平成二十七年六月四日
福田恆存を讀む會(第二次)
吉野櫻雲
全集第一巻『私小説的現實について』(初題:雑誌文藝『絶望のオプティミズム』)中
「頁574文章」の考察 (「文學界」昭和二十二年六月執筆:三十六歳)
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川上氏設問: *「『理想人間像』とは 恆存の造語か、原語があつて飜譯したものか、 あまり一般的な言葉ではないと感じます。この言葉の内包を恆存が、どう捉へてゐたか 。そして日本人はいかなる生き方が可能か。 そんなところが 掴めればと思つてゐます。 *「その後、どう言ふ處に恆存は辿つて行つたか」。 |
risou.b.pdf へのリンク
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〔難解又は重要文〕その1「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
P574上:「理想人間像をもたぬといふこと――この事實こそぼくたち近代日本人の悲劇であり、それをぼくたちが一日も早く悟ること以外に、この悲劇からの抜け道はありえない。理想人間像のないぼくたちはどんな人間になつてもいいのである、どんな生きかたをしようと大した問題ではないのである、それが社會に迷惑をおよぼさぬかぎりは。それがすなほに國家主義にも共産主義にもついてゆく――」・・・この邊の文章は何を言はんとしてゐるのであらうか。以下個別的に探究して見る事とする。
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「理想人間像」とは。 A
「理想人間像をもたぬといふこと」とは。 B
「この事實こそぼくたち近代日本人の悲劇」とは。 C
「それをぼくたちが一日も早く悟ること以外に、この悲劇からの抜け道はありえない」とは。 D
「理想人間像のないぼくたちはどんな人間になつてもいいのである、どんな生きかたをしようと大した問題ではないのである」とは。 |
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の「理想人間像」とは、恆存評論から窺へば「イエス」であらう(尚「讀む會」的符牒で表せば「C」である)。更に恆存評論から敷衍すれば、「觀念上の絶對」「自己を超えたるものの何か」・「全體」・「絶對神」・「人格神」・「夢想(フローベール・セルバンテス小説的領域での)」となるであらう。端的な表現としては以下の通りである。つまり「觀念上の絶對」的なものだと・・。
*「それ(理想人間像)がこちらがはにおいて自分と一致することなど永遠に起りえぬ」「理想人間像などとは一片の虚妄である。それは虚像にすぎない」「一片の妄誕」「この世のものならぬ亡靈」「理想人間像こそは自我を否定しうる唯一のモメントである」(P475〜6『理想人間像について』)。即ち觀念上にのみ描ける「絶對者」と同じ意を此處に讀み取る事が出來るのでは。
尚、夢想、神との關聯については以下文が參考になる。
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拙發表文『現代人の救ひといふこと』から 西歐リアリズム作家・・・「(左記)リアリストたちがさういふ近代自我(個人主義)に幻滅と絶望とを感じたとすれば、ぼくたちはその絶望を可能ならしめたものとして、かれらの夢想してゐた自我の内容の高さと深さとに想ひいたらねばならず、その背景に発見されるものは神(C)でなくしてなんであつたらうか。そして十九世紀末葉から現代にかけて、かれらの精神が『現代人の救ひ』を求めつつ漂泊をつづけてゐるとすれば、それは實證主義がかれらの自我の内から追放した神に型どれる人間の概念の探究でなくしてなんであらうか」(P637下)。 上記は、殆どフローベールの事を想定して恆存は言つてゐる樣に小生には思へるのであるが。 |
故に、理想人間像を「人間像」としてのみ捉へるのではなく、「絶對・全體」としても捉へた方がよいのではなからうか。その邊について、評論『絶對者の役割』では以下の樣に書いてゐる。
