令和三年十月二十四日
吉野櫻雲
發表文:纏め《福田恆存著:小林秀雄の『考へるヒント』(昭和四十三年記述:五十七歳)》
(注):以下「發表文」中、「 」内が恆存文。( )《 》【 】内は概ね吉野注。
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《小林秀雄とソクラテスとの相似性》:「不知・汝自身(物:場 C‘)」への對應。 參照PP圖⇒kobayashi.hinto.pdf へのリンク 〔小林秀雄〕 *「そこ〔結論(答へ)を目的としない、學問・考へ・知る、即ち「考へるヒント(手掛り・手續)」こそ、『あらゆる人間行爲(D1)のうちで最も純粋(D1の至大化)、最も激しい行爲(D1の至大化)』と言ふ事〕、から小林秀雄(△枠)は出發(D1の至大化)したのである。本書の中でも氏(△枠)は度々言つてゐる。『知の力(D1の至大化)は知らぬ事〔不知・汝自身(物:場 C‘)〕を知らぬ(D1の至小化)と自覺(D1の至大化)する事だ。懐疑主義(F)や不可知論(F)とは全く無縁(Eの至小化)のものである』と」(全集七P650上)。 關係論 *①知らぬ事〔不知・汝自身(物:場 C‘)〕②『歴史』『物』等著作(物:場 C‘)⇒からの關係:①を知らぬとの自覺が知の力(D1の至大化)・①②を「③考へるヒント〔手掛り・手續(D1の至大化)」こそ最も純粋(D1の至大化)、最も激しい行爲(D1の至大化)⇒「④懐疑主義・不可知論(F)」⇒④とは全く無縁のもの(④への距離把握:Eの至小化)⇒小林秀雄(△枠):①への適應正常。
*「ソクラテスは方向を轉囘し、凡そ物(物:場 C‘)を考へる(D1)出發點も終點も『汝自身〔不知(物:場 C‘)〕を知る(D1の至大化)』事にあると悟つた」(小林著「プラトンの『國家』」)。【とは即ち、汝自身〔不知(物:場 C‘)〕を『考へる(D1)事それ自體が目的(D1の至大化)』として『考へる手續(D1)を實行(D1の至大化)』と同意】。 關係論 |
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(注):以下「發表文」中、「 」内が恆存文。( )《 》【 】内は概ね吉野注。
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以下項は、《小林秀雄と評論對象者との相似性》及び關係論 |
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《小林秀雄と徂徠との相似性》:「歴史・學問」への對應。 〔小林秀雄〕 *「歴史(物:場 C‘)を追體驗(D1の至大化)し〔參照「立つ」:旅順・乃木の文:國運も〕、それを生きる(D1の至大化)事、さうする事〔追體驗(D1の至大化)しそれを生きる(D1の至大化)事〕によつてしか、吾々(△枠)は吾々の過去(物:場 C‘)や歴史(物:場 C‘)を自分(△枠)の所有(D1の至大化)と化する事は出來ない。そして、過去(物:場 C‘)や歴史(物:場 C‘)を所有出來なければ(D1の至小化)、人格が成立しない(D1の至小化)〔參照:「完成せる統一體としての人格」論〕とすれば、歴史(物:場 C‘)とは人間の本性(物:場 C‘)であるといふ著者(小林)の言葉(思想D1の至大化)は充分に納得(D1の至大化)出來よう」(P649下)。 關係論 *①歴史(物:場 C‘)②過去(物:場 C‘)③人間の本性(物:場 C‘)⇒からの關係:①②を「④追體驗(D1の至大化)それを生きる(D1の至大化)事」で、①②を自己所有(D1の至大化)出來る。其處に人格が成立する(D1の至大化)。故に①とは③。⇒⑤現在の自分(F)⇒⑤の正當化(⑥歴史學:Eの至小化)ではなく⇒小林秀雄・吾々(△枠):①への適應正常。 *①對象(物:場 C‘)・『歴史』『物』等著作(物:場 C‘)⇒からの關係:①を「②考へるヒント〔手掛り・手續(D1)〕」こそ『最も純粋(D1の至大化)、最も激しい行爲(D1の至大化)』⇒終點〔③答へ結論(②的概念F)〕⇒③を豫期しない(Eの至小化)。③を目的とはしない(Eの至小化)⇒小林秀雄・吾々讀者(△枠):①への適應正常。 〔徂徠〕(『考へるヒントⅡ』の『歴史』から) *「人間といふ種(場 C‘)は、何も歴史(C)を持つのが目的(D 1)で、地上に生活(D1)し始めたのではあるまい。だが、生活(D 1)する事が、即ち道具を發明(D1の至大化)したり、記念碑を建て たり(D1の至大化)する事(本性的行爲?)