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〔四十五章:主題〕「關係論」圖 norinaga45.pdf へのリンク
《『祝詞考』等で、眞淵が「無理な解」をするのは、世の物知人が泥(なず)んでゐる、「天上の国(神代)」とは不合理であると言ふ考へから、脱却出來ない爲》
#小林秀雄 著 #本居宣長 四十五章
〇P412關係論:③神④神代⑤何處⑥問題⑦萬葉⑧古道⇒からの關係:⑨の,③や④についての内容の曖昧さは,⑨の携はつてゐる⑥自體(④からの歴史)の暗さに行き着かざるを得まい.⑨にとつて,⑦を學んで,これに熟するとは,⑧の精神が,原理的(理?)に明らかになるといふ事であつた⇒⑨眞淵。
#小林秀雄 著 #本居宣長 四十五章
〇P412關係論:②#古学④#神代⑲人の上⑳#人代⇒からの關係:㉓の②は,[④といふも名の異なるのみにて,同じく⑲なるべき]事,といふ考へに貫かれてゐた. この考への裡で,⇒[⑯:天地古今の本意]⇒彼の⑯の考へ(⑳的考へ?)が熟したと確信した時,これを,[⑳を盡て,④をうかがふ]といふ言ひ方で言つた⇒㉓眞淵。
#小林秀雄 著 #本居宣長 四十五章
P414關係論:①『祝詞考』(物:場 C‘)②神道(物:場 C‘)③古文(物:場 C‘)④『出雲國造神賀詞』(物:場 C‘)⑤神(物:場 C‘)⑥上(物:場
C‘)⇒からの關係:⑦が、⑤といふ言は、⑥〔とは:『神代といふも名のことなる(異なる)のみにて、同じく人の上(とは:人代)なるべき』の事か?〕といふ言に由來する、とはつきり註して(D1の至大化)ゐるのは、この④の解(D1の至大化)に於いてであるが、さう註し終つて、彼(⑦)は目に見えぬ⑤の姿を追ふ(D1)様子〔とは:『人の上なるべき』位置が故にであらう〕をするのである。⇒⑦眞淵(△枠)。
#小林秀雄 著 #本居宣長 四十五章
P415關係論:⑦眞淵著[#祝詞考]⑧#古伝説⑨#神⑩#信仰⑪#経験主義⇒からの關係:⑦に到つて,⑧に現れた⑭の⑨や⑩,つまり⑦[序]記載[なほく明らに,#天地 にかなふ上つ代の #道]は,中空〔とは[『人の上』:『神(物:場 C‘)といふ言は、上といふ言に由來』の意〕になつた⑨といふ言葉を得て,合理的な一種の⑪として,完結したのである⇒⑫#真淵⑭#上代 の人々。
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(凝縮實在關係論)
#小林秀雄 著 #本居宣長 四十五章
P416關係論:①片付かぬ物②問題③奥の方⇒からの關係:①が,④の[哲學的意識]には殘つた.④自身はつきり意識出來なかつた,携はつてゐる②に具備する暗さ([#神代 が始まり]への懐疑)。合理的解決[とは:神は人の上]などには,たじろがぬ本質的な難解性[神といふ古言の古意]が殘つた⇒④#真淵。
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#小林秀雄 著 #本居宣長 四十五章
〇P417關係論:②#上つ代③事物④具體性或は個性⇒からの關係:#心眼 に直觀される,②の③の意味合なり價値なりが,そのまま承認できない理由など,⑥には,何處にも見當りはしなかつた⇒[⑤:#言語]⇒それが,⑦の場合となると,⑦の眼前で,⑤は,[あつたがままの④]まで裸になつて見せなかつた⇒⑥宣長⑦#真淵。
#小林秀雄 著 #本居宣長 四十五章
P417關係論:④#古事記⑤古事記 #神代⇒からの關係: ⑧は、④の訓詁の仕事には、遂に手を付けなかつた。⑧が遺したのは,⑤の假名書に過ぎなかつたが,借覽して,その訓讀(假名書)を讀んだだけで,⑦は,もし⑧が④の #訓詁 の仕事に,本氣に這入つて行つたら,どういふ事[#古言のふり の語釋不足]になつたかを看破してゐた⇒⑦宣長⑧#真淵。
#小林秀雄 著 #本居宣長 四十五章
〇P420關係論:②眞淵著[祝詞考]③下心⑤言葉⑥古言⇒からの關係:②にも,[自己流解釋]があるのを,⑨は暴露してゐる.何故⑩は無理な解を考へ出して誤るのか.⑨は,③あつての事と見る.⑫の間で取交はされた⑤が,⑥に鋭敏な⑩に,何故,素直に信られなかつたか⇒⑨宣長⑩眞淵⑫上代の人々。
#小林秀雄 著 #本居宣長 四十五章
〇P420關係論:②#祝詞考⑦#天上の国⇒からの關係:②註釋文にも,⑩の[#無理な解]があるのは,⑨に言はせれば,⑪が泥(なず)んでゐる,⑦とは不合理であると言ふ考へから,脱却出來ずにゐるからだ.無理な解で,讀めば讀める,となれば,不合理は餘程緩和されると。それにしても、⑥を前にして、何といふ曖昧な態度(D1の至小化)だらう⇒⑨宣長⑩#真淵⑪世の物知人。
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#小林秀雄 著 #本居宣長 四十五章
〇P412關係論:③神④神代⑤何處⑥問題⑦萬葉⑧古道⇒からの關係:⑨の,③や④についての内容の曖昧さは,⑨の携はつてゐる⑥自體(④からの歴史)の暗さに行き着かざるを得まい.⑨にとつて,⑦を學んで,これに熟するとは,⑧の精神が,原理的(理?)に明らかになるといふ事であつた⇒⑨眞淵
#小林秀雄 著 #本居宣長 四十五章
〇P412關係論:③#神⑫上つ代⑬一つごころ⑰ふるき史⑱しるし⇒からの關係:⑫の⑬が事とする所は,③の[拜禮]にあるのであつて,③の[信向]にはない.と信じた㉓は,⑰に記された[眞(#まこと)としも覺えぬ事]も,そのまま,[⑰にまかせて],彼の自信の⑱として,知的な整理を受けた⇒㉓#真淵
#小林秀雄 著 #本居宣長 四十五章
〇P412關係論:②#古学④#神代⑯天地古今の本意⑲人の上⑳#人代⇒からの關係:㉓の②は,[④といふも名の異なるのみにて,同じく⑲なるべき]事,といふ考へに貫かれてゐた.この考への裡で,彼の⑯の考へが熟したと確信した時,これを,[⑳を盡て,④をうかがふ]といふ言ひ方で言つた⇒㉓眞淵
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P412關係論:①眞淵の文(物:場 C‘)②古學(物:場 C‘)③神(物:場 C‘)④神代(物:場 C‘)⑤何處(場: C‘)⑥問題(物:場 C‘)⑦『萬葉』(物:場 C‘)⑧古道(物:場 C‘)⑨『人の眞ごころ』(物:場 C‘)⑩『天つちのままなるこころのそこひ』(物:場 C‘)⑪先(場: C‘)⑫上つ代(場: C‘)⑬『一つごころ』(物:場 C‘)⑭心ばへ(物:場 C‘)⑮わが『こころ』(物:場 C‘)⑯『天地古今の本意』(物:場 C‘)⑰『ふるき史』(物:場 C‘)⑱『しるし』(物:場 C‘)⑲人の上(物:場 C‘)⑳人代(物:場 C‘)21祝詞の『調べ』(物:場 C‘)⇒からの關係:東都在住の頃(場: C‘)の23が、③や④について、どう考へてゐたか(D1)、それが(22の下問に)露はに語られてゐる(D1の至大化)。(本文省略)露はに見える表現が壓し隱してゐる(D1の至小化)内容の曖昧さ(D1の至小化)は、⑤から來てゐるかといふ事になると、これは考へ詰めて(D1の至大化)行けば、どうしても、彼(眞淵△枠)の携はつてゐる(D1)⑥自體の暗さ(D1の至小化)に行き着かざるを得まい。彼にとつて、⑦を學んで(D1の至大化)、これに熟する(D1の至大化)とは、⑧(日本古代の神話的世界の事跡)の精神が、原理的(理?的:F)に明らか(F⇒Eの至小化)になるといふ事であつた。それは、彼(眞淵△枠)に言はせれば、⑨に、⑩にまで達する(D1の至大化)事であり、もうその⑪はない(D1の至小化)といふ處まで行く(D1の至大化)事なのである。(とは以下枠文參照)
この『ひたぶるに、直く』『明く』『清く』『雄々しき』(D1の至大化)⑫の⑬が事とするところ(D1)は、③の『拜禮』(D1の至大化)にあるのであつて、③の『信向』(D1の至小化)にはない〔とは:上枠文『我國の歴史が,神代といふ怪しげな時代から始つてゐる事を,どう解したらよいかといふ、古へから,世の識者(ものしりびと)等を惱ませて來た問題』は故か?〕。その⑭〔とは:上つ代の『一つごころ』〕を、⑮とする事が出來た(D1の至大化)と信じた眞淵(△枠)は、自信をもつて(D1の至大化)言ふことになる。(文章省略)。さういふ次第で、自分(△枠眞淵)が⑦から學んだ(D1の至大化)ところは、⑧(古代の精神)の⑯⑯『天地古今の本意』と、呼べば呼べる(D1の至大化)ものである、といふ自信(D1の至大化)のうちから、23は物を言つてゐる(D1)。その物の言ひ方は、この自信(D1の至大化)に照明され、⑰に記された『眞(まこと)としも覺えぬ(D1の至小化)事』〔とは:上枠文『我國の歴史が,神代といふ怪しげな時代から始つてゐる事』か?〕も、そのまま、『⑰⑰『ふるき史』にまかせて(D1の至大化)』、彼(△枠)の自信(D1の至大化)の⑱⑱『しるし』として、知的な整理(D1の至大化)(とは以下枠文:傍線參照?)を受ける事になつたわけである。ところで、彼(眞淵)の②〔とは:古道(古代の精神)を明らかにする學問〕は、『④④神代(物:場 C‘)といふも名のことなる(異なる:D1の至小化)のみにて、同じく⑲⑲人の上(物:場 C‘なるべき』事、といふ考へ(D1)に貫かれてゐたのだが、この一貫した考へ〔とは:『④④神代(物:場 C‘)といふも名のことなる(異なる:D1の至小化)のみにて、同じく⑲⑲人の上(物:場 C‘(とは:人代)なるべき』〕の裡で、彼の所謂⑯⑯『天地古今の本意』(物:場 C‘)の考へ(D1)が熟したと確信した(D1の至大化)時、彼(眞淵△枠)は、これ(⑯『天地古今の本意』)を、『⑳を盡て(D1の至大化)、④をうかがふ(D1の至大化)』といふ言ひ方で言つたのであつた。23にしてみれば、恐らく、われ知らず(D1の至小化)、さういふ表現に誘ひ込まれた(D1の至小化)といふ風な、微妙な氣味合(D1の至小化)のものがあつた(とは以下枠文參照)。彼(23△枠)を(微妙な氣味合(D1の至小化で)誘つたのが、2121祝詞の『調べ』であつた事は、前にも觸れた通りだ」(とは以下枠文參照)⇒「③:」(◎的概念F)⇒E:」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒22宗武23眞淵(△枠):①への適應正常
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#小林秀雄 著 #本居宣長 四十二章
P394關係論:①上代人②意(こころ)③我國の歴史④神代⑤わが國史⇒からの關係:[誰もが眞實と信ずる,神の物語が生れて來て,それが傳へられて來た,①の②(心的事實?)を知らなければならない]を,⑥は,聊かも崩さなかつた. それ故に,③が,④といふ怪しげな時代から始つてゐる事を,どう解したらよいかといふ、古へから,⑦を惱ませて來た問題が,⑥にはおこらなかつた。⑥は極めて率直に,③が④から始つてゐる事に,⑤の紛れもない特色があると考へた⇒⑥宣長⑦世の識者(ものしりびと)等
