平成二十八年五月未定日
『福田恆存を讀む會』(第二次)
吉野櫻雲 發表文
選擇評論:全集第二巻所收『文學者の文學的責任』
――「文學者の政治的責任」といふ課題に答へて
(「文學界」昭和二十六年十月號:四十歳著)
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まへがき |
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〔以下は、吉野櫻雲發表文〕
「P547下」
當項目は重要文として記載「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「あなたのいふやうに文學者が政治的に無關心であるとすれば、――(中略)文學者と啓蒙家とを問はず、もはやさういふ發言(とは「文學者が政治的に無關心」及び政治的發言の必要性)だけではどうにもならぬときになつてゐると考へる――それはともかく、それなら文學者以外のどういふところに、どういふふうに政治的關心がみられるか、そしてそれら政治的關心をもてるひとたちがいかにして政治的に無關心な文學者たちを説得しうるか、さういふことについて考へてみたい」。
〔難解又は重要文〕:P548下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「つまりあなたがたの文學者觀は世間(「文學者は良識に反する人間」と言ふ見方)に媚びてゐるものだといへないでせうか。文學者の政治的無關心といふ批難も、その程度の地盤(「文學者は良識に反する人間」と言ふ見方)から出てゐないでせうか」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。當項は自分に分かり易くする目的で、「注」を上文中に括弧で入れてみた。
〔難解又は重要文〕:P549上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「清水さんが左翼文學(共産主義=A領域)を好まれず、太宰治(B)の愛讀者であると知るとき、ぼくは、清水さん自身のうちに、現代日本における政治(A)と文學(B)とが引裂かれた形で存在してゐる矛盾を感じるのです。問題の出發點はおそらくそのへんにあるのではないでせうか。いや、この問題の到達點もそこにあるのです」・・・この邊の文章は何を言はんとしてゐるのであらうか。
*「清水さん自身のうちに、現代日本における政治(A)と文學(B)とが引裂かれた形で存在してゐる矛盾を感じる」・・・とは以下二枠文の消息を物語つてゐるのではなからうか。その内の「引裂かれた形」とは、向後評論(『日本の知識階級』)ではあるが、その參照PP圖(參照「日本的精神主義構圖」seishinshugikouzu.pdf へのリンク)の事を言つてゐるのではなからうか。で、それを含めての要旨を先述するとかうなる。
清水幾太郎の場合、共産主義(先進性)が敵であり、その後ろめたさ(=「非近代日本」)の對抗概念(つまり「共産主義=先進性」に對抗する別の「進歩・先進」)として、以下の「C2・護符」が持ち出されたのだと言ふのである。そして太宰治(文學)も、「逃げ處B」であると共にその(C2護符の)ひとつであつた、と恆存は言つてゐるのだと小生には思へる。
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〔拙發表文:全五『日本の知識階級』より抜粋〕 ⇒參照「日本的精神主義構圖」seishinshugikouzu.pdf へのリンク 「 」内が恆存文。( )内は吉野注 恆存曰く:「日本の知識階級は言はば絶對的自己肯定者(C"自己主人公化)として終始してきた」(『日本の知識階級』全5P369) *A:現實(非近代日本)不滿⇒B:逃げ處としての個人的自我概念(他者愛=平和主義・文學)⇒C"自己主人公化(自己完成・絶對的自己肯定)⇔「C2:護符・後ろ楯の思想(平和運動・反安保闘争・天皇制・憲法第九条・原爆・核・ナショナリズム・忠誠・コント・プラグマティズム等々・太宰治も?)⇒自己滿足・自己正當化(似非生き甲斐・似非實在感)。 |
と言ふ事になる。
かやうに、文學(B)も政治(A)も「逃げ處B・護符C2」でしかなく、西歐近代構圖(右圖參照)seioukindaikouzu.pdf へのリンクに比べると、まことにいびつであり不健全である。「引裂かれた形」とはそれを物語つてゐるのではなからうか。そして、この構圖(形)が現代日本における問題の出發點であり、「問題の到達點(西歐近代への適應異常)もそこにある」と、恆存は謂はんとしてゐる樣に小生には思へるのである。
尚、この構圖の詳細については以下の通りである。一部重複する文章があるがお許しの程を。
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拙發表文:全七『近代日本知識人の典型(清水幾太郎を論ず)』より「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *結論から言へば、清水幾太郎の場合も、「私小説家」や「近代日本知識人」と同じく、やはり非近代國家人即ち「精神(B)主義構圖」の日本人が型取る、同一パターン(參照「日本的精神主義構圖」seishinshugikouzu.pdf へのリンク)が、其處に展開されただけと恆存は言つてゐる樣に見える。 〔清水幾太郎の「精神(B)主義構圖」とは〕⇒參照「日本的精神主義構圖」seishinshugikouzu.pdf へのリンク。 *A:現實(非近代日本)不滿⇒B:逃げ處としての個人的自我概念(平和主義)⇒C"自己主人公化(自己完成・絶對的自己肯定)⇔「C2:護符・後ろ楯の思想(コント・プラグマティズム)⇒自己滿足・自己正當化(似非生き甲斐・似非實在感)。 *清水幾太郎の場合、共産主義(先進性)が敵であり、その後ろめたさ(=「非近代日本」)の對抗概念(つまり共産主義:先進性に對抗する別の「進歩・先進」)として、以下の「C2・護符」が持ち出されたと。同時にそれが自己正當化(D3:身元證明・似非實在感)の護符となつたのだ、と恆存は言つてゐる。 敵たる共産主義への、対抗概念「C2」護符としての「平和運動・反安保闘争・天皇制・憲法第九条・原爆・核・ナショナリズム・忠誠・コント・プラグマティズム等々」・・・畢竟それらは自己への肯定因「C":自己完成・絶對的自己肯定」の後楯(C2)でしかないと言ふ事なのである。(參照:PP上圖) 拙發表文:《「私小説家」「近代日本知識人」「清水幾太郎」の相似形》から *恆存は、「日本の知識階級は言はば絶對的自己肯定者(C"自己主人公化)として終始してきた」と看破し、「私小説家・近代日本知識人、その典型としての清水幾太郎」の三者を、いずれもパターンは「日本精神主義構圖」(seishinshugikouzu.pdf へのリンク參照)だと言つてゐる。 即ち「現實(A)的不滿⇒B:逃げ處としての個人的自我概念⇒C"自己主人公化(自己完成:絶對的自己肯定)⇔「詩神・護符・後ろ楯の思想:C2」⇒自己滿足・自己正當化(似非生き甲斐・似非實在感)」だと。 そして彼等「絶對的自己肯定者はあらゆるものを自己の手中に収めようとして、その結果、自己の不滿(A:現實的不滿)を處理する能力だけを失つた人間である。(中略)不滿の原因は現實といふ客観的對象のうちにのみあるのではないのに、彼等はそれをそこ(現實Aといふ客観的對象)にのみ見出さうとする。いや、さうする以外に能力も無く、方法も知らぬのであります。處世術を知らぬ人間と言ふ他ありません。私はこの處世術といふ言葉に他人と附合ふ技術ばかりでなく、自分自身と附合ふ技術(つまり「精神の政治學」)をも含めて用ゐてゐるのですが、序でながら、一般にはその後者の意味が脱落したままで用ゐられてをり、そのために處世術といふ言葉を不當に忌み嫌ふ低い道徳觀が、或は僞善が成立したと言へます。(中略)私の言ふ意味の處世術(「精神の政治學」)は、寧ろ西洋の個人主義思想のうちに見出されるものであり、それは人間關係の近代化にとつて無くては適はぬものなのです・・」(『日本の知識階級』全5P369)と、このやうに上記三者を當該評論で鋭く指摘してゐるのである。 そして「絶對的自己肯定」の爲に、その肯定因として「C2:護符・後ろ楯)」を上位概念「世界・社會・階級、大思想」に、上記三者は求めようとするのだと(何故なら西歐近代が否定因としての神を背景に持つのとは反對に非近代日本はそれを持たないが故に)。 |
〔難解又は重要文〕:P549上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「あとは論議のほか、ただ實踐あるのみではないでせうか。とすれば、文學者の政治的責任について、いつたいなにを語る必要があるといふのか。ただ文學者として、文學を通じて、實踐にうつることだけが必要だと思ひます」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。この邊も難しいので、分けて考へてみる。
