平成二十年五月五日
吉野櫻雲
《恆存の「型・儀式」に關する考へ方》
(副題:文化喪失⇒型・儀式喪失⇒鬼人化五頁文參照)
(以下文中傍線及び括弧内は概ね吉野附記。「P9圖」云々は「讀む會テキスト」頁を表す。「A・B・C・D2」等も同テキスト三頁を參照の程)
恆存は、「全體:C」或は「共同體:C”」と言ふ場との關係に對する、「型・儀式(E)」の役割をかう語つてゐる。
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*「型にしたがつた行動は、行動をそれ自體として純粋に味はひうるやうにしむけてくれる。そのときにおいてのみ、私たちは、すべてがとめどない因果のなかに埋れた日常生活の、末梢的な部分品としての存在から脱却し、それ自身において完全な、生命そのものの根源(全體)につながることができるのだ」(參照:『人間・この劇的なるもの』最終章)。 *人間が平生、「自己のうちで全體と調和しかねて」、それが爲に「生理的には必然かもしれぬが、倫理的には偶然な事故にしかすぎぬ死(即ち全體感、實在感缺如の緩慢的死)」なるものに晒され「倦み疲れてゐる」時、かかる「無際限な平板さから」「まぬかれ、生の充實感にひたるため」に、儀式こそは「その方式であり型」となり得るのである(『人間・この劇的なるもの』前部からの要略)。 |
上文及びその他評論の幾つかから察するに、恆存は、「型にしたがつた行動」即ち「型・儀式」なるものを、全體(C)或は共同體(C”)と言ふ「場との關係を適應正常化」させる機能を持つものと捉へてゐるやうだ。その事を分かりやすく書くと以下の樣になる。(參照「讀む會テキスト:補」3頁右圖)
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型にしたがつた行動⇒「行動をそれ自體として純粋に味はひうるやうにしむけてくれる」⇒言葉(物)との距離の至大化(Eの至大化)⇒場との關係を適應正常化(場に沈湎してゐる日常性からの解放:D1の至大化)⇒��場(全體・共同體)に對してなすべきことをしてゐると言ふ「必然感」の獲得。�⊂譟柄奇鶲燭�國・町・家族等共同體)と有機的に繋がつてゐると言ふ「全體感」の獲得。⇒結果として生の充實感(實在感)の成立。 |
何故「場との關係を適應正常化」させる事になるかと言へば、「型にしたがつた行動」即ち「行動をそれ自體として純粋に味はひうるやうにしむけてくれる(=Eの至大化)」行爲に内在する以下枠文の働き、即ち「名詞化しようとする働き(=言葉との距離の至大化:Eの至大化)」がその効果を發揮するのである。その効果性が人間を、場に沈湎してゐる日常性から解放させて呉れる(D1の至大化)。重要な點は、「行動をそれ自體として純粋に味はふ」事が、自分と言葉(物)との距離の至大化(Eの至大化)を形成すると言ふ點なのである。
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「そもそも動作や作用、さらに人間の抽象的な營みを名詞化しようといふ働きそのものが、主體である自分を對象から分離し、距離をつくらうとする衝動なのです」(全三P204『日本および日本人』) |
換言すれば、言葉との附合ひ方である「so called=所謂何々=Eの至大化」「フレイジング=Eの至大化」の効果的用ゐ方で、「自分と言葉との距離の測定が出來」「言葉を自己所有化する事が出來る」。その働きによつて、結果的に場と言ふ對象から自分を分離(非沈湎化)させる事が可能となり、しいては「場との關係を適應正常化(D1の至大化)」させる事へと繋がる。恆存の言を借りるなら、「場から生ずる關係と稱する實在物(D1の至大化)は、潛在的には一つのせりふ(言葉との附合ひ方:Eの至大化)によつて表し得る」と言ふ、その能動が果たし得た事になる。恆存はその樣な効果性(Eの至大化=D1の至大化)を持つものとして、上枠文の事柄に着目してゐるのである。(參照:全七P300『せりふと動き』)
もう少し補足する。
