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平成二十年五月十二日

 

吉野櫻雲


《恆存の「近代化とリージョナリズム」に關して》

K.K會員からの質問
KK.rijyonarizumu3.pdf へのリンクに對して。

 

*K.K氏質問��:「『戦争と平和と』全三P395上19行目」の「日本の近代化はリージョナリズムからの、或はその基盤たる家族共同體的な場の原理からの脱却をつひに果し得ず今日に至つてゐるといふ事實」の文での、「リージョナリズムから脱却すべきだと恆存は言つてゐるのですか」について。・・・

恆存は、リージョナリズムから脱却すべきだと言つてゐるのだと思ひます。何故ならば、上文を含め『醒めて踊れ』のP394下〜最終頁を檢證するに、恆存は日本の地域主義(リージョナリズム)の缺陷を、「その基盤たる家族共同體的な場の原理」即ち「家族共同體的(身内的)場への居附き・沈湎」と捉へてゐる樣に思へるからです。日本人に於いては「家族共同體的な場の原理」が最優先され、それより高次の當面する第一義的な課題(場)がたとへ其處に存在してゐても、それに對する「論理的潔癖」に基づく意見表明よりも、二次的な「家族共同體的な場」への「美的潔癖(和・なあなあ)」が重要視される、と恆存は言つています。(參照:P396上「大學教授會」及び『日本および日本人』全三P188)

日本人は、「家族共同體的な場の原理」からなる磁場の強力に引き摺られ、其處に居附き沈湎し、それより高次の第一義的な課題(場)が別次元に存在してゐても、場の轉換を圖つてその「場との關係を適應正常化させる」と言ふ行動が取れない。

何故にさうなるかと言ふと、本來「關係(D1)と稱する實在物は潜在的には一つの言葉(F)によつて表し得、その言葉との附合ひ方、扱ひ方(E)によつて、人間は場との關係の適應正常化が叶へられる」と言ふ性質があるにもかかはらず、日本人にはその藝當が出來ないのである。個人主義の洗禮を受けてゐない日本人は、「個人の強靱性」を持してなく、故に場の轉換を見事に果たして「關係の適應正常化」を圖るなどと言ふ事は出來ない。恆存はかうした限界を日本の地域主義(リージョナリズム)の範疇と捉へてゐる樣に小生には理解できるのです。

〔參考文〕

��    場から生ずる「關係(D1)と稱する實在物は潜在的には一つのせりふ(言葉:問答・對話・獨白)によつて表し得る」(全七P300『せりふと動き』)

��      場から生ずる「心の動き(關係)を形のある『物』として見せるのがせりふの力學」(『せりふと動き』)。

 

更にこの二つを合はせ要略するとかうなる。

せりふ(言葉:F)との附合ひ方、扱ひ方(E)、即ち「フレイジング」「SO called=所謂何々」の用ゐ方の適不適で、場との關係(D1)を適應正常化(非沈湎)させる事が可能となり、また反對に適應異常化(沈湎)に陥らせる事にもなり得る。

 

「リージョナリズムからの、或はその基盤たる家族共同體的な場の原理からの脱却をつひに果し得ず」、その日本に殘留された形態こそが、取りも直さず「テキストP9圖」「テキスト補P2圖」の精神主義であり、その「日本の精神主義」が形成する異形が、「和魂洋才」とは言へまいか。日本人は「洋才」に沈湎し、さうでありながら翻つて、「日本のリージョナリズムからの、或はその基盤たる家族共同體的な場の原理」が母體の、「和魂」にも矢張り沈湎してゐる。その二つの沈湎の原因として「、何にでもべたべた引つ付く自他未分の神道的生活態度」が禍してゐるのではなからうか。

 

近代化(先進國化)の問題で上枠文の事柄(要略文)を言ひ換へるとかうなる。

日本は「近代化(關係:實在物)」及び「自由・個性・合理化・機械化等(潛在的言葉)」と言ふハードウェアにもろにぶち當たり、その爲雁字搦めとなり、それに居附き沈湎してしまつた。結果として「物質のみの近代化」で事終はれりとなつてしまつた。原因は、それら「ハードウェア=近代化・自由等」に對處するに當たつての、「ソフトウェア(SO called・精神の政治學・精神の近代化)」が缺如されてゐたからだと恆存は言ふ(P393上『醒めて踊れ』)。加ふるに「何にでもべたべた引つ付く自他未分の神道的生活態度」(『日本および日本人』)と言ふ日本的土壌がある、と。西歐との彼我の差を辧へず「自他未分」で、「洋才」と言ふ場に居附き沈湎してしまつたのである。