①「論議のほか、ただ實踐あるのみ」とは、前項の以下枠文(小生記述文)の状況に現代日本があるならば、もはやそれは「論議のほか、ただ實踐あるのみ」と言ふことになるのであらう。そんな状況下では「文學者の政治的責任」などと言ふ概念が差し挾まれる餘地すらない、と言ふことになるのではなからうか。
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*「政治と文學とが引裂かれた形で存在して」ゐるが爲に、文學(B)も政治(A)も「逃げ處B・護符C2」でしかなく、西歐近代構圖(右圖參照)seioukindaikouzu.pdf へのリンクに比べると、(現代日本の構圖は)正にいびつであり不健全である。 |
で、因みに上記とは反對に「引裂かれてゐない形」とは、如何なるものであらうか。それは取りも直さず、西歐近代構圖(seioukindaikouzu.pdf へのリンク)と言ふことにならう。簡略するに、前項の枠文に照らして言へば、「處世術(AB分離)を知る人間」と言ふことになる。つまりは以下の樣な論法にならう。
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〔「政治(A)と文學(B)とが」引裂かれてゐない形「西歐近代構圖(右圖參照)seioukindaikouzu.pdf へのリンク」、とは以下形態〕 *西歐近代構圖(即ち西洋の個人主義思想)⇒處世術を知る人間⇒自分自身と附合ふ技術を持つてゐる人間⇒「精神の政治學」最下降によるAB分離が出來る人間⇒個人の純粋性(B)の静謐を護持出來る人間⇒理想人間像(C:自他への否定因)を保持出來る人間⇒「倫理的性格:BC」を護持出來る人間⇒「非「相對主義・一元論・平面」的人間⇒「ABすり替への自己欺瞞」に監視の眼が届く人間⇒「お爲ごかし(エゴイズムAを隣人愛Bに塗り替へ)」などと言ふ嘘を犯さない人間⇒つまりは「なにが惡でも、なにが善でもないといふ現代日本人の非倫理的性格(相對主義の泥沼)」から脱却出來てゐる人間。・・・と言ふ事になる。 |
②「ただ文學者として、文學を通じて、實踐にうつることだけが必要だと思ひます」・・・とは、かかる日本の状況下では、唯一殘された道は、それしかないと言ふ事であらう。で、「實踐にうつる」とは何を指すかと言へば、小生が思ふに、上枠文に記載した「個人の純粋性(B)の静謐」を追究し確立する事。つまりは「政治(A)と文學(B)とが引裂かれた形で存在してゐる」が故の、夾雑物を剔抉する事をそれは示してゐるのではなからうか。そしてその爲に、恆存が言ふ以下の處世術を驅使すべしと言ふ事になるか。
「私の言ふ意味の處世術(「精神の政治學」)は、寧ろ西洋の個人主義思想のうちに見出されるものであり、それは人間關係の近代化にとつて無くては適はぬものなのです」と。
〔難解又は重要文〕:P550上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「アジアの他の國々とちがつて、日本だけは植民地化されることなく、獨立をそのままに特惠待遇を與へられたのです。西洋の資本主義(近代化D1の別名F)は明治日本にとつて敵ではなく、先進國(近代國家=C”場)とは指導者(近代化:D1)の意味で甘く通用してしまひました。明治維新はもとより、その後の政治の革命的エネルギー(國家的自己劇化D2)はむしろその源泉(C2後楯)を西洋(C”近代國家=場)から得てきたのであります。さらに遡れば、大化改新以來、日本の革命(D2自己劇化)は外國(先進國C”)への憧憬と依存(D1先進國化=近代化)とによつておこなはれてきたといへませう」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。
〔難解又は重要文〕:P550上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
(前項文に續く)「が、それ(先進國C”⇒先進國化D1)を知つてゐたとすれば、われわれは六年前の敗戰を『解放軍來たる』と單純に喜べるはずはなかつたのです。がそれを喜んだのはわれわれ知識階級だつたといふことを忘れてはなりません」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。此處もなかなか難解なので、明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして更に以下探究を個別に加へてみる。
①「敗戰を『解放軍來たる』と單純に喜べるはずはなかつたのです」・・・とは、「解放」の概念で括られる立場に日本はゐなかつた、と言ふことなのであらう。つまり「何々からの解放」の「何々」と言ふ對象が無いのである。「植民地」ではなく、日本は獨立國なので「解放對象」では既に無い。アジア圈では他國と比べて、日本は既に「先進國化と言ふ意味での解放」がされてゐて、故に解放と言ふ言葉に馴染まないと言ふことなのであらうか。その意味でなら、「單純に喜べるはずはなかつた」は理解できる。では、戰前日本の「全體主義」と言ふ概念からの解放ならばいかがであらうか。――この邊で「探究」は聊か迷路に入る。それ故、此處はひとまず話を飛ばす事にする。
②次に「それを喜んだのはわれわれ知識階級だつた」・・・とは、何を言はんとしてゐるのであらうか。「それを喜んだ」とは、「敗戰を『解放軍來たる』と」喜んだ、と言ふ事を意味するのであらうか。つまり、知識階級は「解放」ではないのに解放と自己瞞着した、と言ふ事であらうか。更につまりであるが、知識階級は、前々項で謂ふ「政治(A)と文學(B)とが引裂かれた形(「日本精神主義構圖」seishinshugikouzu.pdf へのリンク)で存在してゐる」が爲に、「ABすり替への自己欺瞞」には到底監視の眼が届かない。それが故に、解放などと言ふ「自己瞞着」を招來してしまつた、と言ふ事になるのか。
〔難解又は重要文〕:P550上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
(前項文に續く)「さらに遺憾なことは、占領軍(米國)にたいするレジスタンスといふことが、ソ聯、あるいはフランスといふ、これもやはり西洋の一國を精神的支柱(C2護符)としておこなはれたといふことであります。このばあひにも、西洋を支柱とする以上、民衆にはちんぷんかんぷんで、知識階級だけの獨善に終りました。レジスタンスとはいふものの、わが國のそれは、西洋(占領軍=米國)對日本ではなく、日本における西洋(米國)對西洋(ソ聯、あるいはフランス)の小ぜりあひに終つてしまつたといつてさしつかへないでせう。ぼくたちはこれには手を拱く以外に手はなかつた」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。當文も自分自身に明確化する爲、一應小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。
尚、「西洋を支柱とする以上、民衆にはちんぷんかんぷんで、知識階級だけの獨善に終りました」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。恆存文に據れば、本來レジスタンスとは、相手國に對しての自國が發する「民族的な憎惡心」或いは「優越感」を根源とする(參照P549下)。「西洋を支柱」(C2護符)にしてゐたのでは、自國が發する「民族的な憎惡心」「優越感」のエネルギーが無く、故にレジスタンスそのものが成り立たない。であるから、國民の支持は無く「知識階級だけの獨善に」終つた、と言ふことなのでは。
〔難解又は重要文〕:P550上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「日本古來の戰法である『他人のふんどしですまふをとる』といふ方法に期せずして合致してゐるといふこと。ぼくは、そのこと自體を惡いと申してゐるのではない。ただ今日においても、日本人は政治の革命的エネルギーを外部から導入しなければ、なにもできぬといふ事實に注意をうながしただけです」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。この邊も分かりづらいので、個別に探究してみる。
①「日本古來の戰法である『他人のふんどしですまふをとる』といふ方法に期せずして合致してゐる」の『他人のふんどし』とは、「C2護符・後楯」を意味し、更には言外に「何にでもべたべた引つ付く自他未分の神道的生活態度」(參照:『日本および日本人』)なるものを、謂はんとしてゐるのではなからうか。