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拙發表文:「福田恆存における『全體・絶對』」から(一部加筆修正)「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「全體とはなにかといふことです。全體と個とは質の相違であります。そこには次元の差があるのです。私たち人間が全體の觀念をもちうるのは、私たちが個人でありながら、そのうちに全體を含んでゐるからです。(それを感得する場所が「個人的自我」であり)、それが精神といふものでせう。その内にある(個人的自我で感得した)ものを外にとりだし、萬人共通の人格神として客體化したのがクリスト教であります」(『絶對者の役割』全四P281)。 *上文を整理すると、以下の樣になるのでは。 精神(人間が内部に持つ全體の觀念)⇒その「全體の觀念」を外に取出し客體化⇒「萬人共通の「人格神・絶對神」(キリスト教) 是を、更に當評論から論究すれば、「全體」の概念の内に「神・絶對」は内包される。と言ふことになる(參照⇒P283「全體の、いや、もう神のといつてもいいでせうが・・・」)。 つまり、キリスト教の絶對神とは、人間が内部に持つ全體(精神)の客體化(萬人共通としての)と言ふことになるのでは。 更にこの樣にも書いてゐる。「現實を超えた全體の觀念といふものが、クリスト教において、もつとも明確に把握されてゐる」(『絶對者の役割』全四P283)と。 |
更に、「理想人間像=イエス=夢想:C」云々の内容を別評論で探すなら、「全二P475『理想人間像について』」「全一P637『現代人の救ひといふこと』」『小説の運命U』等でそれを窺ふ事が可能である。尚一部であるが以下の文章がそれに該當する。
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*【拙發表文:『獨斷的な餘りに獨斷的な』より】(一部加筆修正)「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 恆存は、フローベールの夢想はイエスの人格化「理想人間像」(C:絶對・全體)にあったのだと『小説の運命』等で確か言つてゐた。「ロマネスクな夢想(C)こそが、作品の裏がはからあのリアリスティックな無表情の記述の保證に立つてゐるにほかならない」(『小説の運命U』:P611)と。 「フローベールのリアリズムとはまさにそれである。―― 一片の虚妄にすぎぬと承知してゐればこそ、かれは自己の理想人間像(C:夢想)を語りはしなかつたのであるが、同時に、その理想人間像があつたればこそ實證精神をしてあれほどまでに自我(集團的自我「A」:代理としてのボヴァリー夫人)を斬りさいなむことを許したのである」(全二P475『理想人間像について』)。 理想人間像(C:夢想)は作品には登場しない。ただそれら(B⇒C探求)は「作品の裏がはからあのリアリスティックな無表情の記述の保證に立つてゐるにほかならない」と。何處にも神を語つてゐないあの小説スタイルこそが「神に型どれる人間の概念(理想人間像)の探究」なのだと、恆存は言つてゐるのである(參照:全一P637『現代人の救ひといふこと』)。 「(フローベール)の夢想してゐた自我の内容の高さと深さとに想ひいたらねばならず、その背景に発見されるものは神(C)」なのである。と恆存は言ふ(全一P637『現代人の救ひといふこと』)。 |
A
「理想人間像をもたぬといふこと」とは・・・是はなかなか難しい内容で纏めにくかつた。それでも、以下の「彼我の差」を追求する事でなんとか理解出來る樣な氣がする。小生の拘泥した頭を整理する都合上、先に略記するとかうなる。「理想人間像をもたぬ」とは、社會(他者)のみならず自己への「否定因」を持たぬと言ふ事になり、それは自己を甘やかす事(エゴイズムの放任)に繋がり、しいては自己欺瞞を許す事に繋がるのだと。
