇(あだ)し語(こと)(物:場 C‘)⇒からの關係:『①、ひたぶるなるときは、②たらず、②したらねば』、「④:『思ふ事を末にいひ③を本(もと)に冠』す」(D1の至大化)⇒「⑤:自身の調べ(姿)」(④的概念F)⇒E:⑤を整へるのが先決(Eの至大化)であり、思ふ事をいふのは末である。この必要に應ずる言葉が見附かる(Eの至大化)なら、③であつても差支へあるまい」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒眞淵(△枠):①への適應正常。 關係論:①何處(場 C‘)②調べ(物:場 C‘)③言葉(物:場 C‘)④仇(あだ)し語(こと)(物:場 C‘)⇒からの關係:①からとは知れず、「⑤:②に送られて來る③は、④に違ひあるまいとも言へよう」(D1の至大化)⇒「⑥:歌の姿〔自身の調べ(F)〕」(⑤的概念F)⇒E:それで⑥が整へば、⑦は、われ知らず思ふ事(末部)を言つた事にならう。言語の表現性に鋭敏な⑦等は、『言靈の佐(たす)くる國』『言靈の幸ふ國』を一歩も出られはしない(Eの至大化)」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦歌人(△枠):④への適應正常。 關係論:①冠辭(物:場 C‘)②かりそめなる冠(物:場 C‘)③歌人(物:場 C‘)⇒からの關係:①とは、『②』を、「④:『いつとなく身にそへ來たれるがごと』く用ゐられた措辭であり、③は①について、新たな工夫は出來たが」(D1の至大化)⇒「⑤:言語構造自體」(④的概念F)⇒E:①といふ『よそほひ』の發生が必至である⑤は、彼(③)にとつては、絶對的な與件(Eの至大化)であらう」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒眞淵(△枠):①への適應正常。 ~~~~~ |
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P249《「言靈(物:場 C‘)の營みを、明瞭に辿る事は誰にも出來ないにせよ、それ(言靈(物:場 C‘))が、和歌史(場 C‘)を一貫する流れを成してゐるといふのが、宣長の歌學の基本(物:場 C‘)にある直觀(D1の至大化)である」》 「この事(即ち『言靈』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)を、宣長は、『いともあやしき言靈(物:場 C‘)のさだまり(物:場 C‘)』と言つた。この言語組織の構造(即ち『言靈』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)に感嘆した同じ言葉〔『いともあやしき言靈(物:場 C‘)のさだまり(物:場 C‘)』〕は、その發展を云々する場合〔とは『古今』『新古今』等々、つまり『言靈の(己を摑み直す)歴史的生態』〕にも、言へた筈である」。 〔『古今』の場合〕・・・「言はば、和歌(物:場 C‘) は、生活のただ中(場 C‘)に落ちて(即ち、轉義D1の至大化)、沈黙(F)し、そこ(沈黙F)から再び出直す(即ち、合體Eの至大化)といふ事をやつた事を納得するだらう。どう出直したか。到頭、『反省と批評』(F)とを提げて出て來る(即ち、合體Eの至大化)事になつた。①才學(漢學。物:場 C‘)の舞臺(F:即ち、合體Eの至大化)を望み、言靈(物:場 C‘)が、自力で己(△枠)を摑み直す(即ち、轉義D1の至大化)といふ事が起つたのである(即ち『言靈』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)」(以下參照)。
「この(上枠文の)やうな作歌の課程(物:場 C‘)に、反省、批評(F姿)が入り込んでくる傾向を、貫之(△枠)は、『心餘る』(F:姿)といふ言ひ方で言つた。
の場合・・・「貫之(△枠)は、これ(上枠歌)をあげて、『在原業平は、その心餘りて、言葉足らず、云々(P252參照)』と言つた(D1の至大化)。『心餘りて(F)、言葉足らず』(F)は、名評と言つてよく、この歌の評釋には、契沖も宣長も貫之(△枠)評を引いてゐる。」 「ところで、この(上枠歌)は、やはり、『古今』(物:場 C‘)で讀むより『伊勢』(物:場 C‘)で讀んだ方がいい。『心餘りて』物語る(反省、批評:F姿)、その物語の姿(F)を追つた上で、歌(上枠歌)に出會ふが爲であらう。この〔『心餘りて』物語る(反省、批評:F姿)の〕微妙な歌物語の手法〔とは『物語の姿(F)を追つた上で、歌(上枠歌)に出會ふ』(即ち、合體Eの至大化)〕が、『源氏』(物:場 C‘)で大きく完成(即ち、轉義D1の至大化?)するのである。又、あの『ついに行く』の歌も、『心餘りて(F)』といふ姿(F)には見える(即ち、合體Eの至大化)だらう。業平が、歌つてゐるといふより、むしろ物語つてゐる〔つまり『心餘りて』物語る(反省、批評:F姿)〕、と感ずるであらう」》 P249關係論:①言靈(物:場 C‘)②和歌史(場 C‘)③歌學の基本(物:場 C‘)⇒からの關係:この①の營みを、明瞭に辿る事は誰にも出來ないにせよ、「❹:それ(①)が②を一貫する流れを成してゐるといふのが、⑥の③にある直觀(D1の至大化)である」⇒「⑤:『詞の玉緒』」(❹的概念F)⇒E:⑥が⑤〔詞の玉(F)緒(即ち、合體Eの至大化)〕で究明したのは、⑦が言語を持つてゐるのは、あたかも⑦が肉體〔即ち『文といふ衣(F)を縫ふ縫ひて(E)』『自然、我物〔『おのが腹の内の物』(F)〕なる(Eの至大化)ゆへ也』〕を持つてゐるが如きものだといふ事であつた」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦私達⑥宣長(△枠):①への適應正常。 P249關係論:①言語(物: C‘)②生きた一定の組織(物:場 C‘)③組織(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。①は、本質的に或る②であり、「❹:この③を信じ(即ち、轉義D1の至大化)、」⇒「⑤:網の目」(❹的概念F)⇒E:③の⑤(F)と合體(Eの至大化)して⑥にとつては、自由と制約との對立などない(即ち『言靈』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)であらう。この事(即ち『言靈』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)を、⑦は、『いともあやしき言靈(物:場 C‘)のさだまり(物:場 C‘)』と言つた(以下參照)。この言語組織の構造(即ち『言靈』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)に感嘆した同じ言葉〔『いともあやしき言靈(物:場 C‘)のさだまり(物:場 C‘)』〕は、その發展を云々する場合〔とはつまり『言靈の(己を摑み直す)歴史的生態』(次項にて説明展開)〕にも、言へた筈である」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥生きる者⑦宣長(△枠):①への適應正常。 ~~~以下參照~~~ P225關係論:①著『詞の玉緒』(物:場 C‘)②『萬葉』(物:場 C‘)③『新古今』(物:場 C‘)④詠歌(物:場 C‘)⑧言靈(物:場 C‘)⑨さだまり(物:場 C‘)⇒からの關係:①では、②から③に至る④の「⑤:夥しい作例が檢討されて、」(D1の至大化)⇒「⑥:『てにをは』」⑤的概念F)⇒E:⑥の『ととのへ』(Eの至大化)が發見され、『いともあやしき⑧(即ち、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)の⑨』が言はれてゐる。⑦の考への中心は、これら⑩のは、歌を詠むのに(④に)文法(⑥)など少しも必要とはしてゐなかつた(Eの至大化)、⑧の力(即ち、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)を信じてゐれば、それで足りてゐた、さういふ處(即ち、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)にあつたと言つたほうがよい」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長⑩歌人達(△枠):②③④への適應正常。 ~~~~ P250關係論:①和歌(物:場 C‘)②才學(漢學)の權威(物:場 C‘)③社會的な地位(場 C‘)⇒からの關係:①は、②に追はれて、『色好みの家』(貫之曰く)にうもれる事になつた。③を失つて(D1の至小化)みて、「❹:はじめて己(①)に還る事(即ち、轉義D1の至大化)〔とはつまり『言靈の(己を摑み直す)歴史的生態(即ち、轉義D1の至大化)』〕が出來た。さういふ事〔『言靈の(己を摑み直す)歴史的生態』(即ち、轉義D1の至大化)〕が①の道に起つた(以下參照)」(D1の至大化)⇒「⑤:『博士の家(才學:漢學)』」(❹的對立概念F)⇒E:⑤から侮られ(Eの至小化)『色好みの家』に身を隱して〔即ち『逆境(物:場 C‘)』〕みなければ、どちらの家が、自分の本家であるか、そんな事〔つまり『言靈の(己を摑み直す)歴史的生態(即ち、轉義D1の至大化)』〕を①は考へてみはしないだらう」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 ~~~以下參照~~~ P249關係論:①言靈(物:場 C‘)②和歌史(場 C‘)③歌學の基本(物:場 C‘)⇒からの關係:この①の營みを、明瞭に辿る事は誰にも出來ないにせよ、「❹:それ(①)が②を一貫する流れを成してゐるといふのが、⑥の③にある直觀(D1の至大化)である」⇒「⑤:『詞の玉緒』」(❹的概念F)⇒E:⑥が⑤〔詞の玉(F)緒(即ち、合體Eの至大化)〕で究明したのは、⑦が言語を持つてゐるのは、あたかも⑦が肉體〔即ち『文といふ衣(F)を縫ふ縫ひて(E)』『自然、我物〔『おのが腹の内の物』(F)〕なる(Eの至大化)ゆへ也』〕を持つてゐるが如きものだといふ事であつた」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦私達⑥宣長(△枠):①への適應正常。 ~~~ 關係論:①『萬葉』(物:場 C‘)②『古今』(物:場 C‘)⇒からの關係:①の直情的な歌風に比べれば、「➌:②のものは技巧的と言へる」(即ち、轉義D1の至大化)⇒「④:樂屋」(➌的概念F)⇒E:歌が生活から遊離して了つたといふ意味ではない。⑤に公の舞臺(F)を占められて、⑥は④に引込んだ〔私生活の内(F)に沒入(即ち、合體Eの至大化)〕。生活の一部(F)と化して(即ち、合體Eの至大化)、これに甘んじてゐたのも、教養(F)といふ名で呼んでいいものは、⑤が引受けてゐた(Eの至小化)ればこそだ。(⑥の)この時期は長かつた(Eの至大化)。生活に密着し、平凡だが現實的な生活感情の内に浸って、これを(歌に)映し出す(即ち、合體Eの至大化)のに、われ知らず苦勞してゐた期間は、大變長かつたといふ事に注目すべし」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤才學(漢學)⑥和歌(△枠):①への適應正常。 關係論:①才學(漢學。物:場 C‘)②健全な状態(場 C‘)③生活のただ中(場 C‘)⑧言靈(物:場 C‘)⇒からの關係:①が⑥を追ひつめた(D1の至小化)ところは、何の事はない。「❹:⑥にとつて全く②であり(即ち、轉義D1の至大化)、」⇒「⑤:沈黙」「⑦:反省と批評」(❹的概念F)⇒E:言はば、⑥は、③に落ちて⑤(F)し、そこ(⑤F)から再び出直す(即ち、合體Eの至大化)といふ事をやつた事を納得するだらう。どう出直したか。到頭、⑦(F)とを提げて出て來る(即ち、合體Eの至大化)事になつた。①の舞臺(F)(即ち、合體Eの至大化)を望み、⑧が、自力で⑨を摑み直す(即ち、轉義D1の至大化)といふ事が起つたのである」(⑤⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥和歌⑨己(△枠):①②への適應正常。 關係論:②業平代表作『ついに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日けふとは 思はざりしを』(物:場 C‘)⇒からの關係:①が激賞(D1の至大化)した、②を「③:叙事でも叙情でもない、」⇒「④:反省と批評(姿)」(➌的概念F)⇒E:④(F)から、歌が生まれてゐる(即ち、合體Eの至大化)事を、端的に受容れるなら、『古今』の肉體(物:場 C‘)から、その骨組み〔とは、以下關係論を指す。
〕が透けて見えて來るのを(⑤は)感じないだらうか」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒①契沖⑤私達(△枠):①への適應正常。 關係論:①作歌の課程(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)この(上枠文の)やうな①に」(D1の至大化)⇒「②:『心餘る』」(F:姿)⇒E:反省、批評(F姿)が入り込んでくる傾向を、③は、②(F:姿)といふ言ひ方で言つた(著『假名序』)」は(②への距離獲得:Eの至大化)⇒③貫之(△枠):①への適應正常。
關係論:①上枠歌(物:場 C‘)⇒からの關係:④は、これ(①)をあげて、「➋:『在原業平は、その心餘りて、言葉足らず、云々(著『假名序』P252參照)』と言つた」(D1の至大化)⇒「③名評」(②的概念F)⇒E:『心餘りて(F)、言葉足らず(著『假名序』)』(F)は、③と言つてよく、この歌の評釋には、契沖も宣長も④評を引いてゐる」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④貫之『假名序』(△枠):①への適應正常。 關係論:①『月やあらぬ』の歌(物:場 C‘)②『古今』(物:場 C‘)③『伊勢』(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)ところで、この①は、「❹:やはり、②で讀むより③で讀んだ方がいい」(D1の至大化)⇒「⑤:『心餘りて』物語る(反省、批評:姿)」(❹的概念F)⇒E:歌集(②)の中に入れられると、歌(①)は、いかにも『言葉足らず』(F)といふ姿(F)に見える(Eの至小化)。しかし、③のうちで同じ歌(①)に出會ふ(D1)と、さうは感じないのが面白い(D1の至大化)。⑤(F)、その物語の姿(F)を追つた上で、歌(①)に出會ふが爲であらう。この(⑤の)微妙な歌物語の手法(著『假名序』)〔『物語の姿(F)を追つた上で、歌(①)に出會ふ』(即ち、合體Eの至大化)〕が、『源氏』(物:場 C‘)で大きく完成(即ち、轉義D1の至大化?)するのである。又、あの『ついに行く』の歌(以下參照)も、『心餘りて(F)』といふ姿(F)には見える(即ち、合體Eの至大化)だらう。⑥が、歌つてゐるといふより、むしろ物語つてゐる(つまり⑤:合體Eの至大化)、と感ずるであらう」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥作者(業平△枠):①への適應正常。 ~~~以下參照~~~ *業平代表作(辭世歌)『ついに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日けふとは 思はざりしを』。 ~~~ |
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P252~6《貫之『古今集:假名序・土佐日記』及び式部『源氏』に於ける、『言靈』の變遷(「轉義D1の至大化=合體Eの至大化」)》 ~~~~~~~~以下參照~~~~~~~~~~
貫之『古今集:假名序・土佐日記』及び式部『源氏』に於ける、『言靈』の變遷(轉義D1の至大化=合體Eの至大化) 即ち、『言靈の(己を摑み直す)歴史的生態(轉義D1の至大化)』・『いともあやしき言靈(物:場 C‘)のさだまり(物:場 C‘)』〕の發展(轉義D1の至大化=合體Eの至大化)形態。
~~~~~~~~~~~~~~~~ P252關係論:①『物のあはれ』(物:場 C‘)②歌學(物:場 C‘)⇒からの關係:⑤が①を論じて、②〔つまりは、『言靈』(物:場 C‘)の變遷〕といふものを「➌:根柢からやり直さう(即ち、轉義D1の至大化)とした時、」⇒「④:『古今:假名序』(『心餘りて』姿F)」(➌的概念F)⇒E:その切つかけを④(『心餘りて』姿F)に求めた(即ち、合體Eの至大化)事は、既に書いた(以下參照)」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①②への適應正常。 ~~~以下參照~~~ P108《宣長(物:場 C‘)は、貫之古今集仮名序の言ふ『心』(物:場 C‘)を『物のあはれを知る心』(物:場 C‘)と斷ずれば足りるとした(D1の至大化)。この歌學の基本觀念〔『物のあはれを知る心』(物:場 C‘)〕が、俊成の『幽玄』(物:場 C‘)定家の『有心』(物:場 C‘)といふ風に、歌の風體論(物:場 C‘)の枠内で、いよいよ繊細に分化(D1の至小化)し、歌人の特權意識(物:場 C‘)のうちに急速に衰弱する(D1の至小化)歴史(C‘)が見えてゐた(D1の至大化)が爲である》 關係論:①『もののあはれ』(物:場 C‘)⇒からの關係:言はば楫取からの、①とは何かと言ふ正直な素朴な問ひ方から「②:①の問題の深さを悟つて考へ始めた」(D1の至大化)⇒「③貫之猶子『淑望』:古今集眞名序の『幽玄』」(②的對立概念F)⇒E:③などといふ言葉には眼もくれず(Eの至小化)、「仮名序の言ふ『心』を『物のあはれを知る心』と斷ずれば(Eの至大化)足りるとした」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ P252關係論:②人の心(物:場 C‘)③よろづの言の葉(物:場 C‘)④物のあはれ(物:場 C‘)⇒からの關係:『①は、②を種として、③とぞなれりける(D1の至大化)』と、⑦は言つたが、「❺:歌(①)の種になる心〔別稱:『言靈』(物:場 C‘)?〕とは、④を知るといふ働き(D1の至大化)でなければならない、と⑧は考へた」⇒「⑥:『土佐日記』」(❺的概念F)⇒E:そして、⑧は、④といふ言葉を⑥の中から拾ひ上げた」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒①『やまと歌』⑦貫之⑧宣長(△枠):①への適應正常。 P253關係論:①『土佐日記』(物:場 C‘)②新しい形式の和文(物:場 C‘)⇒からの關係:⑤が、どういふつもりで①を書いたか、はつきり言ふのは難しい。「➌:⑤の關心の集中したところは、②を書いてみる(結果として、『言靈』の、轉義D1の至大化)といふ點にあつたと見ていいのではないか」⇒「④:女性自身に語らせる手法」(➌的概念F)⇒E:④を取つて(即ち、合體Eの至大化)、作者(⑤)は、②を書き現したかつた(即ち、轉義D1の至大化)のである(即ち、④合體Eの至大化=②轉義D1の至大化)」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤貫之(△枠):①②への適應正常。 |
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P253關係論:①『古今集』(物:場 C‘)②『假名序』(物:場 C‘)⇒からの關係:⑤が①の②を書いたのは、これ(『土佐日記』)より三十年ほど前であつた。「➌:②の言葉の大事な意味合(即ち『言靈』)が、序と呼ばれてゐる漢文の文體を、和文に仕立て上げた(即ち、轉義D1の至大化)ものにあつた」(D1の至大化)⇒「④:『古今』の勅撰」(➌的概念F)⇒E:⑤にとつて、和文が、和歌に劣らぬ、或る意味では一層むつかしい、興味ある問題として、常日頃から意識されてゐたであらう。④(F)は、この問題につき、或る思ひ切つた解答を、實際に試みて(即ち、合體Eの至大化)みる、⑤にとつては、願つてもない機會だつた。やはり⑤の資質は、歌人のものといふより、むしろ、批評家のもの〔『古今集』は、反省と批評(以下參照)〕だつたのではあるまいか」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤貫之(△枠):②への適應正常。 P255關係論:①出世の道(物:場 C‘)②言靈(物:場 C‘)⇒からの關係:⑤のやうな微官には、才學(D1の至大化)は①を開く代りに、「➌:②の營み〔即ち『言靈』の、轉義D1の至大化(和文)=合體Eの至大化(反省と批評:『心餘る』:F〕に關する批評的意識を研いたであらう(以下參照)⇒「④:『假名序』」(➌的概念F)⇒E:④に、それを讀みとれば(即ち、合體Eの至大化)よい」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤貫之(△枠):①への適應正常。 ~~~以下參照~~~
「この(上枠文の)やうな作歌の課程(物:場 C‘)に、反省、批評(F姿)が入り込んでくる傾向を、貫之(△枠)は、『心餘る』(F:姿)といふ言ひ方で言つた(著『假名序』)。 關係論:①作歌の課程(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)この(上枠文の)やうな①に」(D1の至大化)⇒「②:『心餘る』」(F:姿)⇒E:反省、批評(F姿)が入り込んでくる傾向を、③は、②(F:姿)といふ言ひ方で言つた(著『假名序』)」は(②への距離獲得:Eの至大化)⇒③貫之(△枠):①への適應正常。 ~~~~~ P255關係論:①『土佐日記』(物:場 C‘)②「序」(物:場 C‘)③和文(物:場 C‘)⇒からの關係:①となると、②といふ手本はもうないのだから、「❹:③の實驗(即ち、轉義D1の至大化)は、餘程自由なものになつた」⇒「⑤:和文の體」(❹的概念F)⇒E:漢文の問題が、裏にかくれて、表に現れた③が、和歌の體に對(對抗)する⑤として、意識されるやうになつた。和歌では表す事が出來ない、固有な表現力を持つた⑤が、目指されてゐた」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒貫之(△枠):①③への適應正常。 P255關係論:①和歌の體(物:場 C‘)②和文の體(物:場 C‘)⇒からの關係:①と②との基本的な相違は、聲をだして歌ふ體と、「➌:黙つて眼で讀む體との隔たりにあらう」(D1の至大化)⇒「④:平假名」(➌的概念F)⇒E:最初の國字と呼んでいい④の普及(Eの至大化)がないところに、和文の體がどうのかうのといふ事はあり得ない。」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒貫之(△枠):②への適應正常。 P256關係論:①國字(物:場 C‘)②『土佐日記』(物:場 C‘)⇒からの關係:女手といはれてゐるくらゐで、①は⑤の間に發生(D1の至大化)し、⑤に常用されてゐた(D1の至大化)のだから、「➌:①が⑤の手で完成した(即ち、轉義D1の至大化)のも當然な事であつた」(D1の至大化)⇒「④:『女もしてみむとてするなり』」(➌的概念F)⇒E:②の⑥には、はつきりした豫感〔とは『⑥の手で完成(即ち、轉義D1の至大化)』の豫感〕があつたと見ていいのではあるまいか。④といふ言葉には、この鋭敏な批評家【とは、P255:『言靈の營み〔即ち『言靈』の、轉義D1の至大化(和文)=合體Eの至大化(反省と批評:『心餘る』:F)〕に關する批評的意識を研いた』を示す】の切實な感じ(即ち、F⇒合體Eの至大化)が籠められてゐただらう」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤女性⑥作者(△枠):①への適應正常。 P256關係論:①歌の力(物:場 C‘)②言葉(物:場 C‘)③音聲(物:場 C‘)⇒からの關係:①は、②が、「❹:③の力を借りて調べをつくる(D1の至大化)ところにあるが、」⇒「⑤:言葉の身輕さ」(❹的對立概念F)⇒E:默讀を要求してゐる文章に固有な魅力を言つてみるなら、それは、③の拘束から解放された⑤にあらう。身輕(F)にならなければ(即ち、合體Eの至大化)、日記の世界(F)などに這入つて(即ち、合體Eの至大化)は行けまい。これは②(『言靈』)が、己に還り、己を知る動き(即ち、轉義D1の至大化)だとも言へる」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒貫之(△枠):①への適應正常。 P256關係論:①言葉(物:場 C‘)②音聲(物:場 C‘)③身振り(物:場 C‘)④觀念(物:場 C‘)⇒からの關係:①が②とか③とかいふ①ではないものに頼つてゐる事はない(D1の至小化)、「❺:さういふものから自由(D1の至大化)になり、④といふ身輕な己の正體に還つて(即ち、轉義D1の至大化)みて、」⇒「⑥:表現の自在」(❺的概念F)⇒E:⑥といふもの〔『女もしてみむとてするなり』(F)〕につき、改めて自得する(即ち、合體Eの至大化)といふ事がある」(❺への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦貫之(△枠):①④への適應正常。 P256關係論:①和文(物:場 C‘)⇒からの關係:④が①制作の「➋:實驗(即ち、轉義D1の至大化)に、」⇒「③自分の日記」(➋的概念F)⇒E:③を選んだ〔『女もしてみむとてするなり』(F)〕のは、方法を誤らなかつた(即ち、合體Eの至大化)と言つてよい」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④貫之(△枠):①への適應正常。 P256關係論:①日常の經驗(物:場 C‘)⇒からの關係:何の奇もないが、④には大變親しい①を、「➋:ただ傳へる(D1)のではなく、」⇒「③:統一ある文章」(➋的對立概念F)⇒E:③〔即ち『女もしてみむとてするなり』(F)〕に仕立て上げてみる(即ち、合體Eの至大化)といふ事が、平凡な經驗(①)の奥行きの深さをしつかり捕へる〔とは、『言葉(物:場 C‘)が、己に還り、己を知る動き(即ち、轉義D1の至大化)』・『觀念(物:場 C‘)といふ身輕な己の正體に還つて(即ち、轉義D1の至大化)』、を指す〕といふ、その事になる〔(即ち言葉(言靈)の、合體Eの至大化=轉義D1の至大化)〕⇒④自分(貫之△枠):①への適應正常。 P256關係論:①『源氏』(物:場 C‘)②『古今』(物:場 C‘)③わが國の文學史〔別稱『言靈』(物:場 C‘)〕⇒からの關係:①が成つたのも、詰まるところは、この同じ方法(とは以下枠文)
の應用によつたといふところが、⑥を驚かせたのである。「❹:⑥は、②の集成(即ち、轉義D1の至大化)を、③に於ける、」⇒「⑤:自覺とか反省とか批評(F)」(❹的概念F)⇒E:⑤とか呼んでいい精神傾向の開始(即ち、合體Eの至大化)と受取つた。その〔『⑤と呼んでいい精神傾向の開始』(即ち、合體Eの至大化)の〕一番目立つた現れ〔即ち『觀念(物:場 C‘)といふ身輕な己の正體に還つて(即ち、轉義D1の至大化)』〕を、和歌から和文への移り行き(即ち、轉義D1の至大化)に見た(即ち言靈の、合體Eの至大化=轉義D1の至大化:をも)。この受取り方〔『⑤と呼んでいい精神傾向の開始』(即ち、合體Eの至大化)〕の正しさを保證するものとして、⑥は①を選んだ。〔とは以下と同一を示す。關係論:①『源氏』(物:場 C‘)②わが國の文學史〔別稱『言靈』(物:場 C‘)〕⇒からの關係:④は①の完成(即ち、轉義D1の至大化)を、②に於ける、」⇒「③:自覺とか反省とか批評(F)」⇒E:③とか呼んでいい精神傾向の開始(即ち、合體Eの至大化)と受取つた」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④宣長(△枠):①への適應正常。 それ〔⑤と言ふ『文學史(即ち言靈)の、合體Eの至大化=轉義D1の至大化』の正しさの保證〕が、②の『手弱女ぶり』といふ眞淵の考へに、⑥が從はなかつた最大の理由だ」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①②への適應正常。 P256關係論:①から歌(物:場 C‘)②『萬葉』時代(場 C‘)③心(物:場 C‘)④『古今』時代(場 C‘)⇒からの關係:①との別を言ふ⑦といふ言葉は、②からあつたが、「❺:⑦の種になる③が〔とは、言靈が『古今』の肉體(物:場 C‘)に自力で(即ち、轉義D1の至大化):以下Ⅰ參照〕⇒「⑥:自らを省み(前項:自覺・反省・批評)」(❺的概念F)⇒E:⑥、『やまと心』『やまと魂』(姿F)といふ言葉を思ひつかねばならない(即ち、合體Eの至大化)〔とは、P251『反省と批評(F姿)から、歌が生まれてゐる(即ち、合體Eの至大化)』と同意(以下Ⅰ參照)〕といふ事は、④からの事だ。さういふ事〔自らを省み(F)『やまと心』『やまと魂』(姿F)といふ言葉を思ひつく(即ち、合體Eの至大化)〕になるのも、①は、作者の身分だとか學識だとか〔即ち『才:ざえ』(物:場 C‘)〕を現す(D1)かも知れないが、人の③(物:場 C‘)を種としてはゐない(D1の至小化)といふ批評(とは、以下Ⅱ參照)が、先づなければならない(とは、以下Ⅱ參照)」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦やまと歌(△枠):①への適應正常。 ~~~(以下參照)~~~
*Ⅱ【參照:P233『(『やまと魂』は、)技藝、智識(語釋。物:場 C‘)に對(『才』に對抗)して、これ〔大和心、大和魂(F)を働かす(Eの至大化)心ばへ(智慧)とか、人柄とかに、重點を置いてゐた言葉』】 |
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〔二十六章〕主題: 《『やまと魂』(F)に對する、眞淵・宣長の洞察〔F:『文辭の麗しさ』・姿(調)・沈黙『皇大御國』〕と、篤胤(標語化)との懸隔:その「關係論」的纏め》 P245關係論:①文事(物:場 C‘)⇒からの關係:③も④も、①の限りを盡くした(D1の至大化)人で【とは、古今集・冠辭(物:場 C‘)⇒轉義〔『低き所(物:場 C‘)を固める』(古書の註釋・古言の語釋:D1の至大化)〕⇒合體〔即ち『ますらをぶり』『俗言(さとびごと)』を指す。參照:P239〕】⇒「②:『やまと魂(姿:F)』(以下參照)」⇒E:「其處(低き所:轉義)で②といふ言葉は捕へられた〔即ち合體、『俗言(さとびごと)』『ますらをぶり』同樣、『己が腹の中』に合體の意味合(姿・調:F)で捕へられたといふ事〕。この共通な經驗(①の經驗、即ち『低き所を固める:轉義』)のうちで、④のいふ『調:F』と③の言ふ『姿:F』とが、恐らく重なり合ひ映じあつた。②(F)といふ言葉(姿F:合體)が根を下してゐたのも、この①の經驗の深部〔轉義:即ち、古今集・冠辭⇒轉義⇒低き所⇒合體(『やまと魂(F姿)』&『ますらをぶり』『俗言(さとびごと)』〕なのであつた」(②への距離獲得:Eの至大化)⇒③宣長④眞淵(△枠):①への適應正常。 關係論:①文事の經驗(『低き所を固める』。物:場 C‘)②『萬葉』(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)ところが、⑤の仕事では、「③:この①〔古言(言靈:古今集・冠辭)⇒低き所(轉義)⇒合體(姿・調:F)〕といふものが、全く缺落(D1の至小化)してゐる」(D1の至小化)⇒「④:『やまと魂』(③的對立概念F)⇒E:④の古意(物:場 C‘)が『雄武(ますらたけ?)を旨とする心』とわかれば〔とは、『意は似せ易い』即ち『古の大義(『ますらをぶり』物:場 C‘)を口眞似(語釋:D1の至小化)』を手掛りとすれば〕、⑥の心のうちに下してゐる②といふその根(言靈:古言・冠辭)はどうでもよいものであつた。まして『源氏』(物:場 C‘)の如き、中古文弱(D1の至小化)の書を、『古學(物:場 C‘)の要用(D1の至大化)なる書』のやうに言ふのは、宣長の『玉の小櫛』(物:場 C‘)を誤解(D1の至小化)するものとした」(④への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥眞淵⑤篤胤(△枠):①への適應異常。 |
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〔以下は二十六章各項:纏め〕 |
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P239《眞淵(物:場 C‘)の『文事』の要諦(物:場 C‘)とは、古意〔『古の大義』の語釋ならず:(物:場 C‘)〕を得んが爲に、先づ古言(低き所。物:場 C‘)を得る(D1の至大化)といふところにあつた。『低き所(古書の註釋・古言の語釋:例『冠辭』)を固める』といふ、眞淵(物:場 C‘)の教へは、實にしつかりと〔即ち、『古今集』の雅言(みやびごと)を俗言(合體F:さとびごと)へと譯(うつ:轉義)すと言ふ風に(以下參照)〕、宣長に手渡された。古言(物:場 C‘)〔即ち『冠辭』・雅言(みやびごと)・言靈(物:場 C‘)〕に感じられる(冠辭⇒轉義)、その姿〔F:『低き所、即ち古書の註釋・古言(例:冠辭)の語釋)』『己が腹の中』:合體(即ち『ますらをぶり』〕と離せない(即ち『冠辭』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)ものであつた。だが、人々(△枠)の批評(D1の至小化)は、どうしても、似せ難い(Eの至小化)⑤〔轉義⇒合體〕よりも似せ易い意〔即ち『古の大義(『ますらをぶり』物:場 C‘)を口眞似(語釋:D1の至小化)』〕を手掛りとして、起つて來る(一例「篤胤」D1の至小化)》 關係論:①眞淵(物:場 C‘)②『文事』の要諦(物:場 C‘)③古意〔『古の大義』の語釋ならず:(物:場 C‘)〕④古言(物:場 C‘)⇒からの關係:①の②とは、③を得んが爲に、「⑤:先づ④を得る(D1の至大化)といふところにあつた(既述)」⇒「⑥:『低き所(古書の註釋・古言の語釋:例『冠辭』)を固める』」(⑤的概念F)⇒E:この⑥といふ①の教へは、實にしつかりと〔即ち、『古今集』の雅言(みやびごと)を俗言(合體F:さとびごと)へと譯(うつ:轉義)すと言ふ風に(以下參照)〕⑦に手渡された」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):①への適應正常。 ~~~以下參照~~~ 關係論:①眞淵(物:場 C‘)②『低き所』(物:場 C‘)③古書(物:場 C‘)④古言(物:場 C‘)⇒からの關係:①の言ふ②とは、③の註釋④の語釋(D1の至大化)といふ、地道な根氣のゐる仕事を指す。「⑤:⑦は、この道(③の註釋④の語釋)を受け、いよいよ低く、その底邊まで行つた」(D1の至大化)⇒「⑥:俗言(さとびごと)」(⑤的概念F)⇒E:『古今集』の雅言(みやびごと)を、そつくり今行はれてゐる⑥に譯(うつ:轉義)してみる、といふところまで行かなければ、承知しなかつた」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):②③④への適應正常。 ~~~ 關係論:①古意(物:場 C‘)②『古の大義』(物:場 C‘)③古言(物:場 C‘)⇒からの關係:⑥の言ふ①とは、②といふやうな、「④:『工夫がましき』もの〔とは、『古の大義(物:場 C‘)を口眞似で得た(語釋:D1の至小化)』ものと同意:以下參照〕ではなかつた(D1の至大化)ので、」⇒「⑤:姿(ますらをぶり『己が腹の中』)」(④的概念F)⇒E:これはやはり、③〔『冠辭』・雅言(みやびごと)・言靈(物:場 C‘)〕に感じられる(冠辭⇒轉義)、その⑤〔F:『低き所、即ち古書の註釋・古言(例:冠辭)の語釋)』『己が腹の中』:合體(即ち『ますらをぶり』〕と離せない(即ち『冠辭・言靈』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)ものであつた。だが、⑦の批評(D1の至小化)は、どうしても、似せ難い(Eの至小化)⑤〔轉義⇒合體〕よりも似せ易い意〔即ち『古の大義(『ますらをぶり』物:場 C‘)を口眞似(語釋:D1の至小化)』〕を手掛りとして、起つて來る(D1の至小化)。眞淵の復古主義を云々するだけなら、『ますらをぶり』(古の大義:意)といふ言葉だけを聞けば足りる」(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥眞淵。⑦人々(△枠):①への適應異常。 ~~~以下參照~~~ 關係論:①神代紀〔天地開闢から神武天皇即位まで。『古事記』含む〕(物:場 C‘)②古言古文(物:場 C‘)③今(當今)の訓(物:場 C‘)⇒からの關係:『①も、「④:『よく②を心得て、(かつ)③の半ばを用ゐ合はせて讀む時は(讀めれば:D1の至大化)、甚だ妙譽の文也。今は文字にのみ依る故に、其の文わろし』」(D1の至大化)⇒「⑤:古事記」(④的概念F)⇒E:故に⑤の文ぞ大切也。是をよく得て後、事々は考へ給へ。己(⑥)先にも言へる如く、かの工夫がましき事(『今は文字にのみ依る故に、其の文わろし』)を、にくむ故に、只文事(『萬葉集』)に入ぬ。遂にその實をいはんとすれば、老衰存命且つ暮れに及べれば、すべ無し』(宣長宛て)」(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥眞淵(△枠):①への適應異常。 ~~~~ 關係論:①眞淵(物:場 C‘)②復古主義(物:場 C‘)③『ますらをぶり(古の大義:意)』(物:場 C‘)④『やまと魂』(物:場 C‘)⑤宣長の言説(物:場 C‘)⑥『ますらをの高く直き心』(物:場 C‘)⇒からの關係:①の②を云々する(D1の至小化)だけなら、③(意)といふ言葉だけを聞けば足りる(似せ易し:D1の至小化)であらうし、①では、目立たなかつた④(意)といふ言葉が、⑤のうちに目立つて來れば(D1の至小化)、「⑦:④(意)を⑥と解して(D1の至小化:似せ易し)、宣長の國粹主義を論ずれば簡便(D1の至小化:似せ易し)であらう」⇒「⑧:篤胤」(⑦的概念F)⇒E:事實、⑧ではさういふ事になつた(Eの至小化)」(⑧への距離不獲得:Eの至小化)⇒人々の批評(△枠):③⑤への適應異常。 |
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P245《『やまと魂』(F)に對する、眞淵・宣長の洞察〔F:即ち『文辭の麗しさ』・姿(調)・沈黙『皇大御國』)と、篤胤との懸隔。即ち、篤胤は大和魂を『似せ易き』(D1の至小化)意(標語.物:場 C‘)と捉えた。『やまと魂』(F)の古意(物:場 C‘)が『雄武(ますらたけ?)を旨とする心』とわかれば〔とは、『意は似せ易い』即ち『古の大義(『ますらをぶり』物:場 C‘)を口眞似(語釋:D1の至小化)』を手掛りとすれば〕、眞淵の心のうちに下してゐる『萬葉』(物:場 C‘)といふその根(言靈:古言・冠辭)はどうでもよいものであつた。 宣長も眞淵(△枠)も、文事(物:場 C‘)の限りを盡くした(D1の至大化)人で【とは、古今集・冠辭(物:場 C‘)⇒轉義〔『低き所(物:場 C‘)を固める』(古書の註釋・古言の語釋:D1の至大化)〕⇒合體〔即ち『ますらをぶり』『俗言(さとびごと)』を指す。參照:P239〕】、其處(低き所:轉義)で『やまと魂(F)』といふ言葉は捕へられた〔即ち合體、『俗言(さとびごと)』『ますらをぶり』同樣、『己が腹の中』に合體の意味合(姿・調:F)で捕へられたといふ事〕。ところが、篤胤の仕事では、この文事の經驗〔古言(言靈:古今集・冠辭)⇒低き所(轉義)⇒合體(姿・調:F)〕といふものが、全く缺落(D1の至小化)してゐる」(D1の至小化)》 關係論:①春滿・眞淵・宣長・篤胤(物:場 C‘)②國學(物:場 C‘)⇒からの關係:①を②の四大人と呼ぶのは、⑤の門下に始まる。「③:これは⑤の考へに基いたものだ」⇒「④:古學神」(③的概念F)⇒E:「先ず④として祭るべきは、春滿であるとし、彼によつて開かれた新學問(國學)の道統は、門人眞淵、宣長を經て自分(⑤)に至つたのだが、宣長の思想の新しい展開をなしとげた點で、自分(⑤)が最も正しい宣長の後繼者であると信じてゐた」(④への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑤篤胤(△枠):①②への適應異常?。 P245關係論:①文事(物:場 C‘)⇒からの關係:③も④も、①の限りを盡くした(D1の至大化)人で【とは、古今集・冠辭(物:場 C‘)⇒轉義〔『低き所(物:場 C‘)を固める』(古書の註釋・古言の語釋:D1の至大化)〕⇒合體〔即ち『ますらをぶり』『俗言(さとびごと)』を指す。參照:P239〕】⇒「②:『やまと魂(姿:F)』(以下參照)」⇒E:「其處(低き所:轉義)で②といふ言葉は捕へられた〔即ち合體、『俗言(さとびごと)』『ますらをぶり』同樣、『己が腹の中』に合體の意味合(姿・調:F)で捕へられたといふ事〕。この共通な經驗(①の經驗、即ち『低き所を固める:轉義』)のうちで、④のいふ『調:F』と③の言ふ『姿:F』とが、恐らく重なり合ひ映じあつた。②(F)といふ言葉(姿F:合體)が根を下してゐたのも、この①の經驗の深部〔轉義:即ち、古今集・冠辭⇒轉義⇒低き所⇒合體(『やまと魂(F姿)』&『ますらをぶり』『俗言(さとびごと)』〕なのであつた」(②への距離獲得:Eの至大化)⇒③宣長④眞淵(△枠):①への適應正常。 ~~~以下參照『やまと魂』(Fに修正)~~~ 關係論:①『文辭(文章を整へる事:修辭)』(物:場 C‘)⇒からの關係:『①の麗しさ(D1の至大化)』を「②:味識する經驗(D1の至大化)とは、言つてみれば、」⇒「③:沈黙(姿)」(②的概念F)⇒E:③に堪へる事を學ぶ知慧(Eの至大化)【即ち:P234『皇大御國(F姿:すめらおほみくに)を黙して信ずる』智慧(Eの至大化)、及びP233『これ〔大和心、大和魂(F) ~~~~ 關係論:①文事の經驗(『低き所を固める』。物:場 C‘)②『萬葉』(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)ところが、⑤の仕事では、「③:この①〔古言(言靈:古今集・冠辭)⇒低き所(轉義)⇒合體(姿・調:F)〕といふものが、全く缺落(D1の至小化)してゐる」(D1の至小化)⇒「④:『やまと魂』(③的對立概念F)⇒E:④の古意(物:場 C‘)が『雄武(ますらたけ?)を旨とする心』とわかれば〔とは、『意は似せ易い』即ち『古の大義(『ますらをぶり』物:場 C‘)を口眞似(語釋:D1の至小化)』を手掛りとすれば〕、⑥の心のうちに下してゐる②といふその根(言靈:古言・冠辭)はどうでもよいものであつた。まして『源氏』(物:場 C‘)の如き、中古文弱(D1の至小化)の書を、『古學(物:場 C‘)の要用(D1の至大化)なる書』のやうに言ふのは、宣長の『玉の小櫛』(物:場 C‘)を誤解(D1の至小化)するものとした」(④への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥眞淵⑤篤胤(△枠):①への適應異常。 關係論:①文事(物:場 C‘)②國學(物:場 C‘)⇒からの關係:③とはどういふもの(D1の至大化)か、どういふものでなければならない(D1の至大化)か、といふ風に、言はば表(標語。物:場 C‘)に立ち現れ(D1の至大化)なければならない。と④には承知出來なかつた(D1の至小化)。宣長から④に引繼がれて、②が、俄に、『やまと魂』とか『やまと心』とか、「③:口やかましく〔標語。(物:場 C‘)的に〕言ふやうになつた(D1の至小化)のは、その爲である」⇒「④:『やまと魂』(③的對立概念F)⇒E:④が①などの蔭〔即ち:古言(言靈:古今集)⇒低き所(轉義)⇒合體(姿『やまと魂』:F)〕に隱れてゐる(Eの至小化)事はない。この言葉(④)は、そんなところ〔姿(『文辭の麗しさ』)・沈黙(『皇大御國Fを黙して信ずる)〕から解放されるべき、と」(④への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑤篤胤(△枠):①②への適應異常。 關係論:①篤胤神道(物:場 C‘)②標語(物:場 C‘)③古言(物:場 C‘)④意(語釋。物:場 C‘)⇒からの關係:①は、解り易く説教して、勉學を求めぬところが、多數の人々を惹きつけ、①は、一世を風靡するに至つた。これにつれて、⑥(F)といふ言葉は、その②の如き働き(D1の至小化)をした。②として働く(D1の至小化)爲には、⑥は、「⑤:その『④』(語釋。物:場 C‘)だけを殘して(D1の至小化)、」⇒「⑥:『やまと魂』」(⑤的對立概念F)⇒E:その『姿(『文辭の麗しさ』:F)』〔とは『沈黙(F)』、P234『皇大御國(F:すめらおほみくに)を黙して信ずる(Eの至大化)』と同意〕を全く失はなけれ(Eの至小化)ばならぬ。そこ(②化)に、『工夫がましき事』(D1の至小化)〔とは、『古の大義(物:場 C‘)を口眞似で得た(語釋:D1の至小化)』ものと同意〕が、いろいろと行はれ、⑦は多辯(Eの至小化)になる」(⑥への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑦篤胤(△枠):③への適應異常。 關係論:①『雄武(ますらたけ?)を旨とする心』(標語。物:場 C‘)②徳川末期(場 C‘)⇒からの關係:(承前)ただ④を①と受取つた(D1の至小化)⑤の受取り方〔とは、P243『やまと魂』(F)の古意(物:場 C‘)を①と、『意は似せ易く』語釋(D1の至小化)する事〕には、「③:②の物情(幕末『尊王攘夷』雰圍氣)の乘ずるところがあつて、」⇒「④:『やまと魂』」(③的對立概念F)⇒E:その(④Fを標語として①と受取る)意味合の向き(つまり『雄武(ますらたけ?)』『武士道』志向)を定めた(Eの至小化)。その證左に二例としての、吉田松陰『留魂録(大和魂歌)』と新渡戸稲造著『武士道(宣長:大和魂歌引用)」(④への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑤篤胤(△枠):①への適應正常。 ~~~以下參照~~~ P237關係論:①『姿(即ち『文辭の麗しさ』)は似せがたく、意(詞の巧み)は似せ易し』(物:場 C‘)⇒からの關係:『姿詞の髣髴(ほうふつ)たるまで似せんには、もとより意(詞の巧み)を似せん事は、何ぞかたからん、』。「②:『これら(即ち①)の難易をも、わきまへぬ(D1の至小化)人の、いかでか似ると似ぬとをわきまへん(D1の至小化)(後略)』」(D1の至小化)⇒「③:含蓄」(②的概念F)⇒E:この④の言ひ方の③するところは深い」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④宣長(國歌八論の評)(△枠):①への適應正常。 ~~~~ 關係論:①契沖(物:場 C‘)②『やまとだましいなる人』(物:場 C‘)③『丈夫(ますらを)の心なる人』(物:場 C‘)⇒からの關係:⑥は①を②と呼んだが、これは③といふ意味ではない。「④:その理由は、契沖の「業平朝臣」評價にある。即ち①の⑤(著『勢語臆斷』)に「まことの姿(『文辭の麗しさ』F)」がある事が②なのである。①曰く『業平朝臣は、一生のまこと、此の歌(P245參照)にあらはれ、後の人(後述例:北条時頼の遺偈)は、一生の僞りをあらはして』云々(P245&以下參照)についてである」(D1の至大化)⇒「⑤:古文の姿(即ち『文辭の麗しさ』)」(④的概念F)⇒E:⑥は⑤については、驚くほどの眼(Eの至大化)を持つてゐた。北条時頼の遺偈は、讀まれるより先に(直ぐ)、その(⑤の)あやしげな姿(F)が見て取られて(Eの至小化)ゐた。P245の『さとりがましき』『うるさく』『をこなる(痴なる:馬鹿げてゐる)』(Eの至小化)とかいふのは、その姿(あやしげな姿F)を言ふのであつて、解釋や議論〔即ち意(物:場 C‘)の語釋〕ではなからう。⑥には、時頼の言葉は死んでゐるといふ、自分の單純な直觀を否定する理由は見附からなかつたであらう。遺偈は時頼といふ人間の姿(F)をしてゐない(『吾妻鏡』編纂者の舞文:即ち『意は似せ易し』なる語釋)。なりひらの朝臣の歌(姿F)の、生き生きとした表現性(Eの至大化)とは、同日の談ではない。兩者には、『いつはり』と『まこと』くらゐの相違がある。①にひどく同感した⑥にしてみれば、時頼の遺偈の姿(『文辭の姿』F)が『さとりがましき』(Eの至小化)と見えたのなら、業平の歌は『さとり』の姿(即ち『文辭の麗しさ』F)をとつてゐる(Eの至大化)と見えたであらう」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):②への適應正常。 ~~~以下參照~~ P62關係論:①しなんとするにいたりて(場 C‘)②ことごとしき(大袈裟な?)歌(物:場 C‘)③道をさとれるよしなど(物:場 C‘)⑥まこと〔(眞)(物:場 C‘)〕⇒からの關係:①の時②を「④よみ(D1の至小化)」③を「⑤よめる」(D1の至小化)は、⑥に「⑦しからずして、いとにくし」(大變見苦しい:D1の至小化)⇒「⑧:ただなる時(普通の時)⑨:今はとあらん時だに〔せめて今はの際(場 C‘)だけでも〕」(⑥的概念F)⇒E:⑧に「⑩狂言綺語もまじらめ(混じるであらうが)」(Eの至小化)。⑨には「⑪心の⑥にかへれかし(歸れよ)(Eの至大化)(⑨への距離獲得:Eの至大化)⇒人々(△枠):①への適應正常。 關係論:①やまとだましひなる人(物:場 C‘)③『後(場 C‘)の人は一生のいつはり』云々(物:場 C‘)⇒からの關係:①は「②かく(③『勢語臆斷』)こそ有りけれ」(D1の至大化)⇒③は「④法師のことば」(②の對立的概念F)⇒E:④にも「⑤にず、いといとたふとし」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒契沖(△枠):①への適應正常。 ~~~~~ |
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〔二十五章〕主題: 《『やまと魂・やまと心』(物:場 C‘)と、『姿(文辭の麗しさ)は似せがたく、意(詞の巧み)は似せ易し』との「關係論」的纏め》 關係論:①『やまと魂・やまと心』(物:場 C‘)②『文辭(修辞)』(物:場 C‘)〕③意(物:場 C‘)④『才(ざえ:技藝、智識)』(物:場 C‘)⇒からの關係:①といふ『②の麗しさ(D1の至大化)』を「⑤:味識する經驗(D1の至大化)とは、④に對抗する。(故に)①といふ②の傳へる③を理解(語釋:D1の至小化)するよりも、」⇒「⑥:姿(F)」「⑦:沈黙(F)」⇒E:先づ①といふ②が直に示して(Eの至大化)ゐる、その「⑥:姿」(しき嶋の歌)を感ずる事(Eの至大化)。とはつまり、「⑦:沈黙」に堪へる事を學ぶ知慧(Eの至大化)〔即ち『皇大御國(F:すめらおほみくに)を黙して信ずる』智慧(Eの至大化)〕の事であり、これ【⑦に堪へる事を學ぶ知慧〔即ち①を働かす(Eの至大化)心ばへ(智慧F)〕】さへしつかり摑めば、『言のよさ』(③:『ものの理非を、かしこくいひまは』す)に『たじろぐ』(參照P235:D1の至小化)心配はない。⑧はそれを①が堅固(かた)まり(參照P235:D1の至大化)さへすれば、と言ふ(⑥⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧宣長(△枠):①②への適應正常。 關係論:①歌(物:場 C‘)②言葉(物:場 C‘)⇒からの關係:「③:例へば、ある①が麗しい(D1の至大化)とは、」⇒「④:姿」(③的概念F)⇒E:①の④が麗しいと感ずる(Eの至大化)事ではないか。そこでは、麗しい(轉義D1の至大化)とはつきり感知(Eの至大化)出來る④(F)を、②が作り上げて(合體Eの至大化)ゐる。それなら、②は實體ではないが、單なる符牒とも言へまい。②が作り上げる(合體Eの至大化)④(F)とは、肉眼に見える④(實體)ではないが、⑤には、(②によつて)まざまざと映ずる(Eの至大化)像(即ち、映ずる:合體Eの至大化=麗しい:轉義D1の至大化)には違ひない」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤心⑥小林曰く(△枠):①②への適應正常。 |
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以下は〔二十五章〕各項目纏め |
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P233《『やまと魂』(物:場 C‘)とか『やまと心』(物:場 C‘)とかいふ言葉が、上代(場 C‘)に使はれてゐた形跡はない。當時の日常語としての意味合は、『から』に對する『やまと』によりも、技藝、智識に對(對抗)して、これ(大和心、大和魂)を働かす心ばへ(智慧)とか、人柄とかに、重點を置いてゐた言葉と見てよい。『うひ山ぶみ』(物:場 C‘)では、『やまとだましひ』(物:場 C‘)とは、『神代上代(場 C‘)の、もろもろの事跡のうへに備はりた』る、『皇國の道』『人の道』を體した心(轉義D1の至大化)といふ意味である。宣長は『やまとだましひ』(『言靈』。物:場 C‘)といふ言葉の意味を、そこまで育て上げた(轉義D1の至大化)わけだが、この言葉が拾ひ上げられたのは、眞淵のと同じ場所(即ち『言靈』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)であつた筈だ。宣長も眞淵のやうに、『大和魂』といふ言葉(『言靈』)を、己れの腹中のもの(F)にして、一層強く(Eの至大化)勝手に使用した(即ち、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)。宣長(△枠)は、①『源氏』(物:場 C‘)を、眞淵とは比較にならぬほど、熱心に、愼重に讀んだ。眞淵と違つて、この(『やまとだましひ』の)言葉の姿(『言靈』)は忠實に受取られてゐた(轉義D1の至大化)と見てよい。更に言へば、この拾ひ上げられた言葉(F:『大和魂』)は、『あはれ』(F)といふ言葉の場合と同樣に、これ(拾ひ上げられた言葉:『大和魂』F)がはち切れんばかり(Eの至大化)の意味をこめて使はれて(合體Eの至大化)も、原意から逸脱して了ふといふ事はなかつた(即ち『言靈』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)》 關係論:①『やまと魂』(物:場 C‘)②『やまと心』(物:場 C‘)③上代(場 C‘)④『源氏』(物:場 C‘)⑤赤染衛門の歌(物:場 C‘)⇒からの關係:①とか②とかいふ言葉が③に使はれてゐた形跡はない。①は④に出てくるのが初見。②は⑤にあるのが初見で「⑥:當時の日常語だつた」⇒「⑦:どう言ふ意味の言葉」(⑥的概念F)⇒E:では、當時⑦であつたか。⑧の流儀で、無理に定義(Eの至小化)しようとせず、用例から感じ取つた方(Eの至大化)がよからう」(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧宣長(△枠):①②への適應正常。 關係論:①『源氏:乙女の卷』(物:場 C‘)②『大和心』(物:場 C‘)③才〔文才(もんざい):學問〕(物:場 C‘)⇒からの關係:①での源氏君の言葉に一つの用例がある。其處では、②は、③に對(敵對)する言葉で、「④:意味合が③とは異なるものとして使はれてゐる」(D1の至大化)⇒「⑤:智慧」(④的概念F)⇒E:③が、學んで得た智識に關係するに對し、②の方は、これ(②)を働かす⑤に關係すると言つてよい。で、源氏君の意見は⑤(②)と③との折合ふのが理想だが、作者式部の眼は②の方を向いてゐる」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒小林曰く(△枠):②への適應正常。 關係論:①今昔物語(物:場 C‘)②『大和心』(物:場 C‘)⇒からの關係:①で見ると、②といふ言葉の姿は、よほどはつきりして來る。「③:机上の學問(才:D1の至小化)に比べられた(比較しての)生活の智慧(D1の至大化)、死んだ理窟(D1の至小化)に對する(對抗する)、生きた常識(D1の至大化)といふ意味合である」⇒「④:折合ふ」(③的對立概念F)⇒E:兩者(才:机上の學問/『大和心』:生活の智慧)の④のはむつかしい事だと①の⑤は言ひたいのである」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤作者(△枠):②への適應正常。 關係論:①赤染衛門の歌(物:場 C‘)②『大和心』(物:場 C‘)③學問(物:場 C‘)⇒からの關係:①について②の用例では、この(①の)女流歌人も、「④:學者③に對して反撥する気持を、少しも隱さうとはしてゐない」(D1の至大化)⇒「⑤:無學」(④的對立概念F)⇒E:②が賢い女なら、⑤でも子供に附けて置いて、一向に差支へない。人間は③などすると、どうしてかうも馬鹿になるものか、と言つてゐる」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒赤染衛門(△枠):②への適應正常。 關係論:①『大和心しかしこくば』(物:場 C‘)⇒からの關係:上記用例からすれば、①とは、根がかしこい人なら、生れつき利發な質(たち)ならとかいふ事。「②:意味合からすれば、『心しかしこくば』でいいわけだ」(D1の至大化)⇒「③:心ばへ(智慧)とか、人柄」(②的概念F)⇒E:大和心、大和魂が、普通、いつも『才』に對(對抗)して使はれてゐるのは、元はと言へば、漢才(からざえ)・漢學に對抗する意識から發生した言葉である事を語つてゐる。當時の日常語としての意味合は、『から』に對する『やまと』によりも、技藝、智識に對(對抗)して、これ(大和心、大和魂)を働かす③とかに、重點を置いてゐた言葉と見てよい」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒當時人(△枠):①への適應正常。 關係論:①『うひ山ぶみ』(物:場 C‘)②『やまとだましひ』(物:場 C‘)③神代上代(場 C‘)⇒からの關係:①では②とは、『③の、もろもろの事跡のうへに備はりた』る、「④:『皇國の道』『人の道』を體した心(轉義D1の至大化)といふ意味である。⑥は②といふ言葉 の意味を、そこまで育て上げた(轉義D1の至大化)わけだが、この言葉が拾ひ上げられたのは、眞淵のと同じ場所(即ち『言靈』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)であつた筈だ」⇒「⑤:己れの腹中のもの」(④的概念F)⇒E:⑥も眞淵のやうに、『大和魂』といふ言葉(『言靈』)を⑤にして、一層強く(Eの至大化)勝手に使用した(即ち、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①『源氏』(物:場 C‘)⇒からの關係:④は、①を、眞淵とは比較にならぬほど、熱心に、愼重に讀んだ。眞淵と違つて、「②:この(『やまとだましひ』の)言葉の姿(『言靈』)は忠實に受取られてゐた(轉義D1の至大化)と見てよい」(D1の至大化)⇒「③:拾ひ上げられた言葉(『大和魂』)」(②的概念F)⇒E:更に言へば、この③は、『あはれ』(F)といふ言葉の場合と同樣に、これ(③)がはち切れんばかり(Eの至大化)の意味をこめて使はれて(合體Eの至大化)も、原意から逸脱して了ふといふ事はなかつた(即ち『言靈』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P234《宣長(△枠)の正面切つた古道(物:場 C‘)に關する説としては、直毘霊〔なおびのみたま(物:場 C‘)〕が最初であり、又、これに盡きてゐる。宣長の説く古道(物:場 C‘)の説といふものは、特に道を立てて、道を説くといふことが全くなかつたところ〔つまり、皇大御國(すめらおほみくに:F)を黙して信ずる(Eの至大化)〕に、我が國の古道(物:場 C‘)があつたといふ逆説の上に成り立つてゐた(D1の至大化)。 『みづからの國のことなれば、皇國の學をこそ、ただ學問とはいひて、漢學をこそ、分て漢學といふべき。(中略)うちまかせてつねに、和學國學などといふは、皇國を外(よそ)にしたるいふやう也(中略)。かのもろこしを。みづからの國のごとく、内にして、皇國をば、返りて外(よそ)にするは、ことの心(物:場 C‘)たがひて(D1の至小化)、いみじきひがごと(D1の至小化)也。(中略)此事は、山跡魂(物:場 C‘)をかたむる(D1の至小化)一端なる故』。『世の人(△枠)、とかく倭魂〔やまとだましい(物:場 C‘)〕かたまりにくき(D1の至小化)物にて、から(漢)書(物:場 C‘)をよめば、そのことよき(物:場 C‘)にまどはされて(D1の至小化)、たじろやすき(D1の至小化)ならひ也』(うひ山ぶみ:參照P235)》 關係論:①古道(物:場 C‘)②直毘霊〔なおびのみたま(物:場 C‘)〕⇒からの關係:⑤の正面切つた①に關する説としては、②が最初であり、又、これに盡きてゐる。⑤の説く①の説といふものは、「③:特に道を立てて、道を説くといふことが全くなかつたところに、我が國の①があつたといふ逆説の上に成り立つてゐた」(D1の至大化)⇒「④:皇大御國(すめらおほみくに)」(③的概念F)⇒E:④を黙して信ずる(Eの至大化)者(即ち⑤)の、儒學への烈しい對抗意識だけが、明らさまに語られる。よつて、當時人(例:上田秋成)の論難が、⑤の獨斷と見えるところに向かつて集中(歌『しき嶋』中の『やまとごころ』は國粹主義の標語と論難)した」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①標語(物:場 C‘)②學問の方法(物:場 C‘)⇒からの關係:①を掲げる(D1の至小化)とかいふやうな事は⑤の「③:②からしても、その氣質からしても、先づ考へられない事だ」(D1の至大化)⇒「④:(①的)和學とか國學」(③的對立概念F)⇒E:⑤は④とかいふ言葉(①的)を嫌つた(Eの至小化)。曰く『いたくわろきいひざま也(Eの至小化)、みづからの國のことなれば、皇國の學をこそ、ただ學問とはいひて、漢學をこそ、分て漢學といふべき。(中略)うちまかせてつねに、和學國學などといふは、皇國を外(よそ)にしたるいふやう也(中略)。かのもろこしを。みづからの國のごとく、内にして、皇國をば、返りて外(よそ)にするは、ことの心たがひて、いみじきひがごと也。(中略)此事は、山跡魂をかたむる一端なる故』(うひ山ぶみ:參照P235)」(④への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑤宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①倭魂〔やまとだましい(物:場 C‘)〕②から(漢)書(物:場 C‘)③ことよき(物:場 C‘)④文辭(物:場 C‘)⇒からの關係:『⑦、とかく①かたまりにくき物にて、②をよめば、その③にまどはされて、たじろやすきならひ也』、「⑤:『③とは、その④を麗しといふにはあらず、詞の巧み(D1の至小化)にして、人の思ひつきやすく、まどはされやすきさまなるをいふ也、すべて②は、言巧(D1の至小化)にして、ものの理非を、かしこくいひまはしたれば、人のよく思ひつく也』」(D1の至小化)⇒「⑥:歌の姿」(⑤的概念F)⇒E:説明が適はぬから歌を一首、⑥を素直に受取つて貰へば、別に仔細はない、と⑧は言ふ」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦世の人⑧宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P237《ある歌(物:場 C‘)が麗しい(D1の至大化)とは、歌(物:場 C‘)の姿(F)が麗しいと感ずる(Eの至大化)事である。そこでは、麗しい(轉義D1の至大化)とはつきり感知(Eの至大化)出來る姿(F)を、②言葉(物:場 C‘)が作り上げて(合體Eの至大化)ゐる。言葉(物:場 C‘)が作り上げる(合體Eの至大化)姿(F)とは、肉眼に見える姿(實體)ではないが、心(△枠)には(言葉によつて)まざまざと映ずる(Eの至大化)像(即ち、映ずる:合體Eの至大化=麗しい:轉義D1の至大化)には違ひない。 とはつまり、萬葉歌(物:場 C‘)の働き(『言靈』の、轉義D1の至大化)は、讀む人(△枠)の想像理に、萬葉人(物:場 C‘)の命の姿(F)を持込む(合體:Eの至大化)といふに盡きる(即ち『言靈』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)。これを無視(Eの至小化)して、古の大義(古語C’⇒語釋:D1の至小化)はおろか、どんな意味合が傳へられるものではない(Eの至小化)。 意(物:場 C‘)は似せ易い(D1の至小化)。意(物:場 C‘)を知るのに、似る似ぬのわきまへも無用なら、意(物:場 C‘)こそ口眞似しやすいもの(D1の至小化)。意(物:場 C‘)には姿(F)がないからだ。古の大義(物:場 C‘)を口眞似で得た(語釋:D1の至小化)者に、古歌(物:場 C‘)の姿(F)〔即ち、(言葉によつて)まざまざと映ずる(合體Eの至大化)像(即ち、映ずる:合體Eの至大化=麗しい:轉義D1の至大化)〕が眼に入らぬ(Eの至小化)のも無理はない》 《『やまと魂・やまと心』(物:場 C‘)と、『姿(文辭の麗しさ)は似せがたく、意(詞の巧み)は似せ易し』との「關係論」的纏め》 關係論:①『やまと魂・やまと心』(物:場 C‘)②『文辭(修辞)』(物:場 C‘)〕③意 (物:場 C‘)④『才(ざえ:技藝、智識)』(物:場 C‘)⇒からの關係:①といふ『②の麗しさ(D1の至大化)』を「⑤:味識する經驗(D1の至大化)とは、④に對抗する。(故に)①といふ②の傳へる③を理解(語釋:D1の至小化)するよりも、」⇒「⑥姿:⑦沈黙」(⑤的概念F)⇒E:先づ①といふ②が直に示して(Eの至大化)ゐる、その⑥(しき嶋の歌)を感ずる事(Eの至大化)。とはつまり、⑦に堪へる事を學ぶ知慧(Eの至大化)〔即ち『皇大御國(F:すめらおほみくに)を黙して信ずる』智慧(Eの至大化)〕の事であり、これ【⑦に堪へる事を學ぶ知慧〔即ち①を働かす(Eの至大化)心ばへ(智慧)〕】さへしつかり摑めば、『言のよさ』(③即ち『ものの理非を、かしこくいひまは』す)に『たじろぐ』(參照P235:D1の至小化)心配はない。⑧はそれを①が堅固(かた)まり(參照P235:D1の至大化)さへすれば、と言ふ(⑥⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧宣長(△枠):①②への適應正常。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 關係論:①『言のよさ』(物:場 C‘)②『文辭〔文章を整へる事。修辞〕の麗しさ』(物:場 C‘)⇒からの關係:①とは、『ものの理非を、かしこくいひまは(D1の至小化)』す「③:『詞の巧み』〔意:(D1の至小化)〕であり、②(即ち姿)とは全く異なり、これと對立する」(D1の至大化)⇒「④:意と姿」(③的概念F)⇒E:この對立を、⑤は歌に於ける④とも言つてゐる。彼の歌論に『姿(即ち②)は似せがたく、意(詞の巧み)は似せ易し』(國歌八論の評)といふ言葉がある」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①②への適應正常。 關係論:①『姿(即ち『文辭の麗しさ』)は似せがたく、意(詞の巧み)は似せ易し』(物:場 C‘)⇒からの關係:『姿詞の髣髴(ほうふつ)たるまで似せんには、もとより意(詞の巧み)を似せん事は、何ぞかたからん、』。「②:『これら(即ち①)の難易をも、わきまへぬ(D1の至小化)人の、いかでか似ると似ぬとをわきまへん(D1の至小化)(後略)』」(D1の至小化)⇒「③:含蓄」(②的概念F)⇒E:この④の言ひ方の③するところは深い」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④宣長(國歌八論の評)(△枠):①への適應正常。 關係論:①古の大義(物:場 C‘)②古歌(物:場 C‘)⇒からの關係:「③:①もわきまへず(語釋主義:D1の至小化)」、②の詞を眞似て、②の似せ物を作るとは笑止である、といふ言ひ方は」(D1の至小化)⇒「④:意味」(③的概念F)⇒E:言葉とは、ある④を傳へる爲の符牒(Eの至小化)に過ぎないといふ⑤の根強さに由來」(④への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑤俗見(△枠):①への適應異常。 關係論:①歌(物:場 C‘)②言葉(物:場 C‘)⇒からの關係:「③:例へば、ある①が麗しい(D1の至大化)とは、」⇒「⓸:姿」(②的概念F)⇒E:①の⓸が麗しいと感ずる(Eの至大化)事ではないか。そこでは、麗しい(轉義D1の至大化)とはつきり感知(Eの至大化)出來る⓸(F)を、②が作り上げて(合體Eの至大化)ゐる。それなら、②は實體ではないが、單なる符牒とも言へまい。②が作り上げる(合體Eの至大化)⓸(F)とは、肉眼に見える⓸(實體)ではないが、⑤には(②によつて)まざまざと映ずる(Eの至大化)像(即ち、映ずる:合體Eの至大化=麗しい:轉義D1の至大化)には違ひない」(⓸への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤心⑥小林曰く(△枠):①への適應正常。 關係論:①萬葉歌(物:場 C‘)②萬葉人(物:場 C‘)⇒からの關係:「①の働き(『言靈』の、轉義D1の至大化)は、」⇒「③:命の姿(F)」⇒E:④の想像理に、②の③を持込む(合體:Eの至大化)といふに盡きる(即ち『言靈』の、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)。これを無視(Eの至小化)して、古の大義(古語C’⇒語釋:D1の至小化)はおろか、どんな意味合が傳へられるものではない(Eの至小化)」(③への距離獲得:Eの至小化)⇒④讀む人(△枠):①への適應正常。 關係論:①『萬葉』の秀歌(物:場 C‘)②絶對的な姿(物:場 C)⇒からの關係:①は、言はば「③:その②で立ち(D1の至大化)、一人歩きしてゐる」(D1の至大化)⇒「④:似せ物」(③的對立概念F)⇒E:その④を作る(Eの至大化)のは、難しいどころの段(Eの至小化)ではなからう」(④への距離不獲得:Eの至小化)⇒小林曰く(△枠):①への適應異常。 關係論:①意(物:場 C‘)⇒からの關係:①は似せ易い(D1の至大化)。①を知るのに、似る似ぬのわきまへも無用なら、「②:①こそ口眞似しやすいもの」(D1の至小化)⇒「③:姿」(②的對立概念F)⇒E:①には③がないからだ。古の大義(物:場 C‘)を口眞似で得た(語釋:D1の至小化)④に、古歌(物:場 C‘)の③(F)〔(言葉によつて)まざまざと映ずる(合體Eの至大化)像(即ち、映ずる:合體Eの至大化=麗しい:轉義D1の至大化)〕が眼に入らぬ(Eの至小化)のも無理はない」(②への距離不獲得:Eの至小化)⇒小林曰く(△枠)④者:①への適應異常。 關係論:①文辭〔文章を整へる事。修辞(物:場 C‘)〕⇒からの關係:①の「②:傳へる意(物:場 C‘)を理解(語釋:D1の至小化)するよりも、」⇒「③:姿」(②的對立概念F)⇒E:先づ①が直に示して(Eの至大化)ゐるその③(F)を感ずる(Eの至大化)、④は『すべて學問すぢ(物:場 C‘)ならぬ、よのつねの世俗の事(物:場 C‘)にても、辯舌よく、かしこく物をいひまはす(語釋の:D1の至小化)人の言(F)には、人(△枠)のなびきやすき(Eの至小化)物』と言つてる」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①言葉(物:場 C‘)②歌(物:場 C‘)⇒からの關係:①の作用は絶大(即ち、轉義D1の至大化)。①は②の上(轉義D1の至大化)だけで、③を創り出す(合體:Eの至大化)のではない」⇒「③:姿」(②的概念F)⇒E:①は世の常の生活の間で、交はされてゐる談話(Eの至大化)〔つまり、P221『尋常な談話の關係(即ち、Eの至大化)』『一般人の普通の言語(F)表現(合體:Eの至大化)の世界』、即ちP225『自然(合體:Eの至大化)、我物(F)なる』『平生の言語(F)』と同意〕にも、その(①の)③(F)といふものはある(即ち、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①②への適應正常。 關係論:①個性とか生命感(大和心、大和魂。物:場 C‘)⇒からの關係:①について、「②:『かしこく物をいひまはす(語釋:D1の至小化)』といふわけにもいかない」⇒「③:味はひ」(②的對立概念F)⇒E:(何故なら)、どんな姿(F)にせよ、人目を捕へて離さぬ(Eの至大化)やうなものなら、人生の生々しい③(F)を湛へてゐる(Eの至大化)筈であり、その③(F)は、比較や分析(Eの至小化)の適はぬ、①(大和心、大和魂。物:場 C‘)とかいふものに關する經驗(即ち、D1の至大化=Eの至大化)であるから」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒小林曰く(△枠):①への適應正常。 關係論:①個性とか生命感(『かういふ』。物:場 C‘)〕⇒からの關係:①の經驗(D1の至大化)は、「②:『辯舌』(語釋:D1の至小化)の方には向いてゐない」⇒「③:寡默や沈黙」(②的對立概念F)⇒E:反對に、③の方に④を誘ふ(合體:Eの至大化)〔とは、P234『皇大御國(F:すめらおほみくに)を黙して信ずる(Eの至大化)』と同意〕ものだ。姿〔つまり③(F)〕の經驗(合體:Eの至大化)は、『意』〔詞の巧み(語釋:D1の至小化)〕に抵抗する(D1の至大化)事も教へてゐる筈(即ち、合體Eの至大化=轉義D1の至大化)である」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④人(△枠)⑤小林曰く:①への適應正常。 關係論:①『文辭(文章を整へる事:修辞)』(物:場 C‘)⇒からの關係:『①の麗しさ(D1の至大化)』を「②:味識する經驗(D1の至大化)とは、言つてみれば、」⇒「③:沈黙」(②的概念F)⇒E:③に堪へる事を學ぶ知慧(Eの至大化)【即ち:P234『皇大御國(F:すめらおほみくに)を黙して信ずる』智慧(Eの至大化)、及びP233『これ〔大和心、大和魂(物:場 C‘)〕を働かす(Eの至大化)智慧(F)』と同意】の事であり、これ【③に堪へる事を學ぶ知慧〔即ち大和心、大和魂(物:場 C‘)を働かす(Eの至大化)心ばへ(智慧F)〕】さへしつかり摑めば、『言のよさ』〔『詞の巧み』(物:場 C‘)〕」に『たじろぐ』(參照P235:D1の至小化)心配はない。④はそれを『やまと魂』(物:場 C‘)が堅固(かた)まり(參照P235:D1の至大化)さへすれば、と言ふ【とは、關係論:①『やまと魂』(物:場 C‘)⇒からの關係:「②堅固(かた)まり(D1の至大化)」⇒「③沈黙(知慧・心ばへ・智慧)」(②的概念F)⇒E:「①を働かす(Eの至大化)③」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒私達(△枠):①への適應正常。】。『やまと魂』と言ふ言葉を、彼も『才(ざえ)』(技藝、智識)に對(對抗)して使つてゐるのである【參照:P233『(『やまと魂』は、)技藝、智識に對(『才』に對抗)して、これ〔大和心、大和魂(物:場 C‘)を働かす(Eの至大化)心ばへ(智慧F)とか、人柄とかに、重點を置いてゐた言葉』】」」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④宣長(△枠):①への適應正常。 |
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〔二十四章〕主題: P228の纏め:《『其のしな〔喜怒哀楽の情(こころ。物:場 C‘)〕にしたがひて(D1の至大化)、感ずる所〔即ち經驗(D1の至大化)〕が物のあはれ(D1の至大化)也(『紫文要領』)』と、「日常言語(F)の表現力(Eの至大化)」との關係(つまり、表現力(ながむる)Eの至大化=『物の哀をしる』D1の至大化)について》 P228關係論:①『人生といふ主題・大かた人の情(こころ)のあるやう』(物:場 C‘)⇒からの關係:①を「②:『感ずる所〔即ち經驗(D1の至大化)〕が物のあはれ(轉義D1の至大化)』」⇒「③:日常言語・我物なる平生の言語」(②的概念F)⇒E:③を自然(Eの至大化)あやつつてゐる(F⇒合體Eの至大化)」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 〔更に詳しく記述すると以下の通り〕 P228關係論:①『大かた人の情(こころ)のあるやう』〔即ち、私達の經驗の世界(物:場 C‘)〕②在るがままの人生(物:場 C‘)③物語の世界(物:場 C‘)④『其のしな』〔喜怒哀楽の情(こころ。物:場 C‘)〕⇒からの關係:①が②として『心にこめがたい』(なげく:D1の至大化)といふ理由で語られる③でもある〔つまり、①は③と同樣『喜怒哀楽の人間の表情』の世界〕。「⑤:故に『④にしたがひて(D1の至大化)、感ずる所〔即ち經驗(D1の至大化)〕が物のあはれ(D1の至大化)也』(『紫文要領』)と』」⇒「⑥:日常言語」(⑤的概念F)⇒E:そして『物のあはれ(D1の至大化)』は、『源氏』にどう現れてゐるかと言へば、『誰にも親しい④の表現力(Eの至大化)』として、それが現れてゐるのだと〔つまり、P221『尋常な談話の關係(即ち、Eの至大化=D1の至大化)』『一般人の普通の言語(F)表現(Eの至大化)の世界』、即ちP225『自然(Eの至大化)、我物(F)なる』『平生の言語(F)』としてである、と〕」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):①への適應正常。 〔そして其處には、宣長の「言語觀」中の、P221『云々(しかじか)の言(F)は、云々(古人)の意(D1の至大化)に用ひたり(Eの至大化)といふことを、よく明らめ知る(即ち、Eの至大化=D1の至大化)を、要とすべし』(うひ山ぶみ)も含まれてゐるのである。更には、此處には、以下の「關係論」二文も含まれてゐる〕。 P215關係論:①誰の實情(物:場 C‘)⇒からの關係:①も、訓練され、訓致され(D1の至大化)なければ、「②:⑤のはつきりした所有物(わが物)にならない」〔とは『物をつくづく見る(奈我牟流:ながむる)(Eの至大化)が、歌人が實情を知る(物の哀をしる)、知り方(Eの至大化)』であるから、それだけ『奈我牟流:ながむる』が訓練訓致されなければ、『人の實の情』は知り難い、といふ事〕(D1の至大化)⇒「③『かたち(文・姿)』(②的概念F)⇒E:わが物(はつきりした所有物)として、その(實情の)③を『つくづくと見る』(Eの至大化)事が出來る對象(即ち『物の哀をしる』機能)とはならない(以下①參照)。歌とは、意識(奈我牟流:ながむる)が出會ふ最初の物(③)だ〔無意識的動作(長息)から、意識(奈我牟流:ながむる)への轉化が歌といふ事か?以下參照〕、とさう言ひたかつた④を想像してみてもよい」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤その人(歌人)④宣長(△枠):①への適應正常。 *P215:「つくづくと見る(Eの至大化)意味の『ながむる』(Eの至大化)が、歌人(△枠)が實情(物:場 C‘)を知る(D1の至大化)、その知り方〔とは『物の哀をしる』(D1の至大化)事〕を現はす(つまり、『ながむる』Eの至大化=『物の哀をしる』D1の至大化)。 〔參照:P215『人の實の情(物:場 C‘)をしる(D1の至大化)を、物の哀をしる(D1の至大化)といふなり』『人の實の情(物:場 C‘)』は知り難い(D1の至小化):『紫文要領』〕 |
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以下は〔二十四章〕各項目纏め |
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P224《①言葉(物:場 C‘)の生き死に(D1の至大化/至小化)とは、私達(△枠)の内部の出來事。それ(内部の出來事)は、死んで生れ變る〔例:俗言(Fさとびごと)〕といふ風に言葉〔F:例:俗言(さとびごと)〕を用ゐて來た〔即ち:俗言(F)に合體(Eの至大化)〕私達(△枠)の言語經驗(即ち、Eの至大化=D1の至大化)の歴史である。宣長が着目したのは、古言(物:場 C‘)の本義〔語(物:場 C‘)⇒釋(D1の至小化)〕よりもむしろその(古言の)轉義(即ち、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)だつた。その(古言の)現在〔つまり、F:生れ變る『例:俗言(さとびごと)』〕の生きた働き方(合體:Eの至大化)の中に、言葉の過去(即ち古言)を映し出して見る(轉義:D1の至大化:即ち、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)人が、言語の傳統〔つまり『死んで生れ變る』物の味(F俗言:さとびごと)〕を、みづから味はへる(合體Eの至大化)〔即ち『物の味(F)をみづからなめて知れる(合體Eの至大化)』〕人だ。さういふ考へ(つまりは、D1の至大化=Eの至大化)が土臺となつて、『詞(F)の玉(F)緒(Eの至大化)』(宣長五十歳作)といふ『てにをは』(Eの至大化)の研究が書かれた》 〔以下は、理解を深める爲の、前章の復習的内容〕 關係論:①古學(物:場 C‘)②古言(物:場 C‘)⇒からの關係:⑥に言はせれば、①を目指すところは、「③:『②を得ること』」(D1の至大化)⇒「④:物の味」(③的概念F)⇒E:「あたかも『④を、みづからなめて、知れる(Eの至大化)がごと』き親しい關係(Eの至大化)を、②との間(D1の至大化)に取り結ぶこと(即ち、Eの至大化=D1の至大化)であつた。それ(即ち、Eの至大化=D1の至大化)は、結ばうと思へば、誰にでも出來る、⑤と②の間(D1)の、尋常な健全な關係(D1の至大化)なのである〔以下枠文參照〕」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤私達⑥宣長(△枠):①への適應正常。
