平成三十一年四月某日豫定
〔福田恆存を讀む會〕
吉野櫻雲
『第三の椅子』(サルトル論を含む)
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〔難解又は重要文〕:P183(後ろから五行目~188(四行目)の「論理的推移」を、サルトル哲學用語も借用し以下の樣に簡略的に纏めを試みてみた。
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論理的推移:(尚、サルトル思想については別紙「PDF文」sarutoru.kaisetsu.pdf へのリンクの解説も參照されたし)「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *科學⇒「自然と人間とを一貫する必然性の實感を獲得しようとこころみてきた」⇒「科學はその(必然性の)儼然たる存在を豫想してゐる」⇒「が、豫想は實感ではない」⇒P184「この豫想と實感との間隙にサルトルのエクジスタンシャリスム(實存主義)が登場」⇒「必然性からの脱落・ごまかしやうのない(意味づけの出來ない)個體の孤立(孤獨)をサルトルは洞察(即ち實存)」⇒「(科學が試みる)性急な豫想の調和、(つまり人間本性に向かつての)世界あるいは歴史の意味づけにサルトルは反撥(「即ち、『人間の本性は存在しない』・『實存は本質に先立つ』と言ふ事)」⇒「(人間)存在の偶然」⇒「人間は――個人は、まづ存在(實存=事實存在)する。意味もなく、他との關聯もなく、まづ存在する」(即自)⇒「(つまり)自然(人間も含む)にはその現象のすべてのあいだには、なんらの脈絡も關聯(意味づけ)もない。即ちあらゆる意味づけは人間があとから勝手につけたメタフィジック(形而上學)に過ぎぬ」⇒「サルトルは個人の存在を意味づける時間的、空間的な全體性(C)を破壞してみる(神不在による、意味づけや本質の喪失・存在の偶然)」(即ち、『實存は本質に先立つ』『即自』)⇒P185「全世界といふ觀念の關節がはづれる」⇒「あらゆる、『現象・矛盾・存在』はばらばら。相互の間に何の脈絡もない。個體は他の個體に對して無意味な存在」⇒即ち「アプシェルディテ(不條理)」⇒即ち「事物と事物、行爲と行爲とを聯關づける統一感、一貫性の缺如」⇒「よけいもの・徹底的な孤獨による存在の實感」⇒「孤獨感こそ生を生きてゆくための出發點」⇒「肉體のエゴイズム(A)」を招來⇒科學との對立⇒「科學が豫想してゐる必然性は、個體と個體とを結びつける關聯のモメント(契機)を、全生物の有機的な生命慾(A)といふものに解消せしめる」、つまり愛と言ふ概念の形成⇒即ち「愛は肉體のエゴイズム(A)に對立するものではなく、そのうへに築かれるもの」⇒が「エゴイズム(A)を惡と見なさざるを得ない心理的現象(人間概念)では、エゴイズム(A)の延長線上にすなほに愛(B)を位置づける事は出來ない」⇒P186「古めかしい倫理觀であらうとも、エゴイズム(A)は惡であり、さう考へるかぎり、ぼくたちの個體は全體性(C)から脱落し、孤獨に苦しんでゐる。原因が物質苦にあらうと制度の惡にあらうと、ひとびとはその結果としての我慾(A)に苦しみ、人間惡のしまつに惱んでゐる。この苦惱を未來圖の完璧性に預けて知らぬ顏でゐることはできない。不利な條件は改變しなければならぬと同時に、またその不利にもかかはらず、ぼくたちはぼくたちの人間性を完成しなければならない」⇒P187「不完全なる條件のもとに、ぼくたち自身の孤立した個體(孤獨)において、しかも全體(C)につながり(B⇒C)、自己完成をはたすために、今日において、個人はやはり自分自身のうちに權威を確立し、自己の尊嚴を維持しなければならない」⇒「サルトルが孤獨(存在の偶然)においてアプシェルディテ(不條理)をあばきたてたのも、所詮は、そこから逆に自我の權威を他人にも自分にも納得させるべき方法を模索してゐるに他なるまい。それは明らかに自己完成をめざすもの」⇒「ただ彼は自己完成を可能ならしめる統一體としての人間といふ概念に疑ひの眼をむける」⇒「人格の統一原理(神・理想・合理性・眞理等)一切に(その)統制力を認めない」⇒何故なら、P188「それらのものに人間の生を意味づけるなんらの根據もみとめられはしない。