平成二十九年某月某日
吉野櫻雲
『日本および日本人』
今囘當評論を讀んで、「『醒めて踊れ』全七P393上」文」への、恆存の思想的展開を、小生は濃厚に感じることが出來た。
尚、今まで勝手な推量(獨り合點)等で、不明確であつた内容に、今般一應目端がついたので、以下先述する。そしてその探究に、「『醒めて踊れ』全七P393上」文の△構圖が適用できるのを強く認識させられたのであつた。⇒參照圖「ハードウェア&ソフトウェアsoftware.pdf へのリンク」
更に詳しくは、下項〔難解又は重要文〕を參照されたし。
〔今囘、解り得たこと〕
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 ①「現代日本人の非倫理的性格」(全三P78『個人と社會』)は、以下原因から發生してゐるのであると今囘、解り得た。⇒參照圖「祓ひ清めて和に達するharaikiyomete.pdf へのリンク」 ・・・「(戰後の眼に見える絶對者喪失による)相對主義の泥沼」+(戰後の日本文化D1の衰退による)美感・美意識Eの希薄化・摩耗」。 尚、是を檢證する材料としては以下を参照されたし。 *參照⇒「日本人は封建時代に、現實的な絶對者をもつてゐました。それが明治になつてから天皇制に切りかへられた。そして戰後はさういふ(現實的な眼に見える)絶對者を一氣に投げすててしまつたのです。現在の私たちは單純な相對主義の泥沼のなかにゐる(『日本および日本人』全三P198)」。 *參照⇒「もともと明確な宗教意識をもたなかつた日本人は、ことに明治以後、儒教とその實踐的表現である武士道もあいまひになり、國民的道義の歸趨を失つた(BC喪失=「無限定性の自己」)といふことができる。わずかに教育勅語がその空白を埋めてゐました。その道德的空白感は戰後(天皇と言ふ「現實的な絶對者」喪失の爲)とくにひどくなり、若い世代のあひだには、なにを善とし、なにを惡とするかの基準が、いひかへれば、なにごとにせよ、してはいけない理由が失はれたといふ。たしかに、かれらは一種の病的合理主義にとらはれてをりました」(P175上)。つまり「なにが惡でも、なにが善でもないといふ現代日本人の非倫理的性格」(全三P78『個人と社會』)の出現を恆存は此處で指摘してゐるのであらう。 *參照⇒「私は、日本人のさういふ美感〔「調和の美感」即ち「祓ひ清めて和に達する」(儀式E: 美的潔癖⇒和)といふ態度〕が、明治以來、徐々に荒らされていく(上述①の如く、美感の希薄化は、戰後は更に酷しと恆存は見てゐると思ふ)のを殘念におもふと同時に、またそれだけが頼るべき唯一のものであり、再出發のための最低の段階であると信じてをります。日本人に『罪惡』の問題を識別する抽象化の能力が缺けてゐることはたしかであり、それが調和を愛する感覺的美感〔「祓ひ清めて和に達する」(儀式E:美的潔癖⇒和)といふ態度〕によつて助長されてゐる(短所)こともまた疑ひの餘地のないところですが、さればといつて、これ〔美感即ち「祓ひ清めて和に達する」(儀式E:美的潔癖⇒和)といふ態度〕を土臺としないかぎり、わたしたちは動きがとれないのです(希薄化しても唯一の再出發の手懸かりと言ふ事か)。第一、それを無視して押しつけてくる抽象的觀念(ネオ漢語等)といふものにたいして、私たちの美感は、そもそもそれを歪んでゐるものと見なすでせう」(P176)。 恆存は、「日本人のさういふ美感」が、長所・短所(傍線部分)併せ持つ事をはつきり認識して、西歐近代(近代化)適應には、以下②の如く「彼我の差をはつきり認めること(Eの至大化)」と提言するのである。「彼我の差」認識の前の「我」認識と言ふ事であらうか。 ②「彼我の差をはつきり認めること(Eの至大化)」とは、「so called」と言ふ事に今囘、解り得た。 ・・・「(彼我の差を認めないとは)『距離感の喪失(Eの至小化)』にほかなりません。私はあくまで西歐の生きかた(二元論文化)と私たち(一元的文化)との間の距離を認識しろ(「彼我の差をはつきり認めること」=so called)といつてゐるのです。眼前にある西歐(C’場)を、それに追ひつかねばならぬもの(近代化D1)、あるいは追ひつけるものとして眺めることはまちがつてゐます。まず異質なもの(つまり、二元論文化對一元的文化と言ふ『文化の差』なのだと言ふ事。但し文化そのものには優劣はないと)としてとらへ、位置づけすること、さうすること(『彼我の差をはつきり認めること』)によつて『日本および日本人』の獨立(文化の獨立)が可能になるでせう。それ(『彼我の差』認識)を日本人の個人主義の成立とみなす」。⇒參照〔難解又は重要文〕P204下 そして、恆存は「彼我の差をはつきり認めること(Eの至大化)」の手立てとして、長短併せ持つ美感美意識の長所(以下枠文章群)を重要視し、「それだけが頼るべき唯一のものであり、再出發のための最低の段階であると信じてをります」と指摘してゐるのだと思へる。何故なら、「日本人の『きれいずき』と『贅澤』とが日本人の性格を根強く支配してゐる」(P173上)からである。
是等が「日本人の性格を根強く支配してゐる」(P173上)事を認めるが故に、恆存は「潔癖の美學(樣式:Eの至大化)」を、以下の樣に應用かつ展開する事を更に提言するのである。
