令和六十一

 

『福田恆存を讀む會』

 

吉野櫻雲

 

再論究:全集第六巻所収【『生き甲斐といふ事』――利己心のすすめ(昭和四十四年七月刊)】

 

設問Ⅰ:今の時代に於ける「生き甲斐」とは。

設問Ⅱ:西歐に於ける「生き甲斐喪失/混迷」の問題。

設問Ⅲ:各位に於ける「生き甲斐」とは。

 

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尚、今般『讀む會』での、プリントアウト必要「PP圖」は以下二點です。

〔地方下級武士の、「上級武士=出世慾=利己心(A)」に對する劣等感〕(參照PP圖chihoukaikyubushi.pdf へのリンク

〔大義名分(C”):生き甲斐(幕末維新に於ける「國家」の代はり)〕
參照PP圖
taigimeibun.ikigai.pdf へのリンク

その他(以下)は、以前に「印刷濟」ですので不要です。

參照PP圖

出所:拙発表文

參照《日本的精神主義構圖》

拙發表文:《『日本の知識階級』》

西歐近代化構圖」(PP圖「近代化の説明」參照

平成二十九年三月九日

拙発表文:《三月選擇テーマ:講義2「近代化とは何か」》

PP圖「彼我の差」參照

higanosa.sozai

拙発表文:《恆存の「鷗外」論(『素材について』)》

「完成せる統一體としての人格論」(PP圖參照)

出所:頻繁

 評論『アポカリプス』 PP圖參照

拙発表文:《恆存著『ロレンスⅠ』》から

PP圖「チェーホフ/フローベール」參照

 

PP圖「さうありたい自己」參照

平成三十年十二月

拙発表文:《「さうありたい自己」と「個人主義」を關係論で再探究する》

PP圖「漱石」參照

拙発表文:《恆存の「漱石」論》

PP圖「鷗外論1頁」參照

拙発表文:《恆存の「鷗外」論(『素材について』)》

「歴史の一貫性」(PP圖參照)

出所:頻繁

PP圖「實在感・時間的全體感獲得の構圖」參照

拙発表文:第二回:『人間・この劇的なるもの』

《フィクションとしての「完成せる統一體としての人格」》PP圖參照

拙発表文:《『せりふと動き』》から

 

 

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設問Ⅰ:「今の時代に於ける『生き甲斐』とは」に關聯しての論究

 

〔前囘の補足:「利己心(A)/大義名分(C”)」について〕

〔難解又は重要文〕P310上下「 」内が恆存文。〔 〕( )内は吉野注。

*「なぜ日本人は利己心が乏しいのか、或は利己心の表出に後めたさを感じるのか。明治維新以後については、それは簡單に理解出來る。黒船に象徴される外敵の壓力に對し急速に中央集權的な近代國家を造り上げねばならぬといふ宿命的な要諦が、利己心(A/集團的自我)をすべて惡しきものとして抑壓した(とは以下枠文參照)。

P310關係論:①西歐近代(物:場 C‘)⇒からの關係:②近代化適應異常的「近代國家造營」⇒「③:利己心(A/集團的自我)」(②的對立概念F)⇒E:③を嫌惡/忌避(滅私A奉公B)」(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒日本(△枠):①への適應異常。

或は利己心(A/集團的自我)は國家(C”)に吸収された時にのみ、身を立て家の名を顯彰するものとして稱美されたのである。隨つて一般の國民は十の國家(C”)意識(B/個人的自我)の蔭にこの利己心(A/集團的自我)が生きてゐる事に殊更氣附かず、私心(A/集團的自我)が零(ぜろ)であると思ひ込んでゐられた。同樣に、マイナス二の利己心(A)〔とは:我欲(A)コンプレクス/利己心(A)を否定する自己(日本の民族性:神道/本能的穢れ忌避=惡しきを『祓ひ清めて』)〕をプラス十の國家(C”:富國強兵)意識(B/個人的自我)と混合して濟せてゐた似て非なる『憂國の士』(福澤諭吉?)も存在し得たのである。このマイナス二〔同上〕の私(A)とプラス十の公(B:即ちB⇒C”富國強兵)とからなる三角形と、プラス二(立身出世主義)の私(A)とプラス十の公(B:即ちB⇒C”富國強兵)とからなる三角形とは、全くの相似形を爲し、互ひに出入り自由であつて、そこには無意識のうちに自己欺瞞(とは以下枠文參照)

參照《日本的精神主義構圖》nihontekiseishinshugikouzu.pdf へのリンク

*「現實(A)的不滿⇒逃げ處としての個人的自我概念(B)⇒C”:自己主人公化(自己完成/絶對的自己肯定)⇔護符(C2)「詩神・護符・後ろ楯の思想」⇒C3:自己滿足・自己正當化(似非生き甲斐・似非實在感)」。

が成立し得たのである」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に「括弧/枠文」で入れてみた。

尚、上記「P310」文に關する前囘論考を再讀し、今囘説明不足を感じたので以下枠文を補足する。緑色は今囘加筆文。

拙発表文《恆存の「和魂洋才」批判について》から抜粋「 」内が恆存文。〔 〕( )内は吉野注。

 

  「和魂洋才は劣等複合」について・・・恆存はかく言ふ「日本の社會科學者のみならず、知識階級一般

は、明治以降、西洋の觀念論といふものにまともに(「眞理の爲の學」として)ぶつかつてゐない。彼等は常に權力の、とは言はぬ、實益の紐附であつた。明治初期においては、西洋の學問はまづ國家有用の實學(護符:C2)として受入れられた(「眞理の爲の學」ではなく單なる「實益のための學」として)。いはゆる『和魂洋才』の説がそれである。(注:それ故に西歐がした「眞理の爲の學」による「神に型どれる人間の概念の探究」としての近代化なぞは無理であつた。精神の政治學ラインは下がらなかつた、と言ふ事になるのでは)。が、それは間もなく挫折する。その挫折を『和魂』の衰弱のためと見るのは俗説である。『和魂洋才』などといふ劣等複合をもつて、『洋才』(護符:C2)の向かうの『洋魂B』(クリスト教)に眞向かうこと(「眞理の爲の學」として)を囘避したことに、そもそもの間違ひがある。その意味では時代の限界を考慮に入れたにしても、福沢諭吉以下の明治洋學者達を、私は高く評價しえない。彼等の多くは、『和魂B』も何もあつたものではない。所詮は地方下級武士の劣等感(「上級武士=出世慾=利己心A」に對する劣等感)に基づいた立身出世主義(プラス2の利己心A)が國家有用の實學(護符:C2)といふ考へと結びついたのに過ぎまい」(全五『論争のすすめ』)と。

 幕末維新時の士族等が抱く愛國心(國家意識)には、「利己心(±の)」が無意識のうちに自己欺瞞」的に混在(『生き甲斐といふ事』P310)してゐたと恆存は言ふ。簡略すると「マイナス2の利己心とプラス10の國家意識からなる「憂國の士」の自己欺瞞(-2A⇒B擦り替へ)」と、「プラス2の利己心とプラス10の國家意識からなる立身出世主義者の自己欺瞞(+2A⇒B擦り替へ)」とが有り、結局は二者ともに、利己心(A)への劣等感(後ろめたさ)が原因の、「國家意識と言ふ名の大儀(C”)的自己犠牲(B)」への逃避であり、どちらもそれは自己欺瞞(A⇒B擦り替へ)でしかないと指摘するのである。

否定しきれぬ立身出世慾(プラス2の利己心A)が鬱勃として有るにもかかはらず、もう一つ心には利己心(A)を否定する自己(マイナス2の利己心A:日本の民族性/神道/本能的穢れ忌避=『祓ひ清めて』)が「無意識のうちに自己欺瞞」的に存在する。その±2利己心A」に彼等は堪へきれず、かつ後ろめたさ(劣等感)からも逃れる爲に、「利己心(A)⇒和魂(B)滑り込みの自己欺瞞⇒C”國家主義」へと、立身出世主義(プラス2の利己心)を變節させる必要が生じた。そして其處に救ひを求めたのだと言ふ事になるのであらう。

