エステ & ダイエット 「マルクス主義は、個人主義の行き詰まりを克服したか?」
〔当HP:目次〕

《此處が解りにくい福田恆存》續

「マルクス主義は、個人主義の行き詰まりを克服したか?」
《此處が解りにくい福田恆存》(會員S氏からの提議)



S 氏曰く:
 西尾幹二氏が『福田恆存歿後十年記念講演』で語り、後に『行動家・福田恆存の精神
を今に生かす』と題して、雑誌『諸君』(平成十七年二月号)に發表した論文の中に、次
のやうなマルクス主義についての論述がある。

(ィ)、「いかなるリベラリストよりも早く、福田氏はマルクスの脅威と魅力は同質であると
見拔いていた。いうまでもなくマルクス主義は、個人主義の行き詰まりを克服するという
はっきりした方向性をもっていたから」
(ロ)、自由や平和はゼロの状態であって、生の目的にはなり得ない。全ての近代思想
はそこで躓いている。しかし、マルクス主義はこのパラドキシカルな自由の問題を解決し
ているのです」

(ィ)(ロ)の以下の点について考察戴きたい。
(ィ)「福田氏はマルクスの脅威と魅力は同質であると見拔いていた」「マルクス主義は、
個人主義の行き詰まりを克服するというはっきりした方向性をもっていたから」
(ロ)「マルクス主義はこのパラドキシカルな自由の問題を解決しているのです」

【以下、小生(吉野)の考察】:以下(テキスト:P00)は「『福田恆存を讀む會』テキスト」を
ご參照下さい。(在中 :「此處が解りにくい福田恆存」

(ィ)について。
 「マルクスの脅威と魅力は同質・・・」とは・・・
「なにものかによつて自由を奪はれてゐること、それが人間の生き方」。その「自由がな
いと言ふ現状」、それを共産革命(マルキシズム)は最終目的と?んでゐるから。
對物質の問題としての自由。「物質的欲望の完全な満足」としての自由。「端的にいへば
自由とは快楽の自由」だとする人間の本性。要するに「精神の自由と言ふ課題は物質的
なそれによつて左右されうるといふ唯物辧證法」から、言論も學問も藝術もさうした「自
由がないと言ふ現状」を、共産革命(マルキシズム)はそれを最終目的と?んでゐるので
あると恆存はいつてゐるのでは。(全三:P564『人間・この劇的』)
恆存は『近代の宿命』(全二:P457)ではかう言つてゐるが・・・。
「マルキシズムは個人主義をいかに科學的に分析し、歴史的に位置づけたにしても、そ
れ自身の歴史性(テキスト:P8)と相對性とをいまだに見ぬきえないでゐるかにみえる。
それは個人主義そのものを克服して出てきたものではけつしてない。ただ十八世紀的個
人主義(同P7文參照:「個人と社會との対立は社會の側から解決される」を注目)がそ
れによつて否定されてゐるのにすぎず、その意味では個人主義もまた、十八世紀的な社
會改革の意圖を超えて出てきたものにほかならない」と。
即ち十九世紀「個人主義=近代自我」を克服してはゐないのだと。では、十九世紀「個
人主義」近代自我)とは、その「限界」とはどう言ふものか。・・・
それに関聨して、
「精神の政治學とは個人の純粋性と『支配=被支配の自己』とのあひだに、それぞれの
個性に応じた均衡を企てるものであるゆえに、もし社会(A)が自然のごとき合理性をも
つてゐるならば、もはや政治学の用はなく科学がそれに代るべきである」(全2:P451
『近代の宿命』)・・・・
とは「社会(A)が合理性をもつてゐる」なら、科学で九十九匹(A)の問題はけりがつき、
「均衡」は不要となりBの領域は消える。マルクスの「科学的社会主義」でけりがつく。と
言ふことだらう。十八世紀の楽天的「合理主義・科学主義」はそれを素朴に信じられてゐ
た時代。「いはば、個人と社会との対立は社会の側から解決されると」。それなら、「科學
的社会主義」の方が、と言ふ事であらう。しかし十九世紀になつて、そんな事は幻想でし
かないと気が付いたと言ふ事。「社会(A)が合理性をもつてゐる」譯ではない事に。けり
が付かない個人の純粋性(個人的自我)が存在してゐる事に。そして十九世紀個人主義
は、更に以下の樣なジレンマに陥つてゐる事にも気が付いたのである。
近代=「神(C)の死」即ち「神意(宿命:D1)喪失」⇒神の代はりに自己の手による宿命
(D1)演出⇒自己主張(表現)・自由意思(人間如何に生くべき)D2⇒自己完成(C”:自
己主人公化・自己全体化・自惚鏡)⇒自己陶酔・自己満足・自己絶対視・自己証明によ
る「似非(D3)実在感」⇒自己喪失(自己への距離感喪失・適応異常)。
即ち「個人主義は個人の純粋性を(自己完成に繋がるものとして)擁護せん」としたが、
結局は上記の「特殊性」なるものに堕してしまつた。(『近代の宿命』)
十九世紀「個人主義=近代自我」はその限界を露呈し、尚かつ「Bの領域=一匹」の存
在は「神に從屬する純粹自我」として、どうしても否定する事が出來ない(ニーチェ・ドスト
エフスキー・ロレンス・フローベール等が主張)。此處に巌として存在し「確かに、人間の
うちには――ヨーロッパ人の心の内部には、神に従属させておかなければじつさいどう
にもならぬ領域(B)が存在する」(同P458)事に西欧は逢着したのである。さうした西欧
十九世紀が、個人主義の限界から到達した結論(「神に從屬する自己」の存在)をマル
キシズムは克服してはゐないのだと、上記の問題を恆存は言つてるのである。「行き詰
まりの克服」は十八世紀の個人主義についてのだと。・・・この邊の頁に大いにこの問題
の謎を解く鍵が。

(ロ)について。
「マルクス主義は、このパラドキシカルな自由の問題を解決」とは・・・
精神の自由の頂點においては(中略)他人を否定し、不要物と化する。物質的自由にお
いても、それは同様である。その極限においては、それは他人の否定を意味せざるを得
ない。他人は自分にとつて必要な物質を生産し提供する媒體に過ぎず、つねに物質に
置きかへられる金銭同様の抽象的存在に化してしまふのだ。資本主義においても社會
主義においてもその點に變はりはない」(『人間・この劇的』)。それならば、資本主義の
矛楯からマルクス主義への移行を必然と考へる、「科學的社會主義」が最良の方法論
だ。と言ふ事になるのでは。

參照:拙論:福田恆存の「個人主義」観
http://www.geocities.jp/sakuhinron/page037.html




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