 

 更に、恆存の論を纏めるとかうなると思ひます。

 「近代化とは樣式を成立たしめる基盤たるリージョナリズム(地域主義)に對して破壊的作用を意味する」爲、明治以來、日本の地域主義(リージョナリズム)からは、「歴史(時間的全體)⇒文化(關係:=型・儀式)⇒保守」と言ふ形態はどんどん喪失され、結局其處に殘留してゐるものは、「家族共同體的な場の原理」即ち「場への居附き・沈湎」の側面しか見出せなくなつた、と。引用文P393上の「その基盤たる家族共同體的な場の原理からの脱却をつひに果し得ず」がそれを示します。それが證據に、戰後の日本は、「物質のみの近代化」に居附き沈湎し、「近代化⇒文化喪失⇒型・儀式喪失」を恣にしてゐる情況であります。

 故に貴姉が仰せられる「樣式・儀式・作法」は、明治以來喪失の一途を辿り、特に戰後の日本の地域主義(リージョナリズム)には、「文化喪失」と共に「樣式・儀式・作法」は既に存在してゐないのであります。

では、貴姉の疑問點である「リージョナリズム」を脱しながら、しかも「型・樣式・儀式・作法」を喪失しないにはどうしたらいいか。P395上1行目の「樣式(・儀式・作法)を成立たしめる基盤たるリージョナリズム(地域主義)に對して破壊的作用を意味する」近代化に對して、「型・樣式・儀式・作法」を保守するにはどう對處したらいいのか。

 恆存は、最早「樣式・儀式・作法」を喪失し「家族共同體的な場の原理」即ち「場への居附き・沈湎」の側面しか見出せない、日本の地域主義(リージョナリズム)から脱却し、しかも、「文化=型・儀式」を復活せしめるにはどうしたらいいかを以下の樣に提言します。

「家族共同體的な場の原理」「場への居附き・沈湎」と言ふ日本的リージョナリズムの缺點から脱却するにはかうした方法があると。「家族共同體的な場の原理」に支配されてゐる「日本のリージョナリズムから脱却」、即ち「場との關係(D1)を適應正常化(非沈湎)させる」=「關係と言ふ眞實を生かす」爲には、「言葉との附合ひ方、扱ひ方(E)、即ち『フレイジング』『SO called=所謂何々』」の樣な方法論「型にしたがつた行動(型・儀式)」を驅使するしかないと。

即ち、日本人が現代と言ふ舞台において、「家族共同體的な場」以外にも多々遭遇する筈である各場各場(國・企業・夫婦・親子・家庭・兄弟・師弟・友達・他者・等)で、其處から生ずる關係と言ふ眞實(目上⇔目下・親⇔子・師⇔弟子・國⇔國民、等々)に對して、その「關係(D1)と言ふ眞實を生かすために(その關係に合つた)お面(F)をかぶる」のです。

先にも引用した、「關係(D1)と稱する實在物は潜在的には一つの言葉(F:お面とも言ひ換へが可能)によつて表し得、その言葉(お面)との附合ひ方、扱ひ方、或はかぶり方(E)によつて、人間は場との關係の適應正常化が叶へられる」と言ふ、その性質を利用するのであります。やはり先述した、「ハードウェア=近代化・自由等の言葉・お面」に對處するに當たつての、「ソフトウェア(SO called・お面のかぶり方・精神の政治學・精神の近代化)」を驅使するのです。そしてその「お面のかぶり方」に當たるのが、「型にしたがつた行動(型・儀式)」なのであります。  