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〔彼我の差〕(參照:PP圖「彼我の差」higanosa.pdf へのリンク)「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *ルネサンス人の抱く「理想人間像」は、「(中世の)千年にわたるながいあいだの神への凝視と沒入とから習得した」もの。故にその「理想人間像こそは自我を否定しうる唯一のモメントである」(P475〜6『理想人間像について』)。その否定因のお蔭で、ルネサンス人は側面に持つ危險性としての「放縱と精神の無政府状態をまぬかれえた」(『私小説的現實について』P572)のだと恆存は言ふ。何故ならば、「神への凝視に教へられた」理想人間像の「否定因」は、社會のみならず自己にも適應されるからである。即ち「(中世の)教門政治や中世的社會秩序といふ外部条件を」脱出しての「肯定的=積極的な生命慾」を、理想人間像(否定因)は承認し得ても、だからと言つて、それを逸脱した「放縱と精神の無政府状態」までをも放任する譯にはいかなかつたのである。⇒參照:別紙〔時代・文人別「理想人間像」の形態と内容〕 彼等の理想人間像は、「そのさいにかれらの基準となつたものは、教門政治や中世的社會秩序といふ外部条件をすつかり脱落せしめた文化遺産としてのクリスト教精神であり、その理想人間像にほかならなかつた」(『小説の運命T』全一P598)のだと。 そしてその否定因こそが、神學によつて「神への凝視と沒入とから習得した」處の、「合理を貴重とする人間の理性のたくましい力(實證精神)」(『小説の運命T』全一P598)なのであつたのだと恆存は言ふのである。その樣に神學から得た「人間の理性のたくましい力(實證精神)」は、理想人間像の中に否定因として殘存し、自己(エゴイズム及び自己欺瞞)をも甘やかしはしないのであると。⇒參照:〔時代・文人別「理想人間像」〕のフローベール項 であるからして、「理想人間像をもたぬ」とは、自己を否定する「否定因」を持たぬと言ふことである。明治の日本人を例に擧げれば「己の正と善とを主張しうる根據(自己を超えた價値=神・絶對)を己れ自身のうちに」持ち得なかつた事にそれは繋がるのだと。つまり「當時(明治)の知識階級は經濟力が權力と結びつくのを眼前に見ながら、これを惡として却ける(否定する)いつぽう、といつて自己のうちにそのやうな現實を否定するだけのもの(自己を超えた價値=神・絶對)もみとめえなかつた」(當評論P572)。せいぜい持てたとしても經濟的な力(A的領域の相對的價値觀)によつての自信でしかなく、それは否定因(C)としての力にはなり得ぬのだと言ふのである。更に恆存はかうも言つてゐる。「社會(相對)といふ觀念は個人(相對)を否定しえない。それは有限(相對)といふおなじ系列、同じ次元にあるからである。同樣にして進歩(相對)の觀念も個人の慾望(相對)を否定しえない」((全二P473『理想人間像について』)と。つまり「相對世界A」のものでは「否定因(C)」となり得ぬと言ふ事であらう。「神(C)なくして個人の権利を主張し得ない。それを敢へてするは惡徳(相對上のエゴイズム)」(『近代の宿命』)でしかないと言ふ事になる。 是は、「理想人間像が自我解放のモメントになり、同時にその否定を敢行したといふ、ヨーロッパの近代史(以下一例)と好個の對照をなす」(全二P477『理想人間像について』)のだと。
故に、其處から話を敷衍すれば、 相對を絶した「觀念上の絶對(虚妄・虚像C)」を持たぬ日本人、即ち「理想人間像(C)のないぼくたちはどんな人間になつてもいいのである、どんな生きかたをしようと大した問題ではない」(當評論P574)と言ふ事になる。 「自然的な、物質的な、あるいは肉體的な慾望(いずれもA領域の相對主義的慾望)の充足を求め、しかもそれ(相對物)以外のなにものをも慾求しない個體(即ち相對主義の泥沼)にとつて、いかなる道義も倫理(B⇒C)もなりたたず、それはなにをしてもいいし、なにをしなくてもいいのだ」(全二P472『理想人間像について』)と。「要するに、負けなければいい、死ななければいい、行きづまらなければいい(いずれも相對的概念)――さういふことになります」(全三P75『個人と社會』)。