P223關係論:①言葉(物:場 C‘)⑤古言(物:場 C‘)⇒からの關係:①の生き死に(D1の至大化/至小化)とは、「②:④の内部の出來事」(D1の至大化)⇒「③:生れ變る(例:俗言(さとびごと)」(的概念F)⇒E:それ(内部の出來事)は、死んで③といふ風に言葉(F:例:俗言(さとびごと)を用ゐて來た〔即ち:俗言(F)に合體(Eの至大化)〕④の言語經驗(即ち、Eの至大化=D1の至大化)の歴史である。宣長が着目したのは、⑤の本義〔語(物:場 C‘)⇒釋(D1の至小化)〕よりもむしろその(⑤の)轉義(即ち、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)だつた」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④私達(△枠):②への適應正常。~~〔以下枠文參照〕~~ P223關係論:①古言(物:場 C‘)⇒からの關係:①は、どんな③(F)を新たに見附けて(合體:Eの至大化)、「②:どのやうに轉義(D1の至大化)し、立直る(即ち、Eの至大化=D1の至大化)か」⇒「③:對象」(②的概念F)⇒E:「その(①の)現在(即ち③:例『俗言:さとびごと』)の生きた働き方(合體:Eの至大化)の中に、言葉の過去(即ち①)を映し出して見る(轉義:D1の至大化:即ち、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)④が、言語の傳統〔つまり『死んで生れ變る物の味(F俗言:さとびごと)』〕を、みづから味はへる(合體Eの至大化)〔即ち『物の味(F)をみづからなめて知れる(合體Eの至大化)』〕④だ。さういふ考へ(つまりは、D1の至大化=Eの至大化)が土臺となつて、『詞(F)の玉(F)緒(Eの至大化)』(宣長五十歳作)といふ『てにをは』(Eの至大化)の研究が書かれた」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④人(△枠):①への適應正常。〔以下枠文參照〕 要するに、前項前々項を、別な角度で言つたに過ぎない
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P224《『てにをは』は、『吾國一切の言語』(物:場 C‘)機能の基本的な構造を現してゐるものだ、と言ふ考へ。『てにをは』(Eの至大化)は、詞といふ玉(F)を貫く緒(Eの至大化)と考へられた。文といふ衣(F)を縫ふ縫ひて(Eの至大化)と考へられてゐる。文意〔文(物:場 C‘)⇒意(D1)〕よりも、文(F)の『いきほひ』(Eの至大化)へと動く宣長の眼に捕へられ、普通の意味での詞(F)と對立する。玉〔『詞といふ玉(F)』〕ではない、緒(Eの至大化)であるとは、語(F)ではない、『語(F)の用ゐ方(用法:Eの至大化)』と言ひたいのである。『いひざま(Eの至大化)』『いきほひ(Eの至大化)』などと呼んでいいもの、どうしても外物(物:場 C‘)化出來ぬ、私達(△枠)の心の働き(D1の至大化)を、直に現してゐる(即ち、D1の至大化=Eの至大化)ものだ。言語(物:場 C‘)を使ひこなす(D1の至大化)私達(△枠)の心の働き(D1の至大化)を内から摑まう(『形ある物に見せる』Eの至大化)とする、この考へ〔内から摑まう(Eの至大化)〕の結實が、『詞(F)の玉(F)⇒緒(Eの至大化)』といふ勞作だと言へる(即ち、『心の働き』D1の至大化=『内摑/緒/てにをは』Eの至大化)》 P224關係論:①和歌(物:場 C‘)②『吾國一切の言語』(物:場 C‘)③『てにをは』(物:場 C‘)⇒からの關係:『①にかぎらず、②、ことごとく、てにはを以て、分明に分るる事也(あしわけ小舟)』。つまり③は、「④:②機能の基本的な構造を現してゐるものだ、と言ふ考へ」(D1の至大化)⇒「⑤:詞といふ玉」(④的概念F)⇒E:『てにをは』は⑤を貫く緒(Eの至大化)と考へられた。『歌(かたちE)にまれ、詞(F)にまれ、此てにをは(Eの至大化)のととのはざる(Eの至小化)は、たとへば、つたなき手(Eの至小化)して、縫ひたらん(Eの至小化)衣(F)のごとし。その〔歌(かたちE)にまれ、詞(F)の〕言葉(F)は、いかにめでたき綾錦(Eの至大化)なり共、縫へるさまの、惡しからん(Eの至小化)は、見苦しからじやは〔反語:何とも見苦しい(Eの至小化)〕(『詞の玉緒:七の卷』)と言はれてゐるやうに、文といふ衣(F)を縫ふ縫ひて(E)と考へられてゐる」(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒宣長『詞の玉緒:七の卷』(△枠):②③への適應正常。 P224關係論:①『てにをは』の姿(物:場 C‘)⇒からの關係:①は「②:語意〔語(物:場 C‘)⇒釋(D1)?〕よりも文意〔文(物:場 C‘)⇒(D1)〕へ、」(D1)⇒「③:『いきほひ(Eの至大化)』」(②的對立概念)⇒E:・・文意よりも、文(F)の③へと動く⑤の眼に捕へられ、普通の意味での詞(F)と對立する。玉〔『詞といふ玉(F)』〕ではない、緒(Eの至大化)であるとは、語(F)ではない、『語(F)の用ゐ方(用法:Eの至大化)』と言ひたいのである」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①文(物:場 C‘)②さだまり(物:場 C‘)⇒からの關係:①が①である爲には、『その(①の)本末を、かなへあはする(D1の至大化)②』と④が言ふ、「②:もう一つの條件が要る(D1の至大化)」⇒「③:『てにをは(Eの至大化)』(②的概念F)⇒E:「この條件を現してゐるものが③である」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①『てにをは(Eの至大化)』(物:場 C‘)②事物も觀念(物:場 C‘)③對象(物:場 C‘)④思想感情(物:場 C‘)⑤内的なもの(物:場 C‘)⑧外物(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②も現すものではない(D1の至小化)。「⑥:一應は③化して、しかじかの④と考へられる⑤も指す(D1)事は出來ない(D1の至小化)」⇒「⑦:語」(⑤的概念F)⇒E:とすれば、これを⑦とは呼びにくい。それでも⑦には違ひないのなら、それは、⑦の『用ひ方(Eの至大化)』『いひざま(Eの至大化)』『いきほひ(Eの至大化)』などと呼んでいいもの、どうしても⑧化出來ぬ⑨の心の働き(D1の至大化)を、直に現してゐる(即ち、D1の至大化=Eの至大化)ものだ」(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒⑨私達(△枠):①⑤への適應正常。 關係論:①言語の問題(物:場 C‘)②言語といふ物(物:場 C‘)③言語(物:場 C‘)⇒からの關係:①を扱ふのに、⑦は、⑥に使はれる②に、外から觸れる道(語釋:D1の至小化)を行かず、③を使ひこなす(D1の至大化)⑥の心の働き(D1の至大化)を「④:内から摑まう(『形ある物に見せる』Eの至大化)とする」⇒「⑤:結實」(④的概念F)⇒E:この考へ〔内から摑まう(Eの至大化)〕の⑤が『詞(F)の玉(F)⇒緒(Eの至大化)』といふ勞作だと言へる(即ち、『心の働き』D1の至大化=『内摑/緒/てにをは』Eの至大化)」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥私達⑦宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P225《言葉(物:場 C‘)といふ道具の、『さだまり』(物:場 C‘)に捕へられて(D1の至大化)、その(さだまり』の)内(轉義内:D1の至大化)にゐるからこそ、私達は、言葉(物:場 C‘)に關し自在(轉義:D1の至大化)なのである。そこ〔即ち:『さだまり』に捕へられて言葉に自在(轉義:D1の至大化)〕に、宣長は、彼の言ふ『言靈』の働き(即ち、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)を見てゐた。つまり、『低き所』〔即ち『おのが腹の内の物』(道具:F)と合體(Eの至大化)〕に見てゐた(即ち、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)ので、特に『言靈』といふ高きに登らん(語釋:『外から觸れる道』D1の至大化)としたのではない》 P225關係論:①言葉(物:場 C‘)②『さだまり』(物:場 C‘)③『言靈』(物:場 C‘)⇒からの關係:①といふ道具には、⑥にはどうにもならぬ、⑥の力量を超えた(D1の至大化)道具(①)の②といふものがある。この(①といふ道具の)②に捕へられて(D1の至大化)、その(②の)内(轉義内:D1の至大化)にゐるからこそ、⑥は、①に關し自在(轉義:D1の至大化)なのである。「④:そこ〔即ち:②に捕へられて①に自在(轉義:D1の至大化)〕に、⑦は、彼の言ふ③の働き(即ち、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)を見てゐた。言はれてみれば、誰も承知してゐるといふ『低き所』〔即ち⑤(道具:F)と合體(Eの至大化)〕に見てゐたので、特に③といふ高きに登らん(語釋:『外から觸れる道』D1の至大化)としたのではない」 |
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P225《著『詞の玉緒』(物:場 C‘)では、『萬葉』から『新古今』に至る詠歌の、『いともあやしき言靈(即ち、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)のさだまり(物:場 C‘)』が言はれてゐる。宣長の考への中心は、これら歌人達のは、歌を詠むのに文法(『てにをは』)など少しも必要とはしてゐなかつた。言靈の力(即ち、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)を信じてゐれば、それで足りてゐた、さういふ處(即ち、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)にあつた。『雅言』を俗言〔『おのが腹の内の物』(F)〕に譯(うつ)す(轉義D1の至大化)といふのも、二つ〔『雅言』と俗言(F)〕の『平生(それぞれの時代)の言語(F)』が③をへだてて相映ずる(轉義D1の至大化=合體Eの至大化:即ち『言靈』)のを見ようが爲だ。古言は、何時の間にか、今言〔俗言『おのが腹の内の物』(F)〕に移り變る(轉義D1の至大化)。しかし、言語機能の基本的な構造〔即ち『自然(Eの至大化)、我物(F)なる』『平生の言語(F)』をあやつつてゐる(F⇒合體Eの至大化)事〕は變りやうがなく、これ〔『自然あやつつてゐる』(Eの至大化)〕は、恐らく私達の(古言と今言の)心の本質的な連續性〔本能的な智慧(合體Eの至大化)と同意か?〕に見合ふものだ、といふのが宣長の考へ》 關係論:①著『詞の玉緒』(物:場 C‘)②『萬葉』(物:場 C‘)③『新古今』(物:場 C‘)④詠歌(物:場 C‘)⑧言靈(物:場 C‘)⑨さだまり(物:場 C‘)⇒からの關係:①では、②から③に至る④の「⑤:夥しい作例が檢討されて、」(D1の至大化)⇒「⑥:『てにをは』」⑤的概念F)⇒E:⑥の『ととのへ』(Eの至大化)が發見され、『いともあやしき⑧(即ち、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)の⑨』が言はれてゐる。⑦の考への中心は、これら⑩のは、歌を詠むのに(④に)文法(⑥)など少しも必要とはしてゐなかつた(Eの至大化)、⑧の力(即ち、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)を信じてゐれば、それで足りてゐた、さういふ處(即ち、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)にあつたと言つたほうがよい」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長⑩歌人達(△枠):②③④への適應正常。 關係論:①『雅言』(物:場 C‘)⇒からの關係:①となると、『れきれきの②にても、「③:てには(てにをは)のかなはぬ(Eの至小化)事ままあり』といふ事になる」(D1の至小化)⇒「④:『平生の言語』」(③的對立概念F)⇒E:『④は、いかに⑤といへども、てには(てにをは)のかなはぬ(Eの至小化)と云ふ事なし(Eの至大化)。自然、我物〔『おのが腹の内の物』(F)〕なる(Eの至大化)ゆへ也』。『自然(Eの至大化)、我物(F)なる』『平生の言語(F)』をあやつつてゐる(F⇒Eの至大化)といふ事が、言語(F)の正しい使ひ方(Eの至大化)についての本能的な智慧(合體Eの至大化)を働かせてゐる、といふその事なのだ」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒②歌よみ⑤愚人(△枠):④への適應正常。 關係論:①言語の歴史(物:場 C‘)②『雅言』(物:場 C‘)③時代(C’)④古言(物:場 C‘)⇒からの關係:さういふ事〔『自然(Eの至大化)、我物(F)なる』『平生の言語(F)』をあやつつてゐる(F⇒合體Eの至大化)〕を繰返してゐるのが、⑦の①なのだ。②を俗言〔『おのが腹の内の物』(F)〕に譯(うつ)す(轉義D1の至大化)といふのも、二つ〔②と俗言(F)〕の『平生(それぞれの時代)の言語(F)』が③をへだてて相映ずる(轉義D1の至大化=合體Eの至大化:即ち『言靈』)のを見ようが爲だ。「⑤:④は、何時の間にか、今言〔俗言『おのが腹の内の物』(F)〕に移り變る(轉義D1の至大化)」⇒「⑥:(④と今言の)心の本質的な連續性」(⑤的概念F)⇒E:しかし、言語機能の基本的な構造〔即ち『自然(Eの至大化)、我物(F)なる』『平生の言語(F)』をあやつつてゐる(F⇒合體Eの至大化)事〕は變りやうがなく(Eの至大化)、これ〔『自然あやつつてゐる』(Eの至大化)〕は、恐らく⑦の⑥〔本能的な智慧(合體Eの至大化)と同意か?〕に見合ふ(Eの至大化)ものだ、といふのが⑧の考へ」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦私達⑧宣長(△枠):①②④への適應正常。 |
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P226《『源氏』(物:場 C‘)が、在來の『歌の道』の考へ(物:場 C‘)では、うまく解けない(D1の至小化)と知るや、宣長は直ちに、こちら側の考へ(『歌の道』の考へ)の方を改めるといふ難しい仕事にかかつた。それが、宣長の『源氏』論であつた》 關係論:①『萬葉』(物:場 C‘)②『源氏』(物:場 C‘)③扱はれる材料(物:場 C‘)⇒からの關係:①は⑥、②は⑦に、強く作用した(D1の至大化)。『④:③が、これを信頼する(D1の至大化)⑧に、作用(D1の至大化)するやうに作用したのである」⇒「⑤:深い意味合での考へ」(④的概念F)⇒E:①が歌であり、②が物語である事が、二人の⑤に干渉した」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥眞淵⑦宣長⑧藝術家(△枠):①②への適應正常。 關係論:①『源氏』(物:場 C‘)②歌の世界(物:場 C‘)③本(もと:物語)の世界(物:場 C‘)⇒からの關係:①には、⑥を、②から、「④:歌が出て來る③に連れ戻すと言つていい、抗し難い力(D1の至大化)がある。⑦はそれを、遅疑なく肯定した」(D1の至大化)⇒「⑤:語り手としての力量」(④的概念F)⇒E:①の作者は、歌を詠むだけではなく、歌を詠む人について語りもするのだが、この物語の⑤は、歌の詠み手としての力量を遙かに凌ぎ(Eの至大化)、これを包む(Eの至大化)、と⑦は見た」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥歌學者⑦宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①この(前項の)見たところ(物:場 C‘)②『歌の道』の考へ(物:場 C‘)⇒からの關係:①が、在來の②では、「③:うまく解けない(D1の至小化)と知るや、」⇒「④:難しい仕事」(③的概念F)⇒E:⑤は直ちに、こちら側の考へ(②)の方を改めるといふ④にかかつた。それが、⑤の『源氏』論であつた」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P226《『源氏』に、歌の姿を見ず〔即ち、在來の『歌の道』の考へ(物:場 C‘)では、うまく解けない(D1の至小化)といふ事〕、『大かた人の情(こころ)のあるやう』(物:場 C‘)を見たと、⑤の『源氏』經驗が言ふなら、言葉通り受取ればよい。この物語の本質(物:場 C‘)を摑むのには、女童子の持つやうな邪のない心が要るが、歌學者の知識は、必ずしも必要ではない。宣長の觀點は、一般人の普通の言語(F)表現(Eの至大化)の世界〔P225:即ち『自然(Eの至大化)、我物(F)なる』『平生の言語(F)』をあやつつてゐる(F⇒合體Eの至大化)事と同意〕に移されてゐた。宣長は、『源氏』を、誰にも親しい日常言語(F)の表現力(Eの至大化)〔とは前出P221『尋常な談話の關係(即ち、Eの至大化=D1の至大化)』『一般人の普通の言語(F)表現(Eの至大化)の世界』:即ちP225『自然(Eの至大化)、我物(F)なる』『平生の言語(F)』をあやつつてゐる(F⇒合體Eの至大化)事と同意〕に扱はれた、人生といふ主題(物:場 C‘)と、端的に受取つた(とはつまり、以下の樣に)
》 P226關係論:①『紫文要領』(物:場 C‘)②『古來の諸抄』(物:場 C‘)③『源氏』(物:場 C‘)⇒からの關係:⑥が①で、先ず注意したのは、「④:②によつて、③を讀んではならぬといふ事」(D1の至大化)⇒「⑤:『儒佛百家の書』」(④的概念F)⇒E:抄の作者達は、③が、『⑤とは、又全體類のことなる物』であるといふ考への徹底性を缺き(Eの至小化)、知らず識らず、異國の書を通じて、これを見てゐたからだ」(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥宣長(△枠):②③への適應正常。 關係論:①一切の先入主(物:場 C‘)②比類のない語り手(式部。物:場 C‘)⇒からの關係:⑤は①を捨ててかかつた。この②の語るところに、「③:耳を傾け、その自在な表現力に對する、正直な驚きを、」(D1の至大化)⇒「④:『くもりなき鏡』」(③的概念F)⇒E:『大かた人の情(こころ)のあるやう』を『④にうつして(とは「あるがままの世界」視化)、むかひたらむがごとく』といふ言葉で現した。『源氏』に、歌の姿を見ず、『大かた人の情(こころ)のあるやう』(物:場 C‘)を見たと、⑤の『源氏』經驗が言ふなら、言葉通り受取ればよい」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長『紫文要領』(△枠):②への適應正常。 P227關係論:①物語の本質(物:場 C‘)⇒からの關係:この①を摑むのには、女童子の持つやうな邪のない心が要るが、「②:歌學者の知識は、必ずしも必要ではない、といふところにあつた」(D1の至大化)⇒「③:普通の言語(F)表現(Eの至大化)の世界」(②的對立概念F)⇒E:④の觀點は、文學といふ特殊な表現の世界から出て、一般人の③〔P225:即ち『自然(Eの至大化)、我物(F)なる』『平生の言語(F)』をあやつつてゐる(F⇒合體Eの至大化)事と同意〕に移されてゐた」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④宣長『紫文要領』(△枠):①への適應正常。 關係論:①生活經驗(物:場 C‘)④現實の經驗(物:場 C‘)⇒からの關係:①が「②:意識化される(實情:D1の至大化)と言ふ事は、」⇒「③:言語」(②的概念F)⇒E:③に捕らへられる(Eの至大化)といふ事(即ち、實情D1の至大化=表現Eの至大化)であり、さうして④が、③に表現されて、明瞭化する(Eの至大化)なら、この事〔①の意識化(D1の至大化)〕は、おのづから傳達の企圖(D1の至大化)を含み、その〔①の意識化(D1の至大化)の〕意味は⑤に理解される(D1の至大化)であらう」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤相手(△枠):①への適應正常。 P228關係論:①『源氏』(物:場 C‘)②人生といふ主題(物:場 C‘)③生の現實(物:場 C‘)⇒からの關係:①は極めて自然に、さういふ考へ(以下:即ち、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)に、⑥を誘つた。⑥は、①を、「④:誰にも親しい日常言語(F)の表現力(Eの至大化)〔とは前出P221『尋常な談話の關係(即ち、Eの至大化=D1の至大化)』『一般人の普通の言語(F)表現(Eの至大化)の世界』:即ちP225『自然(Eの至大化)、我物(F)なる』『平生の言語(F)』をあやつつてゐる(F⇒合體Eの至大化)事と同意〕に扱はれた、②と、端的に受取つた(とはつまり、以下の樣に)
⇒「⑤:明瞭な人間性の印し」(④的概念F)⇒E:③〔前項:生活經驗(物:場 C‘)〕が意味を帶びた言葉(俗言:F)に變じて(轉義D1の至大化)、語られたり(Eの至大化)、聞かれたり(Eの至大化)する(即ち、轉義D1の至大化=合體Eの至大化)、それほど⑤〔とは、『本能的な智慧(合體Eの至大化)』的〕はなからうし、その有用無用を問ふよりも、先づそれだけで、私達にとつては充分な、又根本的な人生經驗〔つまり『生の現實が意味を帶びた言葉(俗言:F)に變じて(轉義D1の至大化)』がそれ〕であらう」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①人生といふ主題(物:場 C‘)②『大かた人の情(こころ)のあるやう』(實情:物:場 C‘)③私達の經驗の世界〔前々項:生活經驗(物:場 C‘)〕④在るがままの人生(物:場 C‘)⑤物語の世界(物:場 C‘)⇒からの關係:特に何かの目的があつて語られるのではなく、①は、ただ『心にこめがたい』(なげく:D1の至大化)といふ理由で語られると、②が見えて來る(D1の至大化)。一番普通には、①はさういふ具合に語られる、と⑧は言ふ。人生(①)が生きられ(D1の至大化)、味ははれる(D1の至大化)「⑥:③が、即ち(①同樣の)④として語られる〔ただ『心にこめがたい』(なげく:D1の至大化)といふ理由で語られる〕⑤でもあるのだ(つまり、③は⑤と同じなのだと言ふ事)」⇒「⑦:『源氏』」(⑤的概念F)⇒E:⑧は⑦を、さう讀んだ」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧宣長(△枠):①②④への適應正常。 |
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P226~7の纏め:《『其のしな〔喜怒哀楽の情(こころ。物:場 C‘)〕にしたがひて(D1の至大化)、感ずる所〔即ち經驗(D1の至大化)〕が物のあはれ(D1の至大化)也(『紫文要領』)』と、「日常言語(F)の表現力(Eの至大化)」との關係(つまり、表現力(ながむる)Eの至大化=『物の哀をしる』D1の至大化)について》 關係論:①『大かた人の情(こころ)のあるやう』〔即ち、私達の經驗の世界(物:場 C‘)〕②在るがままの人生(物:場 C‘)③物語の世界(物:場 C‘)④『其のしな』〔喜怒哀楽の情(こころ。物:場 C‘)〕⇒からの關係:①が②として『心にこめがたい』(なげく:D1の至大化)といふ理由で語られる③でもある〔つまり、①は③と同樣『喜怒哀楽の人間の表情』の世界〕。「⑤:故に『④にしたがひて(D1の至大化)、感ずる所〔即ち經驗(D1の至大化)〕が物のあはれ(D1の至大化)也』(『紫文要領』)と』」⇒「⑥:日常言語」(⑤的概念F)⇒E:そして『物のあはれ(D1の至大化)』は、『源氏』にどう現れてゐるかと言へば、『誰にも親しい④の表現力(Eの至大化)』として、それが現れてゐるのだと〔つまり、P221『尋常な談話の關係(即ち、Eの至大化=D1の至大化)』『一般人の普通の言語(F)表現(Eの至大化)の世界』、即ちP225『自然(Eの至大化)、我物(F)なる』『平生の言語(F)』としてである、と〕」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):①への適應正常。 〔そして其處には、宣長の「言語觀」中の、P221『云々(しかじか)の言(F)は、云々(古人)の意(D1の至大化)に用ひたり(Eの至大化)といふことを、よく明らめ知る(即ち、Eの至大化=D1の至大化)を、要とすべし』(うひ山ぶみ)も含まれてゐるのである。更には、此處には、以下の「關係論」二文も含まれてゐる〕。 P215關係論:①誰の實情(物:場 C‘)⇒からの關係:①も、訓練され、訓致され(D1の至大化)なければ、「②:⑤のはつきりした所有物(わが物)にならない」〔とは『物をつくづく見る(奈我牟流:ながむる)(Eの至大化)が、歌人が實情を知る(物の哀をしる)、知り方(Eの至大化)』であるから、それだけ『奈我牟流:ながむる』が訓練訓致されなければ、『人の實の情』は知り難い、といふ事〕(D1の至大化)⇒「③『かたち(文・姿)』(②的概念F)⇒E:わが物(はつきりした所有物)として、その(實情の)③を『つくづくと見る』(Eの至大化)事が出來る對象(即ち『物の哀をしる』機能)とはならない(以下①參照)。歌とは、意識(奈我牟流:ながむる)が出會ふ最初の物(③)だ〔無意識的動作(長息)から、意識(奈我牟流:ながむる)への轉化が歌といふ事か?以下參照〕、とさう言ひたかつた④を想像してみてもよい」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤その人(歌人)④宣長(△枠):①への適應正常。 *P215:「つくづくと見る(Eの至大化)意味の『ながむる』(Eの至大化)が、歌人(△枠)が實情(物:場 C‘)を知る(D1の至大化)、その知り方〔とは『物の哀をしる』(D1の至大化)事〕を現はす(つまり、『ながむる』Eの至大化=『物の哀をしる』D1の至大化)。 〔參照:P215『人の實の情(物:場 C‘)をしる(D1の至大化)を、物の哀をしる(D1の至大化)といふなり』『人の實の情(物:場 C‘)』は知り難い(D1の至小化):『紫文要領』〕 |
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P227《宣長は、この「あるがままの世界」即ち、其のしな〔喜怒哀楽の情(こころ。物:場 C‘)〕にしたがひて(D1の至大化)、感ずる所〔即ち:物のあはれ(D1の至大化)〕を深く信じた。とはつまり、『大かた人の情(こころ)のあるやう』(物:場 C‘)が、(『くもりなき鏡にうつし』たる如く)、在るがままの人生(物:場 C‘)として、『心にこめがたい』(なげく:D1の至大化)といふ理由で語られる、物語の世界(物:場 C‘)と信じたといふ事》 關係論:①物事(物:場 C‘)②私達の直接經驗の世界(物:場 C‘)⇒からの關係:⑤にとつても、生きる(D1の至大化)とは、①を正確に知る事〔即ち:本義(D1の至小化)〕ではないだらう。そんな格別な事を行ふより先に、①(例:人生C’)が生きられる(D1の至大化)といふ極く普通な事が行はれてゐる(即ち:働き)だらう。そして、極く普通の意味で、「③:見たり(D1の至大化)、感じたり(D1の至大化)してゐる、②に現れて來る物は、皆私達の喜怒哀楽の情(實情:D1の至大化)に染められてゐて、其處には無色の物が這入つて來る餘地などないであらう。それが、生きた經驗(②)、凡そ經驗(②)といふものの一番基本的で尋常な姿だ」(D1の至大化)⇒「④:合法的な客觀的事實の世界」(③的對立概念F)⇒E:④が、この曖昧な、主觀的な生活經驗の世界(②)に、鋭く對立するやうになつた事を、私達は、教養の上でよく承知してゐるが、この基本的經驗(②)の『ありやう』(D1の至大化)〔物事(例:人生C’)が生きられる(D1の至大化)〕が、變へられるやうになつたわけではない」(④への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑤誰(△枠):①への適應正常。 關係論:①『よろづの事』(物:場 C‘)②心(物:場 C‘)③事の心(物:場 C‘)④物の心(物:場 C‘)⑦其のしな〔喜怒哀楽の情(こころ。物:場 C‘)〕⇒からの關係:⑨は經驗といふ言葉は使はなかつた。①を、②にあぢはへて(D1の至大化)、その①の②を、わが心にわきまへしる(D1の至大化)。是③をしる也、④をしる也。(中略)「⑥:わきまへしりて(D1の至大化)〔即ち、P219『すべて人・よみ人(物:場 C‘)の心(D1)を、おしはかりえて(D1の至大化)』〕、⑦にしたがひて(D1の至大化)、感ずる所〔即ち經驗(D1の至大化)〕が物のあはれ(D1の至大化)也」⇒「⑧:あるがままの世界」(⑥的概念F)⇒E:⑨は、この⑧〔即ち、⑦〔喜怒哀楽の情(こころ。物:場 C‘)にしたがひて(D1の至大化)、感ずる所〔即ち:物のあはれ(D1の至大化)〕を深く信じた」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑨宣長(△枠):②への適應正常。 關係論:①この世(場 C‘)⇒からの關係:さうすると(承前)、『物のあはれ』(D1の至大化)は、①に生きる經驗〔即ち『人生(物:場 C‘)が生きられる』經驗(D1の至大化)〕の「②:本來の『ありやう』(D1の至大化)〔つまり、私達の直接經驗の世界(物:場 C‘)の『ありやう』(D1の至大化)、即ち『物事:人生(物:場 C‘)が生きられる(D1の至大化)』事〕のうちに現れる(D1の至大化)と言ふ事になりはしないか」⇒「③:あるがままの世界」(②的概念F)⇒E:④は、この③を深く信じた」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④宣長(△枠):②への適應正常。 關係論:①『實(まこと)』の『自然の』『おのづからなる』(物:場 C‘)②事の世界(物:場 C‘)⇒からの關係:「この①などといろいろに呼ばれてゐる(D1の至大化)②〔即ち『『よろづの事』(物:場 C‘)を、心(物:場 C‘)にあぢはへて(D1の至大化)、その『よろづの事』(物:場 C‘)の心(物:場 C‘)を、わが心にわきまへしる(D1の至大化)。是事の心(物:場 C‘)をしる(D1の至大化)也、物の心(物:場 C‘)をしる(D1の至大化)也、わきまへしりて(D1の至大化)、「③:其のしな(實情。物:場 C‘)にしたがひて(D1の至大化)、感ずる所〔即ち經驗(D1の至大化)〕が物のあはれ(D1の至大化)也』〕は、」⇒「④:言(こと)」(③的概念F)⇒E:又④の世界(Eの至大化)【P225『低き所』〔即ち『おのが腹の内の物』(道具:F)と合體(Eの至大化)〕】でもあつたのである〔即ち、「『物のあはれ』D1の至大化=日常言語(F)の表現力(ながむる)Eの至大化」。と言ふ事か〕」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 ~~~以下參照~~~ P221の〔『語(物:場 C‘)釋(D1)は緊要にあらず(D1の至小化)』とは〕 關係論:①語義〔然り云ふ本(物:場 C‘)〕②古人(物:場 C‘)⇒からの關係:①を分析して本義正義を定める(D1の至小化)は緊要にあらず(D1の至小化)。「③:②の用ひたる所(D1)を、よく考へて(D1の至大化)〔即ち、P219『すべて人・よみ人(物:場 C‘)の心(D1)を、おしはかりえて(D1の至大化)』〕、⇒『④:言」(③的概念F)⇒E:『云々(しかじか)の④は、云々(②)の意(D1の至大化)に用ひたり(Eの至大化)といふことを、よく明らめ知る(即ち、Eの至大化=D1の至大化)を、要とすべし。④の用ひたる(Eの至大化)意(D1の至大化)〔即ち『よみ人②(物:場 C‘)の心(D1の至大化)』〕をしらで(D1の至小化)は、其所(②)の文意(D1)聞えがたく(D1の至小化)、又みづから(△枠)、物(物:場 C‘)を書く(D1の至小化)にも、④の用ひやう(E)たがふ(Eの至小化)こと也』⇒宣長『うひ山ぶみ』(△枠)。 |
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〔二十三章〕主題:〔(Ⅰ)宣長『言語觀(言靈論)』〕 關係論:①『長息』(物:場 C‘)②内部に感じられる混亂〔亂れる心(物:場 C‘)〕⇒からの關係:私達が、思はず知らず、①をするのも、②を「③:整調〔『しずむ』『すます』『定むる』『晴らす』(歌の實)(D1の至大化)〕しようとして、極めて自然に取る私達の動作であらう」(D1の至大化)⇒「④:歌」(③的概念F)⇒E:其處(『長息』に據る整調『しずむ』『晴らす』)から④といふ最初の言葉が『ほころび出』ると⑤は言ふ。或は私達がわれ知らず取る動作が(即ち『思はず知らず、①をする』と同樣ゆえ)既に言葉なき④だとも、彼は言へたであらう」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①禮(物:場 C‘)②『實情』(物:場 C‘)⇒からの關係:「突き詰めて行けば、①とは『②(悲しみ等)を導く(味はふ?)』(以下參照)「③:その『しかた(形:F)』だと⑤は言ふ」(D1の至大化)⇒「④:言葉(『なげく』)なき歌」(③的概念F)⇒E:それなら、これ(①)は④とも言へるわけだ〔何故なら、『歌道は、悲しみ(實情。物:場 C‘)をそつくり受容れて(D1の至大化)、これを『なげく』〔(F)物をつくづく見る:奈我牟流(ながむる)〕といふ一と筋』であるから〕」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①②への適應正常。 ~~~以下參照~~~ 『形(E: 禮・型)に従つた(Eの至大化)行動〔心(C‘)の動き(D實情:悲しみ)〕は、行動〔即ち,心(C‘)の動き(D實情:悲しみ)〕それ自體を純粋に味はふ(D1の至大化)事が出來る』(恆存文)。 ~~~~~~~~~~ 關係論:①心身(物:場 C‘)②實情の嵐(物:場 C‘)③叫び(物:場 C‘)④震へ(物:場 C‘)⇒からの關係:⑦も各自の①を吹き荒れる②の静まる(D1の至大化)のを待つ。「⑤:③が歌聲(『かたち』)になり〔をのづから文(あや)ある聲のかたち(即ち歌聲)となつて(『ほころび出』)〕④が舞踏(『かたち』)になる(D1の至大化)のを待つのである」(D1の至大化)⇒「⑥:『かたち』」(⑤的概念F)⇒E:裏を返せば、これ(②③④)に堪へたい、その(②③④の)⑥(F)を見定めたい(Eの至大化)と願つてゐる事だとも言へよう。捕へどころのない悲しみの嵐(②)が、をのづから文(あや)ある聲の⑥(即ち歌聲)となつて(『ほころび出』)捕へられる。宣長に言はせれば、この⑥『かたち(歌聲舞踏)』は、悲しみ(△枠)が己れ(悲しみ)を導くその『しかた』(E)を語る〔つまり:「①悲しみ(物:場 C‘)⇒②導く(D1の至大化)⇒③『かたち(歌聲・舞踏)』(F)⇒③の『しかた〔方法:なげく「物をつくづく見る:奈我牟流」〕』(Eの至大化)を語る⇒悲しみ(己れ△枠)」〕。更に言へば、『しかた』〔悲しみ(物:場 C‘)を『しずむ』方法(なげく:物をつくづく見る:奈我牟流)(Eの至大化)〕しか語らぬ純粋な表現性なのである」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦誰(△枠):②③④への適應正常。 〔『言靈』(物:場 C‘)とは、その知的理解「語(物:場 C‘)⇒釋(D1)」ではなく、具體的な物〔俗言(さとびごと)(F)〕への働き(合體:Eの至大化)〔即ち、合體(Eの至大化)=轉義(D1の至大化)〕の事なのである〕 P221關係論:①『萬葉』(物:場 C‘)②『言靈』(物:場 C‘)③古言(物:場 C‘)⇒からの關係:①に現れた②といふ③に含まれた、②の「④:本義を問ふ〔知的理解、即ち:語(物:場 C‘)⇒釋(D1)する〕のが問題ではない」⇒「⑤:俗言(さとびごと)」(④的對立概念F)⇒E:⑤の働きといふ「具體的な物」(即ち:F⇒Eの至大化)としつかりと合體(Eの至大化)して、この同じ古語(『言靈』)が、どう轉義するか、その樣〔即ち、合體(Eの至大化)=轉義(D1の至大化)〕を眼のあたり見る(Eの至大化)のが肝腎なのである」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長『うひ山ぶみ』(△枠)。 (Ⅰ)『言靈』關係論: 關係論:①國語(物:場 C‘)②巨きな原文(物:場 C‘)③巨きな意味構造(物:場 C‘)⇒からの關係:さういふ事〔私達(語り手と聞き手)の尋常な談話(即ち、Eの至大化=D1の至大化)〕になつてゐると言ふのも、①といふ②の、③〔『語(F)といふわざ(E)』 即ち、Eの至大化=D1の至大化〕が、「④:⑥の心を養つて來た(D1の至大化)からであらう」(D1の至大化)⇒「⑤:『言靈』」(④的概念F)⇒E:養はれて(即ち、Eの至大化=D1の至大化)、⑥は、暗黙のうちに、相互(語り手と聞き手と)の合意や信頼に達してゐる(D1の至大化)からであらう。⑦は、其處〔③:『語(F)といふわざ(E)』即ち、Eの至大化=D1の至大化〕に⑤の働き(Eの至大化)と呼んでいいものを、直に感じ取つてゐた」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥私達(△枠)⑦宣長(△枠):①②③への適應正常。 關係論:①語義〔然り云ふ本(物:場 C‘)〕②古人(物:場 C‘)⇒からの關係:①を分析して本義正義を定める(D1の至小化)は緊要にあらず(D1の至小化)。「③:②の用ひたる所(D1)を、よく考へて(D1の至大化)〔即ち、P219『すべて人・よみ人(物:場 C‘)の心(D1)を、おしはかりえて(D1の至大化)』〕、⇒『④:言」(③的概念F)⇒E:『云々(しかじか)の④は、云々(②)の意(D1の至大化)に用ひたり(Eの至大化)といふことを、よく明らめ知る(即ち、Eの至大化=D1の至大化)を、要とすべし。④の用ひたる(Eの至大化)意(D1の至大化)〔即ち『よみ人②(物:場 C‘)の心(D1の至大化)』〕をしらで(D1の至小化)は、其所(②)の文意(D1)聞えがたく(D1の至小化)、又みづから(△枠)、物(物:場 C‘)を書く(D1の至小化)にも、④の用ひやう(E)たがふ(Eの至小化)こと也』⇒宣長『うひ山ぶみ』(△枠)。 關係論:①すべて人・よみ人(物:場 C‘)⇒からの關係:①の心(D1)を、「②:おしはかりえて(D1の至大化)」⇒「③:詞・語」(②的概念F)⇒E:③のいひざま(E:型)、いきほひ(E:型)にしたがひて(「Eの至大化」or「Eの至小化」)、深くも(Eの至大化)、淺くも(Eの至小化)、をかしくも(Eの至大化)、うれたくも(Eの至小化)聞ゆるわざ(E:型)にて、歌(かたち:E)は、ことに、心のあるやう(『心をおしはかり』:D1の至大化)を、ただに、うち出たる趣(Eの至大化)なる物也(即ち、D1の至大化=Eの至大化)。故に、その(③の)いきほひ(E:型)を譯(うつ)すべき(Eの至大化)也」(即ち、Eの至大化=D1の至大化、といふ事)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長『古今集遠鏡』(△枠):①への適應正常。 |
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以下は〔二十三章〕各項目纏め |
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P212~4《『ああ、はれ――あはれ』の聲を、『なげく』『ながむる』〔聲を長く引く・長息(ながいき)する〕事によつて、歌になる。歌の本質をそんな所に求めた歌學者はなかつた。『其時(長息の時)の詞は、をのづから、ほどよく文(あや)(含みのある表現や微妙なニュアンス:レトリック?)ありて、其聲長くうたふに似たる事ある物也。これ〔文(あや)〕すなはち歌のかたち也。ただの詞とは、必ず異(こと)なる物にして、その自然の詞の文(あや)、聲の長きところ(Eの至大化)に、そこゐなきあはれの深さ(Eの至大化)は、あらはるる也。かくのごとく、物のあはれに、たへぬところより、ほころび出て、をのづから文(あや)ある辭(言葉遣ひ?)(Eの至大化)が、歌の根本にして、眞の歌也』(『石上私淑言』)。 『歌』よりも、聲の調子や抑揚の整ふ事〔無意識的動作(長息)、即ち文(あや)〕が先きだといふ考へだ。宣長のこの大膽な直觀には注目すべき。つまり、言葉の生れ出る母體として、私達が、生きて行く必要上、われ知らず(無意識的に)取る或る全的(非局所的・又はC的?)な態度なり體制〔全體的動作即ち無意識的動作(長息)〕なりを考へてゐた事である。歌とは、先づ何を措いても、『かたち』(聲の調子や抑揚の整ふ事)、或は『文(あや)』(長息)とも『姿』とも呼ばれてゐる瞭然たる表現性なのだ。 『うたふ』といふ言葉がどういふ意味合で用ゐられる言葉として生れたかを〔即ち、『聲を長く引く・長息(ながいき)』と〕探るところに、一番確かな據りどころがある。音聲をととのへるところから、『ほころび出』る純粋な『あや』としての言語を摑むことが出來るだらう。この心の經驗(『ほころび出』る純粋な『あや』)の發見が、即ち『うたふ』〔『聲を長く引く・長息(ながいき)』〕といふ言語の發明なら、歌とは言語の粋ではないか、といふのが宣長の考へ。其處(『長息』に據る整調『しずむ』『晴らす』)から、歌といふ最初の言葉が『ほころび出』ると宣長は言ふ》 關係論:①『歌(古訓:うたふ)』(物:場 C‘)②『詠(古訓:ながむる)』(物:場 C‘)⇒からの關係:「⑤の訓詁(『あしわけ小舟』)によれば、『うたふ』も『ながむる』も、もともと「③:聲を長く引くといふ同義の言葉である」(D1の至大化)⇒「④:『なげく』」(③的概念F)⇒E:『石上私淑言』になると、④が加はる。④も『長息(ながいき)』を意味する『なげき』の活用形であり、『うたふ』『ながむる』と元來同義(Eの至大化)なのである」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①②への適應正常。 關係論:①『ああ、はれ――あはれ』(物:場 C‘)②聲(物:場 C‘)③歌(物:場 C‘)⇒からの關係:①といふ生まの感動の②は、「④:この(①の)②を『なげく』『ながむる』〔聲を長く引く・長息(ながいき)する〕事によつて、③になる」(D1の至大化)⇒「⑤:歌の本質」(④的概念F)⇒E:⑤をそんな所に求めた歌學者はなかつた。⑥自身も⑤がわかりにくい考へである事を承知してゐた」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①今(場 C‘)②『物のかなしき事』(物:場 C‘)③かなしきすぢ(物:場 C‘)④ただの詞(物:場 C‘)⑤かなしさ(物:場 C‘)⑥『あなかなしや、なふなふ』(物:場 C‘)⇒からの關係:『①、人せち(切)に②有て、堪(たへ)がたからん(D1の至小化)に、その③を、つぶつぶといひつづけても、猶たへがたさの、やむべくもあらず(D1の至小化)。又ひたぶる(ひたすら・いちず)に、かなしかなしと、④にいひ出ても、猶⑤の忍びがたく、たへがたきとき(D1の至小化)は、』「⑦:『おぼえずしらず、聲をささげて、⑥と長くよばはりて、むねにせまる⑤をはらす』」(D1の至大化)⇒「⑧:文(あや)」(的概念F)⇒E:『其時の詞は、をのづから、ほどよく⑧(含みのある表現や微妙なニュアンス:レトリック?)ありて、其聲長くうたふに似たる事ある物也。これ(⑧)すなはち歌のかたち也。④とは、必ず異(こと)なる物にして、その自然の詞の⑧、聲の長きところ(Eの至大化)に、そこゐなきあはれの深さ(Eの至大化)は、あらはるる也。かくのごとく、物のあはれに、たへぬところより、ほころび出て、をのづから⑧ある辭(言葉遣ひ?)(Eの至大化)が、歌の根本にして、眞の歌也』(⑧への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長『石上私淑言』(△枠):②④への適應正常。 關係論:①『ただの詞』(物:場 C‘)②『歌』(物:場 C‘)⇒からの關係:①より、發生的には、「③:②が先きだといふ考へ」(D1の至大化)⇒「④:聲の調子や抑揚の整ふ事」(③的概念F)⇒E:②よりも、④が先き(Eの至大化)だといふ考へだ。⑤のこの大膽な直觀(Eの至大化)には注目すべきものがある」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長『石上私淑言』(△枠):①②への適應正常。 關係論:①『ただの詞』(物:場 C‘)②『異(こと)なる物』(物:場 C‘)③『歌のかたち』(物:場 C‘)④歌(物:場 C‘)⑤『かたち』(物:場 C‘)⇒からの關係:『①とは、必ず②』といふその『物』が、『③』。④とは、「⑥:先づ何を措いても、⑤なのだ」(D1の至大化)⇒「⑦:瞭然たる表現性」(⑥的概念F)⇒E:或は『文(あや)』とも『姿』とも呼ばれてゐる⑦なのだ。④はさういふ『物』(⑤・『文(あや)』『姿』と言ふ⑦)として誕生した」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長『石上私淑言』(△枠):①への適應正常。 關係論:①『今の人の心』(物:場 C‘)②『ただの詞』(物:場 C‘)③『文(あや)』(物:場 C‘)④歌といふ技藝(物:場 C‘)⇒からの關係:①には先づ②があり、「⑤:それから②を③によつて、装飾する④が發達したとの考へ」(D1の至大化)⇒「⑥:通念」(⑤的概念F)⇒E:先づ、この⑥と⑦の徹底した考へは衝突(Eの至大化)せざるを得ない」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):②③への適應正常。 關係論:①『ただの詞』(物:場 C‘)②實生活(物:場 C‘)③意(物:場 C‘)④事物(物:場 C‘)⑤言葉(物:場 C‘)⇒からの關係:①には①の目的がある。②上の樣々な目的を目指し、③を傳へたり、④を指示したりして、「⑥:⑤を有效に消費してしまへば、それで事は足りてゐる」(D1の至大化)⇒「⑦:自立する言葉」(⑥的對立概念F)⇒E:歌人は、何かの手段として⑤を使ひはしない。有用性を離れて⑦の表現性を目指す(Eの至大化)。それが『歌の道』である事を、⑧ほどよく見抜いてゐた人はなかつた。彼の言語表現に關する非常な鋭敏性が、既に通念化した解釋〔前項:『ただの詞』+『文(あや)』=歌といふ技藝〕を荷つた『歌の道』といふ既成概念を透過して、誰も見ない深所まで見てゐたからである」(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①教養(物:場 C‘)②『歌の道』(物:場 C‘)③歌(物:場 C‘)⇒からの關係:(△枠)曰く。既に①として確立して了つた②の枠内で「④:③を論ずるのは『末をたづねる』事に過ぎない」(D1の至小化)⇒「⑤:歌の本然(歌の實)」(④的對立概念F)⇒E:何故、『只心(實の心)の欲するとをりに詠む(歌の實)、これ⑤(歌の實)なり』といふ單純明白な考へに立ち還つてみようとしないのか。其處〔『只心(實の心)の欲するとをりに詠む(歌の實)』〕から考へ直さうといふ氣さへあれば、『歌の道』の問題は、『言辭(言葉遣ひ)の道』(歌の實)といふその源流に觸れざるを得まい」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒(△枠):①への適應正常。 關係論:①歌(物:場 C‘)②『うたふ』といふ言葉(物:場 C‘)⇒からの關係:〔承前:『歌の道』の問題は、『言辭(言葉遣ひ)の道』(歌の實)といふその源流に觸れざるを得まい〕。 さうすれば、①とは何かといふ問題を解くに當り、②がどういふ「③:意味合で用ゐられる言葉として生れたかを〔即ち、『聲を長く引く・長息(ながいき)』と〕探るところに、一番確かな據りどころがあると悟るだらう」(D1の至大化)⇒「④:『ほころび出』る純粋な『あや』」(③的概念F)⇒E:言語表現といふものを逆上つて行けば、『歌』と『ただの詞』との對立はおろか、そのけじめさへ現れぬ以前に、音聲をととのへるところから、④としての言語を摑むことが出來るだらう。この心の經驗(即ち④)の發見が、即ち『うたふ』〔『聲を長く引く・長息(ながいき)』〕といふ言語の發明なら、歌とは言語の粋ではないか、といふのが⑤の考へ」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①『長息』(物:場 C‘)②内部に感じられる混亂〔亂れる心(物:場 C‘)〕⇒からの關係:私達が、思はず知らず、①をするのも、②を「③:整調〔『しずむ』『すます』『定むる』『晴らす』(歌の實)(D1の至大化)〕しようとして、極めて自然に取る私達の動作であらう」(D1の至大化)⇒「④:歌」(③的概念F)⇒E:其處(『長息』に據る整調『しずむ』『晴らす』)から④といふ最初の言葉が『ほころび出』ると⑤は言ふ。或は私達がわれ知らず取る動作が(即ち『思はず知らず、①をする』と同樣ゆえ)既に言葉なき④だとも、彼は言へたであらう」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①言葉(物:場 C‘)②母體(物:場 C‘)③全的(非局所的・又はC的?)な態度なり體制〔全體的動作即ち無意識的動作『歌(長息)・舞踊(言葉なき歌)』(物:場 C‘)〕⇒からの關係:ただ確かなのは、⑥が、①の生れ出る②として、私達が、生きて行く必要上、「④:われ知らず(無意識的に)取る或る③なりを考へてゐた事である」(D1の至大化)⇒「⑤:局所(非全的)の考案」(④的對立概念F)⇒E:①は、決して頭腦といふ⑤によつて、生れ出たものではない。この⑥の言語觀の基礎にある考へは、明記して置いた方がよい」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P215《歌道の極意は、『物のあはれを知る』ところにあるのだが、堪へ難い悲しみを、行動(情に溺れる『あだなる事』)や分別(『まめなる事』)のうちに忘れる便法を、歌道は知らない。悲しみ(人の實情)をそつくり受容れて、これを『なげく』〔即ち『物をつくづく見る』(奈我牟流:ながむる)〕といふ一と筋、悲しみを感ずる(人の實情を知る)その感じ方〔『物をつくづく見る』(奈我牟流:ながむる)〕の工夫(即ち『物のあはれを知る』)といふ一と筋を行く。だが、『物をつくづく見る(奈我牟流:ながむる)が、歌人が實情を知る(物の哀をしる)、一と筋の知り方』であるからと言つて、その『奈我牟流:ながむる』が訓練訓致されなければ、『人の實の情』は知り難い、といふ事。つまり、わが物(はつきりした所有物)として、その(實情の)『かたち(文・姿)(F)』を『つくづくと見る』(Eの至大化)事が出來る對象(即ち『物の哀をしる』器能)とはなり得ない。P134『物の哀をしるとは、理解し易く、扱ひ易く、持つたら安心のいくやうな觀念ではない。詮じつめれば、「これを『全く知る』爲に、『一身を失ふ』事〔「自分の織つた夢に食はれる、自分の發明した主題(『物のあはれを知る』)に殉ずる」と同意〕もある、といふ事》 關係論:①長息(ながいき)する〔ながむる(物:場 C‘)〕②物をつくづく見る〔奈我牟流(ながむる)(物:場 C‘)〕③歌人(物:場 C‘)④(人の)實情(物:場 C‘)⇒からの關係:①が②に成長する。「⑤:それ(②)がそのまま③が④を知る(物の哀をしる)、その(④の)知り方〔(D1の至大化)とは『物の哀をしる』事〕を現はす、と⑦は見る」(D1の至大化)⇒「⑥:歌道の極意」(⑤的概念F)⇒E:⑥は、『物のあはれを知る』ところにあるのだが、堪へ難い悲しみ(④)を、行動(情に溺れる『あだなる事』)や分別(『まめなる事』)のうちに忘れる便法(以下參照)を、歌道は知らない。悲しみ(④)をそつくり受容れて、これを『なげく』(即ち②)といふ一と筋、悲しみを感ずる(④を知る)その感じ方(②)の工夫(即ち『物のあはれを知る』)といふ一と筋を行く。」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):①への適應正常。 ~~~以下參照~~~ P125『物の哀をしればとて、あだなるべき物にもあらず、しらねばとて『實(まめ)なるべき物』にもあらず。そこをよくたもつ人はなきものにて、物の哀をしり過ぎれば、あだなる(情に溺れる)が多きゆへに、かくいへる也』(『紫文要領』) P137『物語の本意(物:場 C‘)は、まめ(實)なるとあだ(徒)なる(誠實でない)とは緊要にあらず。物のあはれ(物:場 C‘)を知る(D1の至大化)と知らぬが、よしあしの緊要關鍵なり』 『薫・匂宮(つまり『あだなる人・まめなる人』)は「作者の夢〔『みるにもあかず、聞にもあまる』『物のあはれを知る』なる「よく意識された構想のめでたさ」の「間然する所のない統一性」〕の周邊にゐるので、その中心部には這入れない。」 P134關係論:①『源氏物語』の本意・極意(物:場 C‘)②式部(物:場 C‘)⇒からの關係:①につき、⑤が摘み殘したものはない、と信じた時、⑤の心眼(D1の至大化)に映じたものは、「③:②が、自分の織つた夢に食はれる、自分の發明した主題(『物のあはれを知る』)に殉ずる有樣でなかつたか」(D1の至大化)⇒「④:物の哀をしる」(③的概念F)⇒E:④とは、理解し易く、扱ひ易く、持つたら安心のいくやうな觀念ではない。詮じつめれば、「これを『全く知る』爲に、『一身を失ふ』事〔「自分の織つた夢に食はれる、自分の發明した主題(『物のあはれを知る』)に殉ずる」と同意〕もある。さういふものだと言ひたかつた⑤の心を推察しなければ、『物のあはれ』論は讀まぬに等しい」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①②への適應正常。 關係論:①匂宮といふ『あだなる人』(物:場 C‘)②薫といふ『まめなる人』(物:場 C‘)③浮舟(物:場 C‘)④作者(式部。物:場 C‘)⇒からの關係:①も②も「⑤:③といふあはれな女性の内には這入れない。④は③の背後に身を隱し、讀者に語りかけるやうである」〔とは「『物語の本意(物:場 C‘)は、まめ(實)なるとあだ(徒)なる(誠實でない)とは緊要にあらず。物のあはれ(物:場 C‘)を知る(D1の至大化)と知らぬが、よしあしの緊要關鍵なり』と言ふ事」と〕⇒即ち「⑥:浮舟は子供」(⑤的概念F)⇒E:⑥だが「子供は何にも知らないとは、果たして本當の事だらうか〔とは、P132「子供らしさ(『みるにもあかず』)のうちに、意外に大人びたものが見える」〕、と。⑦は、作者の聲〔式部の夢(『みるにもあかず、聞にもあまる』『物のあはれを知る』)の「よく意識された構想のめでたさ」の「間然する所のない統一性」〕に應じ、『なつかしみ 又も來て見む』と歌つたであらう〔とは「宣長『源氏』論は、式部の夢(『みるにもあかず、聞にもあまる』)の「よく意識された構想のめでたさ」の「間然する所のない統一性」の上にはつきりと立つてゐた」といふ事〕」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):④への適應正常。 ~~~~以上參照文~~~ 關係論:①誰の實情(物:場 C‘)⇒からの關係:①も、訓練され、訓致され(D1の至大化)なければ、「②:⑤のはつきりした所有物(わが物)にならない」〔とは『物をつくづく見る(奈我牟流:ながむる)(Eの至大化)が、歌人が實情を知る(物の哀をしる)、知り方(Eの至大化)』であるから、それだけ『奈我牟流:ながむる』が訓練訓致されなければ、『人の實の情』は知り難い、といふ事〕(D1の至大化)⇒「③『かたち(文・姿)』(②的概念F)⇒E:わが物(はつきりした所有物)として、その(實情の)③を『つくづくと見る』(Eの至大化)事が出來る對象(即ち『物の哀をしる』器能)とはならない(以下①參照)。歌とは、意識(奈我牟流:ながむる)が出會ふ最初の物(③)だ〔無意識的動作(長息)から、意識(奈我牟流:ながむる)への轉化が歌といふ事か?以下參照〕、とさう言ひたかつた④を想像してみてもよい」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤その人(歌人)④宣長(△枠):①への適應正常。 ~~~以下參照~~~ ①*「物の哀をしるとは、理解し易く、扱ひ易く、持つたら安心のいくやうな觀念ではない。詮じつめれば、「これを『全く知る』爲に、『一身を失ふ』事〔「自分の織つた夢に食はれる、自分の發明した主題(『物のあはれを知る』)に殉ずる」と同意〕もある。 *P212「『歌』よりも、聲の調子や抑揚の整ふ事〔整調、無意識的動作(長息)、即ち文(あや)〕が先きだといふ考へ。つまり、「言葉の生れ出る母體として、私達が、生きて行く必要上、われ知らず(無意識的に)取る或る全的(非局所的・又はC的?)な態度なり體制〔全體的動作即ち無意識的動作(長息)〕なりを、宣長は考へてゐた」。 |
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P217《禮(物:場 C‘)と歌(物:場 C‘)とは、その發生(場 C‘)に立合ふ氣になつて考へれば、區別のつきにくい雙生兒のやうな顔附きをしてゐる〔とは、どちらも『悲しみ(實情)』をそつくり受容れて、これを『なげく』(物をつくづく見る:奈我牟流)から〕。 捕へどころのない悲しみの嵐〔實情の嵐(物:場 C‘) 〕が、をのづから文(あや)ある聲の『かたち:E』(即ち歌聲)となつて(『ほころび出』)捕へられる。宣長に言はせれば、この⑥『かたち(F:歌聲舞踏)』は、悲しみ(△枠)が己れ(悲しみ)を導くその『しかた』(E)を語る〔つまり:「①悲しみ(物:場 C‘)⇒②導く(D1の至大化)⇒③『かたち(歌聲・舞踏)』(F)⇒③の『しかた〔方法:なげく「物をつくづく見る:奈我牟流」〕』(Eの至大化)を語る⇒悲しみ(己れ△枠)」〕。更に言へば、『しかた』〔悲しみ(物:場 C‘)を『しずむ』方法(なげく:物をつくづく見る:奈我牟流)(Eの至大化)〕しか語らぬ純粋な表現性なのである。そして、私達は、この悲しみ(物:場 C‘)の型を信じ(Eの至大化)、これ(型)を演ずる(Eの至大化)俳優(△枠)だつたと言つてもよからう〔とは「悲しみ(實情)のモデル〔手本(物:場 C‘)〕⇒出會ふ(模倣:D1の至大化)⇒「型(歌聲・舞踏:F)」⇒信じ演ずる〔『しかた』:『しずむ』方法(なげく:物をつくづく見る:奈我牟流)(Eの至大化)〕⇒俳優(私達△枠)」〕。もし、さうでなければ、喪といふ共通の悲しみ〔實情(物:場 C‘)〕を豫感し(D1の至大化)、己の悲しみ〔實情(物:場 C‘)〕を發し(D1の至大化)、己の悲しみ〔實情(物:場 C‘)〕)を相手(物:場 C‘)と分かつ道〔禮:共有の方法(物:場 C‘)〕が、どうして開かれる(D1の至大化)であらう。さう〔喪(つまり禮)は、己の悲しみ〔實情(物:場 C‘)〕を、相手(物:場 C‘)と分かつ道〔共有の方法(物:場 C‘)〕と〕見抜いてゐたのが、聖人の智慧だ、と宣長は言ふ》 關係論:①もろこし(場 C‘)②喪の時(物:場 C‘)③禮(物:場 C‘)④實情〔悲しみ(物:場 C‘)〕⇒からの關係:『①にて、②に哭する③の定まりたるも、』「⑤:『假令(けりやう:かりそめ)の事のやうなれども、もと④を導く(D1の至大化)しかた』」(D1の至大化)⇒「⑥:聖人」(⑤的概念F)⇒E:『⑥の智は、ふかきものなり』。却つて、③の本質的なものが顔を出してゐる」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長『あしわけ小舟』(△枠):③への適應正常。 關係論:①禮(物:場 C‘)②歌(物:場 C‘)③發生(場 C‘)⇒からの關係:①と②とは、その③に立合ふ氣になつて考へれば、「④:區別のつきにくい雙生兒のやうな顔附きをしてゐる〔とは、どちらも『悲しみ(實情)』をそつくり受容れて、これを『なげく』(物をつくづく見る:奈我牟流)から〕」(D1の至大化)⇒「⑤:人間の印し」(④的概念F)⇒E:無くてはどうしても適はぬ⑤のやうに、私達の内部から生れて來るものだ。本を尋ねて、考へようとすれば、さういふ事が解つて來る。①を言へば樂を言つた聖人の智は、その點で深いものだ、と⑥は言ふ」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①②への適應正常。 關係論:①禮(物:場 C‘)②『實情』(物:場 C‘)⇒からの關係:「突き詰めて行けば、①とは『②(悲しみ等)を導く(味はふ?)』(以下參照)「③:その『しかた(形:F)』だと⑤は言ふ」(D1の至大化)⇒「④:言葉(『なげく』)なき歌」(③的概念F)⇒E:それなら、これ(①)は④とも言へるわけだ〔何故なら、『歌道は、悲しみ(實情。物:場 C‘)をそつくり受容れて(D1の至大化)、これを『なげく』〔(F)物をつくづく見る:奈我牟流(ながむる)〕といふ一と筋』であるから〕」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①②への適應正常。 ~~~以下參照~~~ 『形(E: 禮・型)に従つた(Eの至大化)行動〔心(C‘)の動き(D實情:悲しみ)〕は、行動〔即ち,心(C‘)の動き(D實情:悲しみ)〕それ自體を純粋に味はふ(D1の至大化)事が出來る』(恆存文)。 ~~~~~~ 關係論:①『しかた(あや:形)』(物:場 C‘)②何(物:場 C‘)③何處(場 C‘)④實情(悲しみ等)(物:場 C‘)⇒からの關係:⑦は、この①を②によつて思ひ附くのでもなく、③から借りて來るのでもない。「⑤:④自體から『をのづから』『ほころび出』る(D1の至大化)」(D1の至大化)⇒「⑥:人間の構造」(⑤的概念F)⇒E:⑦は意識して自發的にさうするのでもなければ、無意識に事の成行きに從ふのでもない。⑥は、そのやうな出來(Eの至大化)だ、宣長は言つてゐると解せる」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦私達(△枠):①への適應正常。 關係論:①心身(物:場 C‘)②實情の嵐(物:場 C‘)③叫び(物:場 C‘)④震へ(物:場 C‘)⇒からの關係:⑦も各自の①を吹き荒れる②の静まる(D1の至大化)のを待つ。「⑤:③が歌聲(『かたち』)になり〔をのづから文(あや)ある聲のかたち(即ち歌聲)となつて(『ほころび出』)〕④が舞踏(『かたち』)になる(D1の至大化)のを待つのである」(D1の至大化)⇒「⑥:『かたち』」(⑤的概念F)⇒E:裏を返せば、これ(②③④)に堪へたい、その(②③④の)⑥(F)を見定めたい(Eの至大化)と願つてゐる事だとも言へよう。捕へどころのない悲しみの嵐(②)が、をのづから文(あや)ある聲の⑥(即ち歌聲)となつて(『ほころび出』)捕へられる。宣長に言はせれば、この⑥『かたち(歌聲舞踏)』は、悲しみ(△枠)が己れ(悲しみ)を導くその『しかた』(E)を語る〔つまり:「①悲しみ(物:場 C‘)⇒②導く(D1の至大化)⇒③『かたち(歌聲・舞踏)』(F)⇒③の『しかた〔方法:なげく「物をつくづく見る:奈我牟流」〕』(Eの至大化)を語る⇒悲しみ(己れ△枠)」〕。更に言へば、『しかた』〔悲しみ(物:場 C‘)を『しずむ』方法(なげく:物をつくづく見る:奈我牟流)(Eの至大化)〕しか語らぬ純粋な表現性なのである」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦誰(△枠):②③④への適應正常。 ~~~以下參照~~~ 恆存關係論:①心(物:場 C‘)⇒からの關係:①の「②:動き」(D1の至大化)⇒「③言葉(せりふ)」(②的概念F)⇒E:②を形ある物にして見せる(Eの至大化)のが③の力學〔③との距離把握(Eの至大化)〕」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒恆存『せりふと動き』(△枠):①への適應正常。 ~~~~~~~ 關係論:①純粋な表現性(物:場 C‘)②悲しみ(實情)のモデル〔手本(物:場 C‘)〕③悲しみ(物:場 C‘)⇒からの關係:この(①の)模倣も利き(D1の至大化)、繰返しも出來る(D1の至大化)、「④:②とでも言つていいものに出會ふ(D1の至大化)といふ事が、各自(⑥)の内部に起る」(D1の至大化)⇒「⑤:型」(④的概念F)⇒E:先づ、この③の⑤を信じ(Eの至大化)、これ(⑤)を演ずる(Eの至大化)俳優(⑥)だつたと言つてもよからう〔とは「悲しみ(實情)のモデル〔手本(物:場 C‘)〕⇒出會ふ(模倣:D1の至大化)⇒「⑤型(歌聲・舞踏:F)」⇒⑤を信じ演ずる〔『しかた』:『しずむ』方法(なげく:物をつくづく見る:奈我牟流)(Eの至大化)〕⇒俳優(私達△枠)」〕」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥私達(△枠):①②への適應正常。 關係論:①喪(物:場 C‘)②共通の悲しみ〔實情(物:場 C‘)〕③己の悲しみ〔實情(物:場 C‘)〕④相手(物:場 C‘)⑤分かつ道〔共有の方法(物:場 C‘)〕⇒からの關係:もし、さう(承前)でなければ、①といふ②を豫感し(D1の至大化)、③を發し(D1の至大化)、「⑥:これ(③)を④と⑤(禮)が、どうして開かれる(D1の至大化)であらう」(D1の至大化)⇒「⑦:禮」(⑥的概念F)⇒E:⑦は聖人の智慧の發明ではない。さう〔①(つまり⑦)は、③を④と⑤と〕見抜いてゐたのが、聖人の智慧だ、と⑧は言ふ」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P218《宣長(△枠)が、わが國(場 C‘)最初の古典の現代語譯者(物:場 C‘)となつたのは、言ふまでもなく『古言(物:場 C‘)を得ん(D1の至大化)とする』一筋の願ひ(無私)に驅られたからであり、その仕事の動機は、全く純粋なものであつた。古典・傳統に對する宣長の愛情や信頼を思つて、彼の著作を讀んでゐると、その仕事がどんな形を取らうと、皆、この源泉(無私なる愛情や信頼)から溢れて、一筋の流れ(『古言を得んとする』一筋の願ひ)を成してゐる(Eの至大化)のが、よく感じられる。古典(物:場 C‘)が、在つたままの姿(物:場 C‘)で、現在(場 C‘)に生き返つて來る(D1の至大化)のは、言はば、この源泉の感情(即ち『古言を得んとする』愛情や信頼)を抱いた宣長(△枠)にとつては、まことに尋常で鮮明な知覺(物:場 C‘)である。もしそんな風(在つたままの姿)に、完全な姿で生き返らなければ、それ(非『完全な姿』)はまるで生き返りはしない、どちらかだといふ考へは、宣長(△枠)には恐らく自明(尋常で鮮明な知覺)なものであつた》 關係論:①歴史(物:場 C‘)②言語(物:場 C‘)③『古言』(物:場 C‘)④『物』(物:場 C‘)⇒からの關係:①も②も『③を得る(D1の至大化)』といふ具體的な仕事のうちで、經驗されてゐる「⑤:手答へのある『④』なのであつた」(D1の至大化)⇒「⑥:正直な心」(⑤的概念F)⇒E:⑥で正視すれば(『心眼』)、本質的に難解な表情が見えて來る相手(①②)であつた。これ(難解な表情)との無私な交渉について、⑦が大變率直に語つてゐるので〔即ち『低き所を固める(眞淵の教へ)』その手つきを〕、私は、さういふ文例(わかりにくい文例)を幾つも拾ひ上げる事になつた」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長⑦(△枠):①②への適應正常。 關係論:①眞淵(物:場 C‘)②『低き所』(物:場 C‘)③古書(物:場 C‘)④古言(物:場 C‘)⇒からの關係:①の言ふ②とは、③の註釋④の語釋(D1の至大化)といふ、地道な根氣のゐる仕事を指す。「⑤:⑦は、この道(③の註釋④の語釋)を受け、いよいよ低く、その底邊まで行つた」(D1の至大化)⇒「⑥:俗言(さとびごと)」(⑤的概念F)⇒E:『古今集』の雅言(みやびごと)を、そつくり今行はれてゐる⑥に譯(うつ)してみる、といふところまで行かなければ、承知しなかつた」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):②③④への適應正常。 關係論:①わが國(場 C‘)②古典の現代語譯者(物:場 C‘)③古言(物:場 C‘)⇒からの關係:⑥が、①最初の②となつたのは、言ふまでもなく『③を得んとする』一筋の願ひ(無私)に驅られたからであり、「④:その仕事の動機は、全く純粋なものであつた」(D1の至大化)⇒「⑤:愛情や信頼」(④的概念F)⇒E:古典・傳統に對する⑥の⑤を思つて、彼の著作を讀んでゐると、その仕事がどんな形を取らうと、皆、この源泉(⑤)から溢れて、一筋の流れ(『③を得んとする』一筋の願ひ)を成してゐる(Eの至大化)のが、よく感じられる」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):③への適應正常。 關係論:①古典(物:場 C‘)②在つたままの姿(物:場 C‘)③現在(場 C‘)④尋常で鮮明な知覺(物:場 C‘)⇒からの關係:①が、②で、③に生き返つて來る(D1の至大化)のは、言はば「⑤:この源泉の感情(即ち『古言を得んとする』愛情や信頼)を抱いた⑦にとつては、まことに④である」(D1の至大化)⇒「⑥:完全な姿」(⑤的概念F)⇒E:もしそんな風(②)に⑥で生き返らなけれ(Eの至大化)ば、それ(非⑥)はまるで生き返りはしない(Eの至小化)、どちらかだといふ考へは、⑦には恐らく自明(④)なものであつた」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):①②への適應正常。 關係論:①古典や傳統(物:場 C‘)②現代人の心(物:場 C‘)③怪しげな姿(物:場 C‘)⇒からの關係:①に對する愛や信(D1の至大化)といふ事になると、「④:②は、隨分③をしてゐる」(D1の至小化)⇒「⑤:現代的教養の色眼鏡」(④的概念F)⇒E:反省(①への愛や信)は、普通、⑤を通してなされるから、⑥もそんな自分の姿(③)に出會ひはしない。古典との生きた關係(とは即ち『在つたままの姿を、完全な姿で生き返らせる』)を、自分の手(即ち⑤)で斷ち(Eの至小化)ながら、それに氣附かぬ(Eの至小化)といふ事もあるのである」(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥誰(現代人△枠):①への適應異常。 |
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P220《 『古言を得る』(物:場 C‘)とは、古言が『おのが腹の内の物』になるといふ、一人一人が、みづから進んでやつてみなければならぬ事を、言ふ(『古今集遠鏡』)。互ひ(語り手と聞き手と)に『語(F)』といふ『わざ』を行ふ(Eの至大化)私達(語り手と聞き手)の談話が生きてゐる(D1の至大化)のは、『語(F)』の『いひざま、いきほひ』(Eの至大化)による(即ち、Eの至大化=D1の至大化)、と⑨は言ふ。その全く個人的(語り手と聞き手)な『語(F)』感(Eの至大化)を互ひ(語り手と聞き手)に交換し合ひ(即ち、Eの至大化=D1の至大化)、即座に飜譯(Eの至大化)し合ふといふ離れ業(Eの至大化)を、われ知らず樂しんでゐる(即ち、Eの至大化=D1の至大化)のが、私達(語り手と聞き手)の尋常な談話(D1の至大化)であらう。さういふ事〔私達(語り手と聞き手)の尋常な談話(即ち、Eの至大化=D1の至大化)〕になつてゐると言ふのも、國語といふ巨きな原文(物:場 C‘)の、巨きな意味構造〔『語(F)といふわざ(E)』 即ち、Eの至大化=D1の至大化〕が、私達の心を養つて來た(D1の至大化)からであらう。養はれて(D1の至大化)、私達は、暗黙のうちに、相互(語り手と聞き手と)の合意や信頼に達してゐる(D1の至大化)からであらう。宣長は、其處〔巨きな意味構造:『語(F)といふわざ(E)』即ち、Eの至大化=D1の至大化〕に『言靈』の働き(Eの至大化)〔即ち『古言を得る』〕と呼んでいいものを、直に感じ取つてゐた。宣長は『古意を得る』爲の手段としての、古言の訓詁や釋義の枠(即ち『言靈』の意味解釋)を、思ひ切つて破つた。『萬葉』に現れた『言靈』といふ古言に含まれた、『言靈』の本義を問ふ(『古意を得る』)のが問題ではない。現に誰もが經驗してゐる俗言(さとびごと)の働き(『具體的な物』の「Eの至大化」)といふ『具體的な物』としつかりと合體(Eの至大化)して、この同じ古言(『言靈』)が、どう轉義するか、その樣(即ち、合體「Eの至大化」して=轉義「D1の至大化」)を眼のあたり見るのが肝腎なのである》 關係論:①『古言を得る』(物:場 C‘)②古言(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)①とは、不明になつた②の意味を明らめるといふ、「③:一般的な知的な理解で濟む事ではない」(D1の至大化)⇒「④:『おのが腹の内の物』(③的對立概念F)⇒E:②が④になるといふ、⑤が、みづから進んでやつて(Eの至大化)みなければならぬ事を、言ふ(『古今集遠鏡』)」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤一人一人(△枠):①への適應正常。
・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして詳しくは、以下、宣長文「關係論」(Ⅰ)と、恆存の「演戯的關係論」(Ⅱ)を參照されたし。つまりは、宣長の「言語觀」(Ⅰ)と恆存の「演戯的關係論」(Ⅱ)には、その一致が窺へる事を、此處に強調したいのである。⇒PP圖參照 P219(Ⅰ)關係論:①すべて人・よみ人(物:場 C‘)⇒からの關係:の心(D1)を、「②:おしはかりえて(D1の至大化)」⇒「③:詞・語」(②的概念F)⇒E:③のいひざま(E:型)、いきほひ(E:型)にしたがひて(「Eの至大化」or「Eの至小化」)、深くも(Eの至大化)、淺くも(Eの至小化)、をかしくも(Eの至大化)、うれたくも(Eの至小化)聞ゆるわざ(E:型)にて、歌(かたち:E)は、ことに、心のあるやう(『心をおしはかり』:D1の至大化)を、ただに、うち出たる趣(Eの至大化)なる物也(即ち、D1の至大化=Eの至大化)。故に、その(③の)いきほひ(E:型)を譯(うつ)すべき(Eの至大化)也」(即ち、Eの至大化=D1の至大化、といふ事)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長『古今集遠鏡』(△枠):①への適應正常。 〔(場 C‘:から生ずる)『心の動き(D1の至大化)を形ある物にして見せるのがせりふ(言葉)の力學(Eの至大化)』(恆存評論『せりふと動き:演戯的關係論』)〕 (Ⅱ)關係論:①場( C‘)⇒からの關係(から生ずる):②心の動き(D1の至大化)を⇒「③:せりふ(言葉)」(②的概念F)⇒E:③の力學(③の用法:Eの至大化)で形(E)ある物にして見せる(Eの至大化)」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒(△枠):①への適應正常。 P220關係論:①生活の表現(物:場 C‘)②言語(物:場 C‘)③言語活動(物:場 C‘)⑥語り手(物:場 C‘)⇒からの關係:⑨は①としての②を言ふより、「④:むしろ、③と呼ばれる生活を、端的に指す」(D1の至大化)⇒「⑤:語」(③的概念F)⇒E:解り切つた事だが、⑤のうちに含まれて變らぬ、その(⑤の)意味などといふものはありはしない(Eの至小化)。⑥の語りやう(D1)、⑦の聞きやう(E)で、⑤の意味は變化(「Eの至大化」or「Eの至小化」)して止まない。私達(⑥と⑦)の間を結んでゐる(關係:D1)、言語(⑤)による表現(E)と理解(E)との生きた關係(即ち、Eの至大化=D1の至大化)といふものは、まさしくさういふものであり、この不安定な關係(即ち、Eの至大化=D1の至大化)を、不都合(D1の至小化)とは⑧も決して考へてゐない(D1の至大化)のが、普通である。互ひ(⑥と⑦)に『⑤』といふ『わざ』を行ふ(Eの至大化)私達(⑥と⑦)の談話が生きてゐる(D1の至大化)のは、⑤の『いひざま、いきほひ』(Eの至大化)による(即ち、Eの至大化=D1の至大化)、と⑨は言ふ。その全く個人的(⑥と⑦)な⑤(F)感(Eの至大化)を互ひ(⑥と⑦)に交換し合ひ(即ち、Eの至大化=D1の至大化)、即座に飜譯(Eの至大化)し合ふといふ離れ業(Eの至大化)を、われ知らず樂しんでゐる(即ち、Eの至大化=D1の至大化)のが、私達(⑥と⑦)の尋常な談話(D1の至大化)であらう」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦聞き手⑧誰(△枠)。⑨宣長(△枠):③への適應正常。⇒PP圖參照 關係論:①國語(物:場 C‘)②巨きな原文(物:場 C‘)③巨きな意味構造(物:場 C‘)⇒からの關係:さういふ事〔私達(語り手と聞き手)の尋常な談話(即ち、Eの至大化=D1の至大化)〕になつてゐると言ふのも、①といふ②の、③〔『語(F)といふわざ(E)』 即ち、Eの至大化=D1の至大化〕が、「④:⑥の心を養つて來た(D1の至大化)からであらう」(D1の至大化)⇒「⑤:『言靈』」(④的概念F)⇒E:養はれて(即ち、Eの至大化=D1の至大化)、⑥は、暗黙のうちに、相互(語り手と聞き手と)の合意や信頼に達してゐる(D1の至大化)からであらう。⑦は、其處〔③:『語(F)といふわざ(E)』即ち、Eの至大化=D1の至大化〕に⑤の働き(Eの至大化)と呼んでいいものを、直に感じ取つてゐた」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥私達(△枠)⑦宣長(△枠):①②③への適應正常。 關係論:①『古言を得る』(物:場 C‘)⇒からの關係:この(前項の)やうな次第で、①といふ同じ言葉でも、④の得かたと「②:⑤の得かたとは、餘程違つて來る」(D1の至大化)⇒「③:『古意を得る』」(②的對立概念F)⇒E:「④は③爲の手段としての、古言の訓詁や釋義の枠(即ち『言靈』の意味解釋)を、思ひ切つて破つた(Eの至大化)」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④宣長:①への適應正常⑤眞淵(△枠)。 〔『言靈』(物:場 C‘)とは、その知的理解「語(物:場 C‘)⇒釋(D1)」ではなく、具體的な物〔俗言(さとびごと)(F)〕への働き(合體:Eの至大化)〔即ち、合體(Eの至大化)=轉義(D1の至大化)〕の事なのである〕 P221關係論:①『萬葉』(物:場 C‘)②『言靈』(物:場 C‘)③古言(物:場 C‘)⇒からの關係:①に現れた②といふ③に含まれた、②の「④:本義を問ふ〔知的理解、即ち:語(物:場 C‘)⇒釋(D1)する〕のが問題ではない」⇒「⑤:俗言(さとびごと)」(④的對立概念F)⇒E:⑤の働きといふ「具體的な物」(即ち:F⇒Eの至大化)としつかりと合體(Eの至大化)して、この同じ古語(『言靈』)が、どう轉義するか、その樣〔即ち、合體(Eの至大化)=轉義(D1の至大化)〕を眼のあたり見る(Eの至大化)のが肝腎なのである」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長『うひ山ぶみ』(△枠)。 關係論:①古言(物:場 C‘)②古意(物:場 C‘)③語り手(物:場 C‘)⇒からの關係:①のうちに②を判讀するだけでは足りない(D1の至小化)。①と⑥との間にも、③と⑦との關係(D1)、「④:⑥が平常、身體で知つてゐるやうな尋常な談話の關係〔とは『語(F)といふわざ(E)』即ち、Eの至大化=D1の至大化)」〕を、創りあげなければならぬと⑧は考へた⇒「⑤:俗言(さとびごと)」(④的概念F)⇒E:それは出來る事だ。『萬葉』に現れた『言靈』といふ①に含まれた、『言靈』の本義を問ふ〔語(物:場 C‘)釋(D1)〕のが問題ではない。現に誰もが經驗してゐる⑤の働きといふ具體的な物(即ち:F⇒Eの至大化)としつかりと合體(Eの至大化)して、この同じ①(『言靈』)が、どう轉義するか、その樣〔即ち、合體(Eの至大化)=轉義(D1の至大化)〕を眼のあたり見るのが肝腎なのである」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長『うひ山ぶみ』(△枠)。 |
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P221《『語(物:場 C‘)釋(D1)〔即ち:前項出『語義(物:場 C‘)を分析して本義正義を定める(D1の至小化)』〕は緊要にあらず(D1の至小化)。諸の言(F)はその然り云ふ本(物:場 C‘)の意(D1の至小化)を考へん〔D1の至小化:語釋即ち前項出『語義(物:場 C‘)を分析して本義正義を定める(D1の至小化)』〕よりは、古人(物:場 C‘)の用ひたる所(D1)を、よく考へて(D1の至大化)〔即ち、P219『すべて人・よみ人(物:場 C‘)の心(D1)を、おしはかりえて(D1の至大化)』〕、云々(しかじか)の言(F)は、云々の意(D1の至大化)に用ひたり(Eの至大化)といふことを、よく明らめ知る(即ち、Eの至大化=D1の至大化)を、要とすべし』(『うひ山ぶみ』)。この「有害無益」(F)のものと斷じたい、といふ宣長のはつきりした語調(Eの至大化)に注意すべし。(契沖、眞淵の學問『語釋大事論』を受けた上での反論故)、この一歩〔『語(物:場 C‘)釋(D1)は、緊要にあらず(D1の至小化)』〕は、百尺竿頭にあつたと言つてよい。尚、これは初學者の教へ(『うひ山ぶみ』)などではなく、餘程彼の言ひたかつた意見と思はれる》 關係論:①當時の常識(物:場 C‘)②言語の學(物:場 C‘)③言靈といふ言葉(物:場 C‘)④言靈學(物:場 C‘)⇒からの關係:⑦は、①として、②をその中(⑥系の學問分類の中)に加へるわけにはいかなかつた。「⑤:が、③は、⑦には、④を指すと見えてゐた」(D1の至大化)⇒「⑥:本義正義を定める」(⑤的對立概念F)⇒E:語義を分析して、⑥(即ち①)といふ事は、(③は④を指すと見えてゐた)⑦には、どうでもよい事であつた」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):④への適應正常。
