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《『讀む會』質疑應答と論考:「精神の政治學」「精神の近代化」他》
平成十八年二月二十六日
寸感:【恆存の評論(眼)から浮世を見れば・・・】その二
吉野櫻雲 發表
恆存評論中『醒めて踊れ』は小生の好きな内の一つだが、その中で氏が展開した「ハ
ードウェア(關係)」「ソフトウェア(言葉・せりふ・概念の自己所有化:E)」の處世術は、洵 に見事にしてかつ調法なる方法論だと思へる。
それと關聯してだが、恆存は「浅利慶太」との對談で自らの批評方法をかう述べてゐ
る。恆存理解に重要だと思ふので此處に紹介する。「僕の批評活動は芝居を書くつもり でやつてゐたのですからね。からかふのも風刺するのも芝居の原理に從つてやつてゐ たんです。非常に開き直つて言へば、いままでの批評が劇作家の批評なんだ」と。さう言 へば、全評論にと言つてもいい程、氏の演劇論(參照:「福田恆存:テキスト十一圖」の 「演劇における關係の眞實化」)の内容が色の濃淡に差はありこそすれ、展開されてゐ るのに氣がつく。今囘テーマ(「渡部昇一批判」)にも又前囘テーマにもそれがあるのが 分かる。當然「役者修業は人間修業」の表現はその一つであり、上記の帰結として「完 成せる統一體としての人格」論なのではあるが。
この文言は今後の更なる恆存探求には見過ごせないが、その「劇作家の批評」が評論
『醒めて踊れ』では明確に押し出されてゐる。つまり芝居の「心の動き(關係)を形のある 『物』として見せるのがせりふの力学」(『せりふと動き』)が其處に應用されてゐるのが分 かる。「ハードウェア(關係)」云々はその逆の理論を解説してゐるのである。言葉(せり ふ)の捉へ方で場との關係(適應)の仕方が決まつて來るのだと。
恆存のその論法を借りて言ふならば、「近代化」と言ふハードウェア(西歐との關係)に對
して、そのソフトウェア(言葉・概念の自己所有化)である「民主主義(政治的)」「資本主 義(經濟的)」「個人主義(精神・道徳?的)」なるものを、どう我々が「So called(E:「言 葉との距離測定」)」出來るかと言ふ事。それによつて、西歐近代(場)への對し方が自 ずと決まつてくると言へるのである。
即ち上記「新漢語」を絶對視しその言葉に囚はれ、自己との距離測定が出來ず、その
爲に西歐近代と言ふ場に沈湎(適應異常)してしまふか、或いは言葉との適切な距離を 把握して、自己の近代化(物質・精神兩面での適應正常)が圖れるかが、それ(「So called」の可否)によつて決まつてくるのである。
今囘の「ライブドア事件」の「ホリエモン」には、それを示唆するものがある樣に小生に
は見えた。上記論法を駆使するならば、「ホリエモン」はソフトウェアである「資本主義」を 「神に型どれる人間の概念の探求」として「So called」出來なかつた。形としては一應ネ ット上に物質的近代化(「ハードウェア」)が圖れはしたかに見えたが、自己の精神的近 代化については圖る事が出來なかつたと言へる。故に、「資本の論理・市場の論理」の 裏に「資本の倫理・市場の倫理」があるのを見抜けず、その結果「拜金主義」に陥らざる を得なかつたのである。そして「個人主義」についても、やはり同樣の「So called」が出 來なかつた。その爲に「利己主義」へと埋没してしまつたのである。現今を賑はす「耐震 強度偽装事件」「東横イン不正改造問題」も又然り、同じ穴の狢と小生には見えるのであ る。
戰後も六十年を過ぎなんなんとして、今迄騙し騙し使つて来た「和魂洋才」も遂に耐用
年數が切れて、その自己欺瞞のままではもう繕ひきれぬ綻びが、今社會にどんどん出 始めてきたのではなからうか。
それにも係はらず、未だ「藤原正彦」なる數學者は是を繕ふに「武士道」を持ちいださ
んとしてゐる。再度「和魂洋才」で繕はんと。だがそれが無理と思しき參考となる例が遠く ない過去にはある。
嘗て十數年前かに、商取引上のスキャンダルを起こした「住友グループ」はその社是