  繰り返しにもなるが、上記の劣等感(「上級武士=出世慾=利己心A」に對する劣等感)について恆存は

かうも言ふ。「その利己心(プラス2の利己心A)から逃れようといふ衝動が、幕末維新の混迷に堪へ切れず中央集權的國家(C”)意識(B/個人的自我)に救ひを求めたとも言へる」。そして、さうした衝動の淵源は「本來的には日本の民族性〔とは:神道/本能的穢れ忌避=惡しきを『祓ひ清めて』〕の内に、第二の習性として封建道徳の名殘りとして人々は利己心(A)に對して頗る過敏であつた」(全六P310『生き甲斐といふ事』)處に上げられると。即ち利己心(A)への後ろめたさから「國家C”)意識(B/個人的自我)」、自己犠牲(B)的概念である自我(B:和魂/個人的自我)に逃避したと言ふ事なのである(以下枠文參照)

《利己心(A)を大義名分(C”)でごまかす僞善(P316下)》

『日本的精神主義構圖』:パターン①

〔地方下級武士の、「上級武士=出世慾=利己心(A)」に對する劣等感〕(參照PP圖chihoukaikyubushi.pdf へのリンク

*「現實(A/立身出世)的不滿〔とは:地方下級武士の「上級武士=出世慾=利己心(A)」に對する劣等感(後めたさ/プラス2の利己心/立身出世欲)〕⇒逃げ處としての個人的自我概念(B:自己犠牲/滅私奉公)へ滑り込み⇒C”〔大義名分:プラス10の國家意識(富國強兵)〕⇔護符(C2)「西歐近代國家/後楯の思想(洋才・帝國主義・資本主義等」⇒C3:僞善/自己欺瞞/自己滿足/自己正當化(似非生き甲斐/似非充實感/似非實在感)」。

續く「P311上」の文「社會主義、マルクス主義(C2)は利己心(A)を衝くよりは、國家(C”)に代る、そして國家(C”)より大きな上位概念(C2)を人々に突き附ければ充分であつた。・・・」云々は、上枠文〔地方下級武士の、「上級武士=出世慾=利己心(A)」に對する劣等感〕(參照PP圖chihoukaikyubushi.pdf へのリンクと、相似形(類似構圖)であり、別評論で恆存が謂ふ、以下『日本的精神主義構圖』(參照PP圖nihontekiseishinshugikouzu.pdf へのリンクの同一線上にあると理解出來る。

拙發表文:《『日本の知識階級』》より抜粋

 恆存は、「日本の知識階級は言はば絶對的自己肯定者(C”自己主人公化)として終始してきた」と看破し、「私小説家・近代日本知識人、その典型としての清水幾太郎」の三者を、いずれもパターンは以下の「日本精神主義構圖」だと言つてゐる。

《利己心(A)を大義名分(C”)でごまかす僞善(P316下)》

『日本的精神主義構圖』:パターン②⇒參照PP圖nihontekiseishinshugikouzu.pdf へのリンク

*「現實(A)的不滿⇒逃げ處としての個人的自我概念(B)⇒C”〔大義名分:自己主人公化(自己完成/絶對的自己肯定)〕⇔護符(C2)「詩神・護符・後ろ楯の思想」⇒C3:自己欺瞞・自己滿足・自己正當化(似非生き甲斐・似非實在感)」。

 前囘レジュメにも、「P311上」文の類似構圖を記載したが、再度解り易く記述する。

《利己心(A)を大義名分(C”)でごまかす僞善(P316下)》 

『日本的精神主義構圖』:パターン③ 

〔大義名分(C”):生き甲斐(幕末維新に於ける「國家」の代はり)〕
參照PP圖
taigimeibun.ikigai.pdf へのリンク

*「現實(A利己心)的不滿〔後めたさの「プラス2(立身出世欲)/マイナス2(日本の民族性)」の利己心〕⇒逃げ處としての個人的自我概念(B:自己犠牲/他者愛)⇒C”〔大義名分:生き甲斐(幕末維新に於ける「國家」の代はり)〕/『安全装置』/自己主人公化/絶對的自己肯定〕⇔C”への護符(C2)〔上位概念:世界/社會/階級/社會主義/マルクス主義/民主主義/ヒューマニズム〕⇒C3〔自己欺瞞・自己滿足・自己正當化(似非生き甲斐/似非充實感/似非實在感)〕」。

 要するに、自己欺瞞の各類似『日本的精神主義構圖(①②③)』では、「生き甲斐/充實感/實在感」は得られないと言ふ事だ。即ち「生き甲斐」は、恆存各評論に據れば、「AB(精神の政治學)ライン最下降:西歐近代化構圖」(PP圖「近代化の説明」參照kindaikanosetumei1.pdf へのリンク)上の、全體C⇒宿命D1⇒自己劇化D2⇒生き甲斐(充實感・實在感D3)のプロセスで獲得出來るもの、と小生は理解する(以下枠文參照)。

〔「生き甲斐/充實感/實在感」關聯文(關係論)〕

#藝術とはなにか #宿命

  #絶對#全體(自己を超えたる何か)⇒からの關係(②#必然感#宿命感#全體感#實在感)⇒②的概念(#

日常性&無際限な平板さからの脱出)⇒②の行爲が#演戯(#藝術)⇒①への適應正常(生き甲斐獲得)。

參照:「私たちの意識は平面を横ばいする歴史的現實(過去・現在・未來といふ時間的繼續:吉野注)の日常性からその無際限な平板さから起き上がらうとしてたへずあがいてゐる」「その(起き上がるための)行為が演戯(型=祭祀/儀式)」(『人間・この劇的なるもの』P532)

 

〔難解又は重要文〕P316上「 」内が恆存文。〔 〕( )内は吉野注。

*「最も見逃し得ぬ事は、左右を問はぬ、人々の提唱する生き甲斐は人間の利己心(A)と眞向うからぶつかる事を避けてゐる(とは以下枠文參照)事である。日本人の高々プラス二程度の新芽に過ぎぬ弱い利己心(A)にしても、それを自覺させぬ樣な安全装置(以下枠文參照)を生き甲斐と稱して手近な處に求めさせようとしてゐる事である。

《利己心(A)を大義名分(C”)でごまかす僞善(P316下)》 

『日本的精神主義構圖』:パターン③

〔大義名分(C”):生き甲斐(幕末維新に於ける「國家」の代はり)〕
參照PP圖
taigimeibun.ikigai.pdf へのリンク

*「現實(A利己心)的不滿〔後めたさの「プラス2立身出世欲)/マイナス2(日本の民族性)」の利己心〕⇒逃げ處としての個人的自我概念(B:自己犠牲/他者愛)⇒C”『安全装置』〔大義名分:生き甲斐(幕末維新に於ける「國家」の代はり)〕/自己主人公化/絶對的自己肯定〕⇔護符(C2)〔上位概念:世界/社會/階級/社會主義/マルクス主義/民主主義/ヒューマニズム〕⇒C3〔自己欺瞞・自己滿足・自己正當化(似非生き甲斐/似非充實感/似非實在感)〕」。

それよりは左右いづれにせよ、萬人のうちに潛むプラス二程度の微弱な利己心(A)の存在に氣附かしめ、それ(利己心A)が五にも十にも伸びる可能性(とは「ゆがんだ權力慾/權力思想:A」:以下枠文參照)を知らしめ、・・・」(下項へ)

#エゴイズム #生の意欲の湧出(『白く塗りたる墓』)

關係論:①神の死(絶對喪失)⇒からの關係:(宿命喪失)⇒宿命喪失概念(②#エゴイズム(A) #集團的自我)⇒②の處理(②否定で #個人的自我(B) を「社會への有用性/ゆがんだ權力慾A」に繋ぐか、②を生命欲と肯定するか)⇒①への適應。

 

拙発表文:《恆存著『ロレンスⅠ』》から「 」内が恆存文。〔 〕( )内は吉野注。

〔抑壓された我意(A:利己心/エゴイズム)が辿る二つの噴出口(ゆがんだ權力慾A:①弱者の歪曲された優越意思/②社會正義)〕
① 
クリスト教徒の愛の不可能性・・・クリスト教徒はその精神(B)主義が故に、滿たされぬ「集團的自我(A)」の慾求、即ち「抑壓された我意(A)=弱者の歪曲された優越意思(A)」から、自己愛(我意A)を他者愛(B)と自己欺瞞する陥穽が待ち受けてゐる。個人的自我(純粋なる個人:B)に潜り込み、其處で演じられるのは他者愛(B)ではなく、抑壓された我意(A)の變移した「ゆがんだ權力慾(A)」としての我意なのである。「他人を支配しようとする我意(A)であり、それは純粋なる個人(B)などといふものでは毛頭ない」と言ふことになる。もつと有り體な言葉でいへば、「慈悲だ、他者愛(B)だ、自己犠牲(B)だと、ご當人が純粋なる個人(B)から發するものと思ひ込んでいたものが、おつとどつこい、只のお爲ごかし、所詮は自己愛(A)が出所の自己滿足でしかないしろものだつた」といふことであらう。