關係論:①古學(物:場 C‘)②語源學(物:場 C‘)⇒からの關係:①に携る⑤が誘はれる(D1の至小化)、「③:②的な語釋〔D1の至小化:前項出『語義(物:場 C‘)を分析して本義正義を定める(D1の至小化)』〕を、⑥は信用してゐない(D1の至小化)」⇒「④:有害無益」(③的概念F)⇒E:學問の方法として正確の期し難い、怪し氣なものである以上、④のものと斷じたい、といふ(△枠)のはつきりした語調(Eの至大化)に注意すべし。『語(物:場 C‘)釋(D1)〔即ち:前項出『語義(物:場 C‘)を分析して本義正義を定める(D1の至小化)』〕は緊要にあらず(D1の至小化)』と言ふ⑥の踏み出した一歩は、(契沖、眞淵の學問『語釋大事論』を受けた上での反論故)百尺竿頭にあつたと言つてよい。尚、これは初學者の教へ(『うひ山ぶみ』)などではなく、餘程彼の言ひたかつた意見と思はれる」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤學者(△枠)⑥宣長(△枠):①への適應正常。 |
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〔二十二章〕主題:〔詠歌にあつては、『ことば(歌の實)第一なり』〕 norinaga22.pdf へのリンク以下主題群の統合:關係論:①詠歌(物:場 C‘)②『ことば(歌の實)第一なり』〕(物:場 C‘)③今の人情(實の心)(物:場 C‘)④古の歌(物:場 C‘)⑤古の人の詠じたる歌(物:場 C‘)⑥古歌古書(物:場 C‘)⇒からの關係:①にあつては、②。③にしたがひて、いつはりかざりて〔即ち『面白くかざる』(歌の實)ゆへに、實(實の心:『歌をよまむと思ふ心』)をうしなふ事』〕なりとも、隨分④をまなび(歌の實)、⑤の如くに、よまむよまむと心がくれ(歌の實)ば、「⑦:その中におのづから、平生見聞する⑥に心が化せられる(歌の實)」(D1の至大化)⇒「⑧:古人のやうなる情態(情・思ふ心・實の心)」(⑦的概念F)⇒E:『⑧にも(⑥で)うつり化するもの(歌の實)也』『これ和歌の功徳(歌の實)によりて、我性情(實の心)も、(⑥で)よく化する(歌の實)と云ふもの也』」⑧への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長『あしわけ小舟』(△枠):①②への適應正常。 關係論:①情〔心・思ふ心・實の心『歌をよまむと思ふ心』〕(物:場 C‘)②言葉といふ『手がかり』(歌の實)(物:場 C‘)⇒からの關係:『①は自然也』と言つただけでは足りない。『自然と求めずして在る心〔情・思ふ心・實の心『歌をよまむと思ふ心』〕は、そのままでは『心散亂して、妄念競ひおこ』る情態を抜けられるものではない。まだ『歌の實』といふ表現性を得ない『實の心(情・思ふ心・『歌をよまむと思ふ心』)の單なる事實性などは、敢へて『妄念』とか『散亂した心』とか呼ぶがよろしい、と⑤は言ふ。②がなければ、心は心で、どう始末のつけようもないものだ〔即ち『ことば(歌の實)第一なり』〕。「③:思ふ心〔情・實の心『歌をよまむと思ふ心』〕を『ほどよく言ふ(歌の實)』では足りない。一歩すすめて、亂れる心〔心散亂・妄念・思ふ心・情・實の心『歌をよまむと思ふ心』〕を『しずむ』『すます』『定むる』『晴らす』(歌の實)と言ふべきだ。『石上私淑言』では、『むねにせまるかなしさ(實の心)を、はらす(歌の實)』と、同じ意味合で『はらす(歌の實)』といふ言葉が使はれてゐる」(D1の至大化)⇒「④:悲しみ(實の心)を詠む(歌の實)」(③的概念F)⇒E:④とは、悲しみ(實の心)を晴らす(歌の實)事だ。悲しみ(實の心)が反省(歌の實)され、見定め(歌の實)なければ、悲しみ(實の心)は晴れまい。言葉の『手がかり』(歌の實)がなくて、どうしてそれが人間に出來よう」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長『あしわけ小舟』(△枠):①への適應正常。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ 〔二十二章〕主題: 關係論:①今の世(物:場 C‘)②此の道(物:場 C‘)③和歌(物:場 C‘)④今の人情(物:場 C‘)⑤古の歌(物:場 C‘)⑥古の人の詠じたる歌(物:場 C‘)⇒からの關係:『①にて②にたずさはり、③を心がくる者は、』「⑦:『先ず④(實の心)にしたがひて、いつはりかざりて(歌の實)なりとも、隨分⑤をまなび、⑥の如く(歌の實)に、よまむよまむ(歌の實)と心がくれば』」(D1の至大化)⇒「⑧:心が化せられて」(⑦的概念F)⇒E:『その中におのづから、平生見聞する古歌古書に⑧(歌の實)、古人のやうなる情態(實の心?)にも、うつり化するもの也』〔『これ和歌の功徳(歌の實)によりて、④も、よく化すると云ふもの也』と同意か?〕(『あしわけ小舟』)」(⑧への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):④⑤への適應正常。 關係論:①古の歌(物:場 C‘)②徳(物:場 C‘)⇒からの關係:『これ何ぞなれば、かの①のまねをして、かざりつくりて(歌の實)、』「③:『よみならひ、見ならひたる(歌の實)、その②ならずや』」(D1の至大化)⇒「④:我性情(實の心)」(③的概念F)⇒E:『これ和歌の功徳(歌の實)によりて、④(實の心)も、よく化すると云ふもの也」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①歌人(物:場 C‘)②歌學者(物:場 C‘)③歴史意識(物:場 C‘)④詠歌(物:場 C‘)⑤歌の傳統(物:場 C‘)⇒からの關係:もし、①が②としての明瞭な③を持つならば、④とは、⑤の流れの内部の出來事であり、「⑥:これ(⑤)から逸脱は出來ない事を認めざるを得まい」(D1の至大化)⇒「⑦:『いつはりかざる』風」(⑥的對立概念F)⇒E:今日の④を⑦と言ひたいのなら、言つてもよい。それなら、『今の人情(實の心)にしたがひて、いつはりかざりて(歌の實)なりとも、隨分古の歌をまな』ぶべき(歌の實)である。現在に生れ變はらうと希つてゐる過去の資源に出會はうと、道を開いて置かなければ、④の未來に向かふ道も閉ざされるだらう。この考へは傳統主義とは言へる」(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①②への適應正常。 關係論:①歌(物:場 C‘)②言辭(言葉遣ひ:歌の實)の道(物:場 C‘)③性情の道(實の心)(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②であつて「④:③ではない、といふはつきりとした⑥の言葉と受け取らねばならない」(D1の至大化)⇒「⑤:歌の變易(歌の實)」(④的對立概念F)⇒E:①は『人情〔實の心〕風俗につれて、變易する』が、⑤は、人情〔實の心〕風俗の變易の寫しではあるまい。前者(⑤)を後者(人情〔實の心〕風俗の變易)に還元して了ふ事は出來ない。私達の現實の性情(實の心)は、變易して消滅する他はないが、この消滅の代償として現れた①(變易の歌〔歌の實〕)は、言はば別種の生(『質の異なる秩序』:歌の實)を享け、死ぬ事はないだらう」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①②への適應正常。 P209關係論:①『よき』(物:場 C‘)②すぐれたる(物:場 C‘)③『歌の最極無上の所』(物:場 C‘)④歌のよしあし(物:場 C‘)⑤詞(物:場 C‘)⑥意(物:場 C‘)⇒からの關係:『①が中にも、①を選び、②なかにも②歌を、よみいでんとする(歌の實)が、③也。④(歌の實)をいはぬ時は、論ずる事もなく、學ぶこともいらぬ也。「⑦:①歌をよまむと思ふ心(實の心)より、⑤を選び(歌の實)、⑥をまふけて(歌の實『只意にまかせて』)、かざる(『面白くかざる』:歌の實)ゆへに、實(實の心:『歌をよまむと思ふ心』)をうしなふ事ある也」(D1の至大化)⇒「⑧:質の異なる秩序」(⑦的概念F)⇒E:⑨の考への重點は、實の心(『歌をよまむと思ふ心』)と歌の實(『歌のよしあし』に關する實)とは、⑧に屬し、兩者は直に連續してはゐないといふところにある。歌の實とは、飽くまでも『歌のよしあし』に關する實であつて、實の心(『歌をよまむと思ふ心』)の側から照らせば、忽ち僞りと變じて了ふといふその事〔即ち『かざる(『面白くかざる』:歌の實)ゆへに、實(實の心:『歌をよまむと思ふ心』)をうしなふ事』〕が示すやうに、既知の實の心(『歌をよまむと思ふ心』)の側からは、説明のつかぬ新しい質(歌の實)である」(⑧への距離獲得:Eの至大化)⇒⑨宣長(△枠):①②③への適應正常。 關係論:①詠歌(物:場 C‘)②『ことば(歌の實)第一なり』(物:場 C‘)⇒からの關係:①にあつては、②といふ⑤の「③:考へは大變強い(詳細:宣長本文P209參照)」(D1の至大化)⇒「④:詠歌の『順道』」(③的概念F)⇒E:『思ふ心(實の心:『歌をよまむと思ふ心』)ありて後、うたよまむ(歌の實)』とは、誰の眼にも、④なのであり、古は『順道』がおのづから行はれてゐたから、『情〔思ふ心・實の心『歌をよまむと思ふ心』〕は自然になれば、もとむる事なし。只詞(歌の實)をもとむ』といふ事も、當り前な事だつた。何も特に『ことば(歌の實)第一なり』と教へる必要はなかつた」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):②への適應正常。 關係論:①詠歌の意識(物:場 C‘)②中古以來の歌(物:場 C‘)③〔情(思ふ心・實の心)辭(歌の實)〕(物:場 C‘)⇒からの關係:ところが①が複雑になり『②は、③ともにもとむ』といふ「④:面倒な事(『只詞(歌の實)をもとむ』からの變化)になつた」(D1の至小化)⇒「⑤:題(歌の實)」(④的概念F)⇒E:先ず⑤によつて情(思ふ心・實の心)を求めるといふ迂路を取る(Eの至小化)やうになつたまでの話だ。惡いのは、題詠の習慣化で、題(歌の實)が與へられれば、⑥は情(思ふ心・實の心『歌をよまむと思ふ心』)を求める手間を省く(Eの至小化)樣になつた」(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥歌人等:⑦宣長曰く(△枠):①②への適應正常。 關係論:①先達(物:場 C‘)②情〔思ふ心・實の心『歌をよまむと思ふ心』〕(物:場 C‘)③詞〔『ことば(歌の實)第一なり』〕(物:場 C‘)⇒からの關係:そこで『①の、専ら②を先として、③を次ぎにせよ(即ち、主客顚倒)と、深く戒められたる也』。「④:つまり教へ〔『ことば(歌の實)第一なり』〕の方も逆になつて了つた」(D1の至小化)⇒「⑤:詠歌の歴史の變易」(④的概念F)⇒E:しかし、⑤を、變易として素直に受け取る〔とは即ち『詠歌の意識が複雑になり、中古以來の歌は、情辭〔(思ふ心・實の心)と(歌の實)〕ともにもとむといふ、面倒な事(『只詞(歌の實)をもとむ』からの變化)になつた』と捕らへる〕なら、詠歌の順道が分裂したからと言つて逆にはならぬ。『ことば(歌の實)第一なり』の鐵則は崩れないと悟るであらう。『情〔思ふ心・實の心『歌をよまむと思ふ心』〕あさけれども、よき歌多し。詞(歌の實)惡しくして、よき歌はかつてなき也』」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長曰く(△枠):②③への適應正常。 P210關係論:①歌の表現性とか表現力〔歌の實(物:場 C‘)〕②『思ふ心〔情・實の心『歌をよまむと思ふ心』〕(物:場 C‘)③『ことば(歌の實)第一なり』(物:場 C‘)⇒からの關係:⑥は①とかいふ言葉は使つてゐない。『とかく②を、ほどよくいひととのふる(歌の實)』事と言ふのだが、③といふ考へをつき詰めて行くと、「④:ここで、(『とかく②を、ほどよくいひととのふる(歌の實)』に對するに)、もつと強い言葉(P211最終「亂れる心〔情・實の心『歌をよまむと思ふ心』〕を『しずむ』『すます』『さだめる』『はらす』(即ち、歌の實)」)が必要になつて來るのである(P210宣長原文)」(D1の至大化)⇒「⑤:『妄念』」(④的對立概念F)⇒E:『詠歌の第一義は、心(情・思ふ心・實の心『歌をよまむと思ふ心』)をしずめて(歌の實)、⑤をやむる(Eの至大化)にあり』(P210宣長原文)」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①『大口訣(大奥義)』(物:場 C‘)②意(物:場 C‘)③言語意識(物:場 C‘)⇒からの關係:(⑦が、特に①といふ言葉が使ひたかつた②を推察してみれば、彼が着目してゐるところは、⑥の「④:③の不徹底(D1の至大化)にあつた事は明らか」(D1の至大化)⇒「⑤:謎めいた力」(④的對立概念F)⇒E:反省(歌の實)が徹底してゐれば、言語表現に、本來備つてゐるとしか考へられぬ⑤(即ち、歌の實『質の異なる秩序』)が露はに見えて來る筈だ〔參照:以下及びP209『宣長には、難問が露はな形(即ち『意をまふけて:只意にまかすべし』(歌の實)〕で、見えてゐた』〕。⑦はさう考へる。まだ『歌の實』といふ表現性を得ない『實の心(情・思ふ心・『歌をよまむと思ふ心』)の單なる事實性などは、敢へて『妄念』とか『散亂した心』とか呼ぶがよろしい、と⑦は言ふのである」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥歌人等⑦宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①情〔心・思ふ心・實の心『歌をよまむと思ふ心』〕(物:場 C‘)②言葉といふ『手がかり』(歌の實)(物:場 C‘)⇒からの關係:『①は自然也』と言つただけでは足りない。『自然と求めずして在る心〔情・思ふ心・實の心『歌をよまむと思ふ心』〕は、そのままでは『心散亂して、妄念競ひおこ』る情態を抜けられるものではない。②がなければ、心は心で、どう始末のつけようもないものだ。思ふ心〔情・實の心『歌をよまむと思ふ心』〕を『ほどよく言ふ(歌の實)』では足りない。一歩すすめて、亂れる心〔心散亂・妄念・思ふ心・情・實の心『歌をよまむと思ふ心』〕を『しずむ』『すます』『定むる』(即ち、歌の實)と言ふべきだ。『石上私淑言』では、『むねにせまるかなしさ(實の心)を、はらす(歌の實)』と、同じ意味合で『はらす(歌の實)』といふ言葉が使はれてゐる」(D1の至大化)⇒「④:悲しみ(實の心)を詠む(歌の實)」(③的概念F)⇒E:④とは、悲しみ(實の心)を晴らす(歌の實)事だ。悲しみ(實の心)が反省(歌の實)され、見定め(歌の實)なければ、悲しみ(實の心)は晴れまい。言葉の『手がかり』(歌の實)がなくて、どうしてそれが人間に出來よう」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長『あしわけ小舟』(△枠):①への適應正常。 |
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以下は〔二十二章〕各項目纏め |
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P202《詠歌とは長い傳統の上を、今日まで生き續けて來た、具體的な言葉(F)の操作(Eの至大化)(歌の實)である。『今の世』『今の心(實の心)』のそれも、歌道(歌の實)(物:場 C‘)の衰退(D1の至小化)した現在(場 C‘)の現れ(D1の至小化)といふ、實際問題である。この詠歌の實際問題(歌道の衰退現象としての『今の世』『今の心』)の對處としては、『うひ山ぶみ』では、『代々の集を見渡すことも、初心のほどのつとめには、たへがたければ、まづ世間にて、頓阿『草庵集』を題詠みのしるべとすることなるが、これよき手本〔具體的な言葉(F)の操作(Eの至大化)〕也』と言ふ》 關係論:①歌の傳統の姿(物:場 C‘)②定まり(物:場 C‘)⇒からの關係:①の退つ引きならぬ②が、眼に映じてもゐない者(眞淵の亞流)が、「③:復古を口にしてみたところで、空しい事だ」(D1の至大化)⇒「④:詠歌」(③的對立概念F)⇒E:歌は、主義や觀念から生れはしない。④とは長い傳統の上を、今日まで生き續けて來た、具體的な言葉(F)の操作(Eの至大化)(歌の實)である。『今の世』『今の心(實の心)』のそれも歌道(歌の實)の衰退した現在の現れといふ、實際問題である」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(『あしわけ小舟:初期』『うひ山ぶみ:晩年』)(△枠):①への適應正常。 關係論:①『新古今』(物:場 C‘)②『萬葉』(物:場 C‘)③歌學(物:場 C‘)⇒からの關係:①は詠歌の手本として危險。②は『③のためには、よき物にて、』「④:『よみ歌のためには、さのみ用なし』」(D1の至小化)⇒「⑤:詠歌の實際問題」(④的對立概念F)⇒E:さうなると、⑤(の對處)としては、『うひ山ぶみ』では、『代々の集を見渡すことも、初心のほどのつとめには、たへがたければ、まづ世間にて、頓阿『草庵集』を題詠み(歌の實)のしるべとすることなるが、これよき手本也』と。明らかに、これは⑥自身の實際の經驗に即した事」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長『うひ山ぶみ』(△枠):①②への適應正常。 |
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P203《詠歌の上で歌學(物:場 C‘)をどう心得る(D1の至大化)かの宣長意見》 關係論:①今の世(場 C‘)②歌學(物:場 C‘)③歌(物:場 C‘)⇒からの關係:『①にいたりても、②のかたよろしき人は、「④:大抵いづれも、③よむかたつたなくて、③は、②のなき人に、上手がおほきもの也』」(D1の至大化)⇒「⑤:専一」(④的對立概念F)⇒E:『こは⑤にすると、然らざるとによりて、さる道理も有るにや』」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):②③への適應正常。 關係論:①歌學(物:場 C‘)②歌(物:場 C‘)⇒からの關係:『さりとて、①のよき人のよめる②は、「③:『皆必ずわろきもの(D1の至小化)と、定めて心得るは、ひがごと(僻事)也』」(D1の至小化)⇒「④:二筋(①と詠歌)の心ばへ」(③的對立概念F)⇒E:『此④をよく心得わきまへたらん(Eの至大化)には、①いかでか②詠む妨げとはならむ(Eの至大化)。妨げとなりて(Eの至小化)、よく②をえよまぬ(D1の至小化)は、そのわきまへのあしき(Eの至小化)が故也。然れども、①の方は大概(D1の至小化)にても有べし(D1の至大化)。②よむかたをこそ、むね(D1の至大化)とはしまほしけれ』」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長『うひ山ぶみ』(△枠):①への適應正常。 關係論:①歌學者(物:場 C‘)②歌人(物:場 C‘)③詠歌(物:場 C‘)④歌學(物:場 C‘)⇒からの關係:⑦は①であつて②ではなかつた。さういふと、従つて、「⑤:彼にとつては、③は、④の爲の手段に過ぎなかつたと、續けたがる」(D1の至小化)⇒「⑥:意味合」(⑤的對立概念F)⇒E:が、大事なのは、この手段と言ふ言葉の、彼にとつての⑥なのだ」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①歌に行く道(物:場 C‘)②歌を好み信じ樂しむ人(物:場 C‘)③歌を知る(物:場 C‘)④歌を詠むといふ大道(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②にしか開かれてゐない(D1の至小化)。③には、④があるだけで、「⑤:他に簡便な近道はない」(D1の至大化)⇒「⑥:原理」(⑤的概念F)⇒E:この考へは⑦にとつては、殆ど⑥の如きもの。遂に歌人となつて、歌學が手段となるか、歌學者に成長して、詠歌が手段となるかは、それから先の話」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):①③への適應正常。 關係論:①詠歌(物:場 C‘)②歌學の骨格(物:場 C‘)③古風(物:場 C‘)④後世風(物:場 C‘)⑤歌學者(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②を成すもの。①の上で③④を、「⑥:自在に詠み分けられない(D1の至小化)やうでは、⑤とは言へない(D1の至小化)。⑤としてこの自信(自在に詠み分け)があれば足りるとしてゐた」(D1の至大化)⇒「⑦:名歌」(⑥的對立概念F)⇒E:⑧は、⑦を詠まうとも、自作が⑦だとも、考へてはゐなかつた」(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①宣長の歌(物:場 C‘)②後世風(物:場 C‘)③新古今風(物:場 C‘)⇒からの關係:①は、「④:大部分②のものだとは言へるが、③とは言へない」(D1の至大化)⇒「⑤:古學」(④的對立概念F)⇒E:⑤を事とする者が、何故②の歌を詠むか。⑥の答へは、『古風は、よむべき事すくなく、②はよむ事おほきが故也。すべていにしへは、事すくなくなかりしを、後世になりゆくまにまに、萬の事しげくなるとおなじ』。理由は簡單明瞭だ、自分は後世に生れ合せたからだ、と言ふ」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長『うひ山ぶみ』(△枠):②③への適應正常。 |
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P205《宣長曰く。自分の好む歌學に從ひ、自分の信ずる見解を述べるだけだが、學問の方法まで、自分の好みに従つてくれるとは夢にも思つてゐない。自分の歌學では、歌の雅俗といふ審美的判斷と、歌の傳統の本流支流といふ歴史的意識とは、同じものだ〔とは即ち『歌の美しさがわが物となるとは, 歌の歴史がわが物になるといふ事』〕。『今の世(物:場 C‘)で、和歌を心がくる者は、先ず今の人情(實の心)(物:場 C‘)にしたがひて、いつはりかざりて(歌の實)なりとも、隨分古の歌(物:場 C‘)をまなび(歌の實)、古の人の詠じたる歌の如くに、よまむよまむと心がくれ(歌の實)ば、その中におのづから、平生見聞する古歌古書に心が化せられて(歌の實)、古人のやうなる情態(實の心?)にも、うつり化するもの也』〔『これ和歌の功徳(歌の實)によりて、我性情(實の心)も、よく化すると云ふもの也』と同意か?〕。『予が教ふるは、今(場 C‘)の、いつはり多き情(實の心)のままに、その情(實の心)にて、むかしの人のまね(歌の實)をしてよみならひ(歌の實)て、さて、古の人(物:場 C‘)のやう〔古人のやうなる情態(實の心)〕に、自然に化する也』(『あしわけ小舟』) 》 〔宣長:自分の見解の説明に苦勞〕 關係論:①『萬の事しげ』き今の世(物:場 C‘)⇒からの關係:私達は、①に生きてゐるので、これをどうしようもない。④の『その人の好みにまかすべし』といふ言葉は、文中幾つも出て來る。かういふ言ひ方は、④の明瞭な時代意識(即ち①)を示す。「②:その意味は、自分は自分の好みに從ふといふ意味である」(D1の至大化)⇒「③學問の方法」(②的對立概念F)⇒E:自分も、諸君の流儀で、自分の好む歌學に從ひ、自分の信ずる見解を述べるだけだが、③まで、自分の好みに従つてくれるとは夢にも思つてゐない(Eの至大化)。自分の歌學では、歌の雅俗といふ審美的判斷と、歌の傳統の本流支流といふ歴史的意識とは、同じものだ〔とは即ち『歌の美しさがわが物となるとは, 歌の歴史がわが物になるといふ事』〕。彼はさう言ひたいのだ」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①今の世(物:場 C‘)②此の道(物:場 C‘)③和歌(物:場 C‘)④今の人情(物:場 C‘)⑤古の歌(物:場 C‘)⑥古の人の詠じたる歌(物:場 C‘)⇒からの關係:『①にて②にたずさはり、③を心がくる者は、』「⑦:『先ず④(實の心)にしたがひて、いつはりかざりて(歌の實)なりとも、隨分⑤をまなび、⑥の如く(歌の實)に、よまむよまむ(歌の實)と心がくれば』」(D1の至大化)⇒「⑧:心が化せられて」(⑦的概念F)⇒E:『その中におのづから、平生見聞する古歌古書に⑧(歌の實)、古人のやうなる情態(實の心?)にも、うつり化するもの也』〔『これ和歌の功徳(歌の實)によりて、④も、よく化すると云ふもの也』と同意か?〕(『あしわけ小舟』)」(⑧への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):④⑤への適應正常。 關係論:①古の歌(物:場 C‘)②徳(物:場 C‘)⇒からの關係:『これ何ぞなれば、かの①のまねをして、かざりつくりて(歌の實)、』「③:『よみならひ、見ならひたる(歌の實)、その②ならずや』」(D1の至大化)⇒「④:我性情(實の心)」(③的概念F)⇒E:『これ和歌の功徳(歌の實)によりて、④も、よく化すると云ふもの也」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①今(場 C‘)②いつはり多き情(物:場 C‘)③むかしの人(物:場 C‘)④古の人(物:場 C‘)⇒からの關係:『⑦が教ふるは、①の②(實の心)のままに、』「⑤:『その情(實の心)にて、③のまねをしてよみならひて(歌の實)、さて、④のやうに、自然に化する(歌の實)也』」(D1の至大化)⇒「⑥:惡(にくみ)ながらの情」(⑤的對立概念F)⇒E:『今の人情のいつはり多きを惡(にくみ)ながら、その⑥を、ありのままによめ(Eの至小化)とは、これ大なる氷炭の違ひ(Eの至大化)なり』」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦予(宣長△枠):①②への適應正常。 |
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P206《もし、歌人(物:場 C‘)が歌學者(物:場 C‘)としての明瞭な歴史意識(物:場 C‘)を持つならば、詠歌(物:場 C‘)とは、歌の傳統(物:場 C‘)の流れの内部の出來事であり、これ(⑤)から逸脱は出來ない事を認めざるを得まい。『今の人情(實の心)にしたがひて、いつはりかざりて(歌の實)なりとも、隨分古の歌をまな』ぶべき(歌の實)である。現在に生れ變はらうと希つてゐる過去の資源に出會はうと、道を開いて置かなければ、④の未來に向かふ道も閉ざされるだらう。この考へは傳統主義とは言へる》 關係論:①歌(物:場 C‘)②人情につれて變易(物:場 C‘)③『自然の理』(物:場 C‘)⇒からの關係:①が②するのは③と呼んでいいほど、誰にも解り切つた事。「④:變易を變易として、率直に在りのままに受け容れる事が大變難しい(D1の至小化)」⇒「⑤:僞り飾る」(④的概念F)⇒E:①を論ずる人々は、變易(②)に冠せた⑤といふ言葉〔とは『今の人情(②)にしたがひて、いつはりかざりてなりとも、隨分古の歌をまな』ぶべき〕に知らぬまに躓き、躓いて知らぬ間に、變易の外側に立つて〔とは『今の人情のいつはり多きを惡(にくみ)ながら、その(惡(にくみ)ながらの)情を、ありのままによめ』と言ふ事〕、これ(⑤)を惡んでゐる」(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒宣長(△枠):①②③への適應正常。 關係論:①歌人(物:場 C‘)②歌學者(物:場 C‘)③歴史意識(物:場 C‘)④詠歌(物:場 C‘)⑤歌の傳統(物:場 C‘)⇒からの關係:もし、①が②としての明瞭な③を持つならば、④とは、⑤の流れの内部の出來事であり、「⑥:これ(⑤)から逸脱は出來ない事を認めざるを得まい」(D1の至大化)⇒「⑦:『いつはりかざる』風」(⑥的對立概念F)⇒E:今日の④を⑦と言ひたいのなら、言つてもよい。それなら、『今の人情(實の心)にしたがひて、いつはりかざりて(歌の實)なりとも、隨分古の歌をまな』ぶべき(歌の實)である。現在に生れ變はらうと希つてゐる過去の資源に出會はうと、道を開いて置かなければ、④の未來に向かふ道も閉ざされるだらう。この考へは傳統主義とは言へる」(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①②への適應正常。 |
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P207《歌の自律性(歌の實)(物:場 C‘)と、人の心(實の心)(物:場 C‘)が深い交渉を持つなら、心(物:場 C‘)は、知らぬ間に、歌に化せられる(歌の實)(物:場 C‘)といふ、さういふ歌(物:場 C‘)固有の價値(歌の實)、或は働きの問題が、宣長の歌學の問題(物:場 C‘)のである》 關係論:①古への歌(物:場 C‘)②徳(物:場 C‘)⇒からの關係:『①のまねをして、「③:かざりつくりて(歌の實)、よみならひ、見ならひたる(歌の實)、その②ならずや』」(D1の至大化)⇒「④:和歌の功徳」(③的概念F)⇒E:『これ④によりて、我性情も、よく化すると云ふもの也』。ここにはつきり見て取れるのは、④といふ⑤の考へだ」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①歌の自律性(物:場 C‘)②心(物:場 C‘)③歌に化せられる(物:場 C‘)④歌(物:場 C‘)⑤歌學の問題(物:場 C‘)⇒からの關係:①(歌の實)と、人の②(實の心)が深い交渉を持つなら、②は、「⑥:知らぬ間に、③といふ(歌の實)、さういふ④固有の價値(歌の實)、或は働きの問題が、⑧の⑤のである」(D1の至大化)⇒「⑦:性情(實の心)を化する」(⑥的概念F)⇒E:⑧は、④の目的は、⑦にあるとは考へてはゐない。④は④である事で充分なものだ」(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧宣長(△枠):①②への適應正常。 |
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P207《歌(物:場 C‘)は言辭(言葉遣ひ:歌の實)の道(物:場 C‘)であつて、性情の道(實の心)(物:場 C‘)ではない、といふはつきりとした宣長の言葉。即ち、私達の現實の性情(實の心)は、變易して消滅する他はないが、この消滅の代償として現れた歌(變易としての歌:歌の實)は、言はば別種の生(『質の異なる秩序』)を享け、死ぬ事はない。『心におもふ事』〔實の心〕(物:場 C‘)は、これを『ほどよくいひつづくる〔歌の實〕』事によつて死に、歌(歌の實)となつて生れ變る。 もし『心におもふ事(實の心)を、ほどよくいひつづくる(歌の實)』詠歌の手續きが、正常に踏まれ(D1の至大化)、詠歌が成功するなら、誕生したその歌の姿は、『まことの思ふ事(まことの實の心:『妄念・散亂した心』にあらず)を、ありのままによむ(歌の實)と云ものになる也』、と宣長は言ふ。彼は、歌の味はひ、歌の功徳(歌の實)以外の事〔性情(實の心)を化する〕を語つてゐるのではない》 關係論:①歌(物:場 C‘)②言辭(言葉遣ひ:歌の實)の道(物:場 C‘)③性情の道(實の心)(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②であつて「④:③ではない、といふはつきりとした⑥の言葉と受け取らねばならない」(D1の至大化)⇒「⑤:歌の變易(歌の實)」(④的對立概念F)⇒E:①は『人情〔實の心〕風俗につれて、變易する』が、⑤は、人情〔實の心〕風俗の變易の寫しではあるまい。前者(⑤)を後者(人情〔實の心〕風俗の變易)に還元して了ふ事は出來ない。私達の現實の性情(實の心)は、變易して消滅する他はないが、この消滅の代償として現れた①(變易の歌〔歌の實〕)は、言はば別種の生(『質の異なる秩序』:歌の實)を享け、死ぬ事はないだらう」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①②への適應正常。 關係論:①『心におもふ事(實の心)』(物:場 C‘)②歌(物:場 C‘)⇒からの關係:①は、これ(①)を「③:『ほどよくいひつづくる(歌の實)』事によつて死に、②となつて生れ變る(歌の實)」(D1の至大化)⇒「④:歌の功徳」(③的概念F)⇒E:④は、勿論②の誕生と一緒であるから、①のうちに在る筈はない(Eの至大化)」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①②への適應正常。 關係論:①『心におもふ事』〔實の心〕(物:場 C‘)②詠歌(物:場 C‘)⇒からの關係:⑤はかう言つてゐる事になる。もし『①を、ほどよくいひつづくる〔歌の實〕』②の手續き〔歌の實〕が、「③:正常に踏まれ(D1の至大化)、②が成功するなら」(D1の至大化)⇒「④:歌の姿」(③的概念F)⇒E:誕生したその④は、『まことの思ふ事(まことの實の心:『妄念・散亂した心』にあらず)を、ありのままによむ(歌の實)と云ものになる也』と。彼は、歌の味はひ、歌の功徳〔歌の實〕以外の事(性情を化する)を語つてゐるのではない」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①②への適應正常。 |
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P209《宣長には、難問が露はな形〔即ち『只意にまかすべし』(歌の實)〕で、見えてゐた。とは、 ・・・『よき歌をよまむと思ふ心(實の心)より、詞を選び(歌の實)、意をまふけて〔『只意にまかせて』(歌の實)〕、かざる(『面白くかざる』:歌の實)ゆへに、實(實の心:『歌をよまむと思ふ心』)をうしなふ事ある也。宣長の考への重點は、實の心(『歌をよまむと思ふ心』)と歌の實(『歌のよしあし』に關する實)とは、質の異なる秩序に屬し、兩者は直に連續してはゐないといふところにある。歌の實とは、飽くまでも『歌のよしあし』に關する實であつて、實の心(『歌をよまむと思ふ心』)の側から照らせば、忽ち僞りと變じて了ふといふその事〔即ち『かざる(歌の實)ゆへに、實(實の心:『歌をよまむと思ふ心』)をうしなふ事』〕が示すやうに、既知の實の心(『歌をよまむと思ふ心』)の側からは、説明のつかぬ新しい質なのである。歌には歌の道があると、一應解つたやうな口の利き方をしてゐる人々にも、實は(此處が)解つてゐない》 關係論:①『あしわけ小舟』(物:場 C‘)②難解な性質(物:場 C‘)⇒からの關係:①を書き始めようとして、先ず、⑥は、「③:この②(歌の味はひ・歌の功徳)に直面した」(D1の至大化)⇒「④:只その意(歌の實)」(③的概念F)⇒E:詠歌は、詠歌以外の何を目當てとするものではない。『④にしたがふてよむ(Eの至大化)が歌の道也。姦邪の心(F)にてよまば、姦邪の歌をよむべし(Eの至大化)。(好色・仁義同樣:中略)。ただただ歌は、一偏(F)にかたよれる(Eの至小化)ものにてはなきなり』」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):②への適應正常。 關係論:①實情〔實の心〕(物:場 C‘)②意〔歌の實〕(物:場 C‘)⇒からの關係:『①をあらはさんとおもはば、①をよむべし。いつはりをいはむとおもはば、いつはりをよむべし。(中略)「③:只②にまかすべし。これすなはち①也。祕すべし祕すべし』」(D1の至大化)⇒「④:難問が露はな形」(③的概念F)⇒E:⑤には、④〔即ち『只②にまかすべし』(歌の實))〕で、見えてゐた。避けて通る事は出來ないし、手際のいい囘答は拒絶されてゐる。『祕すべし祕すべし』とは、問題に、言はば當つて砕ける他はない、といふ彼の態度を示す。この態度から、磨かれぬ寶石のやうな言葉が、ばらまかれて行く」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①②への適應正常。 關係論:①『よき』(物:場 C‘)②すぐれたる(物:場 C‘)③『歌の最極無上の所』(物:場 C‘)④歌のよしあし(物:場 C‘)⑤詞(物:場 C‘)⑥意(物:場 C‘)⇒からの關係:『①が中にも、①を選び、②なかにも②歌を、よみいでんとする(歌の實)が、③也。④をいはぬ時は、論ずる事もなく、學ぶこともいらぬ也。「⑦:①歌をよまむと思ふ心(實の心)より、⑤を選び(歌の實)、⑥をまふけて(歌の實『只意にまかせて』)、かざる(『面白くかざる』:歌の實)ゆへに、實(實の心:『歌をよまむと思ふ心』)をうしなふ事ある也」(D1の至大化)⇒「⑧:質の異なる秩序」(⑦的概念F)⇒E:⑨の考への重點は、實の心(『歌をよまむと思ふ心』)と歌の實(『歌のよしあし』に關する實)とは、⑧に屬し、兩者は直に連續してはゐないといふところにある。歌の實とは、飽くまでも『歌のよしあし』に關する實であつて、實の心(『歌をよまむと思ふ心』)の側から照らせば、忽ち僞りと變じて了ふといふその事〔即ち『かざる(歌の實)ゆへに、實(實の心:『歌をよまむと思ふ心』)をうしなふ事』〕が示すやうに、既知の實の心(『歌をよまむと思ふ心』)の側からは、説明のつかぬ新しい質(歌の實)である」(⑧への距離獲得:Eの至大化)⇒⑨宣長(△枠):①②③への適應正常。 關係論:①詠歌の最極無上(物:場 C‘)②言語表現の世界(物:場 C‘)③歌人(物:場 C‘)④秀歌(物:場 C‘)⇒からの關係:①とする所は、自足した②を創り出すところにある。この世界(②)の魅力とは、この世界の誕生とともに創り出された、「⑤:歌の實(『歌のよしあし』に關する實)に他ならないのなら、③が④を得ん(D1の至大化)として、僞りも感受して努力(歌の實:D1の至大化)するのは當然の事」(D1の至大化)⇒「⑥:歌の道」(⑤的對立概念F)⇒E:この當然な事が、歌には⑥があると、一應解つたやうな口の利き方をしてゐる⑦にも、實は解つてゐない〔とは「僞りも感受して努力」も歌の實であり、『歌をよまむと思ふ心』(實の心)の側からは、説明のつかぬ新しい質(歌の實)、なるを解つてゐないと言ふ事〕」(⑥への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑦人々⑧宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①『和歌は言辭(言葉遣ひ)の道也』(物:場 C‘)②言語活動の粋(物:場 C‘)③歌(物:場 C‘)④言語の最大の機能(物:場 C‘)⑤創造的な表現力(物:場 C‘)⇒からの關係:⑧の①といふ言葉には、凡そ②を成すものは③だといふ⑧の確信(D1の至大化)がある。「⑥:④は、その⑤にあるといふ意識がある」(D1の至大化)⇒「⑦:言葉の裏側」(⑥的概念F)⇒E:それ(創造的な表現力にあるといふ意識)が、『つねの言語さへ、思ふとほり、ありのままには、いはぬもの也』といふ⑦にじつと据つてゐると見てよい」(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P210《詠歌にあつては、『ことば(即ち:歌の實)第一なり』といふ、宣長の考へは大變強い(詳細:宣長本文P209參照)。『思ふ心(實の心:『歌をよまむと思ふ心』)ありて後、うたよまむ(歌の實)』とは、誰の眼にも、詠歌の『順道』なのであり、古は『順道』がおのづから行はれてゐたから、『情〔思ふ心・實の心『歌をよまむと思ふ心』〕は自然になれば、もとむる事なし。只詞(歌の實)をもとむ』といふ事も、當り前な事だつた。何も特に『ことば(即ち:歌の實)第一なり』と教へる必要はなかつた。ところが詠歌の意識が複雑になり、『中古以來の歌は、〔情(思ふ心・實の心)辭(歌の實)〕ともにもとむ』といふ、面倒な事(即ち『只詞(歌の實)をもとむ』からの變化)になつた。しかし實情は、先ず題(歌の實)によつて情(思ふ心・實の心)を求めるといふ迂路を取るやうになつたまでの話。詠歌の歴史の變易を、變易として素直に受け取る〔とは即ち『詠歌の意識が複雑になり、中古以來の歌は、情辭〔(思ふ心・實の心)と(歌の實)〕ともにもとむといふ、面倒な事(『只詞(歌の實)をもとむ』からの變化)になつた』と捕らへる〕なら、詠歌の順道が分裂したからと言つて逆にはならぬ。『ことば(歌の實)第一なり』の鐵則は崩れないと悟るであらう。『情〔思ふ心・實の心『歌をよまむと思ふ心』〕あさけれども、よき歌多し。詞(歌の實)惡しくして、よき歌はかつてなき也』 》 關係論:①詠歌(物:場 C‘)②『ことば(即ち:歌の實)第一なり』(物:場 C‘)⇒からの關係:①にあつては、②といふ⑤の「③:考へは大變強い(詳細:宣長本文P209參照)」(D1の至大化)⇒「④:詠歌の『順道』」(③的概念F)⇒E:『思ふ心(實の心:『歌をよまむと思ふ心』)ありて後、うたよまむ(歌の實)』とは、誰の眼にも、④なのであり、古は『順道』がおのづから行はれてゐたから、『情〔思ふ心・實の心『歌をよまむと思ふ心』〕は自然になれば、もとむる事なし。只詞(歌の實)をもとむ』といふ事も、當り前な事だつた。何も特に『ことば(即ち:歌の實)第一なり』と教へる必要はなかつた」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):②への適應正常。 關係論:①詠歌の意識(物:場 C‘)②中古以來の歌(物:場 C‘)③〔情(思ふ心・實の心)辭(歌の實)〕(物:場 C‘)⇒からの關係:ところが①が複雑になり『②は、③ともにもとむ』といふ「④:面倒な事(『只詞(歌の實)をもとむ』からの變化)になつた」(D1の至小化)⇒「⑤:題(歌の實)」(④的概念F)⇒E:先ず⑤によつて情(思ふ心・實の心)を求めるといふ迂路を取る(Eの至小化)やうになつたまでの話だ。惡いのは、題詠の習慣化で、題(歌の實)(F)が與へられれば、⑥は情(思ふ心・實の心『歌をよまむと思ふ心』)を求める手間を省く(Eの至小化)樣になつた」(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥歌人等:⑦宣長曰く(△枠):①②への適應正常。 關係論:①先達(物:場 C‘)②情〔思ふ心・實の心『歌をよまむと思ふ心』〕(物:場 C‘)③詞〔『ことば(歌の實)第一なり』〕(物:場 C‘)⇒からの關係:そこで『①の、専ら②を先として、③を次ぎにせよ(即ち、主客顚倒)と、深く戒められたる也』。「④:つまり教への方も逆になつて了つた」(D1の至小化)⇒「⑤:詠歌の歴史の變易」(④的概念F)⇒E:しかし、⑤を、變易として素直に受け取る〔とは即ち『詠歌の意識が複雑になり、中古以來の歌は、情辭〔(思ふ心・實の心)と(歌の實)〕ともにもとむといふ、面倒な事(『只詞(歌の實)をもとむ』からの變化)になつた』と捕らへる〕なら、詠歌の順道が分裂したからと言つて逆にはならぬ。『ことば(歌の實)第一なり』の鐵則は崩れないと悟るであらう。『情〔思ふ心・實の心『歌をよまむと思ふ心』〕あさけれども、よき歌多し。詞(歌の實)惡しくして、よき歌はかつてなき也』」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長曰く(△枠):②③への適應正常。 |
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P210《宣長は、歌の表現性とか表現力(即ち、歌の實)とかいふ言葉は使つてゐない。『とかく『思ふ心〔情・實の心『歌をよまむと思ふ心』〕を、ほどよくいひととのふる(歌の實)』事と言ふのだが、『ことば第一なり』(歌の實)といふ考へをつき詰めて行くと、ここで、〔『とかく思ふ心(情・實の心・歌をよまむと思ふ心)を、ほどよくいひととのふる(歌の實)』に對するに〕、もつと強い言葉(P211最終「亂れる心〔情・實の心『歌をよまむと思ふ心』〕を『しずむ』『すます』『さだめる』『はらす』(即ち、歌の實)」)が必要になつて來るのである(P210宣長原文)。『和歌の第一義は、心〔情・思ふ心・實の心『歌をよまむと思ふ心』〕をしづめて(歌の實)、妄念(實の心の別名)をやむるにあり』『妄念やまざれば、歌は出來ぬなり』と宣長は言ふ。そして『妄念をやむる』爲の『大口訣(大奥義)』を披瀝する(以下抜粋及び本文P210參照)》 關係論:①歌の表現性とか表現力〔歌の實(物:場 C‘)〕②『思ふ心〔情・實の心『歌をよまむと思ふ心』〕(物:場 C‘)③『ことば第一なり』(歌の實)(物:場 C‘)⇒からの關係:⑥は①とかいふ言葉は使つてゐない。『とかく②を、ほどよくいひととのふる(歌の實)』事と言ふのだが、③といふ考へをつき詰めて行くと、「④:ここで、(『とかく②を、ほどよくいひととのふる(歌の實)』に對するに)、もつと強い言葉(P211最終「亂れる心〔情・實の心『歌をよまむと思ふ心』〕を『しずむ』『すます』『さだめる』『はらす』(即ち、歌の實)」)が必要になつて來るのである(P210宣長原文)」(D1の至大化)⇒「⑤:『妄念』」(④的對立概念F)⇒E:『詠歌の第一義は、心(情・思ふ心・實の心『歌をよまむと思ふ心』)をしずめて(歌の實)、⑤をやむる(Eの至大化)にあり』(P210宣長原文)」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①『和歌の第一義』(物:場 C‘)②心〔情・思ふ心・實の心『歌をよまむと思ふ心』〕(物:場 C‘)③妄念(物:場 C‘)④大口訣(大奥義)(物:場 C‘)⇒からの關係:『①は②をしづめて(歌の實)、③をやむるにあり』と⑦は言ふ。以下簡略『とかく③がおこりて、②が散亂するなり。それ(②)をしづめる(歌の實)に、④あり。③やまざれば、歌は出來ぬなり。(中略)『そのよまむと思ふ歌の題(歌の實)などに、心(②)をつけ、「⑤:或は趣向のよりどころ(歌の實)、辭の端(歌の實)、縁語(歌の實)などにても、少しにても、手がかり(歌の實)いできなば、それ(手がかり:歌の實)をはしとして、とりはなさぬ(歌の實)やうに、心〔情・思ふ心・實の心『歌をよまむと思ふ心』〕のうちに、(手がかり:歌の實を)うかめ置て、とかくして、思ひ案ずれば(歌の實)、おのづからこれ(歌の實)へ心〔情・思ふ心・實の心『歌をよまむと思ふ心』〕がとどまりて、次第に妄想③はしりぞきゆきて、心〔情・思ふ心・實の心『歌をよまむと思ふ心』〕しづまり(歌の實)、よく案じらるる(歌の實)もの也』」(D1の至大化)⇒「⑥:情詞(實の心+歌の實)」(⑤的概念F)⇒E:⑥につきて、すこしてがかり(歌の實)出來なば、それ(てがかり:歌の實)につきて、案じゆけば(歌の實)、をのづから心〔情・思ふ心・實の心『歌をよまむと思ふ心』〕は定まる(歌の實)ものとしるべし。とかく歌は心〔情・思ふ心・實の心『歌をよまむと思ふ心』〕さはがしくては、よまれぬものなり」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):①②③への適應正常。 |
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P211《歌人等の反省(歌の實)が徹底してゐれば、言語表現に、本來備つてゐるとしか考へられぬ、謎めいた力(創造的な表現力、即ち、歌の實『質の異なる秩序』)が露はに見えて來る筈だ。まだ『歌の實』といふ表現性を得ない『實の心(情・思ふ心・『歌をよまむと思ふ心』)の單なる事實性などは、敢へて『妄念』とか『散亂した心』とか呼ぶがよろしい、と宣長は言ふのである。言葉といふ『手がかり』(歌の實)がなければ、心(情・思ふ心・『歌をよまむと思ふ心』)は心で、どう始末のつけようもないものだ。思ふ心〔情・實の心『歌をよまむと思ふ心』〕を『ほどよく言ふ(歌の實)』では足りない。一歩すすめて、亂れる心〔思ふ心・情・實の心『歌をよまむと思ふ心』〕を『しずむ』『すます』『定むる』(即ち、歌の實)と言ふべきだ。『石上私淑言』では、『むねにせまるかなしさ(實の心)を、はらす(歌の實)』と、同じ意味合で『はらす(歌の實)』といふ言葉が使はれてゐる。悲しみ(實の心)を詠む(歌の實)とは、悲しみ(實の心)を晴らす(歌の實)事だ。悲しみ(實の心)が反省(歌の實)され、見定め(歌の實)なければ、悲しみ(實の心)は晴れまい。言葉の『手がかり』(歌の實)がなくて、どうしてそれが人間に出來よう》 關係論:①『大口訣(大奥義)』(物:場 C‘)②意(物:場 C‘)③言語意識(物:場 C‘)⇒からの關係:(⑦が、特に①といふ言葉が使ひたかつた②を推察してみれば、彼が着目してゐるところは、⑥の「④:③の不徹底(D1の至大化)にあつた事は明らか」(D1の至大化)⇒「⑤:謎めいた力」(④的對立概念F)⇒E:反省(歌の實)が徹底してゐれば、言語表現に、本來備つてゐるとしか考へられぬ⑤(即ち、歌の實『質の異なる秩序』)が露はに見えて來る筈だ〔參照:以下及びP209『宣長には、難問が露はな形(即ち『意をまふけて:只意にまかすべし』(歌の實)〕で、見えてゐた』〕。⑦はさう考へる。まだ『歌の實』といふ表現性を得ない『實の心(情・思ふ心・『歌をよまむと思ふ心』)の單なる事實性などは、敢へて『妄念』とか『散亂した心』とか呼ぶがよろしい、と⑦は言ふのである」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥歌人等⑦宣長(△枠):①への適應正常。 ~~~以下參照~~~ P209『よき歌をよまむと思ふ心(實の心)より、詞を選び(歌の實)、意をまふけて〔『只意にまかせて』(歌の實)〕、かざる(『面白くかざる』:歌の實)ゆへに、實(實の心:『歌をよまむと思ふ心』)をうしなふ事ある也』。 ~~~ 關係論:①情〔心・思ふ心・實の心『歌をよまむと思ふ心』〕(物:場 C‘)②言葉といふ『手がかり』(歌の實)(物:場 C‘)⇒からの關係:『①は自然也』と言つただけでは足りない。『自然と求めずして在る心〔情・思ふ心・實の心『歌をよまむと思ふ心』〕は、そのままでは『心散亂して、妄念競ひおこ』る情態を抜けられるものではない。②がなければ、心は心で、どう始末のつけようもないものだ。思ふ心〔情・實の心『歌をよまむと思ふ心』〕を『ほどよく言ふ(歌の實)』では足りない。一歩すすめて、亂れる心〔思ふ心・情・實の心『歌をよまむと思ふ心』〕を『しずむ』『すます』『定むる』(即ち、歌の實)と言ふべきだ。『石上私淑言』では、『むねにせまるかなしさ(實の心)を、はらす(歌の實)』と、同じ意味合で『はらす(歌の實)』といふ言葉が使はれてゐる」(D1の至大化)⇒「④:悲しみ(實の心)を詠む(歌の實)」(③的概念F)⇒E:④とは、悲しみ(實の心)を晴らす(歌の實)事だ。悲しみ(實の心)が反省(歌の實)され、見定め(歌の實)なければ、悲しみ(實の心)は晴れまい。言葉の『手がかり』(歌の實)がなくて、どうしてそれが人間に出來よう」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒(△枠):①への適應正常。 關係論:①歌(物:場 C‘)②心〔情・思ふ心・實の心『歌をよまむと思ふ心』〕(物:場 C‘)⇒からの關係:『とかく①は、②さはがしくては、』「③:『よまれぬものなり』といふ言葉につづけて」(D1の至大化)⇒「④:つねの言語」(③的概念F)⇒E:假に⑤が『②さはがしくては、④さへなきものなり』(とは『②さはがしくては』、言語の『創造的な表現力』が④にさへも發揮されない:以下參照)と書いてゐたとしても、私は少しも驚かないだらう」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①②への適應正常。 ~~~以下參照~~~ P「まだ『歌の實』といふ表現性を得ない『實の心(情・思ふ心・歌をよまむと思ふ心)の單なる事實性などは、敢へて『妄念』とか『散亂した心』とか呼ぶがよろしい」。 P209「それ(言語の最大の機能は、その創造的な表現力にあるといふ意識)が、『つねの言語さへ、思ふとほり、ありのままには、いはぬもの也』といふ言葉の裏側にじつと据つてゐると見てよい」。 |
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〔二十一章〕主題:(歌の美しさがわが物となるとは、歌の歴史がわが物になるといふ事) 關係論:『新古今』①歌(物:場 C‘)②世の風(物:場 C‘)③人の風(物:場 C‘)④巨きな流れ(物:場 C‘)⑤性格(物:場 C‘)⑥姿(物:場 C‘)⇒からの關係:⑨にとつて①を精しく味はふといふ事は、「⑦:『②と③と経緯をなして、うつりもてゆく』、その④のうちにあつて、一首一首掛け代へのない⑤を現じてゐる、その⑥がいよいよよく見えて來る(D1の至大化)といふ事に他ならない」(D1の至大化)⇒「⑧:歌の變易」(⑦的概念F)⇒E:「歌の巧拙ばかりを言ふ狭い了簡を捨てて、廣く⑧を味はふ道を徹底的に歩いてみる事が大事」(⑧への距離獲得:Eの至大化)⇒⑨宣長(△枠):④⑥への適應正常。 關係論:『新古今』①歌(物:場 C‘)②面倒な經驗(物:場 C‘)③歌の美しさ(物:場 C‘)⇒からの關係:言はば①に強ひられた「④:この②(歴史感覺を錬磨)を重ねてゐるうちに、③がわが物となる」(D1の至大化)⇒「⑤:歌の歴史」(④的概念F)⇒E:③がわが物となるとは、⑤がわが物になるといふその事だと悟る〔即ち『此の道(歌道)も世世をへて、新古今に至つて全備』『此道の至極せる處』だと悟る〕に至つたと語る」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):③への適應正常。 關係論:『新古今』①『新古今』(物:場 C‘)②情と詞とが均衡(物:場 C‘)③萬葉の幸運な時(物:場 C‘)⇒からの關係:⑥が、①を『此道の至極せる處』と言つた意味は、特に求めずして、②を得てゐた③が過ぎると、「④:詠歌は次第に意識化し、情詞ともに意識的に求めねばならぬ頂きに登りつめた事を言ふ。登りつめたなら下る他はない」(D1の至大化)⇒「⑤:姿」(④的概念F)⇒E:和歌史にたつた一度現れた、この⑤(『此道の至極せる處』)は越え難い(但し完全だと言ふのではない)」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:『新古今』①眞淵の『萬葉』尊重(物:場 C‘)②『新古今』輕蔑(物:場 C‘)③宣長の『新古今』尊重(物:場 C‘)④歌の傳統(物:場 C‘)⇒からの關係:もし①が②と離す事が出來ないと言へるなら、「⑤:③は、④の構造とか組織(D1の至大化)とか呼んでいいものと離す事が出來ない、と言つた方がよい」(D1の至大化)⇒「⑥:歌の自律的な表現性」(⑤的概念F)⇒E:⑥に關し⑦の意識が異常に濃密(Eの至大化)になつた一時期があつたといふ歴史事實(F)の體得(Eの至大化)が、⑧にあつては、歌の傳統の骨格を定めてゐる」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦歌人等⑧宣長(△枠):③④への適應正常。 關係論:『新古今』①和歌の歴史(物:場 C‘)②詠歌(物:場 C‘)③特殊な事件の連續體(物:場 C‘)⇒からの關係:①とは、②といふ一囘限りの③であり、その始まりも終りも定かならず、その發展の法則性も、到底明らかに摑む事が出來ない、「④:取り附く島もない、生まな歴史像と言へる」(D1の至小化)⇒「⑤:歌の傳統と言ふ像」(④的對立概念F)⇒E:④が、⑥による『新古今』の姿(「歌の自律的な表現性(F)に、歌人等の意識が異常に濃密(Eの至大化)」)の直知(Eの至大化)によつて、目標・意味(「發展の法則性」)が讀み取れる⑤(即ち「親しく附合へる人間のやうな面貌」)に變じた(Eの至大化)」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①への適應正常。 |
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以下は〔二十一章〕各項目纏め |
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P192《宣長の文の、あたかも再入門の誓詞の如き姿(物:場 C‘)を見て、これを率直に受容れ(D1の至大化)れば、眞淵にはもう餘計な事を思ふ必要はなかつた。意見の相違(相對:A’⇒A)よりももつと深いところ(無私B⇒C古典)で、學問の道(F)が、二人を結んでゐた(Eの至大化)。師弟は期せずして、それを互ひに確かめあつた事(Eの至大化)になる。これは立派な事だ》 關係論:①破門状(物:場 C‘)②『縣居大人(あがたいうし)の御前にのみ申せる詞』(物:場 C‘)③古文(物:場 C‘)⇒からの關係:①を受取つた⑤は、事情の一切を感じ取つたであらう。「③:彼は②と題する一文を、③で草して(原稿を書いて)送つた」(D1の至大化)⇒「④:作品」(③的概念F)⇒E:これは書簡ではない、むしろ④である。⑤は複雑な自己の心理などに、かかづらふ興味を全く持つてゐなかつた」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①再入門の誓詞の如き姿(物:場 C‘)②眞淵(物:場 C‘)⇒からの關係:⑤の文の、あたかも①を見て、「③:これを率直に受容れ(D1の至大化)れば、②にはもう餘計な事を思ふ必要はなかつた」(D1の至大化)⇒「④:學問の道」(③的概念F)⇒E:意見の相違(相對:A’⇒A)よりももつと深いところ(無私B⇒C古典)で、④が、二人を結んでゐた(Eの至大化)。師弟は期せずして、それを互ひに確かめあつた事(Eの至大化)になる。これは立派な事だ」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):②への適應正常。 |
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P195《眞淵は、契沖の道をよく知つてゐたが、宣長の樣に、わが目指す讀者は、わらはべであるとまで、契沖の道の考へを進めてはみなかつた。宣長は、自分の仕事(物:場 C‘)には、本質的に新しい性質(物:場 C‘)がある事を自覺してゐた(D1の至大化)》 關係論:①『草庵集(頓阿歌集)玉箒』(物:場 C‘)②眞淵からの詰問(物:場 C‘)⇒からの關係:①は⑤の最初の註解書。「③:對し②曰く『後世人の歌も學もわろきは、(野辺の高茅で)立所の低ければ也。(中略)頓阿など歌才有りといへど、かこみを出るほどの才なし』と」(D1の至小化)⇒「④:『野辺の高茅(たかがや)』」(③的概念F)⇒E:⑤はこの仕事(①)に自信があつた。④たる事が、何故いけないか。『こは、ものよみしらぬわらはべまで、聞とりやすかれとて也』」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①有名な歌集(草庵集)の註解(物:場 C‘)⇒からの關係:當時までに書かれてゐた①について、「②:④には氣に入らなかつた」(D1の至小化)⇒「③:契沖によつて開かれた道(②的對立概念F)⇒E:③、即ち、歌に直に接し、これを直に味はひ、その意を得ようとする道を行つた者がない。皆『事ありげに、あげつら』ふ解に偏してゐる」(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒④宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①『わろきかぎり』(物:場 C‘)②わらはべ(物:場 C‘)⇒からの關係:①を『選りい出、「③:辧へ明らめて、②の、迷はぬたつきとする事ぞ』と、宣長は言ふ」(D1の至大化)⇒「④:契沖の道」(③的概念F)⇒E:「⑤は④をよく知つてゐたが、わが目指す讀者は②であるとまで、④の考へを進めてはみなかつた」(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑤眞淵(△枠):②への適應異常。 關係論:①自分の仕事(物:場 C‘)②新しい性質⇒からの關係:⑤は①には、「③:本質的に②がある事を自覺してゐた」(D1の至大化)⇒「④:『今のならひ』」(③的對立概念F)⇒E:『おろかなる④に、迷はで(Eの至大化)、誠に歌よく見知られん人は、かならず肯きてん』と」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①②への適應正常。 |
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P196《平明な註釋(玉箒)は、歌の道は、近きにある事、足下にある事を納得して貰ふ捷径であらう。恐らくそれが宣長の仕事の中心動機を成してゐた考へである。『古今集遠鏡』の『遠鏡』とは現代譯の意味。宣長曰く『古今集の歌どもを、ことごとく、いまの世の俗言(さとびごと)に譯(うつ)せる』もの、と。宣長は『古今』に限らず、昔の家集の在來の註釋書に不滿を感じてゐた。その知的理解(歌の説明を詳しくする道)の弊風を破る爲に、歌をよく見る道を教へねばならぬ。直かに『遠(とほ)めがね(現代譯)』を、讀者に與へて、歌を見て貰ふ事にする。歌を説かず、歌を譯(うつ)すのである。『遠き代の言の葉』が、使ひ慣れた京わたりの言葉に、譯(うつ)されたのが目に見えれば、『詞のいきほひ、てにをはのはたらきなど、こまかなる趣』が、『物の味(F)を、みづからなめて、しれる(Eの至大化)がごとく』に成る、と》 關係論:①歌道の因習(物:場 C‘)⇒からの關係:眞淵に限らず、「②:當時の識者達の眼は、①に皆敵對してゐた」(D1の至大化)⇒「③:歌の現状」(②的概念F)⇒E:④の見るところは違つてゐた。舊套(傳授・堂上地下の類)を脱し新氣運を望むのはよい。しかし、議論や希望で③は救ふ事は出來まい」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①『草庵集(頓阿歌集)玉箒』(物:場 C‘)②當り前な考へ(物:場 C‘)③歌道(物:場 C‘)④頓阿の歌(物:場 C‘)⇒からの關係:①を書く⑦には、②があつた。「⑤:③の『衰へたる中にて、優れたる④は、衰へたる現歌壇にとつて、一番手近な有効な詠歌の手本になる筈』」(D1の至大化)⇒「⑥:平明な註釋」(⑤的概念F)⇒E:④は所謂『正風』であつて、平明暢達。その⑥は、歌の道は、近きにある事、足下にある事を納得して貰ふ捷径であらう。恐らくそれが⑦の仕事の中心動機を成してゐた考へである」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):③④への適應正常。 關係論:①現實派或いは實際家(物:場 C‘)②仕事(物:場 C‘)⇒からの關係:⑤の①たる面目は、早く(『あしわけ小舟』)からあらはれて、「③:彼の②を貫いてゐる」(D1の至大化)⇒「④:『古今集遠鏡』(③的概念F)⇒E:『古事記傳』も殆ど完成した頃、④が成つた事も、注目すべき事。『古今』の影に隱れてゐた『新古今』を明るみに出した『美濃屋づと』より、⑤の思想を解する上で、寧ろ大事な著作」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①『遠鏡』(物:場 C‘)⇒からの關係:①とは現代譯の意味。④曰く、①は『古今集の歌どもを、ことごとく、いまの世の俗言(さとびごと)に譯(うつ)せる』ものと。「②:宣長は『古今』に限らず、昔の家集の在來の註釋書に不滿を感じてゐた」(D1の至大化)⇒「③:知的理解」(②的概念F)⇒E:註釋は進歩したが、それは歌の情趣の③の進歩に見合つてゐるに過ぎない。『物のあじはひを、甘しからしと、人のかたるを聞』き、それで歌が解つたと言つてゐるやうなもの」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①弊風(物:場 C‘)⇒からの關係:人のあまり氣附かぬ①を破る爲には「②:思ひ切つた處置を取らねばならぬ」(D1の至大化)⇒「③歌をよく見る道」(②的概念F)⇒E:歌の説明を詳しくする道を捨てて、③を教へねばならぬ。直かに『遠(とほ)めがね』を、讀者に與へて、歌を見て貰ふ事にする。歌を説かず、歌を譯(うつ)すのである」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①『遠き代の言の葉』(物:場 C‘)②京わたりの言葉(物:場 C‘)⇒からの關係:『①の、くれなひ深き心ばへを』、「③:使ひ慣れた②に、譯(うつ)されたのが目に見えれば」(D1の至大化)⇒「④:『物の味』」(③的概念F)⇒E:『詞のいきほひ、てにをはのはたらきなど、こまかなる趣』が、『④を、みづからなめて、しれる(Eの至大化)がごとく』であらう、との考へ」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①『うひ學び(初學)』(物:場 C‘)②『ものよみしらぬわらはべ』(物:場 C‘)⇒からの關係:①の爲、②の爲に、「③:大學者(△枠)が圓熟した學才を傾けた」(D1の至大化)⇒「④:例『巻十九:旋頭歌』」(③的概念F)⇒E:④はまことに面白い事だ」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①②への適應正常。 |
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P198《歌の歴史性(物:場 C‘)の強調。『歌が人情風俗につれて、變易する(かはる)』のは、まことに自然。『この人の情(物:場 C‘)に連るると云ふ事は、萬代不易(即ち歌の歴史性)の和歌の本然也と知るべし』(『あしわけ小舟』)と言ふ。歌を味はふ(物:場 C‘)事と、歴史感覺(物:場 C‘)とでも呼ぶべきものを錬磨する事とは、全く同じ事。歌に強ひられた、この面倒な經驗(歴史感覺の錬磨)を重ねてゐるうちに、歌の美しさ(物:場 C‘)がわが物となる(D1の至大化)とは、歌の歴史(F)〔即ち『此の道(歌道)も世世をへて、新古今に至つて全備・此道の至極せる處』〕がわが物になる(Eの至大化)といふその事だと悟るに至つたと、宣長は語る》 關係論:①歌の歴史性(物:場 C‘)②歌(物:場 C‘)③人情風俗(物:場 C‘)④萬代(C’)⑤和歌の本然(物:場 C‘)⑥人の情(物:場 C‘)⇒からの關係:①の強調。『②が③につれて、變易する(かはる)』のは、まことに自然。「⑦:『この⑥に連るると云ふ事は、④不易(D1の至大化)の⑤也と知るべし』(『あしわけ小舟』)」(D1の至大化)⇒「⑧:歌の風體」(⑦的概念F)⇒E:總じて、時代により、或は國々によつて異なる⑧は、はつきり定義できぬものだが、我々はこれを感じとつてはゐるのである」(⑧への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①⑤への適應正常。 關係論:①歌(物:場 C‘)②世の風(物:場 C‘)③人の風(物:場 C‘)④巨きな流れ(物:場 C‘)⑤性格(物:場 C‘)⑥姿(物:場 C‘)⇒からの關係:⑨にとつて①を精しく味はふといふ事は、「⑦:『②と③と経緯をなして、うつりもてゆく』、その④のうちにあつて、一首一首掛け代へのない⑤を現じてゐる、その⑥がいよいよよく見えて來る(D1の至大化)といふ事に他ならない」(D1の至大化)⇒「⑧:歌の變易」(⑦的概念F)⇒E:「歌の巧拙ばかりを言ふ狭い了簡を捨てて、廣く⑧を味はふ道を徹底的に歩いてみる事が大事」(⑧への距離獲得:Eの至大化)⇒⑨宣長(△枠):④⑥への適應正常。 關係論:①歌を味はふ(物:場 C‘)②歴史感覺(物:場 C‘)⇒からの關係:①事と、「③:②とでも呼ぶべきものを錬磨する事とは、全く同じ事」(D1の至大化)⇒「④:『えも言はれぬ變はりめ』」(③的概念F)⇒E:①とは、その多樣な姿一つ一つに直に附合ひ、その④を確かめる、といふ一と筋を行くこと」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①②への適應正常。 關係論:①歌(物:場 C‘)②面倒な經驗(物:場 C‘)③歌の美しさ(物:場 C‘)⇒からの關係:言はば①に強ひられた「④:この②(歴史感覺を錬磨)を重ねてゐるうちに、③がわが物となる」(D1の至大化)⇒「⑤:歌の歴史」(④的概念F)⇒E:とは、⑤〔即ち『此の道(歌道)も世世をへて、新古今に至つて全備』〕がわが物になるといふその事だと悟るに至つたと語る」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):③への適應正常。 |
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P198《宣長の斷定(即ち『後世の歌の善惡勝劣をみるに、新古今を的にして、此集の風に似たる程がよき歌なり』)は、『和歌の本然』(即ち『この人の情に連るると云ふ事は、萬代不易の和歌の本然也と知るべし』)といふ、眞淵には到底見られない歴史感覺〔とは、『歌の美しさ(物:場 C‘)がわが物となるとは、歌の歴史(F)即ち『此の道(歌道)も世世をへて、新古今に至つて全備』がわが物になる〕の上に立つてゐたからだ》 關係論:①『新古今集』(物:場 C‘)②眞淵の萬葉主義(物:場 C‘)③宣長の新古今主義(物:場 C‘)⇒からの關係:⑥は①を重んじた。②に對して③とよく言はれるが、それは當たらない。この⑥の斷定(『後世の歌の善惡勝劣をみるに、新古今を的にして、此集の風に似たる程がよき歌なり』)は、「④:『和歌の本然』(即ち『この人の情に連るると云ふ事は、萬代不易の和歌の本然也と知るべし』)といふ、眞淵には到底見られない歴史感覺〔とは、『歌の美しさ(物:場 C‘)がわが物となる(D1の至大化)とは、歌の歴史(F)がわが物になる』、即ち『此の道(歌道)も世世をへて、新古今に至つて全備(Eの至大化)』〕の上に立つてゐたからだ」(D1の至大化)⇒「⑤:『自然の理』『道理』」(④的概念F)⇒E:『歌の本然』とか⑤とか言つてみたりしてゐるが、これは、用語を概念上慎重に選ぶ興味などなかつただけ」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①萬の事(物:場 C‘)⇒からの關係:『凡そ①、何事も、「②:世世をへて全備する事也、聖人の教へなども、三代の聖人をへて、周に至て全備せる」(D1の至大化)⇒「③:此の道(歌道)」(②的概念F)⇒E:③も世世をへて、新古今に至つて全備したれば、此の上をかれこれ言ふは邪道也」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P199《歌の家筋を崇ぶ惡風は、いつたん生ずると、止まるところを知らない。『上手は貴賤を選ばず、所を嫌はず』といふ『心得やすき道理』も捨てられ、御傳授といふ『此道の大厄』が到來して、今日に至つた。そもそも、歌の傳統の基本性質とは、現在が過去を支へ、過去が現在に生きると言ふ、傳統を味識してゐる者にとつては、ごく當り前な心の經驗の事を言ふのである。『あしわけ小舟』の草稿のうちに、宣長の歴史觀・言語觀なりの發想が、既に明かな形で宿つてゐる》 關係論:①『衰への兆し』(物:場 C‘)②歌道(物:場 C‘)③家筋(物:場 C‘)⇒からの關係:⑥が言ふ①とは、②と③との「④:繋がりといふ考への兆しである」(D1の至小化)⇒「⑤:定家」(④的對立概念F)⇒E:⑤は家の傳へによつて、名人になつた人ではない。『身一つ』から『わが心より』歌を生んだ『自然の歌仙』であつた。が、『⑦は、その道理に暗』く、②の父子相傳といふ、②自體には何の關係もない偶然事ばかりに、眼を附けるやうになつた」(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑦世の人⑥宣長『あしわけ小舟』(△枠):①への適應正常。 關係論:①歌の家筋(物:場 C‘)②惡風(物:場 C‘)⇒からの關係:①を崇ぶ②は、「③:いつたん生ずると、止まるところを知らない」(D1の至小化)⇒「④:御傳授」(③的概念F)⇒E:『上手は貴賤を選ばず、所を嫌はず』といふ『心得やすき道理』も捨てられ、④といふ『此道の大厄』が到來(Eの至小化)して、今日に至つた」(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒宣長『あしわけ小舟』(△枠):①への適應正常。 關係論:①歌の傳統の姿(物:場 C‘)⇒からの關係:上述で謂ふ①は、④にしてみれば直知(D1の至大化)といふ「②:簡明な形のものだつたに相違ないが、面倒は、その説明にあつた」(D1の至小化)⇒「③:傳統の基本性質」(②的概念F)⇒E:「③とは、現在が過去を支へ、過去が現在に生きると言ふ、傳統を味識してゐる者にとつては、ごく當り前な心の經驗の事を言ふ」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①現在(場 C‘)②過去(場 C‘)③傳統(物:場 C‘)⇒からの關係:①が②を支へ、②が①に「④:生きるとは、③を味識してゐる者にとつては、ごく當り前な心の經驗」(D1の至大化)⇒「⑤:基本性質」(④的概念F)⇒E:その樣な③の⑤さへ、説明を求められれば、窮する(Eの至小化)。③に關する知は、③と一體を成してゐるとも言へるからだ。そして、『あしわけ小舟』の草稿のうちに、⑥の歴史觀・言語觀なりの發想が、既に明かな形で宿つてゐる」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):③への適應正常。 |
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P200《萬葉の幸運な時「情と詞とが均衡」⇒詠歌は次第に意識化⇒情詞ともに意識的に探究⇒頂きに登りつめた『新古今』〔和歌史にたつた一度現れた姿(即ち『此道の至極せる處』)〕⇒その後は下落⇒『あまりに道の頂上へ、のぼりたるゆへに、(中略)大に古への心を失ひたる事多し、(中略)よまむよまむとするほどに、ことやう(異様)なる事も多し』(『あしわけ小舟』)》 關係論:①『新古今』(物:場 C‘)②情と詞とが均衡(物:場 C‘)③萬葉の幸運な時(物:場 C‘)⇒からの關係:⑥が、①を『此道の至極せる處』と言つた意味は、特に求めずして、②を得てゐた③が過ぎると、「④:詠歌は次第に意識化し、情詞ともに意識的に求めねばならぬ頂きに登りつめた事を言ふ。登りつめたなら下る他はない」(D1の至大化)⇒「⑤:姿」(④的概念F)⇒E:和歌史にたつた一度現れた、この⑤(『此道の至極せる處』)は越え難い(但し完全だと言ふのではない)」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①『歌の變易』(物:場 C‘)②歌の本然(物:場 C‘)③歌の完成完結(物:場 C‘)⇒からの關係:①だけが、②であるとする、⑥の「④:考へのなかに、③といふやうな考への入込む餘地はない」(D1の至大化)⇒「⑤:危險な場所」(④的概念F)⇒E:變易のうねりの頂きは、又⑤である。『あまりに道の頂上へ、のぼりたるゆへに、(中略)大に古への心を失ひたる事多し、(中略)よまむよまむとするほどに、ことやう(異様)なる事も多し』」(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥宣長:『あしわけ小舟』(△枠):①②への適應正常。 |
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P201《歌の自律的な表現性に關し、歌人等の意識が異常に濃密(即ち「詠歌は次第に意識化⇒情詞ともに意識的に探究」)になつた一時期(場 C‘)があつたといふ歴史事實(物:場 C‘)の體得(D1の至大化)が、宣長(△枠)にあつては、歌の傳統の骨格(物:場 C‘)を定めてゐる(D1の至大化)。 とは、つまり、その始まりも終りも定かならず、その發展の法則性も、到底明らかに摑む事が出來ない、取り附く島もない、生まな歴史像と言へる、和歌の歴史を、宣長は、『新古今』の姿(即ち「歌の自律的な表現性(F)に、歌人等(△枠)の意識が異常に濃密(Eの至大化)になつた」)の直知(Eの至大化)によつて、目標・意味(「發展の法則性」)が讀み取れる、「歌の傳統と言ふ像」(即ち「親しく附合へる人間のやうな面貌」)に變じたのである。しかし宣長は、『新古今』は、此時代の上手達の、あやしく得たるところ(D1の至大化)にて、詠歌の手本としては危險であると警告してゐる(『うひ山ぶみ』)》 關係論:①眞淵の『萬葉』尊重(物:場 C‘)②『新古今』輕蔑(物:場 C‘)③宣長の『新古今』尊重(物:場 C‘)④歌の傳統(物:場 C‘)⇒からの關係:もし①が②と離す事が出來ないと言へるなら、「⑤:③は、④の構造とか組織(D1の至大化)とか呼んでいいものと離す事が出來ない、と言つた方がよい」(D1の至大化)⇒「⑥:歌の自律的な表現性」(⑤的概念F)⇒E:⑥に關し⑦の意識が異常に濃密(Eの至大化)になつた一時期があつたといふ歴史事實(F)の體得(Eの至大化)が、⑧にあつては、④の骨格を定めてゐる(即ち、Eの至大化=D1の至大化)」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦歌人等⑧宣長(△枠):③④への適應正常。 關係論:①和歌の歴史(物:場 C‘)②詠歌(物:場 C‘)③特殊な事件の連續體(物:場 C‘)⇒からの關係:①とは、②といふ一囘限りの③であり、「④:その始まりも終りも定かならず、その發展の法則性も、到底明らかに摑む事が出來ない、取り附く島もない、生まな歴史像と言へる」(D1の至大化)⇒「⑤:歌の傳統と言ふ像」(④的對立概念F)⇒E:それが、⑥による『新古今』の姿(「歌の自律的な表現性(F)に、歌人等の意識が異常に濃密(Eの至大化)」)の直知(Eの至大化)によつて、目標・意味(「發展の法則性」)が讀み取れる⑤(即ち「親しく附合へる人間のやうな面貌」)に變じた(Eの至大化)」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①『新古今』(物:場 C‘)⇒からの關係:『①は此時代の上手達の、あやしく得たるところ(D1の至大化)にて、「②:さらに後の人の、おぼろげに、まねび得ベきところにはあらず(D1の至小化)、しひて、これをまねびなば、えもいはぬ漫ろ(すずろ:豫期しない)ごとに、なりぬべし』(うひ山ぶみ)」(D1の至小化)⇒「③詠歌の手本」(②的對立概念F)⇒E:(△枠)に、『新古今』に還れと言へる道理はなかつた。却つて、③として、①は危險(Eの至小化)であると警告してゐる」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④宣長(△枠):①への適應正常。 |
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〔二十章 主題〕『萬葉』歌集成立の問題に於ける師弟對立。
P191關係論:①歌集成立の問題(物:場 C‘)②契沖③全二十巻を「家持」私撰(物:場 C‘)⇒からの關係:①についての敬問。「④:即ち②に従つての③を主張」(D1の至大化)⇒「⑤:眞淵説(④的對立概念F)⇒E:⑤に眞つ向から反對。かつ、現行本の巻の次第も改めるべきものとする意見を提出」(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒宣長(△枠):③への適應正常。 P191關係論:①『萬葉』(物:場 C‘)②橘諸兄撰(物:場 C‘)③古傳の考證(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②になるものといふ⑥の考へは、「④:ただ③に立つた説ではない」(D1の至大化)⇒「⑤:『高き直きこころ』さながらの姿」(④的對立概念F)⇒E:上代の⑤を寫し出した、『萬葉集』の原形といふものを、どうあつても想定したい、その希ひによつて育成された固い信念でもあつた」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥眞淵(△枠):①②への適應正常。 P191關係論:①『其意を惑ひ給ふらむ』(物:場 C‘)⇒からの關係:④は用捨しなかつた。「②:『貴兄は、いかで①』と、④は疑ひを重ねて來たのである」(D1の至大化)⇒「③:『信じ給はぬ氣、顯は』也」(②的概念F)⇒E:この弟子(宣長)は何かを隱してゐる。從へないのではない、從ひたくないのだ。③と斷ずる他はなかつた」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④眞淵(△枠):①への適應正常。 |
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以下は〔二十章〕各項目纏め |
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P182《師弟の萬葉集(物:場 C‘)質疑應答は、互ひにその蘊蓄が傾けられ、嚴守されてゐるのは、雑念を交へぬ學者の良心であり、眞淵(物:場 C‘)は難問に接して、『是はむつかし』『此事、疑あり』といふ率直な態度(D1の至大化)を取つた。『問目』は尋常の問答録を越え、『萬葉』の最先端を行く、共同研究(F)といふ形(Eの至大化)を爲した》 關係論:①萬葉集(物:場 C‘)②眞淵(物:場 C‘)⇒からの關係:①に關する師弟間の文通による「③:質疑應答は、②死去前年まで五年間、①二十巻にわたり、前後二囘くり返されてゐる」(D1の至大化)⇒「④:學者の良心」(③的概念F)⇒E:師弟の禮は取られてゐるが、互ひにその蘊蓄が傾けられ、嚴守されてゐるのは、雑念を交へぬ④」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①②への適應正常。 關係論:①難訓難釋(物:場 C‘)②眞淵(物:場 C‘)③私案(物:場 C‘)⇒からの關係:⑥の「④:質疑は、③を交へ、初めから①に關してゐた。②は難問に接して、『是はむつかし』『此事、疑あり』といふ率直な態度を取つた」(D1の至大化)⇒「⑤:共同研究」(④的概念F)⇒E:『問目』は尋常の問答録を越え、『萬葉』の最先端を行く⑤といふ形(Eの至大化)を爲した」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①②への適應正常。 |