〔その意味でも『過去 (場 C‘)は現在(場 C‘)に生きている(D1の至大化)』と言ふ事〕だつ たとすれば、歴史(C)とは、人間の本性(C)の事だと言つて少しも 差支へないわけだ。これを別の言葉で言へば、太初に言葉(C)あり、といふ事になるのではなからうか」(『歴史』P256)。 *「化石(資料:場 C‘)には、ピラミッド(C的)のやうに、他人の過去( C’)であるとともに私達の現在( C‘)であるやうな性質がない」〔即ち『過去(場 C‘)は現在(場 C‘)に生きている(D1の至大化)と言ふ』、つまりは『學問(D1の 至大化)は歴史(C)に極まり候事に候』と言ふやうな性質がないと言ふ事〕。それ故に、自然の歴史とは『假名』にしか過ぎないのだと。 關係論 *①
『太初(はじめ)に言葉〔人間の本性・歴史(物:場 C‘)〕あり』⇒からの關係②『過去は現在に生きてゐる』⇒③学問・出會ひ(②的概念)⇒學問は歴史に極まり候(③と自己との距離確立)⇒徂徠(古文辞學)。: ①への適應正常。
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既述:《小林秀雄とソクラテスとの相似性》:「不知・汝自身(物:場 C‘)」への對應。 〔小林秀雄〕 *「そこ〔結論(答へ)を目的としない、學問・考へ・知る、即ち「考へるヒント(手掛り・手續)」こそ、『あらゆる人間行爲(D1)のうちで最も純粋(D1の至大化)、最も激しい行爲(D1の至大化)』と言ふ事〕、から小林秀雄(△枠)は出發(D1の至大化)したのである。本書の中でも氏(△枠)は度々言つてゐる。『知の力(D1の至大化)は知らぬ事〔不知・汝自身(物:場 C‘)〕を知らぬ(D1の至小化)と自覺(D1の至大化)する事だ。懐疑主義(F)や不可知論(F)とは全く無縁(Eの至小化)のものである』と」(全集七P650上)。 關係論 *①知らぬ事〔不知・汝自身(物:場 C‘)〕②『歴史』『物』等著作(物:場 C‘)⇒からの關係:①を知らぬとの自覺が知の力(D1の至大化)・①②を「③考へるヒント〔手掛り・手續(D1の至大化)」こそ最も純粋(D1の至大化)、最も激しい行爲(D1の至大化)⇒「④懐疑主義・不可知論(F)」⇒④とは全く無縁のもの(④への距離把握:Eの至小化)⇒小林秀雄(△枠):①への適應正常。
*「ソクラテスは方向を轉囘し、凡そ物(物:場 C‘)を考へる(D1)出發點も終點も『汝自身〔不知(物:場 C‘)〕を知る(D1の至大化)』事にあると悟つた」(小林著「プラトンの『國家』」)。【とは即ち、汝自身〔不知(物:場 C‘)〕を『考へる(D1)事それ自體が目的(D1の至大化)』として『考へる手續(D1)を實行(D1の至大化)』と同意】。 關係論 |
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《小林秀雄と孔子との相似性》:「天(絶對的概念:物:C)・眞理(絶對的概念:物:C)」への對應。 〔小林秀雄〕 *「もし何か(物:場 C‘)を知る事が大事(D2の至大化)な事であるなら、それは何か(物:場 C‘)が知られて來る(D1の至大化)樣に行動(考へる・書く:D1の至大化)し、生きられる(D1の至大化)からである」(P649上)。 *「物(物:場 C‘)を知り、表現しよう(D1)とする人間(△枠)の行爲(D1)は、吾々(△枠)自身が知られ表されようとする吾々(△枠)の慾望(D1の至大化)の身振り〔即ち『①神・天(物:C)⇒からの關係:①に知られ表されようの身振り(D1の至大化)⇒吾々(被表現者:△枠)自身』〕なのであり、吾々(△枠)を知らせ表さうとする神(物:C)や天(物:C)の意思〔即ち『①神・天(物:C)⇒からの關係:①が知らせ表さう(D1の至大化)の意思⇒吾々(被表現者:△枠)』〕なのである」(P650下)。 *「小林秀雄の自信(D1の至大化)は何處(物:場 C‘)から來たか」。小林は「自分(△枠)は眞理(物:C)に包まれてゐる(D1の至大化)といふ眞の意味の楽天家(△枠)」(P650下)。
關係論 *①眞理(絶對:物:C)⇒からの關係:①に包まれてゐる。①に知られた「②自信」(D1の至大化)⇒「③字義」(②の對立的概念:F)⇒③に拘泥せず(③への距離獲得:Eの至大化)⇒眞の意味の楽天家(小林△枠):①への適應正常。 〔孔子〕 *「孔子(△枠)は天(物:C)に知られた(D1の至大化)のであつて、天(物:C)を知つた(D2の至大化)のではない」(P650下)。 關係論 *①天(絶對:物:C)⇒からの關係:①に知られた「②天命(D1の至大化)」⇒「③民」(②的概念:F)⇒ひたすら「③民」を安んずる〔③と自己との距離獲得〕(Eの至大化)⇒孔子(△枠):①への適應正常。 |
