福田恆存の「個人主義」観
平成十七年二月
吉野櫻雲
ここに恆存のアイロニカルにしてかつ難解とおぼしき文章がある。氏の演劇論で言ふ
「場(場面)と関係(距離)」を利用しその謎解きをしてみたいと思ふ。
「私はいちわう、個人としての或る人間は信じる事は出来る。が、人間といふ抽象的存在
を信、不信の対象とする思考法には不慣れなのである。(中略)そして、個人として最も 信じてゐないのは私自身である。それに次いで家内、子供、友人と自分から遠くなるに 随つて信じる度合が増し、同時に信じられるか信じられないかといふ二者択一の関心度 は薄れ、それぞれ相手を一人格としてではなく、仕事や利害関係の枠組みにおける一機 能として信じておくだけの事に過ぎなくなる」(『防衛論の進め方についての疑問』)
早速「個人として最も信じてゐないのは私自身である」、に取り掛かる。恆存がいはん
としてゐるのは、「場面が変れば関係も変る」といふ事なのである。
一人格として附き合ふ個人的「場面」では、相手との関係的距離が遠い程、意識的緊張
度は高くなり、その為当然言葉遣ひの意識度は増して来る。身内よりは友人に対する方 が言葉の選択に気を使つてゐる筈である。逆に身内に対する程、言葉は無意識的にぞ んざいに遣つてゐる事になる。
対する相手が自分となつた場面では、関係と言ふ距離間隔は最短となり、その為意識
的緊張度は最も低くなり、言葉遣ひの無意識的度合ひはかなり増すことになる。緊張感 の持続は至つて困難であり「独り言」が無意識的に出る。
自己と言ふ「場」への距離の至近が自己への客観的視野を狭くし、しいては自己への沈
湎を招く。三文役者のやうに共演相手を無視した独り芝居の演技に陥りかねない。「距 離の至近」により、自己と言ふ「場」への安易な自己陶酔・自己満足・自己絶対視が可能 となり、結果として其処に自己主人公化・自己全体化が招来される事になる。
「関係」と言ふ距離が短くなり緊張度が曖昧になれば、其処に「自己満足・自己陶酔等」
の自己欺瞞が介入し易くなると言ふ事である。そしてその「満足感」の証明は自分で自 分にする「自己証明」となるので、幾らでも誤魔化しは利く。終着点として似非実在感に 帰着するが、その事が本人には分からない。既に自己喪失してゐるが故に。即ち場へ の距離感を喪失した事による、対象への「適応異常」と言ふ例がここにも当てはまるの である。日本の近代化が「西欧近代」と言ふ場に呑み込まれ距離感を喪失し「適応異 常」に陥つた、と恆存の言ふ同じ表現が。又、私小説批判での「自己絶対視は必ず自己 喪失に終る」(全集六:『覚書』)と言ふ文もある。
紙数都合上少し荒つぽく書き進めてしまひましたが、附き合ふ相手が自分の場合、自己
と言ふ「場」への距離感の喪失=場への沈湎=自己陶酔=自己絶対視=自己への適 応異常=自己喪失。と言ふ式が成り立つ。即ち甚だ「自己」とは、正常には適応がし難 い相手であり、故に「個人として最も信じてゐないのは私自身である」、といふ恆存の説 になるのでは。
そして個人主義こそ、上記で言ふ「自己が自己に結ぶ関係」なのであるから、「距離
感」の欠如・喪失を意味してゐ、その「自己への誠実」は検証のしようのない真に危うい 代物と言へる。故にその限界を露呈してゐるのである。
其処の辺りを恆存はかう述べてゐる。
本来「誠実とは対他的概念」であるのに、それを自己に適応し、「自分が自分に対して誠
実であると思ひこむのも、これまた一種の自己欺瞞に過ぎまい。いや、誠実こそ最大の 自己欺瞞かも知れぬ。(中略)自分の歪んだ自惚鏡に映つた自分の姿を一度信じこんで しまへば、他人の目に映つた自分はすべて誤解といふ事になる」(『フィクションといふ 事』)と、「自己への誠実=個人主義」の陥穽を書いてゐる。このやうに恆存は、個人主 義の陥穽の一側面「自惚鏡」を、ビランテルロの戯曲を借りて言ふ。また更に『批評家の 手帖』においては、チェーホフは三戯曲で自己陶酔の側面を、「自己解釈・独り合点」の 「伝統的な気質喜劇」として描いたとも。
そして恆存の諸著作から個人主義についての文言を要約すれば、以下の通りになると
思ふ。
近代=「神の死」即ち「神意(宿命)喪失」→神の代はりに自己の手による宿命演出→自
己主張(表現)・自由意思(人間如何に生くべき)→自己完成(自己主人公化・自己全体 化・自惚鏡)→自己陶酔・自己満足・自己絶対視・自己証明による「似非実在感」→自己 喪失(自己への距離感喪失・適応異常)。
そして畢竟、神の棲まぬ我が国では、個人主義は利己主義に帰結すると言ふ事にも。
即ち「神なくして個人の権利を主張しえない。それをあへてなすことは悪徳である」(『近 代の宿命』)と言ふ文がそれを示す。
ではさうした、危殆に瀕した西欧近代自我(個人主義)に対して、我々日本人はどうした