社訓に「無刀流:山岡鉄舟」の武士道を掲げていたのである。幕末、住友の初代達は剣 豪「山岡鉄舟」に私淑し「無刀流」(武士道の精髄)の薫陶を得てゐたのである。彼等の 目の黒い内にはそれは時代に曲がりなりに適應出來てゐた。が、資本主義の高度に発 達した現代に到りて、それほどの企業の末裔でも「和魂洋才」では括り切れず、洋才「資 本主義」への對應に綻びを露出した。それは何故か、大いに考へてみる必要がありはし ないか。「武士道」は素晴らしいが、果たしてそれで繕ふに事足りうるのか。
恆存は言ふ。「西洋文明(A)を受け入れることは、同時に西洋文化(B)を受け入れる
ことを意味します。和魂をもつて洋才を取入れるなどといふ、そんな巾着切の樣な器用 なまねが出來ようはずはない。和魂をもつて洋魂を捉へようとして、初めて日本の近代 化は軌道に乗りうるといへるのです」と。(『傳統にたいする心構』全5P192)
では、「和魂をもつて洋魂を捉へる」とはどう言ふことなのか。「神佛儒」、「日本の美
感」をもつて「クリスト教」を捉へる、と言ふ事か。もしさうならば具體的にはどう言ふ事を 指すのか。恆存の言行録から察するに、その事は以下の内容に繋がつていくのではな からうか。
日本は西歐の「科学製品は輸入できても科学精神は移植できなかつた」(『近代日本
文学の系譜』)と恆存は言ふ。「科学製品・科学精神=近代」を創出するには、それを生 み出すその歴史があるのを。そしてそれを日本は見逃した。洋才の奥に洋魂(キリスト 教)があるのを。以下枠内の恆存の言ふ事柄が明治人否現代人にも理解する事が出來 なかったのである。つまりそれは何を意味するかと言へば、「精神の政治學」分割線の 「最下降」は模倣で出來るものではなかつた、と恆存は言ふのである。(參照「福田恆 存:テキスト八圖九圖」)以下を理解する事が「和魂をもつて洋魂を捉へる」事に繋がらな いか。
と言ふ事であるから、我々日本人は、「精神の政治學」ラインを、下降位置としては「完
成せる統一體としての人格」構圖(注:「テキスト八圖」と同ライン)に迄下げて行け、と言 ふ事。その前にまずは處世術によつて、「個人主義及び西欧十九世紀構圖(テキスト八 圖)」的にしろと、それが「精神の近代化」なのだと。
恆存は評論『日本の知識階級』で、「精神の近代化」とは「個人主義」を理解する事な
のだと論じてゐるのである。しかも更に其處に留まらず「個人主義=西歐近代自我」で はなく、それへの適應正常の理想として「完成せる統一體としての人格」論に迄、日本人 は行けと言つてゐるのである。個人主義思想と「神佛儒」「日本の美感」との「接點」の實 現、即ち「日本的個人主義」の實現が其處にあると言つてゐるのであらう。「和魂をもつ て洋魂を捉へる」とは、その事を言つてゐるのではなからうか。(小林秀雄の『考へるヒ ント』もその事「個人主義思想と儒教との接點」を書いてゐるのだと)
そして、そのラインを下降させるには、更に關聯的事柄として、
「場を構成しながら、或は場によつて自己を変貌させながら、しかも一貫した人格を保
ち続ける爲には、場と自己とを冷静に眺め得る目を持たなければならない。或は現實の 場と自己とを超えた何處かに自己を隠し預ける場所を持たなければならない」(『醒めて 踊れ』全7P399)と。将にこの文は「完成せる統一體としての人格」論を補足して餘りあ る。
をはり
某會員質疑文:(上記文に對して)
� 崟鎖世寮�治學」と言ふ表現について、私は、「これを最下降させる」といふ樣には考
へてゐなくて、場に應じて、上げたり下げたり、してバランスを保つ(精神の健康のため、 個人的自己の静謐を守るため)處世術ととらへてゐるのですが、まちがひでせうか。
��武士道ではもはややつてはいけない理由をもつとわかりやすく説明を。
小生應答文:
〔精神の政治學、何故「最下降」なのか〕:恆存文を索引にして。
*「言葉と話し手との間に距離を保ち、その距離を絶え間なく變化させねばならぬのと同
様に、相手と共に造り上げた場と自分との間にも距離を保たねばならず、その距離を絶