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(とは以下枠文參照)
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P412關係論:①眞淵の文(物:場 C‘)②古學(物:場 C‘)③神(物:場 C‘)④神代(物:場 C‘)⑤何處(場: C‘)⑥問題(物:場 C‘)⑦『萬葉』(物:場 C‘)⑧古道(物:場 C‘)⑨『人の眞ごころ』(物:場 C‘)⑩『天つちのままなるこころのそこひ』(物:場 C‘)⑪先(場: C‘)⑫上つ代(場: C‘)⑬『一つごころ』(物:場 C‘)⑭心ばへ(物:場 C‘)⑮わが『こころ』(物:場 C‘)⑯『天地古今の本意』(物:場 C‘)⑰『ふるき史』(物:場 C‘)⑱『しるし』(物:場 C‘)⑲人の上(物:場 C‘)⑳人代(物:場 C‘)21祝詞の『調べ』(物:場 C‘)⇒からの關係:22の下問に答へた(D1の至大化)①『東に都に下りて、天下の人に向かひ』、②〔とは:古道(古代の精神)を明らかにする學問〕への通路が開けた(D1の至大化)と言ふ、丁度その頃(場: C‘)の23が、③や④について、どう考へてゐたか(D1)、それが(22の下問に)露はに語られてゐる(D1の至大化)。(本文省略)露はに見える表現が壓し隱してゐる(D1の至小化)内容の曖昧さ(D1の至小化)は、⑤から來てゐるかといふ事になると、これは考へ詰めて(D1の至大化)行けば、どうしても、彼(眞淵△枠)の携はつてゐる(D1)⑥自體の暗さ(D1の至小化)に行き着かざるを得まい(とは以下枠文參照?)。
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#小林秀雄 著 #本居宣長 四十二章
P394關係論:①上代人②意(こころ)③我國の歴史④神代⑤わが國史⇒からの關係:[誰もが眞實と信ずる,神の物語が生れて來て,それが傳へられて來た,①の②(心的事實?)を知らなければならない]を,⑥は,聊かも崩さなかつた. それ故に,③が,④といふ怪しげな時代から始つてゐる事を,どう解したらよいかといふ、古へから,⑦を惱ませて來た問題が,⑥にはおこらなかつた。⑥は極めて率直に,③が④から始つてゐる事に,⑤の紛れもない特色があると考へた⇒⑥宣長⑦世の識者(ものしりびと)等
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(息子宛書簡:省略)『二つの文を重ね合せて見れば、彼にとつて、⑦を學んで(D1の至大化)、これに熟する(D1の至大化)とは、⑧(日本古代の神話的世界の事跡)の精神が、原理的(理?的:F)に明らか(F⇒Eの至小化)になるといふ事であつた。それは、彼(眞淵△枠)に言はせれば、⑨に、⑩にまで達する(D1の至大化)事であり、もうその⑪はない(D1の至小化)といふ處まで行く(D1の至大化)事なのである。(とは以下枠文參照)
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#小林秀雄 著 #本居宣長 四十四章
P408關係論:④古道(古代の精神)⑤万葉⑥#祝詞⑩歌人⑪自づから⑫まごころ⇒からの關係:⑨の心は,④のぎりぎりの意を得て④を解かんと逸る.多樣に分裂する⑤の調べは,その源を成す⑩の,⑪(自然)なる⑫に向つて收斂し[人まろなどの及ぶべき言ならぬ,⑥をよく見給へ]となる⇒⑨#眞淵
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この『ひたぶるに、直く』『明く』『清く』『雄々しき』(D1の至大化)⑫の⑬が事とするところ(D1)は、③の『拜禮』(D1の至大化)にあるのであつて、③の『信向』(D1の至小化)にはない〔とは:上枠文『我國の歴史が,神代といふ怪しげな時代から始つてゐる事を,どう解したらよいかといふ、古へから,世の識者(ものしりびと)等を惱ませて來た問題』は故か?〕。その⑭〔とは:上つ代の『一つごころ』〕を、⑮とする事が出來た(D1の至大化)と信じた眞淵(△枠)は、自信をもつて(D1の至大化)言ふことになる。(文章省略)。さういふ次第で、自分(△枠眞淵)が⑦から學んだ(D1の至大化)ところは、⑧(古代の精神)の⑯⑯『天地古今の本意』と、呼べば呼べる(D1の至大化)ものである、といふ自信(D1の至大化)のうちから、23は物を言つてゐる(D1)。その物の言ひ方は、この自信(D1の至大化)に照明され、⑰に記された『眞(まこと)としも覺えぬ(D1の至小化)事』〔とは:上枠文『我國の歴史が,神代といふ怪しげな時代から始つてゐる事』か?〕も、そのまま、『⑰⑰『ふるき史』にまかせて(D1の至大化)』、彼(△枠)の自信(D1の至大化)の⑱⑱『しるし』として、知的な整理(D1の至大化)(とは以下枠文:傍線參照?)を受ける事になつたわけである。
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(凝縮實在關係論)
#小林秀雄 著 #本居宣長 四十四章
P410關係論:①古人の意の外への現れ②古言のふり③迦微の道(#迦微=道)④神の道⑤我國の #神道⇒からの關係:①即ち②を示す③を,⑥は理に還元し,老荘の意[天地自然の道]は④に適ふとした.⑥が論じたのは④その物(神=道)ではなく理(教へ)であつた.⑤の特色は[教へ]が無い⇒⑥眞淵
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ところで、彼(眞淵)の②〔とは:古道(古代の精神)を明らかにする學問〕は、『④④神代(物:場 C‘)といふも名のことなる(異なる:D1の至小化)のみにて、同じく⑲⑲人の上(物:場 C‘なるべき』事、といふ考へ(D1)に貫かれてゐたのだが、この一貫した考へ〔とは:『④④神代(物:場 C‘)といふも名のことなる(異なる:D1の至小化)のみにて、同じく⑲⑲人の上(物:場 C‘(とは:人代)なるべき』〕の裡で、彼の所謂⑯⑯『天地古今の本意』(物:場 C‘)の考へ(D1)が熟したと確信した(D1の至大化)時、彼(眞淵△枠)は、これ(⑯『天地古今の本意』)を、『⑳を盡て(D1の至大化)、④をうかがふ(D1の至大化)』といふ言ひ方で言つたのであつた。23にしてみれば、恐らく、われ知らず(D1の至小化)、さういふ表現に誘ひ込まれた(D1の至小化)といふ風な、微妙な氣味合(D1の至小化)のものがあつた(とは以下枠文參照)。彼(23△枠)を(微妙な氣味合(D1の至小化で)誘つたのが、2121祝詞の『調べ』であつた事は、前にも觸れた通りだ」(とは以下枠文參照)⇒「③:」(◎的概念F)⇒E:」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒22宗武23眞淵(△枠):①への適應正常
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#小林秀雄 著 #本居宣長 四十三章
P400關係論:①萬葉學②最晩年③萬葉のますらをの手ぶり⑦祝詞⑧上古人の風雅⑨弘大なる意⑩神代の意⇒からの關係:①を大成した⑪は,②にさしかかり,所謂③の内に安住が出來なくなる.⑦の文を引き,[⑬(③)の及ぶべき言ならぬ]⑧が存するとし,その⑨を明らめて⑩を得んと⇒⑪眞淵⑬柿本
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P414關係論:①『祝詞考』(物:場 C‘)②神道(物:場 C‘)③古文(物:場 C‘)④『出雲國造神賀詞』(物:場 C‘)⑤神(物:場 C‘)⑥上(物:場 C‘)⇒からの關係:⑦が、⑤といふ言は、⑥〔とは:『神代といふも名のことなる(異なる)のみにて、同じく人の上(とは:人代)なるべき』の事か?〕といふ言に由來する、とはつきり註して(D1の至大化)ゐるのは、この④の解(D1の至大化)に於いてであるが、さう註し終つて、彼(⑦)は目に見えぬ⑤の姿を追ふ(D1)様子〔とは:『人の上なるべき』位置が故にであらう〕をするのである。⇒「③:」(◎的概念F)⇒E:」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦眞淵(△枠)。
(とは以下枠文參照)
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P414關係論:①『祝詞考』(物:場 C‘)②神道(物:場 C‘)③古文(物:場 C‘)④『出雲國造神賀詞』(物:場 C‘)⑤神(物:場 C‘)⑥上(物:場
C‘)⇒からの關係:①は、彼(眞淵△枠)が『②第一に學ぶべき(D1の至大化)③』とした、④の註釋(D1の至大化)で終つてゐる。(本文省略)。⑦が、⑤といふ言は、⑥〔とは:『神代といふも名のことなる(異なる)のみにて、同じく人の上(とは:人代)なるべき』の事か?〕といふ言に由來する、とはつきり註して(D1の至大化)ゐるのは、この④の解(D1の至大化)に於いてであるが、さう註し終つて、彼(⑦)は目に見えぬ⑤の姿を追ふ(D1)様子〔とは:『人の上なるべき』位置が故にであらう〕をするのである。これは一種鋭い感じ(D1の至大化)であり、先きに、微妙な氣味合(D1の至小化)のものと言つたのもその邊にある」⇒「③:」(◎的概念F)⇒E:」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦眞淵(△枠)。
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#小林秀雄 著 #本居宣長 四十五章
P415關係論:①#祝詞考⑦#古道⑧本意⑨#上つ代⇒からの關係:⑩が度々持ち出す[はらへ]とか[みそぎ]とかいふ言葉は,⑪を,⑦(古代の精神)の⑧[とは:天地古今の本意?]へ導かうが爲のものであり,さういふ⑨の⑫の,信仰經驗の内容の方を向いた言葉ではない事が解る⇒⑩眞淵⑪讀者⑫人々
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P415關係論:①『祝詞考』(物:場 C‘)②古文(物:場 C‘)③祝詞(物:場 C‘)④あはきが原(場: C‘)⑤から文(物:場 C‘)⑥天竺の教(物:場 C‘)⑦古道(物:場 C‘)⑧本意(物:場 C‘)⑨上つ代(場: C‘)⇒からの關係:(承前)。(前略)⑩が度々持ち出す『はらへ』(D1の至大化)とか『みそぎ』(D1の至大化)とかいふ言葉は、⑪を、⑦(古代の精神)の⑧へ導かう(D1)が爲のものであり、さういふ⑨の⑫の、信仰經驗(D1の至大化)の内容〔とは:迦微は體言命名/迦微=道。神(物。物:場 C‘)にゆく道(D1の至大化)こそ有りけれ〕の方を向いた言葉ではない(D1の至小化)事が解るだらう」⇒「③:」(◎的概念F)⇒E:」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑩眞淵⑪讀者⑫人々(△枠)。