②「抑壓された我意(A)はゆがんだ權力慾(A)へと噴出口を求める」について(エゴイズムから「社會正義」に自己欺瞞)・・・

*近代自我の必然として露呈したエゴイズム(個人主義は畢竟エゴイズムA)⇒個人の敗北⇒近代自我(個人主義)の限界と凋落⇒個人の権威の否定⇒個人主義の超克⇒「個人(B)的價値に對する社會(A)的價値の優位」⇒個人(B)は社會(A)への有用性としての價値へ轉落⇒社會正義のお面⇒自己全體化(自己主人公化)。(全一P65『現代日本文學の諸問題』・『小説の運命Ⅰ』他から)。

*「もし神(C)に從屬する自己(B)といふものの存在する餘地を残しておかなければ、支配する相手も、仕へる對象もない(個人主義の)世界では、支配=被支配の自己(A)はいたづらに髀肉の嘆をかこつのみで、やがては醜い權力慾(A)の吐け口に轉じはしないだらうか。いや、これはたんなる豫測ではない――個人の純粋性(B個人的自我)が社會(A)の合理化に追ひ詰められて詰め腹を切らされたとき、個人主義は權力(A)思想として登場せざるをえなくなつた」(昭和二十二年四月著『近代の宿命』全2:P458)。

*「ひとびとはあらゆる個人的價値(B)の底にエゴイズム(A)を見、それゆゑに個人(B)は社會(A)の前に羞恥する。が、現實を見るがいい――社會正義といふ観念の流行にもかかはらず、現實は醜悪な自我(A)の赤裸々な鬪爭の場となつてゐるではないか、いや、なほ惡いことに、あらゆる社會正義〔とは:「個人(B)的價値に對する社會(A)的價値の優位」〕の裏口からエゴイズム(A)がそつとひとしれずしのびこんでゐる。當然である――いかに抑壓しようとしてもけつして消滅しきれぬ自我(集團的自我A)であり、それゆゑに大通りの通行禁止にあつてみれば、裏口(社會正義)にまわるよりほかに手はなかつたといふわけである」(全一P650『一匹と九十九匹と』)。

即ち、個人主義者は集團的自我(「支配=支配の自己」:A)の場で、「社會正義」のお面を被るしか、近代自我の必然として露呈したエゴイズム(A)の逃げ場(「醜い權力慾の吐け口」)を見出す手立てがなかつたのである。

換言すれば、「個人の純粋性(個人的自我B)が社會の合理化〔とは:個人(B)的價値に對する社會(A)的價値の優位〕に追ひ詰められて詰め腹を切らされたとき(テキストP8圖)、個人主義は權力思想として登場せざるをえなくなつた」(『近代の宿命』全2:P458)と言ふ事になる。最早「社會正義」と言ふ別名の「社會への有用性」にしか個人主義はその生き延びる道を失つたのである。

(上項からの續き)「それ(利己心A)を自他に向つて蔽ひ隱すに足る立派な『蓋』〔とは否定因(神C):參照文「神(C)なくして個人の権利(A)を主張し得ない。それをあへてなすことは惡徳である」(『近代の宿命』)〕が手近に見當らぬ事を悟らせて愕然とさせるに若(し)くは無い。さもなければ、日本人はいつまでも利己心(A)を大義名分(C”)でごまかす僞善(上述:三つのパターン)から抜け切れぬばかりでなく、社會機構が複雑になり政治、經濟、社交(社會的自我A)を通じて外國人と接觸する機會が多くなるに隨つて、手近な大義名分(C”)ではごまかし切れぬほどに利己心(A)の方がどうにも手に負へぬ大きなもの〔とは上枠文:ゆがんだ權力慾/權力思想(A)〕になつて行くであらう」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして、更に加へて、以下の問題を論考してみた。

*では、日本人特有なる「利己心(A)と真向うからぶつかる事を避けてゐる」「利己心(A)を大義名分(C”:生き甲斐)でごまかす僞善」(P316上下)なる、「利己心(A:エゴイズム)」に對しての、解決策(即ち:眞の生き甲斐)は、どうしたらよいのか?(以下枠文參照)。

PP圖「彼我の差」higanosa.sozai.pdf へのリンク參照  
PP圖「漱石」souseki.pdf へのリンク參照(内容:近代ヨーロッパの作家達が直面したもの)

 

(西歐)十九世紀後半の自然主義作家達の辿つた道(詳細は次の枠文參照)

近代自我の必然としてのエゴイズム(個人主義は畢竟エゴイズム)⇒「個人主義否定」⇒「B(精神/個人的自我)⇒理想人間像(C)」を護持。個人的自我(B)は、個人の純粋性(B)としての静謐を保ち、「絶對・全體(C)」へとそれを繋いだ。「ABライン最下降:西歐近代化構圖」(PP圖「近代化の説明」參照)。

恆存の提言する道

*そして、日本的「個人主義の超克」を、恆存は、「完成せる統一體としての人格」論の「關係と言ふ眞實を生かす」で、示したと理解出來る。即ち、「完成せる統一體としての人格論」(PP圖new.kanseiseru.pdf へのリンク參照)に則り、「關係と言ふ眞實を生かす(D2の至大化)」の最終到達點が、「絶對(C)・全體(C:空間的/時間的)」なのだと。

尚、參考として、「西歐近代作家」他の解決方法(思想)を、以下(次の枠文參照)に擧げる事とする。

 つまり、彼等は、日本的後めたさの利己心(A)⇒逃げ處としての個人的自我概念(B:自己犠牲/他者愛)⇒C”『安全装置』〔大義名分:生き甲斐〕、の僞善(自己欺瞞)ではなく、「スペイド(我意/利己心A)をスペイド(我意/利己心A)とはつきり」認め、科學の實證精神で、自然に對すると同樣に、自我の必然に、己がエゴイズム(A)に果敢な鬪爭を開始し、それを攻略(即ち:生き甲斐)せんとこころみ」たのである(以下枠文參照)。PP圖「彼我の差」higanosa.sozai.pdf へのリンク參照

拙發表文:《『現代日本文學の諸問題』》から「 」内が恆存文。〔 〕( )内は吉野注。

PP圖「漱石」souseki.pdf へのリンク參照(内容:近代ヨーロッパの作家達が直面したもの)

 

*「十九世紀後半から二十世紀にかけてヨーロッパの作家達が直面したものはなにかといへば、それは、自然に對して人間の自主性を奪取せんとした科學の實證精神が、そのあくなき切先を人間性(A&B)そのもの、自我(A/B)そのものにさしむけたところ(果敢な鬪爭)に明瞭な姿を見せることとなつたエゴイズム(A)にほかならなかつた」(中略)「ヨーロッパの近代作家たちは自然の法則を發見したとおなじやうに自我の必然を發見したのであつたが、それゆゑに自然に對すると同樣に、自我の必然に、己がエゴイズム(A)に果敢な鬪爭を開始し、それを攻略せんとこころみてゐる。リアリズムはそのための武器であり、外形の無關心さにもかかはらず、その底には激しい社會的な文化意思が隱されてゐたのである」(『近代日本文學の系譜』P21)。

*「(西歐)十九世紀後半の自然主義作家にとつて、資本主義社會(A)は彼等の自我(A’)を實生活(A)において拒絶し扼殺するほどに堕落し硬化したのであり、しかもこの社會(A)的事實を彼等ははつきり凝視し、さらにこれを自己(A’)のものとして――いはば社會(A)の醜惡と痼疾とを自己(A’)のそれとして〔とは「A=A’」として:即ち社會(A)の醜惡と痼疾を自己の「エゴイズム(A)と虚榮と俗惡とのかたまり」(P20)として〕受け容れたのであつた。またそれゆゑの嚴しい自己否定(その對抗としての「B⇒C:理想人間像」)でもあつた。彼等の自我(A/B)はもはや作品(B)以外に主張と正當化との場所(B⇒C:理想人間像)を見いだしえなかつたのである〔とは:「(B個人的自我の)可能性の天窓は一分のすきもなく完全にとざされ」と同意〕」(『近代日本文學の系譜』P19)。

