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〔精神の政治學、何故「最下降」なのか〕:恆存文を索引にして。
(參照:『福田恆存を読む会』(仮)テキストP4⇒P8」)
*「言葉と話し手との間に距離を保ち、その距離を絶え間なく變化させねばならぬのと同
様に、相手と共に造り上げた場と自分との間にも距離を保たねばならず、その距離を絶
えず變化させ得る能力がなければいけない。さういふ能力こそ、精神の政治學としての 近代化といふものなのである」(p398)
・・・� 屬気Δい嫻塾呂海宗∪鎖世寮�治學」とは言つてなく「近代化」と言つているのが重
要。「精神の政治學」ではなく「精神の政治學としての近代化」と言ふ事。「近代化」とは 最下降を意味し、九圖(「最上昇圖」の日本人にはそれがなく、八圖の構圖でなくてはそ れが出來ないと。
・・・�◆峙�離を絶えず變化させ得る能力」を持つ爲には、「精神の近代化」即ち個人主義
の構圖(テキスト八頁「最下降」圖)を持つべき、と恆存は言つてゐるのでは。九圖の構 圖(「最上昇」:日本の精神主義)ではそれはできないと。「精神の政治學としての近代 化」の近代化の言葉が曲者。精神の政治學を「近代化」=最下降させる、といふことなの では・・・。(參照:「エラスムスは、ほとんど近代精神の政治學を完成せしめた」(『近代の 宿命』から)(參照:恆存は評論『日本の知識階級』で、「精神の近代化」とは「個人主義」 を理解する事なのだと論じてゐる)
*「日本は物質面における近代化は行はれたが、物質面に対しての、精神の面での『精
神の政治學』としての近代化は行はれてゐない」。
更に録音を再現すると、「(日本は近代化を)物質面においてだけやつた。その物質面で
行われた近代化に対する、適応能力としての、『精神の政治學』としての近代化。これは まだ行われてゐない」「(講演カセット「日本の近代化とその自立」より)(注:同講演で「ま ず精神面での西洋化云々」的表現をしてゐる)
・・・とは、上記で言ふ「精神の政治學」の分割線が下まで下がつてないと言ふ事では
(甲・乙図参照)。物質面における近代化は行はれたとは「乙構図:日本的精神主義構 図(非近代)」のままでの物質面(A上のみ)での近代化であつたと言ふ事。⇒「甲図」か ら創出された近代西欧製品を、「乙図」状態のままで先進国化と言ふ模倣(輸入)をした 事によつて生じた適応異常。「科学製品は輸入できても科学精神は移植できなかつた」 (『近代日本文学の系譜』)とはその事を指す。西欧近代の各種概念や観念(言葉)の 「自己所有化」ができなかつたのである。
その歪んだ日本の近代化(適応異常)を修正する手段として、「精神の政治学」分割線
の最下降を示唆するのである。そしてその手段として「処世術(A)的概念)」で解決でき るものは「処世術」で、と恆存は説くのである。「カエサルのものはカエサルで」と同じ謂 ひである。
日本は物質面のみの模倣(客体化)で済まして、精神(個人的自我:B)から、そこに潜
在する「カエサル(A)」的部分を搾り出して、集団的自我(A)に押し出して行くと言ふ西欧
的能動がなかつた。故に「精神の政治学」ラインが下降しなかつた、と言ふ事に繋がる のでは。
*「それに対処し得る精神の近代化」とは、我々日本人は人格を統一するところの質的
別次元の「全体」を所持して、「完成せる統一体としての人格」のフィクション(仮説)を構 築すること。と恆存は言つてゐるのだと思ふのである。(別図参照)
〔武士道では、もはややつて行けない云々〕について
恆存は日本人について、現代人も含めて要約すれば「テキスト九圖」だと各評論で言つ