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P183《眞淵は、『萬葉集』の現在初傳の形(物:場 C‘)に不信を抱いてゐた(D1の至小化)。今の六巻(一、二、十三、十一、十二、十四)だけが、『上つ代より、奈良の宮の始めまでの歌を』『橘諸兄が撰みて、のせられし物也』(萬葉集大考)と信じてゐた。『萬葉考』といふ重荷を負ひ、日暮れて道遠きに惱む老學者の姿が彷彿として來る》(注:上代・・飛鳥・奈良二百年) 關係論:①『萬葉』(物:場 C‘)②現在初傳の形(物:場 C‘)⇒からの關係:⑤の餘生は、ただもう①との戰ひに明け暮れた。「③:彼は、『①集』の②に不信を抱いてゐた」(D1の至小化)⇒「④:『橘諸兄』」(③的對立概念F)⇒E:今の六巻(一、二、十三、十一、十二、十四)だけが、『上つ代より、奈良の宮の始めまでの歌を』『④撰みて、のせられし物也』(萬葉集大考)と信じてゐた」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤眞淵(△枠):①への適應正常。 關係論:①『萬葉集』の原形(物:場 C‘)②訓釋(物:場 C‘)③宣長(物:場 C‘)⇒からの關係:この①と考へられるものの②だけでも、「④:急いで仕上げて置きたかつた。仕事が訖つて(をはつて)③に言ひ送る」(D1の至大化)⇒「⑤:老學者の姿」(④的概念F)⇒E:「『萬葉考』といふ重荷を負ひ、日暮れて道遠きに惱む⑤が彷彿(Eの至大化)として來る」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒眞淵(△枠):①②への適應不滿。 關係論:①『古事記』(物:場 C‘)②眞淵(物:場 C‘)⇒からの關係:⑤は入門とともに、①原本の校合を始め、「③:ついで②から①の書入本を度々借覧し、『古事記傳』の仕事を着々進めてゐた」(D1の至大化)⇒「④:質疑」(③的概念F)⇒E:④の方は、『萬葉』より、『續日本紀宣命』に入り、『古事記』を問はうとする段(Eの至小化)となつて、死の訃に接した。②の力は『萬葉』に盡きたのである」(④への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑤宣長(△枠):②への適應不足。 |
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P184《眞淵は『萬葉集』から、萬葉精神(物:場 C‘)と呼んでいいものの特色を、鮮やかに摑み出してみせた。彼の『萬葉』研究は、今日の私達の所謂文學批評の意味合で、最初の『萬葉』批評である。『萬葉集の歌は、およそますらをの手ぶり也』の片言は、宣長『物のあはれ』説と同じく、眞淵の『萬葉』味讀の全經驗を辛くも包んでゐる。そして、眞淵曰く、『萬葉』の底邊で、『ますらをの手ぶり』の目指してゐる頂上が、人麿といふ抜群の歌人の調べとなる》 關係論:①『萬葉集』(物:場 C‘)②萬葉精神(物:場 C‘)⇒からの關係:⑤は①から「「③:②と呼んでいいものの特色を、鮮やかに摑み出してみせた」(D1の至大化)⇒「④:最初の『萬葉』批評」(③的概念F)⇒E:⑤の『萬葉』研究は、今日の私達の所謂文學批評の意味合で、④であり、この歌集の本質を突いてゐる(Eの至大化)點で、後世の批評も多くの事は附加出來ぬとさへ言へる」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤眞淵(△枠):①②への適應正常。 關係論:①『萬葉集の歌は、およそますらをの手ぶり也(にひまなび)』(物:場 C‘)②眞淵の説(物:場 C‘)③宣長『物のあはれ』説(物:場 C‘)⇒からの關係:①といふ「④:②は、③とともによく知られてはゐる」(D1の至大化)⇒「⑤:『萬葉』味讀の全經驗」(④的概念F)⇒E:③と同じく、①の片言は眞淵の⑤辛くも包んでゐる。それを思はなければ、ただ名ばかりの説になる」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒小林(△枠):①への適應正常。 關係論:①『ますらをの手ぶり』(物:場 C‘)⇒からの關係:①にも色々ある。『風潮も、人によりてくさぐさ也。古雅有、勇壮悲壮有、豪屈有、等々、』「②:『これら、人の生得の爲ままなれば、何れをも得たる方に向かふべし(眞淵返信)』」(D1の至大化)⇒「③:人麿」(②的概念F)⇒E:④に曰く、『萬葉』の底邊で、人により時期により、とりどりの風潮に分れてゐるものの、目指してゐる頂上が③といふ抜群の歌人の調べとなる」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④眞淵(△枠):①への適應正常。 關係論:①『ますらをの手ぶり』(物:場 C‘)②觀念(物:場 C‘)⇒からの關係:①といふ⑤の言葉は、無論、「③:知的に識別出來る②ではない」(D1の至大化)⇒「④:『萬葉集大考(參照P185)』」(③的概念F)⇒E:④が批評といふより、寧ろ歌の形(參照P185)をとつたのも尤もな事」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤眞淵(△枠):①への適應正常。 |
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P185《『すめらみことを崇(たふと)みまつるによりては⇒世中の平けからんことを思ふ⇒いにしへの御代ぞ崇(たふと)まる⇒古へのふみを見る⇒古への心言を解かんことを思ふ⇒先いにしへの歌をとなふ⇒古への歌をとなへ解んには、萬葉をよむ』(萬葉考)》 關係論:①『萬葉』批評(物:場 C‘)②『萬葉』讚歌(物:場 C‘)③感情(物:場 C‘)⇒からの關係:⑥の①が、②の形をとつたのは、「④:彼の③が大變烈しいものだつたが爲」(D1の至大化)⇒「⑤:學問の目的」(④的概念F)⇒E:『萬葉』に關する、⑥の感情經驗が、はつきりと『萬葉』崇拜といふ方向を取つたのは、⑤は人が世に生きる意味、即ち『道』の究明にあるといふ、わが國の近世學問の『血脈』による」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥眞淵(△枠):①への適應正常。 關係論:①『高きところを得る』(物:場 C‘)②『萬葉』の訓詁(物:場 C‘)③『低きところ』(物:場 C‘)④冠辭(物:場 C‘)⇒からの關係:①といふ⑦の豫感(D1の至大化)は、②といふ③に、「⑤:それも、④だけを採り集めて、考へを盡す(D1の至大化)といふ一番③に成熟した」(D1の至大化)⇒「⑥:『ますらをの手ぶり』」(⑤的概念F)⇒E:その成果を取り上げ、『萬葉』の歌の樣式(E)を、⑥と呼んだ時(Eの至大化)、その聲は、既に磁針が北を指すが如く、『高く直き心』を指してゐた(即ち、Eの至大化=D1の至大化)であらう」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦眞淵(△枠):①④への適應正常。 |
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P186《眞淵は自信をもつて言ふ。『上つ代にかへらざらめや』。『上古之人の風雅にて、弘大なる意を知也(參照P186文)。是(參照P186文)を考へ給へ。人麿などの及ぶべき言ならぬを知るる也』》: 關係論:①『萬葉』(物:場 C‘)②『いとしも大なる木』(物:場 C‘)③『秀枝下枝(ほつえしづえ)の數々』(物:場 C‘)⇒からの關係:四十年の勞苦の末、①といふ②の③を盡して、「④:⑥は自信をもつて言ふ」(D1の至大化)⇒「⑤:『上つ代にかへらざらめや(かへるのだ!)』(④的概念F)⇒E:『千(ち)いほ代にもかはらぬ、天地(あめつち)にはらまれ生(おふ)る人、いにしへの事とても、心こと葉の外やはある(心と言葉以外にはない)。古へを、おのが心・言(ことば)にならはし(習はし)得たらんとき、心ことばは、⑤。(中略)こころも聲も、すべて古しへ今ちふ(と言ふ)ことの無しを、人こそならはし(習はし)につけ、(中略)立かへらんこと、何かかた(難)からむ」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥眞淵(△枠):①への適應正常。 關係論:①文字(物:場 C‘)②時代(場 C‘)③書る文(物:場 C‘)⇒からの關係:『凡そ、「④:①を用うる②より後に、③は堅し」(D1の至小化)⇒「⑤:ほめ言」(④的對立概念F)⇒E:『それ以前とおぼしき⑤など、飛鳥藤原の朝の人の、言、及ばず(Eの至小化)ども、古事記にも、日本書紀にも、祝詞にも有る(Eの至大化)』(宣長宛て)(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒眞淵(△枠):①への適應正常。 關係論:①上古之人(物:場 C‘)②風雅(物:場 C‘)⇒からの關係:『①の②にて、「③:弘大なる意を知也(參照P186文)』(D1の至大化)⇒「④:人麿」(③的對立概念F)⇒E:『是(參照P186文)を考へ給へ。④などの及ぶべき言ならぬを知るる也。」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒眞淵(△枠):①への適應正常。 關係論:①神代紀〔天地開闢から神武天皇即位まで。『古事記』含む〕(物:場 C‘)②古言古文(物:場 C‘)③今(當今)の訓(物:場 C‘)⇒からの關係:『①も、「④:『よく②を心得て、(かつ)③の半ばを用ゐ合はせて讀む時は(讀めれば:D1の至大化)、甚だ妙譽の文也。今は文字にのみ依る故に、其の文わろし』」(D1の至大化)⇒「⑤:古事記」(④的概念F)⇒E:故に⑤の文ぞ大切也。是をよく得て後、事々は考へ給へ。己(⑥)先にも言へる如く、かの工夫がましき事(『今は文字にのみ依る故に、其の文わろし』)を、にくむ故に、只文事(『萬葉集』)に入ぬ。遂にその實をいはんとすれば、老衰存命且つ暮れに及べれば、すべ無し』(宣長宛て)」(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥眞淵(△枠):①への適應異常。 |
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P186迄《眞淵:『高きところを得る』を採らず⇒『低きところ』⇒『冠辭考』⇒『ますらをの手ぶり』⇒『その實をいはんとすれば、老衰存命且つ暮れに及べれば、すべ無し』⇒『道』とは何か⇒決して命令の形をとらず、いつも禁止の聲》 關係論:①『ますらをの手ぶり』(物:場 C‘)②『實』(物:場 C‘)⇒からの關係:①と言つたのでは、『其實』を言つた事にならないのなら、「③:⑤の言ふ②とは一體何なのか。さう問はれてゐるのは、むしろ⑤自身ではなかつたか」(D1の至大化)⇒「④:『道』」(③的概念F)⇒E:④とは何かとは、彼にとつて、そのやうな氣味合の問題として現れてゐたやうに見える。人麿の、現に心に映じてゐる明確な像(『古へならず、後ならず、一人の姿』)が搖ぐのである」(④への距離未獲得:Eの至小化)⇒⑤眞淵(△枠):②への適應異常。 關係論:①『道』(物:場 C‘)②内心の聲(物:場 C‘)⇒からの關係:①とは、⑤が聞いてゐる②だつたと言へるが、ソクラテスのダイモンのやうに、「③:決して命令の形をとらず、いつも禁止の聲だつたやうに思はれる」(D1の至大化)⇒「④:『ますらをの手ぶり』」(③的概念F)⇒E:⑤の意識を目覺めさした聲も、何が①ではないかだけしか、彼に、はつきりと語らなかつたらしい。④とは思へぬものを、『手弱女のすがた』と、鄙陋なる意を現すものとでも言つて置けば捨て去る事が出來たが、取り上げた④の方は、どう處理したものか、⑤のダイモンは口を噤んでゐたやうである」(④への距離未獲得:Eの至小化)⇒⑤眞淵(△枠):①への適應異常。 |
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P189《前項:眞淵の(『ますらをの手ぶり』⇒『その實をいはんとすれば、老衰存命且つ暮れに及べれば、すべ無し』⇒『道』とは何か⇒決して命令の形をとらず、いつも禁止の聲)⇒から續⇒眞淵、『上古之人の風雅』いよいよ『弘大なる意』を不獲得⇒『人代(神代後)を盡て、神代(『古事記』)をうかがはんとするに――老い極まり――遺恨也』(眞淵書簡)⇒(それが)宣長の眼にははつきり映じてゐた⇒即ち、『萬葉』の『みやびの調べ』(眞淵の一途な道)は、そのままでは『古事記』といふ異樣な書物の入口に通じてはゐまい、其處には一種の斷絶がある、と⇒眞淵の『文事(『萬葉集』)を盡す』といふ經驗を、わが身に照らして(『源氏』經驗:『古人たらんとする自己滅却の努力』で)承知してゐた宣長は、眞淵の、挫折の微妙な性質〔『古事記の入口に通じてはゐまい』〕が肌で感じられてゐた》 關係論:①『ますらをの手ぶり』(物:場 C‘)②『高く直きこころ』(物:場 C‘)③『ををしき眞ごころ』(物:場 C‘)④『天つちのままなる心』(物:場 C‘)⑤『ひたぶるなる心』(物:場 C‘)⇒からの關係:⑧は①を②③④⑤といふ風に、「⑥:樣々に呼んではみるのだが、彼の反省的意識は安んずる事は出來なかつた」(D1の至大化)⇒「⑦:『上古之人の風雅』」(⑥的概念F)⇒E:⑦は、「いよいよ『弘大なる意』を藏するものと見えて來る。源流を尋ねようとすれば、あれを思ひ、これを思つて言葉を求めたが得られなかつた(參照P188)」(⑦への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑧眞淵(△枠):①への適應異常。 關係論:①『人代(神代後)を盡て、神代をうかがはんとするに――老い極まり――遺恨也』(物:場 C‘)②眞淵(物:場 C‘)⇒からの關係:②晩年の苦衷を、本當によく理解してゐたのは、門人中(⑤)ただ一人だつたであらう。「③:①といふ②の嘆きを、⑤はどう讀んだか」(D1の至大化)⇒「④:『古事記』(③的概念F)⇒E:②の前に立ちはだかつてゐるものは、實は死ではなく、④といふ壁(『神代をうかが』へない遺恨)である事が、⑤の眼にははつきり映じてゐたであらう。⑤は既に④の中に踏み込んでゐた」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①②への適應正常。 關係論:①『古事記傳』(物:場 C‘)⇒からの關係:入門の年に起稿された①は、「②:この頃は第四巻まで浄書を終へてゐた」(D1の至大化)⇒「③:『萬葉』の『みやびの調べ』」(②的對立概念F)⇒E:③を盡さうとした眞淵の一途な道は、そのままでは『古事記』といふ異樣な書物の入口に通じてはゐまい、其處には一種の斷絶がある。さう④には見えてゐたのでは」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①眞淵(物:場 C‘)②『文事(『萬葉集』)を盡す』といふ經驗(物:場 C‘)③挫折の微妙な性質〔『古事記の入口に通じてはゐまい』(物:場 C‘)〕⇒からの關係:①の言ふ②が、どのやうなものであるかを、「④:わが身に照らして(『源氏』經驗:『古人たらんとする自己滅却の努力』で)承知してゐた⑥には、①の③が肌で感じられてゐたに相違あるまい」(D1の至大化)⇒「⑤:一番深い部分」(④的概念F)⇒E:そしてその事(③の實感觸)が、⑥の①への尊敬と愛情との⑤を成してゐたと想像出來る。それは、①の訃を聞いた彼が、日記に記した『不堪哀惜』の一言の中身(③)を想像してみることにもならう」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①『源氏』『萬葉』の研究(物:場 C‘)②古人(物:場 C‘)⇒からの關係:二人(⑤⑥)は①で②たらんとする「③:自己滅却の努力を重ねてゐるうちに、われしらず各自の資性に密着した經驗を育ててゐた(前項の實感觸・共感性)」(D1の至大化)⇒「④:摑み直した自己」(③的概念F)⇒E:⑤は『萬葉』經驗(自己滅却の努力)によつて、徹底的に④を解き放ち、何一つ隱すところがなかつた」(⑤の④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤眞淵⑥宣長(△枠):①②への適應正常。 關係論:①師(眞淵。物:場 C‘)②『低(ひき)き所』(物:場 C‘)③考證訓詁(物:場 C‘)⇒からの關係:⑥が質問を、①の言ふ②に、③の野に、「④:はつきりと限り、そこから出來るだけのものを學び取れば足りるとした(内に秘めた自信から)」(D1の至大化)⇒「⑤:議論を戰はす無用」(④的概念F)⇒E:弟子(⑥)は①に妥協しなかつたが、⑤をよく知つてゐた」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①②への適應正常。 |
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P191《『萬葉』歌集成立の問題での師弟對立:宣長は契沖に従つての、「『萬葉』全二十巻を「家持」私撰」を主張⇒眞淵説は、「六巻の『萬葉』、『萬葉ならざる』爾餘十四巻の『家々の歌集』」⇒六巻の『萬葉』即ち、上代の『高き直きこころ』さながらの姿」を寫し出した、『萬葉集』の原形といふものを、どうあつても想定したい、その希ひによつて育成された固い信念⇒「この弟子(宣長)は何かを隱してゐる。從へないのではない、從ひたくないのだ。『信じ給はぬ氣、顯は』也」と眞淵は斷ずる他はなかつた》 關係論:①宣長の歌(物:場 C‘)②古詠(物:場 C‘)③『萬葉』の意(物:場 C‘)⇒からの關係:(△枠)が先づ批難したのは、①である。②を得んとせず、③を得んとするのは、考へられぬ。「④:平然として、同じ風體の詠草を送り届けて來る弟子の心底を計りかねた」(D1の至小化)⇒「⑤:萬葉の御問」(④的對立概念F)⇒E:『是を好み給ふならば、⑤も止め給へ。かくては萬葉は、何の用にたたぬ事也』。だが宣長は一向に氣にかけなかつた樣子」(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒眞淵(△枠):①への適應異常。 關係論:①歌集成立の問題(物:場 C‘)②契沖③全二十巻を「家持」私撰(物:場 C‘)⇒からの關係:①についての敬問。「④:即ち②に従つての③を主張」(D1の至大化)⇒「⑤:眞淵説(④的對立概念F)⇒E:⑤に眞つ向から反對。かつ、現行本の巻の次第も改めるべきものとする意見を提出」(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒宣長(△枠):③への適應正常。 關係論:①『萬葉』(物:場 C‘)②橘諸兄撰(物:場 C‘)③古傳の考證(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②になるものといふ⑥の考へは、「④:ただ③に立つた説ではない」(D1の至大化)⇒「⑤:『高き直きこころ』さながらの姿」(④的對立概念F)⇒E:上代の⑤を寫し出した、『萬葉集』の原形といふものを、どうあつても想定したい、その希ひによつて育成された固い信念でもあつた」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥眞淵(△枠):①②への適應正常。 關係論:①六巻の『萬葉』(物:場 C‘)②『萬葉ならざる』爾餘十四巻の『家々の歌集』(物:場 C‘)⇒からの關係:①と②との別、といふ(△枠)の基本的な考へに對し、これを否定するはつきりした根據も示さず、「③:『二十巻ともに家持の撰也』と書き送つて來る宣長の態度が心外であつた」(D1の至大化)⇒「④:『答はすまじき也』(③的對立概念F)⇒E:④といふやうな⑤の激語の依つて來るところは、恐らくもつと深いところにあつた」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤眞淵(△枠):①への適應正常。 關係論:①『其意を惑ひ給ふらむ』(物:場 C‘)⇒からの關係:④は用捨しなかつた。「②:『貴兄は、いかで①』と、④は疑ひを重ねて來たのである」(D1の至大化)⇒「③:『信じ給はぬ氣、顯は』也」(②的概念F)⇒E:この弟子(宣長)は何かを隱してゐる。從へないのではない、從ひたくないのだ。③と斷ずる他はなかつた」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④眞淵(△枠):①への適應正常。 |
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〔十九章〕主題:眞淵『冠辭考』と宣長。 P176 關係論:①古い措辭(言葉遣ひ。物:場 C‘)②冠辭(物:場 C‘)⇒からの關係:⑥がこの①(②)を、改めて吟味しようとした頃には、この言葉(②)は既に死語と化してゐて、意味不明のままに歌の本意とは關係なく、ただ古來傳世の用例として踏襲されてゐた。「③:死語(②)は生前どんな風に生きてゐたか」(D1の至大化)⇒「④『言靈の佐(たす)くる國』⑤長い言語傳統」(③的對立概念F)⇒E:人麿は、②の發明、活用にかけて、『萬葉』随一の達人ではあつたが、獨力で成功した譯ではない。彼が歌つた(Eの至大化)やうに、④に生きる喜び(Eの至大化)、自國に固有な、⑤への全幅な信頼(Eの至大化)が、この大歌人の才を保證(Eの至大化)してゐたであらう。⑥がひたすら想ひ描かう(Eの至大化)としたしたのはそれ(④⑤)である」(④⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥眞淵(△枠):①②への適應正常。 P180《言語表現に於けるメタフォーア〔隠喩(物:場 C‘)〕の價値・・・メタフォーア〔隠喩(物:場 C‘)〕とは、言はば言語の意味大系の成長發展〔間隙(言たらず)を埋めよう〕に、初動を與へたものである。眞淵が、『萬葉集』を穴のあくほど見詰めて、(言たらずに)『ひたぶるに眞ごころなるを、雅言〔みやびごと:(例)あしびきの)〕もて飾れ』る姿(即ち『冠辭』)に感得したものは、この初動の生態〔メタフォーア(隠喩)で間隙(言たらず)を埋めよう〕だつた》 關係論:①直接感性に訴へて來る言語像(詩歌。物:場 C‘)②共通の知覺(物:場 C‘)⇒からの關係:この一見偏頗な傾き〔即ち「未熟な意識(素朴な心情)が、具體的に特殊な①(つまり詩歌)に執着する(D1の至小化)」〕も、「③:誰にも②が求めたいといふ願ひ(D1の至大化)を、内に秘めてゐる(D1の至大化)と考へざるを得まい」(D1の至大化)⇒「④:メタフォーア(メタファー:隠喩)」(③的概念F)⇒E:この秘められた知性の努力(②が求めたい)が④を創り出し(Eの至大化)、言葉の間隙(言たらず)を埋めよう(Eの至大化)とするだらう。④とは、言はば言語の意味大系の成長發展〔間隙(言たらず)を埋めよう〕に、初動を與へたものである。⑤が、『萬葉集』を穴のあくほど見詰めて、(言たらずに)『ひたぶるに眞ごころなるを、雅言〔みやびごと:(例)あしびきの)〕もて飾れ』る姿(即ち『冠辭』)に感得した(Eの至大化)ものは、この初動の生態〔メタフォーア(隠喩)で間隙(言たらず)を埋めよう〕だつた(Eの至大化)と考へていい」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤眞淵(△枠):①への適應正常。 |
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以下は〔十九章〕各項目纏め |
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P171《宣長三十歳あまり時:『あがたゐのうし(眞淵)の御さとし言』》 關係論:①學問の要(物:場 C‘)②古言(物:場 C‘)③低き所(物:場 C‘)④高き所(物:場 C‘)⑤眞淵(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②を得るといふ③を固めるにある。「⑥:これを怠つて、④を求めんとしても徒事である、と⑤曰く」(D1の至大化)⇒「⑦:契沖(⑥的概念F)⇒E:その事なら⑦に教へられてゐて(Eの至大化)、感服したわけではない。⑤にしても①を自家發明と思つてゐたわけではない(次項參照)」(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①學則の眞意(物:場 C‘)②低き所(物:場 C‘)③大才(物:場 C‘)⇒からの關係:だが、①〔つまり『今日の學問はひきくひらたく(以下參照)只文章を會得する事に止り候』(古文辭學の學則:徂徠先生答問書)〕は、これを實行した人にしか現れはしないし、「④:②をかためる爲に全人格を働かせてみて、其處に現れて來る意味が、どんなに豐かなものかを悟るには、③を要する」(D1の至大化)⇒「⑤:萬葉」(④的概念F)⇒E:「⑤について⑥が行つたのはそれ(仁齋の『體翫』と同)である。又、宣長は『源氏』體翫の自身經驗から⑥の教への内容が直知出來なかつた筈はない」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥眞淵(△枠):①への適應正常。 ~~~~以下參照~~~ 〔著『徂徠』・『辯名』〕 |
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P174《『物のあはれ』を論ずる筋の通つた(Eの至大化)實證家と、『神ながらの道』を説く(Eの至大化)混亂した獨斷家が、宣長のうちに對立してゐたわけではない〔即ち、學問の内的必然の律動なのである〕。しかし、極端に分化し、専門化してゐる今日の學問の形式(とは、觀察や實驗の正確と假説の合法則性を目途)に慣れた私達には、學者であることと創造的な思想家である事とが、同じ事であつたやうな、宣長の仕事(即ち、學問の下に行つた全的な經驗:F)を想ひ描く事が、大變困難(Eの至小化)になつた》 關係論:①寶暦十三年(三十歳頃:場 C‘)②『源氏』による『歌まなび』(物:場 C‘)③『古事記傳』(物:場 C‘)④『道のまなび』(物:場 C‘)⇒からの關係:①に、⑦は②の仕事が完了すると、「⑤:直ちに③を起草し、④の仕事に沒入する」(D1の至大化)⇒「⑥:『神代紀開講』」(⑤的概念F)⇒E:⑥とあるのは、眞淵の許への入門と殆ど同時である。「まるで、眞淵が⑦の志を一變させたやうに見える。だが、機の熟するのを待つて、好機到来(Eの至大化)なのである」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):③④への適應正常。 關係論:①囘想文(物:場 C‘)②文體(物:場 C‘)③彼の學問(物:場 C‘)④『歌まなび』(物:場 C‘)⑤『道のまなび』(物:場 C‘)⑥姿(物:場 C‘)⇒からの關係:⑨の①の「⑦:なだらかにながれるやうな②は、③が④から⑤に極めて自然に成長した⑥である」(D1の至大化)⇒「⑧:内的必然の律動」(⑦的概念F)⇒E:歌の美しさが、おのづから道の正しさを指すやうになる③の⑧を傳へる(Eの至大化)」(⑧への距離獲得:Eの至大化)⇒⑨宣長(△枠):③への適應正常。 關係論:①『歌まなび』(物:場 C‘)②『道のまなび』(物:場 C‘)⇒からの關係:①と②との「③:二つの觀念の間に、⑥にとつて飛躍や矛盾は考へられてゐなかつた」(D1の至大化)⇒「④『物のあはれ』⑤『神ながらの道』」(③的概念F)⇒E:④を論ずる筋の通つた(Eの至大化)實證家と、⑤を説く(Eの至大化)混亂した獨斷家が、⑥のうちに對立してゐたわけではない〔即ち、學問の内的必然の律動(Eの至大化)〕」(④⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①②への適應正常。 關係論:①學問(物:場 C‘)②實證性、合理性、進歩性に關する通念(物:場 C‘)③宣長の仕事⇒からの關係:だが、⑥の持つてゐる①に關する、特にその②は、まことに頑固(D1の至小化)なものであり、③のうちに、「④:どうしても折合のつかぬ美點(D1の至大化)と弱點(D1の至小化)との混在(D1の至小化)を見附け、樣々な條件(②他)から未熟たらざる(D1の至小化)を得なかつた①の組織として、性急に理解したがる(D1の至小化)」⇒「⑤:全的な經驗」(④的對立概念F)⇒E:極端に分化し、専門化してゐる今日の①の形式(とは、觀察や實驗の正確と假説の合法則性を目途)に慣れた⑥には、學者であることと創造的な思想家である事とが、同じ事であつたやうな、宣長の仕事(即ち、①の下に行つた⑤)を想ひ描く事が、大變困難(Eの至小化)になつた」(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥私達(△枠):②への適應異常。 |
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P176《眞淵の『冠辭考』が、宣長の、『歌まなび』から『道のまなび』に轉ずるきつかけを作つた(Eの至大化)と言ふ。だが、その事件の性質については説明不足で、一體何が起つたのか。宣長が、書中(冠辭考)から、眞淵の強い精神が現れるのが見えて來るには手間がかかつた。 眞淵が、改めて吟味しようとした頃には、この言葉(冠辭)は既に死語と化してゐて、死語(冠辭)は生前どんな風に生きてゐたか。眞淵がひたすら想ひ描かう(Eの至大化)としたのは、生前どんな風と言ふ意味の、『言靈の佐(たす)くる國』、『長い言語傳統』なのである》 關係論:①囘想文(物:場 C‘)②書物(物:場 C‘)③精神の彈力性(物:場 C‘)⇒からの關係:⑥が①でわれ知らず追つてゐるものは、「④:言はば②といふ對象のうちに、己を捨ててのめり込む③である」(D1の至大化)⇒「⑤:眞淵の冠辭考」(④的概念F)⇒E:⑤が思ひもかけず生じた事件の如く語られてゐて、⑤が『歌まなび』から『道のまなび』に轉ずるきつかけを作つた(Eの至大化)と言ふ。だが、その事件の性質については説明不足で、一體何が起つたのか」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):②への適應正常。 關係論:①冠辭考(物:場 C‘)②契沖の『萬葉』研究(物:場 C‘)⇒からの關係:『さらに信ずる心あらざりし』といふ①が、「③:次第に信じられ、遂に、かの②も、『なほいまだしきのこと』と言へる(D1の至大化)やうになるまで、長い間の熟讀(D1の至大化)を要した、その意味とは」(D1の至大化)⇒「④:眞淵の精神」(③的概念F)⇒E:紙背に感じられた④に、⑤の關心があつた(Eの至大化)。書中から眞淵の強い精神が現れるのが見えて來るには手間がかかつた(Eの至大化)、と解するほかはない」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①古い措辭(言葉遣ひ。物:場 C‘)②冠辭(物:場 C‘)⇒からの關係:⑥がこの①(②)を、改めて吟味しようとした頃には、この言葉(②)は既に死語と化してゐて、意味不明のままに歌の本意とは關係なく、ただ古來傳世の用例として踏襲されてゐた。「③:死語(②)は生前どんな風に生きてゐたか」(D1の至大化)⇒「④『言靈の佐(たす)くる國』⑤長い言語傳統」(③的對立概念F)⇒E:人麿は、②の發明、活用にかけて、『萬葉』随一の達人ではあつたが、獨力で成功した譯ではない。彼が歌つた(Eの至大化)やうに、④に生きる喜び(Eの至大化)、自國に固有な、⑤への全幅な信頼(Eの至大化)が、この大歌人の才を保證(Eの至大化)してゐたであらう。⑥がひたすら想ひ描かう(Eの至大化)としたしたのはそれ(④⑤)である」(④⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥眞淵(△枠):①②への適應正常。 |
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P178《冠辭(物:場 C‘)といふ名が生れてくる必然性は、『心ひたぶるに、言のすくなき』といふ歌人(物:場 C‘)の健全な、緊張した内的經驗(物:場 C‘)に由來する。『心ひたぶるに、言のすくなきをおもへば、名(冠辭)は後にして、事〔『心ひたぶるに、言のすくなき』(内的經驗)〕はさきにし有べし』と眞淵曰く》 關係論:①『萬葉』の世界(物:場 C‘)②措辭(冠辭)の意味(物:場 C‘)③後世のさかしら心(物:場 C‘)⇒からの關係:①で、豐かに強く生きてゐたこの②を、③に「④:得ようとしてもかなはぬ」(D1の至大化)⇒「⑤:生態」(④的對立概念F)⇒E:⑤が逃げて了ふ(Eの至小化)。この言葉(冠辭)の姿をひたぶるに感ずる(Eの至大化)他はない。⑥はさう言ひたいのである」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥眞淵(△枠):②への適應正常。 關係論:①冠辭(物:場 C‘)②『歌の調べ』(物:場 C‘)⇒からの關係:①とは、「③:『ただ、②のたらはぬを、ととのへるより起て、かたへは、詞を飾るもの』」(D1の至大化)⇒「④:身のよそほい」(③的概念F)⇒E:詞の飾りに慣れ、これを弄ぶ後世人は、詞の飾りの發生が、④と同じく、いかに自然であり、生活の上で必要であつたかを忘れてゐる」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒眞淵(△枠):①への適應正常。 關係論:①短歌(物:場 C‘)②冠辭(物:場 C‘)③『萬葉』の頃(場 C‘)④言(こと)(物:場 C‘)⇒からの關係:歌が①の形に整備された③となつても、「⑤:『おもふこと、ひたぶるなるときは、④たらず』といふ状態は依然として續いてゐた」(D1の至小化)⇒「⑥:一種の修辞」(⑤的概念F)⇒E:この状態(④たらず)を土臺として、歌人等にあつて、冠辭といふ⑥の盛行(Eの至大化)を見たといふのが⑦の考へ。(言たらずに)『ひたぶるに眞ごころなるを、雅言(みやびごと)もてかざれれば(即ち冠辭)也、譬へば貴人(うまびと)のよき冠りのうへに、うるはしき花挿せらんが如し』と」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦眞淵(△枠):②への適應正常。 關係論:①冠辭(物:場 C‘)②歌人(物:場 C‘)③内的經驗(物:場 C‘)⇒からの關係:①といふ名が生れてくる必然性は、「④:『心ひたぶるに、言のすくなき』といふ②の健全な、緊張した③に由來する」(D1の至大化)⇒「⑤:事」(④的概念F)⇒E:『心ひたぶるに、言のすくなきをおもへば、名(①)は後にして、⑤〔即ち『心ひたぶるに、言のすくなき』(内的經驗)〕はさきにし有べし』(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒眞淵(△枠):①③への適應正常。 關係論:①冠辭(物:場 C‘)②言語(物:場 C‘)③歌人(物:場 C‘)⇒からの關係:①は、ひたすら②の表現力を信ずる③の「④:純粋な喜び(D1の至大化)、尋常な努力(D1の至大化)の産物である」⇒「⑤:『日のもの』」(④的概念F)⇒E:『冠りは⑤にて、もはら也』と言ふ⑥の下心であらう。①の呼稱についての直觀(⑤)は、春滿(あずままろ)の場合より遙かに深い」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥眞淵(△枠):①への適應正常。 |
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P178《冠辭(物:場 C‘)の生き生きとした表現の自主性に、後世の人々は次第に鈍感になつた。思ひ述べる(末部)據りどころとしての、それ自身は表現力の薄弱な、便宜的な説明語(枕詞、歌枕)と冠辭(物:場 C‘)とは全く違ふものだ》 關係論:①冠辭(物:場 C‘)②上代の措辭(言葉遣ひ。物:場 C‘)③歌の調べ(物:場 C‘)④歌人(物:場 C‘)⇒からの關係:自分(⑦)が①と呼びたい②には、『こを本として、下の意を言ふ』性質は全くないものだ。「⑤:それは、③に鋭敏な④の半分無意識的な欲求から生れたもの」(D1の至大化)⇒「⑥:表現の自主性」(⑤的概念F)⇒E:その生き生きとした⑥に、後世の人々は次第に鈍感になつた。鈍感になつてから、人々は枕詞とか、歌枕とか、枕草子とかいふ類の言葉を使ひ出した。思ひ述べる據りどころとしての、それ自身は表現力の薄弱な、便宜的な説明語(枕詞、歌枕)と①とは全く違ふものだ」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦眞淵(△枠):①への適應正常。 |
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P179《自身の調べを整へるのが先決であり、思ふ事をいふのは末である。歌の姿〔自身の調べ(物:場 C‘)〕が整へば、歌人(△枠)は、われ知らず思ふ事(末)を言つた事にならう。言語の表現性に鋭敏な歌人等は、『言靈の佐(たす)くる國』(物:場 C‘)『言靈の幸ふ國』(物:場 C‘)を一歩も出られはしない。冠辭(物:場 C‘)とは、『かりそめなる冠』(物:場 C‘)を、『いつとなく身にそへ來たれるがごと』く用ゐられた措辭(物:場 C‘)であり、冠辭といふ『よそほひ』(物:場 C‘)の發生が必至である言語構造自體(物:場 C‘)は、彼(歌人)にとつては、絶對的な與件》 關係論:①『おもふこと』(物:場 C‘)②言(こと。物:場 C‘)③仇(あだ)し語(こと)(物:場 C‘)⇒からの關係:『①、ひたぶるなるときは、②たらず、②したらねば』、「④:『思ふ事を末にいひ③を本(もと)に冠』す」(D1の至大化)⇒「⑤:自身の調べ」(④的概念F)⇒E:⑤を整へるのが先決(Eの至大化)であり、思ふ事をいふのは末である。この必要に應ずる言葉が見附かる(Eの至大化)なら、③であつても差支へあるまい」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒眞淵(△枠):①への適應正常。 關係論:①何處(場 C‘)②調べ(物:場 C‘)③言葉(物:場 C‘)④仇(あだ)し語(こと)(物:場 C‘)⇒からの關係:①からとは知れず、「⑤:②に送られて來る③は、④に違ひあるまいとも言へよう」(D1の至大化)⇒「⑥:歌の姿」(⑤的概念F)⇒E:それで⑥が整へば、⑦は、われ知らず思ふ事(末部)を言つた事にならう。言語の表現性に鋭敏な⑦等は、『言靈の佐(たす)くる國』『言靈の幸ふ國』を一歩も出られはしない(Eの至大化)」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦歌人(△枠):④への適應正常。 關係論:①冠辭(物:場 C‘)②かりそめなる冠(物:場 C‘)③歌人(物:場 C‘)⇒からの關係:①とは、『②』を、「④:『いつとなく身にそへ來たれるがごと』く用ゐられた措辭であり、③は①について、新たな工夫は出來たが」(D1の至大化)⇒「⑤:言語構造自體」(④的概念F)⇒E:①といふ『よそほひ』の發生が必至である⑤は、彼(③)にとつては、絶對的な與件(Eの至大化)であらう」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒眞淵(△枠):①への適應正常。 |
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P180《言語表現に於けるメタフォーア〔隠喩(物:場 C‘)〕の價値・・・メタフォーア〔隠喩(物:場 C‘)〕とは、言はば言語の意味大系の成長發展〔間隙(言たらず)を埋めよう〕に、初動を與へたものである。眞淵が、『萬葉集』を穴のあくほど見詰めて、(言たらずに)『ひたぶるに眞ごころなるを、雅言〔みやびごと:(例)あしびきの)〕もて飾れ』る姿(即ち『冠辭』)に感得したものは、この初動の生態〔メタフォーア(隠喩)で間隙(言たらず)を埋めよう〕だつた》 關係論:①直觀(物:場 C‘)②メタフォーア〔メタファー:隠喩(物:場 C‘)〕⇒からの關係:⑤が抱いてゐた基本的な①は、今日普通使はれてゐる言葉で言へば、「③:言語表現に於ける②の價値に關して働いてゐたと言つてよい」(D1の至大化)⇒「④:詩」(③的概念F)⇒E:どこの國の文學史にも④が散文に先行する。言語活動の上から言つても、私達は言葉の意味を理解する以前に、言葉の調べ(④的)を感じてゐた(Eの至大化)事に間違ひはない」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤眞淵(△枠):②への適應正常。 關係論:①今日(場 C‘)②散文(物:場 C‘)③メタフォーア〔メタファー:隠喩(物:場 C‘)〕④遠い昔(場 C‘)⇒からの關係:①、⑦が慣れ、その正確と能率とを自負さへしてゐる②も、「⑤:よく見れば④の③の殘骸をとり集めて成つてゐる(言語學の常識)」(D1の至大化)⇒「⑥:直接感性に訴へて來る言語像(つまり詩歌)」(⑤的概念F)⇒E:分化(②の詩歌からの分化)を自覺しない未熟な意識(素朴な心情)が、具體的に特殊な⑥(つまり詩歌)に執着する(Eの至小化)のは、見やすい理」(⑥への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑦私達(△枠):②③への適應異常。 關係論:①この種の言語像(詩歌。物:場 C‘)②生活經驗の多樣性(物:場 C‘)⇒からの關係:①がどんなに豐かになつても、②を覆ふわけにはいかないのだから、「③:その(詩歌の)言語構造には、到るところに裂け目(言たらず)があるだらう、暗所が殘つてゐるだらう」(D1の至小化)⇒「④:眞淵の言葉」(③的概念F)⇒E:④の『おもふこと(歌の末部)、ひたぶるなるときは、言たらず(即ち、裂け目・暗所)』をさう解釋してもよい」(④への距離不獲得:Eの至小化)⇒私達(△枠):①への適應異常。 關係論:①直接感性に訴へて來る言語像(詩歌。物:場 C‘)②共通の知覺(物:場 C‘)⇒からの關係:この一見偏頗な傾き〔即ち「未熟な意識(素朴な心情)が、具體的に特殊な①(つまり詩歌)に執着する(D1の至小化)」〕も、「③:誰にも②が求めたいといふ願ひ(D1の至大化)を、内に秘めてゐる(D1の至大化)と考へざるを得まい」(D1の至大化)⇒「④:メタフォーア(メタファー:隠喩)」(③的概念F)⇒E:この秘められた知性の努力(②が求めたい)が④を創り出し(Eの至大化)、言葉の間隙(言たらず)を埋めよう(Eの至大化)とするだらう。④とは、言はば言語の意味大系の成長發展〔間隙(言たらず)を埋めよう〕に、初動を與へたものである。⑤が、『萬葉集』を穴のあくほど見詰めて、(言たらずに)『ひたぶるに眞ごころなるを、雅言〔みやびごと:(例)あしびきの)〕もて飾れ』る姿(即ち『冠辭』)に感得した(Eの至大化)ものは、この初動の生態〔メタフォーア(隠喩)で間隙(言たらず)を埋めよう〕だつた(Eの至大化)と考へていい」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤眞淵(△枠):①への適應正常。 ~~~以下參照~~ P178:*『おもふこと、ひたぶるなるときは、言たらず』:眞淵 *この状態(言たらず)を土臺として、歌人等にあつて、冠辭といふ一種の修辞の盛行(Eの至大化)を見たといふのが眞淵の考へ。(言たらずに、)『ひたぶるに眞ごころなるを、雅言(みやびごと)もてかざれれば(即ち『冠辭』)也、譬へば貴人(うまびと)のよき冠りのうへに、うるはしき花挿せらんが如し』と。 ~~~ 關係論:①枕詞(物:場 C‘)②眞淵(物:場 C‘)③冠詞(かうぶりことば)(物:場 C‘)⇒からの關係:①に關する⑥の考へは、吾師②の③といふ呼稱は、ことはりに適つてゐるが、「④:この言葉(①)の意味合をよく考へてみれば、①で別段仔細はない、といふのが⑥の意見である」(D1の至大化)⇒「⑤:ささゆる物」(④的概念F)⇒E:『すべて物の浮きて、間(あいだ)のあきたる所を、⑤を、何にもまくらとはいへば、名所を歌枕といふも、一句言葉の足らで(『浮きて』)、明(あき)たるところにおくよしの名と聞こゆれば、歌枕といふも、そのでう(傳?)にてぞ、いひそめけんかし』(『玉かつま』)」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①②③への適應正常。 |
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〔十八章〕主題norinaga18.new.pdf へのリンク 關係論:①『源氏』の内容(物:場 C‘)②歌(物:場 C‘)③人々の生活(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②の贈答が日常化し習慣化した③だが、⑥は、「④:これを見たままに寫した風俗畫家ではなかつた」(D1の至大化)⇒「⑤:風俗の裡」(④的對立概念F)⇒E:半ば無意識に生きられてゐた⑤に入り込み、これを内から照明し、その意味を摑み出して見せた人だ(⑤への距離獲得:Eの至大化)。其處に、宣長は作者の『心ばへ』、作品の『本意』を見た⇒⑥作者(式部△枠):③への適應正常。 關係論:①歌道(物:場 C‘)②『物のあはれを知る』(物:場 C‘)③『源氏』の詞花の姿(物:場 C‘)⇒からの關係:⑥が①の上で②と呼んだものは、「④:②のやうな意味を湛へた③から、直に感知したもの」(D1の至大化)⇒「⑤:自分の經驗の質」(④的概念F)⇒E:『源氏』の詞花言葉を翫ぶといふ⑤を②と呼ぶより他はなかつた(定家・契沖・眞淵、及び潤一郎・白鳥の「享受と批評:經驗の語り口」との「詞花言葉を翫ぶ」質の違ひ)」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):③への適應正常。 關係論:①『源氏』といふ世界(物:場 C‘)②詞花(物:場 C‘)③現實生活(物:場 C‘)④一種の夢(物:場 C‘)⇒からの關係:②の工夫によつて創り出された①は「⑤:③の觀點からすれば、④といふより他はない」(D1の至大化)⇒「⑥:質の相違した兩者(③と④)の秩序」(⑤的概念F)⇒E:⑥の、知らぬうちになされる混同(Eの至小化)が、諸抄の説の一番深い處にある弱點である事を、⑦は看破してゐた」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①『源氏』といふ『夢物語』(物:場 C‘)②迫眞性(物:場 C‘)③言語(物:場 C‘)④歌道(物:場 C‘)⇒からの關係:⑦が言ふ①が帶びてゐる②とは、⑦の言ふ「⑤:③の④に従つた用法によつて創り出された(D1の至大化)調べに他ならない」(D1の至大化)⇒「⑥:實際經驗上の諸事實」(⑤的對立概念F)⇒E:⑤なる創造の機縁となつた、⑥を調査する(Eの至大化)事は出來るが、先づこの調べ(即ち⑤)が直知出來てゐなければ(Eの至小化)、殆ど意味を成すまい」(Eの至小化)(⑥への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑦宣長(△枠):①②への適應正常。 關係論:①『源氏』(物:場 C‘)②決定的な因子(物:場 C‘)③言語による特殊な形式(物:場 C‘)④作家(物:場 C‘)⑤創造力(物:場 C‘)⇒からの關係:①を成立させた最大で②は、「⑥:この③(歌物語)に關し、この④に與へられた⑤にある」⇒「⑦:現實の生活や感情の經驗」(⑥的對立概念F)⇒E:これ(⑤)に比べれば、この作家の⑦など言ふに足りない(Eの至小化)。さういふ、今日でも猶汲み盡くす事の出來ないむつかしい考へ(Eの至大化)が、⑧の『源氏』論を貫き、これを生かしてゐる」(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧宣長(△枠):③への適應正常。 |
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以下は〔十八章〕各項目纏め |
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P159《『源氏』(物:場 C‘)を正しく理解(D1の至大化)しようとして、厄介な經驗(物:場 C‘)(契沖の片言即ち『定家卿云、可翫詞花言葉をのみ〔詞花言葉(詠歌の資料・歌學の參考書)としてのみ〕もてあそぶべし)。かくのごとくなるべし』》に、實はどれほどの重みがあるものか」)に宣長は堪へ通してみせた》 關係論:①『源氏』(物:場 C‘)②物語(物:場 C‘)③和歌(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②であつて③ではない。「④:これを正しく理解(D1の至大化)するには、『只文華逸興(優れた興趣)をもて論』じてはならぬ、といふ考へから逃れ切る事が出來なかつた(以下參照)」(D1の至大化)⇒「⑤:『定家卿云、可翫詞花言葉をのみ〔詞花言葉(詠歌の資料・歌學の參考書)としてのみ〕もてあそぶべし)。かくのごとくなるべし』(④的對立概念F)⇒E:⑤と言ふ契沖の片言に、實はどれほどの重みがあるものかを、⑥は槇重に積つてみた(Eの至大化)人だ」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①『源氏』(物:場 C‘)②厄介な經驗(物:場 C‘)⇒からの關係:①を正しく理解(D1の至大化)しようとして、②(即ち「契沖の片言に、實はどれほどの重みがあるものか」)に「③:堪へ通してみせた」(D1の至大化)⇒「④:『源氏』愛讀」(③的概念F)⇒E:④が故に『源氏:開眼』があつたと言ふ意味は此處にある」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①作品(『源氏』)の門(物:場 C‘)②『可翫詞花言葉』(物:場 C‘)⇒からの關係:①に入る⑤は「③:誰もそこ(①)に掲げられた②〔詞花言葉(詠歌の資料・歌學の參考書)としてのみ翫ぶべし〕といふ文句は讀むだらう」⇒「④:經驗の深淺」(③的概念F)⇒E:詞花言葉を翫ぶといふ④を自分の手で確かめてみる(宣長の行爲:Eの至大化)といふ事になれば、これは全く別の話である」(④への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑤者(△枠):①への適應異常。 ~~~以下參照文~ P51「詠歌(D1の至大化)は、決して風流(F)や消閑(F)の具(Eの至小化)ではなかつた(D1の至大化)」と、眞淵(物:場 C‘)の影響(D1の至大化)で、歌道(物:場 C‘)が古道(物:C)の形に發展(D1の至大化)した宣長(物:場 C‘)にあつては、もうはつきりした發言(D1の至大化)になる」。 |
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P160《現代人は、『源氏』(物:場 C‘)の現代語譯(物:場 C‘)は、寫實小説(物:場 C‘)と考へられた『源氏』(物:場 C‘)にしか通じてゐない事を、一向に氣に掛けない(D1の至小化)。だがこれ(寫實小説にしか通じてゐない『源氏』現代語譯と言ふ事は)、わが國の古典の現代語譯、及び西洋文學の邦譯の効用性とは、一應切離して考へられるべき事》 關係論:①寫實主義(物:場 C‘)②現實主義(物:場 C‘)③詩(物:場 C‘)④小説(物:場 C‘)⑤文藝(物:場 C‘)⇒からの關係:①とか②と呼ばれる強い考への波に乘り「⑥:③と袂を分つた④が⑤の異名となるまで急に成長」(D1の至大化)⇒「⑦:文學界」(⑥的概念F)⇒E:誰にも抗し難い(Eの至小化)⑦の傾向のうちに私達(⑧)はゐる」(⑦への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑧現代人(△枠):③への適應異常。 關係論:①現代語譯(物:場 C‘)②『源氏』(物:場 C‘)③今日(場 C‘)④寫實小説(物:場 C‘)⇒からの關係:①といふ②への架橋は、③では②に行く一番普通な往還となつたが、「⑤:⑦は、街道(即ち①)が、④と考へられた②にしか通じてゐない事を、一向に氣に掛けない(前項參照)」(D1の至小化)⇒「⑥:効用性」(⑤的概念F)⇒E:これ(②の①が、④と考へられた②にしか通じてゐない事)は、わが國の古典の①、及び西洋文學の邦譯の⑥とは、一應切離して考へられるべき事」(③への距離不獲得:Eの至大化)⇒⑦通行者達(現代人△枠):②への適應異常。 關係論:①詞〔歌ふ爲に書かれる言葉(物:場 C‘)〕②實物(物:場 C‘)③現實主義(物:場 C‘)⇒からの關係:①より①の現はす「④:②の方を重んずる③の時代の底流の強さが存在」(D1の至小化)⇒「⑤:經驗の語り口」(④的概念F)⇒E:それ故に、⑥の、どんな觀點(主義)を設けず、ただ文藝作品(『源氏』)を文藝作品として自由に味はひ、動かされてゐながら(Eの至大化)、その⑤は同じやう(③同樣)に孤獨(「詞花と戰ふ孤獨」)で、ちぐはぐであるのが窺へる。この『源氏』理解に關し、私達が今日、半ば無意識の内に追込まれてゐる位置(現實主義の時代の底流の強さ)を意識してみること(前々項關係論參照)は、宣長の仕事を理解する上にどうしても必要だ」(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥潤一郎や白鳥(△枠):①への適應異常。 |
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P161《詞花を翫ぶ感性の門から入り、知性の限りを盡して(『詞を我物に』して)、又同じ門から出て來る宣長の、その時の感慨が、『物語といふもののおもむきをばたづね』て『物のあはれといふことに、心のつきたる人のなきは、いかにぞや』(玉のをぐし、一の巻)となる》 關係論:①作品感受の門(物:場 C‘)②作品(物:場 C‘)⇒からの關係:⑥は、①を、素速く潛つて了へば、「③:②理解の爲(「詞花と戰ふ」爲)の、歴史學的社會學的心理學的等々の、補助概念の整理といふ別の出口から出て行つて了ふ」(D1の至小化)⇒「④:詞花を翫ぶ」(③的對立概念F)⇒E:それを思ふと、④感性の門から入り、知性の限りを盡して(『詞を我物に』して)、又同じ門から出て來る⑤の姿がおのづから浮び上つて來る。⑤のその時の感慨が『物語といふもののおもむきをばたづね』て『物のあはれといふことに、心のつきたる人のなきは、いかにぞや』(玉のをぐし、一の巻)となる」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長⑥研究者達(△枠):②への適應正常。 |
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P162《『源氏』の詞を熟達しよう、我物にしようとする努力(詞花言葉を翫ぶ)を自省する事で、宣長が得た、『物のあはれといふ心附き』、即ち『源氏』理解と言ふ經驗は、享受と批評(即ち、潤一郎・白鳥の「經驗の語り口」)といふ人爲的な區別を少しも必要とはしなかつた》 關係論:①作者(式部。物:場 C‘)②『六條御息所』の省筆(物:場 C‘)③物語の趣向(物:場 C‘)⇒からの關係:①の②が、⑥の眼に「④:類ひまれなる妙手にして、はじめて可能であつた③と映つてゐた」(D1の至大化)⇒「⑤:缺巻」(④的對立概念F)⇒E:⑤が存したかも知れないといふ考へは、なかつた」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①への適應正常。 P162關係論:①手枕〔宣長の擬古文(物:場 C‘)〕②『源氏』の詞花言葉(物:場 C‘)⇒からの關係:①をものした⑤の動機は、「③:ひたすら②を翫ばんとしたところにあつた」(D1の至大化)⇒「④:詞を我物」(③的概念F)⇒E:④にした⑤の姿〔『物のあはれといふ心附き』(Eの至大化)〕を、①を讀む者は納得せざるを得ない」⇒⑤宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①『源氏』の詞(物:場 C‘)⇒からの關係:①に「②:熟達しよう、我物にしようとする努力(詞花言葉を翫ぶ)を自省すれば、そこから殆ど自動的にどんな意味が生じて來るか」(D1の至大化)⇒「③:『物のあはれといふ心附き』(②的概念F)⇒E:「それが、⑥が摑んだ③である。彼の『源氏』理解と言ふ經驗(③)は、享受と批評(即ち、潤一郎・白鳥の「經驗の語り口」)といふ人爲的な區別を少しも必要とはしなかつた」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P163《宣長(△枠)は、『源氏』(物:場 C‘)を歌物語(物:場 C‘)と呼んだが、これには彼獨特の意味合があつた。もし本質的な意味で、歌物語と呼べる物(とは、「詞花による創造世界の眞實性」と言ふ本質)が、『源氏』にあれば、『源氏』こそが歌物語(即ち「詞花による創造世界の眞實性」)である、とさう言つた》 關係論:①『源氏』の詞花(物:場 C‘)②『源氏』(物:場 C‘)③歌物語(物:場 C‘)④詞花による創造世界(物:場 C‘)⑤眞實性(物:場 C‘)⇒からの關係:⑧は②を③と呼んだが、これには⑧獨特の意味合があつた。①の執拗な鑑賞者(⑧)の眼は、②といふ「⑥:④に即した⑤を、何處までも追つた(即ち「詞花言葉を翫ぶ」)」(D1の至大化)⇒「⑦:本質的な意味」(⑥的概念F)⇒E:そして「もし⑦で歌物語と呼べる物があれば(とは、『源氏』への『詞花言葉を翫ぶ』上に、「詞花による創造世界の眞實性」と言ふ本質があれば)、『源氏』こそが歌物語(「詞花による創造世界の眞實性」)である、驚くべき事だが、他にはない、さう言つたのである」(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧宣長(△枠):②③④への適應正常。 |
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P163《歌と物語との結び附きに於ける、本末顚倒とは・・・ 》 關係論:①歌(物:場 C‘)②いにしへの情(物:場 C‘)⇒からの關係:①ばかりを見て(詞花言葉を翫んで)「③:②を知るは末(本末の末)なり」(D1の至大化)⇒「④:此物語(『源氏』)」(③的對立概念F)⇒E:④を見て「『さていにしへの歌をまなぶは、其古の歌のいできたるよしをよくしる故に、本が明らかになるなり』(『紫文要領』)。さういふ風に見た」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P163《『源氏』には、情(物:場 C‘)に流され無意識に傾く歌(物:場 C‘)と、観察と意識(物:場 C‘)とに赴く世語り(物:場 C‘)とが、離れようとして結ばれる機微(D1の至大化)が、異常な力で捕へられてゐる》 關係論:①『源氏』(物:場 C‘)②情(物:場 C‘)③歌(物:場 C‘)④観察と意識(物:場 C‘)⑤世語り(物:場 C‘)⇒からの關係:①には、②に流され無意識に傾く③と、④とに赴く⑤とが「⑥:離れようとして結ばれる機微(D1の至大化)が、①に異常な力で捕へられてゐる、と⑧は見た」⇒「⑦:末とか本」(⑥的概念F)⇒E:⑦とかいふ言葉で言ひたかつた眞意は、其處にある。『源氏』論全體から推して、さう解していい」(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧宣長(△枠):③⑤への適應正常。 |
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《式部(△枠)は、歌の贈答が日常化し習慣化した人々の生活(物:場 C‘)の、半ば無意識に生きられてゐた風俗の裡(物:場 C‘)に入り込み、これを内から照明し、その〔歌の贈答が日常化し習慣化した人々の生活(物:場 C‘)の〕意味を摑み出して見せた(D1の至大化)人だ》 關係論:①『源氏』の内容(物:場 C‘)②歌(物:場 C‘)③人々の生活(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②の贈答が日常化し習慣化した③だが、⑥は、「④:これを見たままに寫した風俗畫家ではなかつた」(D1の至大化)⇒「⑤:風俗の裡」(④的對立概念F)⇒E:半ば無意識に生きられてゐた⑤に入り込み、これを内から照明し、その意味を摑み出して見せた人だ(⑤への距離獲得:Eの至大化)。其處に、宣長は作者の『心ばへ』、作品の『本意』を見た⇒⑥作者(式部△枠):③への適應正常。 關係論:①この物語(物:場 C‘)②作者の『心ばへ』(物:場 C‘)③歌(物:場 C‘)④其の場限りの生活手段、或は装飾(物:場 C‘)⑤姿(物:場 C‘)⇒からの關係:①に登場する⑧は、「⑥:誰一人、②に背いて③は詠めてゐない(D1の至小化)。③としての趣向を凝らして自足(D1の至小化)してゐるやうなものは一つもない(D1の至大化)。と言つて、④として消え去る(D1の至小化)やうな⑤で現れてゐるものもない(D1の至大化)」⇒「⑦:物語の構成要素」(⑥的概念F)⇒E:すべては作者に統制され、⑦として、生活の様々な局面を點綴するやうに配分され(Eの至大化)てゐる」(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧人達(△枠):②への適應正常。 關係論:①源氏君と紫の上との戀愛(物:場 C‘)②歌(物:場 C‘)⇒からの關係:例へば①で②は「③:どんな具合に贈答(D1の至大化)されるのか」(D1の至大化)⇒「④:「物語」といふ大きな歌」(前項⑦:物語の構成要素)」(③的概念F)⇒E:④から「配分され二人の心を點綴する(前項:⑦として生活の様々な局面を點綴するやうに配分されてゐる)歌の破片でなくて何であらう。(故に)歌ばかり見て(詞花言葉をのみ翫び)、戀情を知るのは末なのである。それ(様々な局面を點綴するやうに配分)がまさしく、『此物語の外に歌道なく、歌道の外に此物語なし』といふ言葉の内容を成す」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①②への適應正常。 |
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P164《『源氏』の詞花言葉(物:場 C‘)を翫ぶといふ自分の經驗の質(物:場 C‘)を『物のあはれを知る』(物:場 C‘)と呼ぶより他はなかつた(定家・契沖・眞淵、及び潤一郎・白鳥の「享受と批評:經驗の語り口」との「詞花言葉を翫ぶ」質の違ひ)。『いましめの方〔上記研究家の大勢の思想(「もろこし書の習氣」)〕に見るときは物の哀をさます也。物の哀をさますは此物語の魔にあらずや。又歌道の魔にあらずや(『紫文要領』)』 》 關係論:①歌道(物:場 C‘)②『物のあはれを知る』(物:場 C‘)③『源氏』の詞花の姿(物:場 C‘)⇒からの關係:⑥が①の上で②と讀んだものは、「④:②のやうな意味を湛へた③から、直に感知したもの」(D1の至大化)⇒「⑤:自分の經驗の質」(④的概念F)⇒E:『源氏』の詞花言葉を翫ぶといふ⑤を②と呼ぶより他はなかつた(定家・契沖・眞淵、及び潤一郎・白鳥の「享受と批評:經驗の語り口」との「詞花言葉を翫ぶ」質の違ひ)」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):⑤への適應正常。 關係論:①研究者の道(物:場 C‘)②『物のあはれを知る』(物:場 C‘)③經驗の充實(物:場 C‘)⇒からの關係:①は「④:②の③を確かめるといふ一筋につながる事を信じた」(D1の至大化)⇒「⑤:魔」(④的對立概念F)⇒E:⑤といふ強い言葉で、「この④を迷はすもの(Eの至大化)を呼んだ」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①いましめの方〔研究家の大勢の思想(「もろこし書の習氣」)」(物:場 C‘)②物の哀(物:場 C‘)⇒からの關係:「③:『①に見るときは②をさます故也』⇒「④:魔」(③的概念F)⇒E:『②をさますは此物語の④にあらずや(Eの至大化)。又歌道の④にあらずや(『紫文要領』)』(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P165《一種の夢(物:場 C‘)と現實生活(物:場 C‘)。この質の相違した兩者の秩序(F)の、知らぬうちになされる混同(Eの至小化)が、諸抄の説(物:場 C‘)の一番深い處にある弱點(Eの至小化)である事を、宣長(△枠)は看破(D1の至大化)してゐた。『源氏』といふ『夢物語』の迫眞性(物:場 C‘)は、宣長の言ふ歌道(物:場 C‘)に従つた用法によつて創り出された(D1の至大化)調べ〔即ち、詞花(物:場 C‘)に課した演技(D1の至大化)から誕生した子〕に他ならない。その點で現實生活の事實性とは手は切れてゐる》 關係論:①『源氏』といふ世界(物:場 C‘)②詞花(物:場 C‘)③現實生活(物:場 C‘)④一種の夢(物:場 C‘)⇒からの關係:②の工夫によつて創り出された①は「⑤:③の觀點からすれば、④といふより他はない」(D1の至大化)⇒「⑥:質の相違した兩者(③と④)の秩序」(⑤的概念F)⇒E:⑥の、知らぬうちになされる混同(Eの至小化)が、諸抄の説の一番深い處にある弱點である事を、⑦は看破してゐた」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①『源氏』(物:場 C‘)②『世がたり』(物:場 C‘)③迫眞性(物:場 C‘)④作者(物:場 C‘)⑤詞花(物:場 C‘)⇒からの關係:①が精緻な②とも見えたところが、⑧を迷はせたが、「⑥:その③は、④が⑤に課した演技(D1の至大化)から誕生した子である」(D1の至大化)⇒「⑦:事實性」(⑥的對立概念F)⇒E:「その點で現實生活の⑦とは手は切れてゐる」(⑦への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑧人々(△枠):①への適應異常。 關係論:①『源氏』といふ『夢物語』(物:場 C‘)②迫眞性(物:場 C‘)③言語(物:場 C‘)④歌道(物:場 C‘)⇒からの關係:⑦が言ふ①が帶びてゐる②とは、⑦の言ふ「⑤:③の④に従つた用法によつて創り出された(D1の至大化)調べに他ならない」(D1の至大化)⇒「⑥:實際經驗上の諸事實」(⑤的對立概念F)⇒E:⑤なる創造の機縁となつた、⑥を調査する(Eの至大化)事は出來るが、先づこの調べ(即ち⑤)が直知出來てゐなければ(Eの至小化)、殆ど意味を成すまい」(Eの至小化)(⑥への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑦宣長(△枠):①②への適應正常。 |
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P165《宣長は『源氏』を論じて、この種(秋成や潤一郎:「執念くねじけたる」云々)の光源氏(物:場 C‘)の品定め、「④:③を據りどころとする品定めを一切しなかつた。この主人公を生けるが如く描き出した、作者の創作の方法(作者の心ばへ)が、これ(品定め)を拒んでゐると見たからだ》 關係論:①光源氏といふ人間(物:場 C‘)②作中人物(物:場 C‘)③作(物:場 C‘)⇒からの關係:①は「④:本質的に②であり、③を離れては何處にも生きる餘地はない」(D1の至大化)⇒「⑤:認識」(④的概念F)⇒E:⑥はこれ(④)を⑤した最初の學者であつたが、又、個性的な開眼を孕んだ、その⑤の徹底性(Eの至大化)に於いて、最後の人だつたとも言へる」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①②への適應正常。 關係論:①『源氏』(物:場 C‘)②光源氏(物:場 C‘)③實生活(物:場 C‘)⇒からの關係:⑥は①を論じて、この種(秋成や潤一郎)の②の品定め、「④:③を據りどころとする品定めを一切しなかつた」(D1の至大化)⇒「⑤:作者の創作の方法」(④的對立概念F)⇒E:「この主人公を生けるが如く描き出した⑤(作者の心ばへ)が、これ(品定め)を拒んでゐると見たからだ」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):②への適應正常。 |
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P166《作者(物:場 C‘)は、『よきことのかぎりをとりあつめて』源氏君(物:場 C‘)を描いた、と宣長が言ふのは、『物のあはれを知る』人間の像(物:場 C‘)を普通の人物(物:場 C‘)評のとどかぬ(D1の至大化)ところに、詞花(物:場 C‘)によつて構成した事を言ふ》 關係論:①作者(物:場 C‘)②源氏君(物:場 C‘)③『物のあはれを知る』人間の像(物:場 C‘)④普通の人物(物:場 C‘)⑤詞花(物:場 C‘)⇒からの關係:①は、『よきことのかぎりをとりあつめて』②を描いた、と⑧が言ふのは、「⑥:③を④評のとどかぬ(D1の至大化)ところに、⑤によつて構成した事を言ふ」⇒「⑦:特殊な魅力」(⑥的概念F)⇒E:「この像(②)の持つ疑ひやうのない⑦の究明が、⑧の批評の出發點であり、同時に帰着點であつた」(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧宣長(△枠):③への適應正常。 關係論:①式部(物:場 C‘)②思想家(物:場 C‘)③源氏君(物:場 C‘)⇒からの關係:⑥は①を無論②とは考へなかつたし、③に備はる、「④:その表現性は、全く純一であつて、思想といふ知的に構成された異物は、少しも混じってゐない(D1の至大化)と斷言した」⇒「⑤:此物語の意味」(④的概念F)⇒E:⑤は、『もろこしの書の習氣のうせぬあいだは、⑤、えしるまじき(Eの至小化)事也』といふ言葉で現した」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P166《儒佛の影響にもかかはらず、なぜ式部(物:場 C‘)は此の物語(物:場 C‘)を創り得たかに、宣長の考へは集中してゐた。精神の集中とは、詞花言葉(物:場 C‘)の工夫(D1の至大化)によつて創り出された、物語といふ客觀的秩序が規定した(「研究の對象自體」によつて要請された)即物的方法であつた》 關係論:①『此物語の意味』(物:場 C‘)②儒佛(物:場 C‘)③式部(物:場 C‘)④此の物語(物:場 C‘)⇒からの關係:⑦はさういふもの(②)の影響から①を知る事は不可能である事を、もつともよく見てゐた。「⑤:②の影響にもかかはらず、なぜ③は④を創り得たかに、⑦の考へは集中してゐた」(D1の至大化)⇒「⑥:研究の對象自體」(⑤的概念F)⇒E:『源氏』論の根幹を成してゐる「彼の精神の集中は、⑥によつて要請されたものであつた」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①精神の集中(物:場 C‘)②詞花言葉(物:場 C‘)③物語といふ客觀的秩序(物:場 C‘)⇒からの關係:①とは、「④:②の工夫(D1の至大化)によつて創り出された、③が規定した(即ち「研究の對象自體」によつて要請された)即物的方法であつた」⇒「⑤:任意な主觀」(④的對立概念F)⇒E:決して⑥の⑤の動きではなかつた。彼は、『源氏』を漠然と感動的(⑤)に讀んだのではない」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):③への適應正常。 |
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P166『源氏』といふ物(物:場 C‘)が直接に示す明瞭な感動性(物:場 C‘)、平凡な日常の生活感情(物:場 C‘)の、生き生きとした具體化(物:場 C‘)を成し遂げた、作者の創造力或は表現力(物:場 C‘)を、深い意味合で模倣してみる(以下「詞を我物」參照)より他に、(宣長は)此の物語の意味(『物のあはれといふ心附き』)を摑む道は考へられぬとした》 關係論:①『源氏』といふ物(物:場 C‘)②明瞭な感動性(物:場 C‘)③平凡な日常の生活感情(物:場 C‘)④生き生きとした具體化(物:場 C‘)⑤作者の想像力或は表現力(物:場 C‘)⇒からの關係:①が直接に示す②、③の④を成し遂げた「⑥:⑤を、深い意味合で模倣してみる(以下「詞を我物」參照)より他に、此の物語の意味(『物のあはれといふ心附き』)を摑む道は考へられぬとした」(D1の至大化)⇒「⑦:徹底性」(⑥的概念F)⇒E:この⑦に着目すれば、彼の『源氏』論を文藝の自律論を説いたもの(Eの至小化)と、解りやすく要約して了ふことは出來ない」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):④⑤への適應正常。 關係論:①『源氏』(物:場 C‘)②決定的な因子(物:場 C‘)③言語による特殊な形式(物:場 C‘)④作家(物:場 C‘)⑤創造力(物:場 C‘)⇒からの關係:①を成立させた最大で②は、「⑥:この③(歌物語)に關し、この④に與へられた⑤にある」⇒「⑦:現實の生活や感情の經驗」(⑥的對立概念F)⇒E:これ(⑤)に比べれば、この作家の⑦など言ふに足りない(Eの至小化)。さういふ、今日でも猶汲み盡くす事の出來ないむつかしい考へ(Eの至大化)が、⑧の『源氏』論を貫き、これを生かしてゐる」(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧宣長(△枠):③への適應正常。 ~~以下參照~~ P162關係論:①手枕〔宣長の擬古文(物:場 C‘)〕②『源氏』の詞花言葉(物:場 C‘)⇒からの關係:①をものした⑤の動機は、「③:ひたすら②を翫ばんとしたところにあつた」(D1の至大化)⇒「④:詞を我物」(③的概念F)⇒E:④にした⑤の姿〔『物のあはれといふ心附き』(Eの至大化)〕を、①を讀む者は納得せざるを得ない」⇒⑤宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P167《宣長は、事物に觸れて動く『あはれ』(物:場 C‘)と、『事の心を知り、物の心を知る』事、即ち『物のあはれを知る』事(物:場 C‘)とを區別した。その譯は、『あはれ』の不完全な感情經驗が、詞花言葉の世界(歌物語)で完成するといふ考へに基く。それ故に宣長は、光源氏(物:場 C‘)を、『物のあはれを知る』(物:場 C‘)といふ意味を宿した、完成された人間像(物:場 C‘)と見た。爲に、この像の裏側に、何か別のものを求めようとはしなかつた》 關係論:①『あはれ』(物:場 C‘)②根源的なもの(物:場 C‘)⇒からの關係:①は「③:説明や記述を受附けぬ機微のもの、②を孕んで生きてゐる」(D1の至大化)⇒「④:現實の感情經驗」(③的概念F)⇒E:不安定で曖昧なこの(①の)④は、作家(⑤)の表現力を通さ(Eの至大化)なければ、決して安定しない(Eの至小化)。その(④の)意味を問ふ事の出來る(Eの至大化)やうな明瞭な姿(Eの至大化)とはならない」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤式部(作家△枠):①への適應正常。 關係論:①事物に觸れて動く『あはれ』(物:場 C‘)②『事の心を知り、物の心を知る』事(物:場 C‘)③『物のあはれを知る』事(物:場 C‘)⇒からの關係:⑥が、①と「④:②、即ち③とを區別した」(D1の至大化)⇒「⑤:詞花言葉」(④的概念F)⇒E:その譯は「『あはれ』の不完全な感情經驗が⑤の世界(歌物語)で完成する(Eの至大化)といふ考へに基く」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):②③への適應正常。 關係論:①これ〔『あはれ』の不完全な感情經驗が詞花言葉の世界(歌物語)で完成する〕(物:場 C‘)②光源氏(物:場 C‘)③『物のあはれを知る』(物:場 C‘)④完成された人間像(物:場 C‘)⇒からの關係:①に基いて、⑦は「⑤:②を、③といふ意味を宿した、④と見た」(D1の至大化)⇒「⑥:在るがままの姿」(⑤的概念F)⇒E:この、言語による表現の⑥が、想像力の眼(⑦)に直知されてゐる(Eの至大化)以上、この像(⑥)の裏側に、何か別のものを求めようとは決してしなかつた」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):④への適應正常。 |
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P168《光源氏(物:場 C‘)は、言はば宣長の信ずる、『歌道』の達人〔『物のあはれを知る』完成された人間像〕(物:場 C‘)の役をふられて演技するのであるから、演技の法則(『物のあはれを知る』)に従つて、『雲隱』れしたのを、宣長は、當然の事〔紫式部の、ふかく心をこめたること也〕とした(玉のをぐし、八の巻)》 關係論:①光源氏(物:場 C‘)②『歌道』の達人〔『物のあはれを知る』完成された人間像〕(物:場 C‘)⇒からの關係:①は、「③:言はば⑤の信ずる②の役をふられて演技するのであるから、演技の法則(『物のあはれを知る』)に従つて、『雲隱』れしたのを、當然の事とした」(D1の至大化)⇒「④:紫式部」(③的概念F)⇒E:⑤は『其事(『雲隱』)をば、はぶきてかかざるにて、④の、ふかく心をこめたること也(Eの至大化)』(玉のをぐし、八の巻)と斷言した」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①②への適應正常。 關係論:①かなしさ(物:場 C‘)②光源氏(物:場 C‘)⇒からの關係:①の限りを盡した②の、「③:『①を書かむとせば、たが(誰が)うへ(上)の①にかは書くべき(誰もこれ以上にかなしみを書けはしない)』(玉のをぐし、八の巻)」(D1の至大化)⇒「④:役柄」(③的概念F)⇒E:作者が『あやしきまで、御心長く』(若紫、上)と言つた④を演じ終れば(Eの至大化)、隱棲生活(『雲隱』)の、現實の時間を無私していい(Eの至大化)筈であつた」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①②への適應正常。 |
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P168《宣長の言ふ『歌道』(物:場 C‘)とは、言葉といふ道具を使つて、空想せず制作する歌人(式部)のやり方から、直接聞いた聲なのである。それ(直接聞いた聲、即ち『歌道』)が、人間性の基本的構造(即ち宣長&全般)に共鳴する事を確信した。孔子もし、是(『源氏』)を見給はば、三百篇の詩をさしおきて、必ず此物語を、六經につらね給ふべし。孔子(F)の心をしられん(Eの至大化)儒者は、必ずまろが言を過稱とはえいはじ》 關係論:①『物のあはれを知る』(物:場 C‘)②思想の知的構想(物:場 C‘)③定義でも原理(物:場 C‘)④『歌道』(物:場 C‘)⑤言葉(物:場 C‘)⑥歌人(式部。物:場 C‘)⇒からの關係:①とは、②が要請した③でもなかつた。「⑦:⑨の言ふ④とは、⑤といふ道具を使つて、空想せず制作する⑥(式部)のやり方から、直接聞いた聲なのである」(D1の至大化)⇒「⑧:共鳴」(⑦的概念F)⇒E:それ(直接聞いた聲、即ち④)が、人間性の基本的構造(即ち⑨&全般)に⑧する事を確信(Eの至大化)したのである」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑨宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①この確信〔式部の『歌道』(『物のあはれを知る』)が人間性の基本的構造(即ち⑨&全般)に共鳴する確信〕(物:場 C‘)②『いましめの方』(物:場 C‘)⇒からの關係:①から出發すれば、「③:②〔研究家の大勢の思想(「もろこし書の習氣」)〕に向つて自由な視點(D1の至大化)は開けてゐた」⇒「④:儒佛」(③的概念F)⇒E:『④は、物の哀しらぬやうなるが、其道にして、畢竟は、それも物の哀しるよりおこれる事也(詳細P168)』(『紫文要領』)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):②への適應正常。 關係論:①物語(物:場 C‘)②教誡の書(物:場 C‘)③物の哀(物:場 C‘)④佛の慈悲、聖人の仁義の心(物:場 C‘)⇒からの關係:『①はさやうの②にはあらざるゆへに、ただその眼の前の③をしり、又その④をも、③としるゆへに』「⑤:『とかく一偏(ひとむき)にかたよることはなく、とにかくに③をしる事をかける也』(『紫文要領』巻上)⇒「⑥:孔子」(⑤的概念F)⇒E:『⑥もし、是(『源氏』)を見給はば、三百篇の詩をさしおきて、必ず此物語を、六經につらね給ふべし。孔子(F)の心をしられん(Eの至大化)儒者は、必ずまろが言を過稱とはえいはじ(Eの至大化)』(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①④への適應正常。 |
| 〔十七章〕主題norinaga17.pdf へのリンク
關係論:①『帚木』發端の文(物:場 C‘)②表現構造(物:場 C‘)③『源氏』といふ物語の主人公(物:場 C‘)④作者(物:場 C‘)⇒からの關係:①の②(讀者に相談しかける)は、「⑤:③を描き出す(D1の至大化)④の技法の本質的(D1の至大化)なものを規定してゐる」(D1の至大化)⇒「⑥:『源氏』といふ人物の評價」(⑤的概念F)⇒E:それ(⑤)が、⑦の⑥に直結(Eの至大化)してゐる」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):①への適應正常。 |
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以下は〔十七章〕各項目纏め |
