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平成二十二年七月十九日

『福田恆存を讀む會』


K.K會員:『小説の運命ⅠⅡ讀書メモ。
 shousetsunounmei.pdf へのリンク


發表者 吉野櫻雲

 

七月選擇評論:全集第一巻所收 

小説の運命Ⅰ(「中央公論」昭和二十二年三月號:三十七歳著)。

小説の運命Ⅱ』(昭和二十二年三月下旬執筆)(新潮社版『新文學講座』第一巻理論編、昭和二十三年一月刊)

 

 今囘の選擇評論小説の運命ⅠⅡ』は、拙發表文でも參照文として、よく利用させてもらつた評論である。それだけ恆存評論の解讀には重要評論であると言ふ事が出來る。

 何度も讀んできて、結構「自己所有化」してきた氣持があつたが、今囘熟讀してみると、いまだし、「眞像」を掘り出し得てはゐない感がある。

 

*今評論選擇理由・・・川上會員より。

引き續き川上會員より、LEADING(READING)へ・・・。

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〔以下は、吉野櫻雲發表文〕

 

と言ふ事で、今評論も中々の難解にしてかつ手ごはく、そしてどの文章も重要なのであるが、特に以下内容文を此處に取り上げる事とする。更にいつもの如く難解なる内容については、手助けを他評論に仰ぐこととする。(以下文中傍線及び括弧内は概ね吉野附記。「P9圖」云々は「讀む會テキスト」頁を表す。「ABD2」等も同テキスト三頁を參照の程)

 

小説の運命Ⅰ

 

(注:以下、一項目ずつ各位の感想、質疑を伺つていきます)

〔難解又は重要文〕:P596上~7上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「いはゆる小説といふものの限界が十九世紀個人主義とともにあり、その運命は今日ひとつの終局にたちいたつてゐるのではなからうか。(中略)それは依然としてぼくにとつて終始關心をもたざるをえない問題であり、をりにふれて考へなほしてみたいあたらしい問題であることにかはりはない。またぼくのみならず、小説家であると批評家であるとのべつなく、文學にかかはるもののなんぴとといへども、この問題をよそにみて現代をのりきれようはずもなく、その意味において各自が各自のしごとをとほしてこれにこたへてゆかねばならぬものであらう。(中略)各自がその(小説の)限界を個性の履歴の必然性においていかに深く實感してゐるかといふこと、そのことにほかならない。(中略)小説の限界についての意識は、從來の小説によつては作者も讀者も自己のうちの個人を救ひえぬといふ絶望から生れてきたものであり、したがつてこの限界から脱出しようとする道は、(中略)ひたすら自己を救ひ、個人を救はんとする方向に求めなければならない。(中略)十九世紀のゆきづまりは個人主義にあつたのであり、個人そのものに薄暮がおとづれたわけではないといふことだ。が、この混同と錯誤とが今日の混亂をひきおこし、さらに小説の限界を考へるひとびとに一種の昏迷と錯亂とを與へてゐる」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。

此の邊はなかなかに難解である。よつて、別けて解讀を試みてみたい。

「いはゆる小説といふものの限界が十九世紀個人主義とともにあり、その運命は今日ひとつの終局にたちいたつてゐるのではなからうか」とは、何を言はんとしてゐるのであらうか。この文において恆存は、「(西歐)十九世紀個人主義」の限界とともに、「小説といふものの限界」も露呈してゐると、言つてゐるのではなからうか。それが故に「小説の限界」と共に「(西歐)十九世紀個人主義」の限界をも、「各自が個性の履歴の必然性においていかに深く實感してゐるか」が實は肝要な點なのだ、と言つてゐる樣に小生には聞こえるのである。

恆存の諸著作から「個人主義の限界」についての文言を要約すれば、以下の通りになる。

〔近代自我(個人主義)の必然としてのエゴイズム〕

近代=「神の死」即ち「神意(宿命D1)喪失」神の代はりに自己の手による宿命演出:D1D2:自己主張(表現)・自由意思(人間如何に生くべき)⇒C”自己完成(自己主人公化・自己全體化・自惚鏡)⇒D3:自己陶酔・自己満足・自己絶對視・自己證明による「似非實在感」⇒エゴイズム⇒自己喪失(自己への距離感喪失・適應異常)。

 

*そして畢竟、神の棲まぬ我が國では、個人主義の確立はなく、それがゆゑに當然さらなるエゴイズムに帰結すると言ふ事にも。即ち「神なくして個人の権利を主張しえない。それをあへてなすことは悪徳である」(『近代の宿命』)と言ふ文がそれを示す。

*そして、「小説の限界についての意識は、從來の小説によつては作者も讀者も自己のうちの個人を救ひえぬといふ絶望から生れてきたもの」とは、從來の小説「個人主義小説」では、上枠文のジレンマ(個人主義の必然としてのエゴイズム)から、脱出しえないと言ふことを示す。故に「小説の限界についての意識」は、その關聯として十九世紀のゆきづまりは個人主義にあつた」と言ふ事を深く自覺すべき必要性を恆存は述べてゐるのである。

*また「個人そのものに薄暮がおとづれたわけではない」とは、個人即ち「個人的自我(B)」が行き詰まつた譯では無いと言ふことである。

*更に言へば、「いはゆる小説といふものの限界が十九世紀個人主義とともにあり」と言ふ問題が、「依然としてぼくにとつて終始關心をもたざるをえない問題であり、をりにふれて考へなほしてみたいあたらしい問題であることにかはりはない」の文章は、西歐十九世紀個人主義の限界を超えるべき命題として到達した、恆存の「完成せる統一體としての人格」論を其處に窺はせられる。

【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】

 

〔難解又は重要文〕:P597下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「十九世紀において近代小説がその限界にゆきあたつたといふのはなにを意味するものであらうか。元來、小説の運命はルネサンス期の人間解放とともにはじまつた。人間が神と自然とにたいして自由と自律性とを奪取しようとする運動の方向にそつて、散文は自己の運命をきりひらきはじめたのである」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。文中「散文は自己の運命をきりひらきはじめた」とは、以下表の「年代別移行」を示してゐる。

そしてしかも「それ(きりひらき=移行)は小説が自己の運命と必然との線にそつて、自己のうちのもつとも小説的なるものを意識し、その方向にむかつて自己を純化し、昇華していつた歴史にほかならず、そのことの善惡をあげつらふことほどいみのないことはあるまい。つねにジャンルは――そして全ての文化價値は――自己のうちから夾雑物を棄てさつてそれ自身において純粹なものとならうと意思し、そこにはじめて完成がもたらされ、價値が價値として存在しうるのである。小説の運命もまたその例にもれなかつた。對立と矛盾とを求めてやまない小説はその糧として精神(B)そのもの以上に格好なものを見いだしたことはなかつた。(中略)小説にとつて精神ほどつがふのよいグラウンドは他に見いだしえなかつた」と、小説における「きりひらき=移行」の必然性を恆存は強調してゐるのである。⇒(參照「讀む會テキスト:P5からP8への推移、即ち精神の政治學ライン下降)及び次項目歴史の意識:西歐「統一性と一貫性」)。

「年代別移行」:「散文は自己の運命をきりひらきはじめた」

年代別移行:P599下參照

「散文自己の運命をきりひらいた」⇒その對象

テキストP6:ルネサンス

「神と自然(Cたいして自由と自律性とを奪取」(人間解放)

テキストP十八九世紀

「支配者(A)社會的環境(Aたいして平等と自由とを宣言」

テキストP8:

十九世紀自然主義文學

「あらゆる概念の對立のうちでもつとも本質的、もつとも内部的な、個人(B)と社會(A)との對立をその地盤としてゐる」

テキストP8:十九末~二十世紀

*更に「個人の内部における個人的自我(B)と集團的自我(A)へと移行」。「小説にとつて精神(B)ほどつがふのよいグラウンドは他に見いだしえなかつた」。⇒

*そして更に「小説はみずからの存在(ロマネスクB)を危くするもの(リアリズムA)とすら對立し、その對立をみずからの内部に持ちこむことをも辭さない」。⇒參照「ロマネスクBとリアリズムAromanesukutoriarizumu.pdf へのリンク

何故ならば「小説は現實(A)と觀念(B)との對立をそのまま自己のうちに包含してゐるのである」(P599下)から。

「散文小説の運命は、このやうに發見と統一、遠心と求心、叛逆と歸順、可能性と規定性、その他あらゆる對立のうちに成立した」(P598下)のだと恆存は言ふのである。

【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】

 

