平成二十二年十月十一日
『福田恆存を讀む會』
K.K會員:『小説の運命TU』讀書メモ。
geijyutsutoseiji.b.pdf へのリンク
發表者 吉野櫻雲
十月選擇評論:全集第四巻所收【『藝術と政治』――安保訪中公演をめぐつて】(「藝術新潮」昭和三十五年十月:四十九歳著)
今囘も、なかなか見事な時機を得た選擇評論(擔當:K會員)と言へる。何故ならば、讀んでいて、どうしても今般の「尖閣諸島事件(H22.9:中國漁船衝突事件及び領海侵犯)」へと、想到してしまふからである。よつて、當評論八 歸國後の責任の小生レジュメで、以下枠文の樣にそれを取り上げた。
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「訪中公演」後、結果として中國は、新劇人及び日本に對してどう思つたのであらうか。恆存は言ふ、「彼等(中國)は日本の新劇人を、そして日本をなめてゐるであらう」と・・。 此處で話は逸れるが、将に、この頃から營々と續いた、中國への阿り=「茶坊主的コンタクト」行動の数々、そして結果としての「日本をなめてゐる」が、今般の「尖閣諸島事件(H22.9:中國漁船衝突事件及び領海侵犯)」と言ふ、国辱的現象を導く遠因となつてゐたのではある。 |
恆存が言ふ「茶坊主的コンタクトマン」(筆頭=朝日新聞、それに自虐史観保持者、進歩的知識人、マルキスト)等によつて、「日本城」は内通的に、外堀内堀を埋められて來た。その結果として、日本は赤子の手を捻られる如くいいやうに中國に籠絡されて來た。このまま行くと「竹島」と同樣、遠くない將來に「出城(尖閣諸島)」は陥落するであらう。
民主黨政權發足當初、小生が危惧したとほり、民主黨政權による「日本丸の沈沒化」が、此處に至つて顯著なる現實化となつた。民主黨は日本丸の喫水線を上げたどころか、今や「亡國政権」と化しつつある、とその樣に小生には思へる。では、かかる状況から脱出するにはどうしたらいいか。根本的打開策が喫緊に必要かと考へられる。即ち、民主黨政權を引き摺り降ろし、保守再篇に據る「救國政權」を造るしかない。
今囘「まへがき」は、本題から逸れてしまつた感があるが、國の安危に關はる事なので此處にお許しを請う次第である。
*今評論選擇理由・・・川上會員より。
「次囘は恆存の演劇活動の足跡をたどつてみようと考へてゐます」他⇒參照:〔冊子『雲:3』「私の演劇白書A:雲が出來るまで」P55〕
*引き續き川上會員より、LEADING(READING)へ・・・。
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〔以下は、吉野櫻雲發表文〕
と言ふ事で、今評論も中々の難解にしてかつ手ごはく、そしてどの文章も重要なのであるが、特に以下内容文を此處に取り上げる事とする。更にいつもの如く難解なる内容については、手助けを他評論に仰ぐこととする。(以下文中傍線及び括弧内は概ね吉野附記。「P9圖」云々は「讀む會テキスト」頁を表す。「A・B・D2」等も同テキスト三頁を參照の程)
(注:以下、一項目ずつ各位の感想、質疑を伺つていきます)
三 藝術上の著作権について
〔難解又は重要文〕:P345下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「改作して惡くなるか良くなるか、そんなことは問題にならぬ。その前に改作することそのことがいけないのだ。(中略)藝術に完成はなく、文學に決定稿はありえない。たとへどういふ事情で、『心ならずも』の形であるにしろ、著者が生きてゐる間に、彼が目にしてゐた形が決定稿だと認める以外に、方法がないのだ。(中略)それが藝術的にいかに未熟であり、あるいは本人がこれは『心ならずも』書いたものだといつてゐたとしても、それは本人が責任を負ふべき事柄であり、どんな善意からであらうと、第三者がそれに手を出すべきことではない」・・・此の文は重要文として記載した。尚、「藝術に完成はなく」の參考に、以下文を記載しておく。即ち、「演戯とは、何とかして絶對的なものを見いださうとすること」であるが故に「藝術に完成はなく」なのである。
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〔恆存いはく〕:(『藝術とはなにか』『人間・この劇的なるもの』より) *「藝術とは演戯である」。 *「演戯とは、何とかして絶對的なものを見いださうとすること」。 |
【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】
