平成三十年二月十五日豫定

〔福田恆存を讀む會〕

吉野櫻雲

 

 

テーマ《「距離感の缺如」について。(『日本および日本人』最終章から)》

〔副題〕第二彈:PP圖で恆存(C)の思想(D1)を「形ある『物』にして見せる(Eの至大化)」。

(注:今囘テーマ探究に、拙發表文:精神の政治學としての近代化」についてを活用した)

 

〔まへがき的補足〕

*以前HP記載、拙發表文:『日本および日本人』に於ける、「距離感の缺如」項目には探究不足の箇所があつた。よつて、此のレジュメでは一部修正を施した上で此處に轉載する。

*恆存が言ふ「距離感」(「距離を認識しろ」)とは、二つの意があると小生には思へるので最初に記載しておく。

①場( C’:西歐近代)との距離感(D1の至大化=「彼我の差をはつきり認めること」)。

②言葉(F:近代化諸概念)との距離感(Eの至大化=so called・ソフトウェア・精神の政治學)。

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〔K.K氏:設問〕に對して

設問①「ほんたうの意味の個人主義  西欧の近代精神たる個人主義  日本人の個人主義 と三通りの表現が出てきます。これは どう違うのか?」について・・・拙發表文:『日本および日本人』に、小生的見解が載せてありますので、それで答へさせて戴きます。

 結論から言ひますと、「ほんたうの意味の個人主義」と「日本人の個人主義」とは、どちらも「彼我の差をはつきり認めること」、「彼我の差」認識、をする事と恆存は言つてゐるので、同一と小生は判斷します(以下枠文參照)。

 次に「西歐の近代精神たる個人主義」とは、「西歐の近代精神(西歐二元的文化が生んだ近代化精神)たる個人主義」と小生は解釋致しました。それについて恆存は以下の如く述べてゐる。

「西歐の生きかた(二元論文化)と私たち(一元的文化)との間の距離を認識しろといつてゐるのです」(つまり『彼我の差をはつきり認めること』:D1の至大化=so called:Eの至大化と。

詳しくは以下枠文②を參照されたし。

拙發表文:『日本および日本人』より轉載加筆

 

*(注)下記①~②は恆存文を明確化する爲に、小生的見解を下文中に括弧で入れてみた。

〔難解又は重要文〕P204下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「ただ(西歐近代C’と日本との)彼我の差をはつきり認める(D1の至大化)ことを、諸君に求めてゐるだけです。(中略)まづ自分の現實(〔難解又は重要文〕P202下項目他)をみること、それからさきは、ひとりひとりの道があるだけです。いや、ひとりひとりの道しかないといふことに氣づくことが、なによりも大事だとおもふのです。私がいひたいのはそれだけです。

 そのために、私たちは、ほんたうの意味の個人主義(F)を身につけなければ(「彼我の差をはつきり認め」なければ)なりません。しかし、これは誤解をまねきやすいいいかたです。まはりくどくいへば、その個人主義(F)を身につける(Fに對するEの至大化=「彼我の差をはつきり認めること」D1の至大化)といふことも、あくまで個人主義的に(「ひとりひとりの道」で)しなければならない」。⇒參照圖「近代化:ハードウェア&ソフトウェア」hardeware.software.pdf へのリンク

「西歐を先進國として、それに追いつかう(近代化D1)といふ立場から、『アジアの前近代的な非人格性』を否定し、西歐の近代精神(西歐二元的文化が生んだ近代化精神)たる個人主義(F近代化概念:D1の別名)を身につけろといふのではない。それこそ、私のいふ距離感の喪失(Eの至小化)にほかなりません。私はあくまで西歐の生きかた(二元論文化)と私たち(一元的文化)との間の距離を認識しろ(『彼我の差をはつきり認めること』:D1の至大化=so called:Eの至大化といつてゐるのです。眼前にある西歐(C’場)を、それに追ひつかねばならぬもの(近代化D1)、あるいは追ひつけるものとして眺めることはまちがつてゐます。まず異質なもの(二元論文化對一元的文化と言ふ「文化の差」。但し文化には優劣はない)としてとらへ、位置づけすること、さうすること(『彼我の差をはつきり認めること』:D1の至大化)によつて『日本および日本人』の獨立(文化の獨立)が可能になるでせう。それ(『彼我の差』認識)を日本人の個人主義の成立とみなす」。⇒參照以下枠文

拙發表文:「近代化とは何か」(『人間の生き方、ものの考へ方』他)P86)

 