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P147《『帚木』發端の文〔「物語一部の序の如きもの」(物:場 C‘)〕の表現構造(「讀者に相談しかけるやう」)は、『源氏』といふ物語の主人公(物:場 C‘)を描き出す(D1の至大化)、作者(式部)の技法の本質的(D1の至大化)なものを規定してゐる。それが、宣長の、『源氏』といふ人物の評價(「喜んで、その共作者にならうと身構へる」「古女房の眼を打ち守る(Eの至大化)聞き手になる」)に、直結(Eの至大化)してゐる》 關係論:①『帚木』(物:場 C‘)②内容「『源氏の君の壮年のほどの事を、まづとりすべて、一つに評じたる』、その戀物語の序のごとき』もの、皆これから先の巻巻で物語らうとする事柄を指す」(物:場 C‘)⇒からの關係:①文の②が「③:『見るに心得べきやうある』(D1の至大化)ところだ、と⑤は言ふ(玉のをぐし、五の巻)」(D1の至大化)⇒「④:『螢の卷』の源氏と玉鬘との會話(F)」(③的概念F)⇒E:④に「『物語の大綱總論』を讀みとつた(Eの至大化)のと同じ性質(③的)の彼の注意力(Eの至大化)が、ここ(②)にも働いた(Eの至大化)」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①②への適應正常。 關係論:①此物語(物:場 C‘)②准據(物:場 C‘)⇒からの關係:①の所謂②とは「③『ただ作りぬしの心のうちにある(D1の至大化)事』といふ⑤の信念(D1の至大化)は、ここでも動かなかつた」(D1の至大化)⇒「④:作者の『下心』」(③的概念F)⇒E:④が素早く(⑤)に見抜かれてゐた(Eの至大化)。④とは、今まで誰一人思ひも及ばなかつた仕事の難しさをよく知つた(Eの至大化)作者(式部)の心ばへであつた」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①『源氏』(物:場 C‘)②作者(物:場 C‘)③物語(物:場 C‘)④格別の國(物:場 C‘)⇒からの關係:①といふ人間につき②が「⑤:聞き手の同意を求めて、親しげに語りかけ、納得づくで遊ぶ③といふ④を作らう(D1の至大化)と言ふのなら、⑦は喜んで、その共作者にならうと身構へる」(D1の至大化)⇒「⑥:古女房の眼」(⑤的概念F)⇒E:⑥を「打ち守る(Eの至大化)聞き手になる」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):②への適應正常。 關係論:①『帚木』發端の文(物:場 C‘)②物語(物:場 C‘)③作者(物:場 C‘)④『源氏』發想の姿(物:場 C‘)⇒からの關係:①を「⑤:『②一部の序の如きもの』と言ふ⑦の眞意(D1の至大化)は、讀者に相談しかける(D1の至大化)やうな③の④そのものだ、といふところに根を下ろしてゐる」(D1の至大化)⇒「⑥:『源氏』の愛讀者」(⑤的概念F)⇒E:⑥の『源氏』による開眼は、研究者であったといふ事よりも、先ず⑥であつたといふ、單純と言へば單純な事實の深さ(Eの至大化)に據る」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①『帚木』發端の文(物:場 C‘)②表現構造(物:場 C‘)③『源氏』といふ物語の主人公(物:場 C‘)④作者(物:場 C‘)⇒からの關係:①の②(讀者に相談しかける)は、「⑤:③を描き出す(D1の至大化)④の技法の本質的(D1の至大化)なものを規定してゐる」(D1の至大化)⇒「⑥:『源氏』といふ人物の評價」(⑤的概念F)⇒E:それ(⑤)が、⑦の⑥に直結(Eの至大化)してゐる」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①古女房(作者。物:場 C‘)②『源氏』の君(物:場 C‘)③難しい人物(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②を「④:念でも押す樣な語り口(讀者に相談しかけると同意)で、要するに③だと斷つてゐる(D1の至大化)」⇒「⑤:後巻『螢の卷』(玉鬘)出:『あだなる』『まめなる』」(④的對立概念F)⇒E:⑤とかいふ淺薄な標準で評價(Eの至小化)しても駄目といふ⑥の考へは、この『帚木』の一文(物語一部の序の如きもの)を踏まへたもの」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P《『源氏物語』理解については、眞淵も契沖と同樣、『いまだゆきたらはぬ』『うはべのひとわたりの』『しるべのふみ』のひとつ(Eの至小化)と宣長には考へられてゐた》 關係論:①『源氏』といふ人物(物:場 C‘)⇒からの關係:①の「②:辛辣な品定めをした最初の人は④」(D1の至大化)⇒「③:此物語」(②的對立概念F)⇒E:③をどう讀んだらいいか(E)といふ事になると、『定家卿云、可翫詞花言葉をのみ〔詞花言葉(詠歌の資料・歌學の參考書)としてのみ〕もてあそぶべし:物語は『狂言綺語』)。かくのごとくなるべし』と言つただけで、口を噤んだ」(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒④契沖(△枠):①への適應異常。 關係論:①『源氏』といふ人物(物:場 C‘)②眞淵の古道精神(物:場 C‘)③性來の柔らかな感性(物:場 C‘)④『源氏物語』(物:場 C‘)⇒からの關係:①への⑦評は、「⑤:②と③との交錯。⑦の眞つ正直な心が④といふ大作の複雑な奥行の内に投影される樣が思ひ見られる」(D1の至大化)⇒「⑥:『源氏物語』理解」(⑤的對立概念F)⇒E:⑥については、「契沖と同樣、『いまだゆきたらはぬ』『うはべのひとわたりの』『しるべのふみ』のひとつ(Eの至小化)と宣長には考へられてゐた」(⑥への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑦眞淵(△枠):①への適應異常。 |
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P《谷崎は、『源氏』の名文たる所以を、その細部にわたつて確認し、これを、現代小説家としての、自家(『細雪』)の技法のうちに取り入れんとするところにあつた。今日の文學界(場 C‘)では、想へば大變孤獨な事件(物:場 C‘)なのである。わが國の近代文學の二大先達(鷗外・漱石)に見られる『源氏』(物:場 C‘)への無關心は、今日も尚續いてゐる。無關心理由は『光源氏、名のみことごとしう(仰々しい・大袈裟)』と言へよう》 關係論:①『定家卿云、可翫詞花言葉(詞花言葉をのみもてあそぶべし)』(物:場 C‘)②契沖(物:場 C‘)⇒からの關係:①については「③:⑤は②の考へ方、その言ひ方まで踏襲」(D1の至大化)⇒「④:雨月物語」(③的概念F)⇒E:④は「『源氏物語』の『詞花言葉』を翫んで書いたのは、④の序を讀んだだけで明らか」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤秋成(△枠):①への適應正常。 關係論:①『源氏』といふ人物(物:場 C‘)②『源氏物語』(物:場 C‘)⇒からの關係:①は好きになれない。「③:②を全體として見て、偉大さを認めない譯には行かない。秋成と同樣に⑤も、言はば、作家と批評家との分裂が起つたと言へる」(D1の至大化)⇒「④:『源氏』現代語譯動機」(③的概念F)⇒E:④は「『源氏』の名文たる所以を、その細部にわたつて確認し、これを、現代小説家としての、自家『細雪』の技法のうちに取り入れんとするところにあつた」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤谷崎(△枠):②への適應正常。 關係論:①『源氏』(物:場 C‘)②今日の文學界(場 C‘)③事件(物:場 C‘)⇒からの關係:⑥の①經驗(D1の至大化)といふものは、②では、「④:想へば大變孤獨な③なのである」(D1の至大化)⇒「⑤:無關心」(④的對立概念F)⇒E:そして、わが國の近代文學の二大先達(鷗外・漱石)に見られる①への⑤は、今日も尚續いてゐる。理由は『光源氏、名のみことごとしう(仰々しい・大袈裟)』と言へよう」(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥谷崎(△枠):①への適應正常。 |
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〔十六章 主題〕norinaga16.pdf へのリンク 關係論:①定家『源氏』評(明月記。物:場 C‘)②『狂言綺語』視(物:場 C‘)③玉鬘(物:場 C‘)④『源氏』(物:場 C‘)⇒からの關係:①の②を「⑤:『ただ、いと、まことの事とこそ思ひ給ひられけれ』と言つた③の④鑑賞法は」(D1の至大化)⇒「⑥『君子はあざむくべし』(素直な心)」(⑤的概念F)⇒E:⑥と評した「⑦に、拾ひ上げられるのを待つてゐた。⑦の言葉は③の言葉と殆ど同じやうに無邪氣なのである」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):③④への適應正常。 關係論:①作者(物:場 C‘)⇒からの關係:④が思ひきつてやつてのけた事は「②:①の心中に飛込み①の『心ばへ』を一たん内から摑んだら離さぬといふ、まことに端的な事」(D1の至大化)⇒「③:『源氏』」(②的概念F)⇒E:③を「精しく讀まうとする自分の努力を、③を作り出さうとする①の努力に重ね合はせて、①と同じ向きに歩いた。『およそ准據といふ事は、ただ①の心中にある事』とは、その歩きながらの發言なのである」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①『源氏』論(物:場 C‘)②作者の『心ばへ』(物:場 C‘)③作品(物:場 C‘)④准據(物:場 C‘)⇒からの關係:⑦が①で採用した(D1の至大化)④は、「⑤:②の中で變質し、今度は間違ひなく③を構成する要素と化した④だけ。このやり方は徹底的であつた」(D1の至大化)⇒「⑥:物語の准據」(⑤的概念F)⇒E:外部に見附かつた⑥を作者の心中に入れてみよ、その性質は一變する。作者の創作力の内に吸収され、言はば創作の動機としての意味合を帶びる」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):②への適應正常。 關係論:①准據の説(物:場 C‘)②式部の物語の世界(物:場 C‘)③『現(よ)に有(あり)し』生活世界(實生活)(物:場 C‘)⇒からの關係:從來の①に對する⑥の抵抗(D1の至大化)は、「④:『跡かたもなき(創造の)』②は、彼女の③を超えたものだ、といふ強い考への上に立つ」(D1の至大化)⇒「⑤:物語」(④的概念F)⇒E:即ち「⑤に現れた作者の『心ばへ』は、『日記』に現れた式部の氣質の寫しではない、と言ふ事」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①への適應正常。 |
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〔以下は、十六章 各項纏め〕 |
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P139《宣長(△枠)は、『螢の卷』の物語論に着目した、最初の『源氏』研究者であつたが、彼が現れるまで、『螢の卷』を避けて、八百年の歳月が流れた》 關係論:①物語(物:場 C‘)②式部の基本的考へ方(物:場 C‘)③當時の常識(物:場 C‘)⇒からの關係:①についての「④:②は③とは異なつてゐた、さう⑥は解した」(D1の至大化)⇒「⑤:宣長文の生氣」(④的概念F)⇒E:⑤は「つまるところ、①の中に踏み込む、彼の全く率直な態度から來てゐる。⑥は、『螢の卷』の物語論に着目した、最初の『源氏』研究者であつた」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①②への適應正常。 關係論:①『玉の小櫛』(物:場 C‘)②一體の書(物:場 C‘)③一くさのふみ(物:場 C‘)⇒からの關係:①では、「④:②とか③とか、まことに曖昧な書ざまである」(D1の至大化)⇒「⑤:昔物語とか古物語」(④的概念F)⇒E:文學史研究の進んだ今日でも「當時⑤とか言はれてゐたものの性質が、格別明瞭になつたとも言へない」(⑤への距離不獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應曖昧。 |
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P140《文學(物:場 C‘)の埒外にあつた物語の世界(物:場 C‘)から、型の上ではこの世界(物:場 C‘)を踏襲しつつ、『源氏物語』(物:場 C‘)といふ劃期的な文體を持つた物語文學が、一女房によつて突如として創作された。これが面倒な問題(准據・『源氏』評價の流儀)を、後の文學研究者達に殘した》 關係論:①文學(物:場 C‘)②漢詩文(物:場 C‘)⇒からの關係:①といふ概念の内容が「③:②の解讀(D1の至大化)にあつた⑤の眼には」(D1の至大化)⇒「④:『竹取物語』等」(③的對立概念F)⇒E:④は、女房が「物語の爲に利用した話の筋書程度のもの、と映つてゐた」(④への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑤當時の知識人(△枠):①への適應異常。 關係論:①文學(物:場 C‘)②物語の世界(物:場 C‘)③『源氏物語』(物:場 C‘)⇒からの關係:①の埒外にあつた②から「④:型の上では②を踏襲しつつ、③といふ劃期的な文體を持つた物語文學が⑥によつて突如として創作された」(D1の至大化)⇒「⑤:面倒な問題〔准據(王朝の故事・儒佛の典籍等)・『源氏』評價の流儀〕」(④的對立概念F)⇒E:⑤を「後の文學研究者達に殘した」(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥一女房(式部△枠):②③への適應正常。 關係論:①源平大亂(場 C‘)②紫式部堕地獄傳説(物:場 C‘)③時代の通念(物:場 C‘)⇒からの關係:「④:①の頃、②が出た」⇒「⑤:『源氏』」(④的概念F)⇒E:⑤を「③に從ひ、婦女子の玩物として輕蔑(Eの至小化)してゐながら、知らぬ間に、その強い魅力のいけどり(Eの至大化)になつてゐる⑥の苦境」(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥知識人達(△枠):②への適應異常。 關係論:①詠歌の資料(物:場 C‘)②歌學の參考書(物:場 C‘)③『源氏』(物:場 C‘)⇒からの關係:①として②として③が「④:部分的に利用出來れば⑤には足りた」(D1の至大化)⇒「⑥:『源氏』評價の流儀」(④的概念F)⇒E:當時の歌宗(⑤⑦)によつて始められた「この⑥は江戸期(1673年)の『(源氏物語註釋書)湖月抄』(北村季吟著)まで續く」(⑥への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑤俊成⑦定家(△枠):③への適應異常。 P142:關係論:①武家の世(場 C‘)②宮廷(場 C‘)③和歌(物:場 C‘)④堂上(上級貴族)風・お家風(物:場 C‘)⇒からの關係:①となり②は衰微し、③も④といふ事で⑤の「⑥:内輪のすさび事として固定化」(D1の至大化)⇒「⑦:歌學の參考書」(⑥的概念F)⇒E:⑦も⑥に準じ『源氏傳授』(准據)が言はれる樣になる。公家達が宮廷の盛事をしのぶには、『源氏』をみるのが第一といふ事になれば、研究註釋が要る。『この物語に書ける上は、疑ふべきにあらず』(花鳥餘情)が、舊註時代にはやかましく言はれた(準據説の正體)」(⑦への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑤少數貴族仲間(△枠):②への適應異常。 關係論:①諸抄(物:場 C‘)②教養上の通念(物:場 C‘)③物語(物:場 C‘)④物語の登場人物達(物:場 C‘)⇒からの關係:①の⑦は「⑤:自分達の②を③に投影して」⇒「⑥:儒書佛典」(⑤的概念F)⇒E:⑥に「④の言行の意味合の准據を求めたに過ぎない」(⑥への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑦著者達(△枠):①③への適應異常。 |
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P143《定家『源氏』評(明月記。物:場 C‘)の、『狂言綺語』といふ通念(物:場 C‘)の合理的處理でしか、作者(式部)の鴻才(おほとりの才能)を發見し合理的に評價が出來なかつた》 關係論:①定家『源氏』評(明月記。物:場 C‘)②『狂言綺語』(物:場 C‘)③歌道の妙手(物:場 C‘)④准據した史實(物:場 C‘)⇒からの關係:①の②といふ通念は牢固(D1の至大化)「⑤:②と見えるもののうちにも、③も見分けられ④も發見できる」(D1の至大化)⇒即ち「⑥:通念(『狂言綺語』)の合理的處理」(⑤的概念F)⇒E:かかる⑥で「作者(式部)の鴻才(おほとりの才能)を發見し合理的に評價が可能」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒定家(△枠):①への適應正常。 |
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P143《『この物がたり(物:場 C‘)よむ(D1の至大化)は、紫式部(物:場 C‘)にあひて、まのあたり(D1の至大化)、かの人(物:場 C‘)の思へる心ばへ(物:場 C‘)を語る(D1の至大化)を、くはしく聞く(D1の至大化)にひとし』(玉のをぐし、二の巻)。宣長の言葉は玉鬘の言葉(『ただ、いと、まことの事とこそ思ひ給ひられけれ』)と殆ど同じやうに無邪氣〔『君子はあざむくべし』(素直な心)〕なのである》 關係論:①定家『源氏』評(明月記。物:場 C‘)②『狂言綺語』(物:場 C‘)③玉鬘(物:場 C‘)④『源氏』(物:場 C‘)⇒からの關係:①の②を「⑤:『ただ、いと、まことの事とこそ思ひ給ひられけれ』と言つた③の④鑑賞法は」(D1の至大化)⇒「⑥『君子はあざむくべし』(素直な心)」(⑤的概念F)⇒E:⑥と評した「⑦に、拾ひ上げられるのを待つてゐた。⑦の言葉は③の言葉と殆ど同じやうに無邪氣なのである」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):③④への適應正常。 ~~~以下參照~~ P112?關係論:①物語(物:場 C‘)②素直な心(物:場 C‘)③『欺く可き(欺かれる)』君子の心(物:場 C‘)④式部(物:場 C‘)⇒からの關係:①の入口に先ず必要なのは②。「⑤:言つてみれば③を思へと⑦は言ふ」(D1の至大化)⇒「⑥:『思ひ邪(よこ)しま無し』(⑤的概念F)⇒E:③即ち⑥といふ詩の世界に「玉鬘はそれとは知らず這入つてゐる(Eの至大化)と④はよく知つてゐた」(Eの至大化)、と解する(『紫文要領』)⇒⑦宣長(△枠):①④への適應正常。 |
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P144《宣長の准據評・・・『およそ准據といふ事は、ただ作者の心中にある事にて、後に、それを、ことごとく考へあつるにもをよばぬ事なれ共、古來沙汰有事ゆへ、其おもむきを、あらあらいふ也。緊要の事にはあらず』 》 關係論:①准據の説(物:場 C‘)②『およそ准據といふ事は、ただ作者の心中にある事にて、(中略)緊要の事にはあらず』(物:場 C‘)⇒からの關係:①について「③:②とはつきりした考へを持つ事は誰にも出來なかつた」(D1の至大化)⇒「④:『湖月抄』」(③的對立概念F)⇒E:③の自由な發言から「契沖も眞淵も近附いたのだが、そこまで言切る事は出來なかつた」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①作者(物:場 C‘)⇒からの關係:④が思ひきつてやつてのけた事は「②:①の心中に飛込み①の『心ばへ』を一たん内から摑んだら離さぬといふ、まことに端的な事」(D1の至大化)⇒「③:『源氏』」(②的概念F)⇒E:③を「精しく讀まうとする自分の努力を、③を作り出さうとする①の努力に重ね合はせて、①と同じ向きに歩いた。『およそ准據といふ事は、ただ①の心中にある事』とは、その歩きながらの發言なのである」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P144《宣長が、彼の『源氏』論で、極力警戒したのは、研究の緊要ならざる補助手段(素材)の、越權(物語を構成する要素視)なのである》 關係論:①物語の准據(物:場 C‘)②王朝の故事(物:場 C‘)③儒佛の典籍(物:場 C‘)④物語作者(物:場 C‘)⑤物語(物:場 C‘)⑥素材(物:場 C‘)⇒からの關係:⑨が①として求めた②や③は「⑦:④にすれば、⑤に利用されて了つた⑥に過ぎない」(D1の至大化)⇒「⑧:構成する要素」(⑦的對立概念F)⇒E:⑨はこれら(⑥)を⑤を⑧と見做し、これら(②③の⑥)で『源氏』を再構成出來ると信じた」(⑧への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑨註釋者達(△枠):①への適應異常。 關係論:①『源氏』論(物:場 C‘)②作者の『心ばへ』(物:場 C‘)③作品(物:場 C‘)④准據(物:場 C‘)⇒からの關係:⑦が①で採用した(D1の至大化)④は、「⑤:②の中で變質し、今度は間違ひなく③を構成する要素と化した④だけ。このやり方は徹底的であつた」(D1の至大化)⇒「⑥:物語の准據」(⑤的概念F)⇒E:外部に見附かつた⑥を作者の心中に入れてみよ、その性質は一變する。作者の創作力の内に吸収され、言はば創作の動機としての意味合を帶びる」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):②への適應正常。 |
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P144《宣長は、言語表現といふ問題に直面せざるを得なかつた》 關係論:①准據の説(物:場 C‘)②式部の物語の世界(物:場 C‘)③『現(よ)に有(あり)し』生活世界(實生活)(物:場 C‘)⇒からの關係:從來の①に對する⑥の抵抗(D1の至大化)は、「④:『跡かたもなき(創造の)』②は、彼女の③を超えたものだ、といふ強い考への上に立つ」(D1の至大化)⇒「⑤:物語」(④的概念F)⇒E:即ち「⑤に現れた作者の『心ばへ』は、『日記』に現れた式部の氣質の寫しではない、と言ふ事」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P145《物語(物:場 C‘)とは、『神代よりよにある事を、しるし置きける名なり』(物:場 C‘)。式部(名優△枠)は、われ知らず、國ぶりの物語の傳統を遡り、物語の生命を、その源泉で飲んでゐる》 關係論:①深い自己(物:場 C‘)②物語(物:場 C‘)③『神代よりよにある事を、しるし置きける名なり』⇒からの關係:この⑥は觀客の爲に「④:古女房に成り切つて演じつつ、演技の意味を自覺した①(つまり②とは③)を失ひはしなかつた。②とは③といふ言葉は、其處から發言されてゐる、言はば、この⑥の科白なのである」(D1の至大化)⇒「⑤:國ぶりの物語の傳統」(④的概念F)⇒E:式部(⑥)は、われ知らず、⑤を遡り、「物語の生命を、その源泉で飲んでゐる」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥名優(式部△枠):①②への適應正常。 |
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P146《物語が、語る人(物:場 C‘)と聞く人(物:場 C‘)との眞面目な信頼の情の上に成立つものでなければ、物語は生れもしなかつたし、傳承もされなかつたらう⇒以下》 關係論:①語る人(物:場 C‘)②聞く人(物:場 C‘)③想像力(物:場 C‘)④世(場 C‘)⑤事柄の意味合や價値(物:場 C‘)⑥言葉(物:場 C‘)⇒からの關係:①と②とが、「⑦:互ひに③を傾け合ひ、④にある⑤を、⑥によつて協力し創作する」(D1の至大化)⇒「⑧:物語の塊」(⑦的概念F)⇒E:これ(⑦)が神々の物語以來變らぬ、言はば⑧であり、⑨は、新しい物語を作らうとして、この(⑧の)中に立つた。これ(⑧)を信ずれば足りるといふ立場から、周圍を眺め、『日本紀などは、ただ、かたそば(片傍:片端)ぞかし』と言つた」(⑧への距離獲得:Eの至大化)⇒⑨式部(△枠):⑤⑥への適應正常。 |
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〔十五章 主題〕《説明の補足:二點(P127から『あはれ』:P132から『浮舟』)》 關係論:①『源氏物語』(物:場 C‘)②『あはれ』といふ歌語(物:場 C‘)③『あはれ』といふ日常語(物:場 C‘)④開放される姿(物:場 C‘)⇒からの關係:日常生活の心理の動きが活寫(D1の至大化)された①に⑦は「⑤:②が③に向つて④を見た」(D1の至大化)⇒「⑥:日常の用法の眞ん中(⑤的概念F)⇒E:⑥で、この言葉(『あはれ』)の發生にまで逆上りつつ、この言葉の意味を摑み直さうとした。この努力が『源氏』論に一貫してゐる。これを見失へば、⑦の論述は腑抜けになる」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①『情(こころ)』(物:場 C‘)②歌や物語(物:場 C‘)③『あはれ』(物:場 C‘)⇒からの關係:①についての思索は「④:②のうちから③といふ言葉を拾ひ上げる事で始まつた。この事が①(情=こころ)と呼ぶ分裂を知らない⑥の直觀(D1の至大化)を形成した」(D1の至大化)⇒「⑤:歌・物語の具體的な姿」(④的概念F)⇒E:直觀(『情(こころ)』)は「眼前に明瞭に捕へる事が出來る⑤であり、⑤の意味の解讀を迫る、自足した表現の統一性であつた。これは何度でも考へ直していい事」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①式部の表現のめでたさ(物:場 C‘)②作者の大きな強い意識の姿(物:場 C‘)③浮舟(物:場 C‘)⇒からの關係:①が證してゐるのは、「④:小さな弱い③を取つて食つた②である」(D1の至大化)⇒「⑤:宣長の心眼」(④的概念F)⇒E:とは⑤に映じた「式部が、自分の織つた夢に食はれる、自分の發明した主題(『物のあはれを知る』)に殉ずる有樣」の事を謂ふ」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 |
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〔以下は、十五章 各項纏め〕 |
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P127《『源氏物語』(物:場 C‘)に開放される、『あはれ』といふ日常語の姿(物:場 C‘)。その日常の用法の眞ん中(物:場 C‘)で、この言葉の發生にまで逆上りつつ、この言葉(『あはれ』)の意味を摑み直さうとした。この努力が『源氏』論に一貫してゐる。これを見失へば、宣長の論述は腑抜けになる》 關係論:①『あはれ』(物:場 C‘)⇒からの關係:①とは、「②:『よろづの事の心を、わが心にわきまへしりて、其しなにしたがひて、感ずる』事」(D1の至大化)⇒「③:『あはれ』概念の内包」(②的概念F)⇒E:③を深くつき詰めようとすると「その外延が擴がつて行くといふ事になつた例は、『うしろみのかたの(世帶向き)物のあはれ』(『品定』)」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(『紫文要領』△枠):①への適應正常。 關係論:①『うしろみのかたの(世帶向き)物のあはれ』(物:場 C‘)②『あはれ』(物:場 C‘)③『理(ことわり)』(物:場 C‘)⇒からの關係:①についてで「どんなに深く知つても、知り過ぎる筈はない②の③がある」云々の②の用語は」(D1の至大化)⇒「④物の哀」(③的概念F)⇒E:④を單なる一種の情趣と受取る通念(Eの至小化)から逃れようとして、説明に窮する程、心を砕いてゐた(Eの至大化)證左」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(『紫文要領』△枠):②への適應正常。 關係論:①『源氏物語』(物:場 C‘)②『あはれ』といふ歌語(物:場 C‘)③『あはれ』といふ日常語(物:場 C‘)④開放される姿(物:場 C‘)⇒からの關係:日常生活の心理の動きが活寫(D1の至大化)された①に⑦は「⑤:②が③に向つて④を見た」(D1の至大化)⇒「⑥:日常の用法の眞ん中(⑤的概念F)⇒E:⑥で、この言葉(『あはれ』)の發生にまで逆上りつつ、この言葉の意味を摑み直さうとした。この努力が『源氏』論に一貫してゐる。これを見失へば、⑦の論述は腑抜けになる」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P129《『源氏』の表現の『めでたさ』(物:場 C‘)、即ち『人の情(こころ)のあるやうを書るさま』『くもりなく鏡にうつして、むかひたらむがごとくにて』の迫眞性が、『情(こころ)』のうちに動揺・不安定を推知等の普通の世界の他に、『人の情(こころ)のあるやう』を一擧に、まざまざと直知させる世界の在る事が、宣長に開眼として啓示された》 關係論:①『情(こころ)』(物:場 C‘)②歌や物語(物:場 C‘)③『あはれ』(物:場 C‘)⇒からの關係:①についての思索は「④:②のうちから③といふ言葉を拾ひ上げる事で始まつた。この事が①(情=こころ)と呼ぶ分裂を知らない⑥の直觀(D1の至大化)を形成した」(D1の至大化)⇒「⑤:歌・物語の具體的な姿」(④的概念F)⇒E:直觀(『情(こころ)』)は「眼前に明瞭に捕へる事が出來る⑤であり、⑤の意味の解讀を迫る、自足した表現の統一性であつた。これは何度でも考へ直していい事」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①『情(こころ)』の曖昧な不安定な動き(物:場 C‘)②『源氏』の表現の『めでたさ』(物:場 C‘)⇒からの關係:①に對する②、即ち「③:『人の情(こころ)のあるやうを書るさま』『くもりなく鏡にうつして、むかひたらむがごとくにて』の迫眞性」(D1の至大化)⇒「④:宣長の開眼」(③的概念F)⇒E:④は③による。つまり「『情(こころ)』のうちに動揺・不安定を推知等の普通の世界の他に、『人の情(こころ)のあるやう』を一擧に、まざまざと直知させる世界の在る事が啓示された」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):②への適應正常。 |
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P130《物語(物:場 C‘)には『そら言にして、そら言にあらず』の性質(物:場 C‘)があつて、『人の情(こころ)のあるやう』(物:場 C‘)が心眼に映じて來る道(物:場 C‘)を開いてゐる》 關係論:①『人の情(こころ)のあるやう』(物:場 C‘)②心眼に映じて來る道(物:場 C‘)③物語(物:場 C‘)④『そら言にして、そら言にあらず』の性質(物:場 C‘)⇒からの關係:「⑤:③には④があつて、①が②を開いてゐる」(D1の至大化)⇒「⑥:物語の本質」(⑤的概念F)⇒E:⑥は、「表現の『めでたさ』(別名『そら言』)を『まこと』と呼んで少しも差し支へないところにある事を、率直に認めた」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①②への適應正常。 |
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P130《宣長が、『よろづの事にふれて、感(うご)く人の情(こころ)』と言ふ時に、考へられてゐたのは、『情(こころ)』の感(うご)きの、さういふ(『みるにもあかず、聞にもあまる』といふ想像力の)自然な課程であつた》 關係論:①事物の知覺(物:場 C‘)⇒からの關係:①の働き(D1)は何を知覺したかで停止せず「②:『みるにもあかず、聞にもあまる』といふ風に進展(D1の至大化)する」(D1の至大化)⇒「③:『情(こころ)』の感(うご)き」(②的概念F)⇒E:④が「『よろづの事にふれて、感(うご)く人の情(こころ)』と言ふ時に、考へられてゐたのは、③のさういふ(『みるにもあかず、聞にもあまる』といふ想像力の)自然な課程であつた」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P131《『情(こころ)』の曖昧な働きの曖昧(漠然)さを、働きが生きてゐる刻印(『みるにもあかず、聞にもあまる』)と、そのまま受取る道。宣長が選んだ道はそれ》 關係論:①『よろづの事』(物:場 C‘)②心(物:場 C‘)③事の心(物:場 C‘)④物の心(物:場 C‘)⑤物の哀(物:場 C‘)⇒からの關係「⑥:『①を②にあぢはふ(事物を味識する)』のは『③をしる也、④をしる也、⑤をしるなり』」(D1の至大化)⇒とは即ち「⑦:『情(こころ)』の曖昧な働き」(⑥的概念F)⇒E:⑦の曖昧(漠然)さを、働きが生きてゐる刻印(『みるにもあかず、聞にもあまる』)と、そのまま受取る道。⑧が選んだ道はそれ」(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①『情(こころ)』(物:場 C‘)②事物(物:場 C‘)⇒からの關係:①が『感(うご)』いて、②を味識する樣を、『③:内から生き生きと表現して自證する事は出來る。これは當人にとつて曖昧な事ではない〔即ち、『情(こころ)』の曖昧な働きが、生きてゐる刻印(『みるにもあかず、聞にもあまる』)と受取れる事〕」(D1の至大化)⇒「④:事物を感知する事」(③的概念F)⇒E:④が即ち「事物を生きる事〔即ち、生きてゐる刻印(『みるにもあかず、聞にもあまる』)〕であらうし、又、その意味や價値の表現(『みるにもあかず、聞にもあまる』)に、われ知らず、驅られてゐるとすれば、見る事とそれを語る事(内から生き生きと表現)との別もあるまい」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P131《『人の情(こころ)のあるやう』への内觀(D1の至大化)による意識化が、『世にふる人の有樣』といふ人生圖(物:場 C‘)を式部の心眼(D1の至大化)に描き出し、『みるにもあかず』と觀じさせた》〔參照:P130「『人の情(こころ)のあるやう』(物:場 C‘)が心眼に映じて來る道(物:場 C‘)」〕 關係論:①事物(物:場 C‘)②『情(こころ)』(物:場 C‘)③世界(場 C‘)④『世にふる人の有樣』といふ人生圖(物:場 C‘)⇒からの關係:①と②との緊密な交渉(D1の至大化)が行はれてゐる③への「⑤:内觀(D1の至大化)による意識化が、④を式部の心眼(D1の至大化)に描き出し、『みるにもあかず』と觀じさせた」(D1の至大化)⇒「⑥:表現の『めでたさ』」(⑤的概念F)⇒E:それを、⑥によつて秩序づけ客觀化し得たところを、⑦は『無雙の妙手』と呼んだ」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P132《「風雅とは、歌人が人の情(こころ)のうちに、格別な國を立てて閉じこもるといふやうな事では決してない。『此物語の外に歌道なし』と言つた時に、宣長が觀じてゐたものは、成熟した意識のうちに童心が現れるかと思へば、逆に子供らしさ(『みるにもあかず』)のうちに、意外に大人びたものが見える、さういふ『此物語』の姿だつたに違ひない》 關係論:①『みるにもあかず』(物:場 C‘)②純粋な情(こころ)の感(うご)き(物:場 C‘)③表現のめでたさ(物:場 C‘)④『源氏物語』(物:場 C‘)⇒からの關係:「⑤:全く實用を離れた①と言ふ②が、③を食として(D1の至大化)一と筋に育つなら、④の成熟を得る」(D1の至大化)⇒「⑥:風雅」(的概念F)⇒E:⑥とは、歌人が人の情(こころ)のうちに、格別な國を立てて閉じこもるといふやうな事では決してない。『此物語の外に歌道なし』と言つた時に、⑦が觀じてゐたものは、成熟した意識のうちに童心が現れるかと思へば、逆に子供らしさ(『みるにもあかず』)のうちに、意外に大人びたものが見える、さういふ『此物語』の姿だつたに違ひない」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):①への適應正常。 |
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〔十四章 主題〕norinaga14.pdf へのリンク 關係論:①『源氏』〔めでたき器物(物:場 C‘)〕②『めでたさの秘密』(物:場 C‘)③『其時のならひ』(物:場 C‘)④作家(式部。物:場 C‘)⇒からの關係:⑦が何を置いても語りたかつたのは①の②。即ち「⑤:①の表現(とは、③を自己の内的表現の素材と化した努力)の充實と完璧との力。及び③を吾が物とした④の制作の自由である」(D1の至大化)⇒「⑥:宣長の下心」(⑤的概念F)⇒E:⑥を「これら評釋に讀む事が可能となる」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):①②への適應正常。 關係論:①全的な認識力〔知ると感ずるとが同じ(物:場 C‘)〕②『物のあはれを知る』といふ『道』(物:場 C‘)⇒からの關係:①を「③:高次な經驗(藝術心?)に豐かに育成する道が②」(D1の至大化)⇒「④:思想家」(③的概念F)⇒E:②を語つた④を「式部といふ妙手にみた。『物のあはれ』といふ王朝情趣の描寫家ではなく」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):②への適應正常。 |
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〔以下は、十四章 各項纏め〕 |
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P116《源氏君は、物語の肩を持ち、『よくいへば、すべて何事も、むなしからずなりにやと、物語を、いと、わざとの(本格的)事に、の給ひなしつ』(螢の卷)と言ふ、この段の式部の下心》 關係論:①源氏君の冗談(物:場 C‘)②大作家の創作意識(物:場 C‘)③わざとの(本格的)事(物:場 C‘)⇒からの關係:①に託して「④:思ひ切つた事(即ち②と③)を言つて了へば」(D1の至大化)⇒「⑤:式部の下心(④的概念F)⇒E:⑤は①の「穏やかな議論の袖の蔭に隱れてゐればよいと」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長評釋『紫文要領』(△枠):②への適應正常。 |
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《『源氏物語』が、明らかに示してゐるのは、大作家の創作意識であつて、單なる一才女の成功ではない。これが宣長の考へだ》 關係論:①『源氏』②式部といふ大批評家(物:場 C‘)⇒からの關係:①の中に「③:身を躍らして飛び込んだ時、この⑤は②を發明した」(D1の至大化)⇒「④:①味讀の經驗(③的概念F)⇒E:この④が「①論の中核を存し、そこから本文評釋の分析的深讀みが發してゐるのであつて、その逆ではない」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤大批評家(宣長△枠):②への適應正常。 |
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P117《宣長(△枠)が何を置いても語りたかつた(D1の至大化)のは、『源氏』〔めでたき器物(物:場 C‘)〕の『めでたさの秘密』(物:場 C‘)。即ち『源氏』〔めでたき器物(物:場 C‘)〕の表現(とは、『其時のならひ』を自己の内的表現の素材と化した努力)の充實と完璧との力。及び『其時のならひ』を吾が物とした作家(式部)の制作の自由である》 關係論:②『時のならひ』(樣式・型。物:場 C‘)⇒からの關係:①が②といふ言葉を使ふ時「③:今日流行の歴史の制約・歴史の限界とかいふ考へは念頭には全くなかつた」(D1の至大化)⇒「④:王朝の物語」(③的概念F)⇒E:つまり、「④にはどれも『其時のならひ』を映して(歴史の制約で)、『何となく、しどけなく書ける』型がある、と言ふ樣な見方はしない」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒①宣長(△枠):②への適應正常。 關係論:①『其時のならひ』(樣式・型。物:場 C‘)②内的表現の素材(物:場 C‘)③作家(式部)の努力(物:場 C‘)⇒からの關係:①を「④:出來るだけ意識的に生きて(D1の至大化)、①を自己の②と化した③を見る」(D1の至大化)⇒「⑤『源氏』」(④的概念F)⇒E:⑤が「①を知るには最上であると⑥が言ふ時、①に完結した意味を與へ得た〔即ち自己の②と化した(Eの至大化)〕『和漢無雙の妙手(式部)を思つてゐた」(Eの至大化)(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):③への適應正常。 關係論:①『源氏』〔めでたき器物(物:場 C‘)〕②『めでたさの秘密』(物:場 C‘)③『其時のならひ』(物:場 C‘)④作家(式部。物:場 C‘)⇒からの關係:⑦が何を置いても語りたかつたのは①の②。即ち「⑤:①の表現(とは、③を自己の内的表現の素材と化した努力)の充實と完璧との力。及び③を吾が物とした④の制作の自由である」(D1の至大化)⇒「⑥:宣長の下心」(⑤的概念F)⇒E:⑥を「これら評釋に讀む事が可能となる」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):①②への適應正常。 |
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P118《『源氏』の歴史的位置〔歴史の制約・限界(物:場 C‘)〕、即ち『時のならひ』(樣式・型。物:場 C‘)について、精一杯の體驗を語つて、これ〔『時のならひ』(樣式・型。物:場 C‘)〕を完成した姿(物:場 C‘)に創り上げた(D1の至大化)のは、式部の内部の出來事(物:場 C‘)〔即ち『其時のならひ』を自己の内的表現の素材と化した努力。『其時のならひ』を吾が物とした作家の制作の自由(D1の至大化)〕に屬する》 關係論:①『時のならひ』(樣式・型。物:場 C‘)⇒からの關係:①により「②:『作りやう』には『深きこと、あさきことのけじめ』はあらうが、『心は、深さ淺さのけじめあるべからず』〔とは「時代による文學樣式の在るがままの相違を容認」(源氏君の擁護)する事〕と⑤は評釋する」(D1の至大化)⇒「③:「宣長の下心」(②的概念F)⇒E:③は「源氏君の評釋の裡で、少しも卑下するには當らぬ、と式部に語りかけてゐる」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①『源氏』の歴史的位置〔歴史の制約・限界(物:場 C‘)〕②『時のならひ』(樣式・型。物:場 C‘)③完成した姿(物:場 C‘)④式部の内部の出來事(物:場 C‘)⇒からの關係:①(即ち②)について、精一杯の體驗を語つて、これ(②)を「⑤:③に創り上げた(D1の至大化)のは、④〔即ち『其時のならひ』を自己の内的表現の素材と化した努力。『其時のならひ』を吾が物とした作家(式部)の制作の自由〕に屬する」(D1の至大化)⇒「⑥:無雙の妙手」(⑤的概念F)⇒E:⑥と使ふ時に「はつきり感得して(Eの至大化)ゐたのはその④〔上述〕であつた」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①②への適應正常。 關係論:①その時代(場 C‘)②『おろかに未練なる、兒女子の如くはかなき』物語(物:場 C‘)③後世(C’)④人心の變はらぬ深處(物:場 C‘)⇒からの關係:式部の妙手(D1の至大化)によつて、①の爲に仕上げられた②が③に向つて「⑤:通路を開き(D1の至大化)そのまま④を照明(D1の至大化)するものと⑦に映じたのは當然」(D1の至大化)⇒「⑥:無私」(⑤的概念F)⇒E:後世の④〔即ち⑦自身(△枠)〕への照明(Eの至大化)は、⑥で「傾け盡くさうとする學問(『紫文要領』等)の制作過程の内部で起つた全く自然な出來事だつた」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):②への適應正常。 |
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《『あはれ』と使つてゐるうちに、何時の間にか『あはれ』に『哀』の字を當てて、特に悲哀の意に使はれるやうになつたのは何故か》 關係論:①『あはれ』(物:場 C‘)②『物のあはれ』(物:場 C‘)⇒からの關係:①も②も「③:『同じことだ、そのいささか轉じたるいひざまが②。物は、ひろく言ふ説きに、添ることばなり』(玉のをぐし、二の巻)と」(D1の至大化)⇒「④:『物あはれ』」(③的概念F)⇒E:『源氏』に使はれる④「といふ言葉も同じことと解されてゐる(『紫文要領』)」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①②への適應正常。 關係論:①阿波禮(物:場 C‘)⇒からの關係:①の意は、「②:『みな同じ事にて、見る物、聞く事、なすわざにふれて、情(こころ)の深く感ずることをいふ也』」(D1の至大化)⇒「③:おもしろき事(②的概念F)⇒E:『③、おかしき事などをも、あはれといへることおほし』(石上私淑言)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①『これうれしきは、情の淺きゆえなり』(物:場 C‘)②宣長『物のあはれ』思想(物:場 C‘)⇒からの關係:①の考へは②を「③:理解する上で、極めて大事なもの」(D1の至大化)⇒「④:阿波禮」(③的概念F)⇒E:『④といふ事を、情の中の一つにしていふは、とりわきていふ末の事(本末顛倒)也。その本(もと)をいへば、すべて人の情の、事にふれて感(うご)くは、みな④也』(石上私淑言)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P120《『此物語は、紫式部がしる所の物のあはれよりいできて、(中略)よむ人に物の哀をしらしむるより外の義なく、よむ人も、物のあはれをしるより外の意なかるべし』(『紫文要領』)》 關係論:①意識(物:場 C‘)②心(物:場 C‘)⇒からの關係:①はすべて②に「③:かなはぬ筋(D1の至小化)に現れる。②が行爲のうちに解消(即ち無意識)し難い時(D1の至小化)、②は②を見るやうに促される」(D1の至大化)⇒「④:『心に思ふすぢ』」(③的概念F)⇒E:④に「かなふ場合とかなはぬ場合とでは、情の働き方に相違があるまでの事と解する」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①心(物:場 C‘)②意識⇒からの關係:「③:①と行爲(D1)とのへだたりが②」(D1の至大化)⇒「④:『あはれ』」(③的概念F)⇒E:故に④を「論ずる本(もと)と③を考へてゐた」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):②への適應正常。 關係論:①課題(物:場 C‘)②『物のあはれ』(物:場 C‘)⇒からの關係:①は、②とは何かではなく「③:②を知る(D1の至大化)とは何かであつた」(D1の至大化)⇒「④:『源氏物語』(③的概念F)⇒E:④は「『よむ人に物の哀をしらしむるより外の義なく、よむ人も、物のあはれをしるより外の意なかるべし』」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):②への適應正常。 |
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P120《全的な認識力(知ると感ずるとが同じ)を、高次な經驗(藝術的心?)に豐かに育成する道が『物のあはれを知る』といふ『道』(物:場 C‘)。『物のあはれを知る道』(物:場 C‘)を語つた思想家(物:場 C‘)を、式部といふ妙手に宣長はみた》 關係論:①事の心(物:場 C‘)②物の心⇒からの關係:「③:『わきまへしる所は、よろづの②、①をしるといふもの也』」(D1の至大化)⇒「④:『物のあはれ』(③的概念F)⇒E:④とは「『わきまへしりて、其しなにしたがひて、感ずる所』(『紫文要領』)なり。即ち、知ると感ずるとが同じである樣な全的な認識を説く」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①②への適應正常。 關係論:①よろづの事(物:場 C‘)②心(物:場 C‘)⇒からの關係:①にふれて「③:おのづから②が感(うご)く」(D1の至大化)⇒「④:基本的人間經驗」(③的概念F)⇒E:習ひ覺えた知識や分別には齒が立たぬ(Eの至小化)④「があるといふ事が先づ固く信じられてゐる」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①②への適應正常。 關係論:①心(物:場 C‘)②『わが心』(物:場 C‘)⇒からの關係:①の有りやうは「③:人々が氣樂に考へてゐる②より深い。それが、事にふれて感(うご)く。事に直接に親密に感(うご)く」(D1の至大化)⇒「④:感ずる心」(③的概念F)⇒E:『④は自然と、しのびぬ(抑へられぬ)ところよりいづる物なれば、②ながら、②にもまかせぬ物』(Eの至小化)(④への距離不獲得:Eの至小化)⇒宣長(△枠):①②への適應正常。 關係論:①生きた情(こころ)の働き(物:場 C‘)⇒からの關係:①に不具も缺陷もある筈はない。「②:分裂を知らず、觀點(原理・定義)を設けぬ、全的な認識力(知ると感ずるとが同じ)である筈」(D1の至大化)⇒「③:基本的な經驗」(②的概念F)⇒E:問題は「無私で自足した③〔全的な認識力(知ると感ずるとが同じ)〕を、損はず保持して行く事が難しいところにある」(Eの至小化)(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①全的な認識力〔知ると感ずるとが同じ(物:場 C‘)〕②『物のあはれを知る』といふ『道』(物:場 C‘)⇒からの關係:①を「③:高次な經驗(藝術心?)に豐かに育成する道が②」(D1の至大化)⇒「④:思想家」(③的概念F)⇒E:②を語つた④を「式部といふ妙手にみた。『物のあはれ』といふ王朝情趣の描寫家ではなく」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):②への適應正常。 |
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P122《『情』(物:場 C‘)の特色は感慨(物:場 C‘)であるところにある。『情』(物:場 C‘)は己(物:場 C‘)を顧み、感慨(物:場 C‘)を生み出す(D1の至大化)。『欲』(D1の至小化)は感慨(物:場 C‘)を知らぬ。『欲』(D1の至小化)は實生活(物:場 C‘)の必要・目的を追つて、その爲に己(物:場 C‘)を消費する(D1の至小化)もの》 關係論:①『情』(物:場 C‘)②『欲』(物:場 C‘)⇒からの關係:①は定義されてないが、②ではないといふ「③:はつきりとした限定は受けてゐる」(D1の至大化)⇒「④:現實生活(③的概念F)⇒E:④では分かち難いものだが「①と②は、原理的には區別があるとしてみれば、①とか『あはれ』とかいふ言葉についての誤解が避けられようと考へた」(あしわけをぶね)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①②への適應正常。 關係論:①『情』(物:場 C‘)②感慨(物:場 C‘)③己(物:場 C‘)⇒からの關係:①の特色は②であるところにある。「④:①は③を顧み、②を生み出す」(D1の至大化)⇒「⑤:『欲』」(④的對立概念F)⇒E:⑤は②を知らぬ。「⑤は實生活の必要・目的を追つて、その爲に③を消費するもの」(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①感慨(物:場 C‘)②意識の世界(物:場 C‘)③感動(①と同。物:場 C‘)④認識(②的概念。物:場 C‘)⇒からの關係:①は自主的な②を「⑤:形成する(D1の至大化)傾向があり、③が④を誘ひ(D1の至大化)、④が③を呼ぶ動きを重ねてゐるうちに、豐かにも深くもなる」(D1の至大化)⇒「⑥:『欲』の世界」(⑤的對立概念F)⇒E:⑥から遂に抜け出て「自立する喜びに育ち、喜びに堪へず、その出口を物語といふ表現に求めるのも自然の事」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①②への適應正常。 |
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P122《『物語の本意(物:場 C‘)は、まめ(實)なるとあだ(徒)なる(誠實でない)とは緊要にあらず。物のあはれ(物:場 C‘)を知る(D1の至大化)と知らぬが、よしあしの緊要關鍵なり』(『紫文要領』)》 關係論:①物語(物:場 C‘)②『物の哀』(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②を知らする也「③:『人の情はかくのごとき物ぞ、といふ事を知らする也』」(D1の至大化)⇒「④:あだ(徒)なる(誠實でない)」(③的對立概念F)⇒E:『④は②知らぬに近し。物のあはれをしると、④とは別の事にて、たがひにあづからぬ事也』(『紫文要領』)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①②への適應正常。 關係論:①物語の本意(物:場 C‘)②『物のあはれ』(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②を「③:『知る(D1の至大化)と知らぬが、よしあしの緊要關鍵なり』」(D1の至大化)⇒「④:あだ(徒)なる(誠實でない)」(③的對立概念F)⇒E:④と「『まめ(實)なるとは緊要にあらず』」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(『紫文要領』△枠):①②への適應正常。 |
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P123《宣長が考へてゐたのは、彼が『物語の本意』と認めた『物のあはれを知る』といふ『道』(物:場 C‘)である、即ち以下》 關係論:①『物のあはれを知る』といふ『道』(物:場 C‘)②一定の意味(物:場 C‘)③意識された生き方の軌道(物語創作?物:場 C‘)⇒からの關係:①とは「④:個々の心情の經驗〔(D1の至小化)即ち『あだなる(誠實でない)動き・まめ(實)なる動き』〕に脈絡をつけ〔とは『あだ(徒)なる(誠實でない)とは別の事』と〕、或る②(とは『知ると知らぬが、よしあしの緊要關鍵なり』)に結び(D1の至大化)、③〔つまり、P120『高次な經驗(藝術心?)に豐かに育成する道』〕に乘せる基本的・純粋な經驗の事柄を指す」(D1の至大化)⇒「⑤:『道』」(④的概念F)⇒E:⑤を「考へる以上、これは當然、⑥に要請されてゐる事であつた」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①への適應正常。 ~~~以下參照~~ P120關係論:①心(物:場 C‘)②意識⇒からの關係:「③:①と行爲(D1)とのへだたりが②」(D1の至大化)⇒「④:『あはれ』」(③的概念F)⇒E:故に④を「論ずる本(もと)と③を考へてゐた」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):②への適應正常。 P120關係論:①全的な認識力〔知ると感ずるとが同じ(物:場 C‘)〕②『物のあはれを知る』といふ『道』(物:場 C‘)⇒からの關係:①を「③:高次な經驗(藝術心?)に豐かに育成する道が②」(D1の至大化)⇒「④:思想家」(③的概念F)⇒E:②を語つた④を「式部といふ妙手にみた。『物のあはれ』といふ王朝情趣の描寫家ではなく」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):②への適應正常。 |
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P125《藤壺も紫の上も『物のあはれ』を知る『よき人』の典型である。『物の哀(物:場 C‘)をば、いかにも深くしりて、さて、あだあだし(不誠實)からぬやうにたもつを、よきほどといふ也』(注:紫の上曰く『わが心ながらも、よき程には、いかで保つべきぞ』)(『紫文要領』)》 關係論:①『式部が心』(物:場 C‘)②物の哀(物:場 C‘)⇒からの關係:①は「③:『我執をはなれ、人情にしたがへる書ざま、とりもなをさず、②を知れる書ざま也』」(D1の至大化)⇒「④:『本意』」(②的概念F)⇒E:『④は②にある事をしるべし』(『紫文要領』)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①式部(物:場 C‘)②紫の上(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②に「③:『わが心ながらも、よき程には、いかで保つべきぞ』と言はせてゐる。この『よき程に保つ』事は、まことに困難だと嘆く意味合は」(D1の至大化)⇒「④:源氏君」(③的概念F)⇒E:④が「藤壺の『足らず、又、さし過ぎたること』のない心を思つて、稀有の事と嘆ずる言葉に通ずるものだ、と⑤は説く」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(『紫文要領』△枠):①への適應正常。 關係論:①物の哀(物:場 C‘)④あだなるべき物(物:場 C‘)⇒からの關係:『②:①をば、いかにも深くしりて、さて、あだあだし(不誠實)からぬやうにたもつを、よきほどといふ也(注:紫の上曰く『わが心ながらも、よき程には、いかで保つべきぞ』)」(D1の至大化)⇒「③『實(まめ)なるべき物』」(②的概念F)⇒E:『①をしればとて、④にもあらず、しらねばとて③にもあらず。そこをよくたもつ人はなきものにて、①をしり過ぎれば、あだなるが多きゆへに、かくいへる也』(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(『紫文要領』△枠):①への適應正常。 |
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P125《式部(物:場 C‘)曰く『すべて男も女も、わろもの(劣者)は、わずかに知れるかたの事を、のこりなくみせつくさむ(全てと押し通さう)と思へるこそ、いとほしけれ(いやである)』》 關係論:①『物語の本意』(物:場 C‘)②『物のあはれを知る』といふ『道』(物:場 C‘)③理想(C)⇒からの關係:①即ち②は「④:現實には『有り難き』、まさに③の觀念(BC)としての力があるといふ純粋な意味合での③」(D1の至大化)⇒「⑤:現實(A)」(④的對立概念F)⇒E:⑤に固執する(Eの至小化)者が、「自分の都合(相對觀)で拾つたり捨てたりする理想(A’⇒A)でも目的でもない。⑥はそれを言ひたい」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①作者(式部)の本意(物:場 C‘)②『物のあはれしり過る』(物:場 C‘)③物の哀(物:場 C‘)⇒からの關係:①を汲めば②の「④:『過る』といふ言葉の意味合は、『よろづの事に、物の哀をしりがほつくりて、けしきばみ、よしめきて、さし過たる事也。それは、誠に③しれるにはあらず』(D1の至大化)⇒「⑤:しらぬ人」(④的概念F)⇒E:『必ず⑤に、さやうなるが多きもの也』(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒宣長(『紫文要領』△枠):①への適應正常。 關係論:①『物のあはれ』(物:場 C‘)②式部(物:場 C‘)③本意(物:場 C‘)⑥無心無垢(物:場 C‘)⇒からの關係:誠に①を知つてゐた②は、「④:決して③を押し通さうとはしなかつた」(D1の至大化)⇒「⑤:我執」(④的對立概念F)⇒E:通さうとする賢しらな⑤が「⑥にも通ずる③を臺なしにして了ふ。それに氣附かないのが、世の劣者(わろもの)の常」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(『紫文要領』△枠):①への適應正常。 |
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〔十三章 主題〕norinaga13.pdf へのリンク P110《『此物がたり(物:場 C‘)をよむは、紫式部(物:場 C‘)にあひて、まのあたり、かの人の思へる心ばへ(物:場 C‘)を語る(D1の至大化)を、くはしく聞く(D1の至大化)にひとし、・・・』(玉のをぐし、二の巻)》 關係論:①宣長の開眼(物:場 C‘)②『源氏』(物:場 C‘)⇒からの關係:①とは「③:②が人の心を『くもりなき鏡にうつして、むかひたらむ』が如くに見えた(D1の至大化)、といふその事」(D1の至大化)⇒「④:人間觀」(③的概念F)⇒E:終生變はらぬ④が「その感動のうちに定着した」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):②への適應正常。 關係論:①『源氏』(物:場 C‘)⇒からの關係:①には「②:『よの中の、物のあはれのかぎりは、のこることなし(語り盡くされてゐる)』(玉のをぐし、二の巻)」(D1の至大化)⇒「③作者の天才」(②的概念F)⇒E:③が「④の心のうちで目覺める(Eの至大化)、さういふ風に讀んだ。これは分析の近附き難い(Eの至小化)事柄だ」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④宣長(△枠):①への適應正常。 |
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〔以下は、十三章 各項纏め〕 |
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P106《通説では、『物のあはれ』の用例は、『土佐日記』まで遡る》 關係論:①『貫之:古今集序』(物:場 C‘)⇒からの關係:①は「②歌の價値や傳統に關する、わが國最初の整理された自覺である」(D1の至大化)⇒「③:『もののあはれ』論(②的概念F)⇒E:③を「書く起點として④は①を選んだ」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P106《『もののあはれ』(物:場 C‘)といふ言葉は、貫之によつて發言されて以來、歌文に親しむ人々にとつて、長い間使はれて來て、當時(宣長時代)ではもう誰も格別な注意も拂はなくなつた、極く普通な言葉だつた》 關係論:①『もののあはれ』(物:場 C‘)⇒からの關係:①の平凡陳腐な歌語を「②:④は取り上げて吟味し、その含蓄する意味合の豐かさに驚いた(D1の至大化)。その記述が①論」(D1の至大化)⇒「③:文學の本質論」(②的對立概念F)⇒E:③の「型のうちに閉じ込めようとしたとは言ひ難い。漠然たる言葉(①)を、巧妙に定義して(Eの至小化)事を濟まさうとしたものではない」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④宣長(△枠):①への適應正常。 ~~~以下參照:仁齋~~ 關係論:①仁齋(物:場 C‘)②何も彼も(物:場 C‘)③『最上至極宇宙第一書』(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②が「④:よく見えてゐた」(D1の至大化)⇒「⑤:『論語』が聖典(④的概念F)⇒E:⑤であるとは當時の通念(E)であつて「③は、⑤と聞いて安心(通念:E)してゐる⑥の耳には綺語(F)と聞える(Eの至小化)。①が見抜いてゐたのはその事。この、時代(C’)の通念(E)といふものが持つた、淺薄(Eの至小化)で而も頑固な性質(Eの至小化)であつた」(Eの至小化)(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥當時人(△枠):①③への適應異常。 |
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P107《古き書どもを考へ見て、なほふかく按ずれば、大方歌道は、あはれの一言より外に、餘義なし、(中略)此道の極意をたずぬるに、又あはれの一言より外なし、伊勢源氏等物語、その本意をたずねれば、あはれの一言にて、これをおほふべし・・(安波禮辯:二十九歳)》 關係論:①『もののあはれ』(物:場 C‘)⇒からの關係:④は①の「②:平凡な言葉の持つ表現性の絶對的な力(D1の至大化)を、はつきり自覺して驚くのである」(D1の至大化)⇒「③:言葉の多義(②的概念F)⇒E:③を「追つて行つても、樣々な意味合をことごとく呑み込んで、この言葉(①)は少しも動じない、その元の姿を崩さない。自分自身しか語つてはゐない」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P108《宣長(物:場 C‘)は、貫之古今集仮名序の言ふ『心』(物:場 C‘)を『物のあはれを知る心』(物:場 C‘)と斷ずれば足りるとした(D1の至大化)。この歌學の基本觀念(物:場 C‘)が、俊成の『幽玄』(物:場 C‘)定家の『有心』(物:場 C‘)といふ風に、歌の風體論(物:場 C‘)の枠内で、いよいよ繊細に分化(D1の至小化)し、歌人の特權意識(物:場 C‘)のうちに急速に衰弱する(D1の至小化)歴史(C‘)が見えてゐた(D1の至大化)が爲である》 關係論:①『もののあはれ』(物:場 C‘)⇒からの關係:言はば楫取からの、①とは何かと言ふ正直な素朴な問ひ方から「②:①の問題の深さを悟つて考へ始めた」(D1の至大化)⇒「③貫之:古今集眞名序の『幽玄』」(②的對立概念F)⇒E:③などといふ言葉には眼もくれず(Eの至小化)、「仮名序の言ふ『心』を『物のあはれを知る心』と斷ずれば(Eの至大化)足りるとした」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①『あはれ』(物:場 C‘)②歌語(物:場 C‘)③平語(物:場 C‘)⇒からの關係:①といふ②を洗煉するのとは逆に「④:②の枠から外し、ただ①といふ③に向かつて放つ(D1の至大化)といふ道を⑥は行つた」(D1の至大化)⇒「⑤:平語(『あはれ』)の深さ」(④的對立概念F)⇒E:⑤に「貫之は、特に注目しなかつた」(Eの至小化)(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P109《宣長(△枠)は、『源氏』(物:場 C‘)を評して(D1の至大化)、『やまと、もろこし、いにしへ、今、ゆくさきにも、たぐふべきふみはあらじとおぼゆる』(玉のをぐし、二の巻)と言ふ。異常な評價(D1の至大化)である》 關係論:①『源氏』(物:場 C‘)⇒からの關係:⑥は①によつて開眼(D1の至大化)した。楫取の身になつた自分の問ひ(平語の『あはれ』とは何か)に、①は「②:充分に答へた、と信じた。問題は⑥自身が驚いた程深かつた」(D1の至大化)⇒「③:異常な物語」(②的概念F)⇒E:⑥は①を③と「讀んだ。これは大事な事である」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①への適應正常。 |
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p109《『おほかた人のまことの情といふ物(物:場 C‘)は、女童のごとく、みれんに、おろかなる物也、男らしく、きつとして、かしこきは、實の情にはあらず、それはうはべをつくろひ、かざりたる物也、實の心のそこ(物:場 C‘)を、さぐりてみれば、いかほどかしこき人も、みな女童にかはる事なし』(『紫文要領』、巻下)》 關係論:①宣長の開眼(物:場 C‘)②『源氏』(物:場 C‘)⇒からの關係:①とは「③:②が人の心を『くもりなき鏡にうつして、むかひたらむ』が如くに見えた(D1の至大化)、といふその事」(D1の至大化)⇒「④:人間觀」(③的概念F)⇒E:終生變はらぬ④が「その感動のうちに定着した」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):②への適應正常。 |
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P110《『此物がたり(物:場 C‘)をよむは、紫式部にあひて、まのあたり、かの人の思へる心ばへ(物:場 C‘)を語る(D1の至大化)を、くはしく聞くにひとし、・・・』(玉のをぐし、二の巻)》 關係論:①『源氏』(物:場 C‘)⇒からの關係:①には「②:『よの中の、物のあはれのかぎりは、のこることなし(語り盡くされてゐる)』(玉のをぐし、二の巻)」(D1の至大化)⇒「③作者の天才」(②的概念F)⇒E:③が「④の心のうちで目覺める(Eの至大化)、さういふ風に讀んだ。これは分析の近附き難い(Eの至小化)事柄だ」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④宣長(△枠):①への適應正常。 |
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《文學の歴史的評價〔別名『其時のならひ』(物:場 C‘)とも〕といふ概念は、反省を進めてみれば、反省の重荷には到底堪へられぬ、疑はしい概念》 關係論:①豐かな表現力を持つた傑作(物:場 C‘)⇒からの關係:①は「②:理解者の行ふ一種の冒險(D1の至大化)、(即ち)實證的關係〔文學の歴史的評價・物差し(D1の至小化)〕を踏み超えて來る(D1の至大化)、無私(D1の至大化)な全的な共感に出會ふ機會を待つてゐるものだ。機會がどんなに稀であらうと、この機を捕らへて新しく息を吹き返さう(D1の至大化)と願つてゐるものだ」(D1の至大化)⇒「③:古典」(②的概念F)⇒E:それが③の驚くべき永續性。「④が行つたのは、この種の冒險(即ち「歴史的評價を踏み超えての無私な全的な共感」)であつた」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P112《宣長は『源氏』をめでたき器物(物:場 C‘)と見た。めでたき器物(物:場 C‘)をよく見る人(冒險、即ち「無私・全的共感」)には、その『細工人(紫式部)』(物:場 C‘)がその『作りやう』(D1の至大化)を語る言葉が聞えてくる》 關係論:①『源氏』(物:場 C‘)②めでたき器物(物:場 C‘)③自立した客觀物(物:場 C‘)④『細工人(紫式部)』(物:場 C‘)⇒からの關係:①の表現世界は②の如く、きつぱりと③と化してゐる。「⑤:②をよく見る人(冒險、即ち「無私・全的共感」)には、②の④がその『作りやう』(D1の至大化)を語る言葉が聞えてくる」(D1の至大化)⇒「⑥:『紫文要領』(⑤的概念F)⇒E:⑥を熟讀すれば「⑦の比喩の奥行きは深い」(Eの至大化)(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①『源氏』といふ名物語(物:場 C‘)②物語の道(物:場 C‘)⇒からの關係:①は「③:その自在な表現力によつて、②も同時に語つた」(D1の至大化)。⇒「④:歌の道」(③的概念F)⇒E:④とは何かと問ふ⑤に、「②といふ形で答へた。『源氏』を、そこまで踏込んで讀んだ人はなかつた」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①②への適應正常。 |
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《『此段(玉鬘の會話;螢の卷)、(中略)何となき所に、ゆるやかに、大意をしらせ、さかしげに、それとはいはべど、それと聞かせて、書きあらはせる事、和漢無雙の妙手といふべし』(『紫文要領』)》 關係論:①『玉鬘の會話(螢の卷)』(物:場 C‘)②式部(物:場 C‘)⇒からの關係:①を⑤は②が「③:『源氏物語』の本意を寓したものと見た」(D1の至大化)⇒「④:深讀み」(③的概念F)⇒E:④は⑤が「古典の意味を再生させた評釋の無雙の名手だつた所以」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①物語(物:場 C‘)②式部(物:場 C‘)⇒からの關係:②には①の娯樂の世界が「③:高度に自由な想像の場所と映じてゐた」(D1の至大化)⇒「④:俗文學」(③的對立概念F)⇒E:そして「女童子の娯樂を目當てとする④といふ當時の知識人の常識をはつきり知つてゐて、これに少しも②は逆らはなかつた」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)、と讀んだ⇒⑤宣長(△枠):②への適應正常。 |
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《宣長は、玉鬘の返答を評釋し、ここには、特に式部(物:場 C‘)の『下心』は見えないが、言つてみれば、『君子はあざむくべし』(『思ひ邪(よこ)しま無し』)といふ言葉を思へといふ心はある、と書いてゐる(『紫文要領』)》 關係論:①物語(物:場 C‘)②素直な心(物:場 C‘)③『欺く可き(欺かれる)』君子の心(物:場 C‘)④式部(物:場 C‘)⇒からの關係:①の入口に先ず必要なのは②。「⑤:言つてみれば③を思へと⑥は言ふ」(D1の至大化)⇒「⑥:『思ひ邪(よこ)しま無し』(⑤的概念F)⇒E:③即ち⑥といふ詩の世界に「玉鬘はそれとは知らず這入つてゐる(Eの至大化)と④はよく知つてゐた」(Eの至大化)、と解する(『紫文要領』)⇒⑦宣長(△枠):①④への適應正常。 |
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《宣長(△枠)は、源氏の冗談(螢の卷。物:場 C‘)に、式部の『下心』(物:場 C‘)を讀む(D1の至大化)》 關係論:①源氏の冗談(螢の卷。物:場 C‘)②式部の『下心』(物:場 C‘)⇒からの關係:⑤は①に②を讀む。「③:物語こそ『神代より、よにある事を、徴をきける名なり、日本紀などは、かたそば(片側?)ぞかし・・』」(D1の至大化)⇒「④:作者の自信」(③的概念F)⇒E:④を②は「秘めて現さなかつた。①で笑はさなかつたら、『讀者に(驕りを)あざけられん事を、その難を逃れん爲に、かくいへる也』と」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①への適應正常。 |
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《『心にばかり思ふては、やみがたき物にて、必ず人々にかたり、きかせまほしき物なり』『その心のうごくが、すなはち、物の哀をしるといふ物なり』》 關係論:①『めづらし・おそろし・かなし・おかし・うれし、と思ふ事』(物:場 C‘)⇒からの關係:①の「②:『心のうごくが、すなはち、物の哀をしるといふ物なり』」(D1の至大化)⇒「③:物語」(②的概念F)⇒E:『されば此③、物の哀をしるほかなし(『紫文要領』)』(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 |
《一から十二章迄:各主題及び各項の「關係論」的纏め》:toujyu.pdf へのリンク
PP圖參照⇒『本居宣長』newhp.norinaga.pdf へのリンク
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〔一章:主題〕 關係論:①宣長 の謎(物:場C‘)⇒からの關係:「②分析しにくい感情が動揺する(D1の至小化)」(①への愛・信(D1の至大化)を基盤)⇒「③分析成功の可否」(②的概念)⇒③は不見當(Eの至小化)⇒小林の記述方針(△枠)。 |
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〔一章各項:纏め〕 |
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P11《宣長(物:場 C‘)といふ謎めいた人が、私(△枠)の心の中にゐて(D1)、これを廻つて、分析しにくい(D1の至小化)感情が動揺してゐる(D1の至小化)やうだ。私(△枠)が、ここで試みる(物:場 C‘)のは、相も變らず、やつてみなくて(D1)は成功する(D1の至大化)かしないか見當のつき兼ねる(D1の至小化)企てである》 關係論:①宣長・謎(物:場 C‘)⇒からの關係:「②分析しにくい(D1の至小化)感情」⇒③成功の可否(②的概念F)⇒不見當(Eの至小化)⇒小林(△枠)。 |
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P13《遺言書(物:場 C‘)は、ただ彼の人柄(物:場 C‘)を知(D1)る上の好資料(物:場 C‘)であるに止まらず、彼(物:場 C‘)の思想の結實(D1の至大化)であり、敢て最後の述作(物:場 C‘)と言ひたい趣》 關係論:①遺言書〔最後の述作(物:場 C‘)〕⇒からの關係:②思想の結實(D1の至大化)⇒「③検死人の手記的記述」(②的概念:F)⇒③は「全く宣長の④文體」(Eの至大化)⇒宣長(△枠)。 |
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P17《遺言書(物:場 C‘)後の『まくらの山』(C‘)三百首は、文の姿(物:場 C‘)は、櫻(物:場 C‘)との契り(D1の至大化)は、彼(△枠)にとつて、どのやうなものであつたか、或は、遂にどのやうな氣味合(D1の至大化)のものになつたかを、まざまざと示してゐる》 關係論:①櫻花(物:場 C‘)⇒ からの關係:②ふかきいろとも見えなくに(D1の至小化)⇒③ちしほ(②の對立的概念:F)⇒に④そめる(③への距離獲得:Eの至大化)⇒わがこころ(△枠) :①への適應正常。 |
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P19《彼(△枠)にしてみても、物ぐるほしい(狂ほし・狂つてゐる:D1の至小化)のは、また我が心(物:場 C‘)でもあつたであらうか。彼(宣長)には、塚(墓)の上(C‘)の山櫻(物:場 C‘)が見えてゐた(D1の至大化)やうである》 《櫻花(物:場 C‘) ふかきいろとも 見えなくに ちしほにそめる(D1の至大化) わがこころ(△枠)かな ・・・ 關係論:①櫻花(物:場 C‘)⇒ からの關係:②ふかきいろとも見えなくに(D1の至小化)⇒③ちしほ(②の對立的概念:F)⇒に④そめる(③への距離獲得:Eの至大化)⇒わがこころ(△枠) :①への適應正常 》 |
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〔二章:主題〕 關係論:①宣長(物:場C‘)⇒からの關係:①の「②學問・思想」⇒「③『葦別小舟』のいつも漕ぎ手は一人といふ姿・自分はかく考へると言ふ肉聲」(②的概念)⇒①の③は不變⇒①を判讀・信じた弟子(△枠)の誤解:①への適應異常〔①の姿(物:場 C‘)は似せ難し〕。 |
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〔二章各項:纏め〕 P21《彼(物:場 C‘)の精力的な研究と講義(D1の至大化)とは、死の直前(場 C‘)までつづいた(D1の至大化)のであつて、精神の衰弱(D1の至小化)も肉體の死(F)の影(E)も、彼の遺言書(物:場 C‘)には、先づ係はりはない(D1の至小化)&(Eの至小化)》 關係論:①遺言書(物:場 C‘)⇒からの關係:①には精神の衰弱(D1の至小化)も⇒肉體の死(F)⇒の影(E)も係はりはない(Eの至小化)⇒宣長(△枠)。 |
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P22《自分(△枠)で自分の葬式(F)を、文章の上で、出してみよう(Eの至大化)とした健全な思想家(物:場 C‘)の姿(物:場 C‘)が、其處にある(D1の至大化)と見てよい。遺言書(物:場 C‘)と言ふよりむしろ獨白(D1)であり、信念の披瀝(D1の至大化)と、私(△枠)は考へる(D1)》 關係論:①健全な思想家(物:場 C‘)の姿(物:場 C‘)⇒からの關係:信念の披瀝〔②遺言書(D1の至大化) 〕⇒③自分の葬式(②的概念:F)⇒③を文章の上で出してみようとしただけ(②への距離獲得:Eの至大化)⇒自分(宣長△枠):①への適應正常。 |
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《山室山の歌(F)にしてみても、辭世(物:場 C‘)といふやうな『ことごとしき』(大袈裟な・仰々しい)意味合(D1の至小化)は、少しもなかつたであらう。ただ、今度自分(△枠)で葬式(F)を出す事にした(Eの至大化)、と言つた事だつたであらう。私(△枠)に興味がある(D1)のは、宣長(物:場 C‘)といふ一貫した人間(物:場 C‘)が、彼(物:場 C‘)に、最も近づいた(D1の至大化)と信じてゐた(D1の至大化)人々の眼(△枠)にも、隱れてゐた(D1の至小化)といふ事である〔とは即ち、『姿(物:場 C‘)は似せ難し』といふ事では?〕》 關係論:①宣長(物:場 C‘)といふ一貫した人間〔 姿(物:場 C‘) 〕⇒からの關係:①に「②最も近づいたと信じてゐた(D1の至大化)」⇒「③山室山の歌の誤解(②的親近概念:F)⇒④(③の「意は似せ易し(理解し易し)と捉へた(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒弟子達(△枠):①への適應異常〔①姿(物:場 C‘)は似せ難し〕。 |