ぼくたちの生涯がなにかよりより大きな全體(社會・國家等)のために、あるいはつぎの世のために役だつとしても、それなら、生そのものは、人間の存在といふこと(『おのづからなる存在:即自』は『無意味で偶然的なでたらめから出發したと言ふ事實』)は、そもそもいかなる意味をもちうるか。有限の世界でなんのかのと意味づけの牽強附會をおこなつても、無から有への轉化になにかもつともらしい意味がつけられようか」(つまり、「人格の統一原理(神・理想・合理性・眞理等)一切にその統制力をみとめ」られない以上、「それらのもの(『有限の世界でなんのかのと意味づけの牽強附會』)に人間の生を意味づけるなんらの根據もみとめられはしない」のだと言ふ事)。 |
*上枠文中の傍線部分及び以降文については、別紙「PDF文」sarutoru.kaisetsu.pdf へのリンクの解説が役に立つと思ふので、是非併讀されたし。哲學用語が多いので、先に簡略しておくと、以下内容(サルトルの無神論的實存主義)が其處には記載されてゐる。
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*神不在⇒「必然性からの脱落(即自・おのづからなる存在)」⇒「無」(「孤立した個體」「生の無意味で偶然的なでたらめ」)⇒「対自・みずからのための存在」⇒「不完全なる條件のもとに、ぼくたち自身の孤立した個體(孤獨)において、しかも全體につながり、自己完成をはたす」(P187)⇒「主体性・投企・社会参加」。 |
*で、難解なる前項、〔難解又は重要文〕:P183(後ろから五行目)~188(四行目)を、更に以下の如く探究する。
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〔難解又は重要文〕P187~8「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *P187「不完全なる條件のもとに、ぼくたち自身の孤立した個體(孤獨)において、しかも全體(C)につながり(B⇒C)、自己完成をはたすために、今日において、個人はやはり自分自身のうちに權威を確立し、自己の尊嚴を維持しなければならない」⇒「サルトルが孤獨(存在の偶然)において不條理をあばきたてたのも、所詮は、そこから逆に自我の權威を他人にも自分にも納得させるべき方法を模索してゐるに他なるまい。それは明らかに自己完成をめざすもの」⇒「ただ彼は自己完成を可能ならしめる統一體としての人間といふ概念に疑ひの眼をむける」⇒「人格の統一原理(神・理想・合理性・眞理等)一切に(その)統制力を認めない」⇒何故なら、P188「それらのものに人間の生を意味づけるなんらの根據もみとめられはしない。ぼくたちの生涯がなにかよりより大きな全體(社會・國家等)のために、あるいはつぎの世のために役だつとしても、それなら、生そのものは、人間の存在といふこと(『おのづからなる存在:即自』は『無意味で偶然的なでたらめから出發したと言ふ事實』)は、そもそもいかなる意味をもちうるか。有限の世界でなんのかのと意味づけの牽強附會をおこなつても、無から有への轉化になにかもつともらしい意味がつけられようか」〔つまり、「人格の統一原理(神・理想・合理性・眞理等)一切にその統制力をみとめ」られない以上、「それらのもの(『有限の世界でなんのかのと意味づけの牽強附會』)に人間の生を意味づけるなんらの根據もみとめられはしない」のだと言ふ事〕。 |
上記傍線部分について、評論『サルトル』では、以下(傍線部分)の樣に詳述してゐる。そして更には、サルトルの「實存主義」についても恆存は批判に及んでゐる。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「おのづからなる存在(即自)」と「みずからのための存在(對自)」と言ふ「この二つの實存のあひだにあつて前者から後者への轉換を可能ならしめるものが、ほかならぬ無なのだ」(『サルトル』全二P142下)。 *「既存の、外部的なもろもろの理想(自己を奉仕せしめる人類や社會の目的)は、肉體化された自己の理想とはなりえず、あくまで自分の外のもの」(おのづからなる存在:即自)⇒「ひとたびこれを無の背景のまへにおとしこみ、それら一切を虚無のものとして却けてしまつた(孤獨の)あとに、ふたたび、自己以外の、自己以上の、そして自己(みずからのための存在:對自)より大いなるものとして、それらの理想が採りあげられる」⇒「ばからしいともいへる。