しかしながらこの美感は、「自分(日本)と遠い距離(西歐近代)にあつて」、本來出來得ないもの(近代的戰爭・國家主義・個人主義・絶對者・等)までも、「E儀式(美的潔癖「祓ひ清めて」⇒和)」の對象にしてしまふ危險性(短所)を内在してゐるのだ。であるから、その過去の轍に踏み込まぬ方法論として、以下④の「『醒めて踊れ』全七P393上」文を、二十一年後にして、更に詳しく恆存は提言してゐる。とその樣に小生には聞こえるのである。⇒參照〔難解又は重要文〕P202下 ③「對象(F)との距離感の喪失(Eの至小化)」原因とは・・・「何にでもべたべた引つ付く自他未分の神道的生活態度」で、以下Ⅰ・Ⅱの近代化(西歐近代)適應をせんとした事を指す、と言ふ事に今囘、解り得た。 Ⅰ.「自分と遠い距離(西歐近代)にあつて」、本來出來得ないもの(近代的戰爭・國家主義・個人主義・絶對者・等)までも、「E儀式(美的潔癖「祓ひ清めて」⇒和)」の對象にしてしまつた事(P192上)。⇒參照圖「ハードウェア&ソフトウェアsoftware.pdf へのリンク」 つまり換言すれば、「祓ひ清めること(儀式E)によつて、その支配下から脱するといふ態度からは、いかなる科學(實證精神:A‘⇒A)も發達しなかつたのですが、同樣に、エゴイズム(A)を醜しとして却け、それを(AをF化し)祓ひ清めて和に達する(儀式E:美的潔癖⇒和)といふ態度(非實證精神・非客體化的行爲:NOT「A‘⇒A」)から、道德(B)の問題も、社會(A’⇒A:客體化)の問題も発生する餘地はありませんでした」(『日本および日本人』全三P181)。⇒參照圖「祓ひ清めて和に達するharaikiyomete.pdf へのリンク」 Ⅱ.護符(C2)としてべたべた「觀念を信奉する気持ち」・・・「明治以來の知識階級が、西歐思想(護符)のまへに頭をさげたのと同じ」「容易に自我を棄てる道に突き走る心理」もまた「距離感の喪失(Eの至小化)」なのであると。⇒參照圖「彼我の差higanosa.sozai.pdf へのリンク」左圖 ④「對象との距離感の喪失」P202以下文について。 *「それぞれの思想(F)がいかに自分と遠い距離あるか見分けがつかず(Eの至小化)、やはり、べたべたとそれに膠着してしまふのです。それらを、自分が欲してゐたものとおなじものだとおもひこんでしまふ。自分とのちがひに氣づき、自分との間に一線を引き、それが自分の肌にべたりと貼りついてくるのを却けながら、しかもそれを操るといふことを知らない」の文章は、以下『醒めて踊れ』文に繋がるのだと言ふ事に今囘、解り得た。
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と言ふ事で、今評論も中々の難解にしてかつ手ごはく、そしてどの文章も重要なのであるが、特に以下内容文を此處に取り上げる事とする。更にいつもの如く難解なる内容については、手助けを他評論に仰ぐこととする。
〔四 「みえ」といふこと〕
〔難解又は重要文〕P181上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「日本人には、なぜいはゆる社會意識(A’⇒A:客體化)も道徳觀(B⇒C)も存在しないのか。その理由は前章にも述べたやうに、私たちの美意識のなかにひそんでをります。私たちの祖先は、死や病ひと同樣に、我(A)を、エゴイズム(A)を、このうへない醜いものとして却けてきたのであります。死や病ひを醜いものとして却け、それを祓ひ清める(儀式E)ことによつて、その支配下から脱するといふ態度からは、いかなる科學(實證精神:A‘⇒A)も發達しなかつたのですが、同樣に、エゴイズム(A)を醜しとして却け、それを祓ひ清めて和に達する(儀式E:美的潔癖⇒和)といふ態度(非實證精神・非客體的行爲)から、道德(B⇒C)の問題も、社會(A’⇒A:社會化客體化)の問題も発生する餘地はありませんでした。(⇒參照圖「彼我の差higanosa.sozai.pdf へのリンク」)
私たちの祖先にとつて、道德(B⇒C)も、そのもとにあるすべての人間關係(D1)も、けつして精神(B)の問題ではなく、眼に見える物(A或いはF)の問題であり、儀式(E)によつて律しうる形(E)の問題(Fは儀式Eの至大化で片附ける。相對的處理の問題)だつたのです」。
・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして更には以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。
つまり「祓ひ清めて和に達する(儀式E:美的潔癖⇒和)」からは、道德の問題(B⇒C)は發生しないと言ふ事。「日本人の長所である美意識を基準にした對人關係」からは、むしろ「道徳的・社會的良心の缺如」(P184)が生じると言つてゐるのである。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 〔以下、流れ「近代⇒戰後⇒現代」の發生〕 *「理想人間像(C:自他への否定因・超自然の絶對者といふ觀念)をもたぬといふこと――この事實こそぼくたち近代日本人の悲劇」(『私小説的現實について』P574上)⇒(眼に見える)絶對者喪失による戰後日本人の「相對主義の泥沼」(當評論)⇒加へて美意識(E)摩耗が招く「現代日本人の非倫理的性格」(P78『個人と社會』)⇒「論理的潔癖(B⇒C)」よりも「家族共同體的(平面的:A’⇒A)な場(なあなあ)」が優先される(『醒めて踊れ』)。
*「自然的な、物質的な、あるいは肉體的な慾望(いずれもA:相對主義的・一元論的慾望)の充足を求め、しかもそれ(相對物)以外のなにものをも慾求しない個體(相對主義の迷妄=エゴイスト)にとつて、いかなる道義も倫理(BC)もなりたたず、それはなにをしてもいいし、なにをしなくてもいい(B⇒C缺如即ちA⇔A’)のだ」(全二P472『理想人間像について』)。 *「なにが惡でも、なにが善でもないといふ現代日本人の非倫理的性格(その原因は、絶對者喪失による相對主義の泥沼+文化D1希薄が招く美意識E摩耗。と言つてゐる樣に思へる)――私の仕事のすべてはその究明に集中されてきたといつていい。平和問題(A⇔A’)も、この日本人の非倫理的性格(同上:A⇔A’)から發してゐるのです」(全三P78『個人と社會』)。 |
