令和五年八月十日

『福田恆存を讀む會』

吉野櫻雲 發表文

 

 

單行本『人間の生き方、ものの考へ方』

《P11:講義1「惡に耐える思想」(昭和三十七年八月十九日:五十一歳)》

 

*この「講義1」には、他講義と同樣、既に向後名評論(以下)の下地があるのが窺はれる。

『醒めて踊れ』全集第七巻 昭和五十一年:六十五歳

『せりふと動き』全集第七巻(當評論:實記載年は昭和五十二年:六十六歳

 

*「各項目」全般、陰に陽に色濃く共通してゐる主題は、以下内容だと感じる。よつて各項目中該當する文面に「黄色帶」を附した。

以下「 」内が恆存文。( )〔 〕内は吉野注。

 

*P28「それ〔善惡(F)の混迷(Eの至小化)〕が如何に絶望的(Eの至小化)であつても、私はどうしてもそこ〔とは:假説(價値觀/前提。場: C‘)による善惡(F)の混迷(Eの至小化)〕に行きついた(Eの至小化)うへでものを考へなければ(Eの至大化)いけないと思ふのです。だが人々(△枠)は皆勝手(D1の至大化)に、知らないうちにある約束(假説/價値觀/前提。場: C‘)を受け入れて(D1の至小化)、その(約束)通りに言葉(F)を用ゐて怪しまない(Eの至小化)のです。現代(場: C‘)における混亂(D1の至小化)のすべての原因(D1の至小化)は、ここ〔假説/價値觀/前提(場: C‘)不問(D1の至小化)による、言葉(F)の距離不測定(Eの至小化)〕にあると申せませう」。

*P41「西洋(價値觀/前提。場: C‘)の近代〔近代化(D1の至大化)〕を受け入れてゐる私たち(枠)の無理な姿勢〔「近代化適應異常(D1の至小化)」の姿勢〕を正しく見きはめて、何とかして近代文明に對應し得る〔近代化適應「正常」(D1の至大化)の〕思想(D1の至大化)を作り上げねばならないと思ひます」。

P51「私が日本獨自の思想といふ場合でも、なにも神がかり式に言つてゐるのではありません。日本は明治以後(價値觀/前提。場: C‘)、古今未曾有の經驗(近代化適應)をしたのです。が、そこには大きな無理があつた、その無理を調整する〔とは:『對應する方法は言葉や概念に囚れず、逆にこれを利用すること、即ち言葉の用法(言葉の自己所有化?)にすべてが懸つてゐる。自分と言葉との距離』の測定〕のが日本獨自の思想であるといふやうに考へます」。

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追記

〔「物」に對する日本人の感覺〕項目の以下文

「一種の美意識(型:Eの至大化)といふか、文化(D1の至大化)感覺といふか、さういふものが私たちの中に自づからに備はつてゐた。それが明治以來(場:C‘)崩れて來た〔とは:美意識(型:Eの至大化)の摩耗=文化(D1の至大化)の衰退〕」(〔難解又は重要文〕P13)

及び、〔『現實』の意味〕項目に於ける「現代日本の混亂」に關するレジュメ文を再讀してゐて、ふと、以下『日本および日本人』文章中の傍線部分が頭に浮かんだ。

『日本および日本人』から以下「 」内が恆存文。( )〔 〕内は吉野注。

 

「私は、日本人のさういふ美感〔「調和の美感」即ち「祓ひ清めて和に達する」(儀式E: 美的潔癖⇒和)といふ態度〕が、明治以來、徐々に荒らされていくのを殘念におもふと同時に、またそれ(美感)だけが頼るべき唯一のものであり、再出發のための最低の段階であると信じてをります。日本人に『罪惡』の問題を識別する抽象化の能力が缺けてゐることはたしかであり、それが調和を愛する感覺的美感によつて助長されてゐることもまた疑ひの餘地のないところですが、さればといつて、これ(美感)を土臺としないかぎり、わたしたちは動きがとれないのです。第一、それを無視して押しつけてくる抽象的觀念(ネオ漢語等)といふものにたいして、私たちの美感は、そもそもそれを歪んでゐるものと見なすでせう」(『日本および日本人』P176)

 以前から、『日本および日本人』文に觸れる度、「それ(美感)だけが頼るべき唯一のものであり、再出發のための最低の段階である」の文に、「現代の樣な美意識喪失の時代に、恆存は何を謂はんとしてゐるのか」と、小生は引つかかりを禁じ得なかつたのだが、今般、この謎が解けたやうな氣がする。

 「それ(美感)だけが頼るべき唯一のもの」云々、即ち、日本に於ける「美意識の復元」は、以下思想(『關係論』)にと、結實しているのではなかろうか、と小生は想ひ至つたのである。

《美感(美意識)に據る再出發とは、「言葉の用法(so called:精神の政治學)の成立(Eの至大化)」、「關係(D1)と言ふ眞實を生かす(D1の至大化)」事に有り》

 