②「日本人は政治の革命的エネルギーを外部から導入しなければ、なにもできぬ」とは、以下の事を指すのではなからうか。
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「日本人は政治の革命的エネルギー(國家的自己劇化D2)を外部から導入(つまり、後楯C2を西洋及びそのイデオロギーから導入)しなければ、なにもできぬ」と言ふ事を指すのでは。 |
〔難解又は重要文〕:P551下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「さういふ氣もち(A:空襲・食糧缺乏はまつぴら)を平和促進への踏臺とすることはできぬと思つてをります。空襲や殺人はいやだといふこと(生命保存の本能=A)は、戰爭否定(平和促進)の理由にはなりません」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。當文も一見分かりやすさうで根が深い。是も明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。
そして、では「戰爭否定の理由」になるものは「生命保存の本能A」なんぞではなく何だと、恆存は謂はんとしてゐるのであらうか。「平和促進への踏臺」「戰爭否定の理由」になるもの、またその爲には、逆に「命に替へての戰ひも辞せず」の、その理由になるものとは、一體何だと謂ふのであらうか。それは以下枠文だと恆存は謂はんとしてゐるのではなからうか。
つまり、戰爭は「民族の歴史のうちにある固有の生き方・文化的價値」を消滅せしめる。そして「平和」とは、それを守る爲の手段でしかなく、最高價値なんぞではないのだと。もつと言へば、平和は、「生命保存の本能」(Aエゴイズム)を滿たす爲のものなのではない。「歴史(C)⇒文化(D1)⇒國家(AB)」の構造を維持する爲の手段。即ち恆存の別評論でそれを表すならば、「(國家を)ひとつの堅固なフィクションとしての統一體(C⇒D1⇒AB)たらしめる原動力は何かといふ事である。それは純粋な個人的自己(B)であり、それがもし過去の歴史と大自然の生命力(C:時間的全體・空間的全體)に繋つてゐなければ、人格は(國も)崩壊する」。
さうした有機的價値を平和は維持する爲の手段なのである、と言ふことなのでは(參照圖「完成せる統一體としての人格」論kanseiseruA.pdf へのリンク)。
正しく恆存文で記載するなら「平和は、それによつて何等かの文化的價値を守るため」(『平和の理念』全五P325)のものとなる。更に詳しくは以下を參照されたし。
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評論『平和の理念』他から「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「平和とは・・・・戰爭の事前と事後にある戰爭の缺如状態、即ち、戰爭してゐないといふだけの事です。要するに、單なる事實を示す消極的な意味に過ぎず、何等かの價値を示す積極的な意味として使用し得ぬものであります。(中略)戰爭さへなければ好いといふ事は、ある價値を生むのに都合が好い状態であつても、その事自體を價値と見做す譯には行きません。(中略)日本の平和思想の弱點は、(中略)平和は單なる事實や手段を示す消極的な意味ではなく、それ自身直ちに價値や目的となり得る積極的な意味として通用してしまつたからです」(『平和の理念』全五P321)。 *「平和を守らうとする意思や行動は價値ではありますが、平和そのものは價値ではありません」(『平和の理念』全五P323)。 *「言ふまでもなく、最高價値としての平和(と言ふ戦後日本の考へ方)は、それによつて、何等かの文化的價値を守るためのものではなく、他の凡ゆるものに替へてもこれを守るべきものとなります。尤もこの場合、『凡ゆるものに替へても』は決して『命に替へても(B自己犠牲)』といふフレイズには繋がりません。なぜなら平和といふのは生命保存の本能(A)といふ言葉の代用品だからです。もともと自分達には命に替へて(B自己犠牲して)も守りたいもの、或は守るに値するものは何も無い事を(占領軍及び進歩的知識人達から)教へられたからこそ、平和が最高價値になつたのです。命に替へて(B自己犠牲して)も守りたいもの、或は守るに値するものと言へば、それは各々の民族の歴史のうちにある固有の生き方であり、そこから生じた文化的價値でありませう。その全部とは言はないまでも、その根幹を成すものをすべて不要のもの、乃至は惡いものと(占領軍及び進歩的知識人達から)否定されれば、殘るものは生物としての命(Aエゴイズム)しかありますまい。平和が最高價値と言ふのは、生命(Aエゴイズム)が最高價値といふ事です。その意味でもエゴイズム(A)とヒューマニズム(B他者愛的概念)との擦り替へ、或いは混同が生じてをります」(『平和の理念』全五P325)。 *「國や民族の生きかたを守らうといふ氣もちは是認できます。個人の生命より全體の生命を大事にするのが當然でせう。が、戰後、その全體の生命としての國家といふ觀念が失はれてしまつた。ですから、個人の生命より大事なものはなくなつたのです。(中略)個人の生命より大事なものはないといふのは変態だ」(全三『戰爭と平和と』)。 *「文化(D1)とは私たちの生き方(E)であります。生活の樣式(E)であります」(全五P185『傳統にたいする心構』)。 *「問題は、すべてはフィクションであり、それを 協力して造上げるのに一役買つてゐる國民の一人、公務員の一人、家族の一人といふ何役かを 操る自分の中の集團的自己をひとつの堅固なフィクションとしての統一體たらしめる原動力は何かといふ事である。それは純粋な個人的自己(B)であり、それがもし過去の歴史と大自然の生命力(C:時間的全體・空間的全體)に繋つてゐなければ、人格は崩壊する。現代の人間に最も缺けているものはその明確な意識ではないか」。(全集六P703~4 『覺書』) |
〔難解又は重要文〕:P551下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「さういふ反戰心理をただちに西歐的なヒューマニズムと結びつけて考へることは危險です。ヒューマニズムは人命を尊ぶと同時に、また自分の信ずることのためには他人を殺すでせうし、自分の命を棄てる冷酷なものではないでせうか。十字軍以來、ヨーロッパはさうしてきたのであります。いや、現在のソ聯もアメリカもさうです。ヒューマニズムといふのを人命尊重、蟲も殺さぬ博愛主義と考へるのは、それこそあまりにアジア的なものがあります。民衆の厭戰心理のうちには、多分にこのアジア的なものがあり、それが西歐派としての啓蒙家の平和主義と結びつくのだといふことについても、ぼくたちは大いに考へてみなくてはなりますまい。(中略)とすれば、それによつて現實主義的な西歐のヒューマニズムと對抗するのは、ずいぶん心ぼそい氣がいたします」・・・この邊の文章は何を言はんとしてゐるのであらうか。此處もなかなか解りにくいので、いつもの如く、當文に二元論的「A・B・C」及び括弧注を附すると以下の樣になる。
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*「さういふ反戰心理(A「生命保存の本能」)をただちに西歐的なヒューマニズム(B即ち「神の解體と變形」の一つ)と結びつけて考へることは危險です。ヒューマニズムは人命を尊ぶ(他者愛)と同時に、また自分の信ずること(信仰:B⇒C)のためには他人を殺す(一神教的特徴・宗教的リゴリズム?)でせうし、自分の命を棄てる(自己犠牲する)冷酷なものではないでせうか。十字軍以來、ヨーロッパはさうしてきたのであります。いや、現在のソ聯もアメリカもさうです。ヒューマニズムといふのを人命尊重(他者愛)、蟲も殺さぬ博愛主義(他者愛)と考へる(B的思考)のは、それこそあまりにアジア的(佛教的・神道的・儒教的?)なものがあります。民衆の厭戰心理のうちには、多分にこのアジア的なものがあり、それが西歐派としての啓蒙家の平和主義(C2護符)と結びつくのだといふことについても、ぼくたちは大いに考へてみなくてはなりますまい。いや、西歐派といはれるひとたちのうちにも、さういふアジア的な、あるいは日本的な『やさしい氣もち』(B:神道的、和の精神?)が潜在してゐるのではないでせうか。とすれば、それによつて現實主義的(A”⇒A)な西歐のヒューマニズムと對抗するのは、ずいぶん心ぼそい氣がいたします」。 |
そして更には、この邊の内容は、以下の消息をも物語つてゐるのではと聯想するのである。