〔難解又は重要文〕:P597下~598下最終四行目迄「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「この(ルネサンスの)反撥と驚異とを可能ならしめたものの根柢に、ほかならぬクリスト教精神が存在してゐたことを見のがしてはならない。~~ルネサンス人の理智にとつて一巻の新約聖書があれば充分であつたにそうゐない。~~神への叛逆も、じつは千年にわたるながいあいだの神への凝視と沒入とから習得し免許をあたへられた理想人間像にもとづいておこなはれたものである。~~ルネサンス人の第二の性向に氣づかざるをえない。それは合理A”⇒Aを貴重とする人間の理性のたくましい力(實證精神)である。あらゆる不合理なるもの、叛逆的なるもの、醜怪なるもの、情慾的なるもの、これら一切を過去の(クリスト教が規定した)人間概念のそと(即ち原罪ではない「肯定的=積極的な生命慾」として)に發見しながら、その發見と同時にかれらはそれを統一した人間概念の確立にむかひはじめるのである。そのさいにかれらの基準となつたものは、教門政治や中世的社會秩序といふ外部条件をすつかり脱落せしめた文化遺産としてのクリスト教精神であり、理想人間像にほかならなかつた。セルバンテスの意慾はそこにつながつてゐた」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。此の邊の文章は、以下枠文の消息を物語つてゐるのではなからうか。先述要約すれば、ルネサンス人の持つ第二の性向「理性のたくましい力(實證精神:A”⇒A)」が、その後の近代西歐精神を「神に型どれる人間の概念の探究」と言ふ形で統一していつたのである。と恆存は言ふのである。

参考:歴史の意識(西歐の統一性と一貫性)・・・「絶對者のないところに歴史はありえない」のである。

クリスト教の絶對神による「統一性と一貫性との意識が人間の生活に歴史を賦與」した。⇒そしてその神(絶對者)そのものが「近代を過去のアンチテーゼとして成立せしめる歴史的一貫性」を形作つた。即ち西歐は「叛逆すべき神」として中世を持つことが出来たのである。「神への叛逆も、じつは千年にわたるながいあいだの神への凝視と沒入とから習得し免許をあたへられた理想人間像にもとづいておこなはれたものである」(P599『小説の運命Ⅰ』)⇒「なぜなら神と言ふ統一原理はその叛逆において効力を失うものではなく、それどころか叛逆者の群れと型とを統一しさへする」⇒近代西歐精神を「神に型どれる人間の概念の探究」と言ふ形で統一していつたのである。(參照:『近代の宿命』P462、及び同發表文中「西歐歴史的統一性:圖解」及び『現代人の救ひといふこと』

 そして散文小説の運命も、その「西歐の統一性と一貫性」即ち「發見と同時にかれらはそれを統一した人間概念の確立にむかひはじめる」の例を免れるものではないのだと恆存は言ふのである。換言すると、散文小説には「對立から出發してその解消にむかふ努力と道程とが展開」されてゐるのだと・・。

【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】

 

〔難解又は重要文〕:P601上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「個人主義の凋落とともに、たしかに個人の権威はおびやかされ、否定されようとしてゐる。ひとびとは社會的價値の名のもとに一切の個人的なものを否定しようとしてゐる。社會的價値を通じて以外に個人の存在はみとめられない。これが二十世紀の理想であり、そのかぎりにおいて人類は進歩の段階をふみしめつつある。ぼくはそれを疑はない。が、それはあくまで政治の理想であり、文學の道ではない。ぼくたちのうちに――ぼくたちひとりひとりの内部に、政治的=集團的自我があり、また文學的=個人的自我がある。個人主義の線にそつての個人の権威は没落しても、個人の存在は永遠に失はれぬであらうし、文學は――文學が存續しうるかぎり、この存在を見うしなつてはならない」。(中略)

 「社會が個人を否定して抹殺してかかるならば、まさにその對立と矛盾とこそ好個の題材ではないか。――もちろん十九世紀におけるそれとはまさに逆の方向において。前世紀においてこの(社會と個人の)對立は個人(個人主義)の勝利からその敗北へ、その自意識(「人間如何に生くべき:D2」)の發見とその虚妄(結局「自己陶酔・エゴイズム」と言ふ虚妄:D3)とにをはつた。が、今日、個人は敗北と自我喪失(「個人主義は畢竟エゴイズム」)とから、この危機におそはれてふたたび個人と社會との對立に直面してゐる。ひとびとは性急に個人の廢棄によつてその解決がもたらされうる(「個人的價値に對する社会的價値の優位」)と信じこんでゐるかにみえる。が、文學者とは自己のうちの個人を廢棄しえぬ人間ではなかつたか。とすれば、いかなるイデオロギーのまへにも、またいかなる社會正義のまへにも、なんの氣がねもなく個人(B)に執着し、社會(A)との葛藤を通じていかにしてでも個人を確立しなければならない。社會(A)を肯定し、現代の政治理想(A)を肯定すればこそ、今日の個人(B)の苦惱があり、この切實な苦惱を地盤として小説がなりたたぬはずはない」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。此の邊もなかなかに難解である。

「個人主義の凋落とともに、たしかに個人の権威はおびやかされ、否定されようとしてゐる」とは、何を言はんとしてゐるのであらうか。それについては以下枠文が參考になるのでは。

そして西歐の近代小説の結末を要約すると、「個人的價値に對する社会的價値の優位」⇒個人は社會への有用性としての価値へ転落を免れんとして、「ヨーロッパの自然主義以後の小説がその自己純粹化の課程において見いだした領域といふのは、政治、あるいは政治的な方法(A)によつては救ひえない個人の精神(B)であり、そこに深く潛入してゆくことによつて外部との聯繋をたたれ、文學(B)は社會(A)と絶縁したのであつた」と言ふことになる。

〔西歐十九世紀「近代自我=個人主義」の結末〕(拙發表文:個人の危機「社會の有用性」より)。一部加筆。

 

*〔近代自我(個人主義)の必然としてのエゴイズム〕

近代=「神の死」即ち「神意(宿命D1)喪失」神の代はりに自己の手による宿命演出:D1D2:自己主張(表現)・自由意思(人間如何に生くべき)⇒C”自己完成(自己主人公化・自己全體化・自惚鏡)⇒D3:自己陶酔・自己満足・自己絶對視・自己證明による「似非實在感」⇒エゴイズム⇒自己喪失(自己への距離感喪失・適應異常)。

*そして上記の必然は以下の結末へと引き継がれる。

個人主義(近代自我)の必然としてのエゴイズム(個人主義は畢竟エゴイズム)⇒個人の敗北⇒個人主義の限界と凋落⇒個人の権威の否定⇒個人主義の超克⇒「個人的價値に對する社会的價値の優位」⇒個人は社會への有用性としての価値へ転落。

〔それを二十世紀は「二十世紀の理想」として引き継ぐ〕

①B(個人・藝術)のA(社會)への奉仕。社会革命に奉仕(民主主義文學=プロレタリア文學の延長として)。(P63全一『現代日本文學の諸問題』)

社會(A物質)的解決で個人(B精神)の問題は解決。

*自由は精神の問題でなくなる。社會的物質的自由にて解決(物質主義)。

*社會的平和があれば個人の問題は解決(平和の最高價値化。絶對平和主義へ)。

 「世の中にパンよりも大事な物は何もないといふ甚だ素朴な現實主義の前に吾々は敗退して行かねばならないのです」(『平和の理念』)。

 

*別な脱却方法:個人價値の再構築(恆存の主張)

「一匹と九十九匹」の峻別。即ち「文學的=個人的自我」の追求。「個人は社會にたいする有用性」としての価値へ転落させるのではなく、「社會との葛藤を通じて個人の確立」を。

(上文參照:「いかなるイデオロギーのまへにも、またいかなる社會正義のまへにも、なんの氣がねもなく個人(B)に執着し、社會(A)との葛藤を通じていかにしてでも個人を確立しなければならない。社會を肯定し、現代の政治理想を肯定すればこそ、今日の個人の苦惱があり、この切實な苦惱を地盤として小説がなりたたぬはずはない」

 

尚、「個人的價値に對する社会的價値の優位」⇒個人は社會への有用性としての価値へ転落

については、拙發表文個人の危機:「社會の有用性」を參照されたし。

【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】

 

〔難解又は重要文〕:P601上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「ぼくたちのうちに――ぼくたちひとりひとりの内部に、政治的=集団的自我(A)があり、また文學的=個人的自我(B)がある。個人主義の線にそつての個人の権威は没落しても、個人(B)の存在は永遠に失はれぬであらうし、文學(B)は――文學が存續しうるかぎり、この存在を見うしなつてはならない」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。しつこく重複してしまふが、それは察するに以下の個人主義の限界から超克する道を述べてゐるのでは・・。そしてその「個人主義の限界から超克する道」として、ひとつは前項目の「一匹と九十九匹」の峻別。即ち「文學的=個人的自我B」の追求。「個人は社會にたいする有用性」としての價値へ轉落させるのではなく、「社會(A)との葛藤を通じて個人(B)の確立をしなければならない」である。

個人主義の限界

 

近代=「神の死」即ち「神意(宿命D1)喪失」⇒神の代はりに自己の手による宿命演出:D1D2:自己主張(表現)・自由意思(人間如何に生くべき)⇒C”自己完成(自己主人公化・自己全體化・自惚鏡)⇒D3:自己陶酔・自己満足・自己絶對視・自己證明による「似非實在感」⇒エゴイズム⇒自己喪失(自己への距離感喪失・適應異常)。

・・・とは、以下の事を意味する。

個人主義では、精神は「絶對・全体:C」缺如の爲自己満足・自己撞着に陥り、逆にその自律性を發揮し得ない。結果として肉體の自律性(「支配・被支配の自己」:A)の自己愛的引力に引き摺られ、その必然として更なる「自己主張自己主人公化自己陶酔」のエゴイズムに陥つた。そして、結果として自我喪失に到つたのである。