*西歐リアリズム作家(フローベール)・・・「(左記)リアリストたちがさういふ近代自我(個人主義)に幻滅と絶望とを感じた〔とは「個人主義は畢竟エゴイズム」:社會(A)の醜惡と痼疾を自己の「エゴイズム(A)と虚榮と俗惡とのかたまり」(P20)として〕受け容れた〕とすれば、ぼくたちはその絶望を可能ならしめたものとして、かれらの夢想してゐた自我の内容の高さと深さ〔とは:上記傍線部分〕とに想ひいたらねばならず、その背景に發見されるものは神(C)でなくしてなんであつたらうか。そして十九世紀末葉から現代にかけて、かれらの精神が『現代人の救ひ』を求めつつ漂泊をつづけてゐるとすれば、それは實證主義がかれらの自我の内から追放した神(C)に型どれる人間の概念の探究でなくしてなんであらうか」(『現代人の救ひといふこと』P637下)。

 

(上記文に對するに)

拙發表文:《『現代人の救ひといふこと』》から。一部削除加筆「 」内が恆存文。〔 〕( )内は吉野注。

*それに引き換へ、日本人はクリスト教の絶對神による「歴史の統一性と一貫性」とを持たぬ爲、クリスト教の理想を現實世界に客體化せんとする、實證精神の強靱性(「神に型どれる人間の概念の探究」)と言ふものをもやはり養ふことが出來なかつた。と同時に近代に於ける西歐精神の行き詰まり、「個人主義の限界」とそれが齎す精神の不救による絶望感(自己喪失)と言ふものも、精神的問題として當然無く、理解すらも出來ないのが現實であつた。即ち「絶望(F)の深刻〔とは上記文:「社會(A)の醜惡と痼疾を自己のそれ(「エゴイズムAと虚榮と俗惡とのかたまり」)として受け容れた嚴しい自己否定」〕をなめさせられる(F⇒Eの至小化)ほど強烈な夢(前提/價値觀。:C‘)も理想(前提/價値觀。:C‘)ももつてはゐない〔とは:夢・理想(前提/價値觀。:C‘)があつての、「絶望(F)の深刻」成立と言ふ事〕。にもかかはらず、(彼我の差を辧へず、パラレルに近代化の一つと安直《日本的土壌=距離測定能力缺如》に受け留め)、絶望(F)の身ぶり(E)を愛し(F⇒Eの至大化)、救ひを口にし、文學(B)に救ひをはせる」。その「文學(B)すらも文明開化の出世主義(A)のネガティーブな吐け口に」なつてしまつてゐたと言ふ風にである。

要するに日本人の絶望は、西歐精神が逢着した、精神(B)の不救(上述:「嚴しい自己否定」)による絶望ではなく、單なる「物質(A)喪失」の問題で、故に「ぼくたち(日本人)のうちに政治(A)では救ひえぬどんな苦悩が存在してゐるといふのか」と言ふ事になるのである。恆存は更に言ふ、「ぼくたち(△枠)は今日の現實を惡(F)と見なし(Eの至小化)、堕地獄(F)と觀ずる(Eの至小化)前提(價値觀。: C‘)として、いかなる善(前提/價値觀。:C‘)も、いかなる天國の夢想前提/價値觀。:C‘)も、そして救ひの手をさしのべる神(前提/價値觀。:Cも、一切もつてはをらぬのだ」と(以下枠文「關係論」參照)。究極なる理想或は絶對的理想(神)を持ち得ずんば、眞に絶望もしえぬと言ふことか。神(C)無きが故に(絶對の観念を持ち得ぬ國民性が故に)、我々日本人の人生、自我は絶望の對象たる資格を持ち得ぬと。すなはち相對にて解消される。「眞に絶望しえぬことの悲しみは、じつはぼくたちが神(前提/價値觀。:C)をもたず、ゆめ(前提/價値觀。:C‘)をももちえぬこと」に歸來する、と恆存は言ふのである。(『現代人の救ひといふこと』P637)

關係論:①現實(物:場 C‘)②前提(價値觀。: C‘)③(前提/價値觀。:C‘)④天國の夢想(前提/價値觀。: C‘)⑤神前提/價値觀。:C⇒からの關係:⑧は今日の①を⇒「⑥惡(F)⑦堕地獄(F)」⇒⑥と見なし(Eの至小化)、⑦と觀ずる(Eの至小化)②として、いかなる③も、いかなる④も、そして救ひの手をさしのべる⑤も、一切もつてはをらぬのだ(D1の至小化)⇒⑧ぼくたち(△枠)。

 

:此處で恆存は、以下「言語觀」の變奏を謳つてゐるやうに思へる。

場(C’)から生ずる、 「關係(D1)と稱する實在物は潜在的には一つのせりふ(言葉F)によつて表し得る」。故にその言葉(F)との附合ひ方、扱ひ方(F⇒Eの至大化)によつて、人間は場(C’)との關係の適應正常化(D1の至大化)が叶へられる」と言ふ事になる。

*言葉(惡/堕地獄:F)の當否(Eの至大化/Eの至小化)は、前提(價値觀/場 :C‘)との關係(D1)に大きく歸因する。

*言葉(惡/堕地獄:F)を正しく觀ずる(F⇒Eの至大化)には、前提(價値觀/場 :C‘)との關係(D1)を見極める(D1の至大化)事が必要(つまり:Eの至大化=D1の至大化)。

以下參照

拙発表文:《『人間の生き方、ものの考へ方』講義1「惡に耐える思想」P27》一部修正

關係論:①假説(價値觀/前提。場: C‘)②約束(假説/價値觀/前提。場: C‘)③現代(前提。場: C‘)⇒からの關係:「◎:例へば一つの①に立つて(D1)」⇒「言葉F:④ナセルのナショナリズム(F)⑤ナショナリズム(F)」(◎的概念F)⇒E:④を認める(Eの至大化)ことが許されるならば、それとは違つた生き方(主觀/教養:E)を①として、⑤の善惡を決める行き方(Eの至大化/Eの至小化)も當然認められる。どちらだつて(④だらうが⑤だらうが)かまはないではないかといふことになつてくる。ニヒリスティック(Eの至小化)になり、絶望的(Eの至小化)になつて、一體何(F)が眞實だかわからない(Eの至小化)所に一應行きつく。しかしそれ〔善惡(F)の混迷(Eの至小化)〕が如何に絶望的(Eの至小化)であつても、私(恆存)はどうしてもそこ〔とは:「假説(價値觀/前提)による善惡の混迷」〕〔即ち:言葉(F:絶望)或は情況(絶望的:Eの至小化)を判斷するには、假説(價値觀/前提。場: C‘)との關係を見極め(D1の至大化)なければならない〕に行きついた(Eの至小化)上でものを考へなければ(Eの至大化)いけないと思ふ。だが⑤は皆勝手(D1の至大化)に、知らないうちにある②を受け入れて(D1の至小化)、その(②)通り(D1の至小化)に言葉(F)を用ゐて怪しまない(Eの至小化)のです。③における混亂(D1の至小化)のすべての原因(D1の至小化)は、ここ〔假説/價値觀/前提(場: C‘)不問(D1の至小化)による、言葉(④⑤)との距離不測定(Eの至小化)〕にある」(④⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑤人々(△枠):①②③への適應異常。

 

「エゴイズム解決」の各人方法(思想)「 」内が恆存文。〔 〕( )内は吉野注。

D・Hロレンス 

 

拙発表文:《恆存著『ロレンスⅠ』》から 評論『アポカリプス』 
PP圖apokaripusu.pdf へのリンク參照

*「スペイド(我意A)をスペイド(我意A)とはつきり宣言しないで、自分たちのうちの我意を愛他思想(B)のうちにひつくるめてしまはうとするからこそ、抑壓された我意(A)はゆがんだ權力慾(A)へと噴出口を求めるのである」(P39~40)。