五 政治的なあまりに政治的な
〔難解又は重要文〕:P349上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「『女の一生』の場合は、完全に政治的な問題である。〜〜」云々・・・この邊の文章は何を言はんとしてゐるのであらうか。作者(森本薫)の「藝術的良心(B又はBC)」を、「文學座:杉村春子」「日中文化交流協會」は、政治的な問題(A:日中文化交流=訪中公演)の爲に賣り拂つた、と恆存は言はんとしているのであらう。何故さうなつてしまうのか。その本質、その根本原因を後述「九章主題」、新劇界の「日和見主義」に據るものとして、以下の樣に恆存は分析してゐるのである。
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*「日和見主義のもとは自己喪失にある。政治や社會(A)の動きに左右される弱さは、演劇理念(BC)のあいまいさと演劇(B)にたいする情熱の薄さから生じる。」。 新劇界の「日和見主義的轉向」推移: *戰後の共産黨の合法政黨化による新劇界の同傾化⇒共産黨凋落による敬遠離脱化⇒安保鬪爭での共産主義的正義への本卦還り⇒訪中公演はその手拭ひ配りの絶好機會⇒文學座は利用された。 |
【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】
六 日中文化交流とは何か
〔難解又は重要文〕:P350上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「單なる文化(B)交流ではない。中國中心の政治運動(A)なのである。事實、訪中公演の責任者のほとんどすべてが、これは文化交流(B)ではなく、民間外交(A)だ、あるいは國民外交(A)だと言つてゐる。(中略)『女の一生』の改作は、戰時中の軍官(A)、戰後の占領軍(A)に續いて、今度は勞組(A)、全學連のデモ隊(A)の意に隨つたといふことになる」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。何故政治運動(A)となつてしまうのか。是もその本質、その根本原因は、前項同樣「安保鬪爭での共産主義的正義への本卦還り⇒訪中公演はその手拭ひ配りの絶好機會」と言ふ事になるのである。やはり後述「九章主題」の文を先取りしてしまふとさうなる。さう言へば恆存は言つてゐる、「自分は本質にしか興味がない」と・・。
【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】
八 歸國後の責任
・・・この章では恆存は、日中文化交流協會「訪中公演」關係者に、歸國後も「筋をとほせ」と言つてゐるのである。「新劇人は訪中公演において示した反安保、反米の態度もつと廣く言つて政治的抵抗運動の責任を取らなければならぬ。舞臺を通じて日本の觀客に安保鬪爭を呼びかけてゆかねばならぬ」と・・。しかし彼等は「日和見主義」でそれをしなかつたと。
「訪中公演」後、結果として中國は、新劇人及び日本に對してどう思つたのであらうか。恆存は言ふ、「彼等(中國)は日本の新劇人を、そして日本をなめてゐるであらう」と・・。
此處で話は逸れるが、将に、この頃から營々と續いた中國への阿り=「茶坊主的コンタクト」行動の数々、そして結果としての「日本をなめてゐる」が、今般の「尖閣諸島事件(H22.9:中國漁船衝突事件及び領海侵犯)」と言ふ、国辱的現象を導く遠因となつてゐたのではある。
で、日本はこの「舐められきつた」状態にどう對處していくのか。将に課題は其處にあると言へる。「生か、死か、それが疑問だ、どちらが男(國)らしい生き方か、じつと身を伏せ、不法な運命の矢彈を堪へ忍ぶのと、それとも剣をとつて、押し寄せる苦難に立ち向かひ、とどめを刺すまであとには引かぬのと、一體どちらが」(『ハムレット』)。
【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】
九 日和見主義を捨てよ
〔難解又は重要文〕:P354上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「日本の新劇の歴史がそれ(日和見主義)でなくて何であらうか。(中略)日和見主義のもとは自己喪失にある。政治や社會の動き(A)に左右される弱さは、演劇理念(B又はBC)のあいまいさと演劇(B)にたいする情熱の薄さから生じる。」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。此の邊もなかなかに難解である。よつて、別けて解讀を試みてみたい。