〔難解又は重要文〕P184下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「日本人の長所である美意識を基準にした對人關係、もう一度くはしく申しますと、善惡を突きつめて考へる道徳的、乃至は社會的良心の缺如ともいふべきものを、頭から(進歩主義者は)輕蔑してしまつたために、さうなると、積極的に維持し支持すべき心の據りどころ(長所である美意識)といふものがなくなつてしまふ。いひかへれば、日本人の理想とでもいふべきものがなくなつてしまふ。それなら善も惡もないゼロの状態(理想缺如の現實=生きてゐればいい=生命第一主義)を、そのまま善としてしまへ、まさかさう意識的ではないが、平和論が一般に受けいれられてゐる事情はその邊〔下枠文:倫理感の稀薄さ(B⇒C缺如即ちA⇔A’)と平和論(相對主義A⇔A’)がなれあひ〕にあるのではないでせうか」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして更には以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「なにが惡でも、なにが善でもないといふ現代日本人の非倫理的性格(相對主義A⇔A’)――私の仕事のすべてはその究明に集中されてきたといつていい。平和問題も、この日本人の非倫理的性格(相對主義A⇔A’)から發してゐるのです。(中略)平和といふことの華やかなことばのかげには倫理(B⇒C)の陰翳がすこしもない(即ち相對主義の世界の話と言ふこと)。ただ命が大事(相對主義A⇔A’)だといふだけです。こつちの命が大事なら向うの命も大事です(自他のエゴイズムの張り合ひ)。向うも生き殘るつもりでやつてゐる。なにをかいはんやであります。個人の生命より大事なものはないといふ生きかたは、究極には自他のエゴイズムを容認することになる。個人が死ぬにたるもの(C)がなくては、個人の生(A+B)の喜びすらないのです。相對主義の考へかた(個人の生命より大事なものはないといふ生きかた)では、どうしても、そこ(自他のエゴイズムを容認すること)から脱け出られません。それが積極的な理想にまで高まるには、個人倫理の絶對性(B⇒C)と相ふれなければならぬのです。(中略)さらにまづいのは倫理感の稀薄さ(B⇒C缺如即ちA⇔A’:善も惡もないゼロの状態)と平和論(相對主義A⇔A’:生きてゐればいい=生命第一主義)がなれあひになるといふ事實です」(全三P78『個人と社會』)。 |
〔五 和といふこと〕
〔難解又は重要文〕P186下~187上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
①「對人關係(D1)において、他人のおもはくを氣にする『みえ』(E)は、いはば仲間うちの秩序意識であつて、それが私たちの祖先のあひだでは、道德(B)の代用をしてゐたのに他なりません」。
②「日本人は特有な美意識を發達させました。それは、いはば潔癖の美學(E)とでもいふべきものであります。穢れを祓ふ(Eの至大化)といふこと、汚れてゐない素の状態、無地の美しさを、最高の美とする。そして、この美意識は、たんに形あるものについてばかりでなく、無形の人間關係(D1)にもおよんでゐます。人間關係(D1)を規制する倫理感(B)も、つまりはこの潔癖の美學(E)によつて支配されてゐる(Eの至大化)のです。『みえ』(潔癖の美學=E)もそこから生じたものです。したがつて、強い自我意識(A)といふものが形成されにくい状態(非人格性)にある」。
・・・①とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして更には以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。即ち「倫理感」も以下文の道德(B)同樣なのであると言はんとしてゐるのである。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「私たちの祖先にとつて、道德(B)も、そのもとにあるすべての人間關係(D1)も、けつして精神(B)の問題ではなく、眼に見える物(F)の問題であり、儀式(E)によつて律しうる形(E)の問題(FはEの至大化、「祓ひ清めの樣式」で片附ける。相對的處理の問題)だつたのです」(P184)。 |
で、小生は、此處でも恆存の「演劇論」(以下枠文)が適用されると思へて來るのである。
つまり、「『對人關係(D1實在物)は、潜在的には言葉(F:道德・倫理感)によつて表し得る』。故にその言葉(F)との附合ひ方(儀式=So called=Eの至大化)によつて、人間は場との關係の適應正常化(D1の至大化)が叶へられる」と。さうした儀式的處理(穢れを祓ふ=Eの至大化)によつて、西歐近代(近代化)への適應を日本は濟ませてしまつたのである、と當評論で恆存は言つてゐる樣に聞こえる。
⇒參照圖「祓ひ清めて和に達するharaikiyomete.pdf へのリンク」
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全七P300『せりふと動き』より 「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *場( C’)から生ずる、「關係(D1)と稱する實在物は、潜在的には一つのせりふ(F:言葉)によつて表し得る」。故にその言葉との附合ひ方(フレイジング・So called:E)によつて、人間は場との關係の適應正常化が叶へられる(傍線部分小生の説明的加筆)。 |
〔難解又は重要文〕P188下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「一口にいふと、日本人は美的に潔癖であるかはりに、思想的には、あるひは論理的には潔癖でない(實證精神の缺如)のです。もつと嚴密にいへば、形式的美感(儀式的Eの至大化)に潔癖でありすぎたために、思想的に潔癖でないこと(實證的「Eの至大化」の缺如)を、さほど氣にしなかつたのです」・・・此處は重要文として記載した。
〔難解又は重要文〕P189下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「現代日本の混亂は、かういふふうに和合(日本的Eの至大化)と美(日本的Eの至大化)とを生活の原理(儀式樣式Eを生活の原理)とする民族が、能率や権利義務(西歐的Eの至大化)を生活の原理とする西洋人の思想(個人主義F)と制度(F)を受け入れたことから生じてゐるのです」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。