*「愛(即ち:A利己心/エゴイズム)は迂路をとらねばならぬ」と言ひ「その迂路をば宇宙の根源(コスモス:C)を通じること」。

#エゴイズム と #

關係論:①神の死(絶對喪失)⇒からの關係(宿命喪失)⇒②#個人主義(宿命喪失概念)⇒②は愛しえない 。愛は日輪へ迂路を通し、始めよ(#アポカリプス)⇒①への適應正常(神に代はる否定因「コスモス」に據る愛の復活)。

〔恆存の言ふ、西歐近代自我(個人主義)の末路〕

西歐近代=「神の死」即ち「神意(宿命)喪失」⇒神の代はりに自己の手による宿命演出⇒自己主張(自己表現)・自由意思(人間いかに生くべき)⇒自己完成(自己主人公化・自己全體化・自惚鏡)⇒自己陶酔・自己満足・自己絶對視・自己證明による「似非實在感」⇒エゴイズム(A:近代自我の必然)⇒自己喪失(自己への距離感喪失)。

 

西歐十九世紀「近代自我=個人主義」の結論は以下の通り

近代自我の必然としてのエゴイズム(個人主義は畢竟エゴイズムA)⇒個人の敗北⇒近代自我(個人主義)の限界と凋落⇒個人の権威の否定⇒個人主義の超克⇒「個人(B)的價値に對する社會(A)的價値の優位」⇒個人(B)は社會(A)への有用性としての價値へ轉落。

 

拙発表文:《「さうありたい自己」を關係論で再探究する》から

*フローベール・チェーホフに共通するもの、それは「個人主義否定」と言ふ事である。彼等の精神には、その神に叛逆せる時代(近代)にありながら、なほ「B(精神)⇒理想人間像(C)」を護持せんとする確信と意慾があるのが窺へる。とはつまり、個人的自我(B)は、個人の純粋性(B)としての静謐を保ち、「絶對・全體(C)」にそれを繋いだ、と言ふ事なのである(著『批評家の手帖』『小説の運命』『理想人間像』から)。

フローベール PP圖「チェーホフ/フローベール」參照chehou.huroveru.pdf へのリンク

 

全一P65『現代日本文學の諸問題』・『小説の運命Ⅰ』他から

*個人主義は畢竟「利己心(A:エゴイズム)」と、幻滅/絶望し、故に「B(精神/個人的自我)」を理想人間像(C)」に繋いだ。即ち「神(C)に型どれる人間の概念の探究」(詳しくは以下)。

*近代自我の必然としてのエゴイズム(個人主義は畢竟エゴイズム)⇒「個人主義否定」⇒「B(精神)⇒理想人間像(C)」を護持。個人的自我(B)は、個人の純粋性(B)としての静謐を保ち、「絶對・全體(C)」にそれを繋いだ。

 

拙発表文:《『現代人の救ひといふこと』》から「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

*フローベールについて、恆存が書いてゐる事を纏めるとおほよそかうである。

個人主義の限界が故に、フローベールは「自我は信ずべきなんらの眞實性をももつてゐないといふ地點からしごとをはじめ」、いはば「不救」に漂泊する彼の「神に型どれる人間の概念の探究」として、その確立した小説スタイルこそは「心理主義小説」なのであつた。

それは「自我の人間的慾求に深く根ざしてゐる」處のものである。彼にとつてはその完成(神を語らずして神を語つてゐるスタイル)が、實證主義が追放した神に代はるべく「完全なる世界を獲得する唯一の手段」となつてゐたのである。ただ「神に型どれる人間の概念の探究」をしながらそれ(C:神)を語らぬその理由を恆存はかう表現してゐる。「一片の虚妄にすぎぬと承知してゐればこそ、かれは自己の理想人間像(C:夢想)を語りはしなかつたのであるが、同時に、その理想人間像があつたればこそ實證精神をしてあれほどまでに自我(自己の代理「集團的自我:A」としてのボヴァリー夫人)を斬りさいなむことを許したのである」と。(全一P475『理想人間像について』)。何處にも神を語つてゐないあの小説スタイルこそが「神に型どれる人間の概念(理想人間像)の探究」なのだと、恆存は言つてゐるのである(P637下)。――(後略/參照)。

チェーホフ  PP圖「チェーホフ/フローベール」參照chehou.huroveru.pdf へのリンク

 

拙発表文:《「さうありたい自己」と「個人主義」を關係論で再探究する》他から

PP圖「さうありたい自己」參照souaritaijiko.pdf へのリンク

〔チェーホフ思想〕

個人主義を、以下の「自己滿足」〔換言すれば利己心(A:エゴイズム)〕と見なし(即ち:個人主義は畢竟エゴイズム)、個人的自我(B)は、個人の純粋性(B)としての静謐を保たせ、「無執着:C(絶對/全體)的概念」へと繋いだ。

〔チェーホフの「個人主義」否定〕

*「個人主義」觀・・・「手本(C’)⇒願望(自己解釋D1)⇒模倣D2⇒それに辻褄を合はせようとする(生甲斐=居心地の良さ=自己滿足D3)」。

*(個人主義が主張した)「自己表現(自己主張:D2)、あるいは自己解釋(D1)といふのは、自分がさういふもの(C’化:自己全體化・自己主人公化・自己完成)であるといふことを意味しない。ただ自分はさうありたい(願望D1⇒模倣D2)といふだけのことだ」(『批評家の手帖』P81)。

*恆存曰く、「チェーホフ劇は『獨り合點』(自己解釋:D1)を描いてゐる芝居」と。「『櫻の園』は喜劇」 (昭和四十三年、劇團昴稽古初日の演出の辯だと。つまり、「手本(C’)⇒願望(自己解釋D1)⇒模倣D2⇒それに辻褄を合はせようとする(生甲斐=居心地の良さ=自己滿足D3)」、『獨り合點』(自己解釋D1)の喜劇なのだと。それを新劇團は、左派は左派なりに都合良く取り違へてゐると(PP圖「さうありたい自己」souaritaijiko.pdf へのリンク參照)。

*「トルストイ影響脱出後の、(B空家/神C不在)としての精神B」⇒「無執着:C」。結果としての個人主義否定。

《トルストイの「精神B主義」の影響から脱皮》

「トルストイがチェーホフを『空家』(擴大B空白)にして去つた」、その空家(擴大B領域)に、クリスト教の代はりに「教養ある自由人の觀念」「無執着(C的概念)」が引越してきたと恆存は言ふ。つまり、医者としての實證精神(A‘⇒A)が持つ「監視の眼」で『空家』(B空白)を狹小化(精神の政治學ラインの最下降化)。そして結果としての個人主義否定(全二P179『チェーホフ』參照)。

福田恆存

 

「完成せる統一體としての人格」論

*日本的「個人主義の超克」を、恆存は、「完成せる統一體としての人格」論の「關係と言ふ眞實を生かす」で、示したと理解出來る。即ち、「完成せる統一體としての人格論」(PP圖new.kanseiseru.pdf へのリンク參照)に則り、「關係と言ふ眞實を生かす(D2の至大化)」の最終到達點が、絶對C・全體(C:空間的/時間的)なのだと。

「完成せる統一體としての人格」論(「X」から轉載)

關係論:①場〔歴史(時間的全體),自然(空間的全體)から生ずる關係(#文化)⇒②文化的概念(假面:#保守 #禮節)⇒②との附合ひ方を場へ反映⇒#人格成立:への適應正常。

夏目漱石 PP圖「漱石」souseki.pdf へのリンク參照  
森鷗外 PP圖「鷗外論1頁」ougairon1.1-4.pdf へのリンク參照

 

*「鷗外・漱石の意識してゐたものは、彼等の言説のいかんにかかはらず、要するにヨーロッパ人になることであり、ヨーロッパ精神を身につけることであり、さらにヨーロッパ流の文學概念( 「彼我の差」PPhiganosa.sozai.pdf へのリンク)を確立しようとすることにほかならなかつた」 ( 『文學史觀の是正』P358)。

*「彼等(鷗外・漱石)がともに西歐文學の傳統( 「彼我の差」PP圖)を深く理解してゐたこと、この傳統のそとには自己の作家活動はもとより個性の完成すらもちえなかつたことが考へられる」(『近代日本文學の系譜』P20下)。

 

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再論究:全集第六巻所収【『續・生き甲斐といふ事』――補足として(昭和四十六年一月)】

 