樣々な場でそれに對するに、樣々なお面のかぶり方(型にしたがつた行動)が必要とされる。その樣々なお面(言葉)及びかぶり方(「型にしたがつた行動」)が以下表と言ふ事になる。「親・他人・物・祝祭日・國語」と言ふ言葉(お面)に對し、場との「關係と言ふ眞實」を生かすために用意されてゐる「かぶり方」、もし文化の遺産としてかぶり方の「型・儀式」が殘つてゐるならばそれを復活し、その「型にしたがつた行動(型・儀式)」を取れと言つてゐるのであります。そしてその形態の完成が取りも直さず、「完成せる統一體としての人格」論になるのです。

 さすれば、日本は地域主義(リージョナリズム)を脱しても「型・樣式・儀式・作法」が無くなる事にはならないと。

 

何=適應對象(言葉・物等)への

型にしたがつた行動は

 

(Eの至大化):即ち、附合ひ方・扱ひ方・So called・仕來り(躾)・風習・樣式・儀式・祭祀・傳統技術・フレイジング

場との關係を「適應正常化」させる。

 

(=D1の至大化):

場への必然感・全體感を獲得

結果として生の充實感・實在感の成立となる。

言葉:

 

近代化=

資本主義・個人主義・帝國主義・民主主義・自然主義文學、等に對して

「So called」=Eの至大化

 

參考「自分と言葉との距離の測定が出來る」とは「言葉を自己所有化する」と言ふ事。即ち、意識度を高くし、言葉の用法に細心の注意をし、「言葉を自分から遠く離す事によつて、逆にその言葉を精神化し、支配、操作する事が出来る様になる」(P391全七)。

Eの至大化=「D1の至大化」=西歐近代(場)との關係を「適應正常化」=非沈湎=文化(關係)の存在及び保守。

西歐近代(場)へ沈湎せず、日本の文化(D1)は守れた。

現在への充實感・實在感の成立となる。(「空虚感」の不在)。

 

展開評論:『醒めて踊れ』・『教育改革に關し首相に訴ふ』(「日本人の心に穿たれた空洞」云々)

恆存は、國家の近代化(西歐化)、物質のみの近代化が日本文化の崩壊を招いたと指摘する。「今日の日本人の心に穿たれた空洞は」それが原因であり「近代化の實績を擧げた」犧牲として「日本人固有の文化」の喪失が支払われたのである、と。

せりふ

(せりふの力學)

フレイジング。

參考「言葉を自分から遠く離す事によつて、逆にその言葉を精神化し、支配、操作する事が出來る様になる」(P391全七)。さうする事によつて「自分に近付け、言葉を物そのものから離して自分の所有にする事が可能になる」。

場面から生ずる「心の動き(關係)を形のある『物』として見せる」事が可能となり(=適應正常化)、場への必然感が生じ、其處に時間的全體感(藝術的、劇的瞬間)が形成される。

結果として生の充實感・實在感の成立となる。

即ち時間藝術(劇的瞬間)の成立。

*實在感の成立=「上に脱け出た意識は、足下の現實が時々刻々に動いてゐることを實感」する。

 

展開評論:『せりふと動き』他

親・他人

仕來り・躾・礼儀作法(謙譲語等の言葉遣ひ。物の扱ひ方)。

*「自分と言葉との距離の測定が出來る」⇒相手との距離の測定が出來る。

*物が單なる物にしか見えない樣では、人もまた物にしか見えない」

場との關係即ち人間關係を適應正常化させる。

例:親との場・共同體:C”)になすべき事(孝行)をしてゐると言ふ必然感。

「宿命/自己劇化」⇒共同體:C”⇒全體感の獲得

演劇(時間藝術)と同一的生の充實感・實在感の成立となる。

*「役者修行は人間修行」=「人間修行は役者修行」。

 

夫婦

(男女)

「性愛」は、「型」の役割を持ち、その「型にしたがつた行動」、即ち個人主義的愛ではなく「コスモスに迂路を通した愛」に基づく性愛なる行動は、と言ふ事。

場との關係即ち人間關係を適應正常化させる。

例:夫婦(と言ふ場・共同體:C”)になすべき事(夫婦相和)をしてゐると言ふ必然感。

*「宿命/自己劇化」⇒共同體:C”⇒全體感の獲得。

*「型にしたがつた性愛」そのものが獲得する「時間的全體感」。

*結果として生の充實感・實在感を齎す。

*「型にしたがつた行動(性愛)」によつて、ロレンスは以下の事に繋がりうると言ふのである。

「吾々は生きて肉のうちにあり、また生々たる實體をもつたコスモス(空間的、時間的全體)の一部であるといふ歡喜に陶酔すべきではなからうか」と言ふコスモスとの黙契に。(參照『アポカリプス論』最終章)

