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『西歐精神について』『適應異常について』
平成十七年四月二十四日
《ライブドア事件に關聯して「平成十七第一彈」:参考意見》
吉野の觀點:
「ホリエモン」は上手く法の網の目を潜つた。(ヤフーブログ等にて三月上旬より書き込
み)
しかし、「ホリエモン」の面相に殺伐たる精神性を見せられるにつけ、シェークスピアの
格調高き臺詞(せりふ)に想到せざるを得なくなる・・・。
「この堕落しきつた末世では罪に汚れた手も、黄金の鍍金(メッキ)をほどこせば、正義
を卻ける事もできよう。邪な手段で獲ち得た寶(たから)でも、ままあること、それで國寶 を買ひとつてしまへば、事はすむ。が、天ではさうはいかぬ。ごまかしは效かぬのだ。い かなる行ひも、あるがままに裁かれ、否も應もない」(福田恆存譯『ハムレット』第三幕第 三場:王位簒奪者「ボローニアス」の臺詞)
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「ライブドア」堀江氏の精神性の低さが透けて見える。
堀江氏曰く。「投資家にとって邪道かどうかは関係ない。ずるいと言われても合法だった
ら許される。倫理観は時代で変わるから、ルール以外に(よりどころは)ない」(「産経新 聞」三月二日附け記事より)
・・・さうであらうか。
時代によつて変わらないのが「倫理」なのである。
「變化」と言ふ相対的なるものではなく、倫理は「神・佛・天」等の絶対価値がそれを背後
から支へ、権威づけているのである。故にそれは「不動」なのである。
此處に、堀江氏の精神性の低さが透けて見える。ただお金儲けへの「おつむの良さ」だ
けが。
そして福田恆存の言ふ、「日本人の西欧近代に對する適應異常」。その現象なるものの
一例が此處に露出してゐるのが分かる。
即ち、資本主義を「利潤追求(金儲け)の最高方法論」としか捉へぬ、日本人の西歐近
代に對する「適應異常」と、對するに、西欧近代が持つ「資本主義を発展せしめた社会 的主体は宗教改革の神」と言ふ、正統なる把握の違ひが。
別な言ひ方をすれば、「プロテンスタンティズムの倫理と資本主義の精神」。
資本主義を先導したものは、宗教改革「プロテンスタンティズムの倫理」なのだと言ふ視
點。
それが堀江氏のみならず、彼に似た人士には缺如してゐる、と言ふ事なのである。「公
器=放送・新聞」を乘取る行爲に、自己を背後から掣肘する「神の眼=倫理・良心」が喪 失されてゐる。そんなものをとうの昔から、持つてない彼の頭に問ふのも野暮な話だが。
ご参照は、
「自分と言葉(例:資本主義)との距離が測定出来ぬ人間は近代人ではない。いや人間
ではない」
「此處が解りにくい福田恆存」十二頁:《各例題に対する適応異常と適応正常化》。
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《恆存評論『西歐精神について』『適應異常について』等を索引にして本件を檢證する》
(一部文章、重複しますがお許しの程)
平成十八年二月二十六日
《ライブドア事件に關聯して「平成十八第二彈」:参考意見》
《寸感:【恆存の評論(眼)から浮世を見れば・・・】その二 》
吉野櫻雲 發表
恆存評論中『醒めて踊れ』は小生の好きな内の一つだが、その中で氏が展開した「ハ
ードウェア(關係)」「ソフトウェア(言葉・せりふ・概念の自己所有化:E)」の處世術は、洵 に見事にしてかつ調法なる方法論だと思へる。
それと關聯してだが、恆存は「浅利慶太」との對談で自らの批評方法をかう述べてゐ
る。恆存理解に重要だと思ふので此處に紹介する。「僕の批評活動は芝居を書くつもり でやつてゐたのですからね。からかふのも風刺するのも芝居の原理に從つてやつてゐ たんです。非常に開き直つて言へば、いままでの批評が劇作家の批評なんだ」と。さう言 へば、全評論にと言つてもいい程、氏の演劇論(參照:「福田恆存:テキスト十一圖」の 「演劇における關係の眞實化」)の内容が色の濃淡に差はありこそすれ、展開されてゐ るのに氣がつく。今囘テーマ(「渡部昇一批判」)にも又前囘テーマにもそれがあるのが 分かる。當然「役者修業は人間修業」の表現はその一つであり、上記の帰結として「完 成せる統一體としての人格」論なのではあるが。
この文言は今後の更なる恆存探求には見過ごせないが、その「劇作家の批評」が評論
『醒めて踊れ』では明確に押し出されてゐる。つまり芝居の「心の動き(關係)を形のある 『物』として見せるのがせりふの力学」(『せりふと動き』)が其處に應用されてゐるのが分 かる。「ハードウェア(關係)」云々はその逆の理論を解説してゐるのである。言葉(せり ふ)の捉へ方で場との關係(適應)の仕方が決まつて來るのだと。
恆存のその論法を借りて言ふならば、「近代化」と言ふハードウェア(西歐との關係)に
對して、そのソフトウェア(言葉・概念の自己所有化)である「民主主義(政治的)」「資本 主義(經濟的)」「個人主義(精神・道徳?的)」なるものを、どう我々が「So called(E: 「言葉との距離測定」)」出來るかと言ふ事。それによつて、西歐近代(場)への對し方が 自ずと決まつてくると言へるのである。