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〔拙發表文:『現代國家論』から〕 〔難解又は重要文〕:P170上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「國家的エゴイズムを聖化するにせよ否定するにせよ、その存在に目をつぶりたがるのは、それを認めながら同時にそれを超える價値觀を持たないからである。その弱點はまた次の樣にも言へる。吾々は國家と個人とを對等に見なし得る價値觀を持たなかつた事にあると。成る程、個人の内の或る部分は國家に對して忠實を誓ふ。が、個人の内の他の部分は國家以上の存在に忠誠を誓ひ、その立場から國家を拒否する事もあり得る。が、いづれの場合においても、個人は自己の自由意思に基づいてそれを行ふ。自由気儘にではない、自由意識に基づいてである。その爲には當然、國家と個人との間に一つの價値觀の共有といふ黙契が成立つてゐなければならない」・・・この邊の文章は何を言はんとしてゐるのであらうか。 此處の文章も、「個人倫理の次元(B⇒C)を、根源的には宗權(B⇒C)を國權(A)の上位に置く」及び「相對(A)の世界に對立する絶對(C)の世界、そして兩者の竝存を認める生き方」に關聯して來ると思へる。 「それを超える價値觀」「國家と個人とを對等に見なし得る價値觀」「國家と個人との間に一つの價値觀の共有」の價値觀とは、「相對(A)の世界に對立する絶對(C神)」の事であり、絶對(C)の觀念を持てる事が「個人倫理の次元(B⇒C)」を保持する事となる。それを保持する事によつて國權(A)・宗權(B⇒C)への「自由意思に基づく」出入即ち轉換的行動が可能となる。この「個人倫理の次元(B⇒C)」を換言すると、「ひとつの堅固なフィクションとしての統一體たらしめる原動力(B⇒C)」と言ふ事になる。丁度參考として格好なる文章を見つけたので以下に記載しておく。
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〔難解又は重要文〕:P552下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
①「ぼくは啓蒙家諸氏に申し上げます。あなたがたの平和運動とは、意識するとしないとにかかはらず、知識階級の自衛本能から出たものにほかなりません。(中略)西歐派としての知識階級は平和のときでなければ、自己の存在が危うくなるのです」。
②P553上「占領といふ温室状態をもうすこし長びかせて、嵐が静まるまで待つてくれといふのであります。(中略)日本の進歩主義的分子の最後の據りどころといへます」。
・・・①②は何を言はんとしてゐるのであらうか。いずれも、前項目〔難解又は重要文〕:P549上の「現代日本における政治(A)と文學(B)とが引裂かれた形」で參照文として擧げた以下文に、その本質は通ずるのでは。
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〔拙發表文:全五『日本の知識階級』より抜粋〕 ⇒參照「日本的精神主義構圖」seishinshugikouzu.pdf へのリンク 「 」内が恆存文。( )内は吉野注 恆存曰く:「日本の知識階級は言はば絶對的自己肯定者(C"自己主人公化)として終始してきた」 *A:現實(非近代日本)不滿⇒B:逃げ處としての個人的自我概念(他者愛=平和主義・文學)⇒C"自己主人公化(自己完成・絶對的自己肯定)⇔「C2:護符・後ろ楯の思想(平和運動・反安保闘争・天皇制・憲法第九条・原爆・核・ナショナリズム・忠誠・コント・プラグマティズム等々)⇒自己滿足・自己正當化(似非生き甲斐・似非實在感)。 |
序でに記載すると、「平和のときでなければ、自己の存在が危うくなる」を、評論『近代日本知識人の典型(清水幾太郎を論ず)』では、その事を「安全地帶C"」と言ふ概念で、以下の樣に恆存は記述してゐる。
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拙發表文:同評論(全七P568)から「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *清水幾太郎の「最も居心地のよい場所」・・・「護符・後ろ楯の思想:C2」に守られながら「安全地帶(C")で颯爽たる抵抗」をする事。即ち「プラグマティズムを護符(後ろ楯:C2)にして」。 |
〔難解又は重要文〕:P554上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「信じるといふのはそんなことでせうか。ずいぶん極端なことをいふやうですが、あらゆるもの(A:相對物)が破壊されても、なにものか(C:絶對)を信じるといふこと以外に、ぼくは信仰(B⇒C)といふものをかんがへられません」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。當文も明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。この文章も前項目〔難解又は重要文〕:P551下の參照文で擧げた内容を物語つてをり、よつて重複するがその内の以下文、及び他參照文を載せておく。因みに以下文章群は向後の恆存思想「完成せる統一體としての人格」論kanseiseruA.pdf へのリンク」の構圖を想起させる。
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*「フランスのレジスタンス(中略)の自我の強烈さの底には援軍を信じてゐる人々の強さがあつた。フランスの市民もさうですが、自分をも市民をもひつくるめて、ひとつの絶對(C)に支へられてゐるといふことです。それはクリスト教です。(中略)そのクリスト教から習慣づけられた永遠(C)なるもの、絶對的(C)なるものへの信仰(B⇒C)であります。私たちにとつて重要なことは、それが國家意識(A)、あるいは愛國心(A國家的エゴイズム)と結びつくといふことです。國家も社會もじつはそれによつて支へられてゐるのです」(『個人と社會』全三P77)。 *「歐米では個人の生き方は宗權(B⇒C)と國權(A)との二元論によつて支へられてゐる」(『平和の理念』全五P325)。 *「アメリカを筆頭とする自由主義諸國は、たとへ現状では國際間にまで倫理が通用しなくても、本質的には個人倫理の延長に社會や政治を考へてゐる國です。兩者は永遠に一致しないかも知れない。しかし、いや、それゆゑに、個人倫理(B⇒C)の次元を、根源的には宗權(B⇒C)を國權(A)の上位に置く、すくなくとも同位に置く、人間觀にもとづいてをります。(中略)まちがひは犯しませうが、本質的な生き方については、昔からなんの變更もありません。が、ソ聯は國家目的(A)、社會目的(A)、階級目的(A)を個人倫理(B⇒C)の上に置きます。後者は前者によつて規定されます。私は躊躇なく、自由主義諸國に共感をおぼえる。(中略)いひかへれば、相對(A)の世界に對立する絶對(C)の世界、そして兩者の竝存を認める生き方、それが人間の生きかただとおもふのです。(中略)さういう意味で、私は個人が國家に反抗できる制度ではなく、さういふ哲學がもつとも必要であるとおもひます」(全三P79『個人と社會』)。 *「なんぴとも孤立した自己(部分)を信じることはできない。信じるにたる自己とは、なにか(C全體・絶對)に支へられた自己である。私たちは、そのなにものか(C全體・絶對)を信じてゐるからこそ、それに支へられた自己(部分)を信じるのだ」(『人間・この劇的なるもの』)。 |
〔難解又は重要文〕:P554上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「さういへば、ひとはことごとくなにかの協力者です。そして協力とは自己保存の本能であり、知識階級がもつとも欲することであります」。
*「よく考へてみれば、人間はなにものかに協力しなければ――自己以外のもの、自己より大なるものにつながらなければ――生きていけるものではない」。
・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。前項と同樣、以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。
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*「なんぴとも孤立した自己(部分)を信じることはできない。信じるにたる自己とは、なにか(C全體・絶對)に支へられた自己である。私たちは、そのなにものか(C全體・絶對)を信じてゐるからこそ、それに支へられた自己(部分)を信じるのだ」(『人間・この劇的なるもの』)。 |