なぜなら實存主義が大仰に騒ぎ立ててゐる事實は、もつとかんたんにいつてしまへば、現實そのものの改變ではなく、おなじ現實のもとにあつて、ただ、いままで無自覺(おのづからなる存在)であつたのをこれからは自覺的(みずからのための存在)に生きろといふにすぎない。それは現實を處理する新しい方法ではなく、むしろ既存の現實に屈服する方法ですらある」(『サルトル』P143)。 *「なにがそれ(人間存在の意味)を正當化しうるか。かつては神がその役割をひきうけてゐた。が、神の死んでしまつた二十世紀において、はたしてなにものがそれにこたへうるか。いや、眞相は、なにものもそれをなしえない。神(C)すらはなはだしい虚妄(假説と同意?)にすぎず、たんなる自己欺瞞(假説と同意?)でしかない。ルネサンス以後のヒューマニズムすらこの汚名をまぬかれるものではあるまい。實存主義は、サルトルもまた、このヒューマニズム(ルネサンス以後のヒューマニズム)の虚僞をあばきたてる。一切は(『おのづからなる存在:即自』としては)無であるにもかかはらず、サルトルはこの無を超えて、しかも無を媒介として、愛や正義や責任を導きいれてくる。それが『みずからのための存在』(對自)である。眞に人間的なる實存なのである。とすれば、ここにいたつても、ぼくたちは西歐にとつて傳統的な、古かびのはえたヒューマニズムを――新しきヒューマニズムの名のもとに再發見(「既存の現實に屈服」?)しなければならないといふわけなのだ。 ひとたび拒否せられ、無のうちに突き落とされた現實(『おのづからなる存在』)がどうして人間的實存としての『みづからなる存在』の名によつて、ふたたび救ひあげられてくるのか――そこにはなんの論理的なモメント(契機・きつかけ)も見いだされぬ。實存主義もまた虚妄(假説と同意?)にすぎないではないか。神と同樣に自己欺瞞(假説と同意?)にすぎぬではないか。たしかにさうだ。――が、神の死にはてた現代、もしこの欺瞞にすがらずして、いつたいどうして生にたへえようか。神は虚妄であり欺瞞であるがゆゑに死にたえ、信ぜられなくなつたのではなく、それがもはやひとびとを欺きえなくなつたがゆゑに權威を失墜したのであつてみれば、實存主義が最後の飛躍の瞬間において論理的なモメント(契機・きつかけ)をもちえぬといふことは、それだけでその意味を否定しえない。虚妄(假説と同意?)でもあらう――が、それも虚妄であるとすれば、一切は虚妄であり、これを虚妄のゆゑに放棄して自然科學にすがりつくことはできない。なぜなら科學は虚妄ではないかはりに――いや、それは虚妄でないのではなく――おのれの問題の領域を、あへてそこまで發展せしめないだけの話なのだ(『科學は存在そのものをいかに合理化しえようと、存在の意味を正當化しえない』P143)。マルクシズムもまた實存主義をその對立物として眺めることはできない。それはあれかこれかの問題ではないのだ。が、すくなくとも、ぼくたちは自分自身を欺瞞しえずしては、マルクシストにすらなりえぬのだ(實存主義の虚妄を信ぜずには、自然科學、その延長のマルクシズムにもすがりつくことはできないと言ふ事か?)――新しきヒューマニズム(虚妄の實存主義)なくしては科學にすら信頼しえぬのである」(『サルトル』全二P143下~4)。 |
上記「實存主義もまた虚妄(假説と同意?)にすぎないではないか。神と同樣に自己欺瞞(假説と同意?)にすぎぬではないか。たしかにさうだ。――が、神の死にはてた現代、もしこの欺瞞(假説と同意?)にすがらずして、いつたいどうして生にたへえようか」の、虚妄・欺瞞(假説と同意?=C&C’)について、別の觀點から恆存は以下(傍線部分)の樣に記述してゐる。