 そして更にもうひとつ、「個人主義の限界から超克する道」としては、近代自我(個人主義)の必然として露はになつた「エゴイズム」への對處。⇒「エゴイズム」否定ではなく「生の意慾の湧出」「生命力の昂揚」「すなほな生物の慾望」「生命慾」等々としての肯定へ(參照:對「ロレンス」「チェーホフ」評論)ではなからうか。尚、今評論ではこの問題は僅かではあるが「ルネサンス」「ドン・キホーテ」の處(P597下)で論述されてゐる。

【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】

 

〔難解又は重要文〕:P602上~604最終「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「が、小説についての危機感は、その舞台をヨーロッパから日本に轉ずるとき、またべつの相貌を呈してくる。(中略)いふまでもなく日本の近代文學は本質的な形相において小説の限界などにつきあたつてはをらぬ。といふことはすでに明瞭であらうが、近代日本の知識階級はヨーロッパ的な意味においてその個人(B)の極限にゆきついてなどゐないといふことにほかならない。(中略)個人主義を經驗しない國民が個人の限界を口にするといふことは、言語道斷でないとすればいつたいなにを意味するものであらうか。(中略)明治の小説は政治(A)の不始末の結果を背負ひこまされてゐたのであり、それを外部的な手段によつてはなんとも解決のつかぬものとして、ひたすら内部に沈潛してゆくことによつて、ますます社會(A)との聯繋をたたれ、かくしてヨーロッパの近代文學と相似の運命を辿ることになつたのである。(中略)かくして近代日本の小説はその發想において不純であり、~~(中略)解決しうべき問題を解決不能の場において受け取り、その假説のもとに苦惱と修業とを考へた精神主義(B主義)がぼくたちの宿命であつたとすれば、それはそれでよい。しかしこれを目してただちに小説の限界と見なすことは、問題をいたづらに混亂にみちびきその正しき所在に眼をおほふことにほかならない。ぼくたちにいまもつとも必要なことは、今日ただいまからぼくたち自身の問題にヨーロッパ的解釋や、その解決法を適應しないといふ覺悟である。(中略)かくして今日における(我が國の)小説の限界は、じつはぼくたち自身の、あるいはぼくたちの社會の限界(即ち「精神の近代化」缺如の問題)である。(中略)現代の作家は小説の限界を打破しようとするよりはむしろその限界に堕ちうるだけ堕ちるにしくはないやうのおもはれる」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。

察するに、此の邊の文章は、別紙比較圖「日本と西歐近代」(彼我の差higanosa.pdf へのリンク『日本の知識階級』nihontekiseishinshugikouzu.pdf へのリンクの消息を物語つてゐるのではなからうか。「精神の近代化」缺如によるその「彼我の差」を、明確に把捉する事に尽きるのだと、恆存は謂はんとしてゐるのではなからうか。

尚、文中の、

*「明治の小説(B)は政治(A)の不始末の結果を背負ひこまされてゐたのであり、それを外部的な手段(A)によつてはなんとも解決のつかぬものとして、ひたすら内部(B)に沈潛してゆくことによつて、ますます社會(A)との聯繋をたたれ、かくしてヨーロッパの近代文學と相似の運命を辿ることになつたのである」とは、以下の消息(傍線部分)を物語つてゐるのあらう。

*〔西歐個人主義の限界(末路)〕

近代=「神の死」即ち「神意(宿命D1)喪失」⇒神の代はりに自己の手による宿命演出:D1D2:自己主張(表現)・自由意思(人間如何に生くべき)⇒C”自己完成(自己主人公化・自己全體化・自惚鏡)⇒D3:自己陶酔・自己満足・自己絶對視・自己證明による「似非實在感」⇒エゴイズム⇒自己喪失(自己への距離感喪失・適應異常)

恆存の言ふ、明治日本の自然主義作家達の末路〕

「藝術家、知識人が他の職業に比して殆ど社會的に顧みられぬといふ不滿、劣等感」⇒「文學(B)すらも文明開化の出世主義のネガティーブな吐け口になつてゐた」⇒故に「文學が如何に《神聖》な仕事であるかを立證」せんとした⇒作家は聖職者(B)⇒自己に忠實(D2:自己表現)⇒C”:自己完成といふ名の自己絶對視(その自己が作る「新しき小説」)・自己正當化(「新しき小説」の後楯となる西歐自然主義小説)⇒自己確認(D3)即ちセルフ・アイデンティフィケイション(虚妄の實感)・似非實在感。自己陶酔・自己滿足・エゴイズム⇒自己喪失。

 

そして、「明治の小説(B)は政治(A)の不始末の結果を背負ひこまされてゐた。(中略)かくして近代日本の小説はその發想において不純であり、~~」云々の更なる詳細は、以下の通りである。

〔恆存が書く「自然主義作家・私小説家」に至る流れ。及びその似非實在感

江戸幕府瓦解(文化政策的な儒教倫理C”の崩壊)⇒規範(D1)喪失⇒無限定性の自己(D1・關係・宿命喪失)⇒明治日本は、宗教改革の神に先導された西歐の資本主義と異なり、「近代日本(明治)は資本主義をはじめから利己的な惡徳として發展せしめる以外に道はなかつた(經濟的適應異常)。天皇と國家とのためにといふ名目を除外しては。(中略)近代日本の帝國主義は自己を限界づけるなにもの(國際主義)ももたなかつた(政治的適應異常)。のみならず、天皇や國家の権威は強者の惡徳を正當化した」⇒したがつて「明治の知識階級は政治活動(A)や社會活動(A)のうちに自己を生かすことを惡と見なさざるを得なかつた」のである⇒加へるに利己心に對する後ろめたさ(日本人の習俗性と封建道徳の残滓)⇒爲に、「完全に私を放棄して政治に身を挺するか(「下級武士の和魂洋才」)、さもなければ頑強に私を固執(自己絶對視)して一點に立ちすくむか(自然主義作家)」の二者擇一⇒それが故の、自然主義作家がした實生活(A)から文學(B)への逃避。即ち「文學すらも文明開化の出世主義のネガティーブな吐け口になつてゐた」。(と同時に和魂(B)は下級武士(福沢諭吉等)のアクティーブな吐け口と言ふ事なのでは)⇒自己に忠實(D2:自己表現)⇒C”:自己完成といふ名の自己絶對視・自己正當化⇒D3:自分でする自己確認即ちセルフ・アイデンティフィケイション(虚妄の實感)・似非實在感。「テキストP9圖」參照及び『近代の宿命』(全二P463)『私小説的現實について』(全一P571~3)

 

【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】

 

〔難解又は重要文〕:P603下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「ここにひとつの明瞭な鳥瞰圖ができあがり、そのうちにぼくたち(日本)の小説の運命が暗示されてゐる。すなはち、文學者がまづ第一に健全な市民として自己を確立し、ぼくたちの負はされてゐる社會的な限界を排除しようとする政治活動に參與し、小説にもこの任務を負はせていかうとする文學觀と、いつぱうには戰後の政治的、心理的無政府状態のうちに人間の可能性と偶然性とをさぐらうとする態度と――この二つのものがはつきり對立を示しはじめた。前者は政治の文學干渉であり、社會の個人抹殺である。また後者は娯楽小説への轉落(柴田錬三郎・五味康祐?)を意味してゐる」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。文中の「政治の文學干渉であり、社會の個人抹殺」とは、やはり以下の西歐が持つ小説の末路を日本も持つと言ふ事では。

エゴイズム⇒自己喪失個人は社會への有用性としての價値へ轉落(「ふしぎなほど韻のあつた近代文學史」)

 

①B(個人・藝術)のA(社會)への奉仕。社會革命に奉仕(民主主義文學=プロレタリア文學の延長として)。(P63全一『現代日本文學の諸問題』)

社會(物質)的解決で個人(精神)の問題は解決:

*自由は精神の問題でなくなる。社會的物質的自由にて解決(物質主義)。

*社會的平和があれば個人の問題は解決(平和の最高價値化。絶對平和主義へ)。

 そして重要な點は、西歐が辿れるもうひとつの解決方法、即ち以下枠文の方法が日本には無いと言ふ事なのである。

別な脱却方法:個人價値の再構築(恆存の主張)

「一匹と九十九匹」の峻別。即ち「文學的=個人的自我」の追求。「個人は社會にたいする有用性」としての價値へ轉落させるのではなく、「社會との葛藤を通じて個人の確立をしなければならない

 その理由は前項目で恆存が指摘した、「日本の近代文學は本質的な形相において小説の限界などにつきあたつてはをらぬ。といふことはすでに明瞭であらうが、近代日本の知識階級はヨーロッパ的な意味においてその個人の極限にゆきついてなどゐないといふことにほかならない」であり、かつ「じつはぼくたち自身の、あるいはぼくたちの社會の限界(即ち「精神の近代化」缺如の問題)である」に據る。それが故に日本の小説がもつもう一つの運命は、「娯楽小説への轉落」しか辿る道が無くなるのであると・・。此處では恆存は自明の事ゆゑか記述してゐないが、もう一つあるのではなからうか。「日本の精神主義構圖」nihontekiseishinshugikouzu.pdf へのリンクを繼續していく「私小説」の方法が・・。尚、この事は、小説の運命Ⅱ』のP607でそれを論じてゐる。