〔難解又は重要文〕P83~ で言ふ、「西洋(場C)の文化(D1:クリスト教文化)が今の近代化といふ一つの歴史的必然性を生み出してゐる」と讀む事が可能である。「西洋の文化(D1)=(E)西歐の生き方・生活の樣式(即ち二元論)」kindaikanosetumei.pdf へのリンクと言ふ、「質の差」そのものが形成した歴史的必然性と言へる。恆存が上述する「クリスト教の絶對神による『統一性と一貫性との意識rekisinoikkannsei.pdf へのリンクが人間の生活に歴史を賦與』した」がそれを物語つてゐると思ふ。つまり西歐の「二元論文化(D1)」が生んだ歴史的必然性としての近代化なのである。對するに、東洋文化・イスラム教文化には「二元論文化(D1)」が育たなかつた爲、西洋流の『歴史』の連續性・統一性・一貫性」(上枠文參照)も缺如し、故に、近代化を生み出す「歴史的必然性」を持たなかつたのである。であるから、上枠文の内容「近代化」は「價値」ではないのだ。二元論が生んだ「歴史的必然性」なのである、とその樣に小生は解釋する

 

設問②「距離感といっても 言葉の定義をしてからでないと自己流の解釈で済ませてしまいかねません。私の理解をはっきりさせたいと思います」。

設問③「距離感といいましても その有無を判断する客観的基準があるのですか?」。

 ・・・設問②③について以下枠文を參照し解釋すると、「客觀的基準」はないと判斷する。敢へて「客觀的基準」を追ふと、「その(言葉Fの)用法(E)に細心の注意(Eの至大化)」をしてゐるか、又は「恰も確たる定義があるかの如く言葉(F)を用ゐてゐる(Eの至小化)」か、を「客觀的基準」とするしか無いと存ずる(以下枠文:最終項參照)。

拙發表文『日本および日本人』〔難解又は重要文〕P204下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「「ただ(西歐近代C’と日本との)彼我の差をはつきり認める(D1の至大化)ことを、諸君に求めてゐるだけです。(中略)まづ自分の現實(〔難解又は重要文〕P202下項目他)をみること、それからさきは、ひとりひとりの道があるだけです。いや、ひとりひとりの道しかないといふことに氣づくことが、なによりも大事だとおもふのです」。

 

拙發表文:「『精神の政治學としての近代化』について」より「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

*恆存は評論『醒めて踊れ』(P393)で、「それ(近代化や疎外)に對應する方法は(機械化・組織化等々の)言葉や概念に囚れず、逆にこれを利用すること、即ち言葉の用法(E)にすべてが懸つてゐる。自分と言葉との距離が測定出來(Eの至大化)」る樣にする事と述べてゐる。つまり距離測定と言ふ「言葉の用法=So calledEの至大化」で、「近代化や疎外」と言ふ關係(D1)への適應を、適應正常的關係に「形ある『物』として見せる(Eの至大化)」と言ふ事である(即ち、「Eの至大化」で「D1の至大化」を圖る事)。

⇒參照圖「近代化:ハードウェア&ソフトウェア」hardeware.software.pdf へのリンク

 

評論『醒めて踊れ』から

*「(ウオードンが言ふ)言葉(F)の背後に意味を探つてはならない。言葉(F)に定義は無い、ただ用法(E)あるのみといふのは半面以上の眞理を物語つてゐる。殊に近代化(D1)といふのは私達がその過程の中に在り、それが何處へ到達するのか、また到達しようとしてゐるのか、行方の全く解らぬものである以上、それに定義を與へる事は誰にも出來る筈は無い」(『醒めて踊れ』全七P390)。

*「ウオードンの言ふ通り、言葉(F)には用法(E)だけしか無く、定義不能であるにしても、いや、さうであればこそ、その用法(E)には細心の注意(Eの至大化)が必要であり、恰も確たる定義があるかの如く言葉(F)を用ゐてゐる(Eの至小化)人の場合、その人と言葉の距離は愈々小(Eの至小化)になる」(『醒めて踊れ』全七P391)。

⇒參照圖「近代化:ハードウェア&ソフトウェア」hardeware.software.pdf へのリンク

 

設問④「今日 彼我の差がますます混沌として 物質面では グローバル化しています。距離感の欠如? それは何が問題なの?と言われそうです。以上のような疑問点を考えてみたいと思います」について・・・

〔參照文:グローバル化の意味

https://kotobank.jp/word/%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%AB%E5%8C%96-181351