「理想人間像(C)のないぼくたち(相對主義的人間)はどんな人間になつてもいいのである、どんな生きかたをしようと大した問題ではないのである」(當評論P574)と。 そして其處から歸結される今日的現象は、「なにが惡でも、なにが善でもないといふ現代日本人の非倫理的性格」(全三P79『個人と社會』)なのだと恆存は指彈するのである。 更に「さういふ相對主義では、人間は生きられないはずだ。個人の生涯にも、それでは切りぬけられない、ごまかしきれない時期がくるものだ」(全三P75『個人と社會』)と。 此處まで「探究」して見ると、「今囘論究テーマ」以下BCDの解答も、上述内容から自づと導き出されてくるのではなからうか。 B
「この事實こそぼくたち近代日本人の悲劇」とは。 C
「それをぼくたちが一日も早く悟ること以外に、この悲劇からの抜け道はありえない」とは。 D 「理想人間像のないぼくたちはどんな人間になつてもいいのである、どんな生きかたをしようと大した問題ではないのである」とは。 |
更に「理想人間像をもたぬといふこと」を補足するならば、「觀念上の絶對」「自己を超えたるものの何か」「全體」を持たぬと言ふ事で、所謂「相對主義」を意味する。尚「相對主義」についての恆存文は以下がある。
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『日本および日本人』全三P198「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「現在の私たちは單純な相對主義の泥沼のなかにゐる。なほ惡いことに、私たちはそれを泥沼とは感じてゐない。たいていの人が相對主義で解決がつくとおもつてゐます。が、私は戰後の混亂のほとんどすべてが、この平板な相對主義の悪循環から生じてゐるとおもひます。(中略)超自然の絶對者(C)といふ觀念のないところでは、どんな思想も主張も(平和の主張も)、たとへそれが全世界を救ふやうな看板をかかげてゐても、所詮はエゴイズムにすぎないといふことを自覺していただきたい」。即ちこの文章は、『近代の宿命』で言ふ「神(C)なくして個人の権利を主張し得ない。それを敢へてするは惡徳(相對的エゴイズム)である」に通じる。 更に「相對主義」的内容については、前述もしたが、評論『理想人間像について』で以下の樣に指摘してゐる。 *「自然的な、物質的な、あるいは肉體的な慾望(A領域の相對主義的慾望)の充足を求め、しかもそれ以外のなにものをも慾求しない個體(即ち相對主義の泥沼)にとつて、いかなる道義も倫理(B⇒C)もなりたたず、それはなにをしてもいいし、なにをしなくてもいいのだ」(全二P472『理想人間像について』)と。 しかしながら、「相對主義の泥沼のなかに」日本人はゐながらも、内心的にはそれを脱した世界を欲してゐるのだと、恆存は別評論で以下の樣に書いてゐる。 *「現實を超えた全體の觀念といふものが、クリスト教において、もつとも明確に把握されてゐる。(中略)わたしたち(日本人)もまたそれを欲してゐるのです。私たちもまた、時代と場所を超えた不變の眞理といふものを欲してゐる。人格の持續性と普遍性とを欲してゐる」(『絶對者の役割』全四P283)のだと。 だが、我々日本人は欲しながら現實的には獲得には至つてない、といふ事なのだらう。更に言へば、その原因として、獲得の手段としての「精神の近代化」が確立されてないから、と言ふ事になるのであらうか(參照⇒次枠文)。 今テーマ「この事實こそぼくたち近代日本人の悲劇であり、それをぼくたちが一日も早く悟ること以外に、この悲劇からの抜け道はありえない」の文は、やはり此處にも掛かつて來る樣に思へる。 *參照文
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再探究:今ひとつすつきりいかぬ感じがするので、以下を再探究する。尚、探究の時間がなくなつた爲、文章に脈絡がないかも知れませんが、お許しのほど。
「(理想人間像をもたぬといふこと――この事實こそぼくたち近代日本人の悲劇であり、)それをぼくたちが一日も早く悟ること以外に、この悲劇からの抜け道はありえない」・・・文中の「それをぼくたちが一日も早く悟ること」とは何を言はんとしてゐるのであらうか。