即ち上記「新漢語」を絶對視しその言葉に囚はれ、自己との距離測定が出來ず、その爲
に西歐近代と言ふ場に沈湎(適應異常)してしまふか、或いは言葉との適切な距離を把 握して、自己の近代化(物質・精神兩面での適應正常)が圖れるかが、それ(「So called」の可否)によつて決まつてくるのである。
今囘の「ライブドア事件」の「ホリエモン」には、それを示唆するものがある樣に小生に
は見えた。上記論法を駆使するならば、「ホリエモン」はソフトウェアである「資本主義」を 「神に型どれる人間の概念の探求」として「So called」出來なかつた。形としては一應ネ ット上に物質的近代化(「ハードウェア」)が圖れはしたかに見えたが、自己の精神的近 代化については圖る事が出來なかつたと言へる。故に、「資本の論理・市場の論理」の 裏に「資本の倫理・市場の倫理」があるのを見抜けず、その結果「拜金主義」に陥らざる を得なかつたのである。そして「個人主義」についても、やはり同樣の「So called」が出 來なかつた。その爲に「利己主義」へと埋没してしまつたのである。現今を賑はす「耐震 強度偽装事件」「東横イン不正改造問題」も又然り、同じ穴の狢と小生には見えるのであ る。
戰後も六十年を過ぎなんなんとして、今迄騙し騙し使つて来た「和魂洋才」も遂に耐用
年數が切れて、その自己欺瞞のままではもう繕ひきれぬ綻びが、今社會にどんどん出 始めてきたのではなからうか。
それにも係はらず、未だ「藤原何某」なる數學者は是を繕ふに「武士道」を持ちいださん
としてゐる。再度「和魂洋才」で繕はんと。だがそれが無理と思しき參考となる例が遠くな い過去にはある。
嘗て十數年前かに、商取引上のスキャンダルを起こした「住友グループ」はその社是
社訓に「無刀流:山岡鉄舟」の武士道を掲げていたのである。幕末、住友の初代達は剣 豪「山岡鉄舟」に私淑し「無刀流」(武士道の精髄)の薫陶を得てゐたのである。彼等の 目の黒い内にはそれは時代に曲がりなりに適應出來てゐた。が、資本主義の高度に発 達した現代に到りて、それほどの企業の末裔でも「和魂洋才」では括り切れず、洋才「資 本主義」への對應に綻びを露出した。それは何故か、大いに考へてみる必要がありはし ないか。「武士道」は素晴らしいが、果たしてそれで繕ふに事足りうるのか。
恆存は言ふ。「西洋文明(A)を受け入れることは、同時に西洋文化(B)を受け入れるこ
とを意味します。和魂をもつて洋才を取入れるなどといふ、そんな巾着切の樣な器用な まねが出來ようはずはない。和魂をもつて洋魂を捉へようとして、初めて日本の近代化 は軌道に乗りうるといへるのです」と。(『傳統にたいする心構』全5P192)
では、「和魂をもつて洋魂を捉へる」とはどう言ふことなのか。「神佛儒」、「日本の美
感」をもつて「クリスト教」を捉へる、と言ふ事か。もしさうならば具體的にはどう言ふ事を 指すのか。恆存の言行録から察するに、その事は以下の内容に繋がつていくのではな からうか。
日本は西歐の「科学製品は輸入できても科学精神は移植できなかつた」(『近代日本
文学の系譜』)と恆存は言ふ。「科学製品・科学精神=近代」を創出するには、それを生 み出すその歴史があるのを。そしてそれを日本は見逃した。洋才の奥に洋魂(キリスト 教)があるのを。以下枠内の恆存の言ふ事柄が明治人否現代人にも理解する事が出來 なかったのである。つまりそれは何を意味するかと言へば、「精神の政治學」分割線の 「最下降」は模倣で出來るものではなかつた、と恆存は言ふのである。(參照「福田恆 存:テキスト八圖九圖」)以下を理解する事が「和魂をもつて洋魂を捉へる」事に繋がらな いか。
と言ふ事であるから、我々日本人は、「精神の政治學」ラインを、下降位置としては「完
成せる統一體としての人格」構圖(注:「テキスト八圖」と同ライン)に迄下げて行け、と言 ふ事。その前にまずは處世術によつて、「個人主義及び西欧十九世紀構圖(テキスト八 圖)」的にしろと、それが「精神の近代化」なのだと。
恆存は評論『日本の知識階級』で、「精神の近代化」とは「個人主義」を理解する事な
のだと論じてゐるのである。しかも更に其處に留まらず「個人主義=西歐近代自我」で はなく、それへの適應正常の理想として「完成せる統一體としての人格」論に迄、日本人 は行けと言つてゐるのである。個人主義思想と「神佛儒」「日本の美感」との「接點」の實 現、即ち「日本的個人主義」の實現が其處にあると言つてゐるのであらう。「和魂をもつ て洋魂を捉へる」とは、その事を言つてゐるのではなからうか。(小林秀雄の『考へるヒ ント』もその事「個人主義思想と儒教との接點」を書いてゐるのだと)
そして、そのラインを下降させるには、更に關聯的事柄として、
「場を構成しながら、或は場によつて自己を変貌させながら、しかも一貫し
た人格を保ち続ける爲には、場と自己とを冷静に眺め得る目を持たなければならない。
或は現實の場と自己とを超えた何處かに自己を隠し預ける場所を持たなければならな い」(『醒めて踊れ』全7P399)と。将にこの文は「完成せる統一體としての人格」論を補 足して餘りある。
をはり
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