えず變化させ得る能力がなければいけない。さういふ能力こそ、精神の政治學としての 近代化といふものなのである」(p398)
・・・� 屬気Δい嫻塾呂海宗∪鎖世寮�治學」とは言つてなく「近代化」と言つているのが重
要。「精神の政治學」ではなく「精神の政治學としての近代化」と言ふ事。「近代化」とは 最下降を意味し、九圖(「最上昇圖」の日本人にはそれがなく、八圖の構圖でなくてはそ れが出來ないと。
・・・�◆峙�離を絶えず變化させ得る能力」を持つ爲には、「精神の近代化」即ち個人主義
の構圖(テキスト八頁「最下降」圖)を持つべき、と恆存は言つてゐるのでは。九圖の構 圖(「最上昇」:日本の精神主義)ではそれはできないと。「精神の政治學としての近代 化」の近代化の言葉が曲者。精神の政治學を「近代化」=最下降させる、といふことなの では・・・。(參照:「エラスムスは、ほとんど近代精神の政治學を完成せしめた」(『近代の 宿命』から)(參照:恆存は評論『日本の知識階級』で、「精神の近代化」とは「個人主義」 を理解する事なのだと論じてゐる)
*「日本は物質面における近代化は行はれたが、物質面に対しての、精神の面での『精
神の政治學』としての近代化は行はれてゐない」。
更に録音を再現すると、「(日本は近代化を)物質面においてだけやつた。その物質面
で行われた近代化に対する、適応能力としての、『精神の政治學』としての近代化。これ はまだ行われてゐない」「(講演カセット「日本の近代化とその自立」より)(注:同講演で 「まず精神面での西洋化云々」的表現をしてゐる)
・・・とは、上記で言ふ「精神の政治學」の分割線が下まで下がつてないと言ふ事では
(甲・乙図参照)。物質面における近代化は行はれたとは「乙構図:日本的精神主義構 図(非近代)」のままでの物質面(A上のみ)での近代化であつたと言ふ事。⇒「甲図」か ら創出された近代西欧製品を、「乙図」状態のままで先進国化と言ふ模倣(輸入)をした 事によつて生じた適応異常。「科学製品は輸入できても科学精神は移植できなかつた」 (『近代日本文学の系譜』)とはその事を指す。西欧近代の各種概念や観念(言葉)の 「自己所有化」ができなかつたのである。
その歪んだ日本の近代化(適応異常)を修正する手段として、「精神の政治学」分割線
の最下降を示唆するのである。そしてその手段として「処世術(A)的概念)」で解決でき るものは「処世術」で、と恆存は説くのである。「カエサルのものはカエサルで」と同じ謂 ひである。
日本は物質面のみの模倣(客体化)で済まして、精神(個人的自我:B)から、そこに潜
在する「カエサル(A)」的部分を搾り出して、集団的自我(A)に押し出して行くと言ふ西欧
的能動がなかつた。故に「精神の政治学」ラインが下降しなかつた、と言ふ事に繋がる のでは。
*「それに対処し得る精神の近代化」とは、我々日本人は人格を統一するところの質的
別次元の「全体」を所持して、「完成せる統一体としての人格」のフィクション(仮説)を構 築すること。と恆存は言つてゐるのだと思ふのである。(別図参照)
〔武士道では、もはややつて行けない云々〕について
恆存は日本人について、現代人も含めて要約すれば「テキスト九圖」だと各評論で言つ
てゐるのであり、其處に「武士道」を持ち込めば、やはり「和魂洋才」の上塗り(上書き) となり、それは「テキスト九圖」の「B」項に武士道を持ち込んだだけの構圖になつてしま ふ。
恆存の言はんとしてゐる事は、八圖「個人主義構圖」の上に、西歐個人主義の陥穽に
落ち込まず、其の上に更に「完成せる統一體としての人格」構圖(テキスト十圖)を描き、 統率するものとして「全體」「絶對」の必要を説くのである。その全體(C)的概念として 「天(儒教)」「空(仏教)」「八百萬の神(神道)」といつてゐるのでは。
であるから、武士道(儒教:天⇒至誠)を持ち出すなら、九圖ではなく「完成せる統一體
としての人格」構圖構築の上に「全體C」概念としてその内の一つとして招來されるので はなからうか。 小生應答文:(上記文の補足)