參考として、この文章と同一的内容の文があるので、以下に載せてそれも併せて論究の對象としてみる。
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「それ(以下)をぼくたちが一日も早く悟ること」「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「ヨーロッパの自我確立はこの上(理想人間像C)からの否定をたえず意識し、これに堪へうる根據をもつことにあつた(即ち「封建的な惡を否定しよういふ氣なら否定しうるだけの資格をもてといふ声が、つねに頭上(C)にひびいてゐた」と言ふこと)」(全二P477『理想人間像について』)。 *對するに日本の場合は、「明確な理想人間像(C)なくして、いかに生くべきかの問ひはいつたいどんな解答を豫期しうるであらうか。それは作者の個性に應じた處世法の提出(A上の相對主義的解決)に終りはしないであらうか」(當評論P572)。 *「ぼくたちの社會には各人がそれぞれの環境(A上の)において各樣に處世すること(A上の相對主義的解決)以外に人生の眞實などといふものをどこにもみいだせぬ。個人が一定の生活程度を維持するため社會秩序を亂さぬといふこと(A上の相對主義的解決)以外に、いつたいぼくたちの誠實とはなにか」(當評論P573)。 *「神の魔力なくして理想人間像を樹立すること――もちろんぼくたちはその(A上の相對主義的解決の)ほかに方法をもたないとしても、またその宣言がいかにいさぎよいものであるにしても、はたして、またいかにしてそれは可能であるか。まづ沒落すること、いや、理想人間像なくして沒落することすら不可能であること、そのこと(相對主義?)の苦しさを苦しむこと―― 一切はそれからである」(全二P477『理想人間像について』)・・・とは「相對主義の泥沼」に行く處まで行くしかないと言ふ事か。どつぷり泥沼に浸かり息苦しくなるまで待つ、しか方法がないと言ふ事なのだらうか。 *日本人の絶望は、神喪失の西歐精神が逢着した、精神(B)の不救による絶望ではなく、單なる「物質(A)喪失」の問題で、故に「ぼくたち(日本人)のうちに政治(A)では救ひえぬどんな苦悩が存在してゐるといふのか」。また「ぼくたちは今日の現實を惡と見なし、堕地獄と觀ずる前提として、いかなる善も、いかなる天國の夢想(C)も、そして救ひの手をさしのべる神も、一切もつてはをらぬのだ」とも恆存は言ふ。究極なる理想或は絶對的理想(神)を持ち得ずば、眞に絶望もしえぬと言ふことか。神無きが故に(絶對の観念を持ち得ぬ國民性が故に)、我々日本人の人生、自我は絶望の對象たる資格を持ち得ぬと。すなはち日本人の惱みは「相對」にて解消される。「眞に絶望しえぬことの悲しみは、じつはぼくたちが神をもたず、ゆめをももちえぬこと」に歸來する、と恆存は言ふのである(拙發表文『現代人の救ひといふこと』(P637項目)から)。 *我々日本人は「絶望の深刻をなめさせられるほど強烈な夢も理想(C)ももつてはゐない。にもかかはらず、絶望の身ぶりを愛し、救ひを口にし、文學(B)に救ひをはせる」。その「文學(B)すらも文明開化の出世主義(A)のネガティーブな吐け口に」なつてしまつてゐたのだ。 つまり、我々日本人は、「眞に絶望しえぬ」なら「(理想人間像の)声が、つねに頭上(C)にひびいて」も來ない。であるからして、上記事實を「一日も早く悟ること以外に、この悲劇からの抜け道はありえない」、即ち脱出の方法は有り得ないのだと、恆存は言ふのであらう。繰り返すが、「相對主義の泥沼」に行く處まで行くしかないと言ふ事なのだらう。どつぷり泥沼に浸かり息苦しくなるまで待つしか方法がない、と。 實に身も蓋もない結論であるが、それでもなんとか脱出的方法を別評論から探してみると、かかる一文を見出すことが出來た。
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そして、冒頭にあるもう一つのご質問、「日本人は いかなる生き方が可能か」につきましては、