【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】

 

 

小説の運命Ⅱ

 

〔難解又は重要文〕:P605上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「『小説の運命』といふ課題は、すでにそれ自體において、ぼく自身の精神が明確にみづからの存在を確證しうる樣式の探求を意味するものにほかならない。『小説の運命』のそとにぼくの精神の運命は考へられぬ。おそらくぼくひとりのことではなからう。現代の知識階級にとつて、この課題はつねに自己の存在をおびやかす現代精神の危機として、隨處にかれらのゆくて立ちあらはれるものにさうゐないのである」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。察するに、第一章冒頭文〔難解又は重要文〕:P596上~7上における、以下の文章と關係してくるのではなからうか。

第一章冒頭文

「いはゆる小説といふものの限界が十九世紀個人主義とともにあり、その運命は今日ひとつの終局にたちいたつてゐるのではなからうか。(中略)それは依然としてぼくにとつて終始關心をもたざるをえない問題であり、をりにふれて考へなほしてみたいあたらしい問題であることにかはりはない。またぼくのみならず、小説家であると批評家であるとのべつなく、文學にかかはるもののなんぴとといへども、この問題をよそにみて現代をのりきれようはずもなく、その意味において各自が各自のしごとをとほしてこれにこたへてゆかねばならぬものであらう。(中略)各自がその(小説の)限界を個性の履歴の必然性においていかに深く實感してゐるかといふこと、そのことにほかならない(中略)小説の限界についての意識は、從來の小説によつては作者も讀者も自己のうちの個人を救ひえぬといふ絶望から生れてきたものであり、したがつてこの限界から脱出しようとする道は、(中略)ひたすら自己を救ひ、個人を救はんとする方向に求めなければならない」(P596上

尚、「『小説の運命』といふ課題は、すでにそれ自體において、ぼく自身の精神が明確にみづからの存在を確證しうる樣式の探求を意味するものにほかならない。『小説の運命』のそとにぼくの精神の運命は考へられぬ」とは、西歐十九世紀個人主義文學の限界(參照:日本と西歐近代「higanosa.pdf へのリンク右圖」)に、それを超えるものとして恆存は、「みづからの存在を確證しうる樣式」、即ち「完成せる統一體としての人格」論kanseiserutouitutaitoshitenojinkaku.pdf へのリンクを其處に探求すると言つてゐる樣に小生には聞こえる。

さうした恆存の視點からは、前項目の二方法論及び私小説、即ち彼等(「現代の知識階級」)が土壌とする、「日本の精神主義構圖」nihontekiseishinshugikouzu.pdf へのリンク續上には、「この課題(小説の運命)はつねに自己の存在をおびやかす現代精神の危機として、隨處にかれらのゆくて立ちあらはれるものにさうゐないのである」と見えるのであらう。

何故ならば「さう言ふ土壌(「日本の精神主義構圖」nihontekiseishinshugikouzu.pdf へのリンク)に生じた文學や藝術や學問が、或は政治や制度が、もし近代的(參照:日本と西歐近代「右圖」)に見えるとすれば、それは何處かにごまかしがあるに違ひ無い」(全七P393『醒めて踊れ』)からである。その樣に向後の評論で詳らかに論じてゐる。

この特質をもつと解り易く圖説すればかうなる。日本は明治になつて、「日本と西歐近代「右圖」」に「日本の精神主義構圖」のまま引つ付いたのである。「西歐近代「右圖」」に開いた物質面の近代化の花だけを「日本の精神主義構圖」に接ぎ木して同じ花(近代化)と稱した。しかし全體像を見ればどう見ても彼我の差が歴然と(西歐近代への適應異常)してゐるのを、それが見えなかつた。「近代化のごまかし」と言ふ自分の姿が、その「日本の精神主義構圖」の中に居るが爲に見えなかつたのではなからうか。このやうに圖で視覺化すれば、それが「近代的に見える」筈がないのが解るのでは・・。

【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】

 

〔難解又は重要文〕:P607下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「もし兩者(二葉亭と花袋)のあひだになんらかの差があるとすれば、藝術ないしは文學といふものにつきまとつて離れない醜い自我主義を見きはめて――そこまではおなじだが――そのあと二葉亭はいさぎよく文學を捨てて、宿願とした政治行動に身を挺し、遠く海をへだててロシアに渡り、不測の最期をとげたのであるが、現代の作家たちは文學を猜疑し、そのエゴイズムを認めながら、にもかかはらずあくまで文學を捨てずに、あへてそのうちに沈潛することの苦しさを現代人の宿命として耐へるといふわけである。~~(中略)~~(日本の)自然主義文學や私小説といふものは、けつしてヨーロッパ流のリアリズム文學の範疇には屬さぬ代物であるけれども、それにもかかはらず、近代日本の作家たちは、そのほかにはしやうのない、かれらに殘されたひとすじ道を歩んできたのである――いやその他にべつの道があつたとすれば、二葉亭にならつて文學抛棄の宣言をすることであつたといへよう」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。察するにそれは、以下の邊りの消息を物語つてゐるのではなからうか。特に「もし兩者(二葉亭と花袋)のあひだになんらかの差があるとすれば、藝術ないしは文學といふものにつきまとつて離れない醜い自我主義を見きはめて――そこまではおなじだが」は、傍線部分を指してゐるやうに思へる。

〔恆存が書く「自然主義作家・私小説家」に至る流れ。及びその似非實在感

 

江戸幕府瓦解(文化政策的な儒教倫理C”の崩壊)⇒規範(D1)喪失⇒無限定性の自己(D1・關係・宿命喪失)⇒明治日本は、宗教改革の神に先導された西歐の資本主義と異なり、「近代日本(明治)は資本主義をはじめから利己的な惡徳として發展せしめる以外に道はなかつた(經濟的適應異常)。天皇と國家とのためにといふ名目を除外しては。(中略)近代日本の帝國主義は自己を限界づけるなにもの(國際主義)ももたなかつた(政治的適應異常)。のみならず、天皇や國家の権威は強者の惡徳を正當化した」⇒したがつて「明治の知識階級は政治活動(A)や社會活動(A)のうちに自己を生かすことを惡と見なさざるを得なかつた」のである⇒加へるに利己心に對する後ろめたさ(日本人の習俗性と封建道徳の残滓)⇒爲に、「完全に私を放棄して政治に身を挺するか(「下級武士の和魂洋才」)、さもなければ頑強に私を固執(自己絶對視)して一點に立ちすくむか(自然主義作家)」の二者擇一⇒それが故の、自然主義作家がした實生活(A)から文學(B)への逃避。即ち「文學すらも文明開化の出世主義のネガティーブな吐け口になつてゐた」。(と同時に和魂(B)は下級武士(福沢諭吉等)のアクティーブな吐け口と言ふ事なのでは)⇒自己に忠實(D2:自己表現)⇒C”:自己完成といふ名の自己絶對視・自己正當化⇒D3:自分でする自己確認即ちセルフ・アイデンティフィケイション(虚妄の實感)・似非實在感。

 

參照:「テキストP9圖」及び『近代の宿命』(全二P463)『私小説的現實について』(全一P571~3)

 そして「そのあと二葉亭はいさぎよく文學を捨てて、宿願とした政治行動に身を挺し、遠く海をへだててロシアに渡り、不測の最期をとげた」については、以下の文が參考になる。

拙發表文:『獨斷的な餘りに獨斷的な』より

 

〔難解又は重要文〕その5「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

P546上の「二葉亭が身動き出來ずにゐた限界といふものが確かにあつたのだが、一體、それは何であつたか」を以下〈P551上〉〈P556下〉の内容は含む)

P551上:「自分(二葉亭本人)は『始終實感で心を苛めてゐないと空疎になる男だ』『實感で試驗をせんと自分の性質ですら能く分らぬ男だ』。(中略)その點では、當時の自然主義作家、私小説作家と同樣、二葉亭もいちわうセルフ・アイデンティフィケイション(D3)を求めてゐたといふ事になる。が二葉亭はそれを藝術や文學によつて達成し得るとは思はなかつた。(中略)彼にとつてセルフ・アイデンティフィケイションはセルフ=自己からは遣つて來ない。『自分の性質ですら能く分らぬ』といふ言葉のうちに、二葉亭は無定形、無限定の自己(關係・宿命喪失の自己)を認めてゐたに相違なく、それに居住ひを匡させるもの、即ちセルフアイデンティファイ(自己確認)する物として、實感といふものを考へてゐたとしか思はれない。自己の存在を實感し得る爲には、自分の外に在つて自分の上にのしかかつて來る自分以外の何物か(C的なもの)との出會ひ(D1:宿命・關係)が必要になつて來る。それが『實感で心を苛めてゐないと』とか『實感で試驗をせんと』とかいふ言葉になつて表れて來たのではないか。(中略)單純化し過ぎる事を覺悟の上で言へば、二葉亭の實感とは、この『普通人』の道徳觀(此處ではBの範疇ではなく、「C⇒D1:關係・宿命」の意で言つてゐるのでは?)の事である。文學以前の、或は文學を超えた常識(同上)の事である」

