平成二十五年五月
『福田恆存を讀む』(『福田恆存を讀む會』は休會中につき)
吉野櫻雲 發表文
對象評論:【全集第七巻所收『批評家の手帖』――言葉の機能に關する文學的考察】
(「新潮」昭和三十四年一月號〜七月號、十月號〜十二月號:四十八歳)
この「アフォリズム」には含蓄に富んだ言葉が溢れてゐて、不思議と何度も訪れたくなる。その内容の難しさに音を上げてゐたにもかかはらず。
今囘「レジュメ」に仕立て上げようと試みてはみたが、やはりその困難さに苦しんだ。結果はご覧のとほり無慘にも生硬な文章となつてしまつたが、それでもなんとか纏め上げてみた。
過去の讀書會では「レジュメ」には、「まへがき」的なるものを記載してゐたので、今囘も同樣に記載する(序文以外、レジュメ〔難解又は重要文〕:P79上からの抜き書き)。尚、(D1)(D2)等は該當別紙PP(パワーポイント)を參照されたし。尚以下文、「 」内が概ね恆存文。( )内は吉野注。
今囘當評論を讀んで思ひ當つた。それは遅まきながらの氣がつきとも言はれさうだが、恆存はチェーホフと同一的立脚點に立つてゐると考へられるのである。
恆存はチェーホフについてかう書いてゐる。
チェーホフは「言葉をさういふもの(言葉を自己表現D2kindaikouzu1.pdf へのリンク)とは受けとつてゐない」(P81上)。彼は「言葉による自己表現(D2)などといふことを信じてゐない」(P81上)と。また「チェーホフだけは寫實にたいして無条件の信仰を懷いてはゐなかつたのである。チェーホフは對象の核心に迫る作者の眼(寫實)などといふものを過信してゐなかつた」と。
「自己表現(D2)」は西歐リアリズム(寫實主義)小説が捉えた「人間いかに生くべき」などと言ふ大仰なものではなく、自己解釋の「模倣」にしか過ぎないと以下の樣に恆存は書いてゐる。
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「(人は)自分が下した自己解釋(D1)を模倣(自己表現D2)し、それに辻褄を合せよう(D3自己満足・生甲斐)とする」(P81下)。參照別紙⇒自己表現D2 |
つまり西歐近代における自己表現(模倣)は、「場(C”) ⇒心の動き・意識・自己解釋(D1關係)⇒自己解釋の模倣(自己表現D2)⇒自己完成(C”自己主人公化)⇒自己満足・生甲斐(D3)」と言ふ、近代人(個人主義者)特有の、「意識のメカニズム」の一過程なのである。しかも自己表現(D2)とは、自由意思なる「精神」としての獨立した「物」なのではなく「心の動き・意識・自己解釋(D1關係)」による次發なる心理現象(模倣)なのだと恆存は言ふのである。更に詳しく記載するならば以下枠の一過程(傍線部分)なのである。
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〔恆存の言ふ、西歐近代自我(個人主義)の末路〕 近代=「神の死」即ち「神意(宿命)喪失」⇒神の代はりに自己の手による宿命演出⇒自己主張(自己表現)・自由意思(人間いかに生くべき)⇒自己完成(自己主人公化・自己全體化・自惚鏡)⇒自己陶酔・自己満足・自己絶對視・自己證明による「似非實在感」⇒エゴイズム(近代自我の必然)⇒自己喪失(自己への距離感喪失)。 |
であるから人間を寫しとらうとするなら、初發としての「意識・自己解釋(D1關係)」を寫しとらねばならない。即ち「人間を寫しとらうとするなら、それを物として寫しても始らぬ。その意識を寫しとらねばならない」(P78上)のだと。參照別紙⇒自己表現D2
是はどう言ふ事かと言ふと、自己表現(D2)を「人間いかに生くべき」の眞實的自己と捉へ、その寫實が可能とした西歐近代小説(リアリズム小説・個人主義小説)に對して、その行爲は「人間を物として寫す」事だと恆存は(そしてチェーホフも)見てゐるのである。「本人の意識を無視して、物としての彼をとらへうると言ふ盲信は、實證科學の影響であらう」と書いてゐる樣に。で、どう言ふ風に二人は見ているかと言ふと、自己表現(D2)は自己解釋(D1)同樣、それは眞實的自己(「さういふものである」)などと言ふものではなく、ただの願望(「さうありたい」自己)でしかないのだと(下項:P81下、説明文參照)。
チェーホフも(恆存も)、「言葉をさういふもの(言葉を自己表現D2)とは受けとつてゐない」(P81上)と言ふ、この邊の内容は重要なので、重複するやうであるが以下枠文をもつて補ふ。
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以下文、「 」内が概ね恆存文。( )内は吉野注。 1.「人間を寫しとらうとするなら、それを物として寫しても始らぬ。その意識を寫しとらねばならない」(P78上)。 2.