*新劇界の「日和見主義」とは、原文に記載されてある通り、以下の事である。
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新劇界の「日和見主義的轉向」推移: 戰後の共産黨の合法政黨化による新劇界の同傾化⇒共産黨凋落による敬遠離脱化⇒安保鬪爭での共産主義的正義への本卦還り⇒訪中公演はその手拭ひ配りの絶好機會⇒文學座は利用された。 |
*次に「演劇理念(B又はBC)のあいまいさ」及び「自己喪失」とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「演劇理念のあいまいさ」とは、日本の自然主義作家達の「小説・文學」同樣、演劇も「C2:後楯・護符(西歐概念=上位概念):左圖higanosa.pdf へのリンク」、即ち「西洋」の魅力、「西洋の思想・社會・風俗の新しさに憧れ」でしかなかつたといふ事。「そのために新劇は演劇(B)に奉仕する前に、まづ日本の近代化(D1)に奉仕する事に」なつてしまつた。それが「あいまいさ」の根本原因になつてゐるのだと、恆存は言ふのである。将に西歐近代への「適應異常」が、新劇界にも出來してゐるのである。しかも最も被害甚大に・・、と恆存は言つてゐる。尚それらについては以下の文が參考になるのでは。
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新劇における西歐近代への「適應異常」 *「日本の新劇はその出發點として西洋の演劇を選んだ(C2護符化=日本の自然主義作家同樣)のであつて、その演劇理論を選んだのではなかつた(注:日本の自然主義作家同樣、内的慾求から出たものでなかつた)。今日の新劇界に見られる前衛主義も傳統への復歸も、さうした弱點にもとづく自己喪失であり、つまりは逃避にすぎない」(單行本:『私の演劇白書』「あとがき」より)注:參照(冊子『雲:2号』――大衆社會における新劇――P70) 上記をもう少し補足するとかうなる。
*「新劇が西洋の演劇を範として出發したものであることは、いふまでもありませんが、その際、當時の擔い手達が犯した誤ちの第一は、『西洋』の魅力と『演劇』の魅力とを混同し、後者よりも寧ろ前者の虜となつた事であります。そのために新劇は演劇に奉仕する前に、まづ日本の近代化に奉仕する事になりました。即ち、それは西洋の思想・社會・風俗の新しさ(C2)に憧れる文明開化運動(A”⇒A化)の一翼を擔はされる事になり、やがて時代の推移と共に先鋭化して、政治運動(A)へと先細りして行かざるを得なくなつたのであります」(現代演劇教會:劇團「雲」設立聲明書、より)。 *「現在の新劇は完全な自己喪失に陥つてゐる。自分の素性を知らないし、また知らうともしてゐない。自分が何であり、何をもつてゐるか、それを自覺してゐないし、自覺しようともしてゐない。新劇の自覺は、ただ自分が何でないか、何をもつてゐないか、それのみにかかはる。(中略)彼等は他人のうちには『有るもの』だけを見、自分のうちには『無いもの』だけを發見したがつてゐるのだ。新劇五十年の歴史によつて彼等がものにしえた智慧が、その自覺なのである。つまり、五十年はなにものでもなかつたといふことだ。新劇は五十年かかつて、何ものにもなりえなかつたのであり、何ものももちえなかつたのである」(『日本新劇史概観』全4P319) *「あらゆる分野の中で藝術が一番近代化が遅れてゐる。演劇でそれが實現出來れば日本の文化は安心。日本は精神の近代化(個人主義の確立)が出來た事になる」、と恆存は述べてゐる(講演カセット「日本の近代化とその自立」より)。 |
【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】
〔難解又は重要文〕:P355上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「『私の演劇白書』にも書いておいたとほり、結局は『個人であること』を封殺されてきた新劇運動の弱點がいまだにそのまま殘つてをり、それが進歩主義や革命の連帯感にすりかへられてゐるのに過ぎない。劇團活動において最も注意しなければならないのは、その點である。
一人では何も出來ない演劇藝術においては、他の藝術分野におけるよりも、それは困難な問題として現れる。が、『個人であること』』の對立を禁じて面白い芝居が出來るはずはない。(中略)これからの役者は人の顔色を見ねば物の言へぬ役者根性を捨てたまへ。『自分はさうは思はない』と、その一語が簡單に言へる世界を、そしてさう言へる自分を造りたまへ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。此の邊もなかなかに難解である。よつて、別けて解讀を試みてみたい。