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評論『サルトル』から「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「人間のみが自己の肉體のそとに投げだされて存在することができる。――すなはち、そとにある(エクジストする)のである。自己のそとにあつて、外部から自己を眺めるもの(假説=C&C’)――もし人間の存在を限定しうるものがありとするならば、まさにそれ(「自己の外にあつて、外部から自己を眺めるもの」)でなくしてなんであらうか。限定されざる、なまのままの存在(『おのづからなる存在』:即自)としての人間は、限定されざるがゆゑになんでもありえ、なんでもなりえ、またなんでもなしうる。と同時に、それはなんであらうが、なんにならうが、そしてなにをなさうと、所詮はなんでもなく、なんにもしないのとおなじことである。自己(AB)を規正し限定し否定してくるもの(假説=C&C’)なくして――いひかへれば、さういふ框(假説=C&C’)なくして、ぼくたちは自己をもちえない(上文「どうして生にたへえようか」と同意)。といふより、自己(AB)とは自己以外のなにものか(假説=C&C’)に限定されてゐるもの、といふより、限定されたものこそ自己(C’場⇒D1關係⇒AB自己)だからだ。なんにでもなりえ、なにごとでもなしうる、したがつてなにものでもなく、なにごともなしえぬところの、なまのままの『おのづからなる存在』をして、ある特定のもの、いひかへれば、あれではなくこれたらしめ、あれではなくこれをなさしめるもの、それこそまさに人間的實存としての『みずからのための存在』にほかならない」(『サルトル』全二P142)。 |
しかしながら、この「まさに人間的實存としての『みずからのための存在』(對自)」を、恆存は「現實そのものの改變ではない」、「いままで無自覺(おのづからなる存在)であつたのをこれからは自覺的(みずからのための存在)に生きろといふにすぎない」と、以下の樣に批判してゐるのである。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「ばからしいともいへる。なぜなら實存主義が大仰に騒ぎ立ててゐる事實は、もつとかんたんにいつてしまへば、現實そのものの改變ではなく、おなじ現實のもとにあつて、ただ、いままで無自覺(おのづからなる存在)であつたのをこれからは自覺的(みずからのための存在)に生きろといふにすぎない。それは現實を處理する新しい方法ではなく、むしろ既存の現實に屈服する方法ですらある」(『サルトル』全二P143)。 *「ひとたび拒否せられ、無のうちに突き落とされた現實(『おのづからなる存在』)がどうして人間的實存としての『みづからなる存在』の名によつて、ふたたび救ひあげられてくるのか――そこにはなんの論理的なモメント(契機・きつかけ)も見いだされぬ。實存主義もまた虚妄(假説と同意?)にすぎないではないか。神と同樣に自己欺瞞(假説と同意?)にすぎぬではないか」(『サルトル』P144)。 |
つまり、實存主義は「最後の飛躍の瞬間において論理的なモメント(契機・きつかけ)をもちえぬ」(P144)のだから、それは「いままで無自覺(おのづからなる存在)であつたのをこれからは自覺的(みずからのための存在)に生きろ」と言ふに過ぎず、故にそれは「現實そのものの改變ではなく、おなじ現實のもとにあつて」、その「既存の現實に屈服する方法」でしかないのだと。
この事は何を意味するかと言へば、二者(無自覺・自覺)は、「自己を規正し限定し否定してくる」框(假説:C&C’)なるものを、共に同じく頭に戴いてゐる、を意味してゐるのである。そしてこの框(假説:C&C’)こそが、「みずからのための存在」が選擇(投企)する、「自己の外にあつて、外部から自己を眺めるもの」であり、「もし人間の存在を限定しうるもの(假説:C&C’)がありとするならば、まさにそれでなくしてなんであらうか」のそのものなのである。
故に此處から、次項恆存の「自己完成への夢」が導かれて來るのだと推定される。
つまり、「神(C)の死にはてた現代、もしこの欺瞞(實存主義の虚妄・假説?)にすがらずして、いつたいどうして生にたへえようか」と、實存主義が選擇されるなら、同じ理由(「もしこの欺瞞にすがらずして、いつたいどうして生にたへえようか」)で、以下の欺瞞(家庭=虚妄・假説C’)の選擇も、やはり成り立つと考へられる。何故なら、家庭も、「みずからのための存在」が選擇(投企)する「框(假説:C&C’)」と同樣、「自己の外にあつて、外部から自己を眺めるもの(假説:C&C’)」に類し、「個人は自分自身のうちに權威を確立し、自己の尊嚴を維持し」つつ、其處(框C’)で、一役を選び演戯ずる事が可能だからである。
恆存の「自己完成への夢」