平成十八年三月五日
《會員各位》
『福田恆存を讀む會』 吉野櫻雲
先日『讀む會』はお疲れ様でした。
席上、某會員からの一部質問に對しまして、明解に答へられない内容がありました。
重要な問題なので、此處にて再度その點を含めて探求してみたいと思ひます。出來るだ け恆存の原文を元に説明したく思ひますので、もし異論、反論がありましたら原文を索引 されてご返事賜れば幸ひです。
〔「精神の政治學」が意味する二つの内容〕
�」饌犬�『近代の宿命』で論及する内容・・・「『讀む會』テキストP4⇒P8」の圖で顯はす
が如く、西歐歴史の一貫性を築く「精神の政治學」の役割。そして西歐近代とは「精神の 政治學」分割線の「最下降」なのだと言ふ事。
��恆存が『醒めて踊れ』で論及する内容・・・「『讀む會』テキストP12下圖」で顯はすが如
く、「言葉(F)と話し手との間に距離(E)を保ち、その距離を絶え間なく変化させねばなら ぬのと同様に、相手と共に造り上げた場と自分との間(D1)にも距離を保たねばならず、 その距離を絶えず変化させ得る能力がなければいけない。さういふ能力こそ、精神の政 治學としての近代化といふものなのである」(全7P398『醒めて踊れ』)と言ふ事。
恆存は『醒めて踊れ』で、「精神の政治學」について「近代化に對處する」ものと書いて
います。(全7P398上段)
と言ふ事は、非近代の日本(テキストP9)が西歐近代(テキストP8)に對處(適應)する
にはどうしたらいいか。或は「テキストP12上段」の「新漢語等の言葉(観念)に呑み込ま れてゐる」非近代日本が、下段の個人主義確立によつて可能な「言葉(観念)の自己所 有化」の構圖を得るにはどうしたらいいか、その兩方を恆存の言ふ「精神の政治學」は 物語つてゐると考へられます。
要するに、上記�△魎晃世靴橡塵魄�が表現された、「場に應じて上げり下げたりしてバ
ランスを保つ處世術」云々も、又小生が主張した�,瞭睛討癲�恆存はそのどちらをも「精 神の政治學」と捉へてゐるのだと存ずる次第であります。解り易く言へば、�,痢∪象振� 代が意味する「精神の政治學」分割線の「最下降」は木の幹であり、�△蓮↓,痢峩畭� 化」の上に咲く花(近代の華)と言へるかと存じます。一本の木と言ふ概念で、�´△髻崟� 神の政治學」の概念に内包するものと恆存は捉へてゐるのではなからうかと思ふのであ ります。又かうも言へるでせうか、「テキストP8」の近代人(個人主義者)でなくては�△� 行爲は演技し得ず、故にそれは本質と現象とも言ひ變へる事が可能かと。
そして更に言へる事は、「テキストP9:日本的構圖」の人間が、その「ライン最上昇」の
呪縛からいとも簡單に脱して、しかも西歐の歴史の重みを經て構築された、「個人主義: P8」によつてやうやく演じられる�△礼罪弔髻△い�なり「精神の政治學」ラインを最下降し て演ずるなどとは、果たして可能なのかと言ふ事であります。観念遊技ではそれを言へ るが現實には出來ない。似た内容の事を恆存は「小説では可能だが芝居では無理」と言 ふやうに表現をしてゐます。(『醒めて踊れ』P392〜3) 某會員質疑文:(上記に對して)
*近代になつて「精神の政治學」なる處世術が必要とされた、そのわけを知りたい。(中
略)二元論によるとらへ方ができるとふことと、「精神の政治學」を心得るとふことは、と ても近いことをいつてゐる樣に思ふのですが・・・。 小生應答文:(上記に對して)
以下、「精神の近代化」「精神の政治學」等への質疑應答及び論及の續き。
*某會員:質疑壱
近代になつて「精神の政治學」なる處世術が必要とされた、そのわけを知りたい。
*吉野:應答壱(全1『小説の運命�機截丕毅坑掘腺港簡犬諌埔箸猟�)(括弧内は吉野注)
上記は「西歐近代」についてのご質問としてお答へ致します。恆存はかう書いておりま
す。その前に「處世術」なる用語は日本人に對する「精神の近代化」の爲にのみ、恆存 は「精神の政治學」を分かり易く説明するのに用ゐてゐるやうに小生は思へるのです が・・・。