*上述の、美感(美意識)の缺如(即ち:Eの至小化)を埋めるものとして、以下「關係論」に於ける、「言葉の用法(so called:精神の政治學)の成立(Eの至大化)・自分と言葉との距離測定の成立(Eの至大化)」を、その手立てと考へ、美意識復元(Eの至大化)に繋がるものと恆存は捉へたのではなからうか。

つまり、以下、補足的文中で謂ふ「さういふ能力(Eの至大化=D1の至大化)こそ、精神の政治學としての近代化(D1の至大化)」文が、奇しくも、美感(F美意識)の復元(F⇒Eの至大化)に當たるのだと、恆存は言つてゐるのではなからうか。

 

〔參照補足〕

P51「私が日本獨自の思想といふ場合でも、なにも神がかり式に言つてゐるのではありません。日本は明治以後(價値觀/前提。場: C‘)、古今未曾有の經驗(近代化適應)をしたのです。が、そこには大きな無理があつた、その無理を調整する〔とは:『對應する方法は言葉や概念に囚れず、逆にこれを利用すること、即ち言葉の用法(言葉の自己所有化?)にすべてが懸つてゐる。自分と言葉との距離』の測定〕のが日本獨自の思想〔つまり:美感/美意識(Eの至大化)〕であるといふやうに考へます」。それは他國におしつけるやうな性質のものではない。日本だけに通用する、日本人を生かす道でなければなりません。しかし明治以後(價値觀/前提。場: C‘)日本が苦しんできたもの(近代化適應:D1)は、多かれ少なかれ西洋自身(價値觀/前提。場: C‘)の問題(即ち:近代化適應D1)でもあるわけですから、そこ〔とは:近代化適應の無理を調整する〕に生れてくる日本獨自の思想〔とは「F言葉⇒Eの至大化(距離測定)」:言葉の用法/自分と言葉との距離の測定/so called/精神の政治學〕といふものは結果としては世界のためにもなると思ひます。すなはち、西洋(價値觀/前提。場: C‘)でも近代(D1)といふものの弱點〔とは:「衰退:デクリネイション/必要惡:ネセサリー・イーブル」?〕が段々暴露して、化けの皮を現はしはじめてきた、文明開化一點張りで來たのに對して、人間の精神(B)が追ひつけなくなつてきた〔とは例:上記枠文『疎外』、『人間關係の稀薄』『個人主義=絶對全體喪失(衰退)』等?〕のです。それは日本の近代が明治以後(價値觀/前提。場: C‘)苦しんできたもの〔とは例:『無限定(絶對全體喪失)の自己』?〕なので、むしろこちらの方が一足お先に被害を蒙つてゐるのです。原爆を受けた以上に――原爆を受けたことは大したことではないので、その前に日本(△枠)は西洋文明〔西洋(價値觀/前提。場: C‘)⇒近代化(D1の至大化)〕といふ原爆を受けて(D1の至小化)その中で苦しみながら〔近代化適應異常(D1の至小化)〕ながら今日(場: C‘)ここまで至つてゐるのです。従つてその中から生み出される思想(D1の至大化)〔とは「F言葉⇒Eの至大化(距離測定)」:言葉の用法/自分と言葉との距離の測定/so called/精神の政治學〕は、結果として西洋(價値觀/前提。場: C‘)に影響を與へる(D2の至大化)ことが出來ると思ひます。しかしそれ〔西洋(價値觀/前提。場: C‘)に影響を與へる(D2の至大化)〕が目的ではないので、あくまでも日本(△枠)がどう生きていけばいい(D1)のか、それ〔どう生きていけばいい(D1)のか〕に眞劍に取り組まなければ(D1の至大化)いけないし、そこに必ずや何ものかが生れてくる筈だ、私はそれを日本獨自の思想〔とは:「完成せる統一體としての人格」論の事か?〕と申上げたまでです」。

 

以下は,レジュメ文〔あらゆる思想は惡をもつてゐる〕から

*「近代〔近代(價値觀/前提。場: C‘)〕を動かしてゆく〔とは:近代化適應(D1の至大化)の〕根本思想(D1の至大化)、哲學(D1の至大化)が生れてこなければなりません」の「根本思想、哲學(D1の至大化)」について、該當する恆存の論を探すと、十四年後評論『醒めて踊れ』で展開された、以下「關係論」(前述)しか小生には思ひ當たらない。

 

關係論①西歐近代(價値觀/前提。場: C‘)⇒からの關係:①から生ずる近代化〔②絶對全體喪失(衰退:デクリネイション)/(③必要惡:ネセサリー・イーブル)/ハードウェア〕⇒「④惡(F)群:人間主義(F)個人主義(F)資本主義(メカニズム等々F:ハードウェア」(②③的概念F)⇒E:故に、④への「距離測定能力/so called/精神の政治學(Eの至大化)」も、④(F)に耐える思想〔とは考へ:F惡⇒Eの至大化(ソフトウェア)〕と捉へられると言ふ事」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒國・人間(△枠):①②③への適應正常。

 