恆存文(以下枠文)を應用して、以下の樣に對處する事が肝要なのではと小生には思へる。

「地球( C’)⇒グローバル化(地球規模化:D1)⇒グローバル化諸概念(F:自由競争・貿易自由化・金融自由化・多国籍企業・文化均質化・環境固有文化破壊、等々)⇒諸概念(F)に對處する精神の政治學の確立(Eの至大化)、即ち所謂『ソフトウェア』(附合ひ方=so calledの適應能力(Eの至大化)の必要性」。是を換言すると、グローバル化諸概念(F)を、近代化(D1:「神の解體と變形と抽象化」)の推進化(或いは極端化)と、so called(Eの至大化)する事ではなからうか。「國家的エゴイズム」を無視した理想主義(お先走り)かと。⇒參照圖「グローバル化への對處guroubaruka.pdf へのリンク

 つまり、「距離感=精神の政治學の確立(Eの至大化)=ソフトウェア(附合ひ方=Eの至大化=so calledの適應能力の必要性」、が今日に置いても尚更に問はれてゐると言ふ事でせう。しかしながら、「近代化適應異常」(D1の至小化=距離感の缺如)が繼續されて、それ自體にも認識が薄い今日的状況では、仰せの如く「距離感の欠如? それは何が問題なの?」と省みられず、「距離感」(Eの至大化)は無視默殺の憂き目に遭ふのが必定と存ずる。

拙發表文:「『精神の政治學としての近代化』について」より「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

「近代化實在物:D1)の必要條件は技術や社會制度潜在的言葉:F)など、所謂『ハードウェア』のメカナイゼーション(機械化)、システマライゼーション(組織化)、コンフォーマライゼーション(劃一化)、ラショナライゼーション(合理化)等々の所謂近代化潜在的言葉:F)に對處する精神の政治學の確立(Eの至大化)、即ち所謂『ソフトウェア』附合ひ方E:フレイジング・So calledの適應能力(Eの至大化)にある」(『醒めて踊れ』P393)。

 

設問⑤ 「明治の初めは言うまでもなく戦後の初期も彼我の差は強烈に感じられました。然るに今日の我々に 何か痛切な課題がありましょうか?」について・・・

小生は拙發表文:『日本および日本人』冒頭で、以下の通り記述した。しかしながら探究不足の箇所が見附かつたので、一部修正を施して此處に轉載する。

*西歐近代( C’)との近代化(D1)に於ける、「彼我の差をはつきり認めること(適應正常=D1の至大化)(Eの至大化)」とは、「socalled(Eの至大化)」(所謂「・・・」)と言ふ事今囘、解り得た。つまり、so calledとは「言葉(F)に對する距離感(Eの至大化)」の事である。

と。

そして、この認識に、以下の恆存文を加へて考へてみる。

「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

A:「日本の近代史を『近代化(D1)に對する適應異常(D1の至小化)の歴史』として見直す事を提案する」(『適應異常について』)。

B:(彼我の差を認めないとは)『(場への)距離感の喪失(D1の至小化)(Eの至小化)』にほかなりません。私はあくまで西歐の生きかた(二元論文化)と私たち(一元的文化)との間の距離を認識しろ(彼我の差をはつきり認めること:D1の至大化=so called:Eの至大化といつてゐるのです。眼前にある西歐(C’場)を、それに追ひつかねばならぬもの(近代化D1)、あるいは追ひつけるものとして眺めることはまちがつてゐます。まず異質なもの(つまり、二元論文化對一元的文化と言ふ『文化の差』なのだと言ふ事。但し文化そのものには優劣はないと)としてとらへ、位置づけすること、さうすること(『彼我の差をはつきり認めること』:D1の至大化)によつて『日本および日本人』の獨立(文化の獨立)が可能になるでせう。それ(『彼我の差』認識)を日本人の個人主義の成立とみなす」。」(『日本および日本人』)。

 

拙發表文精神の政治學としての近代化」について。より 「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

C:場( 西歐C’)から生ずる、「關係(D1)と稱する實在物(近代化=ハードウェアは、潜在的には一つの言葉(F:技術や社會制度言葉、即ち機械化・組織化・劃一化・合理化等々のハードウェア)によつて表し得る」。故にその言葉(F)との附合ひ方(ソフトウェアSo calledの適應能力Eの至大化)即ち言葉の用法」「自分と言葉との距離測定によつて、人間は場との關係の適應正常化(D1の非沈湎)が叶へられる、と言ふ事になる。即ち「Eの至大化(適正化)=D1の至大化(適應正常化・非沈湎)」と言ふ事になる。(全七P300『せりふと動き』文應用)。