つまり、「西洋人の思想(個人主義等F)と制度(F)」を、それをso called(精神の政治學:Eの至大化)するに、西歐の方法論(西歐的Eの至大化:「能率や権利義務」)ではなく、日本的方法論「和合(日本的Eの至大化)と美(日本的Eの至大化)」で對應してしまつたと言ふ混亂を、是は指してゐる
。⇒參照圖「ハードウェア&ソフトウェアsoftware.pdf へのリンク」&「祓ひ清めて和に達するharaikiyomete.pdf へのリンク」
更に追論すれば、恆存は、美感・美意識は長所短所「表裏一對」なのだと言つてゐる樣に思へる。この「現代日本の混亂」は、日本人の美感・美意識の短所(「對象との距離感の缺如」:P199)が出た事が原因となつて、西歐との「彼我の差をはつきり認めること(Eの至大化)」が出來なくなつたのだ。と、さう恆存は謂はんとしてゐる樣に小生には思へる。
であるから、この混亂を避け、即ち適應正常化の爲には以下枠文の方法論が必要なのだと。しかし、以下の文章が書面に載るのはだいぶ先(二十一年後の昭和五十一年:六十五歳)となる。この評論『日本および日本人』では、主題としての「彼我の差をはつきり認めること(Eの至大化)」及び「西歐の生きかた(二元論文化)と私たち(一元的文化)との間の距離を認識しろ(P204)」に留まつてゐる。それは以下枠文「自分と言葉との距離が測定」云々と同質文ではあるが・・。
この主題的時差なるものは、恆存思想の「演劇論と文明論との結實」には未だし、更なる時間の猶豫が必要であつたのだと見るか、それともこの評論では其處までの記載は不必要と斷定したのか、それは定かならぬのではあるが。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「近代化(實在物:D1)の必要條件は技術や社會制度(潜在的言葉:F)など、所謂『ハードウェア』のメカナイゼーション(F機械化)、システマライゼーション(F組織化)、コンフォーマライゼーション(F劃一化)、ラショナライゼーション(F合理化)等々の所謂近代化(潜在的言葉:F)に對處する精神の政治學(Eの至大化)の確立、即ち所謂『ソフトウェア』の適應能力(Eの至大化・ 附合ひ方・So called )にある。 マルクスの言ふ疎外は何も資本主義社會特有のものではなく、共産主義社會、全体主義社會にも生ずるものであり、また有史以來その度を増して來たものである。それ(近代化D1)に對應する方法は言葉や概念(F)に囚れず、逆にこれを利用すること、即ち言葉の用法(E)にすべてが懸つてゐる(言葉の自己所有化?)。自分と言葉との距離が測定(Eの測定=Eの至大化)出來ぬ人間は近代人ではない。いや人間ではない」(『醒めて踊れ』全七P393上)。(二十一年後の昭和五十一年:六十五歳) |
〔難解又は重要文〕P191下~2上&194上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
①「近代日本の弱點は、その封建制にもとづくものではなく、ひとへにその似而非(えせ)近代性にもとづくものなのであります。つまり性急な近代化、無批判的な近代化、そこに混亂の原因があるのです。けつして封建日本の、あるいは日本人固有の弱點ではありません。そのことをもっと本質的にいへば、(中略)まだまだ西洋の近代といふものの正體を眞につかんでゐないといふことになります」。
・・・文中「その似而非(えせ)近代性にもとづくものなのであります。つまり性急な近代化、無批判的な近代化、そこに混亂の原因がある」とは、何を言はんとしてゐるのであらうか。以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。つまり「彼我の差喪失=對象との距離感の喪失=not so colled」が、「性急な近代化、無批判的な近代化」を代言してゐるのである。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「對象(西歐封建制)との距離感の喪失」、つまり「この二つの世界の封建制の差を無視(「彼我の差」喪失=對象との距離感の喪失=not so colled=Eの至小化)して、近代を語ることはできますまい。この「對象との距離感の喪失(Eの至小化=D1の至小化)を、私たち日本人の弱點と見なさざるをえない」(P202下)。 |
(更に以下へ續く)
〔吉野注:以下②~⑦は、以下枠文の日本人の習性、つまり「和を原理とする仲間うちの生活習慣」及び「眼に見える物(A或いはF)の問題」が禍ひとなつた、近代化(西歐近代)適應異常を示すのでは?〕⇒參照圖「祓ひ清めて和に達するharaikiyomete.pdf へのリンク」(P181)
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『日本および日本人』(P181)「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「私たちの祖先にとつて、道德(B)も、そのもとにあるすべての人間關係(D1)も、けつして精神(B)の問題ではなく、眼に見える物(A或いはF)の問題であり、儀式(E)によつて律しうる形(E)の問題(FはEの至大化で片附ける。相對的處理の問題)だつたのです」。 〔即ち、「祓ひ清めて和に達する(儀式E:美的潔癖⇒和)」からは道德の問題B⇒Cは發生しないと言ふ事〕⇒即ち倫理・道義の缺如と言ふ事〕。 |
②「それ(日本兵の常識を逸した殘虐行爲)は和を原理とする仲間うちの生活習慣と矛盾しない。戰爭(F)が利害のかけひきの手段であり、結果であるといふ近代的な考へかたにかれらは馴れてゐないのだ」(P191下)。
③「超ナショナリズムといふのもやはりそれで、先進國の植民地獲得の合法的なルールを無視してやつたのがいけないので、結局はナショナリズム(F)になれてゐないのだ」(P192上)。