〔難解又は重要文〕P321上 以下「 」内が概ね恆存文。( )〔 〕内は吉野注。

*「大衆社會の出現と共に何かが失はれたのではない、初めに大事な何か〔とは:文化(D1)〕が失はれた、その弱點が大衆社會の出現と共にはつきりして來たといふ事に過ぎまい。大衆社會そのものが空虚なのではなく、文化(D1)を失つた(D1の至小化)大衆社會が空虚なのである。文化(D1)の無い社會は大衆社會であらうがなからうが空虚である事に變りはない。が、今日のそれは經濟的繁榮と政治理念の喪失から生じたのではなく、明治以來、徐々に行はれて來た傳統文化の破壊から生じたのである。それを救はうとして、抽象的な生き甲斐や價値觀を模索しても徒勞であらう」「人々は横の連帶感の喪失には氣附いてゐる樣だが、縦の連帶感〔とは:歴史(時間的全體)⇒から生ずる關係(文化)〕の喪失にまでは氣附いてゐない樣に思はれる。が、前者は後者による當然の歸結なのだ。それにも拘らず、過去との時間的連帶感〔同上〕を否定し拒絶する事によつて現代の連帶感、共同體意識が確立できるといふ誤解(相對主義の泥沼)が支配的である」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。更には以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。

上記の「文化喪失」、及び「明治以來、徐々に行はれて來た傳統文化の破壊」「過去との時間的連帶感」關聯を、各評論から追ふと以下の樣(「X」から轉載「關係論」)になる。

 

著 文化とはなにか

關係論:①歴史(時間的全體)⇒から生ずる關係(文化)⇒文化的概念(②言葉・事物等)⇒②との附合ひ方(#教養 生き方・樣式・美意識・禮儀作法・国語正統表記・有機的祝祭日)日本人(への適應正常)。

拙発表文《再論考:「完成せる統一體としての人格」論》より 

關係論:①#敗戦:絶對(#天皇)喪失⇒からの關係(②:#相對主義の泥沼 #文化荒廢)⇒「③:言葉・物(F)」(②的對立概念)⇒③との距離感喪失(Eの至小化)即ち、#美意識(倫理代替)喪失 # #禮節等,喪失(Eの至小化)〕⇒#現代日本人の非倫理的性格(△枠)(①への適應異常)。⇒復興:④形構築〔手を觸れ心を通はせる形(⑤との距離感獲得:Eの至大化):即ち、仕來り/禮節/謙譲/國語正統表記/美意識/祝祭日/祭祀、等の復活(Eの至大化)」⇒「⑤:物(人・言葉:F)」(⑥的概念F)⇒⑥:文化再生(D1の至大化)・愛國心〔防衞心・保守:國への關係(D2の至大化)形成〕⇒國(C‘)歴史(C)。

#傳統にたいする心構』#

#歴史(#時間的全體)⇒から生ずる關係(①#傳統 #伝統 #文化)⇒①的概念(# #生き方 #様式 #仕来り #美意識 #礼儀 #謙譲⇒①との附合ひ方(#国語 #正統表記 有機的 #祝祭日)⇒#日本 および #日本人。

#新漢語の問題 #正統表記 #日本語

#歴史(時間的全體)から生ずる關係(文化)⇒①の根柢(②#言葉)⇒②への用法「國語正統表記」が #文化 #思考力 #道徳 #人格 の護持不自覺、即ちへの適應異常こそ #近代化失敗 の末期症状。

#日本および日本人』#倫理

#敗戦:絶對(#天皇)喪失からの關係(#相對主義の泥沼 #文化 荒廢)文化荒廃的概念〔②#美意識(倫理代替)喪失 # #礼節 喪失〕⇒②への非對應が #現代日本人の非倫理的性格 即ちへの適應異常。

『日本民族國家の形成と天皇御存在の意義』

神道・自然・日本歴史(空間的・時間的全體)から生ずる關係(日本文化繼承)⇒①言葉・四季のリズムに則る祭日(形)⇒①に對する天皇の公的行爲・祭祀天皇(日本文化の體現者)。

 

拙発表文:《『傳統にたいする心構』》から

*恆存は文化を「歴史(C:時間的全體)⇒文化・傳統(D1:關係)⇒制度・仕來り・儀式・藝術・風俗・思想・道徳等々(集團的自我上・個人的自我上)への現象化」と言ふ圖で捉へてゐる。そして「文化(D1)とは生き方(對象・言葉に對する距離測定能力確保:Eの至大化)」に反映されるものと見てゐる。そして「心の生き方をよく心得る」と言ふ事は、その含む内容は、別評論で恆存が書いてゐる「コンシャンス(良心・自覺)」と言ふ事をも意味してゐて、やはりそれは同じく「對象・言葉との距離測定能力確保=Eの至大化」の意に通じて來ると小生には思へるのである。P190上の、「文化(D1)があり、傳統があるところでは、社會が、家庭(即ち仕來り)が、それ(生き方)を教へてくれる」の文は、その事を言つてゐる樣に思へる。

 

拙発表文《再論考:「完成せる統一體としての人格」論》より

*「愛國心(國への關係)の場合も道徳觀の場合も、その前に先ず物(言葉F)を、それも生きてゐる物(F:心を通はせられる物)を必要とします。人々の求めてゐるものは「期待される人間像」などといふ抽象的理想(C)ではなく、もつと具體的な存在、即ち吾々が手を觸れ、心を通はせる(Eの至大化)事の出來る物(物F⇒Eの至大化)〔とは、言葉(物/人:F)への距離感(Eの至大化):つまり、生き方・仕來り・風習・形・様式・言葉遣ひ・美意識・禮節・祭祀、等(Eの至大化)〕そのものなのです」(『傳統技術保護に關し首相に訴ふ』P42)。

*以下は上文と同樣な内容であるが、重要なので「小生注」を附記して記載する。

「民主主義も人権尊重(當論では『愛國心』)も單なるハイカラな概念(F)としてでなく、常識(Eの至大化)として、即ち文化(D1の至大化)として空気の如く(「文化は生き方」の如く)周囲に存在する樣になれば〔とは:形(仕來り/美意識/禮節等)の活性(Eの至大化)=文化の釀成(D1の至大化)の如く、その雰圍氣の周囲に存在する樣になれば〕、たとへ讀み書き算盤だけの知識〔參考文『ローカル電車に乘つてゐた老婆の常識(Eの至大化)』と同意〕でも近代人(△枠)として立派に生きていけるのです」(『教育改革に關し首相に訴ふ』)。

 

設問Ⅱ:西歐に於ける「生き甲斐喪失/混迷」の問題

*この樣な大きな問題に容喙出來るほどの能力は、小生には持ち合はせてゐない。それでも敢へて考へるなら、以下内容に西歐人は自信を持つて「歴史の一貫性」(PP圖參照2page.rekishinoikkansei.pdf へのリンクを繼續探究して行くべき、かと。

以下「 」内が概ね恆存文。( )〔 〕内は吉野注。

 

*「近代化といふのは、先進國からでたものですが、近代化を作つたものは何かと言ひますと、やつぱり過去の歴史の動き(クリスト教の連續性、一貫性、統一性?)、生命力ですね。一つの共同體(クリスト教文化圏?)があつて、その共同體も個人も強い生命力を持つてゐて、無目標で動いていくうちに、近代化といふ一つの道ができたわけなんですね」〔單:『生き甲斐といふ事』對談「近代化について」P173~4より〕。

*歴史の意識(西歐)・・・「絶對者のないところに歴史はありえない」。クリスト教の絶對神による「統一性と一貫性との意識が人間の生活に歴史を賦與」した。⇒そしてその神(絶對者)そのものが「近代を過去のアンチテーゼとして成立せしめる歴史的一貫性」を形作つた。即ち西歐近代は「反逆すべき神」として中世を持つことが出來たのである。「神への叛逆も、じつは千年にわたるながいあいだの神への凝視と沒入とから習得し免許をあたへられた理想人間像にもとづいておこなはれたものである」(P599『小説の運命Ⅰ』)⇒「なぜなら神と言ふ統一原理はその叛逆において効力を失ふものではなく、それどころか叛逆の群れと型とを統一しさへする」⇒どのやうに統一していつたかと言へば、近代西歐精神を「神に型どれる人間の概念の探究」と言ふ形で統一していつたのである。(參照:『近代の宿命』P462、及び同小生發表文中「西歐歴史的統一性:圖解」及び『現代人の救ひといふこと』)

