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記:平成十六年一月二十五日
吉野櫻雲


福田恆存における「全体・絶対」



氏いはく・・・

「私はクリスチャンじゃありませんけれども、なにか人間を越えるものの大きな力、それを歴史
となづけようが、自然となづけようが、神となづけようが、さういふものを信じてをりますか
ら・・・」p169「反近代について」対談(香山健一との)−生き甲斐といふ事ー


「なにか人間を越えるものの大きな力」=全体〔人間(部分)を越えたるもの)・絶対(相対
を絶したもの)
・・・・福田恆存は「全体・絶対」を上記のやうに観て、「人間を越えるものの大きな力」の
中にクリスト教の絶対神も、ロレンスの「コスモス」も、自然(空間的全体)も、歴史(時間
的全体)も、或は仏教の「空」も、神道の「八百万の神々」も、さうしたものをすべて含め
て捉へてゐたのでは。



「絶対者の役割」と言ふ氏の評論に以下のやうな文章がある。解るやうで中々解りにくい
領域なので、あへて自分に解りやすくする為以下のやうに、管理者吉野が太字で(注)を
挿入してみた。さうしたら幾らか解りやすくなつた。明晰な方々には蛇足かも知れませぬ
が、お許しの程。果たして(注)は間違つてゐるでせうか。


「全体とはなにか・・・」

「全体とはなにかといふことです。全体と個とは質の相違であります。そこには次元の差がある
のです。私たち人間が全体の観念をもちうるのは、私たちが個人でありながら、そのうちに全
体を含んでゐるからです。(それを感得する場所が「個人的自我」であり)、それが精神とい
ふものでせう。その内に(「個人的自我」で感得した)あるものを外にとりだし、万人共通の人
格神として客体化したのがクリスト教であります。それはいはば携帯用の「全体」であります。
西欧人はそれを磁石のやうにポケットに隠し持ち歩いてきたのです。その磁針の動きによつ
て、個人は人格といふ明確な輪郭をもちうるし、その所在を明らかにしうるといふわけです。又
それが他人の眼にも、はっきりした存在を示すのです。(・・・とは、絶えず極北の一点を指し
示す磁針の導きによつて「完成せる統一体として」人格が明確な輪郭を形成して行くと言
ふことでは)
 同じことを自己認識の面でいへば、本来は客体化しえぬ主体を客体化したといふことです」
(P281全4「絶対者の役割」)
 「この主体の客体化といふ精神から合理主義が生れ、実証科学が生れてきた」P282
・・・注(太字)は吉野挿入文

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全体と絶対との問題・・・

精神とは人間(部分)が内部に持つ「全体」の観念・・・分かり易く言へば「全体の観念」を
感得する場所と言ふこと。即ち個人的自我と言ふことでは。
その「全体(精神)」の客体化がクリスト教の神(人格神:絶対神)。

「個人が全体の観念を自己のものとして所有」してゐる事とは。
・・・・その「全体の観念」を感得する場所、それが即ち「個人的自我」=精神なのである。
個人的自我は、「自己を超えたるものの何か(観念上の全体・絶対)」を感得する事が可
能なのである。と言ふことか。

(参照):「個人的自我」・・・「個人の純粋性」。「他と絶縁し自己のうちに閉じこもることに
よつて己れを完成せしめんとする」自我の部分。
「人間のうちには孤独と諦念と瞑想と自意識とにふける純粋に個人的な面がある」、その
「孤独と諦念と自己認識の純粋なる」部分。(アポカリプス論)」まへがきP10〜12》


精神(人間が内部に持つ全体の観念)――>「全体の観念」の客体化――>万人共通
の「人格神・絶対神」(キリスト教)
・・・とは「全体」の概念の内に「神・絶対」は内包される。と言ふことか。
(参照文「全体の、いや、もう神のといつてもいいでせうが・・・」P283「絶対者の役割」
キリスト教の絶対神とは、人間が内部に持つ全体(精神)の客体化(万人共通としての)
と言ふことか。

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ゆえに個人的自我の、より純粋化が必要となるのである。「全体の観念」を感得する為
には。

  【政治・社会(九十九匹)と文学・宗教(一匹)の峻別】
                  ・・・・「カエサルの事はカエサルに聞け」

「文学は、政治によつては救ひえぬ領域において人間の苦悩を救ふ。それにまちがひはない。
それはそれとして、では、ぼくたち(日本人:吉野注)のうちに政治では救ひえぬどんな苦悩が
存在してゐるといふのか。・・(中略)・・ぼくたちは罪や懺悔を表看板にするひとたちの深刻な
身ぶりを警戒しなければならぬと同時に、ぼくたち自身のうちにひそむ救ひの要求にも猜疑の
目をむけなければならない――言ふまでもなく、ぼくたちの内部のさういふ領域を否定抹殺す
るためにではなく、かへつてその純粋化のために」(『現代人の救ひといふこと』)

・・・とはどう言ふことか。
「九十九匹」の事はその世界で解決し、「一匹」の世界をより純粋化することによつて、初
めて「自己を超えたるものの何か(観念上の全体・絶対)」を感得する事が可能になると
言ふことなのである。
別の言葉で言へば「個人の純粋性に徹し社会の蚕食からこれを救ひ出すこと」(『近代の
宿命』)。即ち、夾雑物を取除いて初めて、「個人的自我」は真に「全体・絶対」を感得す
る事ができるといふことでは。

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 そして質的別次元の全体を持つことによつて、以下に言ふ唯物論といふ相対(数量の
差)の桎梏(ジレンマ・泥沼)から脱出が可能となると氏は言ふ。

 「唯物論においては、全体と個との関係は、まつたく数量の差に帰してしまふ。個を寄せ集め
たものが全体であります。ですから個人は全体の外に出ることができない。個人は全体の一
部にすぎません。つまり、両者は同一次元に属するものなのです。個人が全体の観念を自己
のものとして所有し、それによつて現実の全体を拒否することはできない。国家や階級を離れ
て、一つの人格が自立するといふことはありえないのです。それは国家や階級に比して個人が
非力だからではなく、部分として全体を否定するだけの名目がたたぬからです。国家や階級が
その内部に異分子の存在を許さぬのは、ただ力によつて許さぬだけでなく、原理によつて許さ
ぬのです」p282
(図解「完成せる統一体としての人格」参照:三角図と下図との違ひ)
 図解:完成せる統一体としての人格

「唯物論においては、全体と個との関係は、まつたく数量の差(同一次元)」下図参照:大枠が
全体。小枠が個人。





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