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《全集第六巻所載:『當用憲法論』》
吉野櫻雲:感想
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昨今やうやく「憲法改正」論が國民の間に定着し始めた。
しかし恆存の言ふ、日本は「言論も政治も外壓によつて動く」(參照:『言論の空しさ』)
しかない國、の論を證明するが如く、過去の「テポドン(北朝鮮の中距離弾道ミサイル) 打上げ實驗」や「霸權主義國:中國」の脅威、或いは「9.11テロ事件」・「イラク戰爭」 等、矢張り「外壓」に觸發されての「憲法改正」論が蠢きだした感が免れない。
それに引き替へ、福田恆存の「憲法改正」論はあくまでも「内發」によるがものである。そ
れも四十年も前に「日本國憲法(現行憲法)」の欺瞞性を指摘してゐる。
そのやうに、日本人が「外壓」と言ふ現象でしか危機を察知出來得ない國民性である
以上、昭和四十年當時、恆存の批評(クリティック)が本質論からクリティカル(危機的) な状況を探り當て(參照『批評精神について』)、それを見事に國民の眼前に呈示した が、外壓現象が訪れなかつた以上、見向きもされなかつた状況なのであつた。そして今 日「外壓」的現象が訪れれば、今度は見境ひもなく「憲法改正」論に「べたべたと引つ附 く」。
今後も恆存が言ふ、即ち「何にでもべたべた引つ付く自他未分の神道的生活態度」(參
照:『日本および日本人』)と言ふ日本的土壌が、「言葉との距離測定」の能力を日本人 から奪つてゐる、「憲法改正」論等にも見られるが如き、その土壌は變はらないのであら う。
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《現行憲法が「當用」なるが所以》:(P146〜8)
「當用」:語意(さしあたって用いること。さしあたっての用事。当面の必要:大辞泉)
現行憲法の欺瞞性當用憲法(現行憲法)当用漢字
防波堤として「當用」護憲派(大江健三郎)・・・「戰爭と人権の防波堤」として。保守派・・・
國字、ローマ字化(アメリカ教育使節団:GHQのおもはく?)への防波堤(抵抗)
前進基地として「當用」護憲派(革新系)・・・「将来政権を取る爲の前進基地」として。革
新派・・・ローマ字化、假名文字化の前進基地
《(p155上)「人情の自然(A:エゴイズム・集団的自我)だけでは國際社会は乗切れな
い・・・」云々とは。そして、ではどうすべきか。・・・・》
「第四幕:このままでは最大の軍備をしても国は守れない」「第五幕:エピローグ」《日米
国民の防衛意思の差異》(『防衛論の進め方についての疑問』)
「問題は、すべてはフィクションであり、それを協力して造上げるのに一役買
つてゐる国民の一人、公務員の一人、家族の一人といふ何役かを操る自分の中
の集団的自己をひとつの堅固なフィクションとしての統一体たらしめる原動
力は何かといふ事である。
それは純粋な個人的自己であり、それがもし過去の歴史と大自然の生命力(とは、時間
的=「歴史」・空間的全体=「秋津島大和の國ぞ」叉は「神道的抽象熟語」では:吉野注) に繋つてゐなければ、人格は崩壊する。現代の人間に最も欠けているものはその明確 な意識ではないか」
そして、以下の重要項目へと繋がるのである。
《「完成せる統一体としての人格」論:付記文》
(国防問題は「国家意識、国家観、詰り国家と個人との関係と言ふ人間存在の根源に繋
がるもの」。そしてそれに適応する為の「完成せる統一体としての人格」論)(全集6:覚 書の「仮説(フィクション)論」より)
「一般の日本人は、自分の子供が戦場に駆り立てられ、殺されるのが嫌だからと言つ
て、戦争に反対し、軍隊に反発し、徴兵制度を否定する。が、これは『母親』の感情であ る。その点は『父親』でも同じであらう、が、『父親』は論理の筋道を立てる。国家(場面: 吉野注)といふフィクションを成り立たせるためは、子供が戦場に駆り立てられるのも止 むを得ないと考へ、そのための制度もまたフィクションとして認める。が、彼にも感情が ある。自分の子供だけは徴兵されないように小細工するかも知れぬ。私はそれもまた可 と考へる。『父親』の人格の中には国民としての仮面(役・自己劇化:吉野注)と親として の仮面と二つがあり、一人でその二役を演じ分けてゐるだけの事である。そして、その 仮面の使ひ分けを一つの完成した統一体として為し得るものが人格なのである。『私た ちはしつかりしてゐない』という自覚が、『私たち』をしつかりさせてくれる別次元のフィク ションとしての国家や防衛を要請するのである、要するに人格も法も国家も、すべてはフ ィクションなのであり、迫持(せりもち)、控へ壁などの備へによつて、その崩壊を防ぎ、 努めてその維持を工夫しなければならぬものなのである」(P703全6「覚書」)(別図:参 照」)
「問題は、すべてはフィクションであり、それを協力して造上げるのに一役買つてゐる国
民の一人、公務員の一人、家族の一人といふ何役かを操る自分の中の集団的自己をひ とつの堅固なフィクションとしての統一体たらしめる原動力は何かといふ事である。それ は純粋な個人的自己であり、それがもし過去の歴史と大自然の生命力(時間的全体・空 間的全体・C:吉野注)に?つてゐなければ、人格は崩壊する。現代の人間に最も欠けて いるものはその明確な意識ではないか」(P704全6「覚書」):(別図1:参照」)
此処過去の歴史と大自然の生命力(時間的全体・空間的全体)に?つてゐなければ、
人格は崩壊する。が最重要な項目である。
上記のフィクションを統一せしめるものとして、矢張り全体(C)即ち、過去の歴史と大自
然の生命力(時間的・空間的全体:吉野注)や「背後にある道徳:C」がその構図を支へ 得る「原動力」なのである、と恆存は言つてゐるのである。
故に「自己を何処か(絶対・全体C)に隠さねばならぬ」と言ふ文が持ち出されるのだ。さ
うした統一すべき「絶対・全体」或は主題がないから二役を演ずることが出来ないのであ る。二役のみならず何役かを操る「自己劇化」が出来得る人格として、「完成せる統一体 としての人格」論が登場するのである。
何役かを操る「自己劇化」を、恆存の別な表現で言へばかうなる。各場面で関係的真
実を生かしていくのだ。それが「完成せる統一体としての人格」なのだと。ではそれはどう 言ふ事かと言へば、
何役かを操る各場面でそこから発生する「(関係の)真実を生かすために一つのお面を
かぶる(役を演ずる・自己劇化:吉野注)」「演戯なしには人生は成り立たない。つまり仮 説なしには成り立たない」「真実といふのは、ひとつの関係の中にある。個々の実体より はその関係の方が先に存在している。人生といふものは、関係が真実なんで、一生涯自 分のおかれた関係の中でもつて動いてゐる。いろいろな関係を処理していき、それらの 集積された関係がその人の生涯といふもの。それを私は演戯だといふ」「われわれがこ しらへたものは、相対的であつて絶対ではないといふ原理をちやんと心得て、こいつを 絶対化(仮説の完璧化・築城の完璧化:吉野注)しようといふ努力」。《単「生き甲斐とい ふ事」対談「反近代につひて」(P195・199)
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