「本人の意識(場面C”から生ずる心の動きD1=關係)を無視して、物(對象F)としての彼をとらへうると言ふ盲信は、實證科學の影響であらう。私たちはまだそれから自由になつてゐない。(中略)すべてを物(對象F)として寫しとり、物としてしか寫しとれぬといふ實證科學は、ただその延長線上に意識を(物Fとして)發見しただけのことなのである」(P78下)⇒「おかげで精神もまた物(F)にされてしまつた(この邊は實證科學を標榜した西歐リアリズム小説=寫實主義小説の事を言つてゐるのである)」(P78下)。 「2」について恆存は、さうではなく、「言葉によつてしか自他の現實をつかみえないにもかかはらず、そんなこと(物として寫しとる事)は言葉には不可能」(75下)と言ひ放つ。「人間いかに生くべき」を自己表現(D2)の眞實的自己と定義し、それを寫實出來るとする西歐リアリズム小説の論は不可能であると見る。何故なら「言葉は客觀的に描寫しない」(P70下)からだと。それ故に、言葉が「寫し」得る對象があるとすれば、それは意識(關係=場から生ずる心の動きD2)以外にはなく、しかも「いやしくも世に『存在する』と言ひうるもの」があるとすれば、その「在るものは關係(D1)だけである」からと言ふのである(前出:P23上)。 是はどう言ふ事かと言へば、恆存はチェーホフの寫實についても「もしそれが寫實と呼びうるものなら」、關係(D1)を重要視してそれを寫實の對象としたと言つてゐるのである。勿論「自己解釋」を人間の眞實的自己として採用してゐるのではなく、願望(場面C”から生ずる心の動き=關係D1)と言ふ名の、「ただ在るもの」(62上)即ち實在物としてそれを採用してゐるのだと。 「在るものは關係だけである」(P23上)が、しかもそれを「言葉は客觀的に描寫しない」(P70下)又はし得ないのである。「言葉は對象を描寫するするためのものではない」(P69下)。何故ならば、「事實は語るべきものではなく、ただ在るもの」(62上)だから。つまり「願望(自己解釋)」は「ただ在るもの」(場面C”から生ずる心の動き=關係D1)なのである。 この邊の文章は、向後(十八年後)の演劇評論にある以下枠文を想起させる。恆存は言ふ、言葉は寫實ではなく「用途」なのだと。 以下枠文を参考としこの問題をなんとか纏めてみるとかうなる。 「願望(自己解釋)」は「ただ在るもの」(場面C”から生ずる心の動き=關係D1)。言葉はそれを客觀的に寫實し得ないが、「せりふ(言葉)の力學(型E=フレイジング・so called)」で、その「關係(D1)と稱する實在物」は表し得るのである、と。參照⇒別紙PP
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更には上記枠文と當評論前半部を併せて考へるに、以下の樣に要約できるのではなからうか。
即ち、散文は寫實にありと捉へたのは、西歐近代小説の迷妄と恆存は言つてゐるのであらう。言葉は寫實できないにも關はらず、西歐近代小説は「寫實」の假説を追ひ續け、散文の方法論(E)として「寫實」に活路を見いだした。そして、「眞實的自己」を寫すべく、寫實の對象として自己表現(人間いかに生くべき:D2)に逢着したのであると。そして西歐近代小説の對極にチェーホフを、前述の如く恆存は捉へてゐるのである。參照⇒別紙PP「散文・詩學・修辭學
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と言ふ事で、今評論においては、どの文章も重要であるが特に以下内容文を此處に取り上げる事とする。
〔難解又は重要文〕:P23上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「いはゆる個體といふのは關係のうちにあり、關係によつて保たれる部分に過ぎない。が、そのいはゆる個體もそれを構成する部分の關係體に過ぎない。そして、それらの關係體を組合せた究極の關係體を私たちは全體と呼ぶ。その究極の關係體はただ一つしかない。いやしくも世に『存在する』と言ひうるものはそれだけである。それなら、在るものは關係だけである」。
〔難解又は重要文〕:P25上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「私たちは因果律を超えた動かぬ完結體を見たいのだ。全體の變化に解消してしまふ關係體(D1)ではないものを見たいのだ」。
・・・上記二つの文章は何を言はんとしてゐるのであらうか。理解の參考となる文章があるので以下に上げておく。
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〔『フィクションといふ事』全六P455下。『覺書』全六P700より〕 「關係の無いところでは、個も全く捉へ處も手掛りも無いものとなる。個よりも關係の方が先に存在し、一つ一つの個は既成の關係の中に生まれ來るのだからである」。 「もし、私達にとつて、誰も自分の自惚鏡に附合つてくれぬとすれば、自他のあらゆる『關係』は忽ち解け去り、自分が自分であり、他人が他人であるといふ實感はついに持ち得ない、それは自他ともに實在ではあり得ないといふことだ、そして、私達は單なる『部品』と化し、それを統一してくれる『全體』、つまり『關係』はどこにも存在しないといふことになる。さうなれば、私達は何ものかの成員ではありえない、大洋に浮かんだ一粒の泡のやうに、そこにあるとおもつた瞬間、直ちに消え去る、在るかと思へばないやうなたわいのない『物質』に過ぎない、さう、私達は『物質』なのだ、それを在らしめようと思ふなら、どんなに小さくてもいい、いや、大きければ大きいほどいい、『全體』、あるいは『關係』といふものが必要になる」。 |
〔難解又は重要文〕:P13下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「確かなものを造りあげる行爲が、動機論的にも結果論的にも他人を支配することしか意味しない」「生きるといふことは支配し支配されるといふことなのだ」・・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。以下枠文の括弧注を含めた内容を表すのではなからうか。「實證精神=主體の客體化」とは、以下の事も併呑するといふ事では。
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「現實を認識し合理化することによつて理解しようとする 近代人の論理癖が、もしこのけぢめを無視することになれば 、いつたいいかなる事態が惹起されるか、考へるまでもなく明白なことだが、そこには論理にかはつて自我意識(自己表現⇒自己完成⇒自己滿足・自己陶酔)が登場する ――しかも表面あくまで論理のマスクをかけて」(『チェーホフ』全二P172上) |
〔難解又は重要文〕:P51上〜57「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*この邊の文章は重要であり、「修辭學」との時代的關係として纏め的に以下記載する。(參照⇒別紙PP「散文・詩學・修辭學の1・2頁」)
中世では、「(哲学以外の)散文の領域においては、言葉の用法として修辭學なしに散文が存立しうるなどといふことは考へられもしなかつた」。
⇒文藝復興期になると、藝術のジャンルとして散文が修辭學との絶縁をした。「散文が(中略)藝術のジャンルとして自己目的的な方向を示しはじめたのは、たまたまそれが修辭學との絶縁を企てはじめた時期と一致する」⇒この事は實にアイロニカルなる現象。