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P23《山室山の歌(F)にしてみても、辭世(物:場 C‘)といふやうな『ことごとしき』(大袈裟な・仰々しい)意味合(D1の至小化)は、少しもなかつたであらう。ただ、今度自分(△枠)で葬式(F)を出す事にした(Eの至大化)、と言つた事だつたであらう。私(△枠)に興味がある(D1)のは、宣長(物:場 C‘)といふ一貫した人間(物:場 C‘)が、彼(物:場 C‘)に、最も近づいた(D1の至大化)と信じてゐた(D1の至大化)人々の眼(△枠)にも、隱れてゐた(D1の至小化)といふ事である〔とは即ち、『姿(物:場 C‘)は似せ難し』といふ事では?〕》 關係論:①宣長(物:場 C‘)といふ一貫した人間〔 姿(物:場 C‘) 〕⇒からの關係:①に「②最も近づいたと信じてゐた(D1の至大化)」⇒「③山室山の歌の誤解(②的親近概念:F)⇒④(③の「意は似せ易し(理解し易し)と捉へた(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒弟子達(△枠):①への適應異常〔①姿(物:場 C‘)は似せ難し〕。 |
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P23《この誠實な思想家(宣長:物:場 C‘)は、言はば、自分の身丈(物:場 C‘)に、しつくり合つた(D1の至大化)思想(D1)しか、決して語らなかつた(D1の至大化)。その思想(D1の至大化)は、知的(F)に構成(E)されてはゐるが、又、生活感情(物:場 C‘)に染められた文體(物:場 C‘)でしか表現出來ぬ(D1の至小化)ものでもあつた〔即ち「自分の身丈(物:場 C‘)に、しつくり合つた(D1の至大化)思想(D1)」〕。この困難(D1の至小化)は、彼(△枠?)によく意識(D1の至大化)されてゐた。だが、傍觀的(F)な、或は一般觀念(F)に頼る(Eの至小化)宣長(物:場 C‘)研究者達(△枠)の眼に、先づ映ずる(Eの至小化)ものは彼(物:場 C‘)の思想構造(F)の不備や混亂(E)であつた》 關係論:*宣長の①生活感情(物:場 C‘)に染められた文體(物:場 C‘)・自分の身丈(物:場 C‘)に合つた思想(物:場 C‘)⇒からの關係:①の「②表現困難性を(宣長は)意識」⇒③思想構造(②的概念F)⇒③に不備や混亂が先に眼に映じてしまふ(Eの至小化)⇒研究者達(△枠)。 |
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P24《宣長(物:場 C‘)の思想の一貫性(D1の至大化)を保證してゐたものは、彼の生きた個性の持續性(物:場 C‘)にあつたに相違ないといふ事、これ〔生きた個性の持續性(物:場 C‘)〕は、宣長(物:場 C‘)の著作の在りのままの姿(物:場 C‘)から、私(△枠)が、直接感受(D1の至大化)してゐるところだ。(そして)この名優(物:場 C‘)によつて演じられた(D1の至大化)のは、わが國の思想史(物:場 C‘)の上での極めて高度な事件〔思想の劇(物:場 C‘)〕であつた》 關係論:①宣長の生きた個性の持續性(物:場 C‘)②著作の在りのままの姿(物:場 C‘)⇒からの關係:①は思想の一貫性(D1の至大化)を保證。①を②から「③直接感受」〔即ち、②の『直接な取引き的發言(肉聲:D1の至大化)』を捜し求め(D1の至大化)これを明瞭化(D1の至大化)』〕⇒「④自他の主張(F)」(③の對立的概念)⇒④との距離把握:④を『極度に抑制・斷念』(Eの至大化)⇒小林(批評)(△枠)。:①への適應正常。 |
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P24《PP圖:宣長(物:場 C‘)の學問(D1の至大化)なり思想(D1の至大化)なりは、最初の著述『葦別小舟(あしわけおぶね)』(物:場 C‘)以來、『萬葉』(物:場 C‘)に、『障り多み』と詠まれた川(物:場 C‘)に乗り出した小舟(『葦別小舟』物:場 C‘)の、いつも漕ぎ手は一人といふ姿(物:場 C‘)【即ち、『自分(物:場 C‘)はこのやうに考へる』〔D1の至大化:考へるヒント(手續き)〕といふ、宣長(物:場 C‘)の肉聲(D1の至大化)】を變へはしなかつた(D1の至大化)》 關係論:①宣長(物:場 C‘)⇒からの關係:①の「②學問(D1の至大化)思想(D1の至大化)」⇒「③小舟(『葦別小舟』)のいつも漕ぎ手は一人といふ姿・自分はこのやうに考へると言ふ肉聲」〔(②的概念F)即ち『考へるヒント(手續き)』〕⇒③を變へはしなかつた(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長を一番判讀したと信じた(D1の至大化)人々の誤解(△枠):①への適應異常。 |
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〔三章:主題〕 關係論:①學者生活(物:場 C‘)⇒からの關係:①を終生支へた(D1の至大化)「②醫業(D1)」⇒帳簿名「③濟世」錄(②的概念:F)⇒③を學問上著作では「④決して使ひたがらなかつた」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠) :①への適應正常。 |
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〔三章各項:纏め〕 P25《醫〔(D1)(A‘⇒A)〕は生活の手段(A‘⇒A)に過ぎなかつたが、『おのれ(△枠)いさぎよからん(D1の至大化)とて、親先祖のあと(物:場 C‘)を、こころともてそこなはん〔(D1の至小化)(A’⇒A)缺如〕は、いよいよ道〔(D1の至大化)(B⇒C)〕の意にあらず、力の及ばむ(D1の至大化)かぎりは、産業(A‘⇒A)を、まめやか(D1の至大化)につとめて、家をすさめず(D1の至小化)、おとさざらん(D1の至小化)、これのりなが(物:場 C‘)がこころ(物:場 C‘)也』》 關係論:①親先祖のあと(物:場 C‘)⇒からの關係:②道の意(D1の至大化)⇒③産業(②的概念F)⇒③まめやかにつとめて、家をすさめず(③への距離獲得:Eの至大化)⇒のりなががこころ(△枠)。 |
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P29《前にあげた『これのりなががこころ也』の文章(物:場 C‘)にしても、その姿(物:場 C‘)は、この階段【思想〔(物:場 C‘)&B⇒C〕と實生活〔(物:場 C‘)&A’⇒A〕との通路〔昇降(D1)〕】にそつくりなのである。その姿(物:場 C‘)を感じ取るべし》 關係論:①思想〔(物:場 C‘)&B⇒C〕と實生活〔(物:場 C‘)&A’⇒A〕⇒からの關係:①への②通路〔昇降(D1)〕⇒③箱形の階段(②的概念F)⇒④取外しも自由(③への距離獲得:Eの至大化)⇒のりなががこころ(△枠)。 |
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P29《「彼の充實した自己感(『肉聲』:物:場 C‘)」・・・「やつて來る現實(場 C‘)の事態(物:場 C‘:實生活)は、決してこれを拒まない(D1の至大化)といふのが、私(△枠)の心掛け(D1の至大化)だ〔實生活(A’⇒A)は(A‘⇒A)と思想B⇒CはB⇒Cとの合一化?〕、彼はさう言つてゐる(D1の至大化)だけ」。その心掛け(D1の至大化)が「學問(D1の至大化:B⇒C)をする事を、男子(物:場 C‘)の本懐(D1の至大化)に育て上げ(D1の至大化)て來た」》 關係論:*①現實(場 C‘)の事態(物:場 C‘:實生活)⇒からの關係:①を「②決して拒まない(D1の至大化)」⇒『③醫は仁術也と方外(診療代金)』の二律背反(②的概念F)⇒その心掛け〔④實生活(A’⇒A)は(A‘⇒A)。思想B⇒CはB⇒C〕(③への距離獲得:Eの至大化)⇒男子の本懐(△枠)。 |
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P30《宣長(物:場 C‘)の晩年の詠(物:場 C‘)・・・門人『村上圓方によみてあたふ、――家のなり(A’⇒A)、なおこたりそね、みやびをの(B) 書はよむ(B)とも 歌はよむ(B)共』といふのがある。宣長(物:場 C‘)は、生涯、これを怠らなかつた(D1の至大化)。これは、彼(物:場 C‘)の思想(D1の至大化)を論ずる(D1)もの(△枠)には、用のない事とは言へない(D1の至大化)》 關係論:①學者生活(物:場 C‘)⇒からの關係:①を終生支へた(D1の至大化)「②醫業(D1の至大化)」⇒帳簿名「③濟世」錄(②的概念F)⇒③を學問上著作では「④決して使ひたがらなかつた」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠)①&②への適應正常。 |
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〔四章:主題〕 關係論:①よく信じられた彼の自己(物:場 C‘)即ち『彼(物:場 C‘)の裡に深く隱れてゐる或るもの(物:場 C‘)』⇒からの關係:①の「②言ひ難い魅力(D1の至大化)を直知。何とか解きほぐしてみたい」(D1の至大化)⇒「③環境といふ原因・思想の樣々な特色(F)」(②の對立的概念F)⇒E:③を「④明らめよう(E)・分析説明する(E)」(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒④の歴史家(△枠)と②の小林との相違(△枠)。 |
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〔四章各項:纏め〕 P33《先方(△枠)の料簡(F)などには頓着なく(Eの至小化)、自分(物:場 C‘)の都合だけ(D1の至大化)を、自分(物:場 C‘)の言ひたい事だけ(D1の至大化)を言ふのは、恐らく彼(物:場 C‘)にとつては、全く自然な事〔D1の至大化:即ち『まことに素直(D1の至大化)な正直(D1の至大化)な文の姿(物:場 C‘)』〕であつた。『物(物:場 C‘)まなびの力』(D1の至大化)は、彼のうち(物:場 C‘)に、どんな圭角(性格のかど:D1の至小化)も作らなかつた。彼の思想(物:場 C‘)は、戦闘的な性質(D1の至小化)の全くない、本質的な平和(D1の至大化)なものだつた》 P33關係論:①宣長(物:場 C‘)②物まなびの力(物:場 C’) ⇒からの關係:②は①の内に「③圭角(性格のかど:D1の至小化)」を作らなかつた(D1の至大化)。⇒故に「④先方の料簡」(③的概念F)⇒などには頓着なかつた(④への距離獲得:Eの至大化)。⇒先方(△枠)。 |
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P35《『さかしら(賢しら)事(D1の至小化:利口ぶつた・物知りぶつた事)』は言ふまい【とは即ち『物まなびの力』(物:場 C‘)だけを信じて〕の能動といふ事】、と自分に誓つた人(物:場 C‘)の深い意味合(物:場 C‘)での自己表現(物:場 C‘)、告白(D1の至大化)が、宣長の仕事(D1)と言つていい》 關係論:①『物まなびの力』(物:場 C‘)⇒からの關係:①に捕へられて(D1の至大化)、その中に浸つてゐる(D1の至大化)小さな自分(△枠)といふ意識(D1)のうちに育成された(D1の至大化)「宣長の②確信(D1の至大化)」。⇒②は「③或る教説」(②の對立的概念:F理)⇒③に打建てられた(Eの至小化)ものでなかつた(③への距離獲得:Eの至大化)。⇒宣長(△枠)」。 |
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P35《〔玉かつま、二の卷(物:場 C‘)の本人述懐〕で、宣長(△枠)自身に指示(D1)されてゐるのは、彼(△枠)の思想(D1の至大化)の源泉(物:場 C‘)とも呼ぶべきもの、と讀んでみる(D1)なら、彼の思想(D1)の自發性(D1の至大化)といふものについての、一種の感觸(F)が、(宣長理解願望者には)得られる(Eの至大化)だらう》 關係論:①〔玉かつま、二の卷(物:場 C‘)の本人述懐〕⇒からの關係:①は「②思想(D1の至大化)の「③源泉(物:場 C‘)の本人による明示(D1の至大化)⇒「④自發性の感觸」(③的概念F)⇒④を得られるだらう(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長理解願望者(△枠)。 |
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P35《(宣長の學説F)を一應解體(理:E)し、抽象化(理:E)してみる事も必要だらうが、方法(理:E)が、いつの間にか、方法(理:E)の使用者(△枠)を惑はす(Eの至小化)。言はば、方法(理:E)が、いつの間にか、これを操る(Eの至大化)人(△枠)の精神を占領(Eの至小化)する。占領(Eの至小化)して、この思想家(宣長:物:場 C‘)についての明瞭正確な意識(F)と化して居据る(理人:Eの至小化)》〔分析立證・理(E)の弊害〕 關係論:①宣長といふ人間(物:場 C‘)⇒からの關係:①に「②近附く(D1の至大化)」⇒「③學説中の見解」(②的概念F)⇒E:③を「④解體(理:E)抽象化(理:E)の方法(即ち理は、③への距離不獲得・not so colled:Eの至小化)⇒「④使用者(操る人△枠)」の精神(D1)を占領。 |
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P36《『あるにまかせ、うるにまかせて、ふるきちかきもいはず、何くれとよみけるほどに』といふ宣長(物:場 C‘)の個人的證言(物:場 C‘)は、極言すれば、抽象(F)的記述の世界(理:Eの至小化)とは、全く異質(D1の至大化)な、不思議なほど單純(D1の至大化)な彼の心の動き(D1)》 關係論:①宣長(物:場 C‘)の個人的證言(物:場 C‘)⇒からの關係:①は「②不思議なほど單純(D1の至大化)な心の動き(D1)」⇒「③抽象(②とは全く異質の對立的概念F)⇒E:③の「④記述世界」即ち理(Eの至小化)⇒④の研究者(△枠)。 |
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P36《自問自答(D1の至大化)の形でしか、過去(場 C‘)は蘇り(D1の至大化)はしないだらう。もしさうなら、宣長(物:場 C‘)の思ひ出(物:場 C‘)こそ、彼の『物まなび』(物:場 C‘)の眞の内容(物:場 C‘)に觸れてゐる(D1の至大化)》 關係論:①『物まなび』(物:場 C‘)⇒からの關係:①は「②思ひ出の自問自答」(D1の至大化)⇒「③過去の事實(②的概念F)⇒E:③は「④蘇り」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長は①の眞の内容(物:場 C‘)に觸れる。 |
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《契沖(物:場 C‘)が機縁(D1の至大化)となつて、自分(物:場 C‘)は、何を産み出す(D1)ことが出來るか、彼の思ひ出(物:場 C‘)に、蘇つてゐる(物:場 C‘)のは、言はばその強い豫感(物:場 C‘)》 關係論:①契沖(物:場 C‘)⇒からの關係:「②眞の影響を秘める(D1の至大化)」⇒「③孤獨(②的概念F)⇒E:③を「④咎められずに堅持」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P38《遊學時代(場 C‘)、宣長(△枠)が、儒學(D1)から吸収(D1の至大化)したものは、『よのつねの儒學』(D1の至小化)の型ではなかつた(即ち徂徠)。それよりも、この好學の塾生(△枠)に幸ひした(D1の至大化)のは、景山(△枠)が、國典(物:場 C‘)にも通達した(D1の至大化)學者(△枠)だつた事だ》 關係論:①國典(物:場 C‘)の學者景山(物:場 C‘)⇒からの關係:①は「②好學に幸ひした」(D1の至大化)⇒「③『よのつねの儒學』にあらぬ徂徠(②的概念F)⇒E:③は遊學時代「④大方讀まれて(D1の至大化)ゐた」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 |
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《私(△枠)は、『不盡言』(物:場 C‘)を讀んで(D1)みて、むしろ、さういふ考へ方(F)、即ち影響(F)といふ便利な言葉(F)を亂用(Eの至小化)する空しさを思つた(D1の至小化)。『不盡言』(物:場 C‘)から、宣長のもの(物:場 C‘)に酷似した見解(F)を拾ひ出す(E)のは容易な事である。(中略)見解(F)を集めて(E)人間(△枠)を創る(D1)事は出來ない(D1の至小化)》〔見解(F)と、「(物:場 C‘)の語勢(D1の至大化)」との違ひといふ事か?〕 關係論:①景山・『不盡言』(物:場 C‘)⇒からの關係:「②語勢」(D1の至大化)に⇒宣長への「③見解の影響」(②の對立概念F)⇒E:③を「④拾ひ出し、亂用強調する」(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒研究者(△枠):①への適應異常。 |
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《宣長の闊達な『在京日記』(物:場 C‘)には、環境(場 C‘)に向けられた、生き生きとした(D1の至大化)宣長の眼(△枠)は摑める(D1)が、間斷なく(D1の至大化)つづけられてゐたに違ひない、彼の心のうち(物:場 C‘)の工夫(D1の至大化)は、深く隱されてゐる(D1の至大化)》 關係論:①『在京日記』(物:場 C‘)②環境(場 C‘)⇒からの關係:①には②に向けられた「③生き生きとした(D1の至大化)宣長の眼」(D1の至大化)⇒「④心のうち(物まなび:③的概念F)⇒E:④への「⑤間斷なくつづく工夫は深く隱されてゐる」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 |
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《彼の日記(物:場 C‘)を、かりに、よく信じられた彼の自己(物:場 C‘)と、呼べるやうに考へる(D1の至大化)のも、この〔日記のよく信じられた〕彼の自己(物:場 C‘)〔つまり『彼(物:場 C‘)の裡に深く隱れてゐる或るもの(物:場 C‘)』〕が、彼の思想的作品(物:場 C‘)の獨自な魅力(D1の至大化)をなしてゐることを、私(△枠)があらかじめ直知(D1の至大化)してゐるからである》 關係論:①よく信じられた彼の自己(物:場 C‘)即ち『彼(物:場 C‘)の裡に深く隱れてゐる或るもの(物:場 C‘)』⇒からの關係:①の「②言ひ難い魅力(D1の至大化)を直知。何とか解きほぐしてみたい」(D1の至大化)⇒「③環境といふ原因・思想の樣々な特色(F)」(②の對立的概念F)⇒E:③を「④明らめよう(E)・分析説明する(E)」(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒④の歴史家(△枠)と②の小林との相違(△枠)。 |
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〔五章:主題〕PP圖⇒4hp.norinaga.pdf へのリンク 關係論:①孔子の像(物:場 C‘)⇒からの關係:①を「②直知・粗描」(D1の至大化)⇒②とは「③『孔子の意は浴沂(よくき)詠歸にあり』」(②的概念F)⇒E:③は「④生涯崩れはしなかつた」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒青年宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①和歌を樂しむと言ふ彼の樂(物:場 C‘)⇒からの關係:①が「②學問の内的動機に育つ強い豫感と確信」(D1の至大化)⇒②の時「③契沖」(②的概念F)⇒E:③が既に「④傍らに立つてゐた」感がある(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 |
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〔五章各項:纏め〕 P41《『凡百雑伎』(物:場 C‘)から『山川草木』(物:場 C‘)に至るまで、『天地萬物(物:場 C‘)、皆、吾(△枠)が賞樂(D1の至大化)の具(物:場 C‘)なるのみ』と言ふ。このやうな態度〔『好信樂』(D1の至大化)〕を保持(D1の至大化)するのが、『風雅(F)に從』ふ(Eの至大化)といふ事である、と宣長は言ふ》 關係論:①『凡百雑伎』(物:場 C‘)『山川草木』(物:場 C‘)『天地萬物(物:場 C‘)⇒からの關係:①全てを「②好み信じ樂しむ」を保持(D1の至大化)⇒それが「③風雅(②的概念F)⇒E:③に「④從ふ」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P41《『夫れ人(△枠)の萬物の靈(△枠)たるや、天神地祇(天地の神々)の寵靈(物:場 C‘)に頼る(D1の至大化)の故を以てなるのみ』〔即ち、天神地祇の寵靈(物:場 C‘)⇒頼る(D1の至大化)⇒人(△枠)〕。從つて、わが國(場 C‘)には、上古(C’)、人心質朴の頃(場 C‘)、『自然の神道』(物:場 C‘)が在つて、上下(△枠)これを信じ(D1の至大化)、禮儀自ら備る(D1の至大化)といふ状態があつたのも當然な事である、と宣長は手紙に記す》 關係論:關係論:①上古(C’)人心質朴の頃(物:場 C‘)の、②『自然の神道』在(物:場 C‘)⇒からの關係:②を「③信じ禮儀自ら備る」(D1の至大化)⇒「④聖人の道」(③の似て非なる的概念F)⇒E:④は「⑤『風俗漸く變じ』『勢ひの已むを得ざる』ものによる必要(消極的必要性)」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長・上下人(△枠):①への適應正常。 |
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P42《先王(物:場 C‘)の禮樂刑政(物:場 C‘)未だ亡びず(D1の至大化)、その遺化の尚存ずる(D1の至大化)時代(C’)に生れて、理想(C)の實現(D1の至大化)は遂に不可能(D1の至小化)であつた。その孔子(△枠)の出來なかつた(D1の至小化)事〔(聖人の)道(物:場 C‘)〕を爲さうとは、いかにもむつかしい事(D1の至小化)。わが國(物:場 C‘)の伊仁齋(△枠)も物徂徠(△枠)も同じ事。(況や)足下(△枠)が聖人の道(物:場 C‘)を學ぶ(D1)のは、『屠龍之技』〔身につけても實際の役に立たない:荘子の語:(D1の至小化)〕となる他はあるまい》 關係論:①聖人の道(物:場 C‘)⇒からの關係:①を「②學ぶ(D1)」のは『屠龍之技』〔身につけても實際の役に立たない:荘子の語:〕」(D1の至小化)⇒「③俗・和(②的概念F)⇒E:③を「④惑はし滑(みだ)すのみ」(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒足下(△枠):①への適應異常。 |
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《〔聖人の道(物:場 C‘)〕を自ら(△枠)樂しむ(D1の至大化)と言へるのは、格別の人(君師△枠)。逢衣の徒(儒者△枠)は、好んで自ら樂しむ(D1の至大化)といふ事を口にするが、(聖人の)道(物:場 C‘)が吾が身(△枠)にあり(D1の至大化)、これ〔聖人の道(物:場 C‘)〕を行ふ事が出來ぬ(D1の至小化)とは、憂ひ(辛い:D1の至大化)には違ひないが、樂しいわけがない(即ち、二律背反:D1の至小化)。自ら思はざる(自己欺瞞:D1の至小化)も甚だしい》 關係論:①聖人の道(物:場 C‘)⇒からの關係:①が「②吾が身にあり(D1の至大化)」「③行ふ事が出來ぬ(D1の至小化)とは憂ひ(辛くて)樂しいわけがない(即ち、憂ひと樂しの二律背反:D1の至小化)」⇒③は「④自ら思はざる(自己欺瞞的概念F)⇒E:④が「⑤甚だし」(Eの至小化)(④への距離不獲得:Eの至小化)⇒逢衣の徒(儒者△枠):①への適應異常。 |
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P43《宣長(△枠)の當惑(D1の至小化)に對し、『論語』(物:場 C‘)が答へてくれた(D1の至大化)。『吾(孔子:物:場 C‘)は點(曾晳△枠)に與(くみ)せん(D1の至大化)』(『先進第十一:浴沂(よくき)詠歸』)と》 關係論:①『論語:先進第十一:浴沂(よくき)詠歸』(物:場 C‘)⇒からの關係:①が「②當惑に答へてくれた」(D1の至大化)⇒②とは「③聖人の道(②的概念F)⇒E:③を「④小人、達して明かにすと雖も、亦何んの施す所ぞや〔何も出來やしない(反語:Eの至小化)〕(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 |
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《僕(△枠)、茲〔ここ:浴沂(よくき)詠歸(D1の至大化)〕に取るあり(D1の至大化)て、至つて和歌(物:場 C‘)を好む(D1)。和歌(物:場 C‘)なるものは、志(物:場 C‘)を言ふの大道(D1の至大化)』。儒(D1)の『天下(物:場 C‘)を安んずるの大道(D1の至大化)』とは類を異(D1の至小化)にする》 關係論:①先進第十一:『浴沂(よくき)詠歸』(物:場 C‘)⇒からの關係:①に「②取るあり」(D1の至大化)⇒②とは「③志(物:場 C‘)を言ふの大道の和歌(②選擇的概念F)⇒E:③を「④好む」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P44《書簡(物:場 C‘)のうちに、萌芽(D1)状態にある彼の思想の姿(物:場 C‘)を見附け、見まがふ(D1の至小化)事の出來ない青年宣長の顔(物:場 C‘)を見て(小林は)驚く(D1の至大化)。青年宣長(△枠)に直知(D1の至大化)され、粗描された(D1の至大化)孔子の像(物:場 C‘)【即ち、『孔子(△枠)の意(D1の至大化)、すなはち亦、此〔浴沂(よくき)詠歸(D1の至大化)〕にあり』】は、生涯崩れはしなかつた(D1の至大化)》 關係論:①孔子の像(物:場 C‘)⇒からの關係:①を「②直知・粗描」(D1の至大化)⇒②とは「③『孔子の意は浴沂(よくき)詠歸にあり』」(②的概念F)⇒E:③は「④生涯崩れはしなかつた」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒青年宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P44《宣長(△枠)にとつて、所謂『聖人のたぐひ』(物:場 C‘)と、自分(△枠)が見て取つた(D1の至大化)『孔子といふよき人』(物:場 C‘)とは、別々のもの(D1の至小化)であつた。彼(△枠)も亦、當時(場 C‘)の新興(D1の至大化)の儒家達(仁齋徂徠等△枠)に同じて、廣く行はれてゐる『論語』(F)の朱注(朱子學の注:理E)が、孔子(物:場 C‘)の眞意(D1の至大化)を誤り(D1の至小化)傳へてゐる事を難ずる(D1の至小化)》 關係論:①孔子(物:場 C‘)⇒からの關係:①の「②眞意」(D1の至大化)⇒「③『論語』の朱注「朱子學」(②の對立的概念F)⇒E:③が①の②を「④誤り傳へてゐる」(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒④を難ずる宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P45《(『論語』:公治長第五)即ち『微生高(物:場 C‘)⇒正直の徳(D1の至大化)にあらず(D1の至小化)』、と孔子(物:場 C‘)が戒めた(D1)ものとする、一般の解釋(朱注「朱子學」F)に反對(Eの至小化)なのだ。宣長(△枠)は『聖人(物:場 C‘)の教の刻酷(D1の至小化)』を言つてゐるのだが、孔丘(孔子)(物:場 C‘)の刻酷(D1の至小化)は言はない(D1の至大化)。この儒家(F)の一般の解釋(Eの至小化)に、徂徠(△枠)だけは反對(D1の至小化)してゐる》 關係論:①孔子〔『論語』公治長第五〕(物:場 C‘)⇒からの關係:①の「②刻酷(D1の至小化)」⇒②説は「③儒家(理:F)(②的概念F)⇒E:③の「④一般解釋(理:Eの至大化)」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④に徂徠・宣長(徂徠影響)は反對:①への適應正常。 |
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《宣長(△枠)は、『先進篇』の文章(物:場 C‘)から、直接に、曾點の言葉(物:場 C‘)に喟(き)然(ああ!)として嘆じてゐる(D1の至大化)孔子といふ人間(物:場 C‘)に行く(D1の至大化)。大事(D1の至大化)なのは、先王の道(物:場 C‘)ではない。先王の道(物:場 C‘)を背負ひ込んだ孔子といふ人の心(物:場 C‘)だ、とでも言ひたげ(D1の至大化)な(宣長△枠の)樣子がある》 關係論:①孔子といふ人の心(物:場 C‘)⇒からの關係:①が「②大事」(D1の至大化)⇒「③先王の道(②の對立的概念F)⇒E:③を「④背負ひ込みながら『浴沂(よくき)詠歸』を認める孔子」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④への宣長の思ひ(△枠):①への適應正常。 |
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P46《宣長(△枠)が是認してゐた(D1の至大化)のは、當時(場 C‘)の最も現實的な儒學觀(D1の至大化)だつたと言へる。だが、儒家(物:場 C‘)(即ち、朱子學者ではない徂徠等)の『現實的な儒學觀(D1の至大化)』も、自分自身の生活〔初出『身の丈』(物:場 C‘)〕のリアリズムには似合はない(D1の至小化)、と彼の書簡(物:場 C‘)はそれだけを語つてゐる》(以下參照) 關係論:①國(物:場 C‘)②民(物:場 C‘)⇒からの關係:①を「③治め」②を「④安んずる」〔⑤徂徠等の現實的な儒學觀(D1の至大化)〕⇒⑤は「⑥自分自身の生活のリアリズム(『身の丈』)」(⑤の對立的概念F)⇒E:には「⑦不似合ひ」(⑥優先の形での距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 |
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《自分自身を尺度(物:場 C‘)としなければ、何事も計らう(D1の至大化)とはしてゐない、この宣長の見解(物:場 C‘)といふより、むしろ生活態度(物:場 C‘)。その、『君師』(物:場 C‘)に比べれば、遙かに『士民』(物:場 C‘)に近い、自分の『小人』の姿(物:場 C‘)〕から、彼の『風雅』(物:場 C‘)といふ言葉が發音(D1の至大化)されてゐる。彼の言ふ『風雅』(物:場 C‘)とは、言はば『小人』(物:場 C‘)の立てた志〔『好信樂』(物:場 C‘)〕であつて、好事家の趣味(F)といふやうな消極的な意味合は少しもない(Eの至大化)》 關係論:①『君師』(物:場 C‘)②『士民』(物:場 C‘)③『小人』の生活態度(物:場 C‘)④『風雅』〔『好信樂』の志(物:場 C‘)〕⇒からの關係:④は①よりも②に近い③から「⑤發音されてゐる」(D1の至大化)⇒よつて⑤は「⑥好事家の趣味(⑤的概念F)⇒E:⑥といふやうな「⑦消極的な意味合は少しもない(Eの至大化)」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):④への適應正常。 |
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《この樂〔孔子の『學習の樂』(物:場 C‘)〕は弦歌優游の尋常樂(F)とは全く質を異にする(Eの至大化)。孔子(物:場 C‘)には絶對(C)的な樂(物:場 C)であり、言つてみるなら、『不樂の樂(物:場 C)を樂しむ(D1の至大化)』といふ趣(物:場 C‘)のもの》 關係論:①孔子の『學習の樂』〔絶對(C)的な樂(物:場 C‘)〕②不樂の樂(物:場 C)⇒からの關係:①は②を「③樂しむといふ趣」(D1の至大化)⇒故に「④弦歌優游の尋常樂(③の對立的概念F)⇒E:④とは「⑤全く質を異にする」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①②への適應正常。 |
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《『和歌(物:場 C‘)を樂しみ(D1の至大化)て、ほとんど浸食を忘る(D1の至大化)』といふ彼の樂(物:場 C‘)が、やがて自分(△枠)の學問の内的動機に育つ(D1の至大化)といふ強い豫感(D1の至大化)、或は確信(D1の至大化)が、強く感じられる(D1の至大化)からだ〔だから、敢へて口を噤んで了ふ(D1の至小化)〕。契沖(F)は傍らに立つてゐた(Eの至大化)》 關係論:①和歌を樂しむと言ふ彼の樂(物:場 C‘)⇒からの關係:①が「②學問の内的動機に育つ強い豫感と確信」(D1の至大化)⇒②の時「③契沖」(②的概念F)⇒E:③が既に「④傍らに立つてゐた」感がある(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 |
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〔六章:主題〕PP圖⇒4hp.norinaga.pdf へのリンク 關係論:①文献的事實(物:場 C‘)とは②人間(物:場 C‘)の事⇒からの關係:②が担つてゐる『意味のふかき處』(即ち①)を「③知る」(D1の至大化)⇒③には②と「④親しく交はる(我物にする:③的概念F)⇒E:④の「⑤他に道はない(契沖から得た學問の極意)」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①學問(物:場 C‘)②學者として生きる道(物:場 C‘)③契沖の歌學(物:場 C‘)⇒からの關係:①②とは何か、といふ問ひが③。其の③に「④出會つた」(D1の至大化)⇒「⑤歌學に關する蒙(④の對立的概念F)⇒E:⑤を「⑥開かれたのではない」(Eの至大化)(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長の根本(△枠):①への適應正常。 |
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〔六章各項:纏め〕 《ここ(江戸中期)に、契沖師(物:場 C‘)は、はじめて一大明眼(物:場 C‘)を開きて(D1の至大化)、此道〔歌道(物:場 C‘)〕の陰晦(D1の至小化)をなげき、古書(C)によつて、近世の妄説(F)を破り(Eの至大化)、はじめて本來の面目(物:場 C‘)をみつけえたり(D1の至大化)》 關係論:①古書(C)②契沖師(物:場 C‘)③本來の面目(物:場 C‘)⇒からの關係:②は①によつて③を「④みつけえたり」(D1の至大化)⇒「⑤近世の妄説(④の對立概念F)⇒E:を「破り」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒契沖師(△枠):①への適應正常。 |
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P48《宣長(△枠)は、當時(寶暦七年:場 C‘)、民間人(△枠)で入手出來た(D1)、『萬葉』研究(物:場 C‘)に關する、先ず最良本(物:場 C‘)に接してゐた(D1の至大化)と言つてもいい》 關係論:①晩年契沖(物:場 C‘)②『萬葉』講義(物:場 C‘)⇒からの關係:①の②を「③聽聞」(D1の至大化)⇒③をした「④高弟似閑の書入本(③的内容)⇒E:④なる最良本を「⑤寫した」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P49《古歌(C)や古書(C)の在つたままの姿(物:場C)に、直に(D1の至大化)に接する道を阻んでゐる(D1の至小化)のは、何を措いても、古典(F)に關する後世の註(Eの至小化)であり、解釋(Eの至小化)である。『註(Eの至小化)によりて、その歌(物:場 C‘)あられぬ事(D1の至小化)に聞ゆるもの也』(あしわけをぶね)》 關係論:①古歌(C)や古書(C)の在つたままの姿(物:場C)⇒からの關係:①に「②直に接する道を阻んでゐる」(D1の至小化))⇒②は「③『あられぬ』調べ」(②的概念F)⇒E:③の原因が「④後世の註(Eの至小化)」(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒④が私達(△枠)に禍:①への適應異常。 |
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P49《歌學或は歌道の歴史(C’)は、このやうな〔『佛教的(F)儒教的(F)解釋なる餘計な價値(Eの至小化)を外から歌(F)に附會(Eの至小化)』のやうな〕パラドックス(D1の至小化)を担つて流れる(D1の至小化)。これ〔パラドックス(D1の至小化)〕を看破(D1の至大化)するには、契沖の『大明眼』(△枠)を要した(D1の至大化)〔即ち、『①歌學・歌道の歴史(C’)⇒からの關係:①が持つ「パラドックス(D1の至小化)を看破(D1の至大化)」⇒契沖の『大明眼』(△枠)』〕と宣長(物:場 C‘)は言ふ(D1)》 關係論:①歌學・歌道の歴史(C’)⇒からの關係:①が持つ「②「パラドックス」(D1の至小化)⇒②とは「③佛教的儒教的解釋(②的概念F)⇒E:③が「④餘計な價値を歌に附會(Eの至小化)」(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒④を看破した契沖の『大明眼』(△枠):①への適應正常。 |
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P49《『やすらかに見る(D1の至大化)』といふ言葉を、曖昧(D1の至小化)と見て、歸納的(F)方法(E)とか或は實證的(F)な觀察(E)とか言ひ直し(Eの至小化)てみたところで、『さとりなき(D1の至小化)人(△枠)は、げ(實)にも(本當に)と思ふ(D1の至大化)べけれど、返て、それはおろかなる註(Eの至小化)』ともなりかねない》 關係論:①『大明眼』(物:場 C‘)⇒からの關係:①の『やすらかに見る』(D1の至大化)を「②曖昧」(D1の至小化)と見て⇒「③歸納的・實證的(②との對立的概念F)⇒E:③に言ひ直し(Eの至小化)て「④げにも(本當に)と思ふべけれど、返て、おろかなる註(Eの至小化)」(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒④は「さとりなき人」にとつて(△枠):①への適應異常。 |
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《歌道(物:場 C‘)のまことの處(物:場 C‘)をみつけたる(D1の至大化)は契沖(△枠)也。契沖(物:場 C‘)にとつて、歌學(物:場 C‘)が形(物:場 C‘)〔姿、即ち、 ① 學問(物:場 C‘)②學者として生きる道(物:場 C‘)とは何か、といふ問ひが歌學(物: 場 C‘)〕であれば、歌道(物:場 C‘)とは、その心(物:場 C‘)であつて、兩者は離す(D1の至小化)事は出來ない。宣長(△枠)は、これをよく承知(D1の至大化)してゐた》 關係論:①契沖(物:場 C‘)②歌道(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②に「③達して」(D1の至大化)⇒「③歌(③の對立的概念F)⇒E:③は「④えよまぬ(Eの至小化)人也」(③への距離獲得:Eの至大化)。③は「⑤よくよみても(Eの至大化)、②はつやつやしらぬ(D1の至小化)」は⇒今の歌人(△枠)也:①への適應異常。 |
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P51《宣長(物:場 C‘)が衝突(D1の至大化)したのは、當時(場 C‘)の教養人(△枠)の心のなか(D1)に深く食ひ入つた(D1の至小化)、歌(F)は詠むもの(E)といふ、歌(F)といふ傳統的な藝道(F)の通念(Eの至小化)であつた。(即ち彼等△は)歌學(F)と言ひ、歌論(F)と言つても、歌(F)の師範家(△枠)が握つた(Eの至小化)詠歌(D1)の爲の形式的(F)な知識(Eの至小化)を指すのが、當時(場 C‘)の教養人(△枠)の常識(E)であつたから》【即ち、歌道・歌學(物:場 C‘)と歌學・歌論〔F(形式的知識:Eの至小化)〕との違ひ(同床異夢)】 關係論:①宣長(物:場 C‘)⇒からの關係:①は「②衝突する」(D1の至大化)⇒②對象は傳統的藝道の通念的「③歌學・歌論」(②の對立的概念F)⇒E:當時の③は「④詠歌の爲の形式的な知識(Eの至小化)」(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒④は教養人・歌の師範家(同床異夢△枠):①への適應異常。 |
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P51《詠歌(D1の至大化)は、決して風流(F)や消閑(F)の具(Eの至小化)ではなかつた(D1の至大化)。詠歌の所見(物:場 C‘)について、契沖(物:場 C‘)は、まだ明言(D1の至大化)してゐないが、眞淵(物:場 C‘)の影響(D1の至大化)で、歌道(物:場 C‘)が古道(物:C)の形に發展(D1の至大化)した宣長(物:場 C‘)にあつては、もうはつきりした發言(D1の至大化)になる》 關係論:①眞淵(物:場 C‘)③古道(物:場 C)の形⇒からの關係:①の影響(D1の至大化)で③に「④歌道(物:場 C‘)が發展した結果の發言(D1の至大化)」⇒④は「⑤風流・消閑」(④の對立的概念F)⇒E:⑤の「⑥具ではなかつた」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①③への適應正常。 |
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P51《古歌(物:場 C)をば、いかほど深く考へ(D1の至大化)ても、他のうへの事(F)なれば、なほ深くいたらぬ(Eの至小化)ところあるを、みずからよむ(D1の至大化)になりては、我が事なる(D1の至大化)故に、心を用ること格別(D1の至大化)にて、深き意味をしる(D1の至大化)こと也》 關係論:①古歌(物:場 C)⇒からの關係:①を「②みずからよむ(D1の至大化)になりては我が事なる故に心を用ること格別にて深き意味をしる」(D1の至大化)⇒「③他のうへの事(②の對立的概念F)⇒E:③は「④深く考へても深くいたらぬ」(Eの至小化)(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒すべて人(△枠):①への適應正常。 |
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① 《詠歌(D1)は歌學(物:場 C‘)の必須の條件(D1の至大化)なり。問題は、〔この 契沖(物:場 C‘)の〕歌學(物:場 C‘)についての考へ(物:場 C‘)の革新(D1の至大化)にあつた。從來(C’)歌學(F)の名で呼ばれてゐた固定した知識(F)の集積(Eの至小化)を、自立した學問(物:場 C‘)に一變させた〔即ち、①學問(物:場 C‘)②學者として生きる道(物:場 C‘)とは何か、といふ問ひが契沖の歌學(物:場 C‘)〕(契沖の)精神(物:場 C‘)の新しさ(D1の至大化)にあつた。》 關係論:①歌學(物:場 C‘)②自立した學問(物:場 C‘)⇒からの關係:①を②に一變させた(D1の至大化)「③契沖の精神の新しさ」(D1の至大化)⇒從來の「④呼稱だけは歌學(F)」(③の對立的概念F)⇒E:④は只の「⑤固定した知識の集積と認識(Eの至大化)」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒契沖(△枠):①への適應正常。 ② 《『本來の面目』〔即ち、歌(物:場 C‘)とは何か、その意味(物:場 C‘)、價値(物: 場 C‘)とは、といふ問ひ(D1の至大化)〕が、契沖(物:場 C‘)の仕事(D1)の原動力(D1の至大化)をなしてゐた。その『本來の面目』〔即ち契沖の『大明眼』(物:場 C‘)〕には、普通の意味で歌(F)の上手下手(E)などといふ事は、本質(物:場 C‘)的には關係のない(D1の至小化)ものだ。さう言つただけでは足りない、契沖(物:場 C‘)こそ『歌道(物:場 C‘)に達して(D1の至大化)、歌(F)をえよまぬ(とても詠まない:Eの至大化:反語的表現)人也』と言はう、といふ事になる」》 關係論:①『本來の面目』〔歌とは何か、その意味・價値の問ひ(物:場 C‘)〕②契沖の『大明眼』(物:場 C‘)③歌道(物:場 C‘)⇒からの關係:①即ち②は③に「④達してゐた」(D1の至大化)⇒「③歌」(④の對立的概念F)⇒E:③の上手下手(E)は本質的には關係のない(Eの至小化)。故に「④えよまぬ」(とても詠まない:反語的表現:Eの至大化)。(③への距離獲得:Eの至大化)⇒契沖(△枠):①への適應正常。 |
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P53《契沖(物:場 C‘)を『もどく』(似せて作る:D1の至小化)ことは、才能さへあれば、誰にも出來る。契沖(物:場 C‘)の學問(D1)の形式(F)なり構造(F)なりを理解(E)し、利用(E)し先に進む(Eの至大化)事は出來るが、この新學問(物:場 C‘)の發明者の心(物:場 C‘)を想ひ見る(D1の至大化)ことは、それとは別(D1の至大化)である、と宣長(△枠)は言ふ(D1の至大化)》 關係論:①新學問(物:場 C‘)の發明者(契沖)の心(物:場 C‘)⇒からの關係:①を「②想ひ見る」(D1の至大化)⇒②とは別の「③學問の形式・構造(②の對立的概念F)⇒E:③を「④理解(E)利用(E)し先に進む」(Eの至小化)(③への距離獲得:Eの至小化)⇒④は唯の才人(△枠):①への適應異常。 |
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P53《發明者(契沖)の『大明眼』(物:場 C‘)を『みづからの事(物:場 C‘)にて思』ひ(D1の至大化)、『やすらかに見る』(D1の至大化)みづからの眼(物:場 C‘)を(宣長は)得た(D1の至大化)と。だが『かやうに〔『深淺の異(D1の至大化)なるもの』と〕云てきかせて(D1の至大化)も、なを目のさめぬ(D1の至小化)人(△枠)は是非なき(D1の至小化)事なり』(あしわけをぶね)と》 關係論:①沖師の説の趣(物:場 C‘)②歌の本意(物:場 C‘)③意味のふかき處(物:場 C‘)⇒からの關係:①に本づきて考へみる時は「②あきらかにして③まで心に徹底する也。心に明らかにさとる事あり」(D1の至大化)⇒しかし②③は「④目のさめぬ人(②③の對立的概念F)⇒E:④には「⑤是非なき事なり」(④への距離不獲得:Eの至小化)⇒人(△枠):①への適應異常。 關係論:①發明者(契沖)の『大明眼』(物:場 C‘)②みづからの事(物:場 C‘)③みづからの眼(物:場 C‘)⇒からの關係:①を②にて思ひ「④やすらかに見る(D1の至大化)③を(自分宣長は)得た」(D1の至大化)⇒しかし④は「⑤目のさめぬ人(④の對立的概念F)⇒E:⑤には「⑥是非なき事なり」(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒人(△枠):①への適應異常。 |
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《學問(D1)の正しい方法の可否は、宣長の場合、今日(場 C‘)とは、ひどく異つた意味合(D1の至大化)を帶びる。『いかならむ(何ともどうしようもない) うひ山ぶみの(學問の) あさごろも(深淺は) 淺きすそ野(門人達:F)の しるべ(理解:E)ばかりも〔理解だけについては〕』。即ち『學びやうの法』(D1の至大化)とは、『實には(まことには)しりがたき(D1の至小化)こと〔學びの正しい法(D1の至大化)は眞には理解し難い事柄〕なれば、これ〔さして(左樣に:正しく)教へん(D1の至大化)〕もしひては定めがたき(結局ははつきりとはしない)わざ(D1の至小化)にて、實は(眞:まことは)、ただ其人(△枠)の心(理解)まかせ(D1)にしてよき也』、さういふ宣長の考へ》 關係論:①『うひ山ぶみ(學問)』(物:場 C‘)⇒からの關係:①の「②『學びやうの法』は受け手の心(理解:E)が樣々なので實には(まことには)しりがたき」(D1の至小化)⇒②故に「③其人の心(理解F)」(②的概念F)⇒E:③の「④まかせにしてよき也」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒門人達(△枠):③④が①への適應正常。 |
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P54《〔年月長く、倦(うま)ず、おこたらず、はげみつとめる(D1の至大化)〕さへ出來てゐれば(D1の至大化)、『學びやう(方法F)は、いかやうにてもよかるべく(Eの至大化)、さ(左樣に)のみかかはるまじき〔そんなに拘る事のない(Eの至大化)〕こと也』。宣長(物:場 C‘)が、本當に言ひたい(D1の至大化)ことは、これだけなのである》 關係論:①『うひ山ぶみ』(物:場 C‘)⇒からの關係:「②『學問(D1)は、年月長く、倦(うま)ず、おこたらず、はげみつとめる事(D1の至大化)』⇒「③學びやう〔方法(②的概念F)〕⇒E:③は「④いかやうにてもよかるべく、そんなに拘る事はない(Eの至大化)」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒門人達(△枠):①への適應正常。 |
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P54《源氏(物:場 C‘)にかぎらず、すべて歌書(物:場 C‘)を見る(D1)に、その詞一つ一つ(物:場 C‘)、わがものにせん(D1の至大化)と思ひて見る(D1)べし、心(物:場 C‘)を用て(D1)、もし我物になる(D1の至大化)時は、歌(物:場 C‘)をよみ(D1の至大化)、文章(物:場 C‘)をかく(D1の至大化)、みな(△枠)古人(物:場 C)とかはる事なかるべし(D1の至大化)』(あしわけをぶね)》 關係論:①古人(物:場 C)⇒からの關係:①と、歌詠み文書きに關して「②かはる事なかるべし」(D1の至大化)⇒「③源氏・歌書の詞一つ一つ」(②的概念F)⇒E:③を「④心を用て、もし我物になる時」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒人々(△枠):①への適應正常。 關係論:①宣長(物:場 C)②古典(物:場 C)⇒からの關係:①の②の「③研究の眼目」(D1の至大化)⇒③は「④古歌古書」(③的概念F)⇒E:④を「⑤『我物』にする爲の見よう(見方)、心の用ひやう(用ひ方)」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒門人達・人々(△枠):②への適應正常。 |
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《契沖の『説の趣(物:場 C‘)』で、宣長(物:場 C)が言ふ『歌の本意(物:場 C‘)あきらか(D1の至大化)にして、意味の深き處(物:場 C‘)まで、心に徹底(D1の至大化)する也』とは、この經驗の深化(D1の至大化)は、相手(F)との共感(我物にする:Eの至大化)に至る事が言ひたい(D1の至大化)のである》 關係論:①歌の本意(物:場 C‘)②意味の深き處(物:場 C‘)⇒からの關係:①があきらか(D1の至大化)、②が「③心に徹底と言ふ經驗の深化」(D1の至大化)⇒③は「④相手(古人)」(③的概念F)⇒E:④との「⑤共感(我物にする)に至る」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①②への適應正常。 (以下參照) 關係論:①『うひ山ぶみ(學問)』(物:場 C‘)⇒からの關係:①の「②『學びやうの法』は受け手の心(理解:E)が樣々なので實には(まことには)しりがたき」(D1の至小化)⇒②故に「③其人の心(理解F)」(②的概念F)⇒E:③の「④まかせにしてよき也」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒門人達(△枠):③④が①への適應正常。 |
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P55《文献的事實(物:場 C)とは人間(物:場 C)の事だ。彼(人間:物:場 C‘)が担つてゐる『意味のふかき處』〔文献的事實(物:場 C‘)〕を知る(D1の至大化)には、彼(人間:物:場 C‘)と親しく交はる(我物にする:D1の至大化)他に道はない。これが、宣長(△枠)が契沖(物:場 C‘)から得た學問の極意(D1の至大化)であつた」》 關係論:①文献的事實(物:場 C)とは②人間(物:場 C)の事⇒からの關係:②が担つてゐる『意味のふかき處』(即ち①)を「③知る」(D1の至大化)⇒③には②と「④親しく交はる(我物にする:③的概念F)⇒E:④の「⑤他に道はない(契沖から得た學問の極意)」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P55《好學心(物:場 C‘)、勉學心(物:場 C‘)が、交はりの深化(D1の至大化)に必須な、無私(D1の至大化)を得ようとする努力(D1の至大化)を指す》 關係論:①好學心・勉學心(物:場 C‘)⇒からの關係:①とは「②交はりの深化」(D1の至大化)⇒に必須な「③無私」(②的概念F)⇒E:③を「④得ようとする努力(Eの至大化)を指す」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長思想(△枠):①への適應正常。 |
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P55《宣長(△枠)は、契沖(物:場 C‘)から歌學(物:場 C‘)に關する蒙を開かれた(D1の至大化)のではない。凡そ學問(物:場 C‘)とは何か、學者として生きる道(物:場 C‘)とは何か、といふ問ひが歌學(物:場 C‘)になつた契沖(物:場 C‘)といふ人に、出會つた(D1の至大化)といふところが根本(D1の至大化)」》 關係論:①學問(物:場 C‘)②學者として生きる道(物:場 C‘)③契沖の歌學(物:場 C‘)⇒からの關係:①②とは何か、といふ問ひが③。其の③に「④出會つた」(D1の至大化)⇒「⑤歌學に關する蒙(④の對立的概念F)⇒E:⑤を「⑥開かれたのではない」(Eの至大化)(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長の根本(△枠):①への適應正常。 |
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〔七章:主題〕PP圖⇒4hp.norinaga.pdf へのリンク P61《佛學(物:場 C‘)も儒學(物:場 C‘)も、亦寺の住職としての生活(物:場 C‘)も、自殺未遂にまで追ひ込まれた彼の疑ひ(△枠)を解く事は出來なかつた(D1の至小化)》 關係論:①倭歌(物:場 C‘)②歌學者(物:場 C‘)として生きる道(物:場 C‘)⇒からの關係:①即ち「③年少の頃からの『好信樂』」(D1の至小化)のうちに②を「④悟得した」(D1の至大化)⇒詠歌は「⑤わが心」(的概念F)⇒E:⑤を「⑥見附ける道であつた」(Eの至大化)(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒契沖(△枠):①②への適應正常。 關係論:①契沖手紙内容(物:場 C‘)③拙僧萬葉發明(物:場 C‘)⑤大事なる習ひ目前(物:場 C‘)⇒からの關係:①の「②行き着いた確信」(D1の至大化)⇒③は「④萬葉出來以後之一人と存候」(D1の至大化)。⑤の事では「⑥世事⑦加樣(かやう)の義〔萬葉(物:場 C‘)發明講義〕(②的概念F)⇒E:⑥は「⑧俗中の俗(Eの至小化)」。⑦は「⑨俗中の眞(Eの至大化)に御座候(⑨への距離獲得:Eの至大化)⇒石橋新右衛門直之(後輩)宛(△枠):①③への適應正常。 係論:①契沖『大明眼』の『本意』『意味のふかき處』(物:場 C‘)②基本的な思想即ち「歌學」(物:場 C‘)③學問の眞(物:場 C‘)⇒からの關係:①では②は「④俗中の眞である」(D1の至大化)⇒「⑤俗中の俗〔世事・狂言綺語(④の對立的概念F)〕⇒E:③は⑤を「⑥拂へば足りる」(Eの至大化)(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠)に感得:①への適應正常。 |
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以下〔七章各項:纏め〕 P56《*「兄、如水への挽歌(契沖死ぬ三年前:五十九歳):『いまさらに 墨染めごろも(若年からの出家者にも關はらず、今更に) 袖ぬれて うき世(俗世)の事に なかむ(泣かむ)とやする』」。 *契沖二十五歳、父の死(物:場 C‘)を悼み:『聞きなれし 生れず死なぬ(不生不滅の?) ことわり〔般若心經?(物:場 C‘)〕も 思ひ解かばや〔解決してくれるだらうか、いやできない:反語:(D1の至小化)〕 かかる歎に〔この嘆きには(△枠)〕』》 關係論:①兄・父の死(物:場 C‘)⇒からの關係:①を「②悼む心」(D1の至大化)⇒②は「③墨染めごろも(佛門)も般若心經も〔生れず死なぬ(不生不滅の)ことわりも〕(②的概念F)⇒E:③は「④かかる歎きを思ひ解かばや〔解決してくれるだらうか、いやできない」(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒契沖(△枠):①への適應異常。 |
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P57《〔家系(物:場 C‘)とは何かと問ふ(D1)契沖の意識(D1の至大化)。手向ける(D1の至大化)ものは歌しかなかつた(D1の至小化)彼の心(△枠)〕を感じよう(D1の至大化)とするなら、彼の遺文(物:場 C‘)は、そのままこれを遺した人〔契沖(物:場 C‘)〕の歎き(D1の至大化)であり、確信(D1の至大化)〔即ち、『佛門では不救』『家系(物:場 C‘)とは何か』〕。でもあり、その辛辣な眼(F)であり、優しい心(F)である》 關係論:①契沖の遺文〔兄父挽歌等(物:場 C‘)〕⇒からの關係:①は「②遺した人(契沖)の歎き・確信(D1の至大化)〔即ち『佛門では不救』『家系(物:場 C‘)とは何か』〕」⇒「③辛辣な眼・優しい心(②的概念F)⇒E:③で「④偲んで歌を手向ける」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒契沖(△枠):①への適應正常。 |
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《安藤爲章(△枠)といふ儒者の撰した(D1の至大化)契沖の傳記(物:場 C‘)に、〔この頃(圓珠庵時代:契沖二十五歳)〕、寺(圓珠庵△枠)の『城市(場 C‘)に鄰(とな)るを厭ひ(D1の至小化)、倭歌(物:場 C‘)を作り、壁間(場 C‘)に題して(D1)、遁(のが)れ去る、一笠一鉢、意に隨つて、周遊す(D1の至大化)〔室生寺自殺未遂は二十八歳頃〕』(圓珠庵契沖阿闍梨行實)とある。契沖の父親が死んだのは、丁度この頃(契沖二十五歳)であり、壁間の歌の心(物:場 C‘)も、(その時の)『思ひ解かばや かかる歎に』といふ趣(物:場 C‘)〔即ち佛門での不救?(D1の至小化)〕のものだつたに違ひない》 關係論:①この頃の契沖の心〔圓珠庵在住初期:二十五歳(物:場 C‘)〕⇒からの關係:①は「②城市(場 C‘)に鄰(とな)るを厭ひ(D1の至小化)、倭歌(物:場 C‘)を作り、壁間(場 C‘)に題して(D1)、遁(のが)れ去る」(D1の至大化)⇒②の心境は父親哀悼時の「③『思ひ解かばや かかる歎に』(②的概念F)⇒E:③同樣の「④趣のもの(即ち佛門での不救?)だつたに違ひない」(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒契沖(△枠):①への適應異常。 |
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P57《僧義剛(△枠)が、又、この頃の契沖(物:場 C‘)〔二十四歳:二十三から二十八頃までの大阪曼陀羅院住職時代〕に就いて書いてゐる(D1)。『人と爲り清介(D1の至大化)、貧に安んじ(D1の至大化)、素に甘んじ(D1の至大化)、他の信施(施し)に遇へば、荊棘を負ふ(D1の至小化)が如し、且つ幻軀(幻身・形骸?現身?:F)を厭ふ(Eの至小化)こと、蛇聚(集)を觀る(Eの至小化)が如し、室生山南(場 C‘)に、一岩窟(場 C‘)有り、師(契沖△枠)その幽絶(物:場 C‘)を愛し(D1の至大化)、以爲(おもへらく)、形骸(F)を棄つる(Eの至小化)に堪へたり(自殺未遂:二十八歳)と、乃ち首を以て、石に觸れ、腦血地に塗(まみ)る、命終る(自殺せん)に由なく、已むを得ず(D1の至小化)して去る』(錄契沖師遺事)》 關係論:①〔二十八歳:大阪曼陀羅院住職(23~28歳)退去〕(物:場 C‘)⇒からの關係:①は「②清介、貧に安んじ、素に甘んじ」(D1の至大化)⇒「③幻軀(幻身・形骸?現身?)(②の對立的概念F)⇒E:「④厭ふ(Eの至小化)こと、蛇聚(集)を觀る(Eの至小化)が如し。室生山南(場 C‘)に形骸(③)を棄つる(Eの至小化)に堪へたり(自殺未遂:二十八歳)」(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒契沖(△枠):①への適應異常。 |
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P57《契沖(△枠)は再び高野(場 C‘)に登つて修學(D1の至大化)し、下山。和泉の僻村(場 C‘)に閑居(D1:二知人宅に寄寓30~40歳)。時に三十歳の頃(場 C‘)の歌。 『我が身(△枠)今(場 C‘)、みそじもちか(場 C‘)の しほ(潮?:掛詞)がまに 烟ばかりの(立つのは烟だけで) 立つ(心が浮き立つ・悟る?)ことぞなき(D1の至小化)』(契沖和歌寶集、雑歌)と詠んでゐるから、心(物:場 C‘)はまだ暗かつた(D1の至小化)であらう》 關係論:①みそじもちか〔三十歳近く(物:場 C‘)〕⇒からの關係:①になりながら「②立つ(心が浮き立つ・悟る?)ことぞなき」(D1の至小化)⇒「③烟(②的概念:F)⇒E:③ばかりが「④立つ(Eの至小化:掛詞)」で心はまだ暗かつた」(Eの至小化)(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒契沖(△枠):①への適應正常。 |
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P59《時勢或は輿論(物:場 C‘)に深い疑ひ(D1の至小化)を抱いた、二つ(契沖・長流)の強い個性(物:場 C‘)が、歌の上(物:場 C‘)で相寄る(D1の至大化)樣が見えて來る。唱和の世界(物:場 C‘)でどんな不思議(物:場 C‘)が起る(D1の至大化)か、二人(物:場 C‘)は、それをよく感じてゐた(D1の至大化)。孤獨者の告白といふ自負(物:場 C‘)に支へられた詩歌(物:場 C‘)に慣れた(D1の至小化)今日の私達(△枠)には、これ〔即ち『唱和の世界(物:場 C‘)でどんな不思議(物:場 C‘)が起る(D1の至大化)か』〕は、かなり解りにくい(D1の至小化)》 關係論:①唱和の世界での不思議(物:場 C‘)⇒からの關係:①を「②よく感じてゐた」(D1の至大化)⇒「③孤獨者の告白といふ自負の詩歌(②の對立的概念F)⇒E:③に慣れた(Eの至小化)「④今日の私達にはかなり解りにくい(Eの至小化)」(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒二人(契沖・長流)(△枠):①への適應正常。 |
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《めいめいの心(物:場 C‘)に屬する、思ひ解けぬ歎き(物:場 C‘)が、解ける(D1の至大化)のは、めいめいの心(物:場 C‘)を超えた言葉の綾の力(物:場 C)だ。言葉の母體(物:場 C‘)、歌(物:場 C‘)といふものの傳統の力(物:場 C)である。二人(物:場 C‘)に自明だつた(D1の至大化)事が私達(△枠)には、もはや自明ではない(D1の至小化)のである》 關係論:①二人(契沖・長流)の唱和の心(物:場 C‘)⑤言葉の綾の力・傳統の力(物:場 C)⇒からの關係:①が⑤で「②生きてゐた」(D1の至大化)⇒「③言葉の遊戯(②の對立的概念F)⇒E:③と「④見える(Eの至小化)」(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒私達現代人(△枠):①への適應異常。 關係論:①思ひ解けぬ歎き(物:場 C‘)②めいめいの心(物:場 C‘)③言葉の綾の力(物:場 C)・④言葉の母體、歌といふ傳統の力(物:場 C)⇒からの關係:①は②を超えた③④で「⑤解ける」(D1の至大化)⇒⑤は「⑥二人に自明(③④的概念F)⇒E:⑥が「⑦もはや自明ではなく。想ひみるのはやさしくない(Eの至小化)」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒私達現代人にとつて(△枠):①への適應正常。 |
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P60《『萬葉代匠記』(物:場 C‘)が起稿(D1の至大化)されたのは、天保三年(四十四歳)頃と推定されてゐるから、契沖の歌學(物:場 C‘)といはれてゐるものは、すべて二十年(C’)に足らぬ〔即ち、四十四~六十二歳(C‘)〕彼の晩年(場 C‘)の成果であつた(D1の至大化)と言つてよい。(中略)長流(物:場 C‘)が、契沖(△枠)の唯一人の得難い心友(物:場 C‘)であつたといふ事實(物:場 C‘)は、學問上の先輩後輩の關係(F)を超えるもの(Eの至大化)であり、惟ふに、これは、契沖の發明〔萬葉(△枠)〕には、なくてかなはぬ經驗(D1の至大化)だつた》 關係論:①『萬葉代匠記』(物:場 C‘)②契沖の歌學(物:場 C‘)③晩年(四十四~六十二歳:場 C‘)⇒からの關係:①を含めた②は③の「④成果であつた」(D1の至大化)⇒「⑤長流の學問(『萬葉集管見』)(④的概念F)⇒E:⑤は「⑥契沖の大才のうちに吸収された」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒契沖(△枠):①②への適應正常。 關係論:①長流〔唯一人の得難い心友(物:場 C‘)〕⇒からの關係:①は「②かなはぬ經驗」(D1の至大化)⇒「③學問上の先輩後輩(②的概念F)⇒E:③を「④超えるもの(Eの至大化)」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒契沖の發明〔萬葉〕には(△枠):①への適應正常。 |
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P61《佛學(物:場 C‘)も儒學(物:場 C‘)も、亦寺の住職としての生活(物:場 C‘)も、自殺未遂にまで追ひ込まれた彼の疑ひ(△枠)を解く事は出來なかつた(D1の至小化)やうである。これは、長流(△枠)の知らぬ(D1の至小化)心の戰ひ(物:場 C‘)であり、道は長かつた(D1の至小化)が、遂に、倭歌(物:場 C‘)のうちに、ここで宣長の言葉(物:場 C‘)を借りてもいい(D1の至大化)と思ふが、年少の頃からの『好信樂』(D1の至大化)のうちに、契沖(△枠)は、歌學者(物:場 C‘)として生きる道(物:場 C‘)を悟得した(D1の至大化)》 關係論:①倭歌(物:場 C‘)②歌學者(物:場 C‘)として生きる道(物:場 C‘)⇒からの關係:①即ち「③年少の頃からの『好信樂』」(D1の至小化)のうちに②を「④悟得した」(D1の至大化)⇒詠歌は「⑤わが心」(的概念F)⇒E:⑤を「⑥見附ける道であつた」(Eの至大化)(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒契沖(△枠):①②への適應正常。 |
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P61《圓珠庵(場 C‘)で『萬葉』(物:場 C‘)の講義(D1の至大化)の前年(場 C‘)、石橋新右衛門直之といふ後輩(△枠)に、聴講をすすめた(D1の至大化)。その手紙で、契沖(物:場 C‘)の行き着いた確信(D1の至大化)がわかる(D1の至大化)。契沖曰く『拙僧(△枠)萬葉(物:場 C‘)發明(D1の至大化)は、彼(かの)集(物:場 C‘)、出來以後之一人(D1の至大化)と存候。大事なる習ひ目前の事(物:場 C‘)に御座候、世事(F)は俗中の俗(Eの至小化)、加樣(かやう)の義〔F:萬葉(物:場 C‘)發明講義〕は、俗中の眞(Eの至大化)に御座候』》 關係論:①契沖手紙内容(物:場 C‘)③拙僧萬葉發明(物:場 C‘)⑤大事なる習ひ目前(物:場 C‘)⇒からの關係:①の「②行き着いた確信」(D1の至大化)⇒③は「④萬葉出來以後之一人と存候」(D1の至大化)。⑤の事では「⑥世事⑦加樣(かやう)の義〔萬葉(物:場 C‘)發明講義〕(②的概念F)⇒E:⑥は「⑧俗中の俗(Eの至小化)」。⑦は「⑨俗中の眞(Eの至大化)に御座候(⑨への距離獲得:Eの至大化)⇒石橋新右衛門直之(後輩)宛(△枠):①③への適應正常。 |
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P62《(『勢語臆斷』で契沖記述)『むかし(C’)、をとこ(物:場 C‘)、わずらひて(D1の至小化)、心ち死ぬ(物:場 C‘)べくおぼえ(D1の至小化)ければ、《終(つひ)にゆく(D1の至小化) みち(場 C‘)とはかねて 聞きしかど(D1の至大化) きのふけふ(場 C‘)とは 思はざりし(D1の至小化)を》――たれたれ(△枠)も、時(死ぬとき:場 C‘)にあたりて、思ふべき(D1の至大化)事なり。これまこと〔(眞)(物:場 C‘)〕ありて(D1の至大化)、人(△枠)のをしへにもよき(D1の至大化)歌(物:場 C‘)なり。後々(場 C‘)の人(△枠)、しなんとするにいたり(場 C‘)て、ことごとしき(大袈裟な?)歌(物:場 C‘)をよみ(D1の至小化)、あるひは、道をさとれるよしなど(物:場 C‘)をよめる(D1の至小化)、まこと〔(眞)(物:場 C‘)〕しからずして、いとにくし〔(いやらしい?:D1の至小化)〕。ただなる時(普通の時:場 C‘)、狂言綺語もまじらめ〔混じるであらうが:D1の至小化)〕。今はとあらん時だに〔せめて今はの際(場 C‘)だけでも〕、心のまこと〔(眞)(物:場 C‘)〕にかへれかし(歸れよ:D1の至大化)』》 《終(つひ)にゆく(D1の至小化) みち(場 C‘)とはかねて 聞きしかど(D1の至大化) きのふけふ(場 C‘)とは 思はざりし(D1の至小化)を》〔(『勢語臆斷』で契沖記述)『むかし(C’)、をとこ』の歌(物:場 C‘)〕 關係論:①『むかし(C’)、をとこ』の歌(物:場 C‘)②時(死ぬとき)(場 C‘)⇒からの關係:①は②にあたりて「③思ふべき事なり」(D1の至大化)⇒③は「④まこと(眞)ありて」(③的概念F)⇒E:④は「⑤人のをしへにもよきなり」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒人々(△枠):①への適應正常。 關係論:①しなんとするにいたりて(場 C‘)②ことごとしき(大袈裟な?)歌(物:場 C‘)③道をさとれるよしなど(物:場 C‘)⑥まこと〔(眞)(物:場 C‘)〕⇒からの關係:①の時②を「④よみ(D1の至小化)」③を「⑤よめる」(D1の至小化)は、⑥に「⑦しからずして、いとにくし」(大變見苦しい:D1の至小化)⇒「⑧ただなる時(普通の時)⑨今はとあらん時だに〔せめて今はの際(場 C‘)だけでも〕」(⑥的概念F)⇒E:⑧に「⑩狂言綺語もまじらめ(混じるであらうが)」(Eの至小化)。⑨には「⑪心の⑥にかへれかし(歸れよ)(Eの至大化)(⑨への距離獲得:Eの至大化)⇒人々(△枠):①への適應正常。 |
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P62《宣長(△枠)は、晩年(場 C‘)、青年時(場 C‘)の感動を想ひ(D1の至大化)、右の契沖の一文(物:場 C‘)を引用(D1の至大化)し、『ほうしのことば(物:場 C‘)にもにず(D1の至小化)、いといとたふとし(D1の至大化)、やまとだましひなる人(物:場 C‘)は、法師(物:場 C‘)ながら、かくこそ有りけれ(D1の至大化)』(玉かつま、五の巻)と註した。〔『大明眼』(物:場 C‘)〕の、宣長の言ふ『本意』『意味のふかき處』(物:場 C‘)では、契沖の基本的な思想(物:場 C‘)、即ち歌學(物:場 C‘)は俗中の眞(物:場 C‘)である、學問の眞(物:場 C‘)を、あらぬ邊り(場 C‘)に求める要はいらぬ(D1の至小化)、俗中の俗(世事・狂言綺語)を拂へば足りる(D1の至大化)、といふ思想(物:場 C‘)が、はつきり宣長(△枠)に感得(D1の至大化)されてゐたと考へたい》 關係論:①やまとだましひなる人(物:場 C‘)③『後(場 C‘)の人は一生のいつはり』云々(物:場 C‘)⇒からの關係:①は「②かく(③『勢語臆斷』)こそ有りけれ」(D1の至大化)⇒③は「④法師のことば」(②の對立的概念F)⇒E:④にも「⑤にず、いといとたふとし」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒契沖(△枠):①への適應正常。 關係論:①契沖『大明眼』の『本意』『意味のふかき處』(物:場 C‘)②基本的な思想即ち「歌學」(物:場 C‘)③學問の眞(物:場 C‘)⇒からの關係:①では②は「④俗中の眞である」(D1の至大化)⇒「⑤俗中の俗〔世事・狂言綺語(④の對立的概念F)〕⇒E:③は⑤を「⑥拂へば足りる」(Eの至大化)(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠)に感得:①への適應正常。 |
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P63《『師(△枠)以て自ら奉(う)けず(D1の至小化)、治寺(△枠)の費に充て(D1)、貧乏を膽(にぎは)す(D1の至大化)』(弟子:安藤爲章の『行實』)。彼(物:場 C‘)は、六ヶ條の、まことに質素な簡明な遺言(物:場 C‘)を認め(D1の至大化)、圓珠庵(場 C‘)に沒した(D1の至大化)(元禄十四年正月、六十二歳)。それ〔遺言状(物:場 C‘)〕は、契沖の一生のまこと〔眞(物:場 C)〕、ここに現れ(D1の至大化)、と言つてよいもので、又、彼の學問(F)そのままの姿をしてゐる(Eの至大化)〔『學問の眞即ち歌學(物:場 C‘)は俗中の眞である。俗中の俗(世事・狂言綺語)を拂へば足りる』〕》 關係論:①遺言状(物:場 C‘)②契沖の一生のまこと〔眞(物:場 C)〕⇒からの關係:①は②「③ここに現れ」(D1の至大化)⇒「④彼の學問(③的概念F)⇒E:「⑤そのままの姿をしてゐる」(③への距離獲得:Eの至大化)〔『學問の眞即ち歌學(物:場 C‘)は俗中の眞である。俗中の俗(世事・狂言綺語)を拂へば足りる』〕⇒契沖(△枠):①への適應正常。 |
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〔八章:主題〕5hp.norinaga.pdf へのリンク 關係論:①歴史(C‘)の攝理(物:場 C‘)②續「行動界覇者」家康(物:場 C‘)③全く別種(精神界)の豪傑(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②とは③を「④用意してゐた」(D1の至大化)⇒「⑤精神界の劇(己れに克つといふ心の大きな戰ひ:④的概念F)⇒E:⑤は「⑥行動界の劇(下克上)が反省され自覺されて現れる」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒藤樹(△枠):①への適應正常。 關係論:①天下(C’)②人間(物:場 C‘)③心の世界(物:場 C‘)⇒からの關係:①と②とを③に「④移した」(D1の至大化)⇒「⑤眼に見える(形而下の)下克上劇(④的對立概念F)⇒E:⑤から「⑥眼に見えぬ(形而上の)克己劇(物:場 C‘)を創り上げた」(Eの至大化)(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒藤樹(△枠):①への適應正常。5hp.norinaga.pdf へのリンク 關係論:①志(物:場 C‘)②己(物:場 C‘)③其の身命(物:場 C‘)⇒からの關係:①を嚴密に立て②に「④勇猛に克ち去て、一毫も艱難辛苦を憚るべからず」(D1の至大化)。③をも「⑤顧惜すべからず」(D1の至大化)⇒謂ふ所「⑥身を殺し(④⑤的概念F)⇒E:⑥は「⑦仁を成すの義なり」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒藤樹の辯(△枠):①への適應正常。 關係論:①學問(物:場 C‘)②母(物:場 C‘)⇒からの關係:①をするとは②を「③養ふ事だと言ふ人に傳へ難い發明」(D1の至大化)⇒③が「④『全孝の心法』」(③的概念F)⇒E:④を「⑤重ねて、遂に學問の基本の考へとなつた」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒藤樹「心底」(△枠):①への適應正常。 關係論:①因襲的諸制度(物:場 C‘)②實力といふ内容(物:場 C‘)⇒からの關係:①から②への交代(下克上)を思ふと、「③この時代を生き(交代劇を)可能な限り活寫した明瞭な意識の人物と」(D1の至大化)⇒「④藤樹」(③的概念F)⇒E:④は「⑤映じて來る」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒小林(△枠) 關係論:①藤樹(物:場 C‘)②『明徳(物:場 C‘)は其〔天下(場 C‘)〕の大本(物:場 C‘)なり』③いろいろな時代の優れた思想家(物:場 C‘)⇒からの關係:①が②と言ふ時③に「④起つた事〔PP圖參照:toujyu.pdf へのリンク〕が、①にも亦起つてゐた事をよく考へてみるのが大本」(D1の至大化)⇒即ち「⑤時代の問題〔眼に見える『下克上』(④的概念F)〕⇒E:⑤を「⑥:①自身の問題〔『眼に見えぬ克己劇』〕と感じてゐた」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒藤樹本人(△枠):②への適應正常。 關係論:①『此の身同きときは、學術も亦異なる事なし』(物:場 C‘)②學問の自由〔物:場 C‘)③時代の強制〔下克上(物:場 C‘)〕⇒からの關係:①とは②を③を跳躍臺として「④見附けたといふ事」(D1の至大化)⇒「⑤學説(④的對立概念F)⇒E:⑤の「⑥紹介・解釋ではない」(Eの至大化)(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒藤樹(△枠):①への適應正常。 關係論:①藤樹(物:場 C‘)②自分の發見〔學問の自由、即ち『此の身同きときは、學術も亦異なる事なし』〕(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②を「③信じ吟味する道より他の道(賢明な道・有利な道)を一切斷念して了つた」(D1の至大化)⇒「④彼の孤立」(③的概念F)⇒E:大事なのは④を「⑤誰も放つて置かなかつた事だ」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒周圍人(△枠):①への適應正常。 關係論:①藤樹(物:場 C‘)②『學問の準的(まと・目的)』(物:場 C‘)③高み(場 C‘)に在る原理(物:場 C‘)⇒からの關係:①が説く②は③「④の如きものではなかつた」(D1の至大化)⇒「⑤『此身』(③的對立概念F)⇒E:⑤から「⑥昇華して來るもの〔即ち『此の身同きときは、學術も亦異なる事なし』『身を修むるを以て、本と爲す』であつた」(Eの至大化)(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒人々にとつて(△枠):①への適應正常。 |