(とは以下枠文參照)
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P415關係論:①『祝詞考』(物:場 C‘)②古文(物:場 C‘)③祝詞(物:場 C‘)④あはきが原(場: C‘)⑤から文(物:場 C‘)⑥天竺の教(物:場 C‘)⑦古道(物:場 C‘)⑧本意(物:場 C‘)⑨上つ代(場: C‘)⇒からの關係:①を説くのに、『はらへ』や『みそぎ』を
言つた⑩の、門人宛の書簡は前にも引いたが、①の序文にも、『はらへ』『みそぎ』の言ひ方(D1)が見られる。わが國(場: C‘)の②も、③まで遡ると、その趣は、――『④に、みそぎ(禊ぎ)はらへ(祓へ)したまひけむ(D1の至大化)如く、清くすずしき(D1の至大化)を、こころにてこそ、ことわる(説明する?)(D1の至大化)』べきであると言ふ。③まで行けば、これを『⑤にならひ、⑥によりなどして』ことわる(説明する?)(D1)理由は全くない(D1の至小化)事が、明瞭であらうと言ふのだ。かういふ言ひ方をつらつら思へば、⑩が度々持ち出す『はらへ』(D1の至大化)とか『みそぎ』(D1の至大化)とかいふ言葉は、⑪を、⑦(古代の精神)の⑧へ導かう(D1)が爲のものであり、さういふ⑨の⑫の、信仰經驗(D1の至大化)の内容〔とは:迦微は體言命名/迦微=道〕の方を向いた言葉ではない(D1の至小化)事が解るだらう。」⇒「③:」(◎的概念F)⇒E:」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑩眞淵⑪讀者⑫人々(△枠)。
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#小林秀雄 著 #本居宣長 四十五章
P415關係論:⑦眞淵著[#祝詞考]⑧#古伝説⑨#神⑩#信仰⑪#経験主義⇒からの關係:⑦に到つて,⑧に現れた⑭の⑨や⑩,つまり⑦[序]記載[なほく明らに,#天地
にかなふ上つ代の #道]は,中空〔とは:『神(物:場 C‘)といふ言は、上といふ言に由來』の意〕になつた⑨といふ言葉を得て,合理的な一種の⑪として,完結したのである⇒⑫#真淵⑭#上代 の人々
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P415關係論:①祝詞(物:場 C‘)②神(物:場 C‘)③『神賀詞』(物:場 C‘)④調べ(物:場 C‘)⑤歌學(物:場 C‘)⑥古學(物:場 C‘)⑦『祝詞考』(物:場 C‘)⑧古傳説(物:場 C‘)⑨神(物:場 C‘)⑩信仰(物:場 C‘)⑪經驗主義(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。(前略)『神賀詞』の調べ(物:場 C‘)がいよいよ純粋になる(D1の至大化)につれて、その(『神賀詞』の)内容は無色透明(D1の至大化)なものとなる』が、取りも直さず、彼が⑤の上で熟(こな)し得た(D1の至大化)方法の、言はば仕上げ(D1の至大化)に他ならない。①は、彼の⑥〔とは:古道(古代の精神)を明らかにする學問〕を完成させた。少なくとも、彼の緊張した意識(D1の至大化)は、その(古學の)完成を、『人代を盡く』すといふ形で、確めたと言つていいだらう。従つて、⑦といふ最後の仕事に到つて、⑧(『古事記』?)に現れた⑭の⑨や⑩に出會つた(D1の至大化)、といふ形は取つてゐるものの、むしろ出會ふ(D1)爲の準備〔とは:『讀者を、古道(古代の精神)の本意へ導かう(D1)が爲のもの』の意〕が、そこで整つた(D1)と言つた方がいい〔とは以下枠文參照:即ち以下の、上代人の信仰經驗(D1の至大化)には出會つてないといふ事〕
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(凝縮實在關係論)
#小林秀雄 著 #本居宣長 四十四章
P410關係論:①#神②古言のふり③迦微の道⇒からの關係:①に直かに觸れてゐるといふ, 己の直觀(可畏き)の内容を,⑤は②で體言命名[#迦微 #産巣日神 #天照大御神,等]をした⇒[④#天地自然の道]⇒⑥は②から離れて,③(迦微=道)を理に還元し,⑦の④に適ふと変質⇒⑤古人⑥眞淵⑦老荘
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のであり、その(⑦の)『序』の言ふ、『なほく明らに、天地(場:
C‘)にかなふ(D1の至大化)上つ代の道(物:場 C‘)』は、中空になつた⑨〔とは:『神(物:場 C‘)といふ言は、上といふ言に由來』の意?〕といふ言葉を得て、合理的な一種の⑪として、完結(D1の至大化)した〔とは:老荘:天地自然の道?〕のであつた」⇒「③:」(◎的概念F)⇒E:」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑫眞淵⑬宣長⑭上代の人々(△枠)
(とは以下枠文參照)
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P415關係論:①祝詞(物:場 C‘)②神(物:場 C‘)③『神賀詞』(物:場 C‘)④調べ(物:場 C‘)⑤歌學(物:場 C‘)⑥古學(物:場 C‘)⑦『祝詞考』(物:場 C‘)⑧古傳説(物:場 C‘)⑨神(物:場 C‘)⑩信仰(物:場 C‘)⑪經驗主義(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。①につき、⑫が(以前)、⑬に言ひ遣つた(D1の至大化)内容に、②といふ言葉にしても、⑫の使ひ方(D1)は同樣であるのが見られる。それは、――『式の祝詞(物:場 C‘)をよく見給へ(D1の至大化)、祝詞は神事(物:場 C‘)故に、神(物:場 C‘)の事あるのみ、かれ(神の事)をもて他事をも書べき也』、――とあつた。③をよく見給へ(D1の至大化)、その(③の)④がいよいよ純粋になる(D1の至大化)につれて、その(③の)内容は無色透明(D1の至大化)なものとなる、と彼(△枠)は言つてゐる(D1の至大化)のである。つまるところ、これ〔とは:『(『神賀詞』の)調べ(物:場 C‘)がいよいよ純粋になる(D1の至大化)につれて、その(『神賀詞』の)内容は無色透明(D1の至大化)なものとなる』〕が、取りも直さず、彼が⑤の上で熟(こな)し得た(D1の至大化)方法の、言はば仕上げ(D1の至大化)に他ならない。①は、彼の⑥〔とは:古道(古代の精神)を明らかにする學問〕を完成させた。少なくとも、彼の緊張した意識(D1の至大化)は、その(古學の)完成を、『人代を盡く』すといふ形で、確めたと言つていいだらう。従つて、⑦といふ最後の仕事に到つて、⑧(『古事記』?)に現れた⑭の⑨や⑩に出會つた(D1の至大化)、といふ形は取つてゐるものの、むしろ出會ふ(D1)爲の準備〔とは:『讀者を、古道(古代の精神)の本意へ導かう(D1)が爲のもの』の意〕が、そこで整つた(D1)と言つた方がいい〔とは以下枠文參照:即ち以下の、上代人の信仰經驗(D1の至大化)には出會つてないといふ事〕
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(凝縮實在關係論)
#小林秀雄 著 #本居宣長 四十四章
P410關係論:①#神②古言のふり③迦微の道⇒からの關係:①に直かに觸れてゐるといふ, 己の直觀(可畏き)の内容を,⑤は②で體言命名[#迦微 #産巣日神 #天照大御神,等]をした⇒[④#天地自然の道]⇒⑥は②から離れて,③(迦微=道)を理に還元し,⑦の④に適ふと変質⇒⑤古人⑥眞淵⑦老荘
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のであり、その(⑦の)『序』の言ふ、『なほく明らに、天地(場: C‘)にかなふ(D1の至大化)上つ代の道(物:場 C‘)』は、中空になつた⑨〔とは:『神(物:場 C‘)といふ言は、上といふ言に由來』の意?〕といふ言葉を得て、合理的な一種の⑪として、完結(D1の至大化)した〔とは:老荘:天地自然の道?〕のであつた」⇒「③:」(◎的概念F)⇒E:」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑫眞淵⑬宣長⑭上代の人々(△枠)
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#小林秀雄 著 #本居宣長 四十五章
〇P415關係論:②#神③#古義④#言葉 の内部⇒からの關係:或る人の物の言ひ方(Eの至大化:言の世界)が,直ちにその人の生き方を表はす,といふ⑥の徹底した考へ方が,⑤には見られない.⑤には,②の③はかくかくのものと,分析的に規定(#理?)してみせる所で,足を止め,④に這入り込まうとしない〔とは例:[神の道]を[神=道(物:場 C‘)と見ず,[神⇒教へ]と捉へる事か?〕⇒⑤#真淵⑥宣長
#小林秀雄 著 #本居宣長 四十五章
〇P415關係論:⑨#万葉⑩#古道⑪#理想⇒からの關係:⑨の鑑賞や批評で充分に錬磨された筈の,⑫の素早い語感が,[神といふ古言の古意]では躊躇つてゐる.何が,彼の鋭敏な語感の自由な動きを阻んでゐるか,といふ事になれば,⑩の上で,己の⑪を貫かう(理附け?)とする,⑫の意志だ⇒⑫真淵
#小林秀雄 著 #本居宣長 四十五章
〇P415關係論:⑩古道⑪神といふ古言⇒からの關係:⑪の,⑭の生活に即した使ひ方の裡に入り込み,⑭の覚束ない信仰[神(物)にゆく道こそ有り]を,そのまま受入れて,これにかかづらふといふやうな事は,⑩について目覺めた,⑬の哲學的意識(理に還元?)の許す所ではなかつたか⇒⑬真淵⑭古人