てゐるのであり、其處に「武士道」を持ち込めば、やはり「和魂洋才」の上塗り(上書き) となり、それは「テキスト九圖」の「B」項に武士道を持ち込んだだけの構圖になつてしま ふ。
恆存の言はんとしてゐる事は、八圖「個人主義構圖」の上に、西歐個人主義の陥穽に落
ち込まず、其の上に更に「完成せる統一體としての人格」構圖(テキスト十圖)を描き、統 率するものとして「全體」「絶對」の必要を説くのである。その全體(C)的概念として「天 (儒教)」「空(仏教)」「八百萬の神(神道)」といつてゐるのでは。
であるから、武士道(儒教:天⇒至誠)を持ち出すなら、九圖ではなく「完成せる統一體と
しての人格」構圖構築の上に「全體C」概念としてその内の一つとして招來されるのでは なからうか。
以上時間がないため言葉足らずではありますが・・・
平成十八年三月五日
吉野櫻雲
《恆存の言ふ「精神の政治學」が意味する二つの内容》
(參照:『福田恆存を読む会』(仮)テキスト)
先日『讀む會』はお疲れ様でした。
席上、某會員からの一部質問に對しまして、明解に答へられない内容がありました。
重要な問題なので、此處にて再度その點を含めて探求してみたいと思ひます。出來るだ け恆存の原文を元に説明したく思ひます。
�」饌犬�『近代の宿命』で論及する内容・・・「『讀む會』テキストP4⇒P8」の圖で顯はす
が如く、西歐歴史の一貫性を築く「精神の政治學」の役割。そして西歐近代とは「精神の 政治學」分割線の「最下降」なのだと言ふ事。
��恆存が『醒めて踊れ』で論及する内容・・・「『讀む會』テキストP12下圖」で顯はすが如
く、「言葉(F)と話し手との間に距離(E)を保ち、その距離を絶え間なく変化させねばなら ぬのと同様に、相手と共に造り上げた場と自分との間(D1)にも距離を保たねばならず、 その距離を絶えず変化させ得る能力がなければいけない。さういふ能力こそ、精神の政 治學としての近代化といふものなのである」(全7P398『醒めて踊れ』)と言ふ事。
恆存は『醒めて踊れ』で、「精神の政治學」について「近代化に對處する」ものと書いて
います。(全7P398上段)
と言ふ事は、非近代の日本(『讀む會』テキストP9)が西歐近代(テキストP8)に對處
(適應)するにはどうしたらいいか。或は「テキストP12上段」の「新漢語等の言葉(観念) に呑み込まれてゐる」非近代日本が、下段の個人主義確立によつて可能な「言葉(観 念)の自己所有化」の構圖を得るにはどうしたらいいか、その兩方を恆存の言ふ「精神 の政治學」は物語つてゐると考へられます。
要するに、上記�△魎晃世靴�某會員が表現された、「場に應じて上げり下げたりしてバ
ランスを保つ處世術」云々も、又小生が主張した�,瞭睛討癲�恆存はそのどちらをも「精 神の政治學」と捉へてゐるのだと存ずる次第であります。解り易く言へば、�,痢∪象振� 代が意味する「精神の政治學」分割線の「最下降」は木の幹であり、�△蓮↓,痢峩畭� 化」の上に咲く花(近代の華)と言へるかと存じます。一本の木と言ふ概念で、�´△髻崟� 神の政治學」の概念に内包するものと恆存は捉へてゐるのではなからうかと思ふのであ ります。又かうも言へるでせうか、「テキストP8」の近代人(個人主義者)でなくては�△� 行爲は演技し得ず、故にそれは本質と現象とも言ひ變へる事が可能かと。
そして更に言へる事は、「テキストP9:日本的構圖」の人間が、その「ライン最上昇」の
呪縛からいとも簡單に脱して、しかも西歐の歴史の重みを經て構築された、「個人主義: P8」によつてやうやく演じられる�△礼罪弔髻△い�なり「精神の政治學」ラインを最下降し て演ずるなどとは、果たして可能なのかと言ふ事であります。観念遊技ではそれを言へ るが現實には出來ない。似た内容の事を恆存は「小説では可能だが芝居では無理」と言 ふやうに表現をしてゐます。(『醒めて踊れ』P392〜3)