*「私はどうしてもそこ〔とは:假説(價値觀/前提。場: C‘)による善惡(F)の混迷(Eの至小化)〕に行きついた(Eの至小化)うへでものを考へなければ(Eの至大化)いけないと思ふのです。だが人々(△枠)は皆勝手(D1の至大化)に、知らないうちにある約束(假説/價値觀/前提。場: C‘)を受け入れて(D1の至小化)、その(約束)通りに言葉(F)を用ゐて怪しまない(Eの至小化)のです。現代(場: C‘)における混亂(D1の至小化)のすべての原因(D1の至小化)は、ここ〔假説/價値觀/前提(場: C‘)不問(D1の至小化)による、言葉(F)の距離不測定(Eの至小化)〕にあると申せませう」(P28)。

*P41「西洋(價値觀/前提。場: C‘)の近代〔近代化(D1の至大化)〕を受け入れてゐる私たち(△枠)の無理な姿勢〔「近代化適應異常(D1の至小化)」の姿勢〕を正しく見きはめて(とは以下枠文參照)、何とかして近代文明に對應し得る〔近代化適應「正常」(D1の至大化)の〕思想(D1の至大化)を作り上げねばならないと思ひます」。

〔上述『正しく見きはめて』とは、以下の樣に見きはめる(so called)事を言つてゐるのであらう〕

*①場(西歐近代)⇒から生ずる關係(近代化:實在物)⇒②言葉(潜在物:關係的概念)〔技術や社會制度的言葉、即ち機械化・組織化・劃一化・合理化等々〕⇒②の用法(so called)成立・自分と言葉との距離測定の成立⇒①との關係の適應正常化(場への非沈湎、即ち近代化適應正常)。

 

『醒めて踊れ』(全七P393上)より。

*「近代化の必要條件は技術や社會制度など、所謂『ハードウェア』のメカナイゼーション(機械化)、システマライゼーション(組織化)、コンフォーマライゼーション(劃一化)、ラショナライゼーション(合理化)等々の所謂近代化に對處する精神の政治學の確立、即ち所謂『ソフトウェア』の適應能力にある。マルクスの言ふ疎外は何も資本主義社會特有のものではなく、共産主義社會、全体主義社會にも生ずるものであり、また有史以來その度を増して來たものである。それに對應する方法は言葉や概念に囚れず、逆にこれを利用すること、即ち言葉の用法(言葉の自己所有化?)にすべてが懸つてゐる。自分と言葉との距離が測定出來ぬ人間は近代人ではない。いや人間ではない」。

 

關係論「①場(場面)⇒からの關係(實在物)⇒②言葉(F潜在物:關係的概念)⇒②の用法(F⇒Eの至大化)で②と③との距離測定の成立(Eの至大化)⇒③自分(△枠):①への適應正常(D1の至大化)が叶へられる」。

〔例:國家の近代化への關係論〕

關係論①場(西歐近代)⇒から生ずる關係:〔近代化(D1の至大化):實在物〕⇒②言葉(F潜在物:關係的概念)〔F:技術や社會制度的言葉、即ち機械化・組織化・劃一化・合理化等々〕⇒②の用法(so called:精神の政治學)成立(Eの至大化)・③と②との距離測定の成立(Eの至大化)⇒③自分(△枠):①との關係の適應正常化(D1の至小化)(①への非沈湎、即ち近代化適應正常:D1の至大化)。

 

〔補足説明〕:參照⇒PP圖「關係と称する實在物:二頁」2.kankeitoshousurujituzaibutu.pdf

*「言葉(F)と話し手との間に距離(E)を保ち(Eの至大化)、その距離を絶え間なく変化させねばならぬのと同様に、相手と共に造り上げた場と自分との間(D1)にも距離を保たねばならず(D1の至大化)、その距離を絶えず変化させ得る能力がなければいけない。さういふ能力(Eの至大化=D1の至大化)こそ、精神の政治學としての近代化(D1の至大化)といふものなのである」(『醒めて踊れ』)。

*言葉(F)との附合ひ方である「so called=所謂何々=Eの至大化」「フレイジング=Eの至大化」の効果的用ゐ方で、「自分(△枠)と言葉(F)との距離の測定が出來(Eの至大化)」「言葉(F)を自己所有化(Eの至大化)する事が出來る」。その働きによつて、結果的に場( C‘)と言ふ對象から自分を分離(非沈湎化:D1の至大化)させる事が可能となり、ひいては「場( C‘)との關係を適應正常化(D1の至大化)」させる事へと繋がる(『醒めて踊れ』)。

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上述と同意なのではあるが、更に言葉を換へて言へば、「場( C‘)から生ずる關係(D1)と言ふ眞實を生かす(D1の至大化)」を、日本人の美感(美意識)復元(Eの至大化)の爲の、「頼るべき唯一のものであり、再出發のための最低の段階である」と、恆存は捉へたのではなからうか。

 

〔補足説明〕

*場( 西歐: C)から生ずる、「關係(D1)と稱する實在物(近代化=ハードウェア)は、潜在的には一つのせりふ(F:技術や社會制度的言葉、即ち機械化・組織化・劃一化・合理化等々のハードウェア)によつて表し得る」。故にその言葉(F)との附合ひ方(ソフトウェア「So called」の適應能力:F⇒Eの至大化)即ち「言葉(F)の用法(Eの至大化)」「自分と言葉との距離測定(Eの至大化)」によつて、人間は場( C‘)との關係の適應正常化D1の至大化が叶へられる、と言ふ事になる(『醒めて踊れ』)

