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《 全集第六巻所載【『生き甲斐といふ事』――利己心のすすめ(昭和四十
四年七月刊)】 十二月:選擇評論:全集第六巻所載【『生き甲斐といふ事』――利己心のすすめ(昭和四
十四年七月刊)】 この評論も一見解つた樣に讀めさうだが、非常に難しい内容だと思ふ。ついでに言ふ
ならば「福田恆存」は日本人には難し過ぎて、あと四五十年経たねば解らないのでは、と 小生は最近思ふ事しきりである。 で、恆存は一方で「神なくして個人の権利を主張し得ない。それをあへてなすことは惡
徳である」(『近代の宿命』)と言ひ、ここでは正反對に副題で「利己心のすすめ」と言ふ。 この謎、是を日本人はどう捉へるかである。 それはさておき、当評論で恆存の言はんとしてゐる事は、やはり「西歐近代への適應異
常」から來る、「精神の政治学」の分割線が下方まで下がつてないと言ふ事なのでは。 換言すれば、「肉體の自律性と精神の自律性」峻別の問題である。この事柄は、更に二
十二年前の昭和二十二年著、『肉體の自律性』(P479全二)の文を、当評論の補足とし て取り上げた方が分かりやすいと思ふので此処に附記する。即ち日本人特有の「自己 欺瞞」が、当評論では戰後は「生き甲斐」追求に迄、變格活用されてしまつてゐると論及 してゐるのである。 「肉體の自律性は當然その反面に精神の自律性を前提とする。肉體、あるいは物質で
解決すべき事を、精神の重荷とするなかれ――精神には精神のみの解決しうる問題を あてがひ、その領域と大權とを縮小せしめるにしくはない。そのときはじめて精神は自律 し、その権威は輝くであらう。 が、ぼくたちは今日までなんと精神を神聖化し、さうすることによつて精神の負荷を重か
らしめ、結果として精神を侮辱してきたことか。肉體の自律性が確立してゐなかつたから である。明治以降の日本人はあらゆる物質的なこと、肉體的なことに、すべて精神のべ ールをかぶせ、それをことごとく精神の發動として自己満足してきた。かれらは肉慾を肉 慾として是認することをおそれ、それに精神的な衣をかぶせた。物慾を物慾として是認 することをおそれ、それに藝術愛(私小説家)や愛國心(戰前)や愛他心や、その他の主 種雑多な大義名分(「生き甲斐」も同)をかぶせた。・・・」(P479全二『肉體の自律性』:續 文も重要であるが、長いので省略。尚傍線及び括弧内は吉野注)(下欄「精神(B)主義 構圖」參照) 「肉體の自律性が確立してゐなかつた・・」以下の指摘、圖で現せば「テキストP9」、その
歪んだ日本の近代化(適應異常)を修正する手段として、恆存は「精神の政治学」分割 線の最下降を示唆するのである。当評論中の、日本人の「利己心Aを大義名分C"でご まかす僞善」云々も、集団的自我(A)が偏狭の爲「肉體の自律性が確立してゐなかつ た」事から発生して來る問題なのである。 そしてその「精神の政治學」の分割線下降の手段として「處世術(A)的概念)」で解決で
きるものは「處世術」で、と恆存は説くのである。「カエサルのものはカエサルで」と同じ謂 ひである。 日本は物質面のみの模倣(客體化)で済まして、精神(個人的自我:B)から、そこに潜在
する「カエサル(A)」的部分を搾り出して、集団的自我(A)に押し出して行くと言ふ西歐的 能動がなかつた。故に「精神の政治學」ラインが下降しなかつた、と言ふ事に繋がる。 〔当評論中解りにくい部分を他評論(右項)で補足〕
〔当評論中解りにくい部分を他評論(右項)で補足〕ikigaihosoku.new.pdf へのリンク
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番外編:
《生き甲斐⇒全體感。と「皇室典範改正」の問題》
【恆存の評論(眼)から浮世を見れば・・・】 吉野櫻雲 發表
時間的全體感(C)=歴史(萬世一系の天皇制:男系天皇制)⇒D1宿命(傳統・文化・
型=祭祀・儀式)⇒國民(A・B所持)⇒D2(祭祀の)演戯⇒全體感・實在感獲得。と言ふ 流れ。 ・・・故に今般の「皇室典範改正」は日本國民の全體喪失即ち、全體感・實在感・生き甲
斐獲得機會の永遠喪失、即ち「ナショナルアイデンティティー」喪失に繋がり、しひては國 家存亡の危機にも相當する。 「萬世一系の天皇制:男系天皇制」は、文化を喪失してゐる戰後日本の最後の砦。
參照:「私たちの意識は平面を横ばいする歴史的現実(過去・現在・未来といふ時間的
継続:吉野注)の日常性からその無際限な平板さから起き上がらうとしてたへずあがい てゐる」「その(起き上がるための)行為が演戯(型=祭祀・儀式)」(P532)であり、か つ「儀式は、人間が個人であることをやめて、生命のもつとも根源的なものに帰つていく ための通路」(「人間・この劇的なるもの」P588)なのであつた。だが、その要素としての 祝日を戦後は換骨奪胎化してしまつたと言ふことなのである。(以下圖「全体感獲得の 構圖」:参照) 演戯(型=祭祀・儀式)」といふ、「型にしたがつた行動は、その一区切り 一区切りが必然であり、(中略)行動をそれ自体として純粋に味はひうるやうにしむけてく れる。そのときにおいてのみ、私たちは、すべてがとめどない因果のなかに埋れた日常 生活の、末梢的な部分品としての存在から脱却し、それ自身において完全な、生命その ものの根源につながることができるのだ」。 「私たちは、平生、自分を全体と調和せしめようとして、それができずに疲れはててゐ
る。いひかへれば、生理的には必然かもしれぬが、倫理的には偶然な事故にしかすぎ ぬ死以外に、何の完結も終止符もない人生に倦み疲れてゐるのだ。私たちの本能は、 すべてが終ることを欲してゐる。・・・・」(『人間・この劇的なるもの』) 《實在感・時間的全體感獲得の構圖》
《實在感・時間的全體感獲得の構圖》「全体感獲得の構図」
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