恆存は、「型にしたがつた行動」即ち「型・儀式」なるものを、上述の「自分と言葉との距離の測定が出來」「言葉を自己所有化する事が出來る」働き(=Eの至大化)を持つものと捉へるが故に、それを更に敷衍して、「型・儀式」は「物を生き物として附合ふ」事を可能にしてくれる手立てになるとも捉へてゐる。そして、「so called=所謂何々」や「フレイジング(句節法:演劇用語)」について書いてゐる文章ではかうも言つてゐる。「so called」「フレイジング」を用ゐる事は、人間の意識度を高くさせ、言葉の用法に細心の注意を仕向けさせ、その結果「言葉を自分から遠く離す事によつて、逆にその言葉を精神化し、支配、操作する事が出來る」樣になると。(參照:『醒めて踊れ』P391全七)
上記の内容は恆存評論においてかなり重要な項目と小生には思へる。故に恆存が意とする「型にしたがつた行動」、即ち「行動をそれ自體として純粋に味はひうるやうにしむけてくれる」の概念に内包される各種の行動が、それぞれどの樣に「場との關係を適應正常化」させてくれるのかを以下表で探究してみた。と同時に小生の見解で「親・他人」「夫婦(男女)」なる項目を其處に現象例として加へてみた。
尚、表の見方は左から右へ、
何=適應對象に對しての、型にしたがつた行動は、場との關係を「適應正常化」させる。そしてその結果として生の充實感・實在感の成立となる。
と言ふ要領で見て戴きたい。例として第一項目を擧げると、
言葉(近代化等)に對しての型にしたがつた行動、即ち「So called」は、西歐近代(場)との關係を「適應正常化」をさせ、西歐近代(場)へ沈湎せず、日本の文化(D1)は守れた。 そしてその結果として現在への充實感・實在感の成立となる。
と言ふ事になる。そして言ふまでもないが、この第一項目は、型にしたがつた行動、即ち「So called」が出來なかつたから、日本の文化は守れなかつた結果となつてゐるのである。
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何=適應對象(言葉・物等)への |
型にしたがつた行動は (Eの至大化):即ち、附合ひ方・扱ひ方・So called・仕來り(躾)・風習・樣式・儀式・祭祀・傳統技術・フレイジング |
場との關係を「適應正常化」させる。 (=D1の至大化): 場への必然感・全體感を獲得 |
結果として生の充實感・實在感の成立となる。 |
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言葉: 近代化= 資本主義・個人主義・帝國主義・民主主義・自然主義文學、等に對して |
「So
called」=Eの至大化 參考「自分と言葉との距離の測定が出來る」とは「言葉を自己所有化する」と言ふ事。即ち、意識度を高くし、言葉の用法に細心の注意をし、「言葉を自分から遠く離す事によつて、逆にその言葉を精神化し、支配、操作する事が出来る様になる」(P391全七)。 |
Eの至大化=「D1の至大化」=西歐近代(場)との關係を「適應正常化」=非沈湎=文化(關係)の存在及び保守。 西歐近代(場)へ沈湎せず、日本の文化(D1)は守れた。 |
現在への充實感・實在感の成立となる。(「空虚感」の不在)。 展開評論:『醒めて踊れ』・『教育改革に關し首相に訴ふ』(「日本人の心に穿たれた空洞」云々) 恆存は、國家の近代化(西歐化)、物質のみの近代化が日本文化の崩壊を招いたと指摘する。「今日の日本人の心に穿たれた空洞は」それが原因であり「近代化の實績を擧げた」犧牲として「日本人固有の文化」の喪失が支払われたのである、と。 |
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せりふ (せりふの力學) |
フレイジング。 參考「言葉を自分から遠く離す事によつて、逆にその言葉を精神化し、支配、操作する事が出來る様になる」(P391全七)。さうする事によつて「自分に近付け、言葉を物そのものから離して自分の所有にする事が可能になる」。 |