らいいか。福田恆存はかく言ふ。
「西欧を先進国として、それに追いつかうといふ立場から、『アジアの前近代的な非人格
性を否定し、西欧の近代精神たる個人主義を身につけろといふのではない。それこそ、 私のいふ距離感の喪失にほかなりません。私はあくまで西欧の生きかたと私たちとの間 の距離を認識しろといつてゐるのです。眼前にある西欧を、(中略)まず異質なものとし てとらへ、位置づけすること、さうすることによつて『日本および日本人』の独立が可能に なるでせう。それを日本人の個人主義の成立とみなす」と。(『日本および日本人』)
さうした「場との距離感の把握」「観念に飲み込まれない事」を氏の演劇論で表現すれ
ば、「言葉と話し手との間に距離を保ち、その距離を絶え間なく変化させねばならぬのと 同様に、相手と共に造り上げた場と自分との間にも距離を保たねばならず、その距離を 絶えず変化させ得る能力がなければいけない。さういふ能力こそ、精神の政治学として の近代化といふものなのである」(『醒めて踊れ』)と言ふ事になる。即ち、場が変れば関 係(距離感)も変つていくのである。その変化への適切なる対応が適応正常と言ふ事に なる。
もう少し分かり易く言へば、場面に沈湎せず、観念に飲み込まれないには、So called
(所謂「・・・」)の操作で「言葉を自分から遠く離す事により、逆にその言葉を精神化し、 支配、操作を出来る様にする事。そのやうに言葉(観念)を自己所有化する事によつて、 近代化を操る精神(関係の適応正常化)を持つ事が可能となり、それが日本人の精神の 近代化」と言ふ事になるのである。(講演カセット『日本の近代化とその自立』より要 約)。
更に氏の言葉が続いていく。関係の適応正常化をする為には、「(関係の)真実を生か
すために一つのお面をかぶる(注:役を演ずる・自己劇化も同意)」「演戯なしには人生 は成り立たない。つまり仮説なしには成り立たない」「真実といふのは、ひとつの関係の 中にある。個々の実体よりはその関係の方が先に存在している。人生といふものは、関 係が真実なんで、一生涯自分のおかれた関係の中でもつて動いてゐる。いろいろな関 係を処理していき、それらの集積された関係がその人の生涯といふもの。それを私は演 戯だといふ」「われわれがこしらへたものは、相対的であつて絶対ではないといふ原理を ちやんと心得て、こいつを絶対化しようといふ努力」(対談『反近代につひて』)が必要で あると。(別な氏の表現で言へば「完成せる統一体としての人格」の構築)
上記一連の「自己劇化」の行為が、西欧個人主義の限界を認めての、それに対する適
応正常化としての「日本型近代自我(個人主義)」確立なのである。と恆存は言ふのであ る。
そして更に重要なる、「近代自我(個人主義)の覚醒」によつて行き場を失つた「集団的
自我の権力意思」と言ふ問題をも、氏は以下の如く解決せしめんとした。
上述の「何役かを操る自分の中の集団的自己(集団的自我)」を、ひとつの堅固なフィク
ションとしての統一体(「完成せる統一体としての人格」)たらしめるべく、その原動力とし て個人的自己(個人的自我)が、それを過去の歴史と大自然の生命力(注:時間的・空 間的全体)に?ぎとめる事。それが出来得るならば、今や歪曲或は喪失された、有機的な 「集団的自我での権力の流れ」が、再び其処に脈々と蘇るのである。それはかつての 「封建的な支配関係の秩序」内には存在した、有機的な「権力の流れ」であり、「近代自 我(個人主義)の覚醒」によつて堰き止められてしまつたものなのである。とそのやうに 『職業としての作家』・『全集六:覚書』から追想し伺ひ知ることが出来る。
その思想の遠くからは、「ロレンス」の声がこだましてくる。
「吾々は生きて肉のうちにあり、また生々たる実体をもつたコスモスの一部であるとい
ふ歓喜に陶酔すべきではなからうか」(『アポカリプス論』)
恆存は、「近代自我の覚醒」によつて堰き止められてしまつた、権力の有機的流れを、
「封建的な支配関係」の内にではなく、別な構造「完成せる統一体としての人格」として上 述のやうに構成した。其処には個人主義(近代自我)構図では窒息しかつ果たしえぬ 「集団的自我での権力の流れ」が息づく。
であるのに、氏の著述から大分年を経た今日においても、日本は「西欧個人主義」に
距離感を失ひ沈湎(適応異常)してゐる。既に近代自我(個人主義)が危殆に瀕してゐ る、或は西欧十九世紀の実証精神によつて既にそれが限界の様相を呈してゐると言ふ 事に、未だ我々日本人は充分気づいてはゐないやうだ。没後十年を期に、もう一度「福 田恆存」の声に耳を傾けるべきではなからうか。
をはり
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