④「近代戰(F)に馴れない(not so called=Eの至小化)人間(即ち「和を原理とする」=異質な so called手段を持つ人間)が近代的戰爭(F)に手を出した結果が、殘虐不法な戰爭を招來し(似而非近代性=近代化適應異常)、國家主義(F)に馴れない(not so called=Eの至小化)國家が國家主義をまなんで超國家主義(似而非近代性=近代化適應異常)になつた。同樣に、権利義務の契約(Eの至大化)にもとづく個人主義(F)に馴れない(not so called=Eの至小化)人間が、その制度(F)や法律(F)を移入すれば、それはたんなる利己主義を助長する(似而非近代性=近代化適應異常)にしか役だたぬのです。がその利己主義をそのまま日本人の封建的性格と見なすことは誤りですし、さういふ性急さこそ、日本の眞の近代化を妨げてきたのであります」(P192上)。
⑤「天皇は神であるといふとき、その神は、すでに日本流の神でもなければ、さうかといつてクリスト教的な神でもありません。それが、無意識のうちに、西洋流の神(F)に對抗し、それに牽制されて(Fへのnot so called=Eの至小化)、なんとなく絶對者のやうな色彩をおびてきた(似而非近代性=近代化適應異常)のであります。(中略)、(上述の)國家主義でもないものが超國家主義的相貌を呈してくる(似而非近代性=近代化適應異常)。それと同樣に絶對者でもないもの(天皇)が、超絶的な風貌(似而非近代性=近代化適應異常)を呈してくる(即ちクリスト教「絶對神」への適應異常)」(P194上)。
⑥「明治になつて、絶對者(C)の思想(クリスト教精神)を根柢にひめた西洋の思想、文物、人間にぶつかつてみると、對抗上、どうしても絶對者(C)が必要になつてくる。しかも、日本にはそれがないから、なにか手近なものにそれを求めようとする。天皇制もそれですし、プロレタリアートもそれです。元來、絶對(C)ではないもの(相對物)を絶對と見なさうとする」(P194上)。
⇒參照圖「ハードウェア&ソフトウェアsoftware.pdf へのリンク」&「祓ひ清めて和に達するharaikiyomete.pdf へのリンク」
⑦「封建時代の日本人は絶對者といふ觀念(觀念上の絶對C)を、まつたく知らなかつた(つまり眼に見える絶對者としての「領主・お上」しか知らなかつた)のです。その反對に、西洋の封建時代は、絶對者の觀念(觀念上の絶對C)が徹底的に支配した時代であります。この二つの世界の封建制の差を無視(「彼我の差」喪失=對象との距離感の喪失=not so colled=Eの至小化)して、近代を語ることはできますまい」(P194下)(參照⇒關聯文P204)。
・・・上記の七項目とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「注」が煩はしくなつてしまつたが、明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして更には以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。特に向後の評論『醒めて踊れ』(全七P393上)文は、上文を明澄に補足するに餘りあるものがある、と小生には思へる。⇒參照圖「ハードウェア&ソフトウェアsoftware.pdf へのリンク」
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*「日本の近代史を『近代化に對する適應異常の歴史』として見直す事を提案する」(『適應異常について』)。 拙發表文:「『精神の政治學としての近代化』について」より「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
上記は、特に傍線部分は何を言はんとしてゐるのであらうか。恆存は、以下の演劇論を此處に適用(敷衍?)してゐるかに思へる。(さう言へば恆存は「自分の評論は演劇的方法を應用してゐる」云々の樣な文を何處かで書いてゐた樣な記憶がある。不確かだが。)
よつて前文を此處に當て嵌めるとかうなる。
即ち、西歐(場C”)との關係(宿命D1)として齎された「近代化D1」への適應を、新漢語・外來語(F)の用法(E:So called)で、適應正常的關係に「形ある『物』として見せる」(Eの至大化)。それがハードウェアとしての近代化(D1及びF:機械化・組織化・劃一化・合理化等々)に對するソフトウェア(精神の政治學)としての對處方法なのであると 正しく恆存文に從ふと「言葉と話し手との間に距離を保ち、距離を絶えず變化させ得る能力(Eの至大化適正化)がなければいけない。さういふ能力(フレイジング・So calledによる適應能力)こそ、精神の政治學としての近代化といふものなのである」。であるからして、それが「出來ぬ人間は近代人ではない」と言ふ事になる。(參照:下欄發表文②)(「形ある『物』として見せる」云々は⇒參照:下欄「演劇論⑤) 更に恆存は、「それ(近代化や疎外)に對應する方法は(機械化・組織化等々の)言葉や概念に囚れず、逆にこれを利用すること、即ち言葉の用法にすべてが懸つてゐる。自分と言葉との距離が測定出來」る樣にする事と述べてゐる。つまり距離測定と言ふ「言葉の用法=So called」で、「近代化や疎外」と言ふ關係(D1)への適應を、適應正常的關係に「形ある『物』として見せる」と言ふ事である(即ち、Eの至大化でD1の至大化を圖る事)。「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 |
〔難解又は重要文〕P197~9「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「この(相對世界の)否定と絶望を肯定と希望とに切りかへたのがクリストであり、ゲルマン民族のカトリシズムでありませう」(P197『日本および日本人』)。
*「文明の進歩(近代化もそれ)の擔ひ手は、絶對者を信じたゲルマン民族(の生き方・生活の樣式E=文化D1)だつた。平面的な相對主義(の生き方・生活の樣式E=文化D1)からは進歩は出てまゐりません」(P198『日本および日本人』)。