何故ならば、「生活とその場とから切り離すことの出來ない生の言葉を、何の約束(型)もなしに藝術の媒體として用ゐることは出來ないはずであり、その約束(型:E)が詩學であり修辭學で」(P51)あつたから。その約束(E:詩學・修辭學)と絶縁して「散文が藝術となりえた」のであるから、「それ自身アイロニカル」と言えるのである。⇒しかしながら其處に「藝術家の引けめが窺へる」⇒文藝復興期の散文物語作家の「大胆な空とぼけ」にそれが。⇒「空とぼけ」は「散文そのものがその素肌を羞じてゐる」事を示す。⇒「道具(散文)の限界には勝てるわけがない」事を。⇒浪漫主義時代の散文作家になると、「散文の限界」が明確に意識化⇒「少なくともド・クインシーにおいては明確な自覺があつた」⇒簡略すると以下の通り。
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中世⇒ |
文藝復興期⇒ |
浪漫主義時代 |
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「言葉の用法として修辭學なしに散文が存立し」えなかつた。 |
「藝術のジャンルとして散文が修辭學と絶縁」した。 |
修辭學と絶縁後の、散文作家に「散文の限界」が明確に意識化される。「少なくともド・クインシーにおいては明確な自覺があつた」。 |
*以下はド・クインシーの文章についての纏め
(參照⇒別紙PP「散文・詩學・修辭學sanbun.shigaku.shuujigaku.pdf へのリンクの2頁」)
ド・クインシーにおいては「散文の限界」への明確な自覺⇒著作『軍装のスペイン尼僧』において「言葉はそれ自身として存在」。「それ自身、一つの實在」であり、即ち「詩の言葉」となつてゐる。⇒「散文の限界」に明確な自覺⇒自己破壊的・生活の破壊者(百五十二・四)⇒ド・クインシーは「詩を信じながら詩學も韻律學も修辭學も信じてはゐなかつた」(P53下)。何故ならば「言葉は實在であるがゆゑに頼るべからざるものである」が爲に。⇒ド・クインシーの如く言葉が「一つの實在」「詩の言葉」とはなつてゐない浪漫主義時代散文作家の散文においては、尚更に「詩學や修辭學の手に負へない」⇒ド・クインシーの散文は「さういふ(詩學や修辭學への)不信感を物語つてゐる」(P54)⇒『軍装のスペイン尼僧』が詩學や修辭學に頼れぬことに引けめを感じてゐる」といふことは、要するに「散文では歌へぬ」(P57)と言ふこと。⇒「それを解決する方法としての『もじり』や『逆説』がユーモアとなる」⇒散文における「詩學・修辭學の缺如に引けめを感じてゐるものが現實描寫の要請に應じられるわけがなく、その點で彼は現實にもまた引けめを感じてゐた」(百六十八)。
以下、纏め的に更に簡略すると
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約束(型:E)が詩學であり修辭學「 」内が恆存文。( )内は吉野注。(參照⇒別紙PP「散文・詩學・修辭學sanbun.shigaku.shuujigaku.pdf へのリンクの1頁」) 藝術を志向する限り散文は、型即ち約束(E:詩學・修辭學)と絶縁しては、歌うこと(藝術の本質と言ふ事か?)が出來ないと言ふことである。 何故ならば、「生活とその場とから切り離すことの出來ない生の言葉を、何の約束(型)もなしに藝術の媒體として用ゐることは出來ないはずであり、その約束(型:E)が詩學であり修辭學で」(P51)あるからだ。 |
〔難解又は重要文〕:P58下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「言葉が何ものかを描寫し表現しうるものであるとするならば、その何ものかは現實の特殊な事實ではなく、理想の普遍的な型であつて、詩學や修辭學は専らそれを表現するための技法なのである」・・・この邊の文章は何を言はんとしてゐるのであらうか。以下文の括弧注を表すのではなからうか。
「言葉が何ものかを描寫し表現しうるものであるとするならば、その何ものかは現實の特殊な事實ではなく、理想(C)の普遍的な型(E)であつて、詩學や修辭學は専らそれを表現するための技法(即ちE)なのである」。即ち、理想(C)としての對象が、「藝術」であるなら、技法(即ちE)は詩學や修辭學となると言ふ事では。(參照⇒別紙PP「散文・詩學・修辭學sanbun.shigaku.shuujigaku.pdf へのリンクの1頁」
⇒そして、ド・クインシーが「詩學や修辭學を放棄したといふことは、事實に氣がねしはじめたことを意味し、しかも事實から逃げようとしてゐることは、なほ詩學や修辭學に氣がねしてゐることを意味する」⇒かかる「宿命的にアイロニカルな性格」は「本質的な散文藝術の姿」だと恆存は言ふのである。⇒しかも、その「宿命的にアイロニカルな性格の自覺を全く失つてしまつた今日の散文藝術(純文學)の未來に、なんの期待ももちえない」と恆存は言ふのである。⇒
⇒「詩學・修辭學」缺如の時代(散文小説)では、「『もじり』や『逆説』のユーモア」や「『をかしみ』に訴へる以外に手は」ないと。(參照⇒別紙PP「散文・詩學・修辭學sanbun.shigaku.shuujigaku.pdf へのリンクの2頁」)
「詩を信じながら詩學も韻律學も修辭學も信じてはゐなかつた」(P53下)、「ド・クインシーと同樣、二葉亭は修辭學のパロディーを作つてゐる」(60下)と。⇒何故なら「二葉亭の目に映つた新時代の戀も出世も、失戀も落伍も、修辭學の樣式化に堪へぬものだつた」からである。⇒故に、ド・クインシーの「それ(詩學・修辭學缺如)を解決する方法としての『もじり』や『逆説』がユーモアとなる」と同樣に、二葉亭は「『をかしみ』に訴へる以外に手はなかつた」(60下)。
〔ド・クインシー 二葉亭:兩者の類似點〕
(參照⇒別紙PP「散文・詩學・修辭學sanbun.shigaku.shuujigaku.pdf へのリンクの2頁」)
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類似點 |
ド・クインシー |
二葉亭 |
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詩學や修辭學への不信 |
ド・クインシーは詩を信じながら詩學も韻律學も修辭學も信じてはゐなかつた(P53下)。 言葉は實在。⇒故に詩學や修辭學の手に負へない。⇒ド・クインシーの散文はさういふ不信感を物語つてゐる(P54)。 |
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散文における詩學・修辭學の缺如 |
即ち「散文では歌へぬ」(P57)と言ふこと。⇒「『もじり』や『逆説』がユーモアとなる」 |
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修辭學との關聯 |
「修辭學のパロディーを作つてゐる」(61下)。 |
「ド・クインシーと同樣、二葉亭は修辭學のパロディーを作つてゐる」(61下)。 何故なら「二葉亭の目に映つた新時代の戀も出世も、失戀も落伍も、修辭學の樣式化に堪へぬものだつた」から。→「『をかしみ』に訴へる以外に手はなかつた」(60下)。 |
*散文藝術における彼我の差(C”及びEの差異)。即ち以下(E)は、散文における、修辭學缺如に對應する爲の方法論と言ふ事か? ((參照⇒別紙PP「散文・詩學・修辭學sanbun.shigaku.shuujigaku.pdf へのリンクの3頁」)
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彼我 |