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《小林秀雄と本居宣長との相似性》:「言葉(物:場 C‘)歴史(物:場 C‘)」への對應。 〔小林秀雄〕 *「過去(物:場 C‘)や歴史(物:場 C‘)を所有出來なければ(D1の至小化)、人格が成立しない(D1の至小化)〔參照:福田恆存「完成せる統一體としての人格」論〕とすれば、歴史(物:場 C‘)とは人間の本性(物:場 C‘)〔參照P256「歴史(物:場 C‘)とは、人間の本性(物:場 C‘)。これを別の言葉で言へば、『太初に言葉(物:場 C‘)あり』〕であるといふ著者(△枠)の言葉(思想D1の至大化)は充分に納得(D1の至大化)出來ようし、學問(D1の至大化)は歴史(物:場 C‘)に極り、學問(D1の至大化)は人倫(D1の至大化)の學だといふ考へ方(D1の至大化)も極く當り前(D1の至大化)の事」。 關係論 *①歴史(物:場 C‘)②過去(物:場 C‘)③人間の本性(物:場 C‘)⇒からの關係:①②を「④追體驗し(D1の至大化)それを生きる(D1の至大化)事」で、①②を自己所有化(D1の至大化)。其處に人格が成立(D1の至大化)。故に①とは③。⇒⑤現在の自分(F)⇒⑤の正當化(⑥歴史學:Eの至小化)ではなく。⇒小林秀雄・吾々(△枠):①への適應正常。 *「①現在の経験的事實(物:場 C‘)の性質(物:場 C‘)」即ち「②評家の生活環境(物:場 C‘)の性質(物:場 C‘)」⇒からの關係:①②が問題として強制する・價値判斷を迫る(D1の至大化)〔③實行・批評の客觀性(無私の精神)〕⇒古い解釋・知識(③の對立概念)⇒③を捨てる⇒實行家・批評家(小林秀雄):①への適應正常。《『無私の精神』P281から》 參照PP圖⇒http://tsuneariyomukai.dousetsu.com/mushinoseishin.pdf 〔本居宣長〕 *「本居宣長に、『姿(物:場 C‘)は似せがたく(D1の至小化)、意(F)は似せ易し(Eの至大化)』といふ言葉がある。ここで姿(物:場 C‘)といふのは、言葉(物:場 C‘)の姿(物:場 C‘)の事で、言葉〔姿(物:場 C‘)〕は眞似し難い(D1の至小化)が、意味(F)は眞似し易い(理の世界?:Eの至大化)と言ふのである。(中略)言葉(物:場 C‘)こそ第一なのだ、意(F)は二の次である、と」(『言葉』)。 *「歌〔言葉(物:場 C‘)〕とは情(心=物:場 C‘)をととのへる(D1の至大化)行爲(D1の至大化)である。言葉(物:場 C‘)はその行爲(ととのへる:D1の至大化)の印し(物:場 C‘)である」(『言葉』)。 *「宣長は、生活(物:場 C‘)され經驗(物:場 C‘)される言葉〔歴史・本性的(物:場 C‘)〕にしか興味(D1の至大化)を持たなかつたし、言葉(物:場 C‘)とは本來さういふものと確信(D1の至大化)してゐた」(『言葉』)。 關係論 *①言葉(物:場 C‘)②姿(物:場 C‘)⇒①の②は「③似せ難く」(D1の至小化)⇒④意味(F)⇒④は似せ易し(Eの至大化)⇒本居宣長(△枠)。 *①言葉・印し(物:場 C‘)②歌(物:場 C‘)③情(心=物:場 C‘)⇒からの關係:②は③をととのへる(D1の至大化)行爲(D1の至大化)〕で「③似せ難く」(D1の至小化)⇒④意味(F)⇒④は似せ易し(Eの至大化)⇒本居宣長(△枠)。 |
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《小林秀雄と讀者》:「眞理(絶對的概念:物:C)⇒小林秀雄(△枠)」への對應。 *「小林秀雄の文章(物:場 C‘)を何度でも讀む(D1の至大化)が良い。意味(F)や論理(F)に囚れず(Eの至大化)、理解(D1)出來ぬ處は無理に理解(D1の至小化)しようとせず、讀書百遍(D1の至大化)、自らに氏(物:場 C‘)の表情や聲が聞えて來るまで讀む事だ〔聞えて來るとは、即ち『①小林秀雄(物:場 C‘)⇒からの關係:①が知らせ表さう(D1の至大化)の意思⇒吾々(△枠)』と言ふ事〕」。 :以下文參照 讀者と小林との關係論 *①小林の文章(物:場 C‘)⇒からの關係:①の表情や聲が聞えて來る〔即ち②知らせ表さう(D1の至大化)〕⇒「③意味・論理」(②的概念F)⇒③に囚れず(Eの至大化)讀書百遍⇒讀者(吾々△枠)①への適應正常。 |