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 《試論》
福田恆存の『演劇論』と剣道(小野派一刀流)
《或る演劇理論の『小野派一刀流型』的展開》
*「演戯者(演武者)には、すべては見えない。過去と未来から切り放たれた現在だけ
が、過去・現在・未来と言ふ全体の象徴として存在してゐるだけだ。前後に暗黒があれ
ばこそ、その間の時間を光として感じる事ができる。その前後には暗黒の淵に埋没して
しまへばこそ、その感の一瞬に浮かび上がる事ができるのだ。
意識は過去・現在・未来
の全体を眺めわたせる地位にありながら、しかも限られた枠のなかだけしか見ようとしな
いから、その間の時間の経過を強烈に味はふことができるのだ
」。
そして、「上に脱け出た意識は、足下の現實が時々刻々に動いてゐることを實感できる」 「意識的に部分(現在)としての自己を味はひ尽くす課程において、全體感(時間的全體感)が象徴的に甦る」。何故ならば「過去と未來とから切り放たれた現在だけが、過去・現在・未來といふ全體の象徴として存在してゐる」からである
:カッコ内は管理者挿入。 (『人間・この劇的なるもの』福田恆存著)

――演劇と演武の共通点(詳細説明)――
(以下をクリック)
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*時間的全体感獲得の方法論・・・
 「宿命(関係)/自己劇化」・時間芸術(演劇・詩文創作、etc)・そして剣道型演武。

*時間的全体感とは何か・・・・「必然感」。今まさになすべきことをしてゐるといふ実感。
「なさねばならぬことをしてゐるといふ実感」(P525)宿命を演じてゐるといふ実在感。
「私達の意識は、平面を横ばひする歴史的現實の日常性から、その無際限な平板さから、起きあがらうとして、たえずあがいてゐる。そのための行爲が演戯である」(『人間・この劇的なるもの』福田恆存著)
「意識は、平面を横ばひする歴史(過去・現在・未来といふ時間的継続:吉野注)といふ
ものに垂直に交る」(P532)時、「部分(現在:吉野注)を部分として明確にとらへること
によつて、その中に全体(過去・現在・未来といふ時間的全体:吉野注)を実感」(P53
3)する。「私たちが個人の全体性を恢復する唯一の道は、自分が部分に過ぎぬことを
覚悟し、意識的に部分としての自己を味はひつくすこと、その味はひの過程において、全
体感が象徴的に甦る」。将にその時、生きるといふ日常的平板さから「上に脱け出た意
識は、足下の現実が時々刻々に動いてゐることを実感」するのである。「宿命/自己劇
化」による絶対への演戯が、上記の実感、今まさになすべきことをしてゐるといふ実感、
「なさねばならぬことをしてゐるといふ実感」を得させるのである。その時「過去と未来と
から切り放たれた現在だけが、過去・現在・未来といふ全体の象徴として存在してゐる」
のである。そして「前後に暗黒があればこそ、その間の時間を光として感じることができ
る」。


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《試論》福田恆存の『演劇論』と剣道(小野派一刀流)
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