C” |
E(型) |
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西歐近代小説(個人主義小説) |
神の代わりに自己(自己完成) |
散文(E)小説 |
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私小説 |
自己主人公化(自己陶酔) |
一人稱(E)體小説 |
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漱石 |
背後の道徳(C) |
文學は遊び(理屈Eによる遊び) |
日本の「詩學・修辭學」缺如の時代(散文小説)の理由は以下の通り
〔難解又は重要文〕:P58下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「明治の中頃、わが國に言文一致體が生じた」⇒文語體(型E)放棄⇒言葉の藝術(C)にとつて最も大切なものを失つた。即ち「詩」「詩との關聯」即ち私たちの散文は律・語勢・格調(型E)を喪失。⇒「私たちは、和文脈の、あるいは漢文脈の、さらにまた兩者の融合によつて完成された文體の修辭學(型E)とあへて絶縁したのである」⇒二葉亭の目に映つた新時代の戀も出世も、失戀も落伍も、修辭學の樣式化に堪へぬ(型E缺如)ものだつたし、また彼の學んだ修辭學(型E)は自他の現實をとらへぬものだつた」⇒たがひに不調和なその兩者を噛み合せること(アイロニー化と言ふ型E)によつて、『をかしみ』(E)に訴へる以外に手はなかつたのだ」(60下)。⇒「『をかしみ』は正統的な修辭學(E)がもはや用をなさぬ領域(散文藝術そして性も)に適用された、いはば庶出の修辭學(E)」。(參照⇒別紙PP「散文・詩學・修辭學sanbun.shigaku.shuujigaku.pdf へのリンクの2頁」)
何故ならば、「事實は語るべきものではなく、ただ在るもの」(62上)だから。
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參照: 「私たちは實在について語りうるだけで、實在を語つてゐるのではない」(P15上)⇒ 「分析において私たちはつひに實在と合しえないと同時に、綜合において私たちはつひに實在から離れえない」(P15下)。 |
⇒故に「現實のうちには、修辭學の手の届かぬ領域といふものがある。厳密に言へば、現實とはすべてさういふもの(修辭學の手の届かぬ領域)なのだ。現實は言葉のうちにはない。言葉は現實を現さない」(62上)⇒故に散文藝術では『をかしみ』(庶出の修辭學:E)で歌ふ以外に手はなかつたと恆存は言ふのであらう。
⇒「言葉は對象を描寫するするためのものではない」(P69下)。何故ならば、「事實は語るべきものではなく、ただ在るもの」(62上)だから。⇒何故ならば「分析において私たちはつひに實在と合しえないと同時に、綜合において私たちはつひに實在から離れえない」(P15下)から。⇒「分析が細かければ細かいほど、つまり言葉を多く用ゐ、時間をかければかけるほど、どんなつまらない對象も新鮮に見えてくる」(P70上)⇒「言葉は客觀的に描寫しない。言葉は描寫によつて強意し強制する」(P70下)⇒故に「言葉は事物を指し示さず、すべて象徴(暗号の符牒)となる」(P71上)⇒「現代(は)、言葉は自分の肉體のやうに自分のものだと思ひこんでゐながら、事實は全くその外にあるといふやうな、さういふ時代」(P71上)⇒即ち、「『巨人の衣裳』のやうな言葉を、すぐそのまま自分の體に合ふもののやうに氣樂に使つて怪しまないのは、言葉を自分の内に保つてゐないからではないか。自分の内に保つてゐないといふより、もともとさうすべきものだとも、さうしうるものだとも考へてゐないからではないか」(P71上)⇒前々項及び前項は、日本人において、言葉が自分のものになつてゐないにも關はらず、しかも言葉の「so called」=「自己所有化」の必要性すらも「現代は」省みられてはゐない、と言ふ事では。文中の「さうすべきものだとも、さうしうるもの」とは、「so called」(自己所有化)の必要性を指してゐる⇒以下参照。
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參照:別紙PP「個人の強靱化(精神の近代化)」kojinnokyoujinka.pdf へのリンク *「日本の近代化の難しさが芝居の世界で解る」。 *「自分と言葉(物)との距離の測定が出來る」とは「言葉(物)を自己所有化する」と言ふ事。即ち、意識度を高くし、言葉(物)の用法に細心の注意をし、「言葉(物)を自分から遠く離す事によつて、逆にその言葉を精神化し、支配、操作する事が出来る様になる」(P391全七)。さうする事によつて「自分に近付け、言葉を物そのものから離して自分の所有にする事が可能になる」。 |
*「(小説家は)自分の書きつける言葉が讀むものに象徴として受けとられることを望む(さうした助平根性なる下心をもつ)」(P73下)⇒「作者は象徴としての言葉の権威に頼らうとする。彼自身の特殊な、特殊であるだけにそれだけでは取るにたらぬ經驗や發見を、言葉によつて意味づけし、それを普遍的な價値にすりかへる」(P74上)⇒「表現において作者がある言葉に託してゐる内容は、理解の場でそのまま讀者に傳はらず、讀者が自分の生活においてその言葉に託してゐる内容に變形される。ある言葉が、あるいはある作品が人に理解されないのはそのためである。のみならず、それが理解されるのも、そのためである。つまり、さういふ誤解による理解を成立させるのに、言葉の象徴化が大いに役だつてゐる」(P74下)⇒「言葉が萬人共有のものだといふ言語觀があればこそ、私たちは誤解や裏切りや自己中心の罪をあばかれずにすんでゐる」(75上)⇒「人は言葉によつて自分を知り、他人を知る。だから、言葉と正しくつきあつてゐないと(上枠文『言葉の自己所有化」參照』)、自分とすら正しくつきあへない。そして、言葉と正しくつきあふとは、言葉によつてしか自他の現實をつかみえないにもかかはらず、そんなことは言葉には不可能だと思ひ知ることである。つまり、表現や理解についての悲觀論の上に立つことだ」(75下)(じやあ、「言葉の自己所有化」は不可能と言ふことではないか!)⇒「言葉によつては自他の現實をつかみえない」悲觀論を持つが故に、チェーホフは「言葉や文學に科學を期待しなかつた。いや、藝術をさへ期待しなかつた。チェーホフを支へてゐたものは徹底的な職人の自信であつた」(75下)と恆存は言ふ。
〔難解又は重要文〕:P77上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
エリオットの文「私たちが意識的に暮らしながら行動に驅りたてられるさいの、それとはつきり名づけられ分類しうる感情や動機とは別に(中略)その向うに境界の定かならぬ領域ともいふべきものがあつて、そこに漂ふ心の陰翳となると、私たちは、いはば眼の片隅でやうやくそれをとらへうるといつたもので、完全に焦點を合せることが出來ないのです」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。多分かう言ふ事(括弧内參照)では。
「私たちが意識的に暮らしながら行動(集團的自我:A)に驅りたてられるさいの、それとはつきり名づけられ分類しうる感情や動機(A)とは別に(中略)その向うに境界の定かならぬ領域(C或いはBC)ともいふべきものがあつて、そこに漂ふ心の陰翳(個人的自我:B)となると、私たちは、いはば眼の片隅(マラルメ詩「眼に陰を宿したる青苔ふりし花園」と同?)でやうやくそれをとらへうるといつたもので、完全に焦點を合せることが出來ない(言葉には不可能。つまり、表現や理解についての悲觀論と言ふことでは)のです」