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以下〔八章各項:纏め〕 P65《『獨り生れて、獨(ひとり)死候身』の)言葉(物:場 C‘)は、契沖(物:場 C‘)でなくては言へない姿(物:場 C‘)に見えもする。この人(△枠)が根を下ろした(D1の至大化)、時代(C’)の基盤(物:場 C‘)といふものまで語つてゐる(D1の至大化)やうに思はれる。地盤〔(物:場 C‘):契沖1640―1701〕は、まだ戰國(C’)の餘震(物:場 C‘)〔即ち『下克上』(物:場 C‘)〕で震へてゐた(D1の至大化)》 關係論:①『獨り生れて、獨(ひとり)死候身に同じ』〔契沖の姿:基本的覺悟(物:場 C‘)〕②時代の基盤〔戰國(C’)の餘震(物:場 C‘)即ち『下克上』〕⇒からの關係:①は②を「③語つてゐる」(D1の至大化)⇒「③契沖の學問(的概念F)⇒E:③は人間と不離。即ち「④學問の眞は俗中の眞である。俗中の俗(世事・狂言綺語)を拂へば足りる」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒契沖(△枠):①への適應正常。 |
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《戰國時代(C’)の兵亂(物:場 C‘)は、決して文明(物:場 C‘)の流れを塞ぎ止め(D1の至小化)もしなかつたといふ、この時代(C’)の、言はば内容(物:場 C‘)の方が、餘程大事(D1の至大化)。(即ち)亂世(物:場 C‘)は、群雄(△枠)が、必要(D1の至大化)に迫られて實踐した(D1の至大化)、めいめいの秩序(F)を内容(Eの至大化)としてゐたからだ〔これぞ文明的概念?〕》 關係論:①戰國時代(C’)の兵亂(物:場 C‘)②文明(物:場 C‘)③亂世(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②の流れを「④塞ぎ止めもしなかつた」(D1の至大化)⇒③は「⑤群雄めいめいの秩序(④的概念F)⇒E:⑤を「⑥内容としてゐたから〔これぞ文明的概念?〕」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒群雄(△枠):①への適應正常。 |
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P66《『戰國』(物:場 C‘)とか『下克上』(物:場 C‘)とかいふ言葉の否定的(D1の至小化)に響く字面の裏(物:場 C‘)には、健全な意味合(物:場 C‘)〔實力(F)が虚名を制するといふ(極めて自然な)動き(物:場 C‘)〕が隱れてゐる(Eの至大化)。恐らく、『大言海』の解〔『此語、でもくらしいとも解すべし』(物:場 C‘)〕は、それを指示(D1の至大化)してゐる。歴史(C’)の上で、實力(F)が虚名を制するといふ動き〔即ち、自由・平等:でもくらしい(物:場 C‘)〕は、極めて自然な事(Eの至大化)であり、それ故に健全な(Eの至大化)と呼んでいい動き」》 關係論:①『戰國』『下克上』の否定的字面の裏(物:場 C‘)②健全な意味合(物:場 C‘)⇒からの關係:①に②が「③隱れてゐる」(D1の至大化)⇒即ち「④實力(③的概念F)⇒E:④が「⑤虚名を制するといふ動き〔即ち、自由・平等:でもくらしい〕は、極めて自然な事であり、それ故に健全」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒群雄(△枠):①への適應正常。 |
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《この時代〔『下克上』發明の南北朝時代(C’)〕になると、武力(D1)は、武士(物:場 C‘)の特權(D1の至大化)とは言へなかつた。要するに、武力をもつた馬鹿(F)が、誰に克てた筈もなかつた(Eの至小化)といふ、極めて簡單な事態(Eの至大化)に、誰(△枠)も處してゐた(Eの至大化)。武士も町人も農民(△枠)も、身分(物:場 C‘)も家柄(物:場 C‘)も頼めぬ裸一貫の生活力(物:場 C)、生活の智慧(物:場 C)から、めいめい(△枠)出直さねば(D1の至大化)ならなくなつてゐた(即ち『下克上』的)》 關係論:①『下克上』發明の南北朝時代(C’)②身分・家柄(物:場 C‘)も頼めぬ「裸一貫の生活力・生活の智慧」(物:場 C)⇒からの關係:①になると②によつて「③めいめい出直さねばならなくなつてゐた(即ち『下克上』的)」(D1の至大化)⇒何故なら「④武力をもつた馬鹿(③の對立的概念F)⇒E:④が「⑤誰に克てた筈もなかつたといふ極めて簡單な事態に處してゐたからだ」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤の事態は武士も町人も農民も(△枠):①への適應正常。 |
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P67《亂世(物:場 C‘)は『下克上』(物:場 C‘)の徹底した(D1の至大化)實行者秀吉(△枠)によつて、一應のけり(D1の至大化)がついた。日本の歴史(C‘)は、戰國(C’)の試煉〔D1の至大化:即ち『下克上』〕を受けて、文明の體質(物:場 C)の根柢からの改造(D1の至大化)を行つた。(それが故にか)當時〔亂世(場 C‘)〕の人々(△枠)は、恐らく『下克上』(物:場 C‘)の徹底(D1の至大化)した實行者秀吉(物:場 C‘)を、いかにも尤もな話(F)として納得した(Eの至大化)に相違ない。それを考へてみる方が興味がある》 關係論:①亂世(場 C‘)②『下克上』徹底實行者秀吉(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②によつて「③一應のけりがついた」(D1の至大化)⇒③の前代未聞話を「④いかにも尤もな話(③的概念F)⇒E:④として「⑤納得したに相違ない」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒當時の人々は(△枠):①への適應正常。 |
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P67《『下克上』(物:場 C‘)といふ文明の大經驗(物:場 C)は、先ず行動(物:場 C‘)の上で演じられた(D1の至大化)のだが、これ〔行動(物:場 C‘)〕が反省(D1の至大化)され自覺(D1の至大化)され、精神界の劇(物:場 C)となつて現れる(D1)には、又時間を要した(D1の至小化)。己れ(物:場 C‘)に克つ(D1の至大化)といふ心の大きな戰ひ(物:場 C‘)には、家康(物:場 C‘)とは全く別種(精神界:思想界)の豪傑〔(物:場 C‘)即ち『中江藤樹』〕が要る、歴史の攝理(F)は、もうこれ〔全く別種(精神界思想界)の豪傑〔(物:場 C‘)即ち『中江藤樹』〕を用意してゐた(Eの至大化)》 關係論:①『下克上』といふ文明の大經驗(物:場 C)⇒からの關係:①は「②行動上で演じられた」(D1の至大化)⇒「③精神界の劇〔克己(②的對立概念F)〕⇒E:③へは「④行動界の劇が反省され自覺されて現れる。がそれには、又時間を要する」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒亂世人(△枠):①への適應正常。 關係論:①歴史(C‘)の攝理(物:場 C‘)②續「行動界覇者」家康(物:場 C‘)③全く別種(精神界)の豪傑(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②とは③を「④用意してゐた」(D1の至大化)⇒「⑤精神界の劇(己れに克つといふ心の大きな戰ひ:④的概念F)⇒E:⑤は「⑥行動界の劇(下克上)が反省され自覺されて現れる」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒藤樹(△枠):①への適應正常。 |
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P67《藤樹(△枠)は、近江(場 C‘)の貧農(物:場 C‘)の倅に生れ(D1の至小化)、獨學(D1の至大化)し、獨創(D1の至大化)し、遂に一村人として終り(D1の至小化)ながら、誰(△枠)もが是認(D1の至大化)する近江聖人(物:場 C‘)の實名を得た(D1の至大化)。勿論、これは學問の世界(物:場 C‘)で、前代未聞(D1の至大化)の話であつて、彼(物:場 C‘)を學問上の天下人(物:場 C‘)と言つても、言葉を弄する(D1の至小化)事にはなるまい(D1の至大化)》 關係論:①學問(物:場 C‘)②天下(C’)③人間(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②で「④第一等」(D1の至大化):③にとつて「⑤第一義」(D1の至大化)⇒「⑥秀吉(④⑤的對立概念F)⇒E:⑥は「④自分を手紙に『てんか』と署名した」(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒藤樹(△枠):①への適應正常。 |
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P67《藤樹(△枠)は天下(C’)と人間(物:場 C‘)とを、はつきり心の世界(物:場 C‘)に移した(D1の至大化)。眼に見える(形而下の)下克上劇(物:場 C‘)から、眼に見えぬ(形而上の)克己劇(物:場 C‘)を創り上げた》 關係論:①天下(C’)②人間(物:場 C‘)③心の世界(物:場 C‘)⇒からの關係:①と②とを③に「④移した」(D1の至大化)⇒「⑤眼に見える(形而下の)下克上劇(④的對立概念F)⇒E:⑤から「⑥眼に見えぬ(形而上の)克己劇(物:場 C‘)を創り上げた」(Eの至大化)(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒藤樹(△枠):①への適應正常。 |
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P67《『嚴密に(D1の至大化)志(物:場 C‘)を立て、勇猛に(D1の至大化)己(物:場 C‘)に克ち去て、一毫も艱難辛苦(D1の至大化)を憚る(D1の至小化)べからず。己(物:場 C‘)に克つ(D1の至大化)に當つては、其の身命(物:場 C‘)をも顧惜(D1の至小化)すべからず。況や其の他(物:場 C‘)の小利害〔(D1の至小化)枝葉末節〕をや(反語:D1の至大化)。謂ふ所、身(物:場 C‘)を殺し(D1の至大化)仁(物:場 C‘)を成す(D1の至大化)の義なり』》 關係論:①志(物:場 C‘)②己(物:場 C‘)③其の身命(物:場 C‘)⇒からの關係:①を嚴密に立て②に「④勇猛に克ち去て、一毫も艱難辛苦を憚るべからず」(D1の至大化)。③をも「⑤顧惜すべからず」(D1の至大化)⇒謂ふ所「⑥身を殺し(④⑤的概念F)⇒E:⑥は「⑦仁を成すの義なり」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒藤樹の辯(△枠):①への適應正常。 |
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P68《『先生(藤樹)十四歳(△枠)。大洲(場 C‘)に在り。先生(△枠)以爲〔おもへらく(D1の至大化:思ふには)〕、家老大身(物:場 C‘)は常人に異なるべし(D1の至大化)と。(しかしこれ)を怪しむ(D1の至小化)』、これが藤樹(△枠)の獨學(D1の至大化)の素地(場 C‘)である。周圍(物:場 C‘)の冷笑(D1の至小化)を避けた夜半(場 C‘)の讀書百遍(D1の至大化)、これ〔讀書百遍(D1の至大化)〕以外に彼(△枠)は學問(物:場 C‘)の方法(D1)を持ち合せてはゐなかつた(D1の至小化)》 關係論:①學問(物:場 C‘)⇒からの關係:①の方法は「②讀書百遍以外に持ち合せてはゐなかつた」(D1の至大化)⇒「③『家老大身』(②的對立概念F)⇒E:③は「④『常人に異なるべし』を怪しむ(Eの至小化)が獨學の素地である」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒藤樹十四歳(△枠):①への適應正常。 |
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《家老(物:場 C‘)に宛てた願書(物:場 C‘)に、藤樹(△枠)は、心底は明かさなかつた(D1の至小化)やうである。心底(物:場 C‘)には、恐らく、學問(物:場 C‘)する(D1の至大化)とは即ち母(物:場 C‘)を養ふ(D1の至大化)事だと言ふ、人に傳へ難い發明(D1の至大化)があり、それが、彼の言ふ『全孝の心法』(F)〔人間社會を含め宇宙の全て(C)は『孝』(物:場 C‘)と言ふ一字から成り立ってゐる(翁問答)〕を重ねて(Eの至大化)、遂に彼の①の基本の考へとなつた(Eの至大化)と見てよいだらう》 關係論:①學問(物:場 C‘)②母(物:場 C‘)⇒からの關係:①をするとは②を「③養ふ事だと言ふ人に傳へ難い發明」(D1の至大化)⇒③が「④『全孝の心法』」(③的概念F)⇒E:④を「⑤重ねて、遂に學問の基本の考へとなつた」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒藤樹「心底」(△枠):①への適應正常。 |
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P68《『ヅント(物:場 C‘)より外はまね申す(D1の至大化)事御座無し(D1の至大化)。見聞(物:場 C‘)に疑滞(D1の至小化)してはならない、進んで〔(D1の至小化)即ち『ヅント』か〕『體認』(D1の至大化)しなければ、『體察』(D1の至大化)しなければ』、と藤樹(物:場 C‘)はくり返し教へて(D1の至大化)ゐるが、それが、藤樹の學問(物:場 C‘)の方法(D1の至大化)。學問(物:場 C‘)には『嚴密武毅(即ち『ヅント』)に力を用』(D1の至大化)うるといふ彼の言葉(物:場 C‘)に通ずる(D1の至大化)》 關係論:①學問(物:場 C‘)⇒からの關係:①には「②『嚴密武毅(即ち『ヅント』)に力を用』うる」(D1の至大化)⇒「③見聞(②的概念F)⇒E:③に「④疑滞してはならない、進んで〔即ち『ヅント』〕『體認』『體察』しなければならない」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒藤樹辯(△枠):①への適應正常。 |
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P71《幕府儒官林羅山の辯『これ〔法印(物:場 C‘)も天(C)がこれを命じた(D1の至大化)〕』(物:場 C‘)を讀んで藤樹(△枠)は怒つた(D1の至大化)。『林氏剃髪授位の辯』(物:場 C‘)を書き(D1の至大化)、羅山の文(物:場 C‘)を痛烈に難じて(D1の至小化)、『朱子の謂はゆる能く言ふの鸚鵡也(朱子學者がよく使ふ『天命』と言ふ鸚鵡的言(理)だ)』とか『穿窬(せんゆ)の盗み(包丁盗人)のごときか』とまで言つてゐる。時(場 C‘)に、藤樹(物:場 C‘)は二十四歳(場 C‘)》 關係論:①「林羅山辯:法印も天命」(物:場 C‘)②⇒からの關係:①を「②痛烈に難ず」(D1の至小化)⇒「③朱子學者(②對象的概念F)⇒E:③がよく使ふ「⑤『天命』と言ふ鸚鵡的言(即ち、理)だ。穿窬(せんゆ)の盗み(包丁盗人)のごときか』」(Eの至小化)(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒藤樹:二十四歳(△枠):①への適應正常。 |
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P71《私學(藤樹)官學(羅山)の祖(物:場 C‘)の兩人が、それぞれの道(物:場 C‘)〔理想主義・學問の純粋性(B)/現實主義・學問の實用性(A)〕を切り開かうとして、明瞭に對立(D1の至大化)する考へを抱いてゐたのは見逃せない(D1の至大化)。この二つの血脈(物:場 C‘)は、長く跡を引く(D1の至大化)のである》 關係論:①同時期(C‘)の藤樹・羅山(物:場 C‘)②それぞれの道〔理想主義・學問の純粋性(B)/現實主義・學問の實用性(A)〕(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②を「③切り開かうとして、明瞭に對立する考へを抱いてゐたのは見逃せない」(D1の至大化)⇒③の「④二つの血脈(③的概念F)⇒E:④は「⑤長く跡を引くのである」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒私學(藤樹)官學(羅山)の祖(△枠):②への適應正常。 |
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P72《『(先生△枠)嘆じて曰く(D1の至大化)、聖人(物:場 C‘)(へ)學んで至るべし。生民(△枠)の爲に、此の經〔大學(物:場 C‘)〕を遺せる(D1の至大化)は、何の幸ひ(D1の至大化)ぞや。ここにおいて感涙袖をうるをし(D1の至大化)てやまず。是(場 C‘)より聖賢を期待する(聖賢にならう)の志(物:場 C‘)あり(D1の至大化)』と『行状』(物:場 C‘)は記してゐる(D1)》 關係論:①聖人(物:場 C‘)②此の經〔大學(物:場 C‘)⇒からの關係:①へ「③學んで至るべし」(D1の至大化)②を「④遺せるは、何の幸ひぞや。ここにおいて感涙袖をうるをしてやまず」(D1の至大化)⇒是より「⑤志あり」(④的概念F)⇒E:⑤とは「⑥聖賢を期待する(聖賢にならう)」(Eの至大化)(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒藤樹十一歳(△枠):①への適應正常。 |
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P72《大洲(場 C‘)の模索時代(C’)の孤獨な感動(物:場 C‘)が人知れぬ工夫(D1の至大化)によつて、後に『大學解』(物:場 C‘)となつて成熟する(D1の至大化)、むしろそこ〔孤獨な感動(物:場 C‘)⇒工夫(D1の至大化)〕に藤樹の學問の特色(F)を認める方が自然(Eの至大化)であらう》 關係論:①大洲(場 C‘)模索時代(C’)②孤獨な「大學」感動(物:場 C‘)⇒からの關係:①の②が「③人知れぬ工夫(D1の至大化)によつて、後に『大學解』となつて成熟する」(D1の至大化)⇒②③に「④藤樹學問の特色(③的概念F)⇒E:④を「⑤認める方が自然」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒藤樹十一歳(△枠):①への適應正常。 P72《『天子、諸侯、卿大夫、士、庶人五等の位(物:場 C‘)尊卑大小差別あり(D1の至小化)といへども、其の身(物:場 C‘)に於いては、毫髪も差別なし(D1の至大化)。此の身(物:場 C‘)同じき(D1の至大化)ときは、學術(物:場 C‘)も亦異なる事なし(D1の至大化)。位(F)は譬へば大海江河溝血(器)の如し(Eの至大化)。身はたとへば水の如し(Eの至大化)』(大學界)》 關係論:①此の身(物:場 C‘)②學術(物:場 C‘)⇒からの關係:①同じきとき②も「③亦異なる事なし」(D1の至大化)⇒「④位(③的對立概念F)⇒E:④は「⑤『譬へば大海江河溝血(器)の如し。身はたとへば水の如し』」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒藤樹『大學界』(△枠):①②への適應正常。 |
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P72《藤樹(△枠)に『大學』(物:場 C‘)の讀み方を教へた(D1の至大化)のは、彼自身の生活(物:場 C‘)であつた」⇒「彼の學問(物:場 C‘)の種が落ちた(D1の至大化)あの荒涼たる土地柄(場 C‘)。彼の學問(物:場 C‘)は、實生活(物:場 C‘)の必要(D1の至大化)、或は強制(D1の至小化)〔即ち『戰國の生活(物:場 C‘)の強制(D1の至小化)』〕に、どう處したか(D1の至大化)といふところに、元はと言へば成り立つて(D1の至大化)ゐた」》 關係論:①實生活〔戰國(下克上)の生活〕(物:場 C‘)⇒からの關係:①の「②必要・強制に、どう處したか」(D1の至大化)⇒即ち「③荒涼たる土地柄」(的概念F)⇒E:③が「④『大學』の讀み方を教へた(即ち『彼の學問の種が落ちた』)」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒藤樹若い頃(△枠):①への適應正常。 |
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《藤樹は、(當時人の)『無意識性(D1の至小化)』とは、對極な強靱的意識性(D1の至大化)で處した(D1の至大化)。即ち「ただ眼を内側(精神)に向ける(D1の至大化)事」〔強靱的意識性(D1の至大化)〕によつて、「事の自然な成り行き」即ち、時(場 C‘)の勢(物:場 C‘)の強制(D1の至小化)に應ずる無意識性(D1の至小化)から、極めて自然に孤立した(D1の至大化)》 關係論:①時(場 C‘)の勢〔下克上(物:場 C‘)〕②藤樹(物:場 C‘)⇒からの關係:①に「③應ずる(當時人の)無意識性」(D1の至小化)から、②は「④決定的に離れた」(D1の至大化)⇒「⑤眼を内側に向ける事(強靱的意識性)」(④的概念F)⇒E:⑤によつて「⑥極めて自然に孤立した」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒青年藤樹(△枠):①への適應正常。 |
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P73《長い兵亂(C’)の末の平和の回復(物:場 C‘)とは、個人の實力(物:場 C‘)と社會的地位(物:場 C‘)との均衡(D1の至大化)が、かつて誰一人(△枠)考へも及ばなかつた(D1の至小化)社會の廣範圍(場 C‘)にわたつて、實現した(D1の至大化)事を意味した。この國民的な大經驗(物:場 C‘)も、外側(場 C‘)に眼を向けた(D1)人々(△枠)にとつては、その内側(精神的)の意味合(F)を考へてみる必要はないものだつた(Eの至小化)》 關係論:①長い兵亂の末の平和回復(物:場 C‘)②個人の實力(物:場 C‘)③社會的地位(物:場 C‘)⇒からの關係:①とは、②と③との「④均衡が社會の廣範圍にわたつて實現した事を意味した」(D1の至大化)⇒④の「⑤内側(精神的)の意味合」(④的對立概念F)⇒E:⑤を「⑥考へてみる必要はないものだつた」(Eの至小化)(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒外向人士には(△枠):①への適應正常。 |
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P73《成り行き上、平和(物:場 C‘)が到來(D1の至大化)すれば、言ひ代へれば、名ばかりのものに成り下つてゐた(D1の至小化)因襲的諸制度(物:場 C‘)が、新しく育成(D1の至大化)された實力といふ内容(物:場 C‘)で一應充されて(D1の至大化)了へば、事は終つた(D1の至大化)と見えた。それ(實力へ交代)が、そのまま家康(F)といふ事態の大収拾家(F)よつて行はれた政策(物:場 C‘)である(Eの至大化)》 關係論:①平和到來(物:場 C‘)②名ばかりの因襲的諸制度(物:場 C‘)③實力といふ内容(物:場 C‘)⇒からの關係:①で②が「④新しく育成された③」で「⑤一應充されて了へば事は終つた」(D1の至大化)⇒それ(②③交代)が「⑥事態の大収拾家:家康」(④⑤的概念F)⇒E:⑥によつて「⑦行はれた政策」(Eの至大化)(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒徳川政權(△枠):①への適應正常。 |
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P73《これ〔因襲的諸制度(物:場 C‘)から實力といふ内容(物:場 C‘)への交代〕を思ふと、藤樹(F)といふ人が、この時代(C‘)を生き(D1の至大化)、これ〔因襲的諸制度(物:場 C‘)から實力といふ内容(物:場 C‘)への交代、即ち『下克上』(物:場 C‘)〕を可能な限り活寫(D1の至大化)した明瞭な意識と映じて來る(Eの至大化)》 關係論:①因襲的諸制度(物:場 C‘)②實力といふ内容(物:場 C‘)⇒からの關係:①から②への交代(下克上)を思ふと、「③この時代を生き(交代劇を)可能な限り活寫した明瞭な意識の人物と」(D1の至大化)⇒「④藤樹」(③的概念F)⇒E:④は「⑤映じて來る」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒小林(△枠) |
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P73《『下克上』(物:場 C‘)といふ言葉の『でもくらしい』(F)といふ『大言海』の解(F)も、彼(藤樹△枠)ならよく理解した(Eの至大化)だらう。少くとも、彼(藤樹△枠)は、戰國の生活經驗〔『下克上』(物:場 C‘)〕の實りある意味合(物:場 C‘)(以下枠文參照)を捕へた(D1の至大化)最初の思想家(△枠)と言へる》
關係論:①戰國(C‘)生活經驗(下克上)の實りある意味合(物:場 C‘)②最初の思想家(物:場 C‘)⇒からの關係:①を「③捕へた」(D1の至大化)②⇒「④『でもくらしい(『大言海』の解)』(③的概念F)⇒E:④を「⑤よく理解しただらう」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒藤樹(△枠):①への適應正常。 |
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P74《彼(物:場 C‘)がさう〔即ち『明徳(物:場 C‘)は其〔天下(場 C‘)〕の大本(物:場 C‘)なり』と〕言ふ(D1の至大化)時(場 C‘)に、いろいろな時代(C’)の優れた思想家(物:場 C‘)に起つた事(D1の至大化)〔以下PP圖參照〕が、彼(物:場 C‘)にも亦起つてゐた(D1の至大化)事をよく考へてみる(D1の至大化)のが大本(物:場 C‘)である。彼(彼等)は、時代(C’)の問題〔『下克上』(物:場 C‘)〕を、彼(彼等)自身の問題〔眼に見えぬ(形而上の)克己劇(物:場 C‘)〕と感じてゐた(D1の至大化)》 關係論:①藤樹(物:場 C‘)②『明徳(物:場 C‘)は其〔天下(場 C‘)〕の大本(物:場 C‘)なり』③いろいろな時代の優れた思想家(物:場 C‘)⇒からの關係:①が②と言ふ時③に「④起つた事〔以下PP圖參照〕が、①にも亦起つてゐた事をよく考へてみるのが大本」(D1の至大化)⇒即ち「⑤時代の問題〔眼に見える『下克上』(④的概念F)〕⇒E:⑤を「⑥:①自身の問題〔『眼に見えぬ克己劇』〕と感じてゐた」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒藤樹本人(△枠):②への適應正常。 |
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| P74《彼(△枠)が、彼自身(△枠)の爲に選んだ(D1の至大化)學問の自由〔(物:場 C‘):學問の下の自由平等『でもくらしい』(物:場 C‘)〕は、時代の強制〔『下克上』(物:場 C‘)〕を跳躍臺(D1の至大化)としたものだ〔下克上(物:場 C‘)の内面化(D1の至大化)、即ち克己(D1の至大化)、學問の下の自由平等『でもくらしい』(物:場 C‘)〕》
關係論:①藤樹(物:場 C‘)②學問の自由〔學問の下の自由平等『でもくらしい』(物:場 C‘)〕⇒からの關係:⑥が①自身の爲に②を「③選んだ」(D1の至大化)⇒③のは「④時代の強制(下克上)」(③的概念F)〕⇒E:即ち④を「⑤跳躍臺としたものだ」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥藤樹(△枠):②への適應正常。 P74《「これ〔『此の身(物:場 C‘)同き(D1の至大化)ときは、學術(物:場 C‘)も亦異なる事なし(D1の至大化)』(物:場 C‘)〕は、學説(F)の紹介(Eの至小化)でもなければ、學説(F)の解釋(Eの至小化)でもない。自分(物:場 C‘)は學問(物:場 C‘)といふものを見附けた(D1の至大化)といふ端的な言葉である【即ち、學問の自由〔物:場 C‘)を、時代の強制〔下克上(物:場 C‘)〕を跳躍臺(D1の至大化)として見附けた(D1の至大化)といふ事〕】》 關係論:①『此の身同きときは、學術も亦異なる事なし』(物:場 C‘)②學問の自由〔物:場 C‘)③時代の強制〔下克上(物:場 C‘)〕⇒からの關係:①とは②を③を跳躍臺として「④見附けたといふ事」(D1の至大化)⇒「⑤學説(④的對立概念F)⇒E:⑤の「⑥紹介・解釋ではない」(Eの至大化)(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒藤樹(△枠):①への適應正常。 |
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P74《彼(△枠)は自分の發見〔學問の自由、即ち『此の身同きときは、學術も亦異なる事なし』〕(物:場 C‘)を信じ(D1の至大化)、これ〔學問の自由、即ち『此の身同きときは、學術も亦異なる事なし』(物:場 C‘)〕を吟味(D1の至大化)する道より他の道(D1の至小化)は、賢明な道(D1の至大化)であれ、有利な道(D1の至大化)であれ、一切斷念〔即ち彼の孤立(F)〕して了つた(D1の至大化)。が大事なのは、誰(△枠)も彼の孤立(F)を放つて置かなかつた(Eの至大化)事だ》 關係論:①藤樹(物:場 C‘)②自分の發見〔學問の自由、即ち『此の身同きときは、學術も亦異なる事なし』〕(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②を「③信じ吟味する道より他の道(賢明な道・有利な道)を一切斷念して了つた」(D1の至大化)⇒「④彼の孤立」(③的概念F)⇒E:大事なのは④を「⑤誰も放つて置かなかつた事だ」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒周圍人(△枠):①への適應正常。 |
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P74《藤樹(物:場 C‘)が説く(D1の至大化)『學問の準的(まと・目的)』(物:場 C‘)は、人々(△枠)にとつて、何處か高み(場 C‘)に在る原理(物:場 C‘)の如きものではなかつた(D1の至小化)。『此身』(物:場 C‘)から昇華(D1の至大化)して來るもの〔即ち『此の身同きときは、學術も亦異なる事なし』『身を修むるを以て、本と爲す』(物:場 C‘)〕であつた》 關係論:①藤樹(物:場 C‘)②『學問の準的(まと・目的)』(物:場 C‘)③高み(場 C‘)に在る原理(物:場 C‘)⇒からの關係:①が説く②は③「④の如きものではなかつた」(D1の至大化)⇒「⑤『此身』(③的對立概念F)⇒E:⑤から「⑥昇華して來るもの〔即ち『此の身同きときは、學術も亦異なる事なし』『身を修むるを以て、本と爲す』であつた」(Eの至大化)(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒人々にとつて(△枠):①への適應正常。 |
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〔九章:主題〕6hp.norinaga.pdf へのリンク 關係論:①仁齋の學問(物:場 C‘)②藤樹(物:場 C‘)⇒からの關係:②が「③:心法(D1の至大化)と呼びたかつたものが①の根幹をなしてゐる」(D1の至大化)⇒しかし②がそのまま信じた「④:四書〔朱熹の編纂〕・大學〔朱熹の編纂(禮記の大學篇:初學の門)〕」(③的對立概念F)⇒E:④に「⑤:原典批判や『大學、孔子之遺書に非らざるの辯』の劃期的研究も現れるに至つた」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒仁齋(△枠):②への適應正常。 關係論:①學問(物:場 C‘)②『天下大一等人間第一義の意味(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②を「③『咬出す』以外に別路も別事もない」(D1の至大化)⇒「④獨立宣言(③的概念F)⇒E:こんな④を「⑤思ひ切つてした者は以前に、誰もゐなかつた」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒藤樹(△枠):①への適應正常。 關係論:①學問(物:場 C‘)②天下大一等の仕事(物:場 C‘)③人間第一義を主意(物:場 C‘)⇒からの關係:何故①は②③であるか、「④それは自力『自反』といふものの力〔即ち『獨』(D1の至大化)〕で、咬出さねばならぬ」(D1の至大化)⇒「⑤『君子の學』(④的概念F)⇒E:⑤は「⑥己の爲にす(獨)、人の爲にせず」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒藤樹(△枠):①への適應正常。 關係論:①眞知は普遍的(C)⑥新學問の夜明け(C’)⇒からの關係:①を得るのは「③心法・心術(『獨:己れ一人生きてあり』)なり」、かつ③は『現在の心』に關する工夫(即ち『無私』化。烈しい内省:D1の至大化)」それが⑥に現れた(D1の至大化)⇒「④『向上神奇玄妙(神秘C的)』(③的對立概念F)⇒E:④なる「⑤理(E:朱子學)を求めんとする工夫(Eの至小化)ではない」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒藤樹(△枠):①への適應正常。 關係論:①彼等(物:場 C‘)②書〔古典(物:場 C)〕の眞意(物:場 C‘)③古典(物:場 C)⇒からの關係:①が②を「④:知らん(D1の至大化)が爲に、三年も心法(D1の至大化)を練つたのである」(D1の至大化)⇒「⑤心法(的概念F)⇒E:⑤を「⑥:練る(Eの至大化)とは、③に對する信を新たにしよう(D1の至大化)とする苦心〔獨:無私・自力自省(D1の至大化)〕であつた」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒蕃山・藤樹・仁齋(△枠):①への適應正常。 關係論:①學問界(場 C‘)の豪傑達(物:場 C‘)②古典(物:場 C)⇒からの關係:①は②に「③:己〔獨:自力自省(D1の至大化)〕に従つて信を新たにする道を行つた」(D1の至大化)⇒「④無私」(③的概念F)⇒E:④を「⑤:得んとする努力が仕事の上での恣意を許さなかつた」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒豪傑達(△枠):②への適應正常。 |
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以下〔九章各項:纏め〕 《社會秩序(物:場 C‘)の安定(D1の至大化)に伴つた文運(物:場 C‘)の上昇(D1の至大化)に歩調を合わせ、新學問(物:場 C‘)は、一方、官學(F)として形式化(理:Eの至小化)して、固定する(Eの至小化)傾向を生じたが、これ〔官學(F)〕に抗し(Eの至大化)、絶えず發明して(D1の至大化)、一般人の生きた教養(物:場 C‘)と交渉(D1の至大化)した學者達(△枠)は、皆藤樹(物:場 C‘)の志(物:場 C‘)を繼いだ(D1の至大化)》 關係論:①慶長の頃(C’)②社會秩序安定・文運上昇(物:場 C‘)③新學問(物:場 C‘)④一般人の生きた教養(物:場 C‘⑤藤樹の志(物:場 C‘)⇒からの關係:①の②に歩調を合わせ(D1の至大化)③は「絶えず發明して」(D1の至大化)、④と「交渉し皆⑤を繼いだ」(D1の至大化)⇒それに反して「⑥官學(⑤的對立概念F)⇒E:⑥は「⑦形式化(理)して、固定する傾向を生じた」(Eの至小化)(⑥への距離不獲得:Eの至小化)⇒③の學者達(△枠):④⑤への適應正常。 |
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《藤樹の立志(物:場 C‘)には、はつきりと徹底した(D1の至大化)性質(物:場 C‘)があつた。學問(物:場 C‘)は『天下大一等人間第一義の意味(物:場 C‘)を御咬出(D1の至大化)』す(國領子に與ふ)以外に別路も別事もない。こんな思ひ切つた學問の獨立宣言(F)をした者は、藤樹(△枠)以前に、誰もゐなかつた(Eの至大化)》 關係論:①學問(物:場 C‘)②『天下大一等人間第一義の意味(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②を「③『咬出す』以外に別路も別事もない」(D1の至大化)⇒「④獨立宣言(③的概念F)⇒E:こんな④を「⑤思ひ切つてした者は以前に、誰もゐなかつた」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒藤樹(△枠):①への適應正常。 |
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《何故學問(物:場 C‘)は天下大一等の仕事(物:場 C‘)であるか、何故人間第一義を主意(物:場 C‘)とするか、それは自力〔即ち『獨』(D1の至大化)〕で、彼が屡々使つてゐる『自反』〔即ち『獨』(D1の至大化)〕といふものの力(獨力)で、咬出(D1の至大化)さねばならぬ。『君子の學(F)は己の爲にす(即ち獨)、人(△枠)の爲にせず(Eの至大化)』》 關係論:①學問(物:場 C‘)②天下大一等の仕事(物:場 C‘)③人間第一義を主意(物:場 C‘)⇒からの關係:何故①は②③であるか、「④それは自力『自反』といふものの力〔即ち『獨』(D1の至大化)〕で、咬出さねばならぬ」(D1の至大化)⇒「⑤『君子の學』(④的概念F)⇒E:⑤は「⑥己の爲にす(獨)、人の爲にせず」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒藤樹(△枠):①への適應正常。 |
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《藤樹の良知説(物:場 C‘)と言はれてゐるやうに、『良知』(物:場 C‘)は彼の學問(物:場 C‘)の準的(目標)となる觀念であり、又これは、明徳(物:場 C‘)とも、大孝(物:場 C‘)とも本心(物:場 C‘)とも、いろいろに呼ばれてゐるのだが、どう呼んでも、『獨』(D1の至大化)といふ言葉を悟得(D1の至大化)する工夫に歸する。『獨(D1の至大化)は良知(物:場 C‘)の殊稱(D1の至大化)、千聖(物:場 C‘)の學脈(D1の至大化)である』》 關係論:『①良知』〔明徳・大孝・本心(物:場 C‘)〕②千聖⇒からの關係:①は「③『獨』の悟得工夫に歸する。『獨』は①の殊稱、②の學脈である」(D1の至大化)⇒「④自己一人(③的概念F)⇒E:④の「⑤知る所にして、人(△枠)の知らざる所」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒藤樹(△枠):①への適應正常。 |
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《『卓然獨立(D1の至大化)して、依る所(場 C‘)なし(D1の至小化)』といふ覺悟(D1の至大化)。さうすれば、『貧富、貴賤、禍福、利害、毀誉、得喪、之〔相對(物:場 C‘)〕に處する(D1の至大化)こと一〔絶對(非相對)・孤高・不二〕なり、故に之を獨(D1の至大化)と謂ふ』といふ高次の意味合(物:場 C‘)にも通ずる(D1の至大化)ことが出來るであらう。それが、藤樹(物:場 C‘)の謂ふ『人間第一義』の道(物:場 C‘)》 關係論:①『人間第一義』の道(物:場 C‘)⇒からの關係:①とは「②『貧富、貴賤、禍福、利害、毀誉、得喪、之〔相對(物:場 C‘)〕に處する(D1の至大化)こと一〔絶對(非相對)・孤高・不二〕なり、故に之を獨(D1の至大化)と謂ふ』の高次の意味合にも通ずる」⇒「③卓然獨立」(②的概念F)⇒E:③して「④依る所(場 C‘)なし』といふ覺悟」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒藤樹(△枠):①への適應正常。 |
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《學問(物:場 C‘)をする責任(D1の至大化)は、各自〔『獨』(D1の至大化)『己れ一人生きてあり』〕が負はねばならない。眞知(C)は普遍的なものだが、これを得る(D1の至大化)のは、各自〔『獨』(D1の至大化)『己れ一人生きてあり』〕の心法(D1の至大化)、或は心術(D1の至大化)の如何による。それ〔心法・心術(D1の至大化)〕も、めいめいの『現在の心』に關する工夫(D1の至大化)。このやうな烈しい内省(D1の至大化)的傾向が、新學問の夜明け(C’)に現れた》 關係論:①眞知は普遍的(C)⑥新學問の夜明け(C’)⇒からの關係:①を得るのは「③心法・心術(『獨:己れ一人生きてあり』)なり」、かつ③は『現在の心』に關する工夫(烈しい内省:D1の至大化)」それが⑥に現れた(D1の至大化)⇒「④『向上神奇玄妙(神秘C的)』(③的對立概念F)⇒E:④なる「⑤理(E:朱子學)を求めんとする工夫(Eの至小化)ではない」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒藤樹(△枠):①への適應正常。 |
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《學問(物:場 C‘)を發展(D1の至大化)させた學者(△枠)で、學問(物:場 C‘)が要求する客觀性(D1の至大化)について、最も明瞭な意識(D1の至大化)を持ったと見做される人々〔蕃山・契沖・仁齋等(△枠)〕にも、藤樹(物:場 C‘)の所謂學脈(物:場 C‘)は繼承(D1の至大化)されてゐた》 關係論:①學問(物:場 C‘)②藤樹の學脈(物:場 C‘)⑤この時代(C’)⇒からの關係:①が「③要求する客觀性について、最も明瞭な意識(D1の至大化)を持った④にも②は繼承されてゐた」(D1の至大化)。⇒⑤の「⑥訓詁の學(朱子學)の生態(③的対立概念F)⇒E:⑥を「現代の學問の通念(E)のうちで想像してみる(E)事は、決して容易ではない」(Eの至小化)(⑥への距離不獲得:Eの至小化)⇒④人々〔蕃山・契沖・仁齋他(△枠)〕:①②への適應正常。 |
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《二人(△枠)が吾が物とした(D1の至大化)時代(C’)精神(物:場 C‘)の親近性〔藤樹儒學(物:場 C‘)の心法・心術『獨:己れ一人生きてあり(D1の至大化)』・契沖和學(物:場 C‘)の『獨り生れて、獨死候身』(D1の至大化)〕。契沖の學問(物:場 C‘)の客觀的方法(F)も、藤樹(物:場 C‘)の言ふやうに、自力(主觀:D1の至大化)で『咬出し』た心法(D1の至大化)に外ならなかつた(Eの至大化)〔故に、前者の儒學(物:場 C‘)の主觀性(D1)、後者の和學(物:場 C‘)の客觀性〔『問に對する答へ』:學問的處理(D1の至大化)〕といふ、現代(C’)の傍觀者(△枠)の眼に映ずる相違(D1)も、曖昧なもの(D1の至小化)》 關係論:①二人の時代精神〔儒學・和學(物:場 C‘)〕⇒からの關係:①の親近性「②藤樹の心法・心術『獨:己れ一人生きてあり』・契沖の『獨り生れて、獨死候身』〕」(D1の至大化)⇒即ち「③契沖學問の客觀的方法(②的概念F)⇒E:③も「④藤樹の言ふやうに、自力(主觀)で『咬出し』た心法に外ならなかつた」(Eの至大化)(③客觀への距離獲得:Eの至大化)⇒藤樹・契沖(△枠):①への適應正常。 |
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《藤樹(物:場 C‘)曰く『世俗(△枠)の(が)學問(物:場 C‘)をそしる(D1の至小化)にあらず(D1の至大化)。學者(△枠)の(が)そしる(D1の至小化)なり、學者(△枠)のまねく(D1の至小化)所なり。(中略)そのあやまり(D1の至小化)の己(△枠)より出る事をわきまへず(D1の至小化)、是〔の事實(物:場 C‘)〕をもつて見れば(D1)、學問の實義(物:場 C‘)に志なき(D1の至小化)學者(△枠)は、世俗(△枠)の(が)學問(物:場 C‘)をそしる(D1の至小化)よりも、一きは(D1の至小化)まさりたる(D1の至小化)聖門(物:場 C‘)のつみ(D1の至小化)人(△枠)なるべし』》 關係論:①學問の實義(物:場 C‘)④聖門(物:場 C‘)⇒からの關係:①に「②志なき③は一きはまさりたる(D1の至小化)④のつみ人(D1の至小化)なるべし」(D1の至小化)⇒「⑤世俗(②的對立概念F)⇒E:⑤が「學問(物:場 C‘)をそしるよりも」(Eの至小化)(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒③學者(△枠):①④への適應異常。 |
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《藤樹の考へ(物:場 C‘)によれば、因襲的な學問(物:場 C‘)の『文藝を高滿する病』は膏肓(D1の至小化)に入り、これを笑ひ去つた(D1の至大化)世俗(△枠)の『活溌融通の心』(D1の至大化)に、學者(F)が氣附き(Eの至小化)、これと『和睦』(Eの至小化)しようとしない限り、學問はその『實義』(物:場 C‘)を回復(D1の至大化)する事は出來ない(D1の至小化)》 關係論:①因襲的な學問(物:場 C‘)⇒からの關係:①の『文藝を高滿する病』を「②笑ひ去つた世俗の『活溌融通の心』」(D1の至大化)⇒「③學問の實義」(②的概念F)⇒E:③の回復は②に「氣附き『和睦』しようとしない限り出來ない」(Eの至小化)④への距離不獲得:Eの至小化)⇒學者(△枠):①への適應異常。 |
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《藤樹(物:場 C‘)の獨創(D1の至大化)は、在來の學問(物:場 C‘)の修正も改良も全く斷念(D1の至小化)して了つたところに、學問(F)は一つたん死なねば(D1の至小化)、生き返らない(D1の至小化)と見極めた(Eの至小化)ところにある。『良知(物:場 C‘)天然の師(物:場 C‘)にて候へ(D1の至大化)ば、師(物:場 C‘)なしとても苦しまず(D1の至大化)候』》 關係論:①良知(物:場 C‘)は天然の師(物:場 C‘)②師(物:場 C‘)⇒からの關係:①にて「③:候へば、②なしとても苦しまず」(D1の至大化)⇒「④學問(③的概念F)⇒E:「④ は一つたん死なねば(Eの至小化)、生き返らないと見極めた(Eの至大化)」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒藤樹の獨創(△枠):①への適應正常。 |
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《學問(物:場 C‘)の起死囘生(D1の至大化)の爲には、俗中(場 C‘)平常(D1の至大化)の自己(△枠)に還つて出直す(D1の至大化)道しかない〔即ち『學問の實義』(物:場 C‘)とは、やがて契沖(物:場 C‘)の言ふ『俗中の眞』(物:場 C‘)となるもの〕》 關係論:①學問(物:場 C‘)⇒からの關係:①の「②起死囘生の爲には」(D1の至大化)⇒「③俗中」(②的概念F)⇒E:③の「④平常の自己に還つて出直す道しかない(契沖『俗中の眞』と同)」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒藤樹(△枠):①への適應正常。 |
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《『心學(物:場 C‘)をよくつとむる(D1の至大化)賤男賤女(△枠)は書物(物:場 C‘)をよまず(D1の至小化)して讀(D1の至大化)なり。今時(場 C‘)はやる(D1の至小化)俗學(物:場 C‘)は書物(物:場 C‘)を讀みてよまざる(D1の至小化)にひとし』(翁問答、改正篇)》 關係論:①『論語よみの論語しらず』といふ諺(物:場 C‘)②世俗の人々(物:場 C‘)③『論語』(物:場 C‘)⇒からの關係:①を發明した②は③に「④:讀まれて(D1の至小化)己を失つて(D1の至小化)はゐない事に氣附く」(D1の至大化)⇒「⑤:今時はやる俗學(的概念F)⇒E:⑤は「⑥書物を讀みてよまざるにひとし」(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒藤樹(翁問答、改正篇)(△枠) |
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《『中江氏(物:場 C‘)、王子の書〔自書?(物:場 C‘)〕を見て(D1の至大化)、良知の旨(物:場 C‘)を悦び(D1の至大化)、予(△枠)にも亦さとされき(D1の至大化)。これ〔良知の旨(物:場 C‘)を悦びさとされき(D1の至大化)〕によりて大に心法(D1の至大化)の力を得たり(D1の至大化)。(中略)、書〔古典(物:場 C)〕を見ず〔(D1の至小化)即ち「⑤:今時はやる俗學」(的概念F)⇒E:⑤は「⑥書物を讀みてよまざるにひとし」〕して、心法(D1の至大化)を練ること三年(C’)なり』》 關係論:①中江氏(物:場 C‘)②王子の書〔自書?(物:場 C‘)〕③良知の旨(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②を見て③を「④悦び、予にも亦さとされき」(D1の至大化)⇒「⑤心法(④的概念F)⇒E:⑤の力を得たり「⑥:書〔古典(物:場 C)〕を見ずして、⑤を練ること三年(C’)なり」(Eの至大化)(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒蕃山曰く(△枠):①への適應正常。 |
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《書〔古典(物:場 C)〕を讀まず(D1の至小化)して、何故三年(C’)も心法(D1の至大化)を練るか。書〔古典(物:場 C)〕の眞意(物:場 C)を知らん(D1の至大化)が爲である。それほどよく古典(物:場 C)の價値(物:場 C)は信じられてゐた(D1の至大化)。(中略)彼等(物:場 C‘)は、古典(物:場 C)を研究する新しい方法(D1の至大化)を思ひ附いたのではない(D1の至小化)。心法(D1の至大化)を練るとは、古典(物:場 C)に對する信(D1)を新たにしよう(D1の至大化)とする苦心〔獨:無私・自力自省(D1の至大化)〕であつた》 關係論:①彼等(物:場 C‘)②書〔古典(物:場 C)〕の眞意(物:場 C‘)③古典(物:場 C)⇒からの關係:①が②を「④:知らん(D1の至大化)が爲に、三年も心法(D1の至大化)を練つたのである」(D1の至大化)⇒「⑤心法(的概念F)⇒E:⑤を「⑥:練る(Eの至大化)とは、③に對する信を新たにしよう(D1の至大化)とする苦心〔獨:無私・自力自省(D1の至大化)〕であつた」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒蕃山・藤樹・仁齋(△枠):①への適應正常。 |
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《學問界(場 C‘)の豪傑達(物:場 C‘)は、みな己に従つて〔獨・自力自省(D1の至大化)〕古典(物:場 C)への信を新た〔獨:無私・自力自省(D1の至大化)〕にする道を行つた。彼等(物:場 C‘)に、仕事(物:場 C‘)の上での恣意(D1の至小化)を許さなかつた〔無私(D1の至大化)〕ものは、彼等(物:場 C‘)の信(D1の至大化)であつた。無私(D1の至大化)を得んとする努力であつた》 關係論:①學問界(場 C‘)の豪傑達(物:場 C‘)②古典(物:場 C)⇒からの關係:①は②に「③:己〔獨:自力自省(D1の至大化)〕に従つて信を新たにする道を行つた」(D1の至大化)⇒「④無私」(③的概念F)⇒E:④を「⑤:得んとする努力が仕事の上での恣意を許さなかつた」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒豪傑達(△枠):②への適應正常。 |
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《三十二歳(場 C‘)、『秋(場 C‘)論語(物:場 C‘)講ず(D1の至大化)。郷黨の篇(物:場 C‘)に至って大いに感得觸發(D1の至大化)あり』》 關係論:①三十二歳(場 C‘)②『論語』郷黨篇(物:場 C‘)⇒からの關係:①に②を講ず「③:『大いに感得觸發(D1の至大化)ありに於いて、解を作らんと欲す』」(D1の至大化)⇒「④まとまつた訓詁(③的概念F)⇒E:④は「⑤:『論語郷黨啓蒙翼傳』しか遺さなかつた」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒藤樹年譜(△枠):②への適應正常。 |
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《『論語郷黨啓蒙翼傳』(物:場 C‘)は、藤樹(物:場 C‘)の心法(D1の至大化)の顕著な實例(D1の至大化)と映じて來る。(中略)孔子(物:場 C‘)は、『郷黨』(物:場 C‘)になると、まるで口(F)を利かなくなつて(Eの至小化)しまふ。寫されてゐる(Eの至大化)のは、孔子の行動といふより日常生活(F)の、當時(場 C‘)の禮儀(F)に従つた細かな擧止だけ(Eの至大化)である。孔子の『徳光之影述』(F)であり、これ〔『徳光之影述』(F)〕に光をもたらす(Eの至大化)ものは、ただ讀む人(△枠)の力量〔(Eの至大化)即ち、心法・獨・無私・自力自省〕にある》 關係論:①『論語郷黨啓蒙翼傳』(物:場 C‘)②藤樹(物:場 C‘)③孔子(物:場 C‘)④『郷黨』⇒からの關係:①は②の「⑤:心法(D1の至大化)の顕著な實例」(D1の至大化)⇒④は③の日常生活の禮儀に従つた細かな擧止(F)即ち「⑥:『徳光之影述』」(⑤的概念F)⇒E:故に⑥に「⑦:光をもたらす(Eの至大化)ものは、ただ讀む人(△枠)の力量〔即ち、心法・獨・無私・自力自省〕にある」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒讀む人(藤樹△枠):①への適應正常。 |
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《『郷黨』(物:場 C‘)のこの〔『徳光之影述』(物:場 C‘)の〕本質的な難解〔讀む人の力量。即ち、心法・獨・無私・自力自省〕に心を致さなければ(D1の至小化)、孔子の教説(物:場 C‘)に躓く(D1の至小化)。この不安定(D1の至小化)を避けよう(D1の至大化)として、本當のところ、彼の説く道の本(④:F)とは何か(F)を、分析的に求めて行く(理?E)と、凡そ言説言詮の外(Eの至小化)に出て了ふ》 關係論:①『論語:郷黨』の『徳光之影述』(物:場 C‘)②孔子の教説(物:場 C‘)⇒からの關係:①の「③:本質的な難解〔讀む人の力量。即ち、心法・獨・無私・自力自省〕に心を致さなければ②に躓く」(D1の至小化)⇒②の「④:道に關する直かな發言」(③的概念F)⇒E:④は「⑤:豐か(Eの至大化)で人の耳に入り易いが、又多樣多岐(Eの至小化)で、讀むものの好むところに従つて(Eの至小化)、樣々な解釋(Eの至小化)を許す。この不安定回避に『道の本』(④)を分析的に求めて行く(理?E)と、言説言詮の外(Eの至小化)に出て了ふ」(Eの至小化)(④への距離不獲得:Eの至小化)⇒讀む人(△枠):①②への適應異常。 |
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《そこで、藤樹(物:場 C‘)は、『天〔孔子(物:場 C)〕何をか言はんや(D1の至大化)、愚(藤樹△枠)按ずる(D1)に、無言(D1の至小化)とは無聲無臭の道(D1の至大化)眞(D1の至大化)なり』といふ解(D1の至大化)に行きつくのである。『郷黨』(物:場 C‘)が、鮮やかな(D1の至大化)孔子(物:場 C‘)の肖像畫(物:場 C)として映じて來る(D1の至大化)のは、必ずこの種〔『愚(△枠)按ずる(D1)に、無言(D1の至小化)とは無聲無臭の道(D1の至大化)眞(D1の至大化)なり』〕の苦し氣な心法〔獨:無私・自力自省(D1の至大化)〕を通じてである》 關係論:①『郷黨』(物:場 C‘)②孔子の肖像畫(物:場 C)⇒からの關係:①が鮮やかな②に映じて來るのは①の「③:無言(D1の至小化)とは無聲無臭の道(D1の至大化)眞(D1の至大化)なり』(藤樹)〕の苦し氣な心法〔獨:無私・自力自省〕を通じてである」(D1の至大化)⇒「④:繪(孔子肖像畫)」(③的概念F)⇒E:④は「⑤物を言はない(Eの至小化)が、色や線(①の無聲無臭F)には何處にも曖昧なものはない」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒藤樹(△枠):①への適應正常。 |
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《〔『無言(D1の至小化)とは無聲無臭の道(D1の至大化)眞(D1の至大化)なり』に〕於いて、宜しく無言〔天(C)⇒無言(D1の至小化)〕の端的〔核心(D1の至大化)〕を黙(?)識(D1の至大化)し、これ〔天(C)⇒無言(D1の至小化)の端的(核心:D1の至大化)〕を吾が心(△枠)に體認(D1の至大化)すべし』》 關係論:①藤樹(物:場 C‘)②『無言とは無聲無臭の道(D1の至大化)眞なり』(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②と信ずるものが「③:⑥の心に生れるのを期待する」(D1の至大化)⇒しかし「④:同じ『感得觸發』」(③的概念F)⇒E:④を「⑤:生むのは⑥の力〔心法:獨・無私・自力自省〕である」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥讀者(△枠):①への適應正常 |
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《『聖』(物:場 C)の觀念に關する知的理解〔大意の摑み方・時代考證(D1)〕は、藤樹(物:場 C‘)が讀者(△枠)に期待してゐる(D1)當のもの、讀者各自(△枠)の心裏(F)に映じて來る『聖像』(Eの至大化)に取つて代はる事は出來ない(Eの至小化)》 關係論:①『聖』の觀念(物:場 C)②藤樹(物:場 C‘)③『啓蒙』(物:場 C‘)④『翼傳』(物:場 C‘)⇒からの關係:②は①に關する知的理解(D1)即ち「⑤:③では大意の摑み方、④では専門的な時代考證を試みる」(D1の至大化)⇒しかし「⑥:心裏に映ずる『聖像』」 (⑤的概念F)⇒E:⑥は「⑦:各自力量〔心法・獨・無私・自力自省〕に據る。故に①の知的理解(D1)は⑥に取つて代はる事は出來ない」(Eの至小化)(⑥への距離不獲得:Eの至大化)⇒⑧讀者各自(△枠):①への適應異常。 |
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《私(小林△枠)は、(前項:知的理解對心裏『聖像』を)讀んで『六經〔易(哲學)・書(政治學)・詩(文學)・禮(文化的素養)・樂(修身)〕(物:場 C‘)はなほ畫(物:場 C‘)の猶し、語孟(物:場 C‘)はなほ畫法(D1の至大化)の猶し』〔即ち、六經(『聖』物:場 C)⇒からの關係:語孟(畫法「知的理解」D1の至大化)〕といふ、伊藤仁齋(物:場 C‘)の言葉(物:場 C‘)を思ひ出す(D1)》 關係論:①仁齋(物:場 C‘)②『六經(物:場 C‘)はなほ畫(物:場 C‘)の猶し』(物:場 C‘)、③『語孟(物:場 C‘)はなほ畫法(D1の至大化)の猶し』(物:場 C‘)⇒からの關係:(前項:知的理解對心裏『聖像』を)讀んで、①の言葉②③を「④思ひ出す」(D1の至大化)⇒「⑤:六經(畫:心裏『聖像』)」(④的概念F)⇒E:⑤の觀想は「⑥:各自力量〔心法・獨・無私・自力自省〕に據る。故に語孟(畫法)の知的理解ではそれに取つて代はる事は出來ない」(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒小林(△枠):①への適應正常。 |
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《藤樹が心法(D1の至大化)と呼びたかつたものが、仁齋の學問(物:場 C‘)の根幹(D1の至大化)をなしてゐる。言ふまでもなく、仁齋の仕事(物:場 C‘)になると、藤樹のもの(物:場 C‘)に比べれば、格段に詳しい(D1の至大化)ものになる。即ち以下》 關係論:①仁齋の學問(物:場 C‘)②藤樹(物:場 C‘)⇒からの關係:②が「③:心法(D1の至大化)と呼びたかつたものが①の根幹をなしてゐる」(D1の至大化)⇒しかし②がそのまま信じた「④:四書〔朱熹の編纂〕・大學〔朱熹の編纂(禮記の大學篇:初學の門)〕」(③的對立概念F)⇒E:④に「⑤:原典批判や『大學、孔子之遺書に非らざるの辯』の劃期的研究も現れるに至つた」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒仁齋(△枠):②への適應正常。 |
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《彼の學問(物:場 C‘)の精緻(D1の至大化)は、『語孟』(物:場 C‘)への信が純化(D1の至大化)した結果、『中庸』や『大學』〔朱熹の編纂&學習順:『大學(礼記の大學篇:初學の門)⇒論語⇒孟子⇒中庸(孔子以來の心法を記載)』〕の原典としての不純(D1の至小化)が見えて來た、といふ性質のもの》 關係論:①仁齋の學問(物:場 C‘)②『語孟』(物:場 C‘)⇒からの關係:①の精緻(D1の至大化)は、②への「③:信が純化した結果」(D1の至大化)⇒故に「④:『中庸』や『大學』〔朱熹の編纂&學習順:『大學(礼記の大學篇:初學の門)⇒論語⇒孟子⇒中庸(孔子以來の心法を記載)』〕(③的對立概念F)⇒E:④の原典としての「⑤:不純が見えて來た、といふ性質のもの」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒仁齋(△枠):②への適應正常。 |
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《仁齋は、孔孟の血脈(物:場 C‘)を自得〔心法(D1の至大化)〕した喜び(D1の至大化)が、自分の仕事の原動(物:場 C‘)である事を固く信じた(D1の至大化)。『語孟』の字義(物:場 C‘)の分析的な解(『學者(△枠)苟も此の二書〔論語・孟子(物:場 C‘)〕を取らば』云々)は、この喜び自體(D1の至大化)〔孔孟の血脈(物:場 C‘)を自得(心法)した喜び(D1の至大化)〕の分化展開(D1の至大化)であつた》 關係論:①孔孟の血脈(物:場 C‘)②自分(仁齋)の仕事の原動(物:場 C‘)⇒からの關係:①を「③自得〔心法?(D1の至大化)〕した喜び(D1の至大化)が②である事を固く信じた。『語孟字義』の分析的な解は喜び自體の分化展開であつた」(D1の至大化)⇒「④:語録精義等の學(F:朱子學)」(③的對立概念F)⇒E:④は「⑤:徒に訓詁(E)の雄(E)のみ、何ぞ以て學とするに足らん』」(Eの至小化)(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒學者(△枠):①への適應異常。 |
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《仁齋の考へ(物:場 C‘)によれば、書(物:場 C‘)を讀む(D1の至大化)のに、『學んで之を知る』道(D1の至大化)と『思て之を知る』道(D1の至大化)とがあるので、どちらが缺けて(D1の至小化)も學問(物:場 C‘)にはならない(D1の至小化)》 關係論:①書(物:場 C‘)⇒からの關係:學ぶ者は①の「②:『含蓄して露さざる(D1の至大化)者』〔①の生きてゐる隱れた理由・血脈(D1の至大化)〕を讀み抜くのを根本とする」(D1の至大化)⇒故に②を「③:『思て得る』」(的概念F)⇒E:③に至るならば「④:初學の『學んで知る』必要も意味合も、本當にわかつて來る」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒學ぶ者(△枠):①への適應正常。 |
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《この〔『思て得る』(D1の至大化)の〕言はば、眼光紙背(物:場 C‘)に徹する(D1の至大化)心の工夫(D1の至大化)について、仁齋自身(物:場 C‘)にも明瞭な言葉(D1の至大化)がなかつた(D1の至小化)以上、これを藤樹(物:場 C‘)や蕃山(物:場 C‘)が使つた心法(D1の至大化)といふ言葉で呼んでも少しも差支へはない(D1の至大化)》(で以下) 關係論:①心法といふ言葉(物:場 C‘)②藤樹(物:場 C‘)③宋學〔朱子學(物:場 C‘)〕④「『儒學不二』の考へ」傳統(物:場 C‘)⇒からの關係:①は③傳來以來の④から②が「⑤:拾ひ上げたもの」(D1の至大化)⇒「⑥悟道者流」(⑤的對立概念F)⇒E:⑥の「⑦:臭氣(Eの至小化)を拂底(Eの至大化)して、その(①の)意味を全く新たにした」(Eの至大化)(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒藤樹(△枠):①への適應正常。 |
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《蕃山(物:場 C‘)が面白い事を言つてゐる〔假説(D1の至大化)〕⇒以下》 關係論:①世中(場 C‘)②儒佛共(物:場 C‘)③無の見(けん)(物:場 C‘)⇒からの關係:②に①に③「④:はやりものにて候」(D1の至大化)⇒「⑤:異學の悟道者(④的概念F)⇒E:⑤と申すは、「⑥:上古(C’)の愚夫愚婦(△枠)なり。上古(C‘)の凡民には狂病(先地獄極樂の見)なし。其の⑤には此の病(狂病)あり」(Eの至小化)(③への距離獲得:Eの至小化)⇒悟道者(△枠):①への適應異常。 |
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《仁齋(△枠)も青年時代(場 C‘)、この『はやりもの』(場 C‘)〔是も一仮説なり!〕に、眞劍な關心(D1の至大化)を持つたやうだ。『嘗て(場 C‘)白骨の觀法(物:場 C‘)を修す(D1)、山川城郭悉く空想を現ずる(D1の至大化)を覺ゆ、既にして其の是に非ざる〔今迄と違ふ(D1の至大化)?〕を悟つて醇如たり(D1の至大化)』とある』。やがて、『宋儒性理之説』〔朱子學(物:場 C‘)〕の吟味に専念したが、・・以下》 關係論:①仁齋(物:場 C‘)②青年時代(場 C‘)③『宋儒性理之説』〔朱子學(物:場 C‘)〕⇒からの關係:①も②③の「④:吟味に専念した」(D1の至大化)⇒「⑤:③の心法(④的概念F)⇒E:⑤も「⑥:『明鏡止水』に極まるのに、深い疑ひを抱き、これを『佛(學)老(子)之緒餘(影響?)』(Eの至小化)として拒絶(Eの至大化)するに至つた」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒仁齋(△枠):③への適應正常。 |
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《藤樹(物:場 C‘)が心法(D1の至大化)を言ふ時、彼(物:場 C‘)は一般に心(物:場 C‘)の工夫(D1)といふものなど決して考へてはゐなかつた(D1の至小化)。心とは自分の『現在の心』(D1の至大化)〔即ち『無私』(D1の至大化)化。心法・心術は『現在の心』(D1の至大化)に關する工夫〕であり、心法(D1の至大化)の内容は、ただ藤樹〔獨・現在の心(無私)・自力自省(D1の至大化)〕と『ただの人』〔即ち、『悟道者流臭氣を拂底』(物:場 C‘)〕だけで充滿(D1の至大化)してゐたのである》 關係論:①藤樹(物:場 C‘)②心(物:場 C‘)⇒からの關係:①の「③:心法(D1の至大化)は②の工夫(D1)にあらず⇒「④:心とは『現在の心』〔(D1の至大化)『己れ一人生きてあり』・無私」(③的對立概念F)⇒E:④であり「⑤:心法の内容は、ただ藤樹〔獨・無私・自力自省(D1の至大化)〕と『ただの人』〔即ち『悟道者流臭氣を拂底』〕だけで充滿してゐた」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒自分(△枠):①への適應正常。 ~~~~~~~~~~ 〔前出:參考〕 《學問(物:場 C‘)をする責任(D1の至大化)は、各自〔『獨』(D1の至大化)『己れ一人生きてあり』〕が負はねばならない。眞知(C)は普遍的なものだが、これを得る(D1の至大化)のは、各自〔『獨』(D1の至大化)『己れ一人生きてあり』〕の心法(D1の至大化)、或は心術(D1の至大化)の如何による。それ〔心法・心術(D1の至大化)〕も、めいめいの『現在の心』に關する工夫(D1の至大化)〔即ち『無私』化。心法・心術(D1の至大化)は『現在の心』に關する工夫(D1の至大化)〕。このやうな烈しい内省(D1の至大化)的傾向が、新學問の夜明け(C’)に現れた》 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 【參考:關係論:①彼等(物:場 C‘)②書〔古典(物:場 C)〕の眞意(物:場 C‘)③古典(物:場 C)⇒からの關係:①が②を「④:知らん(D1の至大化)が爲に、三年も心法(D1の至大化)を練つたのである」(D1の至大化)⇒「⑤心法(的概念F)⇒E:⑤を「⑥:練る(Eの至大化)とは、③に對する信を新たにしよう(D1の至大化)とする苦心〔獨:無私・自力自省(D1の至大化)〕であつた」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒蕃山・藤樹・仁齋(△枠):①への適應正常。 「彼等(物:場 C‘)に、仕事(物:場 C‘)の上での恣意(D1の至小化)を許さなかつた〔無私(D1の至大化)〕ものは、彼等(物:場 C‘)の信(D1の至大化)であつた。無私(D1の至大化)を得んとする努力であつた】 |
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〔前出:參考〕 《學問(物:場 C‘)をする責任(D1の至大化)は、各自〔『獨』(D1の至大化)『己れ一人生きてあり』〕が負はねばならない。眞知(C)は普遍的なものだが、これを得る(D1の至大化)のは、各自〔『獨』(D1の至大化)『己れ一人生きてあり』〕の心法(D1の至大化)、或は心術(D1の至大化)の如何による。それ〔心法・心術(D1の至大化)〕も、めいめいの『現在の心』に關する工夫(D1の至大化)〔即ち『無私』化。心法・心術(D1の至大化)は『現在の心』に關する工夫(D1の至大化)〕。このやうな烈しい内省(D1の至大化)的傾向が、新學問の夜明け(C’)に現れた》 關係論:①眞知は普遍的(C)⑥新學問の夜明け(C’)⇒からの關係:①を得るのは「③心法・心術(『獨:己れ一人生きてあり』)なり」、かつ③は『現在の心』に關する工夫(即ち『無私』化。烈しい内省:D1の至大化)」それが⑥に現れた(D1の至大化)⇒「④『向上神奇玄妙(神秘C的)』(③的對立概念F)⇒E:④なる「⑤理(E:朱子學)を求めんとする工夫(Eの至小化)ではない」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒藤樹(△枠):①への適應正常。 |
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《彼(物:場 C‘)は孤立した自省自反〔藤樹の『獨』(D1の至大化)と同〕の道を、一貫して歩いたのだが、言ふまでもなく、彼の内觀の世界〔白骨の觀法(物:場 C‘)〕が、自慢〔前出:蕃山『自滿出來て(D1の至小化)』の事〕で閉じなかった(D1の至大化)のは、古典(物:場 C)といふ研究(D1の至大化)の對象(物:場 C‘)に向つて常に開かれて(D1の至大化)ゐたからである》 關係論:①仁齋(物:場 C‘)②學問の本旨(物:場 C‘)③材木屋(場 C‘)④自分(物:場 C‘)⇒からの關係:①にとつても、②とは③の倅に生まれた「⑤:④(藤樹『己れ一人生きてあり』)に同感(D1の至大化)し、自得(D1の至大化)出來るものでなければならなかつた」(D1の至大化)⇒「⑥古典(C)」(⑤的概念F)⇒E:⑥といふ「⑦:研究(Eの至大化)の對象に向つて常に開かれてゐた(Eの至大化)から、彼の内觀の世界〔白骨の觀法〕が、自慢(Eの至小化)〔前出:蕃山『自滿出來て』の事〕で閉じなかった」(Eの至大化)(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒仁齋(△枠):②④への適應正常。 ~~~~~~~~~ 【參考:關係論:①彼等(物:場 C‘)②書〔古典(物:場 C)〕の眞意(物:場 C‘)③古典(物:場 C)⇒からの關係:①が②を「④:知らん(D1の至大化)が爲に、三年も心法(D1の至大化)を練つたのである」(D1の至大化)⇒「⑤心法(的概念F)⇒E:⑤を「⑥:練る(Eの至大化)とは、③に對する信を新たにしよう(D1の至大化)とする苦心〔獨:無私・自力自省(D1の至大化)〕であつた」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒蕃山・藤樹・仁齋(△枠):①への適應正常。 「彼等(物:場 C‘)に、仕事(物:場 C‘)の上での恣意(D1の至小化)を許さなかつた〔無私(D1の至大化)〕ものは、彼等(物:場 C‘)の信(D1の至大化)であつた。無私(D1の至大化)を得んとする努力であつた】 |
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《仁齋自身(物:場 C‘)が自著の到るところ(物:場 C‘)で繰り返してゐる(D1の至大化)。『孔孟の學(物:場 C‘)、註家(F)に厄する(Eの至小化)こと久し(C’)』。自分(△枠)には註脚(F)を離脱する(Eの至大化)事がどんなに難しい事(Eの至小化)であつたかを、彼(物:場 C‘)は繰り返し告白(D1の至大化)せざるを得なかつたのである》(參照:P82) 關係論:①仁齋自身(物:場 C‘)②自著の到るところ(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②で「③:繰り返してゐる」(D1の至大化)⇒「④:孔孟の學」(③的概念F)⇒E:④は「⑤:『註家に厄する(Eの至小化)こと久し』。⑥には註脚を離脱する(Eの至大化)事がどんなに難しい事(Eの至小化)であつたか、と」(Eの至小化)(④への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥自分(△枠):①への適應異常。 |
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《『孔孟字義』(物:場 C‘)が、一時代(C’)を劃した學問上(物:場 C‘)の傑作(D1の至大化)である所以は、仁齋(物:場 C‘)がそれ〔『註脚(F)を離脱する(Eの至大化)事がどんなに難しい事(Eの至小化)であつたか』〕をやり遂げた(Eの至大化)ところにある》(參照:P82) 關係論:①『孔孟字義』(物:場 C‘)②一時代(C’)③學問上(物:場 C‘)⇒からの關係:①が②を劃した③の「④:傑作(D1の至大化)である所以」(D1の至大化)。⇒「⑤:註脚」(④的對立概念F)⇒E:⑦が⑤を「⑥:『離脱する(Eの至大化)事がどんなに難しかつたか(Eの至小化)』をやり遂げた(Eの至大化)ところにある」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦仁齋(△枠):①への適應正常。 |
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《先人(物:場 C‘)の註脚(F⇒E)の世界(物:場 C‘)のうちを空しく模索(D1の至小化)して、仁齋(物:場 C‘)が悟つた(D1の至大化)のは、問題は註脚(F)の取捨選擇(E)にあるのではなく、凡そ註脚(F⇒E)の出發した點(場 C‘)にあるといふ事であつた》 關係論:①仁齋(物:場 C‘)②世(場 C‘)③所謂孔孟之學(物:場 C‘)④『語孟』(物:場 C‘)⇒からの關係:①が「⑤:悟つたのは、問題は註脚(F)の取捨選擇(E)にあるのではなく、凡そ註脚(F⇒E)の出發した點にあるといふ事であつた。②の③は専ら『學んで(F)知る(E)』道〔即ち註脚(F⇒E)〕を行つた」⇒成功を期する爲に④は「⑥:道德學説」化(⑤的概念F)⇒E:⑥の「學説(F)は文章(F)から成り、文章(F)は字義(F)からなる。分析(E)は、字義(F)を綜合(Eの至小化)すれば、學説(F)を得る(Eの至小化)やうに行はれる」(Eの至小化)(⑥への距離不獲得:Eの至小化)⇒學者(△枠):③への適應異常。 |
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《宋儒〔朱子學(物:場 C‘)〕の註脚(F)が力を振つた(Eの至大化)のは、其處【〔『語孟』(物:場 C‘)の道德學説」化〕を一層精緻な學説(F)に作り直す(Eの至大化)事】であつた》 關係論:①宋儒〔朱子學(物:場 C‘)〕②『語孟』(物:場 C‘)⇒からの關係:①の「③:註脚(F)が力を振つた(Eの至大化)のは其處であつた」(D1の至大化)⇒即ち「④:②の道德學説化」(③的概念F)⇒E:④に立つて「⑤:與へられた學説(F)に内在する論理の絲(F)さへ見失はなけれ(Eの至大化)ば、學説(F)に缺けた(Eの至小化)論理(F)を補ふ(E)事も、曖昧な概念(F)を明瞭化(Eの至大化)する事も、要するにこれ〔②の道德學説化〕〕を一層精緻な學説(F)に作り直す(Eの至大化)事〔でっち擧げ(Eの至小化)〕は可能である」(Eの至小化)(④への距離不獲得:Eの至小化)⇒朱子學者(△枠):②への適應異常。 |
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《仁齋(物:場 C‘)が氣附いた(D1の至大化)のは、『語孟』といふ學問(物:場 C‘)の與件(D1)は、もともと學説(F)といふやうなものではなく、研究(E)にはまことに厄介(Eの至小化)な孔孟といふ人格(物:場 C‘)の事實(物:場 C‘)に他ならぬ(D1の至大化)といふ事であつた。その〔氣附いた(D1の至大化)の〕を、彼は、『熟讀精思』(D1の至大化)とか、『熟讀翫味』(D1の至大化)とか、『體驗』(D1の至大化)とか、『體翫』(D1の至大化)とか、いろいろに言つてみてゐるのである》 關係論:①仁齋(物:場 C‘)②『語孟』といふ學問(物:場 C‘)⑥語孟の正文(物:場 C‘)⇒からの關係:①が「③:氣附いた(D1の至大化)のは②は、もともと學説(F)といふやうなものではないといふ事であつた」(D1の至大化)⇒研究には厄介な「④:孔孟といふ人格の事實(③的對立概念F)⇒E:④と氣附いた(D1の至大化)時「⑤:①は『獨り(無私:D1の至大化)、⑥有りて、未だ宋儒〔朱子學(物:場 C‘)〕の註解(F)あらざる(Eの至小化)國』に在つたであらう」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒仁齋(△枠):⑥への適應正常。 以下參考 關係論:①眞智(C)・古典(C)・②孔孟といふ人格の事實(物:場 C‘)⇒からの關係:②に「③:心法〔『現在の心』、即ち無私への苦心・獨・自力自省(D1の至大化)〕で氣附いた時」(D1の至大化)⇒「④:宋儒〔朱子學〕」(②的對立概念F)⇒E:③の「⑤:註解(F)あらざる(Eの至小化)國』に在つた」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒仁齋(△枠):①②への適應正常。 |