それはさておき、恆存は「精神の政治學」の發揮(AB分割線の下降化)をかう述べて
ゐる。「精神の政治學が必要とされたわけ」を「イエスの放言の尻拭ひ」「神への叛逆」と して、と言つてしまふ事も可能なのでせうが、さうした「神への叛逆も、じつは千年にわた るながいあいだの神への凝視と沒入とから習得し免許をあたへられた理想人間像にもと づいておこなはれたもの」、即ちクリスト教の「連續性、一貫性」によるものだと、恆存は 述べてゐるのであります。(全1P597〜9『小説の運命�機戞砲修了�をもう少し詳しく恆存 の各評論から纏めると、以下の樣になります。
尚、「神に型どれる人間の概念の探求」の一例として、以下の恆存の參考文を上げて
おきます。
「あらゆる不合理なるもの、叛逆的なるもの、醜怪なるもの、情慾的なるもの」を「肯定
的=積極的な生命慾」として發見すると同時に、それを實證精神で「神に型どれる人間 の概念の探求」として「理想人間像」の内に統一していく近代西歐人の精神について恆 存はかう書いてゐる。
「�々猟蠹�=積極的な生命慾」とは別の「ルネサンス人の第二の性向。(中略)それは合
理を貴重とする人間の理性のたくましい力(實證精神)である。あらゆる不合理なるも の、叛逆的なるもの、醜怪なるもの、情慾的なるもの、これら一切を過去の(クリスト教 が規定した)人間概念のそと(即ち原罪ではない「肯定的=積極的な生命慾」として)に 發見しながら、その發見と同時にかれらはそれ(� 砲鯏�一した人間概念の確立にむか ひはじめるのである。そのさいにかれらの基準となつたものは、教門政治や中世的社會 秩序といふ外部条件をすつかり脱落せしめた文化遺産としてのクリスト教精神であり、 理想人間像にほかならなかつた」(全1P598『小説の運命�機戞砲函�ここでも「民主主義」 や「資本主義」についてと同じく、近代西歐精神の特徴「神に型どれる人間の概念の探 求」のパターンが展開されたのだと。
換言すれば、ルネサンス人の持つ第二の性向「理性のたくましい力(實證精神)」が、そ
の後の近代西歐精神を「神に型どれる人間の概念の探求」と言ふ形で統一していつた のである。と恆存は言ふのである。(P599『小説の運命�機戞�
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某會員:質疑弐
「二元論」によるとらへ方ができるといふことと、「精神の政治學を心得る」といふ事は
とても近いことをいつてゐる樣におもふのですが。
吉野: 應答弐
小生もさう思ひます。「精神の政治學」分割線の「最下降」即ち「テキスト8圖」は、「集
團的自我(A)と個人的自我(B)の二元論」的捉へ方をし、Aの事はAで解決せよ、「カエ サルの事はカエサルに聞け」、と言ふ事を言つてゐるのだと思ひます。それを日本人は 「精神の近代化(個人主義の確立)」が出來なかつた爲に、恆存によつて以下の樣に指 彈される事となつてしまつたのである。
「肉體(A)の自律性は當然その反面に精神(B)の自律性を前提とする。肉體、あるい
は物質で解決すべき事を、精神の重荷とするなかれ――精神には精神のみの解決しう る問題をあてがひ、その領域と大權とを縮小せしめるにしくはない。そのときはじめて精 神は自律し、その権威は輝くであらう。
が、ぼくたちは今日までなんと精神を神聖化し、さうすることによつて精神の負荷を重
からしめ、結果として精神を侮辱してきたことか。肉體の自律性が確立してゐなかつた からである。明治以降の日本人はあらゆる物質的なこと、肉體的なことに、すべて精神 のべールをかぶせ、それをことごとく精神の發動として自己満足してきた。かれらは肉慾 を肉慾として是認することをおそれ、それに精神的な衣をかぶせた。物慾を物慾として 是認することをおそれ、それに藝術愛や愛國心や愛他心や、その他の主種雑多な大義 名分をかぶせた。・・・」(P479全二『肉體の自律性』:續く文も重要であるが、長いので省 略)
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