*「關係(D1)と言ふ眞實(目上⇔目下・親⇔子・師⇔弟子・國⇔國民、等々)。その(關係と言ふ)『眞實を生かす(D1の至大化)ために一つのお面をかぶる』〔「誠實・至誠・愛・慈悲」等と言ふ名の宿命的役を演ずる(D1の至大化):自己劇化〕」(單行本『生き甲斐といふ事』中、對談「反近代につひて」P195 ・199)。

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講義1「惡に耐える思想」

 

〔日本の思想と西洋の思想〕

〔難解又は重要文〕P11「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

*「今日の思想の混亂のもとは、いふまでもなく明治時代(場: C‘)に西洋(場: C‘)の思想を受け入れて(D1の至大化)、その結果(『近代化適應異常』)として生じた(D1の至小化)ものなのです」。

*「混亂の姿(『彼我の差』)といふものが本當に私たち(△枠)の目に映つてゐたなら、解決はそれぞれの人に應じて當然起つて來るはず。(中略)大事なことは解決を急ぐことではなく、混亂してゐる現實〔西歐近代(場: C‘)⇒からの關係:『近代化適應異常』(D1の至大化)〕を誰でも(△枠)がその人なりにはつきりと見きはめる事だと思ひます」・・・上記は「重要文」として記載した。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。

 

〔言葉は主觀的なものである〕

〔難解又は重要文〕P13~「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

*「道具(F)といふものは物(場 C‘)と心(人△枠)が出會ふ(即ち、D1の至大化=Eの至大化)場所である」。

*「職人(△枠)が如何に道具(F)を大切にする(物・言葉(F)との距離測定の成立:Eの至大化)か」。

*「大工(△枠)さんが(道具Fを)使ふ(E)のに一番いい状態(物・言葉(F)との距離測定の成立:Eの至大化)にある事が最も機能的(Eの至大化)であると言へる」。

*P15「手足もまた道具(F)なのです。その人の生理(A△枠)あるいは心理(B△枠)といふものにぴつたり密着して機能的に動いてゐる(物・言葉との距離測定の成立:Eの至大化)道具(F)なのです。道具(F)といふものは決して單なる物質、物ではない。すなはち物(F)ではあつても、必ず主體である私たち(△枠)精神(B)とか心(B)とかいふものの癖を受けてゐる(Eの至大化)ものなのです。いかなる物(道具・言葉:F)も必ず私たちの心(△枠)がそこにしのび込んでゐる(物・言葉(F)との距離測定の成立Eの至大化)。(中略)物(F)といふものは必ずそれを使ふ人(△枠)の手癖になじんで物・言葉(F)との距離測定の成立Eの至大化)ゐる。あらゆる物(F)がその人(△枠)の生き方(教養:Eの至大化)を内に含んでゐる(物・言葉(F)との距離測定の成立:Eの至大化)のです。(中略)道具(F)にしろ物(F)しろ、それはすべて心(△枠)を離れて(Eの至小化)は存在しない。心(△枠)そのものである。あるいは心(△枠)と物(F)とが、物質(F)と精神(B=△枠)とが出會ふ(物・言葉との距離測定の成立:Eの至大化)場所である。道具(F)といふものはこのやうに考へるべきだと思ひます」。

・・・上記各項とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして更には以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。

〔過日「レジュメ」で使用した以下「PP圖」(『歴史・文化・型」について』)の内容が參考になる〕

 

*「大事な事は物(F言葉:圖) )を生き物として附合ふ(Eの至大化)事である」(『「人間國寶」序』より)。

*「物(左圖)」と「生き物として附合ふ(右圖)」との違ひ。

⇒PP圖『歴史・文化・型」について』rekisi.bunnka.kata.pdf へのリンク 

*尚、上記各項文は以下の「關係論」文に置き換へる事が可能である。

關係論:①物(相手。場 C‘)⇒からの關係:道具(③F)といふものは「◎:①と②(人△枠)が出會ふ(D1の至大化)」場所である〔即ち:「關係(D1)と稱する實在物は、潜在的には一つの言葉(F:道具)によつて表し得る。故にその言葉(F:道具)との附合ひ方(フレイジング・So called:E)によつて、人間は場(場: C‘)との關係の適應正常化(D1の至大化)が叶へられる」と換言が可能。⇒「③:道具・手足・物(F)」(◎的概念F)⇒E:自分(②)と③(F)との距離測定の成立(Eの至大化)」、つまり『大切にする/一番いい状態/最も機能的/ぴつたり密着して機能的に/癖を受けてゐる/しのび込んでゐる/生き方(教養)を内に含んでゐる(即ち各:Eの至大化)上項傍線部分)で、「③(F)を自己所有化(Eの至大化)する」⇒②心(人△枠)/大工(△枠)/私たち(△枠)/精神(B)とか心(B:①への適應正常(D1の至大化)。

 