〔難解又は重要文〕P188~9「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
① 恆存の「自己完成への夢」⇒「家庭(C’)の秩序(E)の維持(Eの至大化)」⇒「この封建的な努力(Eの至大化)が、エゴイズム(A)を抑壓する自己完成の觀念を教へた」。
② 「この家庭(C’)といふ最後のわずかな自己否定因(C&C’的概念)を追放してしまふならば、いつたいどこに日本人の愛他思想(B)を育てる地盤(「完成せる統一體としての人格」論の初發地盤?)をみいだせようか。逆に、自己完成(最終的「完成せる統一體としての人格」論)といふものを意圖するかぎり、ぼくたちは多少とも封建的家庭的な形式(E)を維持する(Eの至大化)ほかないのである」。
・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。小生的に補足を試みるとかうなる。
「自己完成」(最終的「完成せる統一體としての人格」論)を意圖するならば、日本人は何も「實存主義」などを当てにすることなく、以下を行へばよいのである。つまり言ひ換へれば、「實存主義」の専賣特許とは言へない以下方法論で、上記①②を、日本人は「宿命(C’⇒D1)/自己劇化(D2)」で演戯すればそれで濟むのである、と恆存は言つてゐると小生は推察する。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「不完全なる條件のもとに、ぼくたち自身の孤立した個體(孤獨)において、しかも全體(C)につながり(B⇒C)、自己完成をはたすために、今日において、個人はやはり自分自身のうちに權威を確立し、自己の尊嚴を維持しなければならない」(『サルトル』P187)。 |
即ち、上記二項目は向後の評論等で記述する以下を、此處では初發的に物語つてゐると考へられるのである。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「演戯(D2)なしには人生は成り立たない。つまり假説(C’)なしには成り立たない」。「眞實といふのは、ひとつの關係(D1)の中にある。個々の實體よりはその關係(D1)の方が先に存在している。人生といふものは、關係(目上⇔目下・親⇔子・師⇔弟子・國⇔國民、等々)が眞實なんで、一生涯自分のおかれた關係の中でもつて動いてゐる。いろいろな關係(D1)を處理(D2)していき、それらの集積された關係(D1)がその人の生涯といふもの。それを私は演戯(D2)だといふ」(單行本『生き甲斐といふ事』中、對談「反近代につひて」P195 ・199)。 |
〔難解又は重要文〕P188「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「人間がひじやうにまづく、あるいはまつたく無意味で偶然的なでたらめから出發したといふ事實(つまりは『おのづからなる存在:即自』の無意味で偶然的)だけは否定しえまい。とすれば、ぼくたちの歴史のあらゆる時代は、そしてぼくたちのひとりびとりは、この生のでたらめ(『おのづからなる存在:即自』)に對して責任をとらねばならないのだ。神が見うしなはれた今日、この責任の所在はめいめいの自己完成といふことをおいて他のどこにもとめられようか」(尚この傍線部分については以下の關聯文がある)。
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*「なまのままの『おのづからなる存在』をして、ある特定のもの、いひかへれば、あれではなくこれたらしめ、あれではなくこれをなさしめるもの、それこそまさに人間的實存としての『みずからのための存在』にほかならない」(『サルトル』全二P142)。 |
・・・で、かかる上記は何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして更には傍線部分(「この生のでたらめに對して責任をとらねばならないのだ」)云々は、我ら日本人に對しては、以下の消息を物語つてゐるのではなからうかと推察できる。尚、以下『急進的文學論の位置づけ』は、今般選擇評論と同年(昭和二十三年)の著作である。