*「かういふ(相對と絶對:現實と理想)二元論的人生態度(生き方E=文化D1)は、中世のカトリシズムによつて完成されたものでせう。その源であるユダヤ教にはもちろん無かつたものですし、イエスの思想そのものにも充分に現れてゐたとは言へない。それはあくまでゲルマン民族によつて完成された世界觀(生き方・生活の樣式E=文化D1)であります」(全三P199『日本および日本人』)
・・・上記三項目とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。尚、以下内容と深く關聯するものがあるので參照されたし。
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http://www.geocities.jp/sakuhinron/page127.html 拙發表文:「近代化とは何か」(單行本『人間の生き方、ものの考へ方』P70より) *〔「近代化」の精神史的意義〕 〔難解又は重要文〕P86~「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 |
〔難解又は重要文〕P198上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「日本人は封建時代に、現實的な絶對者をもつてゐました。それが明治になつてから天皇制に切りかへられた。そして戰後はさういふ絶對者を一氣に投げすててしまつたのです。現在の私たちは單純な相對主義の泥沼のなかにゐる。なほ惡いことに、私たちはそれを泥沼とは感じてゐない。たいていの人が相對主義で解決がつくとおもつてゐます。が、私は戰後の混亂のほとんどすべてが、この平板な相對主義の悪循環から生じてゐるとおもひます。(中略)超自然の絶對者(C)といふ觀念のないところ(即ち相對主義)では、どんな思想も主張も(平和の主張も)、たとへそれが全世界を救ふやうな看板をかかげてゐても、所詮はエゴイズム(相對「A’⇔A」の産物としてのエゴイズム)にすぎないといふことを自覺していただきたい」(『所詮はエゴイズムにすぎない』とは、相對主義の中「A’⇔A」ではエゴイズム否定ができないと言ふ事。つまり『ある人間のエゴを否定する爲に他の人間のエゴをもちだしてくる』『平板な相對主義の悪循環』となるだけだから。P198)・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして更には以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。
即ちこの文章は、『近代の宿命』で言ふ「神(C絶對者)なくして個人の権利を主張し得ない。それを敢へてするは惡徳(相對的エゴイズムの悪循環=「平板な相對主義の悪循環」)である」に通じる。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「超自然の絶對者(C)といふ觀念のないところ(即ち相對主義)では、どんな思想も主張も(平和の主張も)、たとへそれが全世界を救ふやうな看板をかかげてゐても、所詮はエゴイズム(相對の産物)にすぎない」(上文)。「個人の生命より大事なものはないといふ生きかた(つまり相對主義)は、究極には自他のエゴイズムを容認することになる。個人が死ぬにたるもの(C)がなくては、個人の生(A+B)の喜びすらないのです。のみならず、平和はたんに戰爭のない状態(相對)といふ消極的意味しかもちえない。相對主義の考へかた(個人の生命より大事なものはないといふ生きかた)では、どうしても、そこ(自他のエゴイズムを容認すること)から脱け出られません。それが積極的な理想にまで高まるには、個人倫理の絶對性(B⇒C)と相ふれなければならぬのです。(中略)さらにまづいのは倫理感の稀薄さ(B⇒C缺如即ちA⇔A’)と平和論(相對主義A⇔A’)がなれあひになるといふ事實です。」(全三P78『個人と社會』) |
〔難解又は重要文〕P199上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「いままで、我の少ない日本人はおたがひの紛爭を絶對者(C)の調停裁判(C及び代用としての法)にかけずに、談合(なあなあ=一元論)ですませてきた。それがもうきかなくなつたのです。しかもなぜさうなつたかを、大部分の人たちが自覺せずにゐる」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、上文中に小生的見解を括弧で入れてみた。
「きかなくなつた」とは、「近代化=西歐二元論文化」が這入つて來て、一元論的思考では適應出來なくなつた、即ち「對象との距離感の缺如」が原因と言ふ事ではなからうか。
そしてこの事は下項P202下及びP204下項目でも再考してゐるが、以下の消息を物語つてゐると思へる。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「對象との距離感の缺如」原因とは・・・「何にでもべたべた引つ付く自他未分の神道的生活態度」(『日本および日本人』全三P202)で、以下①②の近代化(西歐近代)適應をせんとした事に起因する。 ①「自分と遠い距離(西歐近代)にあつて」、本來出來得ない對象(近代的戰爭・國家主義・個人主義・絶對者C・等)にまでも、「E儀式(美的潔癖「祓ひ清めて」⇒和)」の對象にしてしまつた。・・・つまりこの文を換言すれば以下となる。 「祓ひ清めること(儀式E)によつて、その支配下から脱するといふ態度からは、いかなる科學(實證精神:A‘⇒A)も發達しなかつたのですが、同樣に、エゴイズム(A)を醜しとして却け、それを祓ひ清めて和に達する(儀式E:美的潔癖⇒和)といふ態度(非實證精神・非客體化的行爲:NOT「A‘⇒A」)から、道德(B)の問題も、社會(A’⇒A:客體化)の問題も発生する餘地はありませんでした」(『日本および日本人』全三P181)。 ②上文の「神道的生活態度」は、護符(C2)としてべたべた「觀念を信奉する気持ち」にも繋がつてゐるのだと・・・即ち「明治以來の知識階級が、西歐思想(護符C2)のまへに頭をさげたのと同じ」で、「容易に自我を棄てる道に突き走る心理」がそれを示してゐるのであると。⇒參照圖「彼我の差higanosa.sozai.pdf へのリンク」 |