*「近代ヨーロッパは神を見失つた――が、それはただ神の解體と變形と抽象化とを意味するに過ぎぬ。まさにその爲の手續きであり過程にすぎなかつたヨーロッパの近代精神とその政治制度・経済機構」なのである。(參照『近代の宿命』全二P466)

*「萬人をその胸に救ひとる人格神が、その手をその脚を、さらにその胴體をもぎとられ、それらが制度化せられ機械化(A)せられる――で、神は人體を失つて、完全な精神としての抽象化を受ける。その精神が文學の領域(B)として殘されるといふわけだ」(參照『近代の宿命』全二)。

 

*更には、日本人向けに書かれた以下内容〔とは:「假説(價値觀/前提。場: C‘)による善惡の混迷に行きついたうへでものを考へなければいけない」〕が、恆存記述の通り「西洋自身」にも役立つのではなからうか。

 

拙発表文『人間の生き方、ものの考へ方』:講義1「惡に耐える思想」より 以下「 」内が概ね恆存文。( )〔 〕内は吉野注。

*P28「私はどうしてもそこ〔とは:假説(價値觀/前提。場: C‘)による善惡(F)の混迷(Eの至小化)〕〔即ち:言葉(F:善惡)或は情況(混迷:Eの至小化)を判斷するには、假説(價値觀/前提。場: C‘)との關係を見極め(D1の至大化)なければならない〕に行きついた(Eの至小化)うへでものを考へなければ(Eの至大化)いけないと思ふのです。だが人々(△枠)は皆勝手(D1の至大化)に、知らないうちにある約束(假説/價値觀/前提。場: C‘)を受け入れて(D1の至小化)、その(約束)通りに言葉(F)を用ゐて怪しまない(Eの至小化)のです。現代(場: C‘)における混亂(D1の至小化)のすべての原因(D1の至小化)は、ここ〔假説/價値觀/前提(場: C‘)不問(D1の至小化)による、言葉(F)の距離不測定(Eの至小化)〕にあると申せませう」(とは:以下枠文參照)。

*P28關係論:①前世紀(價値觀/前提。場: C‘)②歴史(價値觀/前提。場 C‘)③今日(前提。場: C‘)④價値觀(前提。場: C‘)⑤時代の價値感(前提。場: C‘)⇒からの關係:「◎:①②において政治的に使用(D1)された」⇒「⑥言葉F群:植民地(F)獨立(F)國家的獨立(F)中立(F)民族主義(F)」(◎的概念F)⇒E:⑥といふ觀念(F)を用ゐて③の⑥を考へてゐる。しかし、そこ(價値觀/前提。場: C‘)には随分違ひ(D1の至小化)がある。その違ひは全部④の相違(D1の至小化)から來てゐるわけです。(中略)極端に考へるならば、⑤の違ひ(D1の至小化)で言葉(⑥F)の價値感が違ふ(とは:D1の至小化=Eの至小化)のだから、それを使ふ⑦(△枠)の個人の生き方(主觀/教養:E)によつてもその言葉(⑥F)は違つて來る(Eの至大化)」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦人(△枠):②③④への適應正常。

*P41「西洋(價値觀/前提。場: C‘)の近代〔近代化(D1の至大化)〕を受け入れてゐる私たち(△枠)の無理な姿勢〔「近代化適應異常(D1の至小化)」の姿勢〕を正しく見きはめて(とは以下枠文參照)、何とかして近代文明に對應し得る〔近代化適應「正常」(D1の至大化)の〕思想(D1の至大化)を作り上げねばならないと思ひます」。

P51「私が日本獨自の思想といふ場合でも、なにも神がかり式に言つてゐるのではありません。日本は明治以後(價値觀/前提。場: C‘)、古今未曾有の經驗(近代化適應)をしたのです。が、そこには大きな無理があつた、その無理を調整する〔とは:『對應する方法は言葉や概念に囚れず、逆にこれを利用すること、即ち言葉の用法(言葉の自己所有化?)にすべてが懸つてゐる。自分と言葉との距離』の測定〕のが日本獨自の思想〔つまり:美感/美意識(Eの至大化)〕であるといふやうに考へます」。それは他國におしつけるやうな性質のものではない。日本だけに通用する、日本人を生かす道でなければなりません。しかし明治以後(價値觀/前提。場: C‘)日本が苦しんできたもの(近代化適應:D1)は、多かれ少なかれ西洋自身(價値觀/前提。場: C‘)の問題(即ち:近代化適應D1)でもあるわけですから、そこ〔とは:近代化適應の無理を調整する〕に生れてくる日本獨自の思想〔とは「F言葉⇒Eの至大化(距離測定)」:言葉の用法/自分と言葉との距離の測定/so called/精神の政治學〕といふものは結果としては世界のためにもなると思ひます。すなはち、西洋(價値觀/前提。場: C‘)でも近代(D1)といふものの弱點〔とは:「衰退:デクリネイション/必要惡:ネセサリー・イーブル」?〕が段々暴露して、化けの皮を現はしはじめてきた、文明開化一點張りで來たのに對して、人間の精神(B)が追ひつけなくなつてきた〔とは例:上記枠文『疎外』、『人間關係の稀薄』『個人主義=絶對全體喪失(衰退)』等?〕のです。それは日本の近代が明治以後(價値觀/前提。場: C‘)苦しんできたもの〔とは例:『無限定(絶對全體喪失)の自己』?〕なので、むしろこちらの方が一足お先に被害を蒙つてゐるのです。原爆を受けた以上に――原爆を受けたことは大したことではないので、その前に日本(△枠)は西洋文明〔西洋(價値觀/前提。場: C‘)⇒近代化(D1の至大化)〕といふ原爆を受けて(D1の至小化)その中で苦しみながら〔近代化適應異常(D1の至小化)〕ながら今日(場: C‘)ここまで至つてゐるのです。従つてその中から生み出される思想(D1の至大化)〔とは「F言葉⇒Eの至大化(距離測定)」:言葉の用法/自分と言葉との距離の測定/so called/精神の政治學〕は、結果として西洋(價値觀/前提。場: C‘)に影響を與へる(D2の至大化)ことが出來ると思ひます。しかしそれ〔西洋(價値觀/前提。場: C‘)に影響を與へる(D2の至大化)〕が目的ではないので、あくまでも日本(△枠)がどう生きていけばいい(D1)のか、それ〔どう生きていけばいい(D1)のか〕に眞劍に取り組まなければ(D1の至大化)いけないし、そこに必ずや何ものかが生れてくる筈だ、私はそれを日本獨自の思想〔とは:「完成せる統一體としての人格」論の事か?〕と申上げたまでです」。

 

 

設問Ⅲ:各位(小生)に於ける「生き甲斐」とは

 

まず、小生に於ける「生き甲斐」とは(以下枠文に關聯)

*當評論冒頭の「生き甲斐とは生ける標(しるし)であり、生ける證(あか)しであり、また生の充實感。それが今日何處にも無い」(P306上)の「充實感」とは、恆存各評論に據れば、小生には、「絶對/全體(C)⇒宿命(D1)⇒自己劇化(D2)⇒生き甲斐(充實感/實在感/必然感/全體感:D3)」のプロセスとして捉へられるのである(以下參照)。

*下項の、各「參照PP圖」は、小生には共通性(近似性)がある。つまり、其處では、以下枠文の「時間的全體感」が獲得され、生き甲斐(生の充實感/實在感/必然感)に通じると想定されるからである。

拙發表文:《『人間・この劇的なるもの』》より 「 」内が恆存文。〔 〕( )内は吉野注。

PP圖「實在感・時間的全體感獲得の構圖」jitsuzaikankakutokuzu.pdf へのリンク參照

 

*「意識は、平面を横ばひする歴史(過去・現在・未來といふ時間的繼續)といふものに垂直に交る」時、「部分(現在)を部分として明確にとらへることによつて、その中に全體(過去・現在・未来といふ時間的全體)を實感」する。「私たちが個人の全體性を恢復する唯一の道は、自分が部分に過ぎぬことを覺悟し、意識的に部分としての自己を味はひつくすこと、その味はひの過程において、全體感が象徴的に甦る」。

将にその時、生きるといふ日常的平板さから「上に脱け出た意識は、足下の現實が時々刻々に動いてゐることを實感」するのである。「宿命/自己劇化」による絶對への演戯が、上記の實感、今まさになすべきことをしてゐるといふ實感、「なさねばならぬことをしてゐるといふ實感」を得させるのである。その時「過去と未來とから切り放たれた現在だけが、過去・現在・未來といふ全體の象徴として存在してゐる」のである。そして「前後に暗黒があればこそ、その間の時間を光として感じることができる」。