⇒故に、チェーホフは「言葉や文學に科學を期待しなかつた。いや、藝術をさへ期待しなかつた」(75下)であり、「シェイクスピア(自己劇化D2)の裏返しをもくろんだ」と言ふ、「かう描かれたいといふ姿勢=自己解釋・獨り合點:D1」の描寫はその事を指すのであらうか。「完全に焦點を合せることが出來ない」が故に、チェーホフの「徹底的な職人(E)の自信」でのみ書ける世界と言ふ事であらうか。
(參照⇒別紙PP「散文・詩學・修辭學sanbun.shigaku.shuujigaku.pdf へのリンク4頁」)
⇒「チェーホフの作品は決して劇詩(E)の方を向いてはゐず、むしろ後向きに散文劇の、いや、一般の散文といふものの限界を指し示してゐる。それどころか彼の戯曲は、言葉そのものの限界(「言葉によつてしか自他の現實をつかみえないにもかかはらず、そんなことは言葉には不可能」と言ふ事であらう)において戲れる言葉のとびかひとさへ言つていいものになつてゐる」。即ち「徹底的な職人(E)」藝によつて、「言葉そのものの限界において戲れる」事を可能にせしめてゐる、と恆存は言ふのであらう。
⇒「チェーホフの新しい作劇術は、劇における寫實の概念を究極にまで追ひつめ、その次元を一變せしめた」(P77上)
⇒「(大抵の作者は)對象を寫實的に描いたのではなく、ただ寫實を描いたのに過ぎない。寫實といふ觀念や技法のために、對象がそこにあるだけの話だ」(P77下)。
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*此の邊から、「寫實」に對するチェーホフと恆存の同一的立脚點が表出されてくる。即ち、先述すると、 「言葉は寫實ではなく用途。言葉は物(F)を指し示す物の影(寫實)ではなく『實在物=關係D1』を目に見える樣に(E)傳へる用途を持つてゐるものなのである」(講演カセット「シェイクスピアの魅力」より要旨)と言ふ内容が・・。 |
⇒(P78上)「チェーホフだけは寫實にたいして無条件の信仰を懷いてはゐなかつたのである。チェーホフは對象の核心に迫る作者の眼(寫實)などといふものを過信してゐなかつた」(とは、「言葉そのものの限界」即ち「言葉によつてしか自他の現實をつかみえないにもかかはらず、そんなことは言葉には不可能」と知つてゐるからであらう)。
⇒「チェーホフは登場人物がそれぞれにかう描かれたいといふ姿勢を知つてゐて、その肖像を彼等が欲するやうに描いた」(P78上)。・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。是は重要な文章である。何故ならば、恆存がよく言ふ、以下枠文と同意@或いは大きく關聯性Aを持つからである。つまり、「かう描かれたい(かう描かれたいといふ姿勢)」は關係(D1)を指し、それは以下枠文「場面(C”)から生ずる心の動き(D1)」と同意なのである。それ故に「かう描かれたい:D1」は、シェイクスピアの自己劇化(D2)の「裏返しをもくろんだ」と言ふ前出文に繋がつていく。(參照⇒別紙PP「散文・詩學・修辭學sanbun.shigaku.shuujigaku.pdf へのリンクの4頁)
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場面(C”)から生ずる「心の動き(D1)を形ある(E)物として見せるのがせりふ(F)の力學(E)」(『シェイクスピア劇のせりふ』全7P359)。 即ち、言葉は寫實ではなく用途。言葉は物(F)を指し示す物の影(寫實)ではなく「實在物=關係D1」を目に見える樣に(E)傳へる用途を持つてゐるものなのである(講演カセット「シェイクスピアの魅力」より要旨)。 A
場( C”)から生ずる、「關係(D1)と稱する實在物は潜在的には一つのせりふ(F言葉)によつて表し得る」。故にその言葉との附合ひ方、扱ひ方(型・Eの形成=「型にしたがつた行動」)によつて、人間は場との關係の適應正常化が叶へられる」と言ふ事になる。 |
前項から續く⇒(P78上)「寫實を口にする資格があるのは、さういふ底意のない(その肖像を彼等が欲するやうに描いた)眼だけである。人間を寫しとらうとするなら、それを物として寫しても始らぬ。その意識を寫しとらねばならない」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。それは以下括弧注を意味するのであらう。「寫實を口にする資格があるのは、さういふ底意のない眼だけである。人間を寫しとらうとするなら、それを物として寫して(對象Fの寫實)も始らぬ。その意識(場面C”から生ずる心の動き=關係D1)を寫しとらねばならない」。
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「人間を寫しとらうとするなら、それを物として寫しても始らぬ。その意識を寫しとらねばならない」の文章は、前項でも書いたが、恆存の以下文と照合する樣に思へる。 *「言葉は寫實ではなく用途。言葉は物を指し示す物の影(寫實)ではなく「實在物=關係D1」を目に見える樣に(E)傳へる用途を持つてゐるものなのである」(講演カセット「シェイクスピアの魅力」より要旨)。 *場( C”)から生ずる、「關係(D1)と稱する實在物は潜在的には一つのせりふ(F言葉)によつて表し得る」(『せりふと動き』)。故にその言葉との附合ひ方、扱ひ方(型・Eの形成=「型にしたがつた行動」)によつて、人間は場との關係の適應正常化が叶へられる、と言ふ事になる。參照⇒別紙PP「個人の強靱化(精神の近代化)kojinnokyoujinka.pdf へのリンク |
⇒「本人の意識(場面C”から生ずる心の動きD1=關係)を無視して、物(對象F)としての彼をとらへうると言ふ盲信は、實證科學の影響であらう。私たちはまだそれから自由になつてゐない。(中略)すべてを物(對象F)として寫しとり、物としてしか寫しとれぬといふ實證科學は、ただその延長線上に意識を(物Fとして)發見しただけのことなのである」(P78下)⇒「おかげで精神もまた物(F)にされてしまつた」(P78下)。
此の邊の文章に對立する内容としては以下枠文、特に傍線部が重要である。即ち「在るもの(實在するもの)は關係だけである」と恆存は言ひ放つてゐるのである。そして、前出枠文から想念を追へば、言葉は「すべてを物(對象F)として寫し」とる、即ち「物を指し示す物の影(寫實)ではなく『實在物=關係D1』を目に見える樣に(E)傳へる用途を持つてゐるものなのである」と繋がる。
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〔難解又は重要文〕:P23上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 「いはゆる個體といふのは關係(D1)のうちにあり、關係によつて保たれる部分(集團的自我A+個人的自我B)に過ぎない。が、そのいはゆる個體もそれを構成する部分の關係體に過ぎない。そして、それらの關係體を組合せた究極の關係體を私たちは全體(C)と呼ぶ。その究極の關係體はただ一つしかない。いやしくも世に『存在する』と言ひうるものはそれだけである。それなら、在るものは關係だけである」。 |