場面から生ずる「心の動き(關係)を形のある『物』として見せる」事が可能となり(=適應正常化)、場への必然感が生じ、其處に時間的全體感(藝術的、劇的瞬間)が形成される。 |
結果として生の充實感・實在感の成立となる。 即ち時間藝術(劇的瞬間)の成立。 *實在感の成立=「上に脱け出た意識は、足下の現實が時々刻々に動いてゐることを實感」する。 展開評論:『せりふと動き』他 |
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親・他人 |
仕來り・躾・礼儀作法(謙譲語等の言葉遣ひ。物の扱ひ方)。 *「自分と言葉との距離の測定が出來る」⇒相手との距離の測定が出來る。 *物が單なる物にしか見えない樣では、人もまた物にしか見えない」 |
場との關係即ち人間關係を適應正常化させる。 例:親との場・共同體:C”)になすべき事(孝行)をしてゐると言ふ必然感。 「宿命/自己劇化」⇒共同體:C”⇒全體感の獲得 |
演劇(時間藝術)と同一的生の充實感・實在感の成立となる。 *「役者修行は人間修行」=「人間修行は役者修行」。 |
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夫婦 (男女) |
「性愛」は、「型」の役割を持ち、その「型にしたがつた行動」、即ち個人主義的愛ではなく「コスモスに迂路を通した愛」に基づく性愛なる行動は、と言ふ事。 |
場との關係即ち人間關係を適應正常化させる。 例:夫婦(と言ふ場・共同體:C”)になすべき事(夫婦相和)をしてゐると言ふ必然感。 *「宿命/自己劇化」⇒共同體:C”⇒全體感の獲得。 *「型にしたがつた性愛」そのものが獲得する「時間的全體感」。 |
*結果として生の充實感・實在感を齎す。 *「型にしたがつた行動(性愛)」によつて、ロレンスは以下の事に繋がりうると言ふのである。 「吾々は生きて肉のうちにあり、また生々たる實體をもつたコスモス(空間的、時間的全體)の一部であるといふ歡喜に陶酔すべきではなからうか」と言ふコスモスとの黙契に。(參照『アポカリプス論』最終章) |
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物 |
*職人の場合=傳統技術で物を「生き物」として附合ふ。 |
*空間的全體(C)と言ふ場との關係を適應正常化=空間藝術。 「自分と物(言葉)との距離の測定が出來る」とは「物(言葉)を自己所有化する」と言ふ事。 |
空間藝術的「生の充實感・實在感の成立」。 展開評論:『「人間國寶」序』『傳統技術保護に關し首相に訴ふ』 |
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祝祭日 |
儀式(型)、慣習的行事にしたがつた行動は 「型・儀式」の行爲そのものに内在する働き・・・「そもそも動作や作用、さらに人間の抽象的な營みを名詞化しようといふ働きそのものが、主體である自分を對象から分離し、距離をつくらうとする衝動なのです」(全三P204『日本および日本人』) |
歴史(時間的全體:C)と言ふ場との關係を適應正常化させる=文化の存在。 歴史(時間的全體:C)⇒文化(D1)⇒儀式(型)・慣習的行事。 *時間的全體感(劇的瞬間)の獲得。 *「共同體(全體的なるもの)の存在を確かめ合ふ」と言ふ適應正常化(右文參照)。 |
劇的瞬間の出現による生の充實感・實在感の成立。 原文:「祝祭日には儀式(E:型)、ないしは慣習的行事(E:型)を伴はなければならない。それによつて平生は個人の利害しか生きてゐない吾々も、初めて共同體(全體的なるもの)の存在を確かめ合ふのである」 展開評論:『教育の普及は浮薄の普及なり』『祝祭日に關し衆參両院議員に訴ふ』 |
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國語 |
正當表記「正假名正漢字」と言ふ型にしたがつた行動は |