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拙發表文『急進的文學論の位置づけ』から 〔難解又は重要文〕:P297下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 「(明治の現實は)なまの素材(F)としては混亂してをり、なんの意味をもたぬ現實(F)に主題的完成(型E)を與へるのが文學(E)の意圖であるとすれば、明治日本の現實(F)がその作家たちに美的完成(Eの至大化)を許さぬほど混亂してゐたといふ事實を、ぼくたちはまづみとめてかからねばならない。存在(場 C’)そのものが混亂していたばかりではなく、意識(D1心の動き)も、意識と存在との關聯そのものも、ほとんど收拾つかぬほどの混亂(D1の至小化=沈湎)を呈してゐた。その混亂の樣相を如實に描きだすことこそ今日の歴史學、あるいは社會科學の任務であらう。それらの科學(A’⇒A)が充分にその責任をはたしえないでゐるがために、文學の領域(B)で粗笨(そほん)な公式的イデオロギー(唯物論・唯物史觀?)がいともかんたんに現實を料理し、作品や文學史を裁斷してゐるのだ」。 *「(混亂した)素材のままの現實(F)に樣式を與へなければ(Eの至大化)ならぬ。それが現代の政治家、事業家、學者、藝術家、すべての人に課せられた任務」(全一P220『近代日本文學の系譜』『永井荷風』:昭和二十一年)。 |
〔難解又は重要文〕P190・P191「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「かれ(ぼくたち)は社會の現實(A)に眼をむけざるをえない。かれ(ぼくたち)は政治(A)に社會革命(A)に關心をよせざるをえなくなる」(P190)。
*「ぼくたちの社會生活(A)のどこかで社會革命への推進力とつながつてゐなければ、自己完成そのものもけつして達成しえないのである」(P191)。
・・・上記二つは、「完成せる統一體としての人格」論圖の構築を物語つてゐるのではなからうか。
〔難解又は重要文〕P191「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「かれ(サルトル)の國には第三の椅子があるらしい――『嘔吐』における孤獨の探求とナチ占領下における政治活動とのあいだに」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 ①「『嘔吐』における孤獨」とは、以下を指すと判斷できる。 *「サルトルはこの作品のうちで主人公ロカンタンを、あらゆる社會的關係から切り離された孤獨(「おのづからなる存在:即自」の孤獨と無)のうちに置き、そこでいやおうなくぶつかる人間の實存を探らうとしてゐる」(當評論P181)。 *「なまのままの存在をサルトルは『おのづからなる存在』(即自)と呼んでゐる――まさにそれが人間の實存なのだ」(評論『サルトル』全二P141)。 そして、「おのづからなる存在」(即自)とは、評論『第三の椅子』で言ふ處の、「人間は――個人は、まづ存在(實存=事實存在)する。意味もなく、他との關聯もなく、まづ存在する」(P184)を示す。更には「不完全なる條件のもとに、ぼくたち自身の孤立した個體」「生の無意味で偶然的なでたらめ」(P187)を示してゐる。 で、主人公「ロカンタン」は、まず實存としての「孤獨の探求」をしてゐるのである。そして、その「無」「孤立した個體」(孤獨)が「みずからのための存在(對自)」へと飛躍するのだと。 ② 「ナチ占領下における政治活動」とは、サルトルが企てた「ナチへのレジスタンス」を指してゐるのであ らう。但しそれは失敗してゐる(「新潮世界文學辞典」から)。 ③ 孤獨①と政治參加②の「あいだ」(第三の椅子)とは、察するに、「かれの國」の宿命と言へる「神の死 にはてた現代、もしこの欺瞞(實存主義と言ふ假説)にすがらずして、いつたいどうして生にたへえようか」なる、「みずからのための存在」(對自)の事であらう。 であるから、その對抗、つまり「現代の日本人であるぼくたちもまた第三の椅子を探しもとめなければならない」として、「この家庭(C’假説)といふ最後のわずかな自己否定因(C&C’的概念)」なるものが、此處に掲示されてゐるのである。 |
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