〔難解又は重要文〕:P79上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「チェーホフの戯曲の寫實は、もしそれが寫實と呼びうるものなら、はなはだ單純なところにその秘密がある。作者は登場人物の眞意を決して問いたださぬと書いたが、それは言ひかへれば、彼等の自己解釋を作者がそのまま採用してゐるといふことだ。そして、チェーホフの戯曲の登場人物はほとんどすべて自己解釋を行つてゐる。自己解釋に熱中し、劇の始めから終りまで自己解釋だけしかしてゐない。それだけが自分の生甲斐だとでも言つてゐるかのやうだ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。以下文の括弧注を表すのではなからうか(參照⇒別紙PP「散文・詩學・修辭學sanbun.shigaku.shuujigaku.pdf へのリンクの4頁)。
「チェーホフの戯曲の寫實は、もしそれが寫實と呼びうるものなら、はなはだ單純なところにその秘密がある。作者は登場人物の眞意を決して問いたださぬと書いたが、それは言ひかへれば、彼等(登場人物)の自己解釋(「かう描かれたい」と言ふ意識=場面C”から生ずる心の動き=關係D1)を作者がそのまま採用してゐるといふことだ。そして、チェーホフの戯曲の登場人物はほとんどすべて自己解釋(同上D1)を行つてゐる。自己解釋に熱中し、劇の始めから終りまで自己解釋(D1)だけしかしてゐない。それだけが自分の生甲斐(D3自己満足=個人主義の病弊?)だとでも言つてゐるかのやうだ」(P79上)。參照⇒別紙 自己表現D2
つまり、それはかう言ふことになる。「現在の自分をさういふものであると解釋(自己解釋D1)したはうが、この人生が最も居心地のよいもの(D3自己満足・生甲斐)になるといふことだ」。(中略)「彼等はせりふで、言葉で、自分の生甲斐を確めてゐる((D3自己満足)のであつて、自分を表現(自己表現D2)しようなどとはしてゐない。作者(チェーホフ)も言葉をさういふもの(言葉を自己表現D2)とは受けとつてゐない」(P81上)。「言葉による自己表現(D2)などといふことを信じてゐない」(P81上)と。また「チェーホフだけは寫實にたいして無条件の信仰を懷いてはゐなかつたのである。チェーホフは對象の核心に迫る作者の眼(寫實)などといふものを過信してゐなかつた」と。
「自己表現(D2)」は西歐リアリズム(寫實主義)小説が捉えた「人間いかに生くべき」などと言ふ大仰なものではなく、自己解釋の「模倣」にしか過ぎないと以下の樣に恆存は書いてゐる。
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「(人は)自分が下した自己解釋(D1)を模倣(自己表現D2)し、それに辻褄を合せよう(D3自己満足・生甲斐)とする」(P81下)。 |
つまり西歐近代における自己表現(模倣)は、「場(C”) ⇒心の動き・意識・自己解釋(D1關係)⇒自己解釋の模倣(自己表現D2)⇒自己完成(C”自己主人公化)⇒自己満足・生甲斐(D3)」と言ふ、近代人(個人主義者)特有の、「意識のメカニズム」の一過程なのである。しかも自己表現(D2)とは、自由意思なる「精神」としての獨立した「物」なのではなく「心の動き・意識・自己解釋(D1關係)」による次發なる心理現象(模倣)なのだと恆存は言ふのである。更に詳しく記載するならば以下枠の一過程(傍線部分)なのである。
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〔恆存の言ふ、西歐近代自我(個人主義)の末路〕 近代=「神の死」即ち「神意(宿命)喪失」⇒神の代はりに自己の手による宿命演出⇒自己主張(自己表現)・自由意思(人間如何に生くべき)⇒自己完成(自己主人公化・自己全体化・自惚鏡)⇒自己陶酔・自己満足・自己絶対視・自己証明による「似非實在感」⇒エゴイズム(近代自我の必然)⇒自己喪失(自己への距離感喪失)。 |
であるから人間を寫しとらうとするなら、初發としての「意識・自己解釋(D1關係)」を寫しとらねばならない。即ち「人間を寫しとらうとするなら、それを物として寫しても始らぬ。その意識を寫しとらねばならない」(P78上)のだと。參照別紙⇒自己表現D2
是はどう言ふ事かと言ふと、自己表現(D2)を「人間いかに生くべき」の眞實的自己と捉へ、その寫實が可能とした西歐近代小説(リアリズム小説・個人主義小説)に對して、その行爲は「人間を物として寫す」事だと恆存は(そしてチェーホフも)見てゐるのである。「本人の意識を無視して、物としての彼をとらへうると言ふ盲信は、實證科學の影響であらう」と書いてゐる樣に。で、どう言ふ風に二人は見ているかと言ふと、自己表現(D2)は自己解釋(D1)同樣、それは眞實的自己(「さういふものである」)などと言ふものではなく、ただの願望(「さうありたい」自己)でしかないのだと(下項:P81下、説明文參照)。
チェーホフも(恆存も)、「言葉をさういふもの(言葉を自己表現D2)とは受けとつてゐない」(P81上)と言ふ、この邊の内容は重要なので、重複するやうであるが以下枠文をもつて補ふ。
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以下文、「 」内が概ね恆存文。( )内は吉野注。 1.「人間を寫しとらうとするなら、それを物として寫しても始らぬ。その意識を寫しとらねばならない」(P78上)。 3.
「本人の意識(場面C”から生ずる心の動きD1=關係)を無視して、物(對象F)としての彼をとらへうると言ふ盲信は、實證科學の影響であらう。私たちはまだそれから自由になつてゐない。(中略)すべてを物(對象F)として寫しとり、物としてしか寫しとれぬといふ實證科學は、ただその延長線上に意識を(物Fとして)發見しただけのことなのである」(P78下)⇒「おかげで精神もまた物(F)にされてしまつた(この邊は實證科學を標榜した西歐リアリズム小説=寫實主義小説の事を言つてゐるのである)」(P78下)。 「2」について恆存は、さうではなく、「言葉によつてしか自他の現實をつかみえないにもかかはらず、そんなこと(物として寫しとる事)は言葉には不可能」(75下)と言ひ放つ。「人間いかに生くべき」を自己表現(D2)の眞實的自己と定義し、それを寫實出來るとする西歐リアリズム小説の論は不可能であると見る。何故なら「言葉は客觀的に描寫しない」(P70下)からだと。それ故に、言葉が「寫し」得る對象があるとすれば、それは意識(關係=場から生ずる心の動きD2)以外にはなく、しかも「いやしくも世に『存在する』と言ひうるもの」があるとすれば、その「在るものは關係(D1)だけである」からと言ふのである(前出:P23上)。 是はどう言ふ事かと言へば、恆存はチェーホフの寫實についても「もしそれが寫實と呼びうるものなら」、關係(D1)を重要視してそれを寫實の對象としたと言つてゐるのである。勿論「自己解釋」を人間の眞實的自己として採用してゐるのではなく、願望(場面C”から生ずる心の動き=關係D1)と言ふ名の、「ただ在るもの」(62上)即ち實在物としてそれを採用してゐるのだと。 「在るものは關係だけである」(P23上)が、しかもそれを「言葉は客觀的に描寫しない」(P70下)又はし得ないのである。「言葉は對象を描寫するするためのものではない」(P69下)。何故ならば、「事實は語るべきものではなく、ただ在るもの」(62上)だから。つまり「願望(自己解釋)」は「ただ在るもの」(場面C”から生ずる心の動き=關係D1)なのである。 この邊の文章は、向後(十八年後)の演劇評論にある以下枠文を想起させる。恆存は言ふ、言葉は寫實ではなく「用途」なのだと。 以下枠文を参考としこの問題をなんとか纏めてみるとかうなる。 「願望(自己解釋)」は「ただ在るもの」(場面C”から生ずる心の動き=關係D1)。言葉はそれを客觀的に寫實し得ないが、「せりふ(言葉)の力學(型E=フレイジング・so called)」で、その「關係(D1)と稱する實在物」は表し得るのである、と。