〔難解又は重要文〕:P555上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「荷風はつねに頑強な非協力者でありましたが、じつは日本の文章の傳統(歴史C⇒傳統・文化D1。そして傳統・文化は型Eである)といふものに協力してゐるのであります。かれは傳統(D1=型E)にささへられてゐる。よかれあしかれ、文學者の最後の據りどころはそこ(傳統・文化D1=型E=E文章文體)にあります」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。當文も明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。更には以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。尚、文中の「傳統・文化D1=型E=E文章文體」についてはPP圖「恆存の文化について」P4(bunkanitsuite.pdf へのリンク)を參照されたし。
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「かれは傳統(D1=型E)にささへられてゐる」について *「文化(D1)とは私たちの生き方(E)であります。生活の樣式(E)であります」(全五P185『傳統にたいする心構』の「エリオットの弁」より)。 *「一時代、一民族の生き方が一つの型(E)に結集する處に一つの文化(D1)が生れる。その同じ物が個人に現れる時、人はそれを教養(E)と稱する」(全四P393『文學以前』)。⇒參照PP圖(「恆存の文化について」P4:bunkanitsuite.pdf へのリンク) *「現代の日本には主體的な生き方(E)や心の働き(D1)としての文化(D1)や教養(E)がないばかりか、文化(D1)とはそのやうな主體的な精神の型(E)だといふ觀念さへないのです。おそらく日本の全歴史を通じて現代ほど文化(D1)が薄ぺらになり、教養(E)ある階級を失つた時代はなかつたらう。(中略)私たちはまづその自覺に徹すべき」(全五P187『傳統にたいする心構』)。⇒參照PP圖(「恆存の文化について」P4:bunkanitsuite.pdf へのリンク) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 拙發表文:『永井荷風』より ①難解又は重要文〕:P234上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 「このやうにフランスの藝術(B)と現實(A)との吻合に羨望を禁じ得なかつた荷風は、顧て近代日本の混亂に絶望を感じたのでした。現實生活の様式化(E)が藝術(PP圖「荷風・風景」kahuuhuukei.pdf へのリンク)であるとするならば、明治の日本に藝術は不可能であると斷ずるよりほかにしかたはない――(中略)それだけに――生活を様式化(E)するといふ現實的な責任(PP圖「荷風・風景」kahuuhuukei.pdf へのリンク)を負はされてゐるだけに、荷風のばあひ、他の同時代の作家の知らなかつた苦痛を嚴しく感じ、しかもそれを彼ははつきりと意識してゐた」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。荷風はフランスにあつて、明治に喪失されてゐるものを、江戸時代に觀た。それ故に江戸情緒にある様式美(E)を小説に復元せんとした、と謂はんとしてゐるのではなからうか。⇒參照PP圖(「フランス・江戸時代にある生活の様式化」seikatsunoyousikika.pdf へのリンク) 恆存は永井荷風の文學活動に、自己の評論活動と同一的立脚點があるのを見出してゐる。その同一的立脚點とは、かくの如きものである。
②〔難解又は重要文〕:P225上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 「(荷風は)知識階級にも反撥した――なぜならば、荷風の眼に映じた知識階級とはやはり出世しそこねた出世主義者でしかなかつた。彼等は現實を拒まれたがために現實を否定したにすぎない。(中略)荷風の眼はさらに深いところにとどいてをりました。彼は現實(A)を惡とする彼等の理念に疑ひを向けたのです。(中略)いはば近代精神そのものではなく、日本の近代に疑惑を懷いたのであります。ここでは近代ヨーロッパの人間完成の思想(個人主義)がその純粋な核を抜き去られて、その外郭である自己主張と優越意識(參照:『日本の知識階級』seishinshugikouzu.pdf へのリンク |
〔難解又は重要文〕:P555上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「文學者(B)の最後の據りどころはそこ(傳統・文化D1=型E=E文章文體)にあります。(中略)いはゆる西歐派といはれる文學者でもおなじことです。文學者である以上、そこから出發しなければ、いかなる政治(A)的活動も新しい思想も一定期間ののちには、かならずうしろめたさを感じさせ、自己崩壊せざるを得なくなるでせう。誰にせよ、かれを文學者として信頼しうるか否かを決める唯一最低の基準はそこ(傳統・文化D1=型E=E文章文體)にあります。また文學者(B)があらゆるつながり(A)から遊離して生きうる強さは、變動する現實政治(A)の優勝劣敗にもとづくものではなく、ぎりぎりのところ、文章(E文章文體)それ自體から生まれるのであつて、そこ(傳統・文化D1=型E=E文章文體)まで信じきれぬものは、文學者の名に値しないでせうし、さういふ連中に政治的關心をうながしてもむだでありませう」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。しかしながら、實に難解である。探究の糸口を何とか探してみんとするに、やうやく探し得たものは以下枠文の消息邊りでしかなかつた。であるが、そこへ行く前にまず以下文を探究する。
*「文學者(B)である以上、そこから出發しなければ、いかなる政治(A)的活動も新しい思想も一定期間ののちには、かならずうしろめたさを感じさせ、自己崩壊せざるを得なくなるでせう」・・・とは、「そこ(傳統・文化D1=型E=E文章文體)から出發」(參照圖「恆存の文化について」P4:bunkanitsuite.pdf へのリンク)する事が、文學から夾雑物を取り除き「個人の純粋性(B)の静謐」を守る事に繋がるのだ、と言ふ事なのでは。夾雑物を取り除く事が出來なければ、前項目〔難解又は重要文〕:P549上の「現代日本における政治(A)と文學(B)とが引裂かれた形」となり、その結果としての以下態様が「うしろめたさと自己崩壊」を招來する、と言ふ事ではなからうか。
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〔拙發表文:全五『日本の知識階級』より抜粋〕 ⇒參照「日本的精神主義構圖」seishinshugikouzu.pdf へのリンク 「 」内が恆存文。( )内は吉野注 恆存曰く:「日本の知識階級は言はば絶對的自己肯定者(C"自己主人公化)として終始してきた」 *A:現實(非近代日本)不滿⇒B:逃げ處としての個人的自我概念(他者愛=平和主義・文學)⇒C"自己主人公化(自己完成・絶對的自己肯定)⇔「C2:護符・後ろ楯の思想(平和運動・反安保闘争・天皇制・憲法第九条・原爆・核・ナショナリズム・忠誠・コント・プラグマティズム等々・太宰治も?)⇒自己滿足・自己正當化(似非生き甲斐・似非實在感)。 |
構圖的に言ふと、「そこ(傳統・文化D1=型E=E文章文體)から出發」とは、「現實生活の様式化(E)が藝術」の圖(PP圖「荷風・風景」kahuuhuukei.pdf へのリンク)であり、それを形成する事が、「鷗外論(ougairon.1-4.pdf へのリンク1・2頁)=個人の純粋性(B)の静謐」圖を形成する事に繋がるのである。文章的には、以下の文章群がそれを補つてゐる、とその樣に小生には思へる。