〔難解又は重要文〕P201上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「(相對主義の世界では)隣人との縁が切れれば、その向うにゐる多數者である赤の他人とは、どうにもつながりやうがないのです。さうなれば、個人はそれぞれ孤立します。さびしくてたまらない。それに反して、もし上空の一點(C)とのつながりを得(B⇒C)さへすれば、各個人は、それぞれの隣人を飛び越えて、遠く廣く、他の多くの人間とつながること(人類愛・博愛)ができるのです(以下枠文參照「自分をも市民をもひつくるめて、ひとつの絶對(C)に支へられてゐる」)。もちろん、その一點(C)が萬人共有のもの(全體・絶對神=C)で、ひとりひとりがその點に結びつけられてゐる(B⇒C)といふ前提のもとにおいてであります。さうすれば、めいめいの個人の間に直接の線が引けなくても、上空の一點(C)を經て、どこにでもつながる(人類愛・博愛:B)可能性が出てきます。個人は平面上(A)では孤立しても、間接(B精神)には孤立してゐない(B⇒C)といふことになります。個人主義(參照圖「彼我の差」右圖)が發生しうるわけであり、また個人主義(孤獨の思想)にたへうる(「援軍を信じてゐる」から)わけでもあります」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして更には以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。
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*「フランスのレジスタンス(中略)の自我の強烈さの底には援軍を信じてゐる人々の強さがあつた。フランスの市民もさうですが、自分をも市民をもひつくるめて、ひとつの絶對(C)に支へられてゐる(B⇒C)といふことです。それはクリスト教(C)です。(中略)そのクリスト教から習慣づけられた永遠なるもの、絶對的(C)なるものへの信仰(B⇒C)であります。私たちにとつて重要なことは、それが國家意識、あるいは愛國心と結びつく(參照圖「完成せる統一體としての人格」論kanseiseru.pdf へのリンク *「眞の意味の少數派は、(中略)かれにとつて最大の問題は、自分の行動に論理の筋を通す(BC即ち、「上空の一點(C)とのつながりを得(B⇒C)さへすれば、各個人は、それぞれの隣人(部分)を飛び越えて、遠く廣く、他の多くの人間(全體)とつながる(博愛)」)といふことにあるのです。その結果、敗けても勝つても、しかたはない」(『少數派と多數派』第四巻P245)』)。 |
〔難解又は重要文〕P202下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
①「それぞれの思想がいかに自分と遠い距離あるか見分けがつかず(Eの至小化)、やはり、べたべたとそれに膠着してしまふのです。それらを、自分が考へてゐたもの、あるいは自分が欲してゐたものとおなじものだとおもひこんでしまふ。自分とのちがひに氣づき、自分との間に一線を引き、それが自分の肌にべたりと貼りついてくるのを却けながら、しかもそれを操るといふことを知らない」。
②「私は、對象との距離感の喪失(Eの至小化=D1の至小化)を、私たち日本人の弱點と見なさざるをえないのです」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。尚、是は次項目P204下と關聯する。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *上記①②文は、日本人は「自分と遠い距離(Eの至小化=D1の至小化)にあつて」、「彼我の差をはつきり認めること(so called=Eの至大化を把握する事)」(P204)が出來得ない對象にまでも、「何にでもべたべた引つ付く自他未分状態の神道的生活態度」(P202)で、近代化(西歐近代)適應をせんとした事を、是は示すのでは。 本來遠い距離の外來の觀念・思想なるものを、「日本人の長所である美意識」、つまり「E:儀式(美感『祓ひ清めて』に據る和の形成)」の對象にしてしまつた、と言ふ事なのでは。そして結局は出來得たものと錯覺してしまつた、所謂「近代化適應異常」を、やはり此處でも物語つてゐるのではなからうか。 以下の文章がそれを證左してゐる樣に思へるのである。 *「私たちの祖先にとつて、道德(B)も、そのもとにあるすべての人間關係(D1)も、けつして精神(B)の問題ではなく、眼に見える物(F)の問題であり、儀式(E)によつて律しうる形(E)の問題(FはEの至大化、「祓ひ清めの樣式」で片附ける。道徳はBCの問題ではなく相對A的處理の問題)だつたのです」(『日本および日本人』P181)。⇒參照圖「祓ひ清めて和に達するharaikiyomete.pdf へのリンク」&「近代化:ハードウェア&ソフトウェアsoftware.pdf へのリンク」 |
〔難解又は重要文〕P204下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
①「ただ彼我の差をはつきり認めること(so called=Eの至大化を把握する事)を、諸君に求めてゐるだけです。(中略)まづ自分の現實(上述〔難解又は重要文〕P202下項目他)をみること、それからさきは、ひとりひとりの道があるだけです。いや、ひとりひとりの道しかないといふことに氣づくことが、なによりも大事だとおもふのです。私がいひたいのはそれだけです。
そのために、私たちは、ほんたうの意味の個人主義(F)を身につけなければ(「彼我の差をはつきり認め」なければ)なりません。しかし、これは誤解をまねきやすいいいかたです。まはりくどくいへば、その個人主義(F)を身につける(Fに對するEの至大化=「彼我の差をはつきり認めること」)といふことも、あくまで個人主義的に(「ひとりひとりの道」で)しなければならない」。