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更には、上記枠文と當評論前半部を併せて考へるに、以下の樣に要約できるのではなからうか。
即ち、散文は寫實にありと捉へたのは、西歐近代小説の迷妄と恆存は言つてゐるのであらう。言葉は寫實できないにも關はらず、西歐近代小説は「寫實」の假説を追ひ續け、散文の方法論(E)として「寫實」に活路を見いだした。そして、「眞實的自己」を寫すべく、寫實の對象として自己表現(人間いかに生くべき:D2)に逢着したのであると。そして西歐近代小説の對極にチェーホフを、前述の如く恆存は捉へてゐるのである。
〔難解又は重要文〕:P81下。此處は前項と重複する内容もあるが、再探究の重要項目と捉へて、そのまま記載する「 」内が概ね恆存文。( )内は吉野注。
「自己表現、あるいは自己解釋といふのは、自分がさういふものであるといふことを意味しない。ただ自分はさうありたいといふだけのことだ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。以下文の括弧注を表すのではなからうか。參照別紙⇒自己表現D2
「自己表現(D2)、あるいは自己解釋(D1)といふのは、自分がさういふもの(眞實の自己)であるといふことを意味しない。ただ自分はさうありたい(願望)といふだけのことだ」。
そして「自分がさういふもの(眞實の自己)であるといふことを意味しない」が故に、「人間いかに生くべき=自己表現D2」を願望としてではなく、人間の眞實として忠實に寫さんとする、西歐近代小説(リアリズム小説・個人主義小説)は、眞實を寫す「寫實」には繋がらない、と言ふ事になるのであらう。
自己解釋(D1)は眞實の自己ではなくただの「さうありたいと言ふ願望」。何故なら「人が自分について語る言葉ほど信用できぬものはない」(P84上)から。そして自己表現(D2)は自己解釋(願望D1)の「模倣」でしかないなのだと(參照:81下「自分が下した自己解釋を模倣し、それに辻褄を合はせようとする」)。
つまり「自己表現(D2)」は、「物」として獨立したものではないのだと言ふのであらう。にもかかはらず「本人の意識(場面C”から生ずる心の動きD1=關係)を無視して、物(對象F)としての彼をとらへうると言ふ盲信は、實證科學の影響であらう。私たちはまだそれから自由になつてゐない。(中略)すべてを物(對象F)として寫しとり、物としてしか寫しとれぬといふ實證科學は、ただその延長線上に意識を(物Fとして)發見しただけのことなのである」(P78下)⇒「おかげで精神もまた物(F)にされてしまつた」(P78下)のだと、その樣に恆存は言ふ。
上述の「人間いかに生くべき=自己表現(D2)」は、自由意思なる「精神」としての獨立した「物」なのではなく、それは、場面C”から生ずる心の動き(願望意識D1)の「模倣」でしかないのだと言ふのである。「ただ自分はさうありたいといふだけのこと」であり、その「願望⇒模倣」である自己表現・自由意思とは、以下の樣な人間心理から成り立つものなのであると。
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「人はなにも立派な行爲や幸福な生活だけを眞似たがりはしない。堕落すればしたで、不幸になればなつたで、それぞれの型(E)を眞似ようとして、歴史(C時間的全體)のなかに、周囲(C”場)に物語や劇や小説(C”場)に、それを探し求る(場面C”の設定)であらうし、自分が下した自己解釋(かう描かれたいと言ふ意識・願望=場面C”から生ずる心の動き=關係D1)を模倣(自己表現D2・ボヴァリズム)し、それに辻褄を合はせようとする(生甲斐=居心地の良さ=自己満足D3)であらう」(P81下)。 |
此處は重要なので繰り返すが、自己表現(D2)とは、自由意思なる「精神」としての獨立した「物」なんぞではなく、かくの如く「願望⇒模倣」によるもの。即ち「場面C”設定⇒關係D1(自己解釋:願望)⇒自己表現D2(願望模倣)⇒自己完成(C”自己主人公化)⇒自己満足D3生甲斐」と言ふ、近代自我(個人主義)特有の、意識のメカニズムからなるものなのである。參照別紙⇒自己表現D2
しかしながら、近代の命題(自由・平等・友愛)を基盤にした、西歐近代小説(リアリズム小説・個人主義小説)は、自己表現(D2)を自由意思なる「精神」と言ふ、獨立した「物」として捉へ、それを寫實出來うるものとした(以下枠文傍線參照)。
自己表現は、神の束縛から脱出した人間が行ふ自由意思の賜物(即ち自己の手から成る「人間いかに生くべき」と言ふ創造)と捉へたのである。それについて恆存は(そしてチェーホフも)異を唱へるのである。つまり、自由意思なる精神と言ふ獨立した「物としての彼をとらへうると言ふ盲信は、實證科學の影響であらう」と。
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〔恆存の言ふ、西歐近代自我(個人主義)の末路〕參照別紙⇒自己表現D2 近代=「神の死」即ち「神意(宿命)喪失」⇒神(C)の代はりに自己(C”)の手による宿命演出⇒D2自己主張(自己表現)・自由意思(人間いかに生くべき)⇒C”自己完成(自己主人公化・自己全體化・自惚鏡)⇒D3自己陶酔・自己満足・自己絶對視・自己證明による「似非實在感」⇒エゴイズム(近代自我の必然)⇒自己喪失(自己への距離感喪失)。 |
恆存は、上記の樣な個人から發した自由意思なる「精神」が、「自己を表現する」のだと言ふ近代自我(個人主義)の思想に異を唱へてゐるのである。自己表現(D2)は獨立した存在物なのではなく、「いやしくも世に『存在する』と言ひうるもの」があるとすれば、その「在るものは關係(D1)だけである」と言ふのである(P23上)。故に、「自己を表現する」ではなく「自己は表現せられる」ものなのであると、以下の樣に反論してゐる。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 「われわれが敵(自己を超えたる場:C)としてなにを選んだ(關係を結ぶ)かによつて、そしてそれといかにたたかふ(宿命/自己劇化)かによつて、はじめて自己は(創作物等に)表現せられるのだ」と。(『自己劇化と告白』全二P412) |
この自己表現(模倣)について、向後の評論「全四『文學以前』昭和四十年著」でも、恆存は「アリストテレス」の思想として「技術は自然を模倣する」 と記述してゐる(以下参照)。即ち技術は自然(C)と關係を結んでゐる事によつて、「技術は自然を模倣する」(表現せられる)のだと。
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〔技術は自然を模倣する〕 自然(C)⇒自然に内在する目的因・意思の命令(天命・關係・宿命・D1)⇒技術「模倣D2」即ち「目的因の命令(宿命)に從ふ自己劇化」。參照別紙⇒アリストテレス |
此處でも言へる事は、「いやしくも世に『存在する』と言ひうるもの」があるとすれば、その「在るものは關係(D1)だけである」(P23上)と言ふ事になるのである。
もう一度話をチェーホフに戻す。
自己表現(D2)とは、自由意思なる「精神」としての獨立した「物」なのではなく、かくの如く「願望⇒模倣」によるものとチェーホフも捉へるが故に、チェーホフの戯曲の寫實は、「言葉をさういふもの(自己解釋や自己表現を描く事が寫實)とは受けとつてゐない」(P81上)のだと恆存は言ふ。