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P415關係論:①眞淵の足どり(物:場 C‘)②神(物:場 C‘)③古言(いにしへごと。物:場 C‘)④古意(いにしへごころ。物:場 C‘)⑤仕事(物:場 C‘)⑥言語(物:場 C‘)⑦古義(物:場 C‘)⑧言葉の内部(物:場 C‘)⑨『萬葉』(物:場 C‘)⑩古道(物:場 C‘)⑪理想(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。⑬は、②といふ③の④について、ほとんど⑭と同じやうな解(D1の至大化)を書き殘してゐる。(本文省略參照)。見たところ同じやうな解(D1の至大化)を比べて、二人の⑤から、その内容を推してみる(D1の至大化)と、⑥に對する兩人(⑬⑭)の態度の相違(D1の至小化)が浮かび上つて來る。或る⑮の物(F)の言ひ方(Eの至大化:言の世界)が、直ちにその⑮の生き方(D1の至大化:事の世界)を表はす、といふ⑭の徹底した考へ方(D1の至大化)が、⑬には見られない(D1の至小化)のである。⑬には、②の⑦はかくかくのもの(D1)と、分析的に規定(理?F⇒Eの至小化)(とは以下枠文參照)してみせるところで、足を止め、⑧に這入り込まうとしない(D1の至小化)ところがある〔とは例:『神の道』を「神=道(物:場 C‘)」と見ず、「神⇒教へ」と捉へる事か?〕。言つてみれば、⑨の鑑賞や批評(D1)で、充分に錬磨(D1の至大化)された筈の、その素早い語感(D1の至大化)が、此處〔とは:『神といふ古言(いにしへごと)の古意(いにしへごころ)』〕では、ためらつてゐる。では、何が、彼の鋭敏な語感(D1の至大化)の自由な動き(D1の至大化)を阻んでゐる(D1の至小化)か、といふ事になれば、⇒「⑫:神といふ古言(いにしへごと:F)」⇒E:⑩(古代の精神)の上で、己(⑬)の⑪を貫かう(理附け?:Eの至大化)とする、彼(⑬)の意志(理附け?:Eの至大化)が考へたくなるだらう。⑫の、⑯の生活(F)に即した使ひ方(Eの至大化:言の世界)の裡に入り込み、その覚束ない信仰(D1の至大化:事の世界)〔とは:神(物。物:場 C‘)にゆく道(D1の至大化)こそ有りけれ〕を、そのまま受入れて、これにかかづらふといふ〔つまり:宣長の徹底した考へ方『或る人(△枠)の物(F)の言ひ方(Eの至大化:言の世界)が、直ちにその人の生き方(D1の至大化:事の世界)を表はす』〕やうな事は、⑩(古代の精神)について目覺めた、彼の哲學的意識〔とは上枠文:『物(物:場 C‘)のことわりあるべきすべ、萬(よろづ)の教へごとをしも、何の道くれの道といふこと』の事か?〕の許すところではなかつた、とも言へようか」」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑬眞淵⑭宣長⑮人⑯古人(いにしへびと)(△枠):①への適應正常。
(とは以下枠文參照)
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P415關係論:①眞淵の足どり(物:場 C‘)②神(物:場 C‘)③古言(いにしへごと。物:場 C‘)④古意(いにしへごころ。物:場 C‘)⑤仕事(物:場 C‘)⑥言語(物:場 C‘)⑦古義(物:場 C‘)⑧言葉の内部(物:場 C‘)⑨『萬葉』(物:場 C‘)⑩古道(物:場 C‘)⑪理想(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。①を忠實に辿らう(D1の至大化)とすると、前項の樣な、くだくだしい、曖昧な物の言ひ方(D1の至小化)になる。これはやむを得ない、と言ふのは、例へば、⑬は、②といふ③の④について、ほとんど⑭と同じやうな解(D1の至大化)を書き殘してゐる。(本文省略參照)。見たところ同じやうな解(D1の至大化)を比べて、二人の⑤から、その内容を推してみる(D1の至大化)と、⑥に對する兩人(⑬⑭)の態度の相違(D1の至小化)が浮かび上つて來る。或る⑮の物(F)の言ひ方(Eの至大化:言の世界)が、直ちにその⑮の生き方(D1の至大化:事の世界)を表はす、といふ⑭の徹底した考へ方(D1の至大化)が、⑬には見られない(D1の至小化)のである。⑬には、②の⑦はかくかくのもの(D1)と、分析的に規定(理?F⇒Eの至小化)(とは以下枠文參照)してみせるところで、足を止め、⑧に這入り込まうとしない(D1の至小化)ところがある〔とは例:『神の道』を「神=道(物:場 C‘)」と見ず、「神⇒教へ」と捉へる事か?〕。
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P322《宣長著『直毘霊』(物:場 C‘)には、『古へ(場 C‘)の大御世(おほみよ。物:場 C‘))には、道(物:場 C‘)といふ言擧(ことあげ:D1)もさらになかりき(D1の至小化)、其はただ物(物:場 C‘)にゆく道(D1の至大化)こそ有りけれ、物(物:場 C‘)のことわり〔理:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕あるべきすべ、萬(よろづ)の教へごと〔とは:『教ふる(Eの至小化)に理(F)つまり、自分流理附け(定義附け・原理附け)を以てする(Eの至小化)、或は言語(F)を以てする』の意〕をしも、何の道くれの道〔理に還元:つまり自分流理附け(定義附け・原理附け)〕といふことは、異國(あだしくに。場 C‘)のさだなり』》
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言つてみれば、⑨の鑑賞や批評(D1)で、充分に錬磨(D1の至大化)された筈の、その素早い語感(D1の至大化)が、此處〔とは:『神といふ古言(いにしへごと)の古意(いにしへごころ)』〕では、ためらつてゐる。では、何が、彼の鋭敏な語感(D1の至大化)の自由な動き(D1の至大化)を阻んでゐる(D1の至小化)か、といふ事になれば、⇒「⑫:神といふ古言(いにしへごと:F)」⇒E:⑩(古代の精神)の上で、己(⑬)の⑪を貫かう(理附け?:Eの至大化)とする、彼(⑬)の意志(理附け?:Eの至大化)が考へたくなるだらう。⑫の、⑯の生活(F)に即した使ひ方(Eの至大化:言の世界)の裡に入り込み、その覚束ない信仰(D1の至大化:事の世界)〔とは:神(物。物:場 C‘)にゆく道(D1の至大化)こそ有りけれ〕を、そのまま受入れて、これにかかづらふといふ〔つまり:宣長の徹底した考へ方『或る人(△枠)の物(F)の言ひ方(Eの至大化:言の世界)が、直ちにその人の生き方(D1の至大化:事の世界)を表はす』〕やうな事は、⑩(古代の精神)について目覺めた、彼の哲學的意識〔とは上枠文:『物(物:場 C‘)のことわりあるべきすべ、萬(よろづ)の教へごとをしも、何の道くれの道といふこと』の事か?〕の許すところではなかつた、とも言へようか」」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑬眞淵⑭宣長⑮人⑯古人(いにしへびと)(△枠):①への適應正常。
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(凝縮實在關係論)
#小林秀雄 著 #本居宣長 四十五章
P416關係論:①片付かぬ物②問題③奥の方⇒からの關係:①が,④の[哲學的意識]には殘つた.④自身はつきり意識出來なかつた,携はつてゐる②に具備する暗さ([#神代 が始まり]への泥み)。合理的解決[とは:神は人の上]などには,たじろがぬ本質的な難解性[神といふ古言の古意]が殘つた⇒④#真淵
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P416關係論:①片の付かぬもの(物:場 C‘)②問題(物:場 C‘)③奥の方(場: C‘)⇒からの關係:(承前)。①が、其處には殘つた。それ(片の付かぬもの)は、④自身、漠然(D1)と感じてはゐたが、はつきり意識出來なかつた(D1の至小化)、その携はつてゐた②〔とは:『神といふ古言(いにしへごと:F)の古意(いにしへごころ)』の事か?〕に、言はば本來備はつてゐた暗さ(D1の至小化)、②の合理的解決(D1の至大化)などには、一向たじろがぬ本質的な難解性(D1の至小化)〔とは:〕が、暗い③に殘つた〔とは:〕。どうしても、話は、其處〔とは③:『神といふ古言(いにしへごと)の古意(いにしへごころ)』の事か?〕に連れ戻される(D1の至小化)事になる」⇒「③:」(◎的概念F)⇒E:」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④眞淵(△枠):①への適應正常。
(とは以下枠文參照)
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P416關係論:①片の付かぬもの(物:場 C‘)②問題(物:場 C‘)③奥の方(場: C‘)⇒からの關係:(承前)。しかし、そのやうに〔とは前出:『彼の哲學的意識の許すところではなかつた』と〕、簡單に割り切つてみても、①が、其處には殘つた。それ(片の付かぬもの)は、④自身、漠然(D1)と感じてはゐたが、はつきり意識出來なかつた(D1の至小化)、その携はつてゐた②〔とは:『神といふ古言(いにしへごと:F)の古意(いにしへごころ)』の事か?〕に、言はば本來備はつてゐた暗さ(D1の至小化)、②の合理的解決(D1の至大化)などには、一向たじろがぬ本質的な難解性(D1の至小化)〔とは:〕が、暗い③に殘つた〔とは:〕。どうしても、話は、其處〔とは③:『神といふ古言(いにしへごと)の古意(いにしへごころ)』の事か?〕に連れ戻される(D1の至小化)事になる」⇒「③:」(◎的概念F)⇒E:」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④眞淵(△枠):①への適應正常。
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#小林秀雄 著 #本居宣長 四十五章
〇P416關係論:①暗さ②#古事記③仕事⇒からの關係:④は,この①([#神代が始まり]への泥み)をよく知つてゐた.と言ふより,もし②の訓詁といふ實際の③[とは:神(物)にゆく道こそ有りけれ/#神=#道/#迦微 は體言]に教へられなかつたら,彼は,これを本當に納得はしなかつたらう⇒④宣長
#小林秀雄 著 #本居宣長 四十五章
〇P416關係論:②#古事記③仕事④言語⇒からの關係:②に特有な④表現[古言のふり],異様な内容(#神代)を擁して平然たる④表現との親密な交はりは,④に本來備はつてゐる,何物からも説明する事の出來ない,④獨自の力[#言霊?/古人の意(こころ)の外への現れ]を,⑤にはつきりと納得させた⇒⑤宣長
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P416關係論:①暗さ(物:場 C‘)②『古事記』(物:場 C‘)③仕事(物:場 C‘)④言語(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。⑤は、この①〔とは:P394『我國の歴史が,神代といふ怪しげな時代から始つてゐる事を,どう解したらよいかといふ、古へから,世の識者(ものしりびと)等を惱ませて來た問題』〕をよく知つてゐた。と言ふより、もし②の訓詁(D1の至大化)といふ實際の③に教へられなかつた(D1の至小化)ら〔とは:『神(物。物:場 C‘)にゆく道(D1の至大化)こそ有りけれ:神=道』『迦微は體言』の事か?〕、彼は、これを本當に納得(D1の至大化)はしなかつたらう(とは以下枠文參照)。