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文學(B)をもつてしか解決しえぬ問題(個人の純粋性B)「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「生活(A)を様式化(E)するといふ現實的な責任を負はされてゐるだけに、荷風のばあひ、他の同時代の作家の知らなかつた苦痛を嚴しく感じ、しかもそれを彼ははつきりと意識してゐた」(『永井荷風』P234上)。 *藝術(B)は惡から汚水を吸いあげて美しい花を咲かす」(參照『自己劇化と告白』全二P407) ⇒參照「鷗外論(PP圖1・2頁)ougairon.1-4.pdf へのリンク」 *「彼等(鷗外・漱石)の作品(B)はあらゆる夾雑物を濾過し去り(A的なもの・惡の汚水をBから吸ひ上げ)、最後に文學(B)をもつてしか解決しえぬ問題(個人の純粋性B)――文學(B)のみがこれを扱ふ問題が純粋な形(個人の純粋性の静謐)で殘りえた(つまり「美しい花を咲かす」)」(『近代日本文學の系譜』P20下) ⇒參照「鷗外論(PP圖1・2頁)ougairon.1-4.pdf へのリンク」 *「肉體(A)の自律性は當然その反面に精神(B)の自律性を前提とする。肉體、あるいは物質で解決すべき事(A)を、精神(B)の重荷とするなかれ――精神には精神のみの解決しうる問題をあてがひ、その領域と大權とを縮小せしめるにしくはない。そのときはじめて精神は自律し、その権威は輝くであらう。が、ぼくたちは今日までなんと精神を神聖化し、さうすることによつて精神の負荷を重からしめ、結果として精神を侮辱してきたことか。肉體の自律性が確立してゐなかつたからである。明治以降の日本人はあらゆる物質的なこと、肉體的なことに、すべて精神のべールをかぶせ、それをことごとく精神の發動として自己満足してきた。かれらは肉慾を肉慾として是認することをおそれ、それに精神的な衣をかぶせた。物慾を物慾として是認することをおそれ、それに藝術愛や愛國心や愛他心や、その他の主種雑多な大義名分をかぶせた」(P479全二『肉體の自律性』)。 *「私の言ふ意味の處世術(精神の政治學によるAB分離)は、寧ろ西洋の個人主義思想のうちに見出されるものであり、それは人間關係の近代化にとつて無くては適はぬものなのです」(『日本の知識階級』全5P369) |
それを更に詳しく探究すると、以下枠文となる。重要文を簡略すると「(現實は)なまの素材としては混亂してをり、なんの意味をもたぬ現實に主題的完成を與へるのが文學(B)の意圖である」となる。そして「主題的完成」とは、上述した「現實生活の様式化(E)が藝術」(PP圖「荷風・風景」kahuuhuukei.pdf へのリンク)の圖及び「鷗外論(PP圖1・2頁)ougairon.1-4.pdf へのリンク=個人の純粋性(B)の静謐」圖、を示すのではなからうか。
序でに言へば、前囘選擇評論『素材について』で探究した、鷗外の史傳に於ける「素材」(『澀江抽齋』:江戸の現實A)は、「背後の道徳=C儒教道徳・武士道」がそれを支へて、混亂してはゐなかつた。それ故に「ひたすら素材に忠實にたらんとするもの(鷗外)をのみ、素材(A)は導いて」くれたのである。「そして、この(素材Aの)必然の尖端がすなほに偶然(A’ 鷗外)と相接(A’⇒A:客體化)するとき、詩が、いささかも虚構の跡をとどめない眞實の詩が光を放つ」て、将に主題的完成を與へてくれたのである(參照『素材について』全一P513)。
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*評論『永井荷風』より「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「いま(明治も現代も)の世の中は現實(A)が素材のまま(PP圖「歴史・文化・型」左圖rekishi.bunka.kata.pdf へのリンク)なまの姿を現してゐるので、これを整理し、これに衣裳をまとはせる樣式(E)といふものが缺けてゐるのです。樣式(E)のないところに眞の人間生活(同右圖=文化とは生き方)はありえない。――それはたんに動物の生存にほかならない。僕たちはなんとかしてこの素材のままの現實(A及び對象F)に樣式(E)を與へなければならぬ。それが現代の政治家、事業家、學者、藝術家、すべての人に課せられた任務なのです。荷風の青少年期をおくつた明治二十年代、三十年代とはまさにかういふ時代であつたといへませう」(『永井荷風』全一P220上)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~*拙發表文:全二『急進的文學論の位置づけ』より「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「文學(B)は現實(A及びF對象)を秩序(E)づけ、その混亂に形式(E)を與へ、なまのままではなんの聯關も内容ももたぬ現實に意味と目的とを賦與することによつて、ひとつの完成《主題的完成=「現實生活の様式化(E)が藝術」(PP圖「荷風・風景」kahuuhuukei.pdf へのリンク)及び「鷗外論(PP圖1・2頁)ougairon.1-4.pdf へのリンク」)》にまでもつてゆく。すでに存在するものを認識し記述し反映するのではなく、表現することによつてはじめてその現實性を自他ともに納得しうるやうにととのへること――藝術的完成(主題的完成:上述2圖)とはまさにそれなのだ。文學における、あるいは精神の領域におけるたたかひとは、したがつて、さもなければ無意味であり存在しえないやうな現實の不安定性に眞實の保證を與へようとする意思的なこころみにほかならぬ。(中略)藝術の責任はただそれを美的完成(主題的完成:上述2圖)にまでもちきたらすことにのみある」(P296上)。 *「(明治の現實は)なまの素材としては混亂してをり、なんの意味をもたぬ現實(A及びF對象)に主題的完成(上述2圖)を與へるのが文學の意圖であるとすれば、明治日本の現實がその作家たちに美的完成(主題的完成:上述2圖)を許さぬほど混亂してゐたといふ事實を、ぼくたちはまづみとめてかからねばならない。存在そのものが混亂していたばかりではなく、意識も、意識と存在との關聯そのものも、ほとんど收拾つかぬほどの混亂を呈してゐた。その混亂の樣相を如實に描きだすことこそ今日の歴史學、あるいは社會科學の任務であらう。それら(A的領域)の科學が充分にその責任をはたしえないでゐるがために、文學の領域(B)で粗笨な公式的イデオロギー(唯物史觀?)がいともかんたんに現實(A及びF對象)を料理し、作品や文學史を裁斷してゐるのだ」(P297下)。 *「たれもが自分の生活(A及びF對象)になんらかの意味づけを欲し、見事な主題の抽出(主題的完成:上述2圖)を願望してゐるのである。精神上(B)のたたかひとはこの主題の發見と維持(主題的完成:上述2圖)との以外のなにものであらうか。この主題の形式(主題的完成:上述2圖)にいささかでも役立ちうる事實を自己の生活において強調するやうに生きること、同時にあらゆるささいな事實をもなんとかしてこの主題(主題的完成:上述2圖)のもとに組いれやうとこころみること――それ以外に精神のたたかひは考へられない。いはばコップから水を飲むことすら完成せる統一體(參照「完成せる統一體としての人格」論kanseiseruA.pdf へのリンク)の一構成分子たらしめることだ。文學者とはあらゆるひとにさきだつて――といふのはあらゆるひとになりかはつて――専門家として、たんなる現實の素材(A及びF對象)に意味的聯關を與へるやう強烈な意識(Eの至大化)をもつて、その生活を主題的に統一して生きぬかうとする人間(主題的完成:上述2圖⇒「完成せる統一體としての人格」論kanseiseruA.pdf へのリンク)のことにほかならない。存在が意識を決定する。もちろんだ――が、この大前提のうへに立つて、逆に意識(Eの至大化)をもつて、存在を選擇し決定してゆかうといふのが文學者のしごとである。それが精神のたたかひなのだ」(P297上)。 *上文中の「たれもが自分の生活(A及びF對象)になんらかの意味づけを欲し、見事な主題の抽出(主題的完成:上述2圖)を願望してゐるのである」については、更に以下の文が參考になるのでは。
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〔難解又は重要文〕:P555下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「信仰なくして現實の問題に手をふれる危險のはうがはるかに大であるとおもひます。(中略)さういふ信仰の所在をはつきりさせたいのであります。他人のうちにも自分のうちにも、なんとかしてそれを見いだしたいのです」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。信仰とは、上述の《主題的完成=「現實生活の様式化(E)が藝術」(PP圖「荷風・風景」kahuuhuukei.pdf へのリンク)及び「鷗外論(PP圖1・2頁)」ougairon.1-4.pdf へのリンク》を導くC(歴史)、
つまり以下の事を言つてゐるのではなからうか。
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*歴史(時間的全體感C)⇒傳統・文化D1=型E(文章文體)、の歴史(C)に對する信仰(B⇒C)と言ふ事では。 |
尚、「傳統・文化D1=型E=E文章文體」についてはPP圖「恆存の文化について」P4:bunkanitsuite.pdf へのリンク」を參照されたし。