上項末尾の『日本および日本人』文に頼るしかない、とも言へますが、小生には、氏が晩年に斷片的に記述された『覺書六』(全六P698〜705)の、「完成せる統一體としての人格」論こそが、日本人の向かふべき生き方、即ち「理想人間像」かと存ずる次第であります。⇒參照:PP圖「完成せる統一體としての人格」論
更にもうひとつの設問、「その後、どう言ふ處に恆存は辿つて行つたか」につきましては、探究の時間が無く、氏の最終歸着としては「完成せる統一體としての人格」論であつた、としか答えが見附かりません。
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更に、以下の事柄が氣になつたので此處に探究しておく。
〔難解又は重要文〕「 」内が概ね恆存文。( )内は吉野注。
P572下「明確な理想人間像(C)なくして、いかに生くべきかの問ひはいつたいどんな解答を豫期しうるであらうか。それは作者の個性に應じた處世法の提出(A上の相對主義的解決)に終りはしないであらうか。この私小説の道(Bへの逃避)よりほかに、ぼくたちはどんな形でいかに生くべきかの問題を提出しうるであらうか。明治の知識階級にとつて――そして多かれ少かれ現在のぼくたちにとつてもいかに生くべきかに敢然と答へる道はただ二つしかありえない。――完全に私を抛棄して政治に身を挺するか、さもなければ頑強に私を固執して一點に立ちすくむか――そのいずれかである。その中間は一切が虚僞であり、欺瞞である。民主主義文學などといふものはありえない。民主主義的政治行動か、しからざれば私小説か――」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。簡略すると「民主主義的政治行動」も「私小説」も一見別行動の樣に見えるが、その實、形態は同じであると恆存は此處で言はんとしてゐるのではなからか。即ち理想人間像(否定因)を持たぬが故に、どちらも肯定因による「自己欺瞞⇒絶對的自己肯定」を冒し、「A現實:非客體的(A⇔A’)不滿」から「A集團的自我⇒B個人的自我⇒C” 自己主人公化・絶對的自己肯定」にスライドしていくのであると言ふのである。それは取りも直さず、理想人間像を持たぬ「日本的精神主義構圖」なのであると。是をもう少し詳しく書くとかうなる。
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《日本的精神主義構圖》:以下3パターンとも「日本的精神主義構圖」であると恆存は言ふ。(參照PP圖seishinshugikouzu.higanosa.pdf へのリンク。)。 「民主主義的政治行動」 A:現實:非客體的(A⇔A’)不滿⇒利己心(A)への後ろめたさ⇒完全に私を抛棄即ち自己犠牲(B)的精神への逃避⇒C”:「政治的」自己主人公化(自己完成・絶對的自己肯定)⇔C2護符・後ろ楯の思想:民主主義⇒D3:自己滿足・自己正當化(似非生き甲斐・似非實在感)。 と言ふ、「近代適應異常による精神主義化(參照PP圖seishinshugikouzu.higanosa.pdf へのリンク。 同一的政治行動としての「福沢諭吉以下の明治洋學者達」 *A:現實:非客體的(A⇔A’)⇒利己心(A)への後ろめたさ⇒B:和魂・自己犠牲(B)的精神への逃避⇒C”:「政治的」自己主人公化(自己完成・絶對的自己肯定)即ち國家主義(全體主義)に救ひ⇔C2護符・後ろ楯の思想:ナショナリズム⇒D3:自己滿足・自己正當化(似非生き甲斐・似非實在感)。 と言ふ、「近代適應異常による精神主義化(參照PP圖seishinshugikouzu.higanosa.pdf へのリンク。) 私小説家(明治日本の自然主義作家達) *「A:現實:非客體的(A⇔A’)不滿⇒B:逃げ處としての個人的自我概念⇒C”:自己主人公化(自己完成:絶對的自己肯定)⇔C2護符・後ろ楯の思想:西歐自然主義小説」⇒D3:自己滿足・自己正當化(似非生き甲斐・似非實在感)」。 と言ふ、「近代適應異常による精神主義化(參照PP圖seishinshugikouzu.higanosa.pdf へのリンク。 |