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#小林秀雄 著 #本居宣長 四十二章
P394關係論:①上代人②意(こころ)③我國の歴史④神代⑤わが國史⇒からの關係:[誰もが眞實と信ずる,神の物語が生れて來て,それが傳へられて來た,①の②(心的事實?)を知らなければならない]を,⑥は,聊かも崩さなかつた. それ故に,③が,④といふ怪しげな時代から始つてゐる事を,どう解したらよいかといふ、古へから,⑦を惱ませて來た問題が,⑥にはおこらなかつた。⑥は極めて率直に,③が④から始つてゐる事に,⑤の紛れもない特色があると考へた⇒⑥宣長⑦世の識者(ものしりびと)等
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②に特有な言語表現(D1の至大化)〔とは:古言の『ふり』〕、異様な内容(神代?)を擁して、
平然たる(D1の至大化)言語表現(古言F⇒ふりEの至大化)との、忍耐強い、親密な交はり(とは以下枠文參照)は、④に本來備はつてゐる、何物からも説明する事の出來ない、④獨自の力〔とは:言靈?又は、古言の『ふり』即ち、『古人の意(こころ)の外への現れ』〕を、⑤に、徐々に、はつきりと納得させたに違ひない、と思はざるを得ないのである」⇒「③:」(◎的概念F)⇒E:」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠)(△枠):①への適應正常。
(とは以下枠文參照)
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P416關係論:①暗さ(物:場 C‘)②『古事記』(物:場 C‘)③仕事(物:場 C‘)④言語(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。⑤は、この①〔とは:P394『我國の歴史が,神代といふ怪しげな時代から始つてゐる事を,どう解したらよいかといふ、古へから,世の識者(ものしりびと)等を惱ませて來た問題』〕をよく知つてゐた。と言ふより、もし②の訓詁(D1の至大化)といふ實際の③に教へられなかつた(D1の至小化)ら〔とは:『神(物。物:場 C‘)にゆく道(D1の至大化)こそ有りけれ:神=道』『迦微は體言』の事か?〕、彼は、これを本當に納得(D1の至大化)はしなかつたらう(とは以下枠文參照)。
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#小林秀雄 著 #本居宣長 四十二章
P394關係論:①上代人②意(こころ)③我國の歴史④神代⑤わが國史⇒からの關係:[誰もが眞實と信ずる,神の物語が生れて來て,それが傳へられて來た,①の②(心的事實?)を知らなければならない]を,⑥は,聊かも崩さなかつた. それ故に,③が,④といふ怪しげな時代から始つてゐる事を,どう解したらよいかといふ、古へから,⑦を惱ませて來た問題が,⑥にはおこらなかつた。⑥は極めて率直に,③が④から始つてゐる事に,⑤の紛れもない特色があると考へた⇒⑥宣長⑦世の識者(ものしりびと)等
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① に特有な言語表現(D1の至大化)〔とは:古言の『ふり』〕、異様な内容(神代?)を擁して、平
然たる(D1の至大化)言語表現(古言F⇒ふりEの至大化)との、忍耐強い、親密な交はり(とは以下枠文參照)は、④に本來備はつてゐる、何物からも説明する事の出來ない、④獨自の力〔とは:言靈?又は、古言の『ふり』即ち、『古人の意(こころ)の外への現れ』〕を、⑤に、徐々に、はつきりと納得させたに違ひない、と思はざるを得ないのである」⇒「③:」(◎的概念F)⇒E:」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠)(△枠):①への適應正常。
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#小林秀雄 著 #本居宣長 三十八章
P358關係論:①古事記②神の道⇒からの關係:①は,⑤といふ博識な歌人によつて,初めて歌はれ,物語られた譯〔とは:③『本文』の曖昧極まる(Eの至小化)漢文風(F)の表記(音假名+訓字=變體漢文體)を、『本の古言(F:いにしへごと)へと復(かへ)した(Eの至大化)』事を示す〕だが,[#古事記伝]に成功したと信じた時②は,⇒③古事記(F)⇒③〔古言F:いにしへごと〕に記された(F⇒ふりEの至大化)、『神代上代のもろもろの事跡』(F)のうへに備はり(F⇒ふりEの至大化),ただゆたかにおほらかに(F),雅たる物(F)である〔ふり(F⇒Eの至大化)〕と教へる事が出來た⇒⑤宣長。
#小林秀雄 著 #本居宣長 四十三章
P399關係論:①#神⑧#古人の心⑨#古事記⇒からの關係:[⑬#直(なほ)く安らか]⇒①を歌ひ語る⑧を,⑬と觀ずる(F⇒Eの至大化) #観照 の世界から出ない⑭の努力は,何處まで觀照(⑬)の世界(F⇒Eの至小化)を擴げ深める事が出來るか,といふ一と筋に向けられる.言はば,それは #自照(古人の心である『天眞』の獲得)を通じての⑨觀照の道だつた,と⇒⑭#宣長
#小林秀雄 著 #本居宣長 四十三章
P399關係論:①#うひ山ぶみ②古書③本④上代⑤學問⑥心ばへ⑦#天眞⑬#わが心⇒からの關係:⑮は,①にある様に[何事も(營爲は悉く)②(物:C‘)によりて,その③を考へ,④の事を,詳らかに明らむる⑤]
(とは以下枠文參照)をした.研究するのは人の⑥なのであるから,是(④の⑥)を明らめる事は,この(④の⑥の)驚く程の⑦を,⑬とする事(自照)⇒⑮宣長
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#小林秀雄 著 #本居宣長 四十五章
P417關係論:①#古事記②事實③#宗教的情操⇒からの關係:①といふ謎めいた譯のわからぬ物語を,④が無批判無反省に,②と承認し,信仰したのは,④が内に育んだ③が,彼の冷静な眼を曇らせた,さう解するより仕方ない,とする考へ方に,⑤は誘はれ勝ちだが,これはいけない⇒④宣長⑤研究者
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P417關係論:①『古事記』②事實(物:場 C‘)③宗教的情操(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。①といふ謎めいた、譯のわからぬ物語(神代)を、④が、無批判無反省(D1の至小化)に、そのまま②と承認し、信仰した(とは以下枠文參照)については、④が、内にはぐくんだ(D1の至大化)③が、彼(④)の冷静な眼を曇らせた、さう解するより仕方ない(D1の至小化)、とする考へ方に、⑤は誘はれ勝ち(D1の至小化)だが、これはいけないだらう(D1の至小化)。少なくとも、さういふ餘計な考へ方(D1の至小化)で、話を混亂させる(D1の至小化)事はない」⇒「③:」(◎的概念F)⇒E:」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④宣長⑤研究者(△枠):①への適應正常。
(以下文の主旨抜粋)
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P417關係論:①『古事記』②事實(物:場 C‘)③宗教的情操(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。①といふ謎めいた、譯のわからぬ物語(神代)を、④が、無批判無反省(D1の至小化)に、そのまま②と承認し、信仰した(とは以下枠文參照)については、④が、内にはぐくんだ(D1の至大化)③が、彼(④)の冷静な眼を曇らせた、さう解するより仕方ない(D1の至小化)、とする考へ方に、⑤は誘はれ勝ち(D1の至小化)だが、これはいけないだらう(D1の至小化)。少なくとも、さういふ餘計な考へ方(D1の至小化)で、話を混亂させる(D1の至小化)事はない」⇒「③:」(◎的概念F)⇒E:」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④宣長⑤研究者(△枠):①への適應正常。
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#小林秀雄 著 #本居宣長 四十二章
P394關係論:①上代人②意(こころ)③我國の歴史④神代⑤わが國史⇒からの關係:[誰もが眞實と信ずる,神の物語が生れて來て,それが傳へられて來た,①の②(心的事實?)を知らなければならない]を,⑥は,聊かも崩さなかつた. それ故に,③が,④といふ怪しげな時代から始つてゐる事を,どう解したらよいかといふ、古へから,⑦を惱ませて來た問題が,⑥にはおこらなかつた。⑥は極めて率直に,③が④から始つてゐる事に,⑤の紛れもない特色があると考へた⇒⑥宣長⑦世の識者(ものしりびと)等
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#小林秀雄 著 #本居宣長 四十五章
〇P417關係論:①言辭(古書の註釋/#古言 の語釋)の道②#上つ代③事物④#具體性或は個性⇒からの關係:①を探る⑤の眼には,終始,何の曇りもなかつたと見ていい.#訓詁 の長い道を徹底的に辿つてみた,⑥の何一つ貯へぬ #心眼 に,②の③の #あつたがまま
の④が,鮮明に映じて來た⇒⑤宣長
#小林秀雄 著 #本居宣長 四十五章
〇P417關係論:③事物④具體性或は個性⑤#言語⇒からの關係:#心眼
に直觀される,③の意味合なり價値なりが,そのまま承認できない理由など,⑥には,何處にも見當りはしなかつた.それが,⑦の場合となると,⑦の眼前で,⑤は,[あつたがままの④]まで裸になつて見せなかつた⇒⑥宣長⑦#真淵
#小林秀雄 著 #本居宣長 四十五章
〇P417關係論:⑤#言語⇒からの關係:⑦の眼は,⑤の働きそのもの[とは例:#神=#道/#迦微 は #體言,等]に向ふより,むしろ,⑤の使用に隨伴する⑧の動き方[とは例:神⇒#教へ]を見てゐた,まだまださういふところに居た,とも言へるだらうか⇒⑥宣長⑦#真淵⑧#心
