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平成15年9月21日
12月読書会題目「一匹と九十九匹と」の参考資料或はたたき台として
吉野櫻雲
![]() 《「一匹と九十九匹と」上の解りにくい、以下の問題の追求》
「近代の宿命」「作品のリアリティーについて」「小説の運命�機Ν供廖峩畭綟�本文学の系
譜」「現代日本文学の諸問題」等を参考にして》(上記評論は何れも昭和22年頃の著 作) �ー他攫腟舛硫畩蠅�もたらしたもの。
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〜〜〜 「一匹と九十九匹と」からの問題提議。以下の文の、更に下段に続く事項は、結構難し
い問題なのではなからうか。 (参照図:個人主義の構図) 「ひとびとはあらゆる個人的価値の底にエゴイズムを見、それゆゑに個人は社会の前に
羞恥する。が、現実を見るがいい――社会正義といふ観念の流行にもかかはらず、現 実は醜悪な自我の赤裸々な闘争の場となつてゐるではないか、いや、なほ悪いことに、 あらゆる社会正義の裏口からエゴイズムがそつとひとしれずしのびこんでゐる。当然で ある――いかに抑圧しようとしてもけつして消滅しきれぬ自我であり、それゆゑに大通り の通行禁止にあつてみれば、裏口にまわるよりほかに手はなかつたといふわけである」 (全1:P650) とはどういふことか。
これは西欧近代が実証主義によつて、エゴイズムを「自我の必然」として、近代自我(個
人主義)の俎上に浮かび上がらせてきたことである。即ちかつては個人的自我の範疇と みなされてゐたものが、詰め腹を切らされて集団的自我上に浮かび上がつてきたもの。 〔有態な言葉でいへば、「慈悲だ、他者愛だ、自己犠牲だと、ご当人が思ひ込んでゐたも
のが、おつとどつこい、只のお為ごかし、所詮は自己愛が出所の自己満足でしかないし ろものだつた」といふこと。すつかり本体が露出して身もふたもなくなつてしまつたのであ る〕 上述の事を恆存の文で正しく辿ると、「個人の純粋性(個人的自我:吉野注)が社会の合
理化に追ひ詰められて詰め腹を切らされたとき、個人主義は権力思想として登場せざる をえなくなつた」(「近代の宿命」全2:P458)といふことになる。 そしてそのエゴイズムといふものは「――いかに抑圧しようとしてもけつして消滅しきれ
ぬ自我(集団的自我上の)」であり、それゆゑに大通りの通行禁止にあつてみれば、裏 口にまはるよりほかに手はなかつたといふわけである」。社会正義といふ美名のお面を 被つた自己欺瞞へ逃げ込むしかないといふこと。即ち正義といふ他者愛(個人的自我) 的概念の中に自己愛(エゴイズム:集団的自我上の)を潜り込ませるといふ事である。 かうして実証主義(「19世紀的方法論」)は、シェークスピアが「マクベス」にて描出した
課題(解放されて仕へるべきものを喪失したことに起因する「自我の不安」)を自我の喪 失にまで押し進めそれを実証化した。 現実を正しく認識しようといふ、実証主義或は実証精神は、その手段の徹底化のあま
り、「現実のうちに正しく生きよう」といふ人間の内にある素朴なる欲求(目的)を無視し、 そこからかけ離れてしまつた。とその事柄を、福田恆存は以下のやうに述べてゐる。 「現実のうちに正しく生きよう」といふ問題(「作品のリアリティーについて」より。全2:P2
66〜) 「自然を、現実を正しく認識するのは、自然のうちに、あるいは現実のうちに正しく生きよ
うといふ目的のためにほかならない。近代が――ことに19世紀が、この手段を目的から 独立せしめ、それ自体の自律性を獲得せしめたのである。 現実を正しく認識しようといふのは、自分の目のまへに自分から離れたものとして真実
を設定しようといふことであり、現実のうちに正しく生きようといふのは、現実とのかかは りにおいてみずからが真実にゐようといふことであつて、両者はおのづから別個のこと がらである。(中略)倫理や心理がすでに科学の対象となつているのみならず、哲学すら その形而上学としての性格をおびやかされ、たんなる認識の領域に閉じこめられてしま つてゐる。真実を知ることではなく、真実にゐようとする僕たちの素朴な欲求は――それ が今日においてもなほ消滅しないものであるかぎり――もはやいかなる学問によつても 応へられぬのである」 この後半の事を恆存はかうもいつてゐる。「哲学は、たとへ個人の側に立つたとしても
(中略)論理を踏みはづさぬかぎり、合理と弁証とから脱出することはできず、個人の純 粋性に徹し、社会の蚕食からこれを救い出すことはできない。それゆゑに、ニーチェを はじめ19世紀後半の哲学者たちは文学への接近を企てざるをえなかつたのである。 ニーチェは、神は死んだといつた――が、それも、神を回復したかつたからにほかなら
ない。かれの憧憬と彼の現実認識との相反がかれを錯乱に導いた」(「近代の宿命」P4 57) そして、19世紀末〜20世紀初頭の以下の作家や詩人、思想家がその問題に手を触
れて、そこに踏み留まつたと。 ・・・フローベール又は彼等(ボードレール・ニーチェ・ドストエフスキー・ロレンス)は、実