⇒參照圖「近代化:ハードウェア&ソフトウェアsoftware.pdf へのリンク」
②「西歐を先進國として、それに追いつかう(近代化D1)といふ立場から、『アジアの前近代的な非人格性』を否定し、西歐の近代精神(西歐二元的文化が生んだ近代化精神)たる個人主義(F:D1の別名)を身につけろといふのではない。それこそ、私のいふ距離感の喪失(Eの至小化)にほかなりません。私はあくまで西歐の生きかた(二元論文化)と私たち(一元的文化)との間の距離を認識しろ(『彼我の差をはつきり認めること』=so called)といつてゐるのです。眼前にある西歐(C’場)を、それに追ひつかねばならぬもの(近代化D1)、あるいは追ひつけるものとして眺めることはまちがつてゐます。まず異質なもの(二元論文化對一元的文化と言ふ「文化の差」。但し文化には優劣はない)としてとらへ、位置づけすること、さうすること(『彼我の差をはつきり認めること』)によつて『日本および日本人』の獨立(文化の獨立)が可能になるでせう。それ(『彼我の差』認識)を日本人の個人主義の成立とみなす」。⇒參照以下枠文
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拙發表文:「近代化とは何か」(『人間の生き方、ものの考へ方』他)P86) *〔難解又は重要文〕P83~ で言ふ、「西洋(場C’)の文化(D1:クリスト教文化)が今の近代化といふ一つの歴史的必然性を生み出してゐる」と讀む事が可能である。「西洋の文化(D1)=(E)西歐の生き方・生活の樣式(即ち二元論)」と言ふ、「質の差」そのものが形成した歴史的必然性と言へる。恆存が上述する「クリスト教の絶對神による『統一性と一貫性との意識が人間の生活に歴史を賦與rekisinoikkannsei.pdf へのリンク』した」がそれを物語つてゐると思ふ。つまり西歐の「二元論文化(D1)」が生んだ歴史的必然性としての近代化なのである。對するに、東洋文化・イスラム教文化には「二元論文化(D1)」が育たなかつた爲、「西洋流の『歴史』の連續性・統一性・一貫性rekisinoikkannsei.pdf へのリンク」(上枠文參照)も缺如し、故に、近代化を生み出す「歴史的必然性」を持たなかつたのである。であるから、上枠文の内容「近代化」は「價値」ではないのだ。二元論が生んだ「歴史的必然性」なのである、とその樣に小生は解釋する。 |
③「西歐の精神史に語られてゐる個人主義(F)といふことなら、それはもう限界に來てをります。西洋人自身、うすうすそれに氣づいてゐる。さういふものを、私たちはとりいれる必要はありません。近代主義(F)だの自我意識(F)だの、すべて同樣です。そんな干からびた形骸だけを輸入しようとするから、しかもそれが身に合はぬ(距離感の喪失=Eの至小化)大きなものであるがゆゑに、私たちの足もとは崩れるのです(近代化適應異常)」。
④「思想(F)との間に距離を置かず(Eの至小化)、それに密着してしまふことは、自分の獨立を失ふこと(場 C’への沈湎=D1の至小化)です。足もとが崩れること(適應異常)です(Eの至小化=D1の至小化と言ふ事)。⇒以下文參照
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『醒めて踊れ』(全七P391)「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「自分と言葉(物)との距離の測定が出來る」とは「言葉(物)を自己所有化する」と言ふ事。即ち、意識度を高くし、言葉(物)の用法に細心の注意をし、「言葉(物)を自分から遠く離す事によつて、逆にその言葉を精神化し、支配、操作する事が出来る様になる」(P391全七)。さうする事によつて「自分に近付け、言葉を物そのものから離して自分の所有にする事が可能になる」。 |
どんな立派な思想(F)でも、衣服(F)とおなじやうに、それを身につける自分の姿勢(附き合ふ型:E)を他人の眼に、美しく見せうる(美感・樣式美・型の獲得=Eの至大化)やうになるまでは、ほんたうに自分のもの(FへのEの至大化=D1の至大化:近代化適應異常)とはいへません」(P206)。
・・・上記①~④は何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして詰まる處、向後の思想である以下に、是等は結實していったのだと小生には思へるのである。
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『醒めて踊れ』(全七P393上)「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 ⇒參照圖「近代化:ハードウェア&ソフトウェアsoftware.pdf へのリンク」 *「近代化(實在物:D1)の必要條件は技術や社會制度(潜在的言葉:F)など、所謂『ハードウェア』のメカナイゼーション(F機械化)、システマライゼーション(F組織化)、コンフォーマライゼーション(F劃一化)、ラショナライゼーション(F合理化)等々の所謂近代化(潜在的言葉:F)に對處する精神の政治學(Eの至大化)の確立、即ち所謂『ソフトウェア』の適應能力(Eの至大化・ 附合ひ方・So called )にある。 マルクスの言ふ疎外は何も資本主義社會特有のものではなく、共産主義社會、全体主義社會にも生ずるものであり、また有史以來その度を増して來たものである。それ(近代化D1)に對應する方法は言葉や概念(F)に囚れず、逆にこれを利用すること、即ち言葉の用法(E)にすべてが懸つてゐる(言葉の自己所有化?)。自分と言葉との距離が測定(Eの測定=Eの至大化)出來ぬ人間は近代人ではない。いや人間ではない」。 |
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