〔難解又は重要文〕:P555下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「ひとはリアリストであればあるほど、リアリズムだけではどうにもならぬことを悟るであらうといふことです。おもふに、人間と言ふものは、リアリズムに徹底しうるほど凄味のある存在でもなければ、またリアリズムを手ぎはよく驅使しうるほど理想的ではないのでせう」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。是も難しく、充分な探究に窮するので、PP圖「彼我の差:右圖seioukindaikouzu.pdf へのリンク」の事であらう、とのみ今は留めて置く。それでも無理に過去評論に類似的文章を探れば以下とならうか。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「萬人をその胸に救ひとる人格神が、その手をその脚を、さらにその胴體をもぎとられ、それらが制度化せられ機械化せられる(リアリズム)――で、神は人體を失つて、完全な精神としての抽象化を受ける。その精神が文學の領域(B)として殘されるといふわけだ」(『近代の宿命』全二P463) |
〔難解又は重要文〕:P556上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「政治的現實は硬化しても、それに對處する人間の現實はもつと柔軟であつてほしいとおもひます。ぼくたちはつねに寛容でありたいと同時に、寛容でありえぬ現實にたいしても、さらに寛容でありたいとおもひます。理想主義とは人間の信頼であつて、悲壮趣味では斷じてありません」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。どうも小生には、屡々引き合ひに出す以下文章を此處でも想起してしまふ。そして括弧内に上文の語句を閉じ込めてしまふのである。“贔屓の引き倒し”或いは「牽強附會」にならなければ幸ひである。
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*場( C”國際的場)から生ずる、「關係(D1:政治的現實)と稱する實在物は潜在的には一つの言葉(F硬化)によつて表し得る」。故にその言葉(F硬化)との附合ひ方、扱ひ方(型・Eの形成=柔軟・寛容・信頼)によつて、人間は場との關係(政治的現實)への適應正常化(非沈湎)が叶へられる」と言ふ事になる。(參照:全七『せりふと動き』) 參考文として:《拙發表文『傳統にたいする心構』より》 *文化(D1)のある處(換言すれば自國の歴史Cとの「適應正常化=非沈湎」が圖れてゐる國)では、「E」を至大化させる「型・仕來り・様式・儀式」が形成されてゐて、その「型・仕來り」が歴史との關係(D1文化)を形ある「物」として生き方に反映(Eを至大化)させてくれるのである。文化(D1)のある國は「仕來りE」を持つが故に、「對象・言葉(F)との距離測定不能(言葉に呪縛)」が原因の、適應異常や狂氣の囘避が可能となるのである。その事柄を「右圖」(PP圖「荷風・風景」kahuuhuukei.pdf へのリンク)で言へば、「D1の至大化=Eの至大化」と言ふ事になる。「型・仕來り・様式・儀式」は生活・言葉への囚はれから人を救出してくれるのである。更に換言すれば、平生足をさらはれてゐる樣な現實的平面から意識を立ち上がらせてくれる。なぜにそれが可能となるかと言へば、「型・仕來り・様式・儀式」に内在する働き、恆存の文章に從へば、以下文のダイナミズムをそれは宿してゐるからなのであると理解する。「そもそも動作や作用、さらに人間の抽象的な營みを名詞化しようといふ働きそのものが、主體である自分を對象から分離し、距離をつくらうとする衝動なのです」(全三P204『日本および日本人』)。 |
〔難解又は重要文〕:P556下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
①「文學者が政治(A)的責任をはたしてゐないといふことよりも、むしろ、文學(B)的責任をよくはたしてゐないといふことにあるのではないでせうか」。
②「起こるかもしれぬ戰爭の破壊力(現實A的破壊力)にたいして對處しうる心(B⇒C)を描きえぬ文學者こそ、ぼくは無力な存在だと思ひます。(中略)破壊力(現實A的破壊力)のおよびえぬ信仰(B⇒C)の力を與へえぬ文學者(B)は、文學者としての職責をはたしてゐないのではないでせうか。(中略)ごく單純にいつて、いい日本語の文章を書くといふこと(傳統・文化D1=型E=E文章文體)だけでも、どんなにりつぱなしごとでせう。(中略)いい文章を書くといふこと(B)が、いい政治(A)をするといふことと同樣に、あるいはそれ以上に、人間の未來にとつていかに大切であるかを、あなたがたは知らないのです。政治(A)が惡ければ國が亡ぶとは考へても、一國の文學(B)が亡びれば、また國が亡ぶとは考へない」。
③「文學そのものの人生における効用を知らないからです。ぼくにとつては、そのはうが由々しき問題です。むしろさういふ世間にたいして、文學の効用(傳統・文化D1=型E=E文章文體)を説くことこそ、文學者の社會的な責任のひとつだと考へてをります。(中略)文學者が文學(B)の効用を信じてゐないからこそ、問題は文學者の政治(A)的責任といふ形であらはれてくる」。
・・・上記①②③とは、何を言はんとしてゐるのであらうか。
つまりは、當文章は前項目〔難解又は重要文〕:P555上に恆存が述べた以下枠文の消息を、此處では別な角度で物語つてゐるのではなからうか。それを明確化する爲に一應、以下から借用し上文中に括弧で入れてみた。尚、文中の「傳統・文化D1=型E=E文章文體」についてはPP圖「恆存の文化について」P4:bunkanitsuite.pdf へのリンク」を參照されたし。
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*「文學者の最後の據りどころはそこ(傳統・文化D1=型E=E文章文體)にあります。(中略)文學者である以上、そこから出發しなければ、いかなる政治(A)的活動も新しい思想も一定期間ののちには、かならずうしろめたさを感じさせ、自己崩壊せざるを得なくなるでせう。誰にせよ、かれを文學者として信頼しうるか否かを決める唯一最低の基準はそこ(傳統・文化D1=型E=E文章文體)にあります。また文學者(B)があらゆるつながり(A)から遊離して生きうる強さは、變動する現實政治(A)の優勝劣敗にもとづくものではなく、ぎりぎりのところ、文章(傳統・文化D1=型E=E文章文體)それ自體から生まれるのであつて、そこ(傳統・文化D1=型E=E文章文體)まで信じきれぬものは、文學者の名に値しないでせうし、さういふ連中に政治(A)的關心をうながしてもむだでありませう」(P555上)。 |
そして、②の「一國の文學が亡びれば、また國が亡ぶ」とは、以下の消息中の歴史(時間的全體感C)⇒傳統・文化D1=型E(文章文體)の亡びを物語つてゐるのではなからうか。
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*信仰とは、上述の《主題的完成=「現實生活の様式化(E)が藝術」(PP圖「荷風・風景」kahuuhuukei.pdf へのリンク)&「鷗外論(PP圖1・2頁)ougairon.1-4.pdf へのリンク」》を導くC(歴史)、つまり以下の事を言つてゐるのではなからうか。
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〔難解又は重要文〕:P557下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
①「文學者(C”場)といふものは、内容(F)を形式(E)から離して考へることのできぬ人種です。ある社會評論家はことばは道具だと申してをりますが、それはとんでもないことです(とは、「言葉Fとは、意味Fの傳達以上にD1用途の役割を持つてゐるといふ事」:參照下枠文)。ことば(F)、あるいは文章(F)は、内容を示す(物Fを指し示す)と同時に、その意味内容(F)と筆者(C”場)との關係(D1:筆者の心の動き・思想)を示すものであります。嚴格に言つて、文章の内容(F)とはその關係(D1:筆者の心の動き・思想)以外のなにものでもありません」。