チェーホフの戯曲の寫實とは、「もしそれが寫實と呼びうるものなら」、關係D1(心の動き・意識)=自己解釋、を採用してゐる。しかし、自己解釋を眞實の自己と見て寫實してゐるのではなく、場面(C”)から生ずる關係(D1)である「願望」として、即ち「ただ在るもの(實在物)」(62上)として、それを寫實してゐるのであると。
それは、眞實として寫實してゐるのではなく、自己解釋を「關係と稱する實在物として」捉へてゐると言ふのであらうか。つまり以下枠の恆存持論とそれは照合するものとして。
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*場( C”)から生ずる、「關係(D1)と稱する實在物は潜在的には一つのせりふ(言葉=問答・對話・獨白)によつて表し得る」(『せりふと動き』全7P300)。 |
前出文「彼等(登場人物)の自己解釋(かう描かれたいと言ふ意識=場面C”から生ずる心の動き=關係D1)を作者がそのまま採用してゐるといふことだ」の「そのまま採用」とは、自己解釋を眞實の自己としてではなく、「願望(さうありたい)」と言ふ「實在物」としてだけそれを採用してゐることを示すのであらう。
「かういふもの(自己解釋)を寫實と呼んでいいのだらうか。が、人が自分について語る言葉(自己解釋:D1)ほど信用できぬものはない。それが信用できるなら、すなはち自己解釋(D1)に用ゐた言葉が當の自己を寫實してゐると信じられるなら、それならチェーホフの完璧な寫實を信じるがよい(何故なら「チェーホフの戯曲の登場人物はほとんどすべて自己解釋を行つてゐる。自己解釋に熱中し、劇の始めから終りまで自己解釋だけしかしてゐない」からだ)。が、チェーホフ自身はそれを信じてはゐなかつた」(P84上)。何故なら「チェーホフも言葉をさういふもの(自己表現D2や自己解釋D1は事實を寫す=寫實)とは受けとつてゐない」(P81上)。自己解釋も自己表現も「ただ自分はさうありたい(願望及び願望模倣)といふだけのことだ」(參照次項)からである。
〔難解又は重要文〕:P81下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「それぞれの型を眞似ようとして、歴史のなかに、周囲に、物語や劇や小説に、それを探し求めるであらうし、自分が下した自己解釋を模倣し、それに辻褄を合はせようとするであらう」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。以下文の括弧注を表すのではなからうか(參照⇒別紙PP「散文・詩學・修辭sanbun.shigaku.shuujigaku.pdf へのリンクの4頁)
「それぞれの型(E)を眞似ようとして、歴史(C)のなかに、周囲(C”場)に、物語や劇や小説(C”場)に、それを探し求める(場面C”の設定)であらうし、自分が下した自己解釋(かう描かれたいと言ふ意識・願望=場面C”から生ずる心の動き=關係D1)を模倣(自己表現D2・ボバリズム))し、それに辻褄を合はせようとする(生甲斐=居心地の良さ=自己満足D3)であらう」。即ち「場面C”設定⇒關係D1(自己解釋:願望)⇒自己表現D2(願望模倣)⇒自己完成(C”自己主人公化)⇒自己満足D3生甲斐」と言ふ近代人(個人主義者)の病弊的メカニズムを表すのでは(參照別紙⇒自己表現D2
〔難解又は重要文〕:P82下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「自分との折合ひを缺いた人間が、それゆゑになんとか折り合ひをつけようとして、自分なりに首尾一貫した人生圖をただ描きたいといふだけのことにすぎぬ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。以下文の括弧注を現すのではなからうか。「自分との折合ひを缺いた人間(獨り合點・自己解釋D1=「かう描かれたい」と言ふ願望)が、それゆゑになんとか折り合ひをつけよう(辻褄を合はせようとする=生甲斐=居心地の良さ=自己満足D3)として、自分なりに首尾一貫した人生圖をただ描きたい(「自己解釋=願望」の模倣としての自己表現D2をしてゐる)といふだけのことにすぎぬ」と言ふ事では。
〔難解又は重要文〕:P82下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
⇒「自分の獨り合點に一生を賭けてゐる當人を見れば、その悲しみにも苦痛にも共感することが出來る」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。以下文の括弧注を表すのではなからうか。一見「自分の獨り合點(自己解釋D1)に一生を賭けてゐる(自己表現・自己劇化D2)」とも理解できそうであるが、以下枠文と照合して見るに、「一生を賭けてゐる」は「自分の生甲斐を確めてゐる(D3自己満足)」に當たるのではなからうか。
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「彼等はせりふで、言葉で、自分の生甲斐を確めてゐる((D3自己満足)のであつて、自分を表現(D2)しようなどとはしてゐない。作者(チェーホフ)も言葉をさういふもの(自己表現D2=寫實)とは受けとつてゐない」(P81上) |
〔難解又は重要文〕:P84上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「一つ一つのせりふが、そのつど物であつて、同時にそれ自體を指示してゐるからだ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。以下文の括弧注を含めた内容を表すのではなからうか(參照別紙PP)。「一つ一つのせりふ(F)が、そのつど物(F)であつて、同時にそれ自體を指示してゐるからだ」。つまりド・クインシーの處で書いてある、「言葉はそれ自身として存在」。「それ自身、一つの實在」(P51〜3附近)との意を示してゐるのでは。
〔難解又は重要文〕:P84上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「かういふものを寫實と呼んでいいのだらうか。が、人が自分について語る言葉ほど信用できぬものはない。それが信用できるなら、すなはち自己解釋に用ゐた言葉が當の自己を寫實してゐると信じられるなら、それならチェーホフの完璧な寫實を信じるがよい。が、チェーホフ自身はそれを信じてはゐなかつた」(P84上)・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。以下文の括弧注を含めた内容を表すのではなからうか。「かういふもの(自己解釋)を寫實と呼んでいいのだらうか。が、人が自分について語る言葉(自己解釋:D1)ほど信用できぬものはない。それが信用できるなら、すなはち自己解釋(D1)に用ゐた言葉が當の自己を寫實してゐると信じられるなら、それならチェーホフの完璧な寫實を信じるがよい(何故なら「チェーホフの戯曲の登場人物はほとんどすべて自己解釋を行つてゐる。自己解釋に熱中し、劇の始めから終りまで自己解釋だけしかしてゐない」からだ)。が、チェーホフ自身はそれを信じてはゐなかつた」。何故なら「チェーホフも言葉をさういふもの(自己表現D2=寫實)とは受けとつてゐない」(P81上)からである。
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