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〔十章:主題候補〕norinaga10.pdf へのリンク 關係論:①言(物:場 C‘)②道〔變らぬもの(物:場 C‘)〕③古今〔即ち、歴史(遷り變るもの:物:場 C‘)〕⇒からの關係:①は②を「④:載せて以て(D1の至大化)遷(うつ)る』のである。②は何を載せても遷(うつ)らぬ」(D1の至大化)⇒「⑤:歴史(遷り變るもの)」(④的概念F)⇒E:⑤を「②は貫透する。⑤から浮き上がるのではない」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒徂徠曰く(△枠):①②への適應正常。 關係論:①徂徠の著作(物:場 C‘)②『經學』(物:場 C‘)③『史學』(物:場 C‘)④交點(場 C‘)⇒からの關係:①には「⑤:變らぬもの〔道(物:場 C‘)〕を目指す②と、變るもの〔歴史(物:場 C‘)〕に向ふ③との④の鋭い直覺がある」(D1の至大化)⇒「⑥:彼の學問(的概念F)⇒E:⑥の「支柱を④の鋭い直覺がなしてゐる」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒徂徠(△枠):②③への適應正常。 關係論:①『經學・史學』の交點(物:場 C‘)②人(物:場 C‘)③道〔變らぬもの(物:場 C‘)〕④仁齋(物:場 C‘)⑤道〔變らぬもの(物:場 C‘)〕⑥歴史的〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕⇒からの關係:①は「⑦:④の『②の外に③無く③の外に②無し』に⑥を冠せてもいい意識の出現である」(D1の至大化)⇒それが「⑧朱子學」(的概念F)⇒E:⑧といふ「窮理(Eの至小化)の學からの、二人(仁齋徂徠)の學問の轉囘點となつた」(Eの至大化)(⑧への距離獲得:Eの至大化)⇒徂徠(△枠):①④への適應正常。 關係論:①『經學・史學』の交點(物:場 C‘)⇒からの關係:①を「②:しつかりと摑まれた時」(D1の至大化)⇒「③學問(②的概念F)⇒E:③上で「當面したものが、『文章』といふ實體・『文辭』といふ『事實』・『物』であつた」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒徂徠(△枠):①への適應正常。 關係論:①學問の道〔變はらぬもの(物:場 C‘)〕②文章(物:場 C‘)③古人の道〔變はらぬもの(物:場 C‘)〕④書籍(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②、③の④、④は②。「⑤:能く②を會得して、④の儘濟まし候而、我意を少しも雑え申さず(無私)候得ば、③は、明らかに候」(D1の至大化)⇒「⑥『古文辭學』」(⑤的概念F)⇒E:「④仁齋の『古義學』に對し、⑥と呼びたかつた所以も、其處にある」(Eの至大化)(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒徂徠(△枠):①③への適應正常。 關係論:①學問(物:場 C‘)②歴史〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕③文章(物:場 C‘)④古書(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②に極まり③に極まる着想は「⑤:みな④に熟するといふ默々たる經驗(無私)のうちに生れ、長い時間をかけて育つて來た」(D1の至大化)⇒「⑥:仁齋の心法」(⑤的概念F)⇒E:「讀書の工夫について、⑥を受け繼ぐのであるが、獨特な興味ある告白(D1の至大化)を遺してゐる」(Eの至大化)(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒徂徠(△枠):①②への適應正常。 關係論:①徂徠(物:場 C‘)②意味不明の碑文(物:場 C‘)③精神の印し(物:場 C‘)⇒からの關係:①が語る放心の經驗(D1の至大化)とは、「②を③と捉へ、ただ③の④を詠めるのである」(D1の至大化)⇒「④姿」(③的概念F)⇒E:④は「向うから⑤に問ひかけ(Eの至大化)、⑤は、これ(④)に答へる必要(Eの至大化)だけを痛感(Eの至大化)してゐる」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤私達(△枠):①への適應正常。 關係論:①古文辭(物:場 C‘)②正體(物:場 C‘)③『本文』(物:場 C‘)④碑文的性質(物:場 C‘)⇒からの關係:①はその②を現すものではない(D1の至小化)。③といふものは、みな「④を藏してゐて」(D1の至大化)⇒「⑤:一種の内的視力(④的概念F)⇒E:⑤で「⑥:見るともなく讀むともなく詠(なが)める、を要求してゐる」(Eの至大化)(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒讀者(△枠):①③への適應正常。 關係論:①世(C‘)②言(物:場 C‘)③種(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②を「④:『載せて以て遷る』といふ考への生れた③は」(D1の至大化)⇒「⑤:すべての言葉(④的概念F)⇒E:⑤は「『碑文的性質(物:場 C‘)』を藏して、獨力で生きてゐる(D1の至大化)一大組織と言ふ理由から」(Eの至大化)(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒徂徠(△枠):①への適應正常。 關係論:①辭(ことば)は事と嫺(なら)ふ(物:場 C‘)②言は世といふ事と習ひ熟す(物:場 C‘)③物(物:場 C‘)④歴史といふ物(物:場 C‘)⇒からの關係:①②のさういふ③が「⑤:遷るのが④」(D1の至大化)⇒「⑥:歴史的事實(⑤的概念F)⇒E:今日の學問に準じて使はれる⑥には「結び附かない」(Eの至小化)(⑥への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑦徂徠(△枠):④への適應正常。 關係論:①歴史〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕⇒からの關係:①は「②:思ひ出すといふ心法〔無私(D1の至大化)〕に據る」(D1の至大化)⇒即ち「③像④繪」(②的概念F)⇒E:③は心法(無私)に作り上げられる。「④は想像裡に描き出される」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒徂徠(△枠):①への適應正常。 關係論:①『文章』(物:場 C‘)②歴史〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕③權化(物:場 C‘)⇒からの關係:①が②の③と「④:見えて來る(D1の至大化)まで、これを詠める(なが・無私:D1の至大化)だけが必要(D1の至大化)だつた」(D1の至大化)⇒「⑤:『海』といふ一片の言葉」(④的概念F)⇒E:すら、「④思ひ出して〔心法・無私で〕『山』と言ふ事は出來ないのだ。それで充分だつた」(Eの至大化)(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒徂徠(△枠):①への適應正常。 |
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以下〔十章各項:纏め〕 P84《仁齋(物:場 C‘)は、『童子問』(物:場 C‘)の中で、『論語』(物:場 C‘)を『最上至極宇宙第一書』(物:場 C‘)と書いてゐる(D1の至大化)》 關係論:①仁齋の學問(物:場 C‘)②言はば急所(物:場 C‘)③『最上至極宇宙第一書』(物:場 C‘)⇒からの關係:①の②はここに在る。即ち自筆稿本巻頭に③と書き「④:書いては消し、消しては書き、どうしたものかと迷つてゐる(D1の至小化)樣子が、窺へるさうである」(D1の至大化)⇒「⑤『論語』(的概念F)⇒E:⑤の「⑥:註解(Eの至大化)は畢生の仕事であつた」(Eの至大化)(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒仁齋(△枠):①への適應正常。 |
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《仁齋は穏かな人柄(物:場 C‘)だつたといふのも、恐らくこの人(物:場 C‘)には何も彼も(物:場 C‘)がよく見えて(D1の至大化)ゐた。見抜いてゐた(D1の至大化)のは、この、時代(C’)の通念(E)といふものが持つた、淺薄(Eの至小化)で而も頑固な性質(Eの至小化)であつた》 關係論:①仁齋(物:場 C‘)②何も彼も(物:場 C‘)③『最上至極宇宙第一書』(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②が「④:よく見えてゐた」(D1の至大化)⇒「⑤:『論語』が聖典(④的概念F)⇒E:⑤であるとは當時の通念(E)であつて「③は、⑤と聞いて安心(通念:E)してゐる⑥の耳には綺語(F)と聞える(Eの至小化)。①が見抜いてゐたのはその事。この、時代(C’)の通念(E)といふものが持つた、淺薄(Eの至小化)で而も頑固な性質(Eの至小化)であつた」(Eの至小化)(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥(△枠):①③への適應異常。 |
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P85《ある人間〔孔子(物:場 C‘)〕の立派さを、本當に信ずる(D1の至大化)事が出來た者(△枠)だけが知るためらひ(D1の至大化)と思はれる。輕信家にも狂信家にも、輕信や狂信を侮る懐疑家にも亦、縁のない躊ひであらう》 關係論:①ある人間(孔子)の立派さ(物:場 C‘)⇒からの關係:①を「②:本當に信ずる(D1の至大化)事が出來た者だけが知るためらひ」(D1の至大化)⇒とは、「③『最上至極宇宙第一書』(的概念F)⇒E:(『論語』を)どう註解(E)したところで、つまりは③と「④:註するのが一番いい(Eの至大化)といふ事になりはしないか」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒仁齋(△枠):①への適應正常。 |
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《『論語古義』の『總論』(物:場 C‘)に在るやうに、仁齋(△枠)の心眼に映じて(D1の至大化)ゐたものは、『論語』の姿(物:場 C‘)》 關係論:①『論語』の姿(物:場 C‘)⇒からの關係:①が「②:心眼に映じてゐた」(D1の至大化)⇒「③:(孔子の)其の言(②的概念F)⇒E:③は「④:至正至當(Eの至大化)、徹上徹下(Eの至大化)、一字を増さば則ち餘り有り(Eの至小化)、一字を減ずれば則ち足らず(Eの至小化)」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒仁齋(△枠):①への適應正常。 |
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《『道(物:場 C‘)は此に至つて盡き(D1の至大化)、學(物:場 C‘)は此に至つて極る(D1の至大化)』ところまで行きついた(D1の至大化)、孔子といふ人の表現の具體的な姿(物:場 C‘)であつた》 關係論:①孔子といふ人の表現の具體的な姿(物:場 C‘)②道(物:場 C‘)③學(物:場 C‘)⇒からの關係:②は此に至つて盡き③は此に至つて極るところまで行きついた(D1の至大化)、①は「④:動かす事が出來ない」(D1の至大化)⇒「⑤:分析(④的對立概念F)⇒E:⑤に「よつて何かに還元(E)できるものでもなく、解釋(E)次第でその代用物が見附かるものでもない」(Eの至小化)(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒仁齋(△枠):①への適應正常。 |
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《こちら側(△枠)の力でどうにもならぬ(D1の至小化)姿(物:場 C‘)なら、こちら(△枠)が相手(物:場 C‘)に動かされる(D1の至大化)道を行く他はないのである》 關係論:①動かす事が出來ない姿(物:場 C‘)⇒からの關係:①なら「②こちら(④)が①に動かされる(D1の至大化)道を行く他はない」(D1の至大化)⇒「③『其の謦欬・肺腑』(②的概念F)⇒E:③を「『承くる(Eの至大化)が如く、視る(Eの至大化)が如く』といふところまで、見て見抜き(無私:Eの至大化)、『手の之を舞ひ、足の之を踏むことを知らず』と」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④仁齋(△枠):①への適應正常。 |
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《光琳と乾山とは、仁齋の從兄弟であつたが、仁齋(△枠)の學問(物:場 C‘)に關する基本的な態度〔心法・無私(D1の至大化)〕には、光琳や乾山(△枠)が、花や鳥の姿(物:場 C‘)に應接する態度に通ずるもの〔やはり:心法・無私(D1の至大化)〕があつた(D1の至大化)》 關係論:②學問(物:場 C‘)④花や鳥の姿(物:場 C‘)⇒からの關係:①の②に「⑤:關する基本的な態度〔心眼心法・無私(D1の至大化)〕には、③が④に應接する態度に通ずるものがあつた」(D1の至大化)⇒「⑥:從兄弟同士の血(血脈:⑤的概念F)⇒E:⑥が「兩者の世界には通つてゐた」(Eの至大化)(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒①仁齋(△枠)③光琳や乾山(△枠):②④への適應正常。 |
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《仁齋の學問(物:場 C‘)を承けた(D1の至大化)一番弟子は、荻生徂徠(△枠)といふ、これも亦獨學者(物:場 C‘)であつた》 關係論:①茫茫たる海内(場 C‘)②豪傑(物:場 C‘)③先生〔仁齋(物:場 C‘)〕⇒からの關係:①、②「④:『幾何ぞ、一に心に當るなし。而して獨り③に郷(むか)ふ』(D1の至大化)」⇒「⑥:學者」(④的概念F)⇒E:⑥の「『卓然獨立して、依る所無き(無私)』は少し」(Eの至小化)(⑥への距離不獲得:Eの至小化)⇒徂徠(△枠):③への適應正常。 關係論:①仁齋の『語孟字義』(物:場 C‘)⇒からの關係:①を「②讀み、心に當るものを得た」(D1の至大化)⇒「③豪傑」(的概念F)⇒E:③とは「④『卓然獨立して、依る所無き(無私)』人間の心法の事であつた」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒徂徠(△枠):①への適應正常。 |
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《語孟(物:場 C‘)をかう讀んだ〔即ち『卓然獨立(D1の至大化)して、依る所無き(無私)』〕、といふ責任ある個人的證言(D1の至大化)に基いて、仁齋の學問(物:場 C‘)が築かれてゐる(D1の至大化)ところに、徂徠(△枠)は豪傑(物:場 C‘)を見た(D1の至大化)》 關係論:①先生〔仁齋(物:場 C‘)〕⇒からの關係:『獨り①に「②:郷(むか)ふ』」(D1の至大化)⇒とは「③:藤樹」(的概念F)⇒E:③によつて「④:開かれた『獨』の『學脈』(無私・心法)に他ならなかつた」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒徂徠(△枠):①への適應正常。 |
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《これ〔歴史意識(物:場 C‘)〕を咬み出した(D1の至大化)彼等の精神(物:場 C)は、卓然として獨立〔無私(D1の至大化)〕してゐたのである》 關係論:①彼等の精神(物:場 C‘)②彼等の學問(物:場 C‘)③『道學』(物:場 C‘)④道(物:場 C‘)⇒からの關係:②は③であり「⑤:従つて④とは何かと言ふ問ひで、①は、卓然〔無私(D1の至大化)〕として緊張してゐた」(D1の至大化)⇒「⑥:彼等の歴史意識(的概念F)⇒E:も「この緊張〔卓然(無私)として緊張〕で着色されてゐた」(Eの至大化)(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒仁齋・徂徠(△枠):①への適應正常。 |
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《徂徠(物:場 C)になると、『學問(物:場 C‘)は歴史(物:場 C‘)に極まり候事に候』(答問集)とまで極言(D1の至大化)》 關係論:①學問(物:場 C‘)②歴史(物:場 C)⇒からの關係:①は②に極まり候「③:事に候とまで極言」(D1の至大化)⇒「④:普遍的な課題(③的概念F)⇒E:④である「人生如何に生くべきの究明は、歸するところ、②を深く知るに在ると、信ずるに至つたと」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒徂徠(△枠):①②への適應正常。 |
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《徂徠曰く『多くは時代(C’)之不動など(物:場 C‘)とすべらかし(D1の至小化)候事、後世(場 C‘)利口之徒(△枠)之申す事(D1の至小化)候。是は古書(物:場 C的)に熟し申さず(D1の至小化)候故、古今〔即ち歴史(物:場 C‘)〕の差別は會而(あつて)之(差別は)無き事〔貫透するものはある(D1の至大化)〕と申す事を存ぜず(D1の至小化)故に候』 關係論:①古書(物:場 C的)②古今〔即ち歴史(物:場 C‘)〕⇒からの關係:①に熟し申さず候故「③:『②の差別は會而(あつて)之(差別は)無き事〔即ち貫透するものはある事〕と申す事を存ぜず』」(D1の至大化)⇒「④時代(C’)之不動(③的對立概念F)⇒E:③などと⑤は「④『後世多くはすべらかし候』」(Eの至小化)(④への距離獲得:Eの至小化)⇒⑤利口之徒(△枠):①への適應異常。 |
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《『古の聖人之智〔道(物:場 C‘)〕は、古今〔即ち歴史(物:場 C‘)〕を貫透して(D1の至大化)、今日(場 C‘)樣々の弊(へい)(D1の至小化)迄明らかに御覽候(D1の至大化)。古人之教へ〔道(物:場 C‘)〕は、古今(C’)を貫透して(D1の至大化)、其の教へ之利益(物:場 C‘)、上古(C’)も末代(場 C‘)も聊か之替はり目、之無く(D1の至大化)候。左う御座無く候而は、聖人(物:場 C‘)とは申被されざる(D1の至小化)事に候』》 關係論:①古の聖人之智〔道(物:場 C‘)〕②古今〔即ち歴史(物:場 C‘)〕③今日(場 C‘)④古人之教へ〔道(物:場 C‘)〕⑤上古(C’)⑥末代(場 C‘)⑦聖人(物:場 C‘)⇒からの關係:『⑧:①は②を貫透して③樣々の弊(へい)(D1の至小化)迄明らかに御覽候(D1の至大化)。④は②を貫透して④の利益(D1の至大化)⑤も⑥も聊か之替はり目、之無く(D1の至大化)候。左う御座無く候而は⑦とは申被されざる事に候』」(D1の至大化)⇒「⑨:經と史(⑧的概念F)〕⇒E:⑨の「經學(變らぬもの、即ち道①④)・史學(變るもの、即ち歴史)といふ二つの言葉は、重なり合つて離す事が出來ない。これは面倒な問題だつた」(Eの至大化)(⑨への距離獲得:Eの至大化)⇒徂徠(△枠):①④への適應正常。 |
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《對立〔道(經學)⇔歴史(史學)〕は、この信〔『道』(物:場 C‘)に關する信(D1の至大化)〕の弛緩(D1の至小化)によつて生ずる人爲的(F)な、空想的(F)な産物(理?:Eの至小化)に過ぎない》 關係論:①『道』〔經學(物:場 C‘)②『歴史』〔史學(物:場 C‘)〕⇒からの關係:⑤にとつて、①に「③關する信は、極めて自然」(D1の至大化)⇒「④:對立〔①⇔歴史②〕(④的對立概念F)〕⇒E:④は「この信〔①に關する信〕の弛緩によつて生ずる人爲的な、空想的な産物(理?:Eの至小化)に過ぎない」(Eの至小化)(④への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑤徂徠(△枠):①②への適應正常。 |
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《後世利口之徒(理:△枠)は歴史(物:場 C‘)を問ふ(D1の至大化)のではなく、歴史(物:場 C‘)に逃げる(D1の至小化)。道〔變らぬもの(物:場 C‘)〕を問へぬ(D1の至小化)者(△枠)が、歴史〔變るもの(物:場 C‘)〕に問へるわけもない(D1の至小化)》 關係論:①歴史〔變るもの(物:場 C‘)〕②避難所(場 C‘)⇒からの關係:①を②に「③:利用した(D1の至小化)」⇒「③歴史の相對性(③的概念F)⇒E:③といふ「④不毛な知識(理:Eの至小化)を得る」(Eの至小化)(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒後世利口之徒(△枠):①への適應正常。 〔參照:前々項〕 關係論:①古書(物:場 C的)②古今〔即ち歴史(物:場 C‘)〕⇒からの關係:①に熟し申さず候故「③:『②の差別は會而(あつて)之(差別は)無き事〔即ち貫透するものはある事〕と申す事を存ぜず』」(D1の至大化)⇒「④時代(C’)之不動(③的對立概念F)⇒E:③などと⑤は「④『後世多くはすべらかし候』」(Eの至小化)(④への距離獲得:Eの至小化)⇒⑤利口之徒(△枠):①への適應異常。 |
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《『世(場 C‘)〔歴史(遷り變るもの:物:場 C‘)〕は言(物:場 C‘)を載せて以て遷(うつ)り(D1)、言(物:場 C‘)は道〔變らぬもの(物:場 C‘)〕を載せて以て遷(うつ)る(D1の至大化)。道〔變らぬもの(物:場 C‘)〕の明らかならざるは(D1の至小化)・・』》 關係論:①道〔變らぬもの(物:場 C‘)〕④言(物:場 C‘)⑤歴史(變るもの:物:場 C‘)⇒からの關係:①の「②明らかならざるは」(D1の至小化)⇒「③職〔仕事〕」(②的概念F)⇒E:③として「『④を載せて以て遷(うつ)り』變はる、⑤に是れ由る(⑤を對象相手とするから)」(Eの至小化)(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒利口之徒(△枠)(△枠):①への適應異常。 |
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《所謂歴史的資料(物:場 C‘)にもいろいろあるが、言葉(物:場 C‘)がその最たるものであるのに疑ひはないし、他の物的資料(物:場 C‘)にしても、歴史資料(物:場 C‘)と呼ばれる限り、言葉(物:場 C‘)を擔つた物(物:場 C‘)として現れる(D1の至大化)他はあるまい》 關係論:①歴史〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕②意味(物:場 C‘)③昔(場 C‘)④言葉(物:場 C‘)⑤物(物:場 C‘)⇒からの關係:①を「⑥:考へるとは、②を判じねばならぬ③の④に取卷かれる事だ」(D1の至大化)⇒「⑦歴史資料」(⑥的概念F)⇒E:⑦と呼ばれる限り「他の物的資料にしても、④を擔つた⑤として現れる他はあるまい」(Eの至大化)(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒我々(△枠):①への適應正常。 又は、 關係論:①歴史〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕②意味(物:場 C‘)③言葉(物:場 C‘)④物(物:場 C‘)⇒からの關係:①を「⑤:知るとは③を載せて遷る世を知る以外の事ではない筈だ」(D1の至大化)⇒「⑥歴史資料」(⑤的概念F)⇒E:⑥と呼ばれる限り他の物的資料にしても、③を擔つた④として現れる他はあるまい」(Eの至大化)(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒我々(△枠):①への適應正常。 |
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《如何に生くべきか(物:場 C‘)、といふ課題(物:場 C‘)に應答する事が困難(D1の至小化)。道〔變らぬもの(物:場 C‘)〕は明かに見えて來ない(D1の至小化)》 關係論:①生き方(物:場 C‘)②生活の意味合(物:場 C‘)③時代(C’)④道〔變らぬもの(物:場 C‘)〕⇒からの關係:①②が③によつて「⑤:變化〔即ち、歴史(遷り變るもの:物:場 C‘)〕(D1の至小化)する」(D1の至大化)⇒故に「⑥:如何に生くべきか(④)」(的概念F)⇒E:⑥といふ課題に「應答する事が困難になる。④は明かに見えて來ない」(Eの至小化)(⑥への距離不獲得:Eの至小化)⇒我々(△枠):①②への適應異常。 |
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《道〔變らぬもの(物:場 C‘)〕は歴史〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕を貫透(D1の至大化)するのであつて、歴史〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕から浮き上がる(D1の至小化)のではない》 關係論:①言(物:場 C‘)②道〔變らぬもの(物:場 C‘)〕③古今〔即ち、歴史(遷り變るもの:物:場 C‘)〕⇒からの關係:①は②を「④:載せて以て(D1の至大化)遷(うつ)る』のである。②は何を載せても遷(うつ)らぬ」(D1の至大化)⇒「⑤:歴史(遷り變るもの)」(④的概念F)⇒E:⑤を「②は貫透する。⑤から浮き上がるのではない」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒徂徠曰く(△枠):①②への適應正常。 |
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《(道〔變らぬもの(物:場 C‘)〕は)歴史〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕が展望出來る(D1)一定の觀點(場 C‘)といふやうな便利なものではない(D1の至小化)。歴史〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕は、『事物當行之理』〔原理(權衝・觀點)に還元(D1)〕でもなければ、『天地自然之道』〔原理(權衝・觀點)に還元(D1)〕でもない。本質的に人間といふ『活物』〔變化物(物:場 C‘)〕の道〔變らぬもの(物:場 C‘)〕である(「道は歴史を貫透する」の逆表現的)》 關係論:①歴史〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕②人間といふ『活物』〔變化物(物:場 C‘)〕③道〔變らぬもの(物:場 C‘)〕⇒からの關係:①は「④:本質的に②の③である(D1の至大化)⇒「⑤:原理〔權衝・觀點(④的對立概念F)〕⇒E:一定の⑤に「現に暮らしてゐる世(場 C‘)が還元して了へるものなら、⑤とは空言であらう。①は『事物當行之理』(⑤)でもなければ、『天地自然之道』(⑤)でもない」(Eの至小化)(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒徂徠(△枠):①への適應正常。 |
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《『經學』(物:場 C‘)と『史學』(物:場 C‘)との交點(場 C‘)の鋭い直覺(D1の至大化)。これが彼の學問の支柱(物:場 C‘)をなしてゐる》 關係論:①徂徠の著作(物:場 C‘)②『經學』(物:場 C‘)③『史學』(物:場 C‘)④交點(場 C‘)⇒からの關係:①には「⑤:變らぬもの〔道(物:場 C‘)〕を目指す②と、變るもの〔歴史(物:場 C‘)〕に向ふ③との④の鋭い直覺がある」(D1の至大化)⇒「⑥:彼の學問(的概念F)⇒E:⑥の「支柱を④の鋭い直覺がなしてゐる」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒徂徠(△枠):②③への適應正常。 |
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《『經學・史學』の交點(物:場 C‘)とは、『人(物:場 C‘)の外に道〔變らぬもの(物:場 C‘)〕無く、道〔變らぬもの(物:場 C‘)〕の外に人(物:場 C‘)無し』(仁齋)+歴史的〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕なる意識の出現である》 關係論:①『經學・史學』の交點(物:場 C‘)②人(物:場 C‘)③道〔變らぬもの(物:場 C‘)〕④仁齋(物:場 C‘)⑤道〔變らぬもの(物:場 C‘)〕⑥歴史的〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕⇒からの關係:①は「⑦:④の『②の外に③無く③の外に②無し』に⑥を冠せてもいい意識の出現である」(D1の至大化)⇒それが「⑧朱子學」(的概念F)⇒E:⑧といふ「窮理(Eの至小化)の學からの、二人(仁齋徂徠)の學問の轉囘點となつた」(Eの至大化)(⑧への距離獲得:Eの至大化)⇒徂徠(△枠):①④への適應正常。 |
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《支柱〔『經學(道:變はらぬもの)』『史學(歴史:變はるもの)』(物:場 C‘)の交點(場 C‘)〕把握⇒『文章』といふ實體(物:場 C‘)・『文辭』といふ『事實』(物:場 C‘)・『物』(物:場 C‘)に當面》 關係論:①『經學・史學』の交點(物:場 C‘)⇒からの關係:①を「②:しつかりと摑まれた時」(D1の至大化)⇒「③學問(②的概念F)⇒E:③上で「當面したものが、『文章』といふ實體・『文辭』といふ『事實』・『物』であつた」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒徂徠(△枠):①への適應正常。 |
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《徂徠曰く(略):學問の道〔變はらぬもの(物:場 C‘)〕は文章(物:場 C‘)。古人の道〔變はらぬもの(物:場 C‘)〕は書籍(物:場 C‘)。書籍は文章(物:場 C‘)。能く文章(物:場 C‘)を會得し(D1の至大化)、書籍(物:場 C‘)の儘、我意を雑えず(無私)候得ば、古人の意(物:場 C‘)は、明らかに候》 關係論:①學問の道〔變はらぬもの(物:場 C‘)〕②文章(物:場 C‘)③古人の道〔變はらぬもの(物:場 C‘)〕④書籍(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②、③の④、④は②。「⑤:能く②を會得して、④の儘濟まし候而、我意を少しも雑え申さず(無私)候得ば、③は、明らかに候」(D1の至大化)⇒「⑥『古文辭學』」(⑤的概念F)⇒E:「④仁齋の『古義學』に對し、⑥と呼びたかつた所以も、其處にある」(Eの至大化)(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒徂徠(△枠):①③への適應正常。 |
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《徂徠(△枠)は、歴史哲學(物:場 C‘)について思辨を重ねた(D1の至大化)わけではない(D1の至小化)し、又、學問(物:場 C‘)は歴史(物:場 C‘)に極まり、文章(物:場 C‘)に極まるといふ目標(物:場 C‘)があつて考へを進めた(D1の至大化)わけでもない(D1の至小化)》 關係論:①學問(物:場 C‘)②歴史〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕③文章(物:場 C‘)④古書(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②に極まり③に極まる着想は「⑤:みな④に熟するといふ默々たる經驗(無私)のうちに生れ、長い時間をかけて育つて來た」(D1の至大化)⇒「⑥:仁齋の心法」(⑤的概念F)⇒E:「讀書の工夫について、⑥を受け繼ぐのであるが、獨特な興味ある告白(D1の至大化)を遺してゐる」(Eの至大化)(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒徂徠(△枠):①②への適應正常。 |
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P90《經學〔變らぬ(D1の至大化)もの、即ち道(物:場 C‘)?を目指す經學(物:場 C‘)〕は、大形此の如き物〔『注(E)をもはなれ(Eの至大化)、本文(物:場 C‘)計りを、見る(D1)ともなく、讀む(D1)ともなく、うつらうつらと見(D1の至小化)居候内に、あそこ(場 C‘)ここ(場 C‘)に疑ひ共出來(D1の至大化)』〕と申す事合點參り候事に候》 關係論:①愚老〔徂徠(物:場 C‘)〕②經學(物:場 C‘)③本文(物:場 C‘)④あそこここ(場 C‘)⇒からの關係:①が懺悔物語る(D1の至小化)「②は注(F)をもはなれ(Eの至大化)、③計りを見る(D1)ともなく讀む(D1)ともなく、うつらうつらと見(D1の至小化)居候内に、④に疑ひ共出來いたす」(D1の至大化)⇒「⑤注」(③的對立概念F)⇒E:⑤にたより「早く會得(Eの至大化)いたしたるは益あるやう(Eの至大化)に候へども、自己の發明(D1の至大化)は會而(あふて)之(これ)無き(Eの至小化)事に候」(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒門弟子(△枠):①②への適應正常。 |
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《ただ〔精神の印し(物:場 C‘)の〕姿(物:場 C‘)を詠める(D1の至大化)のである。その姿(物:場 C‘)は向うから私達(△枠)に問ひかけ(D1の至大化)、私達(△枠)は、これに答へる必要(D1の至大化)だけを痛感(D1の至大化)してゐる。これが徂徠(物:場 C‘)の語る放心の經驗(D1の至大化)》 關係論:①徂徠(物:場 C‘)②意味不明の碑文(物:場 C‘)③精神の印し(物:場 C‘)⇒からの關係:①が語る放心の經驗(D1の至大化)とは、「②を③と捉へ、ただ③の④を詠めるのである」(D1の至大化)⇒「④姿」(③的概念F)⇒E:④は「向うから⑤に問ひかけ(Eの至大化)、⑤は、これ(④)に答へる必要(Eの至大化)だけを痛感(Eの至大化)してゐる」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤私達(△枠):①への適應正常。 |
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《古文辭(物:場 C‘)はその正體(物:場 C‘)を現すものではない(D1の至小化)。一種の内的視力(F)を要求してゐる(Eの至大化)ものだ》 關係論:①古文辭(物:場 C‘)②正體(物:場 C‘)③『本文』(物:場 C‘)④碑文的性質(物:場 C‘)⇒からの關係:①はその②を現すものではない(D1の至小化)。③といふものは、みな「④を藏してゐて」(D1の至大化)⇒「⑤:一種の内的視力(④的概念F)⇒E:⑤で「⑥:見るともなく讀むともなく詠(なが)める、を要求してゐる」(Eの至大化)(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒讀者(△枠):①③への適應正常。 |
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《すべての言葉(物:場 C‘)は、その日常實用の衣(F)を脱して(E)裸になれば、私達(△枠)がこれ〔碑文的性質(物:場 C‘)の言葉〕に出會ひ(D1の至大化)、これと交渉(D1の至大化)を結ばねばならぬ、獨力で生きてゐる(D1の至大化)一大組織(物:場 C‘)と映ずる》 關係論:①すべての言葉(物:場 C‘)②碑文的性質(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②を藏してゐて「③:一種の内的視力を要求してゐる」(D1の至大化)⇒「④日常實用の衣(③的對立概念F)⇒E:生活に至便な道具たるその④「を脱して裸になれば」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒(△枠):①への適應正常。 關係論:①言葉(物:場 C‘)②一大組織(物:場 C‘)③碑文的性質の言葉(物:場 C‘)⇒からの關係:①は⑥が③に出會ひ(D1の至大化)、これ(③)と「④:交渉を結ばねばならぬ獨力で生きてゐる②」(D1の至大化)⇒「⑤:こちらの思惑(④的對立概念F)⇒E:⑤で「どうにでもなる私物ではない」(Eの至大化)(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥私達(△枠):①への適應正常。 |
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《すべての言葉(物:場 C‘)は、『碑文的性質(物:場 C‘)』を藏してゐて、私達(△枠)に、一種の内的視力(D1の至大化)を要求する、獨力で生きてゐる(D1の至大化)一大組織(物:場 C‘)》 關係論:①世(C‘)②言(物:場 C‘)③種(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②を「④:『載せて以て遷る』といふ考への生れた③は」(D1の至大化)⇒「⑤:すべての言葉(④的概念F)⇒E:⑤は「『碑文的性質(物:場 C‘)』を藏して、獨力で生きてゐる(D1の至大化)一大組織と言ふ理由から」(Eの至大化)(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒徂徠(△枠):①への適應正常。 關係論:①歴史〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕②古書(物:場 C‘)③徂徠(物:場 C‘)⇒からの關係:①の「④:表面しか撫でる事が出來ないのは」(D1の至小化)⇒「⑤古書(④的對立概念F)⇒E:⑤に「『熟し申さず候故』」(Eの至小化)(⑤への距離獲得:Eの至小化)⇒徂徠の言(△枠):①への適應正常。 |
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《『世(C‘)は言(物:場 C‘)を載せて』とは、世(C’)といふ實在(物:場 C‘)には、いつも言葉といふ符丁が貼られてゐる(D1の至小化)といふ意味ではない(D1の至大化)》 關係論:①辭(ことば)は事(物:場 C‘)②言は世といふ事(物:場 C‘)③物(物:場 C‘)⇒からの關係:①②と言ふ③が「④:遷るのが」(D1の至大化)⇒「⑤:歴史といふ物(④的概念F)⇒E:⑤と「⑥は考へてゐた」(Eの至大化)(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥徂徠(△枠):③への適應正常。 |
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《『辭〔ことば?(物:場 C‘)〕は事と嫺(なら)ふ(物:場 C‘)』、言(物:場 C‘)は世〔 C‘:或は歴史(物:場 C‘)〕といふ事と習ひ熟して(D1の至大化)ゐる。さういふ【辭〔ことば?(物:場 C‘)〕は事。言(物:場 C‘)は世〔 C‘:或は歴史(物:場 C‘)〕】物(物:場 C‘)が遷るのが、彼(物:場 C‘)の考へて(D1の至大化)ゐた歴史といふ物(物:場 C‘)》 關係論:①辭(ことば)は事と嫺(なら)ふ(物:場 C‘)②言は世といふ事と習ひ熟す(物:場 C‘)③物(物:場 C‘)④歴史といふ物(物:場 C‘)⇒からの關係:①②のさういふ③が「⑤:遷るのが④」(D1の至大化)⇒「⑥:歴史的事實(⑤的概念F)⇒E:今日の學問に準じて使はれる⑥には「結び附かない」(Eの至小化)(⑥への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑦徂徠(△枠):④への適應正常。 |
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《思ひ出すといふ心法〔無私(D1の至大化)〕のないところに歴史〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕はない。歴史〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕は、思ひ出すといふ心法〔無私(D1の至大化)〕が作り上げる像(物:場 C‘)、想像裡(D1の至大化)に描き出す繪(物:場 C‘)である》 關係論:①歴史〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕⇒からの關係:①は「②:思ひ出すといふ心法〔無私(D1の至大化)〕に據る」(D1の至大化)⇒「③像④繪(②的概念F)⇒E:①は「心法(無私)が作り上げる③、想像裡に描き出す④である」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒徂徠(△枠):①への適應正常。 |
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《徂徠には、『文章』(物:場 C‘)が歴史〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕の權化〔即ち『言(物:場 C‘)は世(歴史)といふ事(物:場 C‘)』〕と見えて來る(無私:D1の至大化)まで、これを詠める(なが:D1の至大化)だけが必要(D1の至大化)だつた》 關係論:①『文章』(物:場 C‘)②歴史〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕③權化(物:場 C‘)⇒からの關係:①が②の③と「④:見えて來る(D1の至大化)まで、これを詠める(なが・無私:D1の至大化)だけが必要(D1の至大化)だつた」(D1の至大化)⇒「⑤:『海』といふ一片の言葉」(④的概念F)⇒E:すら、「④思ひ出して〔心法・無私で〕『山』と言ふ事は出來ないのだ。それで充分だつた」(Eの至大化)(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒徂徠(△枠):①への適應正常。 |
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〔十一章:主題〕norinaga11.pdf へのリンク P99《思想(物:場 C‘)⇒不思議な劇(D1の至大化)⇒とは、『學問とは己を知る道』(物:場 C‘)⇒それ故に、仁齋徂徠の「卑近・俗なるものに道(物:場 C‘)を求める」に對して⇒宣長にとつては「非安心・非納得」(それが「己を知る」)となる⇒宣長にとつて「俗なるもの」とは、現實とは何かと言ふ事⇒それが『好信樂・風雅』》 關係論:①理論的な思想②學問(物:場 C‘)③己を知る道(物:場 C‘)⇒からの關係:どんな①でも「④:不思議な劇を演ずる。②とは③である」(D1の至大化)⇒「⑤:卑近・俗なるものに道」(④的概念F)⇒E:⑤とは「⑥にとつては「非安心・不納得」(即ち「己を知る」)。故に「俗なるもの」とは、現實とは何かと言ふ事で『好信樂・風雅』となる」(Eの至小化)(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥宣長(△枠):②③への適應正常。 |
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以下〔十一章各項:纏め〕 |
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《兩者(現代風の歴史理解と古學運動の歴史意識)の意識(D1)の質がまるで異なる(即ち、意識的と無私)。古學(物:場 C‘)運動(D1の至大化)に現れた歴史〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕意識(D1の至大化)は全く謙遜(無私:D1の至大化)、に對して、現代(場 C‘)風の骨組み(F)は「歴史の對象化・合理化(Eの至小化)の意識的な餘りに意識的(Eの至小化)な傾向」》 關係論:①古學(物:場 C‘)②仁齋・徂徠③歴史〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕⇒からの關係:①の「④:運動(D1の至大化)に現れた③意識(無私:D1の至大化)は、全く謙遜。②を自負(D1の至小化)の念から自由にした(D1の至大化)のは②の③意識(無私:D1の至大化)」(D1の至大化)⇒「⑤:現代風③理解」(④的對立概念F)⇒E:⑤の骨組みは「③の對象化・合理化(Eの至小化)の意識的な餘りに意識的な傾向」(Eの至小化)(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒(△枠):①への適應正常。 ~~~以下參照~~~~ 《(道〔變らぬもの(物:場 C‘)〕は)歴史〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕が展望出來る(D1)一定の觀點(原理・權衝:場 C‘)といふやうな便利なものではない(D1の至小化)。歴史〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕は、『事物當行之理』〔原理(權衝・觀點)に還元(D1)〕でもなければ、『天地自然之道』〔原理(權衝・觀點)に還元(D1)〕でもない。本質的に人間といふ『活物』〔變化物(物:場 C‘)〕の道〔變らぬもの(物:場 C‘)〕である(「道は歴史を貫透する」の逆表現的)》 關係論:①歴史〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕②人間といふ『活物』〔變化物(物:場 C‘)〕③道〔變らぬもの(物:場 C‘)〕⇒からの關係:①は「④:本質的に②の③である(D1の至大化)⇒「⑤:原理〔權衝・觀點(④的對立概念F)〕⇒E:一定の⑤に「現に暮らしてゐる世(場 C‘)が還元して了へるものなら、⑤とは空言であらう。①は『事物當行之理』(⑤)でもなければ、『天地自然之道』(⑤)でもない」(Eの至小化)(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒徂徠(△枠):①への適應正常。 |
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《徂徠に言はせれば、歴史〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕の眞相(本質的な性質。物:場 C‘)は、『後世利口之徒』(F)に恰好な形に出來上つてゐるものではない。つまり、對象化(Eの至小化)されて定義〔原理(權衝・觀點)に還元(Eの至小化)される〕ものではないのであつた》 關係論:①歴史〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕②人間といふ『活物』の道〔變らぬもの(物:場 C‘)〕③本質的な性質(眞相。物:場 C‘)⇒からの關係:①(又は言)は②を「④:載せて以て(D1の至大化)遷(うつ)ると言ふ③は」(D1の至大化)⇒「⑤:〔後世利口之徒(現代風歴史理解)〕(④的對立概念F)⇒E:⑤に「對象化されて定義〔原理(權衝・觀點)に還元(Eの至小化)〕される事(意識的な餘りに意識的Eの至小化)を拒絶(Eの至大化)してゐる」(Eの至大化)(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒徂徠(△枠):①への適應正常。 |
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P92《前項の徂徠の確信は、極く尋常な歴史〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕感情のうちに育つた》 關係論:①歴史〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕②吾が事(物:場 C‘)③徂徠の確信(物:場 C‘)⇒からの關係:①が②に「④:屬する(D1の至大化)とは自明の事と言ふ内的經驗(D1の至大化)が、自省批判(無私)を通じて純化。それが③」(D1の至大化)⇒即ち「⑤:尋常な①感情」(④的概念F)⇒E:⑤とは「過去(物:場 C‘)を惜しみ、未來(場 C‘)を希ひつつ、現在(場 C‘)に生きてゐるといふ普通人に基本的な感情」(Eの至大化)(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒徂徠(普通人△枠):①への適應正常。 |
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《學問(物:場 C‘)の傳統(D1の至大化)に、彼等(仁齋徂徠ら)が目覺めたといふところが根本。過去(場 C‘)が現在(場 C‘)に甦る(D1の至大化)と言ふ機會に出會つた(D1の至大化)。過去(場 C‘)との具體的と呼んでいい親密な交り(D1の至大化)に》 關係論:①『古學』(物:場 C‘)②過去の遺産(物:場 C‘)③物的遺産(物:場 C‘)④精神的遺産(物:場 C‘)⇒からの關係:①の運動(D1の至大化)によつて、決定的に行はれた(D1の至大化)のは、「⑤:②の蘇生。言はば③の④への轉換」(D1の至大化)⇒「⑥:彼等の學問」(⑤的概念F)⇒E:⑥の新しい基盤が成立したのは、「過去(場 C‘)の人間から呼びかけられる聲(物:場 C‘)を聞き、これに現在(場 C‘)の自分が答へねばならぬと感じたところにである。過去(場 C‘)との具體的と呼んでいい親密な交りを」(Eの至大化)(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒仁齋・徂徠(△枠):①への適應正常。 *上文「現在(場 C‘)の自分(△枠)が答へねばならぬ(D1の至大化)と感じたところ」とは、以下參照。
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P94《自己を過去(場 C‘)に沒入する悦びは、仕事(物:場 C‘)に意味や價値(物:場 C‘)を與へる精神の緊張力(無私:D1の至大化)、使命感(D1の至大化)とも呼ぶべきものの自覺(D1の至大化)である。『道』(物:場 C‘)もこの悦び(D1の至大化)の中に現じた》 關係論:①過去(場 C‘)②自己(物:場 C‘)③『道』〔變らぬもの(物:場 C‘)〕⇒からの關係:②を①に「④:沒入する悦び(D1の至大化)が期せずしてを形成し直す所以となつてゐた。いかにも自然に邪念を交へず行はれた。③もこの悦びの中に現じた」(D1の至大化)⇒「⑤彼等の仕事」(④的概念F)⇒E:その悦びは⑤に「意味や價値を與へる精神の緊張力(無私)、使命感とも呼ぶべきものの自覺である」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒仁齋・徂徠(△枠):①への適應正常。 |
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《『學』の字の字義は、象(かたど)り效(なら)ふである。『學問』(物:場 C‘)とは、『物まなび』(物:場 C‘)である。『まねび』であつて、學問(物:場 C‘)の根本は模倣(D1の至大化)にある》 關係論:①宣長(物:場 C‘)②學問論『うひ山ぶみ』(物:場 C‘)③『學問』(物:場 C‘)④『物まなび』(物:場 C‘)⇒からの關係:①が②で言つてゐるやうに③とは④である。「⑤:『まねび』であつて、③の根本は模倣(D1の至大化)」(D1の至大化)⇒「⑥科學」(⑤的對立概念F)⇒E:「④正確な認識を基本動機とする⑥(今言)から、これを解かうとするのは無理だ」(Eの至小化)(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 |
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《近世(C‘)の訓詁の學(物:場 C‘)の自立と再生(D1の至大化)とに、最も純粋に獻身した(D1の至大化)學者達(藤樹・契沖・仁齋・徂徠・宣長:△枠)の遺した仕事(物:場 C‘)を内面から辿つて(D1の至大化)みれば、貫道(Eの至大化)する學脈(F)といふものは見えて來る(Eの至大化)》 關係論:①近世(C‘)②訓詁の學(物:場 C‘)③遺した仕事(物:場 C‘)⇒からの關係:①の②の「④:自立と再生(D1の至大化)とに、最も純粋に獻身した⑥の③を内面から辿つて(D1の至大化)みれば」(D1の至大化)⇒「⑤:學脈」(④的概念F)⇒E:貫道する⑤「といふものは見えて來る」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥學者達(藤樹・契沖・仁齋・徂徠・宣長:△枠):②への適應正常。 |
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P95《訓詁の學(物:場 C‘)の學脈(物:場 C‘)の發展(D1の至大化)とは、學問の字義〔象(かたど)り效(なら)ふ(D1の至大化)〕通りの意味合での純化(無私:D1の至大化)と、その〔象(かたど)り效(なら)ふ(D1の至大化)の〕基本的動機(模倣:F)の一と筋の洗煉〔即ち、出來るだけ上手に(Eの至大化)〕なのである》 關係論:①訓詁の學(物:場 C‘)②學脈(物:場 C‘)③學問の字義〔象(かたど)り效(なら)ふ(物:場 C‘)〕⇒からの關係:①の②の發展(D1の至大化)とは「④:③通りの意味合での純化(無私)と」(D1の至大化)⇒「⑤:基本的動機(模倣)」(④的概念F)⇒E:⑤の「一と筋の洗煉(即ち、出來るだけ上手に)なのである」(Eの至大化)(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒學者達(藤樹・契沖・仁齋・徂徠・宣長:△枠):①②への適應正常。 |
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P95《模倣(D1の至大化)される手本(古書。物:場 C‘)と模倣する(D1の至大化)自己(△枠)との對立(D1の至大化)・緊張(無私:D1の至大化)した關係(心法・心眼:D1の至大化)そのもの〔即ち、何物も介在しない(無私)直接な關係(心法・心眼:D1の至大化)〕が、そのまま彼等の學問の姿(物:場 C‘)》 關係論:①手本(物:場 C‘)②彼等の學問の姿(物:場 C‘)③古書(物:場 C‘)④現在(場 C‘)⑤生き方(物:場 C‘)⇒からの關係:模倣(D1の至大化)される①と模倣する(D1の至大化)⑥との「⑥:對立(D1の至大化)・緊張した關係(D1の至大化)そのものが、そのまま②だ。③は飽くまでも④の⑤の①」(D1の至大化)⇒③は「⑦:認識や觀察」(⑥的對立概念F)⇒E:⑦の「對象とする(即ち、今言)代はりに、⑧の問題を不問に附する(Eの至小化)なんて事(現代)は出來なかつた」(Eの至小化)(⑦への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑧自己(△枠):①③への適應正常。 |
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P95《古書(物:場 C‘)の吟味(D1の至大化)とは、古書(物:場 C‘)と自己(△枠)との、何物も介在しない(無私)直接な關係(心法・心眼:D1の至大化)の吟味に他ならず、この出來るだけ直接な取引の保持と明瞭化との努力(無私・獨・心法・心眼:D1の至大化)が、彼等の『道』〔變らぬもの(物:場 C‘)〕と呼ぶものであつた》 關係論:①古書(物:場 C‘)⇒からの關係:①の「②:吟味(D1の至大化)とは、①と⑥との、何物も介在しない(無私)直接な關係(獨・心法・心眼:D1の至大化)の吟味」(D1の至大化)⇒「③彼等の『道』」(②的概念F)⇒E:③とは「出來るだけ直接な取引の保持と明瞭化との努力(無私・獨・心法・心眼)の事」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④自己(藤樹・契沖・仁齋・徂徠・宣長:△枠):①への適應正常。 |
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P95《徂徠〔非常に鋭敏な感覺〔(D1の至大化)即ち『すべての言葉は、碑文的性質(物:場 C‘)を藏して、獨力で生きてゐる一大組織』〕〕も、仁齋〔『最上至極宇宙第一書』といふ言葉で應じた〕も、古書(物:場 C‘)への努力(獨・心法・心眼:D1の至大化)のうちに、おのづから形成されたもの。その努力(獨・心法・心眼:D1の至大化)が、彼等の『道』〔變らぬもの(物:場 C‘)〕と呼ぶもの》 關係論:①徂徠の仕事(物:場 C‘)②言語(物:場 C‘)と歴史〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕③仁齋の『論語』(物:場 C‘)④道〔變らぬもの(物:場 C‘)〕⇒からの關係:①に現れて來たやうな②とに「⑤:關する非常に鋭敏な感覺〔(D1の至大化)即ち『すべての言葉は、碑文的性質(物:場 C‘)を藏して、獨力で生きてゐる一大組織』〕も、この(古書への)努力(獨・心法・心眼:D1の至大化)のうちに、おのづから形成されたもの」。「⑥:③の發見(D1の至大化)も亦、④を求める緊張感(無私・心法・心眼:D1の至大化)のうちでなされたもの」(D1の至大化)⇒つまり「⑦:論語」(⑥的概念F)⇒E:⑦が「一字の増減も許さぬ(Eの至大化)歴史的個性(物:場 C‘)として現れれば、⑧からの發見の悦び(無私:Eの至大化)が、直ちに『最上至極宇宙第一書』といふ言葉で應じたのである」(Eの至大化)(⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧こちら(仁齋△枠):④への適應正常。 ~~~~~ 徂徠:以下傍線參照 關係論:①世(C‘)②言(物:場 C‘)③種(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②を「④:『載せて以て遷る』といふ考への生れた③は」(D1の至大化)⇒「⑤:すべての言葉(④的概念F)⇒E:⑤は「『碑文的性質(物:場 C‘)』を藏して、獨力で生きてゐる(D1の至大化)一大組織と言ふ理由から」(Eの至大化)(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒徂徠(△枠):①への適應正常。 仁齋:以下傍線參照 關係論:①『經學・史學』の交點(物:場 C‘)②人(物:場 C‘)③道〔變らぬもの(物:場 C‘)〕④仁齋(物:場 C‘)⑤道〔變らぬもの(物:場 C‘)〕⑥歴史的〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕⇒からの關係:①は「⑦:④の『②の外に③無く③の外に②無し』に⑥を冠せてもいい意識の出現である。」(D1の至大化)⇒それが「⑧朱子學」(的概念F)⇒E:⑧といふ「窮理(Eの至小化)の學からの、二人(仁齋徂徠)の學問の轉囘點となつた」(Eの至大化)(⑧への距離獲得:Eの至大化)⇒徂徠(△枠):①④への適應正常。 |
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P98《宣長(△枠)が求めた(D1の至大化)のは、如何に生くべき(D1の至大化)かといふ『道』(物:場 C‘)であつた。彼の雜學(物:場 C‘)を貫道(D1の至大化)するものは、『之を好み信じ樂しむ』(D1の至大化)と言ふ、自己の(他人の道ではない)生き生きとした包容力と理解力。そして、これを『風雅』と呼んだ》 關係論:①道(物:場 C‘)②聖學(物:場 C‘)③雜學⇒からの關係:⑥が求めたのは「④:如何に生くべきかといふ①であつた。⑦は②を求めて、出來る限りの③をして來たのである。彼の③を貫道(D1の至大化)するものは、『之を好み信じ樂しむ』(D1の至大化)と言ふ、自己の(他人の道ではない)生き生きとした包容力と理解力のみ」(D1の至大化)⇒これを「⑤:『風雅』」(④的概念F)⇒E:⑤と呼んだ。「これには好事家の風流(Eの至小化)の意味合は全くなかつた」(Eの至大化)(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①への適應正常。 ~~以下參照~~ P41關係論:①『凡百雑伎』(物:場 C‘)『山川草木』(物:場 C‘)『天地萬物(物:場 C‘)⇒からの關係:①全てを「②好み信じ樂しむ」を保持(D1の至大化)⇒それが「③風雅(②的概念F)⇒E:③に「④從ふ」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 關係論:①『君師』(物:場 C‘)②『士民』(物:場 C‘)③『小人』の生活態度(物:場 C‘)④『風雅』〔『好信樂』の志(物:場 C‘)〕⇒からの關係:④は①よりも②に近い③から「⑤發音されてゐる」(D1の至大化)⇒よつて⑤は「⑥:好事家の趣味」(⑤的概念F)⇒E:⑥といふやうな「⑦消極的な意味合は少しもない」(Eの至大化)(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):④への適應正常。 |
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以下參照 關係論:①徂徠の『經學・史學』の交點(物:場 C‘)②人(物:場 C‘)③道〔變らぬもの(物:場 C‘)〕④仁齋(物:場 C‘)⑤道〔變らぬもの(物:場 C‘)〕⑥歴史的〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕⇒からの關係:①は「⑦:④の『②の外に③無く③の外に②無し』(經學)に⑥(史學)を冠せてもいい意識〔即ち『人の外に道なし』『俗(物:場 C‘)の外に道(物:場 C‘)なし』+史學(歴史)=言葉〕の出現〔即ち、『世は言を載せて以て遷る』〕である。即ち徂徠(△枠)によつてしつかりと受け止められて徹底化」(D1の至大化)⇒それが「⑧朱子學」(的概念F)⇒E:⑧といふ「窮理(Eの至小化)の學からの、二人(仁齋徂徠)の學問(人間の學)の轉囘點となつた」(Eの至大化)(⑧への距離獲得:Eの至大化)⇒徂徠(△枠):①④への適應正常。 |
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P98《この二人の抜群の思想家(物:場 C‘)の自己に密着した獨創〔上枠文(物:場 C‘)〕は、容易に人目(△枠)につくやうな性質(物:場 C‘)のものではなかつた》 關係論:①二人(仁齋徂徠)の抜群の思想家(物:場 C‘)②獨創〔上枠文(物:場 C‘)〕③性質(物:場 C‘)④學問上の新氣運(物:場 C‘)⑤原動力(物:場 C‘)⇒からの關係:①の自己に密着した②〔上枠文(物:場 C‘)〕は「⑥:容易に人目につくやうな③のものではなかつた(D1の至大化)。④を創り出した(D1の至大化)原動力の③を見極める(D1の至大化)よりも」⇒「⑦:醸成された新氣運」(⑥的對立概念F)⇒E:⑦を「享受する方が、⑧にとつても、遙かに易しい事だつた」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧誰(△枠):①への適應異常。 |
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P99《宣長(△枠)は、やがてこの雰圍氣(護園學派。物:場 C‘)に對して、論難の矢を向ける(D1の至大化)事になるのだが、矢が徂徠自身(物:場 C‘)に放たれた(D1の至小化)ことは一度もない(D1の至大化)》 關係論:①徂徠の見解(物:場 C‘)②最後の一つ手前(場 C‘)③もの(物:場 C‘)⇒からの關係:⑥は①の②の③「④:までは、悉く採つてこれをわが物とした」(D1の至大化)⇒「⑤:最後のもの(④的對立概念F)⇒E:⑤は「徂徠自身の信念であり、自分のものでない事をはつきり知つてゐたといふ事」(Eの至大化)(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P99《徂徠といふ豪傑〔『卓然獨立して、依る所無き(無私なる)』人間の心法〕の姿(物:場 C‘)は、徂徠(物:場 C‘)とは全く別途(物:場 C‘)を行つた(D1の至大化)宣長(△枠)に、却つて直に映じて(D1の至大化)ゐた》 關係論:①徂徠②豪傑の姿(物:場 C‘)③全く別途(物:場 C‘)⇒からの關係:①といふ②は、①とは③を「④:行つた⑥に却つて直に映じてゐた」(D1の至大化)⇒「⑤:徂徠風の着物(護園學派雰圍氣)」(④的對立概念F)⇒E:「景山は⑤を着てゐた(Eの至小化)が、①を熟讀したのは⑥の裸身(非着物)であつた」(Eの至大化)(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①②への適應正常。 ~~~以下「豪傑」參照~~ 關係論:①仁齋の『語孟字義』(物:場 C‘)⇒からの關係:①を「②讀み、心に當るものを得た」(D1の至大化)⇒「③豪傑」(的概念F)⇒E:③とは「④『卓然獨立して、依る所無き(無私)』人間の心法の事であつた」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒徂徠(△枠):①への適應正常。 關係論:①先生〔仁齋(物:場 C‘)〕⇒からの關係:『獨り①に「②:郷(むか)ふ』」(D1の至大化)⇒とは「③:藤樹」(②的概念F)⇒E:③によつて「④:開かれた『獨』の『學脈』(無私・心法)に他ならなかつた」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒徂徠(△枠):①への適應正常。 關係論:①彼等の精神(物:場 C‘)②彼等の學問(物:場 C‘)③『道學』(物:場 C‘)④道(物:場 C‘)⇒からの關係:②は③であり「⑤:従つて④とは何かと言ふ問ひで、①は、卓然〔無私(D1の至大化)〕として緊張してゐた」(D1の至大化)⇒「⑥:彼等の歴史意識(⑤的概念F)⇒E:も「この緊張〔卓然(無私)として緊張〕で着色されてゐた」(Eの至大化)(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒仁齋・徂徠(△枠):①への適應正常。 |
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P99《思想(物:場 C‘)⇒不思議な劇(D1の至大化)⇒とは、『學問とは己を知る道』(物:場 C‘)⇒それ故に、仁齋徂徠の「卑近・俗なるものに道(物:場 C‘)を求める」に對して⇒宣長にとつては「非安心・非納得」(己を知る)となる⇒「俗なるもの」とは、現實とは何かと言ふ事(宣長)⇒『好信樂・風雅』》 關係論:①理論的な思想②學問(物:場 C‘)③己を知る道(物:場 C‘)⇒からの關係:どんな①でも「④:不思議な劇を演ずる。②とは③である」(D1の至大化)⇒「⑤:卑近・俗なるものに道」(④的概念F)⇒E:⑤とは「⑥にとつては「非安心・不納得」(己を知る)。故に「俗なるもの」とは、現實とは何かと言ふ事で『好信樂・風雅』となる」(Eの至小化)(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥宣長(△枠):②③への適應正常。 ~~~以下參照~ 《『卑ければ、則ち自(おの?)ずから實なり、高ければ必ず虚なり、故に學問(物:場 C‘)は卑近を厭ふことなし。卑近を忽(ゆるがせ)にする者は、道(物:場 C‘)を識(し)る者に非ざるなり(D1の至小化)』『人(物:場 C‘)の外に道(物:場 C‘)なし』、或は進んで『俗(物:場 C‘)の外に道(物:場 C‘)なし』とまで言ふ『童子問』を一貫したこの考へは、徂徠(△枠)によつてしつかりと受け止められて〔『經學(道)・史學(歴史)の交點(物:場 C‘)』、即ち『俗(物:場 C‘)の外に道(物:場 C‘)なし』+史學(歴史)=言葉。へと〕、徹底化(D1の至大化)された」》 關係論:①徂徠の『經學・史學』の交點(物:場 C‘)②人(物:場 C‘)③道〔變らぬもの(物:場 C‘)〕④仁齋(物:場 C‘)⑤道〔變らぬもの(物:場 C‘)〕⑥歴史的〔遷り變るもの(物:場 C‘)〕⇒からの關係:①は「⑦:④の『②の外に③無く③の外に②無し』(經學)に⑥(史學)を冠せてもいい意識〔即ち『人の外に道なし』『俗(物:場 C‘)の外に道(物:場 C‘)なし』+史學(歴史)=言葉〕の出現〔即ち、『世は言を載せて以て遷る』〕である。即ち徂徠(△枠)によつてしつかりと受け止められて徹底化」(D1の至大化)⇒それが「⑧朱子學」(的概念F)⇒E:⑧といふ「窮理(Eの至小化)の學からの、二人(仁齋徂徠)の學問(人間の學)の轉囘點となつた」(Eの至大化)(⑧への距離獲得:Eの至大化)⇒徂徠(△枠):①④への適應正常。 《近世「豪傑」達の道〔變らぬもの(物:場 C‘)〕とは》
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〔十二章 主題〕norinaga12.pdf へのリンク P105《『(中略)、吾邦の大道と云時は、自然の神道あり、(中略)和歌は、我國の大道とはいはれじ』。「歌の大道(物:場 C‘)を徹底的に分析(D1の至大化)したなら、その先に新しい展望は開けるに違ひない。『あしわけ小舟』は問題を滿載してゐた」》 關係論:①文學の本質(物:場 C‘)②歌の大道(物:場 C‘)⇒からの關係(D1の至大化):①につき「③:出來る限り明瞭な觀念を規定(D1の至大化)してみる事。②を徹底的に分析(D1の至大化)したなら、その先に新しい展望は開けるに違ひない」(D1の至大化)⇒で「④:『物のあはれ』論」(③的概念F)⇒E:④といふ「『あしわけ小舟』の楫を取つた」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 |
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〔以下は十二章 各項纏め〕 |
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P102《『おのれ〔宣長(物:場 C‘)〕にしたがひて(D1の至大化)、物まなばむ(D1の至大化)と思はむ人あらば、ただ、あらはせるふみども(物:場 C‘)を、よく見て(D1の至大化)ありぬべし』(玉かつま、七の巻)》 關係論:①古書(物:場 C‘)②古意(物:場 C‘)③眞理(物:場 C‘)⇒からの關係:①を直に「④:味讀してあるがままの②を得る。無私(D1の至大化)な態度で推參すれば、①は誰にも納得のいく平明な③を向うから明かす。事々しい解釋は餘計」(D1の至大化)⇒「⑤:學問の本筋」(④的概念F)⇒E:「⑥が①講釋の名の下に私智を誇る(Eの至小化)は、⑤とは無關係」(Eの至小化)(⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑥學者達(△枠):①への適應異常。 ~~~以下參照~~ 六章から 關係論:①好學心・勉學心(物:場 C‘)⇒からの關係:①とは「②交はりの深化」(D1の至大化)⇒に必須な「③無私」(②的概念F)⇒E:③を「④得ようとする努力(Eの至大化)を指す」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長思想(△枠):①への適應正常。 關係論:①歌の本意(物:場 C‘)②意味の深き處(物:場 C‘)⇒からの關係:①があきらか(D1の至大化)、②が「③心に徹底と言ふ經驗の深化」(D1の至大化)⇒③は「④相手(古人)」(③的概念F)⇒E:④との「⑤共感(我物にする)に至る」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①②への適應正常。 關係論:①文献的事實(物:場 C‘)とは②人間(物:場 C’)の事⇒からの關係:②が担つてゐる『意味のふかき處』(即ち①)を「③知る」(D1の至大化)⇒③には②と「④親しく交はる(我物にする:③的概念F)⇒E:④の「⑤他に道はない(契沖から得た學問の極意)」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①②への適應正常。 關係論:①『うひ山ぶみ』(物:場 C‘)⇒からの關係:「②『學問(D1)は、年月長く、倦(うま)ず、おこたらず、はげみつとめる事(D1の至大化)』⇒「③學びやう〔方法(②的概念F)〕⇒E:③は「④いかやうにてもよかるべく、そんなに拘る事はない(Eの至大化)」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒門人達(△枠):①への適應正常。 「平明な③を向うから明かす」とは、十章?から: 關係論:①徂徠(物:場 C‘)②意味不明の碑文(物:場 C‘)③精神の印し(物:場 C‘)⇒からの關係:①が語る放心の經驗(D1の至大化)とは、「②を③と捉へ、ただ③の④を詠めるのである」(D1の至大化)⇒「④姿」(③的概念F)⇒E:④は「向うから⑤に問ひかけ(Eの至大化)、⑤は、これ(④)に答へる必要(Eの至大化)だけを痛感(Eの至大化)してゐる」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤私達(△枠):①への適應正常。 |
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P102《文體といふものは、割り切れた考へかた(D1の至小化)では捕へられぬ(D1の至大化)不透明な奥行きを持つ(D1の至大化)》 關係論:①文體(物:場 C‘)⇒からの關係:平明な①が「②:平明な理解に均合つてゐるわけではない(D1の至小化)。割り切れた考へかた(D1の至小化)では捕へられぬ(D1の至大化)不透明な奥行きを持つ」(D1の至大化)⇒「③:學問に關する結論・要約」(②的概念F)⇒E:「③に宣長晩年(C’)の淡々たる口調を聞き分ける(Eの至大化)なら、青年期(場 C‘)の學問の出發(場 C‘)や動機(場 C‘)を、逆に照らし出してゐる(Eの至大化)のが見えて來る。それが、①の奥行きの暗示するところ」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒讀者(△枠):①への適應正常。 |
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P102《宣長が賀茂真淵(號「縣居」あがたゐ)の門人になつたのは、寶暦十四年正月(宣長三十五歳、眞淵六十八歳)であつた》 關係論:①學問(物:場 C‘)②自分〔宣長(物:場 C‘)〕③師〔賀茂真淵(物:場 C‘)〕⇒からの關係:①とは廣大のもの。①に「④:比べれば②も③も言ふに足りない」(D1の至大化)⇒「⑤:人間關係」(④的概念F)⇒E:それが二人が「何の妥協もなく、情誼に厚い、立派な⑤を結び得た所以」(Eの至大化)(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 |
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《宣長の學問(物:場 C‘)の獨特な性格の基本(物:場 C‘)、『物のあはれ』論は、眞淵に入門する(D1の至大化)以前に既に出来上つてゐた(D1の至大化)》 關係論:①宣長の學問(物:場 C‘)②性格の基本(物:場 C‘)③眞淵(物:場 C‘)⇒からの關係:①の獨特な②は「④:③に入門する(D1の至大化)以前に既に出来上つてゐた」(D1の至大化)⇒「⑤:『物のあはれ』論」(④的概念F)⇒E:⑤がそれである。「宣長に言はれ『ただ、あらはせるふみども(物:場 C‘)を、よく見て(D1の至大化)ありぬべし』の文を前にして、頭を働かす(Eの至小化)より、むしろ眼を働かして(Eの至大化)見てみようとする」(Eの至大化)(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒小林(△枠):①への適應正常。 |
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P103《『物のあはれ』論は、其處(あしわけ小舟:特に巻一・二)で一層整理されたし、『紫文要領』では、『源氏』の本質論といふ明瞭な形式の御蔭で、完結した形を取つたのである》 關係論:①『物のあはれ』論(物:場 C‘)②『あしわけ小舟』(物:場 C‘)⇒からの關係:①は②で「③:一層整理された」(D1の至大化)⇒「④:『歌の道』」(③的概念F)⇒E:④は「『善惡のぎろんをすてて、もののあはれと云事をしるべし、源氏物語の一部の趣向、此所を以て實得すべし、外に仔細なし』と斷言されてゐる」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P102《「『あしわけ小舟』の文體を見る〔前述『むしろ眼を働かして(Eの至大化)見てみよう』の意〕」・・・「後年書き直しを果たさなかったやうに、二度と繰り返しの利かぬ文章の姿(物:場 C‘)。あらゆる問題(①から⑥等:物:場 C‘)が宣長に應答(D1の至大化)を一時に迫つた。この意識の直接な現れ(D1の至大化)が、『あしわけ小舟』の沸騰する文體(物:場 C‘)を成して(D1の至大化)ゐる」》 關係論:①歌とは何か(物:場 C‘)②歌の本質とは何か(物:場 C‘)③風體とは何か④起源とは歴史とは⑤神道儒佛の道(物:場 C‘)⑥詠歌の方法・意味合⇒からの關係:①といふ小さな課題が「⑦:⑨の全身の體當りを受けた(D1の至大化)。受けると②から⑥等、あらゆる問題が⑨に應答(D1の至大化)を一時に迫つた」(D1の至大化)⇒「⑧:初心の姿」(⑦的概念F)⇒E:⑧を「『あしわけ小舟』の沸騰する文體は成してゐる。その後に意識的に修繕や改良(Eの至小化)の利くものなどではなかつた」(Eの至大化)(⑧への距離獲得:Eの至大化)⇒⑨宣長(△枠):①への適應正常。 |
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《宣長(△枠)は、契沖の學問(物:場 C‘)の方法(訓詁の新しい方法:D1の至大化)と精神〔學問の本意『俗中之眞』(物:場 C‘)〕との違ひを、はつきり見てゐた(D1の至大化)》 關係論:①契沖の學問(物:場 C‘)②精神(物:場 C‘)③學問の本意『俗中之眞』(物:場 C‘)⇒からの關係:⑥は①の方法(D1の至大化)と②との「④:違ひを、はつきり見てゐた。その新しい②(③)を語る事はむつかしかつた」(D1の至小化)⇒「④:訓詁の新しい方法」(④的對立概念F)⇒E:④を「『もどく』(眞似る)事(E)は用意(Eの至大化)だとしても」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):③への適應異常。 |
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P104《宣長(△枠)が直覺(D1の至大化)し、吾が物(『私物』△枠)とせんとしたのは、この契沖の沈黙〔考證訓詁(F)の精到(Eの至大化)の裏に秘めて(D1の至大化)置いてある『俗中之眞』(物:場 C‘)〕である》 關係論:①契沖の沈黙(物:場 C‘)②『俗中之眞』(物:場 C‘)⇒からの關係:⑤が「③:直覺(D1の至大化)し、吾が物(『私物』△枠)とせん(D1の至大化)としたのは、この①(即ち②)である」(D1の至大化)⇒「④:考證訓詁の精到」(③的概念F)⇒E:④を期する契沖は「營々たる努力(Eの至大化)の裏に、②は秘めて置け(D1の至大化)ば、足りるものであつた」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P104《宣長の突破したかつたのは、契沖の風雅論(物:場 C‘)の限界であつた。歌の自立した道(物:場 C‘)、歌の獨自な存在理由、を歌の裡から引出せるのか、の一層高次な問ひ(D1の至大化)は必至なのであつた》 關係論:①契沖の風雅論(物:場 C‘)②歌の自立した道(物:場 C‘)③歌の獨自な存在理由(物:場 C‘)⇒からの關係:①の限界を⑥は「④:突破したかつた。②③を歌の裡から引出せるのか、の一層高次な問ひ(D1の至大化)は必至なのであつた」(D1の至大化)⇒「⑤:詩歌」(④的概念F)⇒E:とは『假令(たとへ)儒教を習ひ、釋典を學べども、⑤に、心をおかざる(Eの至小化)俗は、俗塵日々に堆うして、君子の跡、十萬里を隔て、追がたく、開士の道、五百驛に障りて、疲れやすし』(契沖の所懷)に對しての問ひなのである」(Eの至大化)(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長(△枠):①への適應正常。 |
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P105《『(中略)、吾邦の大道と云時は、自然の神道あり、(中略)和歌は、我國の大道とはいはれじ』。「歌の大道(物:場 C‘)を徹底的に分析(D1の至大化)したなら、その先に新しい展望は開けるに違ひない。『あしわけ小舟』は問題を滿載してゐた」》 關係論:①文學の本質(物:場 C‘)②歌の大道(物:場 C‘)⇒からの關係(D1の至大化):①につき「③:出來る限り明瞭な觀念を規定(D1の至大化)してみる事。②を徹底的に分析(D1の至大化)したなら、その先に新しい展望は開けるに違ひない」(D1の至大化)⇒で「④:『物のあはれ』論」(③的概念F)⇒E:④といふ「『あしわけ小舟』の楫を取つた」(Eの至大化)(④への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長(△枠):①への適應正常。 |
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