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P417關係論:①『言辭(古書の註釋・古言の語釋)の道』(物:場 C‘)②上つ代(場: C‘)③事物(物:場 C‘)④具體性或は個性(物:場 C‘)⑤言語(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。①を探る(D1)⑥の眼には、終始、何の曇りもなかつた(D1の至大化)と見ていい(とは上枠文參照)。訓詁(D1)の長い道を徹底的に辿つてみた(D1の至大化)、彼(⑥)の何一つ貯へぬ心眼(D1の至大化)に、②の③の、あつたがまま(D1の至大化)の④が、鮮明に映じて來た(とは以下枠文參照)。其處に直觀(D1の至大化)される、③の意味合なり價値(D1の至大化)なりが、そのまま承認できない(D1の至小化)理由など、彼(⑥)には、何處にも見當りはしなかつた(D1の至大化)。それが、⑦の場合となると、言つてみれば、彼(⑦)の眼前で、⑤は、そこ〔とは:『②の③の、あつたがまま(D1の至大化)の④が、鮮明に映じて』〕まで裸になつて見せなかつた(D1の至小化)。彼(⑦)の眼は、⑤の働き〔とは例『神=道』:『物(神。物:場 C‘)にゆく道(D1の至大化)こそ有りけれ:『迦微は體言』の事か?〕そのものに向ふより、むしろ、⑤の使用〔とは例:神⇒教へ〕に隨伴する⑧の動き方(D1)を見てゐた、まだまださういふところに居た、とも言へるだらうか⇒「③:」(◎的概念F)⇒E:」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長⑦眞淵⑧心(△枠)。
(以下文の主旨抜粋)
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P417關係論:①『言辭(古書の註釋・古言の語釋)の道』(物:場 C‘)②上つ代(場: C‘)③事物(物:場 C‘)④具體性或は個性(物:場 C‘)⑤言語(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。①を探る(D1)⑥の眼には、終始、何の曇りもなかつた(D1の至大化)と見ていい(とは上枠文參照)。訓詁(D1)の長い道を徹底的に辿つてみた(D1の至大化)、彼(⑥)の何一つ貯へぬ心眼(D1の至大化)に、②の③の、あつたがまま(D1の至大化)の④が、鮮明に映じて來た(とは以下枠文參照)。其處に直觀(D1の至大化)される、③の意味合なり價値(D1の至大化)なりが、そのまま承認できない(D1の至小化)理由など、彼(⑥)には、何處にも見當りはしなかつた(D1の至大化)。⑥の場合、さう端的に見れば、足りる事なのである。それが、⑦の場合となると、言つてみれば、彼(⑦)の眼前で、⑤は、そこ〔とは:『②の③の、あつたがまま(D1の至大化)の④が、鮮明に映じて』〕まで裸になつて見せなかつた(D1の至小化)。彼(⑦)の眼は、⑤の働き〔とは例『神=道』:『物(神。物:場 C‘)にゆく道(D1の至大化)こそ有りけれ:『迦微は體言』の事か?〕そのものに向ふより、むしろ、⑤の使用〔とは例:神⇒教へ〕に隨伴する⑧の動き方(D1)を見てゐた、まだまださういふところに居た、とも言へるだらうか⇒「③:」(◎的概念F)⇒E:」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長⑦眞淵⑧心(△枠)。
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#小林秀雄 著 #本居宣長 四十三章
P399關係論:①#神⑧#古人の心⑨#古事記⇒からの關係:[⑬#直(なほ)く安らか]⇒①を歌ひ語る⑧を,⑬と觀ずる(F⇒Eの至大化) #観照 の世界から出ない⑭の努力は,何處まで觀照(⑬)の世界(F⇒Eの至小化)を擴げ深める事が出來るか,といふ一と筋に向けられる.言はば,それは #自照(古人の心である『天眞』の獲得)を通じての⑨觀照の道だつた,と⇒⑭#宣長
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#小林秀雄 著 #本居宣長 四十五章
P417關係論:④#古事記⑤古事記 #神代⇒からの關係: ⑧は、④の訓詁の仕事には、遂に手を付けなかつた。⑧が遺したのは,⑤の假名書に過ぎなかつたが,借覽して,その訓讀(假名書)を讀んだだけで,⑦は,もし⑧が④の #訓詁 の仕事に,本氣に這入つて行つたら,どういふ事[#古言のふり の語釋不足]になつたかを看破してゐた⇒⑦宣長⑧#真淵
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P417關係論:①『言辭(古書の註釋/#古言 の語釋)の道』(物:場 C‘)②學問(物:場 C‘)③『低き所』(物:場 C‘)④『古事記』(物:場 C‘)⑤『古事記神代』(物:場 C‘)⑥古道(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。『低き所』(古書の註釋・古言の語釋)〕では、⑧の⑥(古代の精神)觀について、ただ漠然とした不滿しか洩さなかつた⑦も、(本質的問題には)具體的に、はつきり(D1の至大化)と口を利かざるを得なかつたのである。⑧は、④の訓詁(D1の至大化)の仕事には、遂に手を付けなかつた(D1の至小化)。⑧が遺した(D1の至大化)のは、⑤の假名書(D1の至小化)に過ぎなかつたが、借覽して、その訓讀(假名書)を讀んだだけで、⑦は、もし⑧が④の訓詁(D1の至大化)の仕事に、本氣に這入つて行つたら(D1の至大化)、どういふ事になつた(D1の至小化)か〔とは:古言の『ふり』即ち、『古人の意(こころ)の外への現れ』の語釋不足(D1の至小化)〕を看破してゐた(D1の至大化)。これは、『古事記傳』(物:場 C‘)の註解(D1の至大化)から推察出來る。⇒「③:」(◎的概念F)⇒E:」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長⑧眞淵(△枠)。
(以下文の主旨抜粋)
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P417關係論:①『言辭(言葉遣ひ)の道』(物:場 C‘)②學問(物:場 C‘)③『低き所』(物:場 C‘)④『古事記』(物:場 C‘)⑤『古事記神代』(物:場 C‘)⑥古道(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。さういふ〔とは:眞淵(△枠)の眼は、言語(物:場 C‘)の働きそのものに向ふより、むしろ、言語(物:場 C‘)の使用〔とは例:神⇒教へ〕に隨伴する心(△枠)の動き方(D1)を見てゐた、まだまださういふところに居た〕次第で、⑦の所謂①に、⑧に言はせれば、②の③(古書の註釋・古言の語釋)に焦點を合はせるやうに、話を進めて來たわけだが、かういふ所〔とは:『低き所』(古書の註釋・古言の語釋)〕では、⑧の⑥(古代の精神)觀について、ただ漠然とした不滿しか洩さなかつた⑦も、(本質的問題には)具體的に、はつきり(D1の至大化)と口を利かざるを得なかつたのである。⑧は、④の訓詁(D1の至大化)の仕事には、遂に手を付けなかつた(D1の至小化)。彼(△枠)が遺した(D1の至大化)のは、⑤の假名書(D1の至小化)に過ぎなかつたが、借覽して、その訓讀(假名書)を讀んだだけで、⑦は、もし⑧が④の訓詁(D1の至大化)の仕事に、本氣に這入つて行つたら(D1の至大化)、どういふ事になつた(D1の至小化)か〔とは:古言の『ふり』即ち、『古人の意(こころ)の外への現れ』の語釋不足(D1の至小化)〕を看破してゐた(D1の至大化)。これは、『古事記傳』(物:場 C‘)の註解(D1の至大化)から推察出來る。この點〔とは:古言の『ふり』即ち、『古人の意(こころ)の外への現れ』の語釋不足〕を、曖昧なままにして來たから、ここで、はつきりさせて置いた方がよからう」⇒「③:」(◎的概念F)⇒E:」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦宣長⑧眞淵(△枠)。
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#小林秀雄 著 #本居宣長 四十五章
① [天若日子](眞淵著:假名書[古事記神代]所載)への[#古言 のふり(#古人
のこころの外への現
れ)]⇒からの關係:①への,④の語釋不足を,③は難ずるのである.[#古へ の意をよく見明(みあき)らめて,萬世までの師と仰ぐべき人(④)すら,なほかかれば(かくあるので),古へを知るはいよいよ難きわざになむ]と③⇒③宣長④眞淵
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P418關係論:①『天若日子』(物:場 C‘)②高木神(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。①(眞淵著:假名書『古事記神代』所載)の物語で、②が『取其矢自其矢穴衝返下者(そのやをとらしてそのやのあなよりつきかへしたまいしかば)とあるところを、は、『其矢をとらし其やのみちゆつきかへしたまへば」と訓んだ。③は、これ〔とは:古言の『ふり』即ち、『古人の意(こころ)の外への現れ』の語釋不足(D1の至小化)〕を難ずる(D1の至小化)のである。『さばかり(そのやうに)古への意をよく見明(みあき)らめて、萬世までの師と仰ぐべき人(眞淵)すら、なほかかれば(かくあるので)、古へを知るはいよいよ難きわざになむ』
⇒「③:」(◎的概念F)⇒E:」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒③宣長④眞淵(△枠):①への適應正常。
(以下文の主旨抜粋)
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P418關係論:①『天若日子』(物:場 C‘)②高木神(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。が、眞淵(△枠)の『訓み』を問題とした、①(眞淵著:假名書『古事記神代』所載)の物語を擧げる(本文省略:參照)。この物語で、②が『取其矢自其矢穴衝返下者(そのやをとらしてそのやのあなよりつきかへしたまいしかば)とあるところを、は、『其矢をとらし其やのみちゆつきかへしたまへば」と訓んだ。③は、これを難ずる(D1の至小化)のである。――『矢の穴は、下國(しもつくに)より、天上(あめ)へ射徹(いぬき)たる孔(あな)なり、(古傳の趣をえしらず、かたくななる漢意におぼれて、なまさかしき人は、此の矢の穴を疑ひて、下つ國と天上との隔てに、板などの如き物あるが如く聞えて、いや(卑)しとや思ふらむ、・・(中略:參照)。さばかり(そのやうに)古への意をよく見明(みあき)らめて、萬世までの師と仰ぐべき人(眞淵)すら、なほかかれば(かくあるので)、古へを知るはいよいよ難きわざになむ』(『古事記傳』十三)⇒「③:」(◎的概念F)⇒E:」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒③宣長④眞淵(△枠):①への適應正常。