上記内容を、解りやすく表化すると以下(A⇒B⇒C”⇔C2)の樣になる。
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以下:『日本の知識階級』 |
A:⇒ 現實(A)的不滿 =利己心(Aエゴイズム)への後ろめたさ |
B: ⇒ 逃げ處としての個人的自我概念・・・和魂・「完全に私を抛棄=自己犠牲(B)的精神への逃避」。 |
C”: ⇒ 自己主人公化(自己完成:絶對的自己肯定)。 或いは國家主義・ 政治 |
⇔C2: 後楯・護符(西歐概念・洋才=社會・階級・民主主義・平和」・ナショナリズム(國家主義)等 |
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民主主義的政治行動 |
利己心(Aエゴイズム)への後ろめたさ。 |
「完全に私を抛棄」=自己犠牲(B)的精神への逃避 |
「政治的」自己主人公化(自己完成・絶對的自己肯定) |
後楯・護符としての洋才「民主主義」。 |
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福沢諭吉以下の明治洋學者達 |
利己心(A)への後ろめたさ |
和魂(B)、その實は立身出世主義(A劣等感⇒和魂「B」逃げ込みと言ふ自己欺瞞)。 |
「政治的」自己主人公化(自己完成・絶對的自己肯定)、即ち中央集權的國家意識(國家主義)。 |
後楯・護符としての洋才「ナショナリズム(國家主義)」。 |
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私小説家 (明治日本の自然主義作家達) |
社會的に顧みられぬといふ不滿、劣等感(A的) |
文學(B)すらも文明開化の出世主義のネガティーブな吐け口 |
自己完成といふ名の自己絶對視 |
後楯・護符としての洋才「西歐自然主義小説」。 |
尚、恆存は「福沢諭吉以下の明治洋學者達」の「和魂洋才」については、以下の樣に書いてゐる。是を讀むと、當項目〔難解又は重要文〕「民主主義的政治行動」も似たり寄つたりで大差がない、と合點がいくのではなからうか。
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拙發表文『獨斷的な餘りに獨斷的な』P16(本文:全五P253『論争のすすめ』)より「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 恆存はかく言ふ「時代の限界を考慮に入れたにしても、福沢諭吉以下の明治洋學者達を、私は高く評価しえない。彼等の多くは、『和魂』も何もあつたものではない。所詮は地方階級武士の劣等感に基づいた立身出世主義(即ち、A利己心に對する劣等感⇒和魂「B」逃げ込みの自己欺瞞⇒C”國家主義)が國家有用の實学(即ち「眞理の爲の學」でなく單なる「實益のための學として」の洋才C2)といふ考へと結びついたのに過ぎまい」(全五P253『論争のすすめ』)。 「その利己心から逃れようといふ衝動が、幕末維新の混迷に堪へ切れず中央集權的國家意識(國家主義)に救ひを求めたとも言へる」(全六P310『生き甲斐といふ事』)と。 つまり、「利己心(A)への後ろめたさ⇒和魂:自己犠牲(B)的精神への逃避⇒C”:國家主義(全體主義)に救ひ」と言ふ、「近代適應異常による精神主義化(參照PP圖)」のパターンが此處にも同じく成立してゐるのである。 その本質的原因として恆存はかう書いてゐる。「明治初期においては、西洋の學問はまづ國家有用の實學として受入れられた。いはゆる『和魂洋才』の説がそれである。『和魂洋才』などといふ劣等複合(注1)をもつて、『洋才』の向かうの『洋魂』(クリスト教)に眞向かうことを囘避したことに、そもそもの間違ひがある」(『論争のすすめ』同頁)と。 それ故に西歐が擧行した「眞理の爲の學」(實證精神)による「神に型どれる人間の概念の探究」としての近代化などは無理なのであつた。「精神の政治學ライン」は下がり得なかつたのである。 |
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