*まず文中の「個人であること」とはどう言ふことか。
「個人であること」とは、個人の強靱性(「彼我の差圖」右圖&Eの至大化)を創出し、それによつて「場への沈湎」(D1の至小化)を防ぐと言ふ事であらう。恆存は「場から場への轉換、場から個への引揚げに役者個人の強靱な力を必要とする」と書いてゐる(全7P398『醒めて踊れ』)。しかし、その「個人の強靱性」が役者に無いが故に彼等は所属劇團(場)に沈湎し、「自分たちの穴蔵に閉じ籠つて、しかも同業者間の附合ひに過ぎない、この自分達だけの穴蔵を唯一の共通の場と心得、(中略)そこからの離脱を虞れ、ひたすらそれに忠誠ならんとして」しまつてゐるのだと述べてゐる。そして彼等に必要な「個人の強靱性」(「彼我の差圖」右圖&Eの至大化)については、以下枠の樣に書いてゐる。⇒參照「精神の近代化」(個人主義の確立)seishinnokindaika.pdf へのリンク
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拙發表文『醒めて踊れ』より 〔場と個人との關係について:P397上〜最終頁〕 (參考「演劇的表現」:場面から關係として生ずる、「心の動きを形のある『物』として見せるのがせりふの力学」(「せりふと動き」參照:拙發表文『演劇論と人生論の一致』P1) @
鮮やかな場の轉換(場に沈湎しない):P397上(參照「P12圖P11圖」) A「言葉と話し手との間に距離を保ち、その距離を絶え間なく変化させねばならぬのと同様に、相手と共に造り上げた場と自分との間にも距離を保たねばならず、その距離を絶えず変化させ得る能力がなければいけない。さういふ能力こそ、精神の政治學としての近代化といふものなのである」(p398) ・・・恆存の論を概略して、或は焼き増しをして言ふならばかうなる。 上記「傍線部分」の藝當などと言ふものは、個人の強靱性(B&E)がなくては出來ない注文である。的確に「言葉との距離測定」をし、各場面場面に沈湎せず適應正常していく(即ちEの至大化=D1の至大化:下欄圖參照)などと言ふ藝當は、個人の強靱性を保持して初めてそれが可能となるのである。 その爲には以下の逆プロセスが緊要であると、恆存は此處で言ひかつ諸處の評論でもそれを謳つてゐる。日本人には不得手な、上述文の行爲をも含めた、現象としての「鮮やかな場の轉換(場に沈湎しない)」は、その本質「精神の政治學としての近代化(AB分割線の最下降化)」をもつてそれが可能となるのである。要するに恆存は以下の「本質から現象への逆プロセス」の能動について、それら全てを含めて「精神の政治學としての近代化」と言つてゐるのではなからうか。現象(左端)は本質(右端)が極められなければ不可能事であると。 〔場(西歐近代)に適應正常する爲に=鮮やかな場の轉換(D1の至大化:場に沈湎しない)〕
上述を補足する參考文 *個人を確立(強靭化)し場面に沈湎せず、フレイジング・So called で言葉(觀念)を自己所有化し、近代化を操る精神(場との關係への適應正常化)を持つ事、それが日本人の精神の近代化。(講演カセット「日本の近代化とその自立」より要旨) *「場を構成しながら、或は場によつて自己を變貌させながら、しかも一貫した人格を保ち續ける爲には、場と自己とを冷静に眺め得る目を持たなければならない。或は現實の場と自己とを超えた何處か(C:絶對・全體)に自己を隠し預ける場所を持たなければならない」(『醒めて踊れ』全7P399)。 ・・・とは即ち、此處で言ふところの「役者修業」はやはり人間修業となる。「テキスト圖」でそれを示せば、13圖(演劇における關係の眞實化engekiniokerukankeinoshinjitsuka.pdf へのリンク=役者修業)を實現するには、10圖(「完成せる統一體としての人格」論kanseisurutouitutai.pdf へのリンク=人間修業)が必要となる。この二つの圖の一致が将に「役者修業」は人間修業。それを文章化すれば、「場を構成しながら、或は場によつて自己を變貌させながら、しかも一貫した人格を保ち續ける爲には、場と自己とを冷静に眺め得る目を持たなければならない。或は現實の場と自己とを超えた何處か(C:絶對・全體)に自己を隠し預ける場所を持たなければならない」、と言ふ事になる。 恆存の究極的「演劇理念」とはさう言ふ事になるのであらう。何故ならば『演劇的文化論』で言ふ、以下の文はこの二つの圖に内包されるからである。