〔難解又は重要文〕P16~「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

*「言語道具説(言語F=道具F)といふのは決して惡いことではない。言葉(F)といふものは、言葉(F)といふ客觀的(Eの至大化)な存在と、私たち(△枠)の心(△枠)が出會ふ(Eの至大化)場所といふ意味での道具(F)なのであります。しかし、(中略)言葉(F)もとかくそれを使ふ人(△枠)から離れた客觀的(Eの至大化)な意味をもつてゐると思ひ勝ちなのです。しかしこれが大きな間違ひ(Eの至小化)であつて、マイクロフォン(F)とか、コップ(F)とか、それを使ふ人(△枠)の個人差(Eの至大化/至小化)が少なく、獨立に存在し得る要素(客觀性:Eの至大化)の強い言葉(F)もありますが、言葉(F)によつてはむしろ主觀的な要素(Eの至小化)を非常に強くもつてゐるのです」。

*「道具(F)といふ言葉(F)が良い例で、それを死物(Eの至小化)と解してゐる人(△枠)もあり、生き物(Eの至大化)と解してゐる人(△枠)もある」。

*「母親(F)だとか戀人(F)とかいふ言葉(F)を考へて見ればわかる。一體母親(F)といふのは萬人にとつて共通の存在(客觀性:Eの至大化)であるか。たしかに、自分(△枠)を生んでくれた女といふ共通な意味(客觀性:Eの至大化)はもつてをります。ところがわれわれは母(F)と言ふ言葉を決してさういふ動物的な意味(客觀性:Eの至大化)で使つてゐるわけではなくて、個人個人(△枠)によつて起る千差萬別(主觀性:Eの至小化)のイメージをそれにこめて使つてゐるのです」。

*「戀(F)だとか愛(F)だとかいふ言葉も同樣で、それらの言葉(F)を皆(△枠)一樣に使つては(客觀性:Eの至大化)をりますが、その場合使ふ人(△枠)によつて意味してゐる内容は一人一人(△枠)違ふ(主觀性:Eの至小化)わけです。それに氣がつかないで『愛』(F)といふ言葉には何か客觀的な共通な意味(Eの至大化)があるものだときめてかかつて安心(錯覺:Eの至小化)してゐる。ところがしばらくたつてその違ひがやつとわかつてくる。『愛』(F)といふ言葉は共通なもの(客觀性:Eの至大化)だと思ひこんだ錯覺(Eの至小化)から來てゐる。このやうにみんなが自分(△枠)が使ひ易いやう〔客觀性(Eの至大化)・主觀性(Eの至小化)を自由〕に、言葉(F)を自分(△枠)の道具(F)として使つてゐる(E)のです。愛(F)や母親(F)や、その他あらゆる言葉(F)がその人個人(△枠)の言葉(F)〔つまり:客觀性(Eの至大化)・主觀性(Eの至小化)を自由使用〕となつてしまつてゐる。すなはちそれは國語(公語)といふよりもその人(△枠)の個人語(私語:Eの至小化)なのです。(中略)ところが何か同じ國語をしゃべつてゐると、すつかり同じ言葉(F)を使つてゐるやうに思ひこんで(錯覺:Eの至小化)そこに混亂〔言葉(F)の用法(so called)不成立・言葉との距離測定の不成立:適應異常(Eの至小化)〕がおこるのです」。

*「言葉(F)といふものは客觀的(Eの至大化)なものではない、といふよりも自分(△枠)の生命そのもの〔とは:言葉(F)によつてはむしろ主觀的な要素(Eの至小化)を非常に強くもつてゐる。換言すれば、先述『生き方(教養)を内に含んでゐる』(Eの至大化)の事〕である」。

・・・上記各項とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして更には以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。

〔上記の文も前項同樣、向後の評論『醒めて踊れ』『せりふと動き』等で論究されてゐる、以下の恆存「關係論」を引用して捉へると分かり易いと小生には思へる〕

 

*「①場(場面)⇒からの關係(實在物)⇒②言葉(潜在物:關係的概念)⇒②の用法で②と③との距離測定の成立⇒③自分(△枠):①への適應正常が叶へられる」。

〔例:國家の近代化への關係論〕

  場(西歐近代)⇒から生ずる關係(近代化:實在物)⇒②言葉(潜在物:關係的概念)〔技

術や社會制度的言葉、即ち機械化・組織化・劃一化・合理化等々〕⇒②の用法(so called:精神の政治學)成立・③と②との距離測定の成立③自分(△枠):との關係の適應正常化(①への非沈湎、即ち近代化適應正常)。

 