尚、是を逆にすると、以下の通り。

D:「近代化實在物:D1)の必要條件は技術や社會制度潜在的言葉:F)など、所謂『ハードウェア』のメカナイゼーション(機械化)、システマライゼーション(組織化)、コンフォーマライゼーション(劃一化)、ラショナライゼーション(合理化)等々の所謂近代化潜在的言葉:F)に對處する精神の政治學の確立(E)、即ち所謂『ソフトウェア』附合ひ方E:So calledの適應能力(Eの至大化)にある」(『醒めて踊れ』)。

と言ふ事で、上枠文を加へて考へると、以下の樣になる。

①明治維新から今日迄「近代化(西歐近代)適應異常」(D1の至小化)は續いてゐると言ふ事。

②「近代化(西歐近代)適應異常」(D1の至小化)は、近代化諸概念(F:二元論・個人主義・自然主義・民主主義・機械化・組織化・劃一化・合理化等々)をso called(「神の解體と變形と抽象化」等)と出來なかつた事(言葉への距離感缺如:Eの至小化)に原因がある。即ち「Eの至小化」による「D1の至小化」と言ふ事。

③近代化諸概念(F)を「so called」出來なかつた(言葉Fへの距離感缺如:Eの至小化)事が、西歐近代( C‘)との「彼我の差をはつきり認めること(D1の至大化)」が出來なかつた事を示してゐる。恆存評論に據れば、日本人は「科學製品(A)の輸入」で事足りて、「科學精神(B)の移植」(「洋魂を和魂で捉へる」)が出來なかつた、その事自體が大いなる「彼我の差」(距離感=D1の至大化)なのに、其處に「彼我の差をはつきり認めること(D1の至大化)」が出來なかつた。物質的西歐近代(科學製品(A)の輸入)にだけ「沈湎(D1の至小化)」してしまつてゐたからである。即ち物質的西歐近代にだけ「彼我の差を強烈に」感じ眞似ようとしたのである。明治の「文明開化」は物質面(A)で彼我の差は強烈に感じたが、「和魂洋才」の文句が邪魔となり精神面(B)では彼我の差を強烈に感じられなかつたのである(參照:拙發表文《恆存の「和魂洋才」批判について》。近代化諸概念(F)に「言葉への距離感」をはつきり認め(強烈に感じられ=Eの至大化)てゐれば、近代化適應異常(D1の至小化)は起こさずに濟んだのであると存ずる(上枠文C&D參照)。尚それを證左する恆存文は以下である。

「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

「近代戰(F)に馴れない(not so called=Eの至小化)人間(即ち「祓ひ清めて和に達する」と言ふ異質なso called手段を持つ人間)が近代的戰爭(F)に手を出した結果が、殘虐不法な戰

爭を招來し(似而非近代性=近代化適應異常=D1の至小化)、國家主義(F)に馴れない(not so called=Eの至小化)國家が國家主義をまなんで超國家主義(似而非近代性=近代化適應異常)になつた。同樣に、権利義務の契約(Eの至大化)にもとづく個人主義(F)に馴れない(not so called=Eの至小化)人間が、その制度(F)や法律(F)を移入すれば、それはたんなる利己主義を助長する(Eの至小化=D1の至小化)にしか役だたぬのです」(『日本および日本人』P192上)。⇒參照圖「近現日本の混亂」hibunka2.pdf へのリンク

 この問題を凝視すると、今日においても、恆存の言ふ「西歐の生きかた(二元論文化)と私たち(一元的文化)との間の距離を認識しろ」、つまり「彼我の差をはつきり認めること(D1の至大化)=so called(距離感把握:Eの至大化)」は、未だ克服出來てゐないと小生は判斷するのである。

 「明治の初め」も「戦後の初期」も、かかる「so called(言葉Fへの距離感把握:Eの至大化)缺如による彼我の差認識(D1の至大化)缺如」があり、それが今日も同樣、繼續してゐると存ずる。故に「近代化適應異常」繼續中なのである。是ぞまさしく、設問⑥:「今日の我々に 痛切な課題」と言へるのではなからうか。そして「課題」のもう一つは、やはり近代化適應異常に歸因する、先般レジュメ探究の以下枠文『形骸化した和』(なあなあ主義)なのではと。

〔型喪失(形骸化した和)による、二種の「not so colled(Eの至小化)」とその末路〕

 

恆存は言ふ。「近代化の實績を擧げた」犧牲として「日本人固有の文化」の衰退(喪失)が支拂はれたと(全六『教育改革に關し首相に訴ふ』から)。

是はつまり、日本は物質的近代化だけで「精神の近代化」が出來なかつたと言ふ意味を持ち、その爲、この近代化(西歐近代への)適應異常が、文化衰退を招いたと言ふ事を示してゐる。