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#小林秀雄 著 #本居宣長 四十五章
P418關係論:①由來する所②古言古意③古學④仕事⑤古事記
⇒からの關係:⑦の誤りの①を思へば,見過ごせないと⑥は考へた.②の尊重といふ③の建前上, ⑦の實際の④の上で,露骨には表に出ずに濟んで來た迄の,[そのまま(あるがまま)受取る事は出來ないといふ考へ:自己的解釋]については,徹底的に考へ拔いてゐた⑥の眼を,④が⑤研究に差しかかるや,⑦は逃れる事が出來なくなつた⇒⑥宣長⑦眞淵
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P418關係論:①由來するところ(物:場 C‘)②古言古意(物:場 C‘)③古學(物:場 C‘)④仕事(物:場 C‘)⑤『古事記』(物:場 C‘)⇒からの關係:(前項省略文參照)。一見、些細な誤りだが、決定的な誤り(D1の至小化)として、⑥が指摘せざるを得なかつた(D1の至大化)については、誤り(D1の至小化)の①を思へば、見過ごせない(D1の至大化)と考へたからだ。(中略)②の尊重(D1の至大化)といふ③〔とは:古道(古代の精神)を明らかにする學問〕の建前(D1)上、それ〔とは:『そのまま(あるがまま)受取る事は出來ないといふ考へ(自己解釋)』〕は、彼(⑦)の實際の④の上で、露骨(D1の至大化)には、表に出ずに濟んで來た(D1の至小化)までであつた。しかし、その點〔とは:自己解釋〕については、徹底的に考へ拔いてゐた⑥の眼を、④が⑤研究(D1の至大化)に差しかかるや、もう逃れる事が出來なくなつた(D1の至小化)わけである」⇒⑥宣長⑦眞淵(△枠):①への適應正常。
(以下文の主旨抜粋)
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P418關係論:①由來するところ(物:場 C‘)②古言古意(物:場 C‘)③古學(物:場 C‘)④仕事(物:場 C‘)⑤『古事記』(物:場 C‘)⇒からの關係:(前項省略文參照)。一見、些細な誤りだが、決定的な誤り(D1の至小化)として、⑥が指摘せざるを得なかつた(D1の至大化)については、誤り(D1の至小化)の①を思へば、見過ごせない(D1の至大化)と考へたからだ。『下つ國(物:場 C‘)と『天上(あめ)』(物:場 C‘)と書かれてゐるところを、そのまま(あるがまま)受取る事は出來ない(D1の至小化)といふ考へ(自己解釋:D1の至小化)が無くて、この誤り(D1の至大化)は、生じやうがないではないかといふのである。だが、ここで注意したいのは、もつと微妙な事で、それは、この考へ〔とは:『そのまま(あるがまま)受取る事は出來ないといふ考へ(自己解釋)』〕を、⑦が隱してゐた(D1の至小化)といふ事だ。隱してゐたとあからさまにはいへないかも知れないが、この考へ〔とは:『そのまま(あるがまま)受取る事は出來ないといふ考へ(自己解釋)』〕をどう始末する(D1)かについては、まことに覺束無い(D1の至小化)ところがあつた。ただ、②の尊重(D1の至大化)といふ③〔とは:古道(古代の精神)を明らかにする學問〕の建前(D1)上、それ〔とは:『そのまま(あるがまま)受取る事は出來ないといふ考へ(自己解釋)』〕は、彼(⑦)の實際の④の上で、露骨(D1の至大化)には、表に出ずに濟んで來た(D1の至小化)までであつた。しかし、その點〔とは:自己解釋〕については、徹底的に考へ拔いてゐた⑥の眼を、④が⑤研究(D1の至大化)に差しかかるや、もう逃れる事が出來なくなつた(D1の至小化)わけである」⇒「③:」(◎的概念F)⇒E:」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥宣長⑦眞淵(△枠):①への適應正常。
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#小林秀雄 著 #本居宣長 四十五章
〇P419關係論:①眞淵著[#祝詞考]②#本心⇒からの關係:①の場合でも,同じ事[とは:(#祝詞 の原文を),そのまま(あるがまま)受取る事は出來ないといふ考へ:#自己流解釋]が起つた.やはり,③は,ここでも②を隱してゐるのである⇒③#真淵
#小林秀雄 著 #本居宣長 四十五章
〇P419關係論:⑪[#大祓詞]後釋(宣長著)⑬#いにしへごころ⑭#眞淵の訓詁⇒からの關係:⑪で⑯は,[今いはざらむには,世の人永く誤りを傳へて,悟る世なく,猶⑬の,明らかならざらむことの,うれたさ(辛さ)に,えしももださざるになむ(どうしても黙つてはをられないだ)]と,⑭を難ず⇒⑯宣長
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P419關係論:①眞淵著『祝詞考』(物:場 C‘)②神代(物:場 C‘)③問題(物:場 C‘)④『古事記傳』(物:場 C‘)⑤『高天原(たかまのはら)』(物:場 C‘)⑥古言(物:場 C‘)⑦古意(物:場 C‘)⑧『出雲國造神賀詞』(物:場 C‘)⑨『大祓詞』(物:場 C‘)⑩『祝詞考』(物:場 C‘)⑪『大祓詞後釋』(物:場 C‘)⑫師(眞淵。物:場 C‘)⑬いにしへごころ(物:場 C‘)⑭眞淵の訓詁(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。①の場合でも、同じ事〔とは:(原文を)『そのまま(あるがまま)受取る事は出來ないといふ考へ(自己解釋)』〕が起つた(D1の至小化)。⑮は、①を『人代を盡て、神代をうかが』はん(D1の至大化)として、書いたのだが、⑯によれば、②をうかがはん(D1の至大化)とする⑰〔とは:古道(古代の精神)を明らかにする學問〕が、先ず直面する③は、④で明らか(D1の至大化)なやうに、⑤といふ⑥(いにしへごと)のはつきり(D1の至大化)した⑦(いにしへごころ:『古人の意(こころ)』)を知る事(D1の至大化)だ。これは易しいやうで、決して易しくはない(D1の至小化)(とは以下枠文傍線參照)といふ考へが、彼(宣長△枠)にはあつた(D1の至大化)。
それから、⑪(宣長著)で、『(前略)今いはざらむには、世の人ながく誤りを傳へて、さとるよ(世?)なく、猶⑬〔古意:『古人の意(こころ)』〕の、明らかならざらむ(D1の至小化)ことの、うれたさ(忌々しさ・辛さ)に(D1の至小化)、えしももださざる(黙さざる)〔とは:どうしても黙つてはをられない〕になむ(D1の至大化)』、と、正面から、はつきりと、⑭を難じてゐる(D1の至小化)」⇒「③:」(◎的概念F)⇒E:」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑮眞淵⑯宣長⑰古學者(△枠):①への適應正常。
(以下文の主旨抜粋)
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P419關係論:①『祝詞考』(物:場 C‘)②神代(物:場 C‘)③問題(物:場 C‘)④『古事記傳』(物:場 C‘)⑤『高天原(たかまのはら)』(物:場 C‘)⑥古言(物:場 C‘)⑦古意(物:場 C‘)⑧『出雲國造神賀詞』(物:場 C‘)⑨『大祓詞』(物:場 C‘)⑩『祝詞考』(物:場 C‘)⑪『大祓詞後釋』(物:場 C‘)⑫師(眞淵。物:場 C‘)⑬いにしへごころ(物:場 C‘)⑭眞淵の訓詁(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。①の場合でも、同じ事〔とは:(原文を)『そのまま(あるがまま)受取る事は出來ないといふ考へ(自己解釋)』〕が起つた(D1の至小化)。⑮は、①を『人代を盡て、神代をうかが』はん(D1の至大化)として、書いたのだが、⑯によれば、②をうかがはん(D1の至大化)とする⑰〔とは:古道(古代の精神)を明らかにする學問〕が、先ず直面する③は、④で明らか(D1の至大化)なやうに、⑤といふ⑥(いにしへごと)のはつきり(D1の至大化)した⑦(いにしへごころ:『古人の意(こころ)』)を知る事(D1の至大化)だ。これは易しいやうで、決して易しくはない(D1の至小化)(とは以下枠文傍線參照)といふ考へが、彼(宣長△枠)にはあつた(D1の至大化)。
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#小林秀雄 著 #本居宣長 四十二章
P394關係論:①上代人②意(こころ)③我國の歴史④神代⑤わが國史⇒からの關係:[誰もが眞實と信ずる,神の物語が生れて來て,それが傳へられて來た,①の②(心的事實?)を知らなければならない]を,⑥は,聊かも崩さなかつた. それ故に,③が,④といふ怪しげな時代から始つてゐる事を,どう解したらよいかといふ、古へから,⑦を惱ませて來た問題が,⑥にはおこらなかつた。⑥は極めて率直に,③が④から始つてゐる事に,⑤の紛れもない特色があると考へた⇒⑥宣長⑦世の識者(ものしりびと)等
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⑯は、⑮が、祝詞(物:場 C‘)の中でも古い(D1の至大化)としてゐる⑧と⑨とを、⑩から特に取上げて、その『後釋』(物:場 C‘)を書いてゐる(D1の至大化)が、ここでは、⑪(宣長著)から引用すれば足りる。『そもそも⑫とある人(眞淵)のあやまち(D1の至小化)をあぐる(D1)ことは、いともかしこく(可畏く/おそれおほく)、罪さりどころ(去り處)なけれども、今いはざらむには、世の人ながく誤りを傳へて、さとるよ(世?)なく、猶⑬〔古意:『古人の意(こころ)』〕の、明らかならざらむ(D1の至小化)ことの、うれたさ(忌々しさ・辛さ)に(D1の至小化)、えしももださざる(黙さざる)〔とは:どうしても黙つてはをられない〕になむ(D1の至大化)』、と、正面から、はつきりと、⑭を難じてゐる(D1の至小化)」⇒「③:」(◎的概念F)⇒E:」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑮眞淵⑯宣長⑰古學者(△枠):①への適應正常。
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#小林秀雄 著 #本居宣長 四十五章