*歴史(時間的全體:C)と言ふ場との適應正常化=文化の存在。 *日本の歴史(時間的全體と言ふ場:C)になすべき事即ち「宿命(文化)/自己劇化(保守)をしてゐると言ふ必然感。 *「宿命/自己劇化」⇒歴史(時間的全體と言ふ場:C)⇒時間的全體感の獲得 |
左項が齎す、生の充實感・實在感の成立。 |
上表の如く羅列してみると、文化を喪失したが爲にそれに從ひ是等「型」をも喪失した、日本の今日的情況の慘さが思ひ知らされる。そして自づと想起されてくるのは、五十年も前にそれを見事に言ひ當ててゐる恆存の以下文章である。
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「現代の日本には主體的な生き方や心の働きとしての文化や教養がないばかりか、文化とはそのやうな主體的な精神の型(E)だといふ觀念さへないのです。おそらく日本の全歴史を通じて現代ほど文化が薄ぺらになり、教養ある階級を失つた時代はなかつたらうと思はれます。日本文化に關心を持つまへに、私たちはまづその自覺に徹すべきだと思ひます」(全五P187『傳統にたいする心構』) |
そして更に、半世紀を過ぎた我が國は如何と、現在の情況を檢證する欲求に驅られるのである。
昨今頻繁に繰り返される事件(衝動的「親殺し・子殺し・無差別殺人」)を見てゐると、「神は死んだ、全ては許される」と同樣、それをもじつて「文化は死んだ(型は喪失した)、全ては許される」と言ひたくなる。日本は「物質的近代化」に醉ひしれて「文化喪失」と言ふ國家としての致命的缺陥に氣附かずにゐた爲、此處に終に末期的症状が訪れてきたのだと慨嘆せざるを得ない。「文化は死んだ(型は喪失した)」の病魔が日本國土に蔓延し、あちこちの土壌から、その現象的事件が吹き出し始めたのだと氣附かされる。恆存の「戰後日本は文化を喪失した」云々の各評論を讀むにつけ、その主張の道理に今更肯かざるを得ないのである。
上述した如く、日本は「型・儀式」なるものを喪失して、「自分と言葉との距離の測定が出來」なくなり、結果として人は言葉(觀念)や物の中に呑み込まれ、對象を的確に捉へる術を喪つてしまつた。
衝動的「親殺し・子殺し・無差別殺人」なる現象は何を意味するかと言へばかうなる。現代人は型を喪失したが爲に、此處今日に至つて、その現象が「親」とは「子」とは「他人」とは、の對象にまで露出して來てしまつた事をそれは示してゐる。即ち、「親・子・他人」と言ふ對象との間に本來ならば介在すべき筈の、「型にしたがつた行動(仕來り・躾・礼儀作法等)」が喪失し、その爲自分と對象との分離が利かなくなつてしまつた(E・距離の至小化)のである。
加ふるに、それと平行してもう一つ重要な點が指摘できる。即ち、「戰後民主主義」の産物の一つ「自由」なる觀念に對しても、やはり「距離の測定(so called)」=「型にしたがつた行動」が出來ず、結果として「自由」なる觀念に呑み込まれ、全てに自己優先の思考「エゴイズム」が蔓延る事となつた。
この「(自由に)呑み込まれる」及び「自分と言葉(親・子・他人)との距離の測定が出來なくなる」とは、言葉に適切に個人的對處(セルフコントロール)が出來なくなる事を指す。と同時に「自分を客感的に見れなくなる」「自分との折合ひが利かなくなる」にもそれは繋がる。
「親・子・他人」に對しての距離感覺である、「型」の留め金が外された當然の歸結として、人は自己の「自由」を最優先しエゴイズムに引き摺られる。とどのつまり、自己の自由(即ちエゴイズム)にとつては、「親・子・他人」なる對象は單なる煩はしい對象、邪魔な存在と化すのである。その結果、短絡的に衝動的發作的に、「自由阻害對象物」排除の論理として「殺人」が惹き起こされるのである。もう一度書くが、「型」の留め金の缺如と、履き違への「自由」(エゴイズム)が、此處に相乘効果を發揮し事件(現象)を惹き起こしたのである。