大事なことは、さうした劇的時間を味はふには、人は一時的に「時間の流れをせきとめなければならない(非日常的場面の設定化)」といふことなのである。「拒絶の美徳を忘れて、現實の偶然をないもかも取り入れるのは、一種のおもひあがりである。(中略)個人の全體性いひかへれば、その必然性を確立するためには、現實の偶然性を拒絶しなければならない。(中略)私たちは自分の能力を無視して、あまりにも多くの偶然に身をゆだねすぎる(集團的自我上における、場面・關係設定の亂發)。したがつて、私たちの意識は、いつになつても現實の平面から直立しえない」。いつも現實に足をさらはれている状態なのである。(全三P532~4『人間・この劇的なるもの』)。

 

#藝術とはなにか #宿命(「X」投稿からの轉載)

關係論:①#絶對#全體(自己を超えたる何か)⇒からの關係(②#必然感#宿命感#全體感#實在感)⇒②的概念(#日常性&無際限な平板さからの脱出)⇒②の行爲が #演戯(自己劇化/藝術)⇒①への適應正常(#生き甲斐 獲得)。PP圖「實在感・時間的全體感獲得の構圖」jitsuzaikankakutokuzu.pdf へのリンク參照

 

*上枠文「私達の意識は、平面を横ばひする歴史(過去・現在・未來といふ時間的繼續)的現實の日常性から、その無際限な平板さから、起きあがらうとして、たえずあがいてゐる。そのための行爲が演戯である」(全三P532『人間・この劇的なるもの』)を「關係論」に表すと以下になる。

關係論:場⇒から生ずる關係(#意識)⇒①平面を横這ひする日常性 #時間的平板さ[とは空虚:平面/退屈/マンネリ/無限定性の自己]⇒①から起き上がる行爲「意識的に部分(現在)としての自己を味はひ尽くす」#演戯⇒時間的全體感#必然感#實在感(場への適應正常)。PP圖「實在感・時間的全體感獲得の構圖」jitsuzaikankakutokuzu.pdf へのリンク參照

そして、小生の以下行動基準(即ち「生き甲斐」獲得行動)は、上記「關係論」を客體化せん、に相當する〔但し『意は似せ易く形は似せ難し』(宣長)の範疇ではあるが〕。

PP圖「實在感・時間的全體感獲得の構圖」jitsuzaikankakutokuzu.pdf へのリンク參照

行動基準:坐禪/竹刀(小野派一刀流的)素振り/書物上の「關係論」探究に據る、各「強烈精神集中」=ABライン(精神の政治學ライン)の最下降化=二元論的自我(AB)の安定

參照「禪語録」他:『一大事と申すは今日只今の心也』(江戸期禪僧:正受老人)。『即今(場所)目前(現在)聽法底(我)』(臨済)。『朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり』(孔子)。

○つまり何を言ひたいかといふと、「強烈精神集中」の是等手段が、先述の先人達(「エゴイズム解決」の各人方法)が取つた「西歐近代化構圖(PP圖「近代化の説明」kindaikanosetumei1.pdf へのリンク參照」〔即ち:ABライン(精神の政治學ライン)最下降化〕を、不肖愚輩も微力ながら同じく志向してゐると言ふ事にある。「強烈精神集中」(換言すれば三昧)は、ABラインの最下降化を意味するのである。フローベール項目で記載した「個人的自我(B)は、個人の純粋性(B)としての静謐を保ち、『絶對・全體(C)』にそれを繋いだ」に相當するかと。PP圖「チェーホフ/フローベール」chehou.huroveru.pdf へのリンク參照

 

拙発表文:《『せりふと動き』》から「 」内が恆存文。〔 〕( )内は吉野注。

《フィクションとしての「完成せる統一體としての人格」》PP圖參照p231.kannseiseru.pdf へのリンク

*P231「今、私はフィクション(B:物語・假説)と現實(A)との混同と言つたが、それは現實(A・場C‘)もまたフィクション(假説)であるといふ認識が缺けてゐる事から生じる。文化(D1)もまたフィクション(假説)であるが、〔とはつまり、「歴史C⇒文化D1⇒人間(△枠)⇒保守演戯D2」構圖もフィクション(假説)なのだと言ふ事。そのフィクション圖そのものが「完成せる統一體としての人格」論圖なのだと言ふ事〕今日、日本の文化(D1)の實状(D1の至小化)はそのフィクションとしての凝集力(D1の至大化)、結晶度(D1の至大化)が弱まり(D1の至小化)、その間隙(荒廢:D1の至小化)を縫つて子供だましの生の現實(フィクションBと現實Aとの混同)がフィクション(假説)面をして罷り通つてゐるに過ぎない」。

 

拙発表文《『フィクションといふ事』》から

《フィクションとしての「完成せる統一體としての人格」》PP圖參照p231.kannseiseru.pdf へのリンク

PP圖「實在感・時間的全體感獲得の構圖」參照jitsuzaikankakutokuzu.pdf へのリンク

「ハムレットは、これが宿命であると納得のいく行爲の連續によつて、自己の生涯を滿たしたいと慾して」ゐた、といふことになる。此處まで書いてきた時、さう言へば恆存の生き方にも将にこれが貫道してゐるのでは、とはたと小生は思ひ到つた。と同時に恆存の以下なる文章が浮かんできたのである。

 「いはばコップから水を飲むことすら完成せる統一體の一構成分子たらしめることだ。文學者とは(中略)たんなる現實の素材に意味的聯關を與へるやう強烈な意識をもつて、その生活を主題的に統一して生きぬかうとする人間のことにほかならない」(全二P297『急進的文學論の位置づけ』)。

 

拙発表文:《「美意識/關係といふ眞實を生かす」再論究》から

「完成せる統一體としての人格」論(PP圖new.kanseiseru.pdf へのリンク參照)に則り、「關係と言ふ眞實を生かす(D2の至大化)」の最終到達點が、絶對C・全體(C:空間的/時間的)であると。

關係論:①場〔歴史(時間的全體),自然(空間的全體)から生ずる關係(#文化)⇒②文化的概念(假面:#保守 #禮節)⇒②との附合ひ方を場へ反映⇒#人格成立:への適應正常。

關係論:①明治②場⇒からの關係:①以來崩れて來た #美意識 の再興手段として,との關係と言ふ眞實を生かす,⇒[③#言葉]⇒即ち,③の用法(o called)成立,自分ととの距離測定成立を,頼るべき唯一のもの,再出發の為の最低段階であると恆存。

關係論:①約束(價値觀/前提。場: C‘からの關係:の見極め(from:D1の至大化)への關

係と言ふ眞實を生かす即ち:美意識(to:D2の至大化)⇒言葉:F(關係的概念)⇒②の用法(o called)/自分ととの距離測定(Eの至大化)日本および日本人(枠)

#藝術とはなにか #宿命(「X」投稿からの轉載)

關係論:①#絶對#全體(自己を超えたる何か)⇒からの關係(②#必然感#宿命感#全體感#實在感)⇒②的概念(#日常性&無際限な平板さからの脱出)⇒②の行爲が #演戯(自己劇化/藝術)⇒①への適應正常(#生き甲斐 獲得)。PP圖「實在感・時間的全體感獲得の構圖」參照jitsuzaikankakutokuzu.pdf へのリンク

 

拙発表文:《福田恆存著:小林秀雄の『考へるヒント』》から

關係論:①對象/『歴史』等著作(物:場 C‘)⇒からの關係:①を「②考へるヒント〔手掛り・手續(D1)〕」こそ『最も純粋(D1の至大化&個人の純粋性Bの静謐)、最も激しい行爲(D1の至大化)』⇒終點〔③答へ結論(②的概念F)〕⇒③を豫期しない(Eの至大化)。③を目的とはしない(Eの至大化)⇒小林秀雄・吾々讀者(△枠):①への適應正常。

*「考へるヒント(手掛かり・手續き)は、最も純粋な、最も激しい行爲である」〔とは:小生思ふに「眞善美」探究が、それに當たるのではなからうか?〕。

 

各位に於ける「生き甲斐」とは

 

 

 

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