P420關係論:①#古事記伝②#高天原③#祝詞考⑤#本心⇒からの關係:①によれば,②とは,[虚空(そら)の上(かみ)に]有る[天(あめ)つ #神 の坐(ま)します御國]の稱(な)である.⑥の③には,②とは,高き天の廣く平らかなる所とあつて,一見似ているが,⑥は,ここでも⑤を隱してゐる⇒⑥#真淵
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P420關係論:①『古事記傳』(物:場 C‘)②『高天原(たかまのはら)』(物:場 C‘)③『祝詞考』(物:場 C‘)④宣長の考へ(物:場 C‘)⑤本心(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。①によれば(D1の至大化)、②とは、『虚空(そら)の上(かみ)に』有る『天(あめ)つ神(物:場 C‘)の坐(ま)します御國(物:場 C‘)』の稱(な)である。(本文詳細省略/要參照)⑥の③には、②とは、高き天の廣く平らかなるところとあつて、註(D1)だけ見てゐれば、⑥には、④(①)に反對する理由はないやうに見えるが、やはり、先(前項)に言つたやうな、意味合〔とは:原文を『そのまま(あるがまま)受取る事は出來ないといふ考へ(自己解釋)』〕で、⑥は、ここでも⑤を隱してゐる(D1の至小化)のである」⇒「③:」(◎的概念F)⇒E:」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥眞淵(△枠):①への適應正常。
(以下文の主旨抜粋)
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P420關係論:①『古事記傳』(物:場 C‘)②『高天原(たかまのはら)』(物:場 C‘)③『祝詞考』(物:場 C‘)④宣長の考へ(物:場 C‘)⑤本心(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。①によれば(D1の至大化)、②とは、『虚空(そら)の上(かみ)に』有る『天(あめ)つ神(物:場 C‘)の坐(ま)します御國(物:場 C‘)』の稱(な)である。もつとはつきり言へば、――その『大方(おほかた)のありさまも、神たち(物:場 C‘)の御上(みうへ)の萬づの事(物:場 C‘)も、此の國土(くに)(場: C‘)に有る事(D1)の如くになむあるを、高天の原(物:場 C‘)としも云ふは、其の〔とは:『大方(おほかた)のありさまも、神たち(物:場 C‘)の御上(みうへ)の萬づの事(物:場 C‘)も』の〕天(あめ)(物:場 C‘)にして有る事(D1の至大化)を語るときの稱(な)』なのである。③には、②とは、高き天の廣く平らかなるところとあつて、註(D1)だけ見てゐれば、⑥には、④(①)に反對する理由はないやうに見えるが、やはり、先に言つたやうな、意味合〔とは:原文を『そのまま(あるがまま)受取る事は出來ないといふ考へ(自己解釋)』〕で、⑥は、ここでも⑤を隱してゐる(D1の至小化)のである」⇒「③:」(◎的概念F)⇒E:」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑥眞淵(△枠):①への適應正常。
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#小林秀雄 著 #本居宣長 四十五章
〇P420關係論:②眞淵著[祝詞考]③下心⑤言葉⑥古言⇒からの關係:②にも,[自己流解釋]があるのを,⑨は暴露してゐる.何故⑩は無理な解を考へ出して誤るのか.⑨は,③あつての事と見る.⑫の間で取交はされた⑤が,⑥に鋭敏な⑩に,何故,素直に信られなかつたか⇒⑨宣長⑩眞淵⑫上代の人々
#小林秀雄 著 #本居宣長 四十五章
〇P420關係論:②#祝詞考⑦#天上の国⇒からの關係:②註釋文にも,⑩の[#無理な解]があるのは,⑨に言はせれば,⑪が泥(なず)んでゐる,⑦とは不合理であると言ふ考へから,脱却出來ずにゐるからだ.無理な解で,讀めば讀める,となれば,不合理は餘程緩和されると。それにしても、⑥を前にして、何といふ曖昧な態度(D1の至小化)だらう⇒⑨宣長⑩#真淵⑪世の物知人
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P420關係論:①註釋(物:場 C‘)②眞淵著『祝詞考』(物:場 C‘)③下心(物:場 C‘)④高天原(物:場 C‘)⑤言葉(物:場 C‘)⑥古言(物:場 C‘)⑦天上の國(物:場 C‘)⑧雅言(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。②の註釋文(D1)にも、(原文を)『そのまま(あるがまま)受取る事は出來ないといふ考へ』(自己解釋)、つまり、無理な解(D1の至小化)があるのを、⑨は暴露(D1の至大化)してゐる(本文詳細省略/要參照)。何故、⑩は、わざわざさういふ無理な解(D1の至小化)を考へ出して誤る(D1の至小化)のか。⑨は、これは③あつての事(D1の至小化)と見るより他はない、とするのである。明らかな(D1の至大化)、⑫の間で取交はされた(D1の至大化)⑤(祝詞の⑤)が、⑥(いにしへごと)に鋭敏(D1の至大化)な⑩に、何故、素直に信(うけ)られなかつた(D1の至小化)か。⑨に言はせれば、⑪⑪『世の物知人(ものしりびと)』が泥(なず)んでゐる(拘つてゐる/停滞してゐる:D1の至小化)、⑦⑦天上の國とは不合理(D1の至小化)であると言ふ考へ(D1)から、すつかり脱却出來ず(D1の至小化)にゐるからだ(とは以下枠文參照)。無理な解(D1の至小化)で、讀めば讀める、となれば、不合理(『天上の國とは不合理』)は餘程緩和されるといふ事になる。それにしても、⑥を前にして、何といふ曖昧な態度(D1の至小化)だらう。⇒⑨宣長⑩眞淵⑪『世の物知人(ものしりびと)』⑫上代の人々(△枠):①への適應正常。
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#小林秀雄 著 #本居宣長 四十二章
P394關係論:①上代人②意(こころ)③我國の歴史④神代⑤わが國史⇒からの關係:[誰もが眞實と信ずる,神の物語が生れて來て,それが傳へられて來た,①の②(心的事實?)を知らなければならない]を,⑥は,聊かも崩さなかつた. それ故に,③が,④といふ怪しげな時代から始つてゐる事を,どう解したらよいかといふ、古へから,⑦を惱ませて來た問題が,⑥にはおこらなかつた。⑥は極めて率直に,③が④から始つてゐる事に,⑤の紛れもない特色があると考へた⇒⑥宣長⑦世の識者(ものしりびと)等。
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(以下文の主旨抜粋)
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P420關係論:①註釋(物:場 C‘)②『祝詞考』(物:場 C‘)③下心(物:場 C‘)④高天原(物:場 C‘)⑤言葉(物:場 C‘)⑥古言(物:場 C‘)⑦天上の國(物:場 C‘)⑧雅言(物:場 C‘)⇒からの關係:(承前)。それ〔とは前項:『本心を隱してゐる』(D1の至小化)〕を、『高天原爾神留坐(たかまのはらにかむづまります)』と續く文の①(眞淵著『祝詞考』)から、⑨は暴露する(D1の至大化)。『留(つまる)』は、極く普通に『とどまる』意と解して、少しも差支へない(D1の至大化)ところを、②では、『あつまる』意と解してゐる(D1の至小化)。これははつきりと誤り(D1の至小化)であるが、何故、わざわざさういふ無理な解(D1の至小化)を考へ出して誤る(D1の至小化)のか。⑨は、これは③あつての事(D1の至小化)と見るより他はない、とするのである。④に留まり坐(いま)す(D1)とあるのは、――『皇御孫の命(みこと。物:場 C‘)の、高天の原(物:場 C‘)を離れて、此國(場: C‘)に降り坐(いませ)る(D1)に對(こた)へて、降り坐さぬ神を、留り坐すとは申せる也、世間に、旅路に出立ち行く人の、其の國人(△枠)をさして、國(場: C‘)にとどまれる人といふと、同じこころばへ(D1の至大化)なり、されば此の言は、御孫の命(みこと。物:場 C‘)の新たに天降り坐(いま)つるころ(場: C‘)申せし(D1)言の傳はりたる(D1の至大化)物也』、――これほど明らかな(D1の至大化)、上代の人々(△枠)の間で取交はされた(D1の至大化)⑤が、⑥(いにしへごと)に鋭敏(D1の至大化)な⑩に、何故、素直に信(うけ)られなかつた(D1の至小化)か。⑨に言はせれば、⑪が泥(なず)んでゐる(拘つてゐる/停滞してゐる:D1の至小化)、⑦とは不合理(D1の至小化)であると言ふ考へ(D1)から、すつかり脱却出來ず(D1の至小化)にゐるからだ(とは以下枠文參照)。そこで、もし『とどまる』が、『あつまる』と讀めば讀める、となれば、不合理(『天上の國とは不合理』)は餘程緩和されるといふ事になる。それにしても、⑥を前にして、何といふ曖昧な態度(D1の至小化)だらう。
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#小林秀雄 著 #本居宣長 四十二章
P394關係論:①上代人②意(こころ)③我國の歴史④神代⑤わが國史⇒からの關係:[誰もが眞實と信ずる,神の物語が生れて來て,それが傳へられて來た,①の②(心的事實?)を知らなければならない]を,⑥は,聊かも崩さなかつた. それ故に,③が,④といふ怪しげな時代から始つてゐる事を,どう解したらよいかといふ、古へから,⑦を惱ませて來た問題が,⑥にはおこらなかつた。⑥は極めて率直に,③が④から始つてゐる事に,⑤の紛れもない特色があると考へた⇒⑥宣長⑦世の識者(ものしりびと)等。
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この態度(D1の至小化)については、⑨は、更に、かういふ事を言つてゐる(D1の至大化)、――『祝詞考(物:場 C‘)に、下つ國(場: C‘)に降り坐(いませ)ぬを、天(物:場 C‘)にとどまり坐(いま)すといはむは、⑧(みやびごと)とも聞えずといはれたるは、心得ず(D1の至小化)、かかることに、⑧(みやびごと)不⑧のあるべきにあらず(D1の至小化)』と。これはなかなか面白い指摘(D1の至大化)なのである」⇒「③:」(◎的概念F)⇒E:」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒⑨宣長⑩眞淵⑪『世の物知人(ものしりびと)』(△枠):①への適應正常。
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