*〔「某會員」質問二:「集團的自己と個人的自己の明確な分離線さへ、その存在自體が
日本人には有るのか疑はしい樣に、思はれるのです。ならば、それを最下降させるの も、全く不可能です」について〕
恆存は「明確な分離線」の缺如を「自他未分の神道的生活態度」と表現しています。
が、「集團的自己と個人的自己」そのものを日本人には不在、とは書いてゐないやうに 小生は思うのでありますが。恆存は以下の樣に言つてをります。
《人間が持つ二つの領域》
「人間のうちには孤独と諦念と瞑想と自意識とにふける純粋に個人的な面と、他人を
支配し、その存在を左右し、あるいは英雄をみとめてこれに讃仰をささげ臣従せんとす る集団的側面と、この二つがある」と。(全2P37『ロレンス�機戞�
*個人的自我・・・「個人の純粋性」(「近代の宿命」)。「他と絶縁し自己のうちに
閉じこもることによつて己れを完成せしめんとする個人的自我」(全1「職業としての作 家」(P546)。「孤独と諦念と瞑想と自意識とにふける純粋に個人的な面」〔単:D・Hロレ ンス「現代人は愛しうるか(アポカリプス論)」まへがきP10〕。
*集団的自我・・・「支配・被支配の自己」(「近代の宿命」)「すすんで他とかかはりあひ、
他を支配したり支配されたりすることをとほして自己を生かさうとする集團的自我」(全1 「職業としての作家」(P546)「他人を支配し、その存在を左右し、あるいは英雄をみと めてこれに讃仰をささげ臣従せんとする集團的側面」〔単:D・Hロレンス「現代人は愛し うるか(アポカリプス論)」まへがきP10〕。
その人間觀(二元論)から發して、恆存は、「(講演カセット「日本の近代化とその自立」
や『醒めて踊れ』『新漢語の問題』等の評論で、「處世術=精神の政治學の別名か?」に よる脱出口を日本人に示してゐるのだと存じます。歪んだ日本の近代化(適應異常:テ キスト9圖)を修正する手段として、「精神の政治學」分割線の最下降を示唆するのであ ります。日本人のB(個人的自我)中に混在するA(集團的自我)的なものをAに移行し、 Aで解決できるものはAで、と恆存は説くのであります。「カエサルのものはカエサルで」 と。恆存は、日本の悲観的現實な中に希望的理想論を稱へてゐるのであります。以下 評論『肉體の自律性』の文面も同じ事(「テキストP9圖」)を言つてゐるのであります。
「肉體の自律性は當然その反面に精神の自律性を前提とする。肉體、あるいは物質で
解決すべき事を、精神の重荷とするなかれ――精神には精神のみの解決しうる問題を あてがひ、その領域と大權とを縮小せしめるにしくはない。そのときはじめて精神は自律 し、その権威は輝くであらう。が、ぼくたちは今日までなんと精神を神聖化し、さうするこ とによつて精神の負荷を重からしめ、結果として精神を侮辱してきたことか。肉體の自律 性が確立してゐなかつたからである。明治以降の日本人はあらゆる物質的なこと、肉體 的なことに、すべて精神のべールをかぶせ、それをことごとく精神の發動として自己満足 してきた。かれらは肉慾を肉慾として是認することをおそれ、それに精神的な衣をかぶ せた。物慾を物慾として是認することをおそれ、それに藝術愛や愛國心や愛他心や、そ の他の主種雑多な大義名分をかぶせた。・・・」と。(P479全二『肉體の自律性』)
以上から思ふに、恆存は「最下降を全く不可能」とは捉へてゐないと存ずるのでありま
す。まだ小生の説明は言葉足らずな處がありますがまずはこの辺で。
をはり
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