証主義(現実を正しく認識する)よりも、現実のうちに正しく生きる事の方を選んだ。即ち 「現実とのかかはりにおいてみずからが真実にいようと」いふ事の方を大切だと、彼らの 天賦の才で直感してゐたといふ事であらう。(「関係の真実を生かす」と同といふこと か)。彼等は手段と目的を混同する過ちを冒しはしなかつたといふことだ。目的から分離 した手段に否を唱え、その時代の方向性に警鐘を鳴らしたのである。 (参考:吉田健一「ヨーロッパの人間」・・・・手段に埋没、即ち、観念(自由・科学主義・合
理主義・実証主義等)に奴隷化する野蛮な19世紀中葉を、彼等は世紀末にやうやく文 明にそれを引き戻したのだ。文明とは人間の内に観念がある事であり、人間より観念が 上になつて人間がその奴隷になつてしまうのが野蛮。・・・そして明治の日本は中葉の野 蛮を輸入し世紀末の文明は理解できなかつた。といふやうな事が書かれてゐる。因みに 吉田は、恆存とは評論仲間。同人会「鉢の木会」には他に三島由紀夫・中村光夫もゐ た) 認識(19世紀の個人主義的リアリズム)によって露出された「エゴイズム(自我の必然)
に果敢な闘争を開始し、それを攻略せんとする」、或は露出した「自己の不完全と俗悪と 罪業とによつて、これを拠りどころとして自己の真実を打ち樹てる」(「近代日本文学の系 譜」P45・P21)事よりも、また個人主義の自由よりも、彼等は、絶対・全体との関係性 を保った個人の純粋性の方を、真の自由と確信して選択した。のではなからうか。 フローベールもボードレールも神(絶対)との関係に、ニーチェはそれにかはる「超人」と
の関係に、そしてロレンスは神にかはる「コスモス」との関係に「正しく生きる」といふこと を、即ち「人間・この劇的・・・」流に言へば、真の自由あるいは実在感・全体感・必然感 の存在がそこにあるといふ事を感得してゐたのではなからうか。(ロレンス著「アポカリプ ス」まへがきP13:参照) そこの所を、近代自我(個人主義)の限界を、次のやうに恆存は書いてゐる。
実証主義そして社会の合理化に追ひ詰められて詰め腹を切らされた、個人の純粋性
(個人的自我)の「可能性の領域は圧迫され、狭窄になり、つひに絶無になつたとき、ひ とびとはその代償として獲得できた現実世界における自由を、自分の掌のうへにみつめ て、これはひどくつまらないものだと気づいたのである。こんな程度のもののために、可 能性の夢を犠牲にしてきたとはばかばかしい。だまされた、と狂気のやうにわめきだし た。ニーチェ(1844〜1900)は気が狂つた。フローベールはもつと冷静に復讐の手段 を考へだした。――個人の敗北を身をもつて敗北してみせること、可能性の天窓は一分 のすきもなく完全にとざされ、現実世界で獲得できた自由のいかにつまらなく、それがあ まりにつまらぬために自由でもなんでもないといふことを、克明に描写し証明してやるこ と(それが小説「マダム ボヴァリー」:吉野注)」〔「現代日本文学の諸問題」より。全1:p 59〕フローベールの夢想は、イエスの人格化「理想人間像」(絶対・全体)にあったのだ と「小説の運命」かで恆存はいつてゐた。「ロマネスクな夢想こそが、作品の裏がはから あのリアリスティックな無表情の記述の保証に立つてゐるにほかならない」(「小説の運 命�供В丕僑隠院廖砲函� リアリズム(手段)によつていくら人間のエゴイズム(即ち自我の必然)を知り得たところ
で、「人間如何に生くべき」の命題である自己完成(目的)なんかには到達しないのだと いふことを。又、自己喪失しかそこからは生れてこないのだといふことに彼等は「深い苦 渋を味はつて」ゐたとも。 彼等は甘んじて、「19世紀の個人主義的リアリズム」による自我の否定にさらされなが
らも、「つひに否定し扼殺しきれない個人の純粋性を発見することを念じて」ゐたのであ る。P269。 実証主義(自然を、現実を正しく認識する)が到達した近代自我(個人主義)の敗北の上
に、更に生き延びる、「個人の純粋性・個人的自我」と関係を保つ絶対・全体に超近代の 夢を繋いだのである。「正しく生きよう」といふ夢想をそこに。 実証主義によつて顕在化したエゴイズム(我意)・権力への意志を、社会正義などといふ
ものに潜り込ますやうな自己欺瞞(ルサンチマン=怨念の一種)をせず、それをニーチェ は超人(絶対・全体)に関係性を繋いだのでは。そしてロレンスは、「個人主義は愛し得 ない」と結論し、我意の中に存在する「吸収と奉仕:支配と被支配の法則」を認め、それ を「コスモス(全体)」へと繋ぐ(「迂路を通す」)事によつて、現代人における愛の可能性 を追及したのではなからうか。二人とも「弱者の歪曲された権力意志」といふものを徹底 して否定した。 そこのところを恆存は、「近代の宿命」でかう書いてゐる。「確かに、人間のうちには
――ヨーロッパ人の心の内部には、神に従属させておかなければじつさいどうにもなら
ぬ領域が存在する」と。(全2:P458) 以上
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