*と言ふ事で、上記各項文は以下の「關係論」文に置き換へる事が可能である。

關係論:①物(相手。場 C‘)⇒からの關係:道具(言葉F)といふものは「◎:①と②(△枠)が出會ふ(D1の至大化)」場所である〔即ち:「場(物/對象。場: C‘)から生ずる關係(D1)と稱する實在物は、潜在的には一つの言葉(F:道具)によつて表し得る。故にその言葉(F:道具)との附合ひ方(フレイジング・So called:E)によつて、人間は場との關係の適應正常化(D1の至大化)が叶へられる」と換言が可能⇒「言葉F群:③マイクロフォン/コップ(F)④母親/戀人//愛(F)」(◎的概念F)⇒E:③のやうに獨立に存在し得る要素(客觀性:Eの至大化)の強い言葉(F)もあるが、④等によつてはむしろ主觀的な要素(Eの至小化)を非常に強くもつてゐる。それに氣がつかないで④の『愛』(F)といふ言葉には何か客觀的な共通な意味(客觀性:Eの至大化)があるものだときめてかかつて安心(錯覺:Eの至小化)してゐる。②(△枠)が使ひ易いやう〔客觀性(Eの至大化)・主觀性(Eの至小化)を自由〕に、③④を②(△枠)の道具(F)として使つてゐる(E)。そこに混亂〔言葉(F)の用法(so called)不成立・言葉(F)との距離測定の不成立:適應異常(Eの至小化)〕がおこる。言葉(F)といふものは客觀的(Eの至大化)なものではない、といふよりも②(△枠)の生命そのもの〔とは:『言葉(F)によつてはむしろ主觀的な要素(Eの至小化)を非常に強くもつてゐる』。換言すれば、先述『生き方(教養:Eの至大化)を内に含んでゐる』の事〕」〔③④(F)への距離不獲得(not o called:Eの至小化)〕⇒②自分/個人個人//一人一人/その人個人(△枠):①への適應異常。

⇒參照PP圖關係(D1)と稱する實在物』について:kankeitoshousurujituzaibutsu1.2.pdf へのリンク

 

〔「物」に對する日本人の感覺〕

〔難解又は重要文〕P13~「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

  「大體道具(F)や物(F)を自分(△枠)から離れた死物(Eの至小化)として扱ふのは、

日本人(△枠)本來の生き方ではない。明治以前(場: C‘)の日本人(△枠)はさういふ扱ひ方(Eの至小化)はしてゐなかつた」。

  「そもそも倹約とは物(F)自體を尊ぶ(Eの至大化)といふ事」。

③「例へばよその家(場: C‘)で出された食事(F)を殘すと『もつたいない』(Eの至小化:消極的概念)と考へる。それは第一にその食物(F)に食物(F)としての本來の機能を發揮せしめなかつた(Eの至小化)から『もつたいない』(Eの至小化)のです。第二にその食物(F)を作つてくれた相手の家の人(場: C‘)の誠意(D1の至大化)を十分に受けとめ得なかつた(D1の至小化)といふ意味で『もつたいない』(Eの至小化)わけです(即ち:「D1の至小化=Eの至小化」)。このやうにすべて物質(F)の中に何か心を見て行く(Eの至大化=D1の至大化)といふのが日本人(△枠)の本來の生き方(Eの至大化)です。さういふ點で、一種の美意識(型:Eの至大化)といふか、文化(D1の至大化)感覺といふか、さういふものが私たちの中に自ずからに備はつてゐた。それが明治以來(場:C‘)崩れて來た〔とは:美意識(型:Eの至大化)の摩耗=文化(D1の至大化)の衰退〕わけですが、それはいふまでもなく西洋文明をとり入れたから(近代化適應異常)に外なりません」(とは以下「關係論」參照)。⇒參照PP圖『歴史・文化・型」について』

關係論:①よその家(場: C‘)⇒からの關係:①で出された〔即ち、◎:①との關係の適應正常(D1の至大化)〕」⇒「②:食事(F)」(◎的概念F)⇒E:②を殘す(Eの至小化)と『もつたいない』(Eの至小化:消極的概念)と考へる。それは第一にその②に②としての本來の機能を發揮せしめなかつた(Eの至小化)から『もつたいない』(Eの至小化)のです。第二にその②を作つてくれた(Eの至大化)相手の家の人(①)の誠意(D1の至大化)を十分に受けとめ得なかつた(D1の至小化)といふ意味で『もつたいない』(Eの至小化)わけです(即ち:「Eの至小化=D1の至小化」)。このやうにすべて物質(②他)の中に何か心を見て行く〔とは:物(②他F)との距離測定(Eの至大化)=D1の至大化)〕といふのが③(△枠)の本來の生き方(Eの至大化)です。一種の美意識(型:Eの至大化)といふか、文化(D1の至大化)感覺といふか、さういふもの(即ち:「Eの至大化=D1の至大化」)が私たち(③)の中に自ずからに備はつてゐた。それが明治以來(場: C‘)崩れて來た〔とは:美意識(型:Eの至大化)の摩耗=文化(D1の至大化)の衰退〕わけですが、それはいふまでもなく西洋(場: C‘)文明(近代化)をとり入れたから(近代化適應異常:D1の至小化)」⇒③日本人(△枠)。

④「西洋人(△枠)にもさういふ感覺〔『物(F)を物(F)として生かす(Eの至大化)といふ感覺』〕はある筈ですが、それはわれわれ(△枠)とは違つて西洋風に生きてきた(Eの至大化)。さういふ西洋人(△枠)の生き方(二元論:Eの至大化)に則つて自然科學(F)が發達し(Eの至大化)、科學文明(近代化:D1の至大化)が生じ、機械(F)が生れた(Eの至大化)のです」(とは以下參照)。