そして、それにはやはり「個人であること」「個人の強靱性」の護持、即ち「個人の純粋性:B」の静謐を守る事が必要となるのである。⇒參照「言葉の自己所有化」seishinnokindaika.pdf へのリンクA頁 〔更に恆存の主張を一部要約するとかうなる〕 *言葉(F:観念)を自己所有化(Eの至大化)し、近代化(D1)を操る精神(場との関係D1の適應正常化)を持つ事、即ち必要惡として距離をおいて近代化を捉へられる精神、それが日本人の精神の近代化である。 「あらゆる分野の中で藝術が一番近代化が遅れてゐる。演劇でそれが實現出來れば日本の文化は安心。日本は精神の近代化が出來た事になる」、と恆存は述べてゐる(講演カセット「日本の近代化とその自立」より)。 *恆存は『醒めて踊れ』で、實證精神の範疇である、「So called」「フレイジング」「精神の政治學」をソフトウェア的手段と捉へてをり、「精神の近代化」(個人主義の確立)は、ソフトウェアの効果的發揮によつて、その結果として齎されるものと捉へてゐる。(參照:拙文『醒めて踊れ』の下欄圖)⇒參照「精神の近代化(個人主義の確立)」圖seishinnokindaika.pdf へのリンク 即ち、西歐(場)との關係(宿命)として齎された「近代化」への適應を、新漢語・外來語の用法(So called)で正常な關係に「形ある『物』として見せる」。それがハードウェアとしての近代化(資本主義化・民主主義化・個人主義化・機械化・組織化・合理化等々)に對するソフトウェア(精神の政治學)としての對處方法なのである。何故日本は「資本主義化・民主主義化・個人主義化」等々を選擇するのか。西歐が近代でそれら概念に客體化して見せた「神に型どれる人間の概念の探究」を、日本も「形ある『物』として(それら新漢語の裏に)見せる」と言ふ事が「So called」なのである。當然其處には近代化が持つ二面性のもう一つ、「必要惡・疎外」等々の裏面も捉へ「形ある『物』として見せる」と言ふ「So called」も必要なのは言ふまでもない。 (拙發表文:『シェイクスピア劇のせりふ』より) |
*次に「『個人であること』を封殺されてきた新劇運動の弱點」については、恆存は「新劇は職業としての自律性を持ち得ず」と以下のやうに書いてゐる。
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*「戰爭が終つて再び藝術の世界が正常に戻つた時に初めて新劇人は、據るべき演劇概念や技術といふものが理論的にも肉體的にも確立されてゐない事に驚いたのです。いや、驚いたと言ひたいのだが、その自覺さへ無かつた。その自覺の無い處へ持つてきて、テレビの異常な発達が起つて、もうその後彼等はものを考へる暇も無くそれに引きずり廻されて、今日に至つたのです。(中略)新劇は職業としての自律性を持ち得ずにゐる」(冊子『雲:2号』――大衆社會における新劇――P72) |
*そして「『個人であること』の對立を禁じて面白い芝居が出來るはずはない。(中略)これからの役者は人の顔色を見ねば物の言へぬ役者根性を捨てたまへ。『自分はさうは思はない』と、その一語が簡單に言へる世界を、そしてさう言へる自分を造りたまへ」については、やはり〔冊子『雲:3』「私の演劇白書A:雲が出來るまで」P68〕でかう述べてゐる。
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*「劇團『雲』にしても、十(冊子文:十章)で述べたやうに不信と信との兼ね合ひで出來た集團であつて、分裂崩壊の危險を内蔵してゐる。(中略)が、私はそれで良いと思つてゐる。それが劇といふものであり、人生といふものである。好い加減な慣れ合ひで、お互ひの不信をごまかして行く事、それだけは吾々のやりたくない事である。劇團員消息欄に『XX君に雙生兒誕生』などといふ記事の代はりに、『XX君ハムレットをOO君に配役されて、一時は脱退決意』とか、『△△君、福田理事長に不信任案提出』とかいふ記事がのるやうにしたいものだ。呵々」と。 小生思ふに、是は評論『日本及び日本人』にも似た事が書いてあるが、「美的潔癖(好い加減な慣れ合ひ)より論理的潔癖(自分はさうは思はない)」、と言ふ事なのであらう。 |
【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】
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