近代化適應異常が齎した文化衰退、換言すれば自國の「歴史(C)への適應異常」(D1の至小化)は、型喪失(形骸化した和:Eの至小化)と言ふ、以下二項目の「not so colled(Eの至小化)」を招いた。

1.和」最優先による、「近代化諸概念」(言論の自由F・理念論爭F・政策論爭F・間接民主制選擧F)へのnot so colled 。⇒「更なる近代的適應異常(D1の至小化)」。

2和」最優先による、「非文化的諸概念」(F:既成概念的和・なあなあ・自己欺瞞・不正(不法)・非倫理・不道義・情治(非法治)等)へのnot so colled。⇒「更なる文化衰退(野蠻化=非近代化:D1の至小化)」。⇒「現代日本人の非倫理的性格」の更進。

 

餘談〔恆存の明治觀について〕(河出書房新社:雑誌総編輯『福田恆存』P63、から)

新保祐司は、簡略ではあるが自身の明治觀を以下の如く述べてゐる。

*「明治の精神とはクリスト教に眞つ向からぶつかつた精神」(河出書房新社:雑誌総編輯『福田恆存』P63)。

*「明治を愛慕」(h30.1.1「産經新聞:正論新春對談」)。

上記の明治觀から、恆存の記述「もう一度明治の精神に立ち返つて見る必要、クリスト教に眞つ向からぶつかつてみる必要」(『個人主義からの逃避』)を評價してゐる。

だが、其處にはどうも彼の我田引水的「誤讀」がある樣に小生には見受けられる。

恆存が言ふ「もう一度明治の精神に立ち返つて見る必要、クリスト教に眞つ向からぶつかつてみる必要」について、別評論『近代日本文學の系譜』や他評論の同類的文章を探つてみると、以下の樣な記述(概略)を知る事が出來る。

「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

*「ヨーロッパ近代文學の影響とクリスト教の感化とのもとに出發したわが國の自然主義作家達」全一P19)ですら、結局は「西歐自然主義(F:近代化概念)」への距離感把握(so called:Eの至大化)は出來なかつたと恆存は言つてゐるのである。他のジャンルと同樣に、not so colled(Eの至小化)によつて、文學的「近代化適應異常」(D1の至小化)を招いたと。

 つまり是は何を示すかと言へば、「クリスト教の感化とのもとに出發したわが國の自然主義」(その意味で「クリスト教に眞つ向からぶつかつて」の「明治の精神」)ではあつたが、そのぶつかつた甲斐なく、西歐の近代化即ち恆存文で言ふ、「近代ヨーロッパは神を見失つた――が、それはただ神の解體と變形と抽象化とを意味するに過ぎぬ」(『近代の宿命』全二P466)なる意味を彼等は結局は咀嚼できず、それ故に、クリスト教(洋魂)にも「not so colled(Eの至小化)による近代化適應異常(D1の至小化)」をしてしまつた、と言ふ事を示す。そして、その結果の一つが「和魂洋才」だと、別評論で恆存は言つてゐたのを記憶する。

此處(ぶつかつたが適應異常)を、新保祐司(「明治を愛慕」)は讀み違へてゐるのではなからうか、と小生は思ふのである。

*更に言ふと、新保祐司は、恆存が言ふ「絶望と希望との交錯のうちにただ静止」(『近代の宿命』全二P468)に對して以下の様に捉へてゐる。

「 」内が新保文。( )内は吉野注。

 

*「福田の精神の特徴として、エラン・ヴィタール(生の飛躍)が稀薄なように感じられる。福田のあの、静力學的な文體は、それを象徴してゐる」

*「『静止』した『精神』には、エラン・ヴィタール(生の飛躍)が到來しないからである」

P63:雑誌総編輯『福田恆存』)。

此處も、彼は誤讀してゐるのではと小生には思へる。

恆存が言ふ「静止」とは、「『彼我の差』を捉へろ(D1の至大化)=so called(距離的把握:Eの至大化)をしろ」と言つてゐるのだと、小生には解釋できるのだが。

以上の點から、新保祐司の「明治を愛慕」、及び渡辺利夫の「明治を愛慕」(「産經新聞:正論新春對談」)には、どうも小生は違和感を禁じ得ないのである。

因みに、恆存が「和魂洋才」と否定してゐる「福沢諭吉」を、新保はP6:雑誌総編輯『福田恆存』」上では「和魂洋才」を否定しながらも、「産經新聞:正論新春對談」上では「福沢諭吉」を肯定してゐる(渡辺も然り)。多分「和魂洋才」とは判斷してゐないのであらう。

 

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