物

*職人の場合=傳統技術で物を「生き物」として附合ふ。

*空間的全體(C)と言ふ場との關係を適應正常化=空間藝術。

「自分と物(言葉)との距離の測定が出來る」とは「物(言葉)を自己所有化する」と言ふ事。

空間藝術的「生の充實感・實在感の成立」。

 

展開評論:『「人間國寶」序』『傳統技術保護に關し首相に訴ふ』

祝祭日

 

儀式(型)、慣習的行事にしたがつた行動は

 

「型・儀式」の行爲そのものに内在する働き・・・「そもそも動作や作用、さらに人間の抽象的な營みを名詞化しようといふ働きそのものが、主體である自分を對象から分離し、距離をつくらうとする衝動なのです」(全三P204『日本および日本人』)

歴史(時間的全體:C)と言ふ場との關係を適應正常化させる=文化の存在。

 

歴史(時間的全體:C)⇒文化(D1)⇒儀式(型)・慣習的行事。

 

*時間的全體感(劇的瞬間)の獲得。

*「共同體(全體的なるもの)の存在を確かめ合ふ」と言ふ適應正常化(右文參照)。

劇的瞬間の出現による生の充實感・實在感の成立。

原文:「祝祭日には儀式(E:型)、ないしは慣習的行事(E:型)を伴はなければならない。それによつて平生は個人の利害しか生きてゐない吾々も、初めて共同體(全體的なるもの)の存在を確かめ合ふのである」

展開評論:『教育の普及は浮薄の普及なり』『祝祭日に關し衆參両院議員に訴ふ』

國語

 

 

 

 

 

 

 

 

正當表記「正假名正漢字」と言ふ型にしたがつた行動は

 

*歴史(時間的全體:C)と言ふ場との適應正常化=文化の存在。

*日本の歴史(時間的全體と言ふ場:C)になすべき事即ち「宿命(文化)/自己劇化(保守)をしてゐると言ふ必然感。

*「宿命/自己劇化」⇒歴史(時間的全體と言ふ場:C)⇒時間的全體感の獲得

左項が齎す、生の充實感・實在感の成立。

 

 

*K.K氏質問��:「單に規律やルールの確立を説いても始まらぬ」云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。以下「二枠文」の事柄に思ひを致さずに、「單に規律やルールの確立を説いても始まらぬ」と言ふ事なのではなからうか。

日本は「近代化(關係:實在物)」及び「自由・個性等(潛在的言葉)」と言ふハードウェアにもろにぶち當たり、その爲雁字搦めとなり、それに居附き沈湎してしまつた。結果として「物質のみの近代化」で事終はれりとなつてしまつた。原因は、それら「ハードウェア=近代化・自由個性等」に對處するに當たつての、「ソフトウェア(SO called・精神の政治學・精神の近代化)」が缺如されてゐたからだと恆存は言ふのである(P393上『醒めて踊れ』)。

 

即ち、西歐(場)との關係(宿命)として齎された「近代化」への適應を、新漢語・外來語の用法(So called)で正常な關係に「形ある『物』として見せる」。それがハードウェアとしての近代化(資本主義化・民主主義化・個人主義化・機械化・組織化・合理化等々)に對するソフトウェア(精神の政治學)としての對處方法なのである。何故日本は「資本主義化・民主主義化・個人主義化」を選擇するのか。西歐が近代でそれら概念に客體化して見せた「神に型どれる人間の概念の探究」を、日本も「形ある『物』として(それら新漢語の裏に)見せる」と言ふ事が「So called」なのである。當然其處には近代化が持つ二面性のもう一つ、「必要惡・疎外」等々の裏面も捉へ「形ある『物』として見せる」と言ふ「So called」も必要なのは言ふまでもない。

 

をはり

 

 



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