・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「單純化し過ぎる事を覺悟の上で言へば、が重要な文に思へる。上記の外に、二葉亭の言ふ實感を恆存は明確には書いてゐないので此處の處は漠然としてゐるが、かう言ふ事を言はんとしてゐるのでは。上記の結果即ち、それは他評論『人間・この劇的なるもの』等で言ふ、C(絶對・全體)⇒D1(宿命・關係)⇒D2(自己劇化)⇒C(絶對・全體)⇒D3(實在感)」のプロセスから得られる「實在感」と同じ樣に、恆存は二葉亭の「實感」を捉へてゐるのではなからうか。「自己の存在を實感(D3)し得る爲には、自分の外に在つて自分の上にのしかかつて來る自分以外の何物か(C的なもの)との出會ひ(D1:宿命・關係)が必要になつて來る」の文がそれを指し示してゐる。「自分以外の何物(C的なもの)との出會ひ(D1:宿命・關係)」が。そして出會ふ事から發生する「宿命(D1)/自己劇化(D2)」が實感(D3)を齎すのである、と言つてゐる樣に思へる。

 また續文の、「現代の作家たちは文學を猜疑し、そのエゴイズムを認めながら、にもかかはらずあくまで文學を捨てずに、あへてそのうちに沈潛することの苦しさを現代人の宿命として耐へるといふわけである。~~(中略)~~(日本の)自然主義文學や私小説といふものは、けつしてヨーロッパ流のリアリズム文學の範疇には屬さぬ代物であるけれども、それにもかかはらず、近代日本の作家たちは、そのほかにはしやうのない、かれらに殘されたひとすじ道を歩んできたのである――いやその他にべつの道があつたとすれば、二葉亭にならつて文學抛棄の宣言をすることであつたといへよう」とは、以下枠文、小説の運命Ⅰ〔難解又は重要文〕:P603下に提示した小生の疑問符への答へと捉へる事が可能である。

〔難解又は重要文〕:P603下

「日本の近代文學は本質的な形相において小説の限界などにつきあたつてはをらぬ。といふことはすでに明瞭であらうが、近代日本の知識階級はヨーロッパ的な意味においてその個人の極限にゆきついてなどゐないといふことにほかならない」であり、かつ「じつはぼくたち自身の、あるいはぼくたちの社會の限界(即ち「精神の近代化」缺如の問題)である」に據る。それが故に日本の小説がもつもう一つの運命は、「娯楽小説への轉落」しか辿る道が無くなるのであると・・。此處では恆存は自明の事ゆゑか記述してゐないが、もう一つあるのではなからうか。「日本の精神主義構圖」を繼續していく「私小説」の方法が・・。尚、この事は、『小説の運命Ⅱ』のP607でそれを論じてゐる。

【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】

 

〔難解又は重要文〕:P608下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「小説の危機に氣づいたものの眼には、解説や評價にたへる作品などといふものは近代日本の文學史のうへに存在しなくなつたのであり」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「小説の危機」とは再確認すると、以下枠文の事である。

『小説の運命Ⅰ』〔難解又は重要文〕:P596上~7上

「いはゆる小説といふものの限界が十九世紀個人主義とともにあり、その運命は今日ひとつの終局にたちいたつてゐるのではなからうか。(中略)それは依然としてぼくにとつて終始關心をもたざるをえない問題であり、をりにふれて考へなほしてみたいあたらしい問題であることにかはりはない」。

 

〔難解又は重要文〕:P601上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「個人主義の凋落とともに、たしかに個人の権威はおびやかされ、否定されようとしてゐる」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。それについては以下枠文が參考になるのでは。

そして西歐の近代小説の結末を要約すると、「個人的價値に對する社会的價値の優位」⇒個人は社會への有用性としての価値へ転落を免れんとして、「ヨーロッパの自然主義以後の小説がその自己純粹化の課程において見いだした領域といふのは、政治、あるいは政治的な方法によつては救ひえない個人の精神であり、そこに深く潛入してゆくことによつて外部との聯繋をたたれ、文學は社會と絶縁したのであつた」と言ふことになる。

「以下枠文」は重複するので省略⇒參照〔難解又は重要文〕:P601上「枠文」。

 有り體に言へば、「彼我の差」比較圖日本左圖」と西歐近代「右圖」)に氣がついてしまつたら、「解説や評價にたへる作品などといふものは近代日本の文學史のうへに存在しなく」なつてゐるのに痛感する、と言ふ事であらう。

【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】

 

〔難解又は重要文〕:P609上下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「精神はいま危機に見まはれ、既成の小説概念はすでにこの精神の危機にたへない。私小説完成higanosa.pdf へのリンク左圖)によつては、自己の眞實を猜疑する精神の不安に、いかなる均衡をも與へることはできないのだ。(中略)どうしても現代小説家の心事が理解できぬのであり、結局のところ、かれらは眞に危機を感じてはゐないのだ、と決めてしまふよりほかにしかたなかつたのである。」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「精神の危機」とは、個人主義の限界の事を言つてゐるのであり、既成の小説概念(西歐リアリズム文學=higanosa.pdf へのリンク右圖)では、「畢竟エゴイズム」に逢着なので、この精神の危機にたへない。いはんや左圖では尚更であると言ふことであらう。

 續文の「對立の危機をのりこえてなんらかの造形的安定を確保しうるとすれば、批評ははじめて小説に脱帽するであらう~~」云々については難解で、上手く解讀が出來ない。ただ何となく、「對立の危機をのりこえてなんらかの造形的安定を確保」は、フローベールの方法論(參照「ロマネスクとリアリズム」romanesukutoriarizumu.pdf へのリンク右圖)に、それがあるのではと推測するばかりである。そして私小説家の「その程度の造形力」とは、左圖の事を言つてゐるのではなからうかと・・。

【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】

 

〔難解又は重要文〕:P611上下~614下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

  「もし小説の運命が危機にのぞんでゐるとするならば、それは批評精神の登場のため以外のなにものでもない。といふことになれば、小説は十九世紀から二十世紀にかけて、その文學の王座を批評にゆずりわたさねばならなくなつたのであらうか。とんでもない話だ。第一に小説が批評にその安全をおびやかされるといふことは、なにも現代にはじまつたことではない。(中略)批評は小説の運命をあやふくするものではない。(中略)批評精神は小説を亡ぼしはしなかつた。――ただその内容を變革しただけにすぎぬ。その間ロマネスク(B)なるものは窮地におひこまれながらも、かへつて純粹に激しく生きのびてきたといへよう」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。上記を含めP611上下~614下の幾つかの文章はなかなかに難解である。よつて、別けて解讀を試みてみたい。①の文章及びフローベールについての以下枠文は、別紙(「ロマネスクとリアリズム」romanesukutoriarizumu.pdf へのリンク

)が參考になると思ふ。

「フローベールにおけるリアリズム(A)の完成とは、ロマネスク(B)なもの、びつくりするやうな事件、夢想(C)や情熱、これらすべてに死を宣告することであり、その役割を買つて出たのがかれの批評精神にほかならない。(中略)たしかにかれの實證主義的(A”A)な批評精神はその作品からあらゆる夢想を放逐し、『ボヴァリー夫人』や『感情教育』を完璧に合理と必然との網目にぬりこめつてしまつた。(中略)さきに追放されたはずのロマネスク(B)や夢想(C)こそが、作品の裏がはからあのリアリスティックな無表情の記述の保證に立つてゐるにほかならない」(P611下)

 さらには、『ドン・キホーテ』(セルバンテス)についての記述も同じ別紙(「ロマネスクとリアリズム」を參照されたし。

  「二十世紀の批評精神はこのロマネスクなものにたいして、ふたたび攻撃を開始したのである。(中略)~~(西歐)リアリズム小説A”⇒Aの限界に『小説の運命』の終焉を自覺し明確な意識のもとにこれからの脱出をこころみようとしたのは、いふまでもなく大戦後の(西歐)作家たちである。(中略)二十世紀の作家たちが『小説の運命』にたそがれをみたのは、ただたんに『ドン・キホーテ』の作者がはやくも直觀してゐた小説のアイロニー(リアリズム(A)の拡大がロマネスク(B)を扼殺していくアイロニー)にいまさら氣がついたといふだけのことではないはずである。まさに逆である。かれらは、小説が――といふのは、もちろん十九世紀的なリアリズム小説A”⇒Aが――このアイロニーを喪失してしまつたことに反撥したのである。(中略)リアリズム小説A”⇒A)のあとではロマネスク(B)をおびやかすものはあつても、ロマネスクの存在する餘地がなくなつてしまつた。ドン・キホーテ(B)のいない、サンチョ(A”⇒A)ばかりの世界では、讀者はただあくびの誘惑を感ずるだけのはなしである」云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。此の邊の記述も同じ別紙を參照されたし。