  場(西洋近代)⇒から生ずる關係〔近代化(科學文明):實在物〕⇒②言葉(潜在物:關係

的概念)〔技術や社會制度的言葉、即ち『自然科學』・機械化・組織化・劃一化・合理化等々〕⇒②の用法〔生き方(二元論:Eの至大化)〕⇒③西洋人(枠):との關係の適應正常化(①への非沈湎、即ち近代化適應正常)。

⑤「ところがそれ〔とは:『西洋風に生きてきた(Eの至大化)、西洋人(△枠)の生き方(二元論:Eの至大化)』〕が日本(△枠)に來たとき、われわれ(△枠)はその基である西洋人(△枠)の『心遣ひ』(生き方/二元論:Eの至大化)を受け取らずに、出來上つた『物』(F)の方だけを受け取つた(Eの至小化)。従つて西洋(場: C‘)の文明(近代化:D1の至大化)がはいつてきた時、それは單なる物(F)としてしか目に映らなかつた〔つまり:『科學製品は輸入できても科學精神は移植できなかつた』の意〕のです。(中略)西洋(場: C‘)の發達した機械(F)になると、人間(△枠)から完全に離れた(Eの至小化)ものと思ひこんで(Eの至小化)しまつた」。

⑥「しかし明治の人々(△枠)が便利な機械(F)を見たとき、それが完全に『物』(物體)に見えた(Eの至小化)のは無理からぬ。(中略)結局はその時代(場: C‘)の宿命(前近代:D1の至小化)であつたと思ふのです。これは目に見える機械(F)や道具(F)だけではありません。政治上の制度(F)でもさうです。民主主義的な議會制度(F)にしろ官僚組織(F)にしろ、すべてそれ(F)は物(物體)としか見えなかつた(Eの至小化)。單に西洋(場: C‘)文明(近代化)に追ひつき(D1の至大化)、西洋(場: C‘)文明(近代化)をものにする(D1の至大化)一つの道具(F:物體)として支配(錯覺的:Eの至大化)して行けばいいと考へたわけです」。

⑦「西洋(場: C‘)でこれだけの價値を發揮(D1の至大化)したものならば、日本(場: C‘)でも同じ効果を發揮出來る(D1の至大化)だらうと考へた。しかし、それがやはりさうではなかつた(D1の至小化)。電車(F)を輸入することはわけはない(Eの至大化)。しかし交通道徳(F)の方は簡單には行かない(Eの至小化)〔つまり:『科學製品は輸入できても科學精神は移植できなかつた』の意〕。文明(近代化)の利器(F:近代化概念)を輸入(Eの至大化)すれば當然そこには人間〔つまり:場C‘(西洋人對日本人)〕關係(D1)の變化(D1の至大化)も生じてくる。しかし異つた人間(場C‘:近代西洋人對前近代日本人)關係(D1)を輸入する(つまり:近代化)、自分のものにする(近代化適應正常:D1の至大化)といふことは實に難しい(D1の至小化)ことであります。(中略)西洋(場: C‘)の機械(F:近代化概念)を輸入(E)したのですから、當然そこには日本人(△枠)の今まで(場: C‘)の生き方(D1)では處理できない(D1の至小化)問題(F)がいろいろ出てくる(Eの至小化)のです。かうしてせつかくはいつてきた『物(F)』〔とは:技術や社會制度的言葉(F)を含む、機械化(F)組織化(F)劃一化(F)合理化(F)等々〕も、それ(F)を支へる(Eの至大化)『心』〔とはソフトウェア:物(言葉F)の用法(so called/物(言葉F)との距離測定〕を伴はない(Eの至小化)ために樣々な混亂〔とは:Eの至小化(距離測定の不成立)=D1の至小化(近代化適應異常)〕が生じてきたわけです」(とは以下内容の正反對を此處では謳つてゐる)。

*言葉(F)との附合ひ方である「so called=所謂何々=Eの至大化」の効果的用ゐ方で、「自分と言葉との距離の測定(Eの至大化)が出來」「言葉(F)を自己所有化(Eの至大化)する事が出來る」。その働きによつて、結果的に場(C‘)と言ふ對象から自分を分離(非沈湎化:D1の至大化)させる事が可能となり、しひいては「場(C’)との關係を適應正常化(D1の至大化)」させる事へと繋がる(『醒めて踊れ』要旨)。

・・・そして、これらの問題については、更に以下へと考察が進められる。

上記④⑤⑥⑦の文も、恆存評論(以下枠文『醒めて踊れ』關係論)を引用して、

〔評論『醒めて踊れ』關係論〕

  場(西歐近代)⇒から生ずる關係(近代化:實在物)⇒②言葉(F潜在物:關係的概念)〔技術や社會

制度的言葉(F)、即ち機械化・組織化・劃一化・合理化等々〕⇒②の用法(so called:精神の政治學)成立・③と②との距離測定の成立⇒③自分(△枠):①との關係の適應正常化(①への非沈湎、即ち近代化適應正常)。