②「例の起訴状(F)の悪文といふのは、意味内容(F)が不鮮明であるといふこと以上に、それ(F)と執筆者(C”場)との關係(D1)がよくわからないといふことであります。われわれはあの起訴状から、その執筆者(C”場)の對社會態度(執筆者の心の動き=D1關係)の不純さを感じるのです。そこには威たけだかな調子(心の動き=D1關係)はあるが、すこしの正義感も誠實も信念(いずれも心の動き=D1關係)もないことを、われわれは感じとるのです。文學者といふものは――たとへ批評家でも――さういふ文章感覺(「關係D1と稱する實在物は潜在的にはF言葉によつて表し得る」)を大事にし、またそれに敏感であります。共産主義の理論(場C”)がいかにりつぱでも、アメリカのデモクラシー(場C”)がどれほど筋がとほつてゐやうとも、文學者にとつて、それを信頼するかしないかは、その表現(場C”との關係D1)である文章(F)から判斷する以外に方法はないのです。いひかへれば、文章(F)といふものは、それのみ(即ち上文「文章の内容Fとはその關係D1以外のなにものでもありません」)を判斷の基準にしてもまちがひのないほど客觀的な存在なのであります。そして文學者ばかりでなく、いい文學をもつてゐる國民(近代日本文學はさにあらずか?)には、さういふ文學感覺(上の括弧文)が自然とそなはつてゐるのです。(中略)文章感覺(上の括弧文)に敏感な國民だつたら、軍部やその追随者たちの惡文にだまされやうはずはなかつたでせう(とは「精神の近代化」がなかつた日本國民は敏感ではなかつたと言ふ事だ)」。
・・・①②とは何を言はんとしてゐるのであらうか。參考とするには以下の文章群が役に立つので、明確化する爲に以下から借用し、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。⇒參照PP圖(個人の強靱化:3頁圖kojinnokyoujinka.pdf へのリンク)
尚、當項目の文章も向後評論(『せりふと動き』等)の演劇的「關係論」に到る課程を偲ばせるものがあるが、讀解力が不足のせいか、なかなか探究しにくい部分があり説明にかなり窮した。未だにすつきりしないものがあるが、この邊が限界なので此處で止めておく。
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〔講演カセット『シェークスピア劇の魅力』より要旨及び『せりふと動き』等より〕 *「言葉(F)とは、意味(F)の傳達以上に「D1:用途」の役割を持つてゐるといふ事。寫實(F何)よりも用途(D1:なぜ)を。人間を目的・行動に駆り遣る爲の鞭的用途(スプリングボード)の役割を持つ」。 *「言葉(F)は物(F)を指し示す物の影(寫實)ではなく、「實在物=關係D1」を目に見える樣(E:型)に傳へる用途を持つてゐるものなのである」 。 *場( C”)から生ずる、「關係(D1)と稱する實在物は潜在的には一つのせりふ(F:言葉)によつて表し得る」(全七P300『せりふと動き』)。故にその言葉との附合ひ方、扱ひ方(型Eの形成)によつて、人間は場との關係の適應正常化が叶へられる、と言ふ事になる。 *「せりふ(F)は語られてゐる意味(F)の傳達を目的とするものではない。一定状況の下(場面)において、それを支配し、それに支配されてゐる人物の意志や動き(D1:宿命・關係)を表情や仕草と同じく形(E)のある『物』として表出する事。それが目的であり、意味(F)の傳達はその爲の手段に過ぎぬ」(全7『シェイクスピア劇のせりふ』P359) 拙發表文:〔4.演劇論と人生論の一致・・・・「役者修業は人間修業」の2〕から *。「ハムレットは今、この時、なぜ(D1)、かういふ言葉(F)で、かういふ事を言ふのか、その氣持ち(D1)・必然性(D1)が目に見える樣(E)に傳へる」事が可能となるのである。「言葉は行動する」その行動性を、強い必然性を。・・・何(F)をではなく、方法論(E:フレイジング・So called)で人物の意志や心の動き(D1)、即ち「なぜD1」をリアルに表せる。 意味の傳達(なにF)よりも目的達成の爲の効果の方(なぜ=關係D1の必然性)を重要した方が・・・。何より大事なのは、その言葉(F)の背後にある心の動き(D1)を聲の形(E)に出す事。平易な意味傳達(なにF)よりも心の表情(なぜD1)を。(要旨:『シェイクスピア劇のせりふ』全七P339から) |
〔難解又は重要文〕:P558上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「くどいやうですが、ぼくは文學者にたいしてまづ文學的責任を要求したいのです」・・・とは、前項目〔難解又は重要文〕:P556下に記述された以下の事であらう。
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*「文學者が政治的責任をはたしてゐないといふことよりも、むしろ、文學的責任をよくはたしてゐないといふことにあるのではないでせうか」。 *「起こるかもしれぬ戰爭の破壊力(現實A的破壊力)にたいして對處しうる心(B⇒C)を描きえぬ文學者こそ、ぼくは無力な存在だと思ひます。(中略)破壊力(現實A的破壊力)のおよびえぬ信仰(B⇒C)の力を與へえぬ文學者は、文學者としての職責をはたしてゐないのではないでせうか。(中略)ごく單純にいつて、いい日本語の文章を書くといふこと(傳統・文化D1=型E=E文章文體)だけでも、どんなにりつぱなしごとでせう。(中略)いい文章を書くといふこと(B)が、いい政治(A)をするといふことと同樣に、あるいはそれ以上に、人間の未來にとつていかに大切であるか・・。」云々。(P556) |
尚、上文の「破壊力(現實A的破壊力)のおよびえぬ信仰(B⇒C)の力を與へえぬ文學者は、文學者としての職責をはたしてゐない」の「信仰(B⇒C)の力を與へえぬ文學者」を、更に考察するならば、かうなる。
四年前評論『近代の宿命』にある一節(以下文)中の、「神は人體を失つて、完全な精神としての抽象化(個人の純粋性Bの静謐)を受ける。その精神(B)が文學の領域(B)として殘される」と言ふ、将に近現代文學に殘された命題(B⇒C)が、さうであるにも關はらず、その職責が日本の文學者には充分に果たされてはゐない。と言ふ事になるのではなからうか。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「萬人をその胸に救ひとる人格神が、その手をその脚を、さらにその胴體をもぎとられ、それらが制度化(A)せられ機械化(A)せられる――で、神(C)は人體(A)を失つて、完全な精神(B)としての抽象化(個人の純粋性Bの静謐)を受ける。その精神が文學の領域(B領域:個人主義文學等)として殘されるといふわけだ」 (『近代の宿命』全二P463) 。 |
〔難解又は重要文〕:P558下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「われわれ文學者にとつていちばん辛いことは、政治的に無知だといふことより、政治(A)的關心をもつたところで、おまへの書くものは文學(B)になつてゐないといはれることでありますから」・・・當文中「文學になつてゐない」とは何を指すか。やはり前項目〔難解又は重要文〕:P555上に恆存が述べた、以下枠文の内容をそれは示すのでなからうか。尚、文中の「傳統・文化D1=型E=E文章文體」についてはPP圖「恆存の文化について」P4:bunkanitsuite.pdf へのリンクを參照されたし。
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*「文學者の最後の據りどころはそこ(傳統・文化D1=型E=E文章文體)にあります。(中略)文學者である以上、そこから出發しなければ、いかなる政治(A)的活動も新しい思想も一定期間ののちには、かならずうしろめたさを感じさせ、自己崩壊せざるを得なくなるでせう。誰にせよ、かれを文學者として信頼しうるか否かを決める唯一最低の基準はそこ(傳統・文化D1=型E=E文章文體)にあります。また文學者(B)があらゆるつながり(A:現實・相對)から遊離して生きうる強さは、變動する現實政治(A)の優勝劣敗にもとづくものではなく、ぎりぎりのところ、文章(傳統・文化D1=型E=E文章文體)それ自體から生まれるのであつて、そこ(傳統・文化D1=型E=E文章文體)まで信じきれぬものは、文學者の名に値しないでせうし、さういふ連中に政治(A)的關心をうながしてもむだでありませう」(P555上)。 |
そして、「一國の文學が亡びれば、また國が亡ぶ」とは、前項目(P555下)でも記載した、以下内容の歴史(時間的全體感C)⇒傳統・文化D1=型E(文章文體)の亡びを物語つてゐるのではなからうか。⇒參照PP圖(「恆存の文化について」P4:bunkanitsuite.pdf へのリンク)
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*信仰とは、《主題的完成=「現實生活の様式化(E)が藝術」(PP圖「荷風・風景」kahuuhuukei.pdf へのリンク)&「鷗外論(PP圖1・2頁)ougairon.1-4.pdf へのリンク」》を導くC(歴史)、つまり以下の事。 *歴史(時間的全體感C)⇒傳統・文化D1=型E(文章文體)、の歴史(C)に對する信仰(B⇒C)と言ふ事では。 |
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