  「小説におけるロマネスク(B)とはいかなるものであらうか。たしかに、それは夢想(C)と荒唐無稽とアバンチュールとの世界であり、現實の常識性(A)からのがれようとする情熱であり、素材からの自由を欲する生命慾であり――といふわけで、つまりは小説的といへばすべてはつきるのである。いちわうさうはいへる」・・・これについても同じ別紙(「ロマネスクとリアリズム」を參照されたし。

【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】

 

〔難解又は重要文〕:P611上下~614下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「小説の效用は、まず第一に作者自身が口邊に苦笑をうかべることによつて、現實(A)の人生に耐へ、みづからを救ふことであり、第二に讀者をも同じ境地に誘ひこむことである。異常にして新奇な生活を經驗することを小説に期待するのは、けつして第一級の讀者とはいひがたい。――第一級の名に値する讀者とは、異常にして新奇なる生活を願ふ自分の夢想(BC)が現實の生活(A)でみじめにふみにじめられてゆくばあひ、あへてこれに反抗することもなく、といつて無神経にこれに忍從するのでもないひとたちであつて、かれらに殘された唯一の望みといふのはさういふ自分を笑ふことであり、自分を笑ふことによつてわれをもひとをも許し救はんがために小説を讀むひとたちなのである」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。察するに、以下の邊りの消息を物語つてゐるのではなからうか。

參照:全二P417『自己劇化と告白』。同P407『告白といふこと』。

*鷗外に借りて言へば、かう言ふことである。

あへてこれ(現實A)に反抗することもなく、といつて無神經にこれに忍從するのでもない」。即ち、時代の社會機構(前近代)の現實に身を切らせ(A”A)ながら、しかもかつてはあつて今は失はれた夢想(C:儒教道徳・武士道)に激しく胸を焦がしてゐる時、人は自ずと「口邊に苦笑を浮かべる」事になる、といふことだ。

 つまりは、「ロマネスクとリアリズム」右圖或は別紙(フローベールについてfroberu.pdf へのリンク「何を敵としたか・・」)の如き情況に、作者同樣讀者も耐へると言ふことである。耐へることによつて「殘された唯一の望み」として其處に自ずと浮かびあがる苦笑(「常識A”Aには所詮逆らへね~わさ、うふふ」等)。その笑ひ即ち「口邊に苦笑をうかべることによつて、現實(A)の人生に耐へ」る事が可能となり、また「みづからを救ふこと」が可能になるのであると、恆存は言ふのである。

 

以下は拙發表文:《「口邊に苦笑をうかべる」東西文人:その時代的差異》より

では、「口邊に苦笑をうかべる」或いは「笑ひ」は何處より来たるか。それはアイロニーを視る處から發生する。人生における、夢想(C)を追ふ自己(B:個人的自我)と現實に堪へる自己(A:集団的自我)と、その間隙に生ずるアイロニー(參照:「ロマネスクとリアリズム」右圖を、客觀視せられる處からそれが發生するのでは・・。

恆存は言ふ「精神的(B)と物質的(A)」「自由と機械的動作」「夢想(BC)と常識(A)」なるものの對立からそれらは惹き起こされる」(參照:P615:全一『小説の運命Ⅱ』)と。

日本の「私小説作家」のやうに現實(A)から逃げるのではなく、「實生活(A)の場で解決すべき問題は實生活において處理(A”A)」(全一P20『近代日本文學の系譜』)せんとして、現實のしがらみに堪へ、かつ自己の「夢想が現實の生活でみじめにふみにじめられてゆく」危機にも直面しながら、それにも堪へてゐる状態「ロマネスクとリアリズム」右圖的情況。さうした桎梏に晒されてゐる自分を客觀視せられる時、「口邊に苦笑をうかべる」或いは「笑ひ」が發生するのでは。さうした時笑ふ事によつて、作者もそして讀者も「現實の人生に耐へみずからを救ふ」のである。

この事を、恆存の他評論(演劇關係)における以下枠文

恆存評論『せりふと動き』他より要約

*場から生ずる「關係(D1)と稱する實在物は潜在的には一つのせりふ(言葉)によつて表し得る」。

故にそのせりふ(言葉)との附合ひ方、扱ひ方。即ち「フレイジング」「So called」「型・仕來り・生き方・様式」の用ゐ方の適不適で、「距離の測定」即ち、場との關係(D1)の適應正常化(非沈湎)をさせる事が可能となり、また反對に適應異常化(沈湎)に陥らせる事にもなり得る。即ち「Eの至大化=D1の至大化」と言ふ事になる。

を借りて言ふならば、續文の樣になる。

  ロマネスク(B)が可能性の天窓を閉ざされ、一分の隙もなくなつてしまつたと言ふ場(C”)。

  その場に沈湎して身動きが取れなくなつてゐる情況(D1の至小)。

  そして、その沈湎的心理状態を潛在的に表する言葉としての「桎梏・ジレンマ:F」。

 

かかる情況に遭遇した時、その「桎梏・ジレンマ:F」に對して、「泣く子と常識(A)には勝てぬ‘うふふ’」と「口邊に苦笑をうかべる」フレイジング的行Eの至大化)で、「形ある『物』として見せること」。さうする事で「桎梏・ジレンマ:F」を自己所有化(Eの至大化する事が可能となる。そして「ロマネスク(B)が一分の隙もなくなつてしまつたと言ふ場(C”)」に沈湎してゐる自己を救ふ(D1の至小⇒至大化)事が可能となるのである。即ち「Eの至大化=D1の至大化」と言ふ事に・・。

その結果、「夢想が現實の生活でみじめにふみにじめられて」ゐると言ふ氣分に風穴を開けて、「現實の人生に耐へみずからを救出させる」事へと繋がるのである

要するに、場に捉はれた自分の心(沈湎D1)に風穴を開け「心の強張りを解く」事が可能となるのである。さうした救ひの効用が「口邊に苦笑をうかべる」事にはある、といふ事なのである。

さう言へば、恆存はユーモア(humor)について書いた何處かの評論に、「心の風穴を開け心の強張りを解く」效果がそれにはある、と言つてゐた。

*「であるから、フローベールのリアリズム小説を讀む最大の有資格者といへば、それははなはだしい夢想家でなければならない。かれのみがあの異常を排したプロゼイック(平凡)な作品に苦笑を讀みとるすべを知つてゐるのだ。(中略)ただ夢想(C)を索引とするときにのみ、そこに笑ひが登場する。フローベールほど激しい夢想家(BC)はゐない――そのため自分を知つてゐるかれはあまり氣がひけるのでサンチョ(A:常識)ばかりの世界を描き、ドン・キホーテ(B)を隱してしまつたのだ。素朴な讀者は、しかしドン・キホーテ(B)とサンチョ(A:常識)とを竝列してくれなければ笑ふすべを知らず、しかたなく人生訓を抽出して氣をよくしてゐるといふしまつだ」。

即ち(P613)「ドンキホーテ(B)のゐないサンチョ(A:常識)ばかりの世界では、讀者はただあくびの誘惑を感ずるだけの話である」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。フローベールにおける夢想(C)とは、エンマ・ボヴァリーとはどういふ意味をもっているのか。恆存のフローベールについて書く文章は意味が深くかつ難解である。故に、それについては以下の文が參考になるのでは。尚、更に詳しくは『フィクションといふ事』を參照されたし。⇒參照(「ロマネスクとリアリズム」

【拙發表文:『獨斷的な餘りに獨斷的な』より】

 

恆存は、フローベールの夢想はイエスの人格化「理想人間像」(C:絶對・全體)にあったのだと『小説の運命』等で確か言つてゐた。「ロマネスクな夢想(C)こそが、作品の裏がはからあのリアリスティックな無表情の記述の保證に立つてゐるにほかならない」(『小説の運命Ⅱ』:P611)と。

「フローベールのリアリズムとはまさにそれである。―― 一片の虚妄にすぎぬと承知してゐればこそ、かれは自己の理想人間像(C:夢想)を語りはしなかつたのであるが、同時に、その理想人間像があつたればこそ實證精神をしてあれほどまでに自我(集團的自我「A」:代理としてのボヴァリー夫人)を斬りさいなむことを許したのである」(全一P475『理想人間像について』)

「(フローベール)の夢想してゐた自我の内容の高さと深さとに想ひいたらねばならず、その背景に発見されるものは神(C)」なのである。と恆存は言ふ(參照:全一P637『現代人の救ひといふこと』)。

しかし、理想人間像(C:夢想)は作品には登場しない。ただそれら(BC探求)は「作品の裏がはからあのリアリスティックな無表情の記述の保證に立つてゐるにほかならない」と。「一片の虚妄にすぎぬと承知してゐればこそ、かれは自己の理想人間像(C:夢想)を語りはしなかつたのであるが、同時に、その理想人間像があつたればこそ實證精神をしてあれほどまでに自我(「集團的自我A」:代理としてのボヴァリー夫人)を斬りさいなむことを許したのである」(全一P475『理想人間像について』)と。何處にも神を語つてゐないあの小説スタイルこそが「神に型どれる人間の概念(理想人間像)の探究」なのだと、恆存は言つてゐるのである。