この問題については恆存の以下文が參考になると思ふ。先に結論を言ふと、「自由といふ言葉と話し手(自分)との距離が小に」なつたが爲、「話し手(自分)は自由といふ觀念に呑み込まれ、自由そのものが觀念的に大手を振つて罷り通り」、自由が最優先される事となるのである。前述の、「自由」の言葉の中に「親・子・他人」が落とし込まれてしまつた、と言ふ内容を此の文は補足してくれる。
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P391全七『醒めて踊れ』より 「話し手と言葉との距離が小になれば、その言葉が話し手を物そのものの中に引きずり込み、それを露出させる。言葉を自分から遠く離す事によつて、逆にその言葉を精神化し、支配、操作する事が出来る様になり、隨つて自分に近附け、言葉を物そのものから離して自分の所有にする事が可能になる。抽象語の場合も同樣である。自由といふ言葉と話し手との距離が小になれば、話し手は自由といふ觀念に呑み込まれ、自由そのものが觀念的に大手を振つて罷り通り、その言葉の外延は果てしも無く擴り、内包は全く捉へ處の無い曖昧なものと化する。言葉に定義は不要であり、用法しか無いとしても、その用法に意識の集中があれば、定義せずとも概念の内包、外延に亂れは生じない」 |
更に上枠文を借りながら、前出の「『自分と對象との分離が利かなくなつてしまつた(E・距離の至小化)」、及び「『自由』なる觀念に呑み込まれてしまつた」云々の現象を更に説明するとかうなる。
即ち、「熱い!痛い!」等の衝動的發作的言葉を、人間が發する時と同樣に低位な意識度(無意識的即ち「話し手と言葉との距離の至小」)を持つ對象に、「親」「子」「他人」なる言葉が成り下がつてしまつた事をこの情況は物語つてゐるのである。本來なら「親、子、他人」の言葉にそれぞれ「孝心」、「母性・父性による躾」、「他者愛・謙譲」なる用語が「型」の介在(距離至大化)によつて補填されるべき筈が、「型」を喪失したが爲に、人が「熱い!痛い!」を發聲するときと同類な行動、即ち衝動的發作的な行動が其處に惹き起こされてしまふのだ。
つまり、文化を喪失し上表に羅列した樣な「型にしたがつた行動」が現代人には出來なくなつてしまつたが爲に、「親・子・他人」の概念すらも、「熱い!痛い!」同樣の衝動的發作的「距離至小」の對象なる概念に転落してしまつた事を、是等の事件は端的に示してゐるのである。「文化は死んだ、型は死んだ」爲に、人間が人間でなくなつて動物以下になつて來た樣相を呈してゐる。
再度上枠文を應用すると、「自由といふ觀念に人間が呑み込まれ、自由そのものが觀念的に大手を振つて罷り通り」、己が自由(エゴイズム)最優先の結果、「親・子・他人」は足蹴にされてしまつたのである。「型」の缺如がそれに追ひ打ちを掛けたのは言ふまでもない。昨今の事件(親殺し・子殺し・無差別殺人)の背後に以上の本質が存在する樣に思はれてならない。
文化も型も死んだ戰後日本は、その結果として「戰後民主主義(自由・平等)」を隠れ蓑にエゴイズムの拡大を創出したに過ぎぬ。そして今や、自分と對象との分離が利かなくなつてしまつたエゴイストの鬼人が、日本國土、農村と都市とを問はず、あらゆる處に出沒、跳梁跋扈してゐる有り樣なのである。
そして鬼人以外の人間は、文化も型も死んだ現實の中でどうしてゐるかと言へば、彼等の「意識は、平面を横ばいする歴史的現實(過去・現在・未來といふ時間的繼續)の日常性から、その無際限な平板さから、起き上がらうとしてたえずあがいてゐる」(『人間・この劇的なるもの』)他に手立てがない。それは何ゆゑにかと言へば、取りも直さず、此の引用文に後續する文章「その(起きあがる)爲の行爲が演戯」がそれを言ひ當ててゐる。つまり起きあがりたくても、その演戯、換言すれば「型・儀式」を彼等は手中にしてないのである。
半世紀前に、恆存が「文化喪失⇒型・儀式喪失⇒生の全體感・必然感・充實感・實在感喪失⇒精神的混迷」の警鐘を鳴らし續けたにもかかはらず、我が國は目を覺ます事が出來なかつた。そしてその愚昧が引き續き現今の日本を蔽つてゐる。
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