是は我々が大いに留意すべき點である。心理主義小説で「刻明に他我を、現實を描寫することに對するあの情熱」を持ち、彼が「さういふ近代自我(個人主義)に幻滅と絶望とを感じ」る事が出來たのは何故なのかと言ふ事。フローベールに「その絶望を可能ならしめたものとして」、「實證主義が自我の内から追放した」にも關はらず、彼の背景には消滅せぬ神があり、しかもその實證精神によつて、「神に型どれる人間の概念の探究」をせしむるだけの、「夢想してゐた自我の内容の高さと深さ」があつたからなのであると言ふ點が重要なのである。「高さと深さ」とを支へたのは、取りも直さず「消滅せぬ神」なのであつたと言ふ事。それが我々日本人にはなかなか理解が出來ない。當然明治日本の自然主義作家達には無理であつたと今囘評論(『獨斷的な餘りに獨斷的な』P526下)では言つてゐるのである。

繰り返しが多く恐縮だが、此處、この差が重要な點なのである。西歐近代自我(個人主義)が演じた自然主義も、明治日本の自然主義も究極はエゴイズムと自己陶酔に逢着してしまふのであるが、そのプロセスが以下①②の樣に歴然として違ふ(テキストP8圖と9圖の差異)。それを曖昧にしている「日本近代文學史の通説」に恆存は我慢がならないのである。

①〔恆存の言ふ、西歐近代自我(個人主義)の末路〕

近代=「神の死」即ち「神意(宿命)喪失」⇒神の代はりに自己の手による宿命演出⇒自己主張(表現)・自由意思(人間如何に生くべき)⇒自己完成(自己主人公化・自己全体化・自惚鏡)⇒自己陶酔・自己満足・自己絶対視・自己証明による「似非實在感」⇒エゴイズム(近代自我の必然)⇒自己喪失(自己への距離感喪失)。

 

 ②〔恆存の言ふ、明治日本の自然主義作家達の末路〕:更なる詳細は「P7枠文」にて後述。

「藝術家、知識人が他の職業に比して殆ど社會的に顧みられぬといふ不滿、劣等感」⇒「文學(B)すらも文明開化の出世主義のネガティーブな吐け口になつてゐた」⇒故に「文學が如何に《神聖》な仕事であるかを立證」せんとした⇒作家は聖職者(B)⇒自己に忠實(D2:自己表現)⇒C”:自己完成といふ名の自己絶對視(その自己が作る「新しき小説」)・自己正當化(それ「新しき小説」の後楯となる西歐自然主義小説)⇒自己確認(D3)即ちセルフ・アイデンティフィケイション(虚妄の實感)・似非實在感。自己陶酔・自己滿足・エゴイズム⇒自己喪失。(劣等感即ち後ろめたい利己心は、「本來的には日本の民族性の内に、第二の習性として封建道徳の名殘り」だと恆存は言ふ。それが福沢諭吉等下級武士にもあつたと)

  フローベールは「背景に神」があり、強靱な實證精神があるが故に、[實證主義⇒神追放⇒個人主義⇒個人主義の限界]に近代の宿命を見、それに幻滅と絶望とを感じる事が出來たのである。そして、その實證主義(實證精神)こそはクリスト教(絶對神)が形成したものなのであると言ふ點が重要。その概略は以下枠内のとほりである。

カトリシズムの教義である『肉(A)に従ふは罪。肉(現實)は神意の遂げ處』⇒近代が持つ「神への叛逆も、じつは(中世の)千年にわたるながいあいだの神への凝視と沒入とから習得し免許をあたへられた理想人間像にもとづいておこなはれたものである」⇒強靱な實證精神の確立⇒「神に型どれる人間の概念の探究」⇒實證精神(自然科學・社會科學)で自然・社會(A)を現實的に客體化⇒更に人間の精神(B)迄も實證精神で「A的」俎上にて客體化(自然主義)⇒個人主義⇒「畢竟エゴイズム⇒個人主義の限界(實證精神の果て)

 

以下は、拙發表文:『フィクションといふ事』より

「エンマといふ世俗的自己の崩壊を『私』といふ藝術家によつて救ひ上げようといふのだ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「エンマといふ世俗的自己(A:集團的自我)の崩壊を『私』といふ藝術家(B:個人的自我⇒C:自分の夢「夢想」)によつて救ひ上げようといふのだ」と言ふ事を謂はんとしてゐるのだと思う。⇒參照「テキスト補:P2(フローベールの場合)」。尚、それについては以下の文が參考になると思ふ。

*その時代(西歐19世紀:個人主義時代)において、「獲得できた自由(A:集團的自我上の)のいかにつまらなく、それがあまりにつまらぬために自由でもなんでもない」(全一P60『現代日本文學の諸問題』)事を、フローベールは『マダム・ボヴァリー』に描いたのだと恆存は言ふ。

西歐近代の構圖(テキストP8圖=個人主義)を、フローベールは極限化(B領域の極小化)して描き、その「可能性の天窓(B:個人の純粋性)は一分のすきもなく完全にとざされ、現實世界で獲得できた自由(A領域の拡大的世界・個人主義)のいかにつまらなく、それがあまりにつまらぬために自由でもなんでもないといふことを、(『マダム ボヴァリー』で)克明に描写し證明し」て見せたと恆存は言ふのである(參照:全一P60『現代日本文學の諸問題』)

その邊を、更に原文を含め補足すると以下の樣になる。

〔拙發表文「『一匹と九十九匹と』から」及び他からの抜粋。「」内が恆存文〕

 

實證主義、そして「社會の合理化に追ひ詰められて詰め腹を切らされた」個人の純粋性(B:個人的自我)の、その「可能性の領域は壓迫され、狭窄になり、つひに絶無になつたとき、ひとびとはその代償として獲得できた現實世界(A)における自由を、自分の掌のうへにみつめて、これはひどくつまらないものだと氣づいたのである。こんな程度のもののために、可能性の夢を犧牲にしてきたとはばかばかしい。だまされた、と狂氣のやうにわめきだした。ニーチェ(1844~1900)は氣が狂つた。フローベールはもつと冷静に復讐の手段を考へだした。――個人(B:以下注參照)の敗北を身をもつて敗北してみせること、可能性の天窓(B:個人の純粋性)は一分のすきもなく完全にとざされ、現實世界で獲得できた自由(A領域の拡大的世界・個人主義)のいかにつまらなく、それがあまりにつまらぬために自由でもなんでもない(即ち、『エンマといふ世俗的自己の崩壊』)といふことを、克明に描写し證明してやること」であつたと恆存は言ふのである。(參照:『近代の宿命』全二P458。『現代日本文學の諸問題』全一P59)。

 

「フローベールは俗人(A:集團的自我)を蔑視して象牙の塔(B:個人的自我)に閉じこもらうと決意した。が、彼は個人の概念(B)をあくまで俗人(A:エンマ=世俗的自己)のうちに沈めようと覺悟してゐたのだ」(全一P60『現代日本文學の諸問題』)。

【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】

 

〔難解又は重要文〕:P615上下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「そこ(ジッドやマン)ではロマネスク(B)なものが常識(A)に水を浴びせられる(=アイロニー)からをかしいのではなく、常識(A)の世界から唐突にロマネスク(B)なるものが飛び出してくる。その不自然さのためにをかしいのである」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。それはⅠ章で恆存が取り上げた以下表「年代別移行」:「散文は自己の運命をきりひらきはじめた」における、その延長即ち黄色項目文を示す。何故そのやうな情況になつてしまつたかと言ふと、散文は自己の運命をきりひらいたが、その結果「リアリズム小説(AA)のあとではロマネスク(B)をおびやかすものはあつても、ロマネスク(B)の存在する餘地がなくなつてしまつた」(P613)からだ、と恆存は言ふ。

 

『小説の運命Ⅰ』〔難解又は重要文〕:P597下より「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

「散文は自己の運命をきりひらきはじめた」とは、以下表の「年代別移行」を示してゐる。

「それ(きりひらき=移行)は小説が自己の運命と必然との線にそつて、自己のうちのもつとも小説的なるものを意識し、その方向にむかつて自己を純化し、昇華していつた歴史にほかならず、そのことの善惡をあげつらふことほどいみのないことはあるまい。つねにジャンルは――そして全ての文化價値は――自己のうちから夾雑物を棄てさつてそれ自身において純粹なものとならうと意思し、そこにはじめて完成がもたらされ、價値が價値として存在しうるのである。小説の運命もまたその例にもれなかつた。對立と矛盾とを求めてやまない小説はその糧として精神(B)そのもの以上に格好なものを見いだしたことはなかつた。(中略)小説にとつて精神ほどつがふのよいグラウンドは他に見いだしえなかつた」と、小説における「きりひらき=移行」の必然性を恆存は強調してゐるのである。⇒(參照「テキストP5からP8への推移、即ち精神の政治學ライン下降」)及び次項目歴史の意識:西歐「統一性と一貫性」

「年代別移行」:「散文は自己の運命をきりひらきはじめた」

年代別移行:P599下參照

「散文が自己の運命をきりひらいた」⇒その對象

テキストP6:ルネサンス

「神と自然(Cたいして自由と自律性とを奪取」(人間解放)

テキストP7:十八九世紀

「支配者(A)社會的環境(A)にたいして平等と自由とを宣言」

テキストP8:

十九世紀自然主義文學

リアリズム小説(A”A)の時代

「あらゆる概念の對立のうちでもつとも本質的、もつとも内部的な、個人(B)と社會(A)との對立をその地盤としてゐる」。

テキストP8:十九末~二十世紀

リアリズム小説(A”A)の時代

更に「個人の内部における個人的自我(B)と集團的自我(A)へと移行」。「小説にとつて精神(B)ほどつがふのよいグラウンドは他に見いだしえなかつた」。⇒

*⇒そして更に「小説はみずからの存在(ロマネスクB)を危くするもの(リアリズムA)とすら對立し、その對立をみずからの内部に持ちこむことをも辭さない」。⇒參照「ロマネスクBとリアリズムA

何故ならば「小説は現實(A)と觀念(B)との對立をそのまま自己のうちに包含してゐるのである」(P599下)から。

*フロ-ベール・・・「日常的(A)な現實的行動が精神のロマネスク(B)を支へきれぬと諦めたうへでのリアリズム(A)」(617下)。

P615:「ジッドやマンにおける笑ひ」:

ロマネスクと常識(リアリズム)のアイロニー即ち上記「小説の運命」の終焉?(小説概念の變化P616下)・・・アイロニーが惹き起こす「笑ひが人間存在の究極的眞實である世界はすでに去りつつある」・・・「ぼくたち現代人はもう夢想(B)と常識(A)とを竝立せしめることができないのだ。この二つのもの(BA)のあいだには完全に聯關がたたれた」。

⇒サルトルとマルローへ。

二十世紀の作家たちが『小説の運命』にたそがれをみたのは、ただたんに『ドン・キホーテ』の作者がはやくも直觀してゐた小説のアイロニー(リアリズム(A)の拡大がロマネスク(B)を扼殺していくアイロニー)にいまさら氣がついたといふだけのことではないはずである。まさに逆である。小説が――といふのは、もちろん十九世紀的なリアリズム小説(A”A)が――このアイロニーを喪失してしまつたこと(「可能性の天窓Bは一分のすきもなく完全にとざされた」事:右圖に反撥したのである。(中略)リアリズム小説(A”A)のあとではロマネスク(B)をおびやかすものはあつても、ロマネスクの存在する餘地がなくなつてしまつた。(P613)

故に、「(上記の年代世界の樣に)ロマネスクなものが常識(A)に水を浴びせられる(=アイロニー)からをかしいのではなく、常識(A)の世界から唐突にロマネスク(B)なるものが飛び出してくる。その不自然さのためにをかしいのである」と言ふ樣な型に移行してしまつたのである。(P615)

サルトルP615~6)

・・・笑ひの喪失=「小説は亡びたのだ。小説の概念は變はらうとしているのかもしれぬ

*「笑ひの精神の缺如」(P619上)

夢想(BC)精神(B)との世界。

*「人間精神を内面に向かつて追求、だが行動のよろこびと連結」。

*「現實世界の行動が日常性と機械化のために失ひかけてゐる生命感(必然感・實在感D3)をふたたび囘復」。「一度は斷たれた夢想(BC)と日常性(A)とが、精神(B)と行動(A)とが、その聯繋を囘復」。しかし笑ひを喪失。

*「ロマネスク(B)なものは事件(A現實)のうちに採られることなく、精神(B)の自律性そのもののうちに存在」(P616下)。

マルロー

*「笑ひの精神の缺如」(P619上)

サルトルやマルローは小説に救ひを求める讀者にむかつて、その作品のそと(哲學・倫理・社會的行動)を指さす」(619)。

常識(A)と行動(A)との世界。

*「精神の世界を追放し、人間を観察するばあひ内部(B)をうかがふことを拒絶する」P615)。

*「十九世紀のリアリスト以上に作品から精神的(B)なもの心理的(B)なものを極力排除」P618)。

*「素材のみを信じる。現實の素材(A)のついひ盛りきれぬ自己の精神的眞實(BC)などといふ甘いロマネスク(B)な考へ方を抛棄」。「ロマネスクが存在するとすれば、シーンとシーンとの間隙に賭けられる」P618下)。

恆存の演劇活動

以下の「小説の運命」からの脱却と關聯があるか否か・・。

*笑ひの喪失=「小説は亡びたのだ。小説の概念は變はらうとしているのかもしれぬ

*「笑ひの精神の缺如」(P619上)

【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】

 

〔難解又は重要文〕:P620上下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「そこで小説はどうなるのか。このまま精神の王座を退かねばならぬのであらうか――ここでぼくは第一章にたちもどる」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「第一章にたちもどる」とは、以下枠文とそれに續く内容の事であらう。⇒參照〔難解又は重要文〕:P601上

〔難解又は重要文〕:P601上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「個人主義の凋落とともに、たしかに個人の権威はおびやかされ、否定されようとしてゐる。ひとびとは社會的價値の名のもとに一切の個人的なものを否定しようとしてゐる。社會的價値を通じて以外に個人の存在はみとめられない。これが二十世紀の理想であり、そのかぎりにおいて人類は進歩の段階をふみしめつつある。ぼくはそれを疑はない。が、それはあくまで政治の理想であり、文學の道ではない。ぼくたちのうちに――ぼくたちひとりひとりの内部に、政治的=集団的自我があり、また文學的=個人的自我がある。個人主義の線にそつての個人の権威は没落しても、個人の存在は永遠に失はれぬであらうし、文學は――文學が存續しうるかぎり、この存在を見うしなつてはならない。(中略)

 社會が個人を否定して抹殺してかかるならば、まさにその對立と矛盾とこそ好個の題材ではないか」

【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】

 

〔難解又は重要文〕:P620上下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「ヨーロッパのかくのごとき歴史的事實を背景として、日本における『小説の運命』の問題をかへりみるとき、現代の小説家や批評家の當面してゐる課題の本質的な意味と、同時にそれに對處するかれらのあまりに日本的な特殊性とが、ぼくたちの眼にはつきりと映じてくるであらう。ぼくは自分の今後のしごとのすべてをあげてその課題にこたへてゆきたいとおもつてゐるが、いまは第一章を再読することを求める以外に餘裕はない」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。日本的な特殊性とは、以下の邊りの消息を物語つてゐるのではなからうか。

拙發表文:個人の危機(西歐と日本の差異を含めて)より

 

日本の特殊性:「西欧十九世紀構圖」と「日本的精神主義構圖(非近代)」の差異

(參照:比較圖「日本と西歐近代」(彼我の差

 

*近代自我の必然としてのエゴイズム(個人主義は畢竟エゴイズム)⇒個人の敗北⇒近代自我(個人主義)の限界と凋落⇒個人の権威の否定⇒個人主義の超克⇒「個人的價値に對する社会的價値の優位」⇒個人は社會への有用性としての価値へ転落⇒以下の①②へ「二十世紀の理想」として引き継ぐ。

①B(個人・藝術)のA(社會)への奉仕。社会革命に奉仕(民主主義文學=プロレタリア文學の延長として)。(P63全一『現代日本文學の諸問題』)

社會(A物質)的解決で個人(B精神)の問題は解決。

 

上述の「個人の敗北」①②の説明について、恆存が言つてゐる更に重要な點を見逃す事は出來ない。

それは何かと言ふと、西歐の場合、個人が「社會にたいする有用性」として價値転落の理由は、①②の二つとも當て嵌るが、日本の場合は②しか當て嵌らないと言ふ事なのである。

「個人主義を経験しない(日本)國民が個人の限界(①)を口にするといふことは言語道斷」(P602全一『小説の運命Ⅰ』)であると。そして戦後知識人がその欺瞞をしてゐるのだと。即ち彼等は、戰爭中の個人敗北の後ろめたさを隠蔽すべく、外來思想(新漢語:「個人主義」)の権威を「自己保存の後楯・護符(C2化:P9圖參照)」にした、と恆存は指摘(參照:『近代日本知識人の典型』他)する。そして、戦争中の日本人の「個人の敗北」は、②の「物質(A:暴力・ファシズム)に對する個人の敗北」でしかなく、「①近代自我(個人主義)の敗北」などとは關係ないのだと自己欺瞞を鋭く剔抉するのである。(參照:P602全一『小説の運命Ⅰ』・P61全一『現代日本文學の諸問題』)

 この西歐との彼我の差を、堪へず見逃しさうになる缺點を日本人は持つてゐるのである。

 恆存は各評論中で、常に西歐的限界と日本的限界を「パラレル」に描き、その彼我の差を明示してゐる。しかし惜しいかな、我々日本人はそれを理解できない。其處に更なる「恆存探究」の意義を小生は見出すのである。

尚、「いまは第一章を再読することを求める」とは、小説の運命Ⅱ』は、あくまでも西歐の「小説の運命」の問題である。そして、是は日本には無關係な問題であると・・。もう一度小説の運命Ⅰ』における「日本の特殊性」に立ち返れと、恆存は強調するのである。

そして、「日本の近代文學は本質的な形相において小説の限界などにつきあたつてはをらぬ。といふことはすでに明瞭であらうが、近代日本の知識階級はヨーロッパ的な意味においてその個人の極限にゆきついてなどゐないといふことにほかならない」のだと・・。

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