更に、以下「關係論」への置き換えが可能となる。

關係論:①西洋(場 C‘)⇒からの關係:①の文明(近代化)〔即ち『◎:①との關係の適應正常(D1の至大化)』〕⇒「②言葉F群:自然科學F/機械F/技術/政治上の制度(F:民主主義/議會制度/官僚組織等)/交通道徳(F)」(◎的概念F)⇒E:②への③(△枠)の『心遣ひ』(生き方/二元論:Eの至大化)を④(△枠)は受け取らず(Eの至小化)に、出來上つた『物』(物體F)の方だけを受け取つた(Eの至小化)。従つて①の文明(近代化:D1の至大化)がはいつてきた時、それは單なる物(物體F)としてしか目に映らなかつた〔(Eの至小化)つまり:『科學製品は輸入できても科學精神は移植できなかつた』の意〕。電車(F)を輸入することはわけはない(Eの至大化)。しかし交通道徳(F:②の範疇)の方は簡單には行かない(Eの至小化)〔つまり:『科學製品は輸入できても科學精神は移植できなかつた』の意〕。文明(近代化)の利器(F:近代化概念②)を輸入(Eの至大化)すれば當然そこには人間(場C:西洋人對日本人)關係(D1)の變化(D1の至大化)も生じてくる。異つた人間(異つた場C近代西洋人對前近代日本人)關係(D1)を輸入する(つまり:近代化)、自分のものにする(近代化適應正常:D1の至大化)といふことは實に難しい(D1の至小化)。せつかくはいつてきた②も、それを支へる(Eの至大化)『心』〔とはソフトウェア:物(言葉F)の用法(so called/物(言葉F)との距離測定(Eの至大化)〕を伴はない(Eの至小化)ために樣々な混亂〔とは:Eの至小化(距離測定の不成立)=D1の至小化(近代化適應異常)〕が生じてきたわけです」(④の②への距離不獲得:Eの至小化)⇒③西洋人(△枠) ④日本人(△枠):①への適應異常

 

〔マルキシズムの用語〕(P22~8):「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

①「文化(F)だとか文學(F)だとか、大衆(F)、民主主義(F)、ヒューマニズム(F)とか、さういふ言葉(F)はみんな西洋(場: C‘)と日本(場: C‘)では違つた意味(Eの至小化)で使はれてゐます。しかしそれとは少し異つて資本主義(F)、權力(F)、支配階級(F)、侵略主義(F)といふやうな言葉(F)が、特定の立場(場: C‘)に立つた〔つまり:(場: C‘)から生ずる關係(D1)による〕言葉(F)として獨自の働き(Eの至大化)をもつて使はれてゐることにも注意して戴きたい。これらの言葉(F)はマルクス主義(立場: C‘)といふものを考へなければ出て來ない(Eの至小化)。極端な言ひ方をするとマルクス主義(立場: C‘)の方言(Eの至小化)であります(とは以下「關係論」參照)」。

關係論:①マルクス主義(立場: C‘)⇒からの關係:「◎:①との關係の適應正常化(D1の至大化)」⇒「②:資本主義(F)權力(F)支配階級(F)侵略主義(F)」(◎的概念F)⇒E:②は、◎の爲の方言(Eの至小化)」(②への距離獲得:Eの至大化)⇒マルクス主義者(唯物論者△枠):①への適應正常。

  「マルクス主義者(△枠)の言葉(F)といふのは、プロレタリア革命(場: C‘)を起す(D1)といふことを前提として作られた(E)述語(F)であります。従つてその言葉(F)は、革命(場: C‘)を起す(D1)のに都合のいい(Eの至大化)やうにして全部こしらへて(Eの至小化)ある。ところが今日プロレタリア革命(場: C‘)を起さうとしない(D1の至小化)人(△枠)までがその言葉(F)を使つたら(E)どういふことになるか、當然妙なこと(Eの至小化)になる」(とは以下「關係論」參照)。

關係論:①プロレタリア革命(場: C‘)⇒からの關係:「◎:①を起す(D1)ことを前提」⇒「②述語(F)③言葉(F)」(◎的概念F)⇒E:「として作られた②で、従つて①の爲、④の③は都合のいい(Eの至大化)やうにして全部こしらへて(Eの至小化)ある。故に①を起さうとしない(D1の至小化)⑤(△枠)までがその③を使つたら(E)當然妙なこと(つまり:③との距離測定の不成立:Eの至小化)になる」⇒⑤人(△枠) ④マルクス主義者(△枠):①への適應正常

  「權力(F)といふ言葉を使ふ(E)場合、これは打倒すべきものといふ前提(即ち、立場: C‘)があ

るわけです。資本主義社會(場: C‘)の否定(D1の至小化)を前提(即ち、立場: C‘)として出て來たマルクス主義(△枠)ですから當然さうなる。だから政治的支配力を持つてゐるすべての人(場: C‘)に對して(D1)『權力』(D1の至小化)といふやうに呼べば、これ(權力F)はその度に『けしからん』(Eの至小化)と言つてゐるのと同じこと〔即ち:權力と呼ぶ(D1の至小化)=けしからん(Eの至小化)〕になつて來る」(とは以下「關係論」參照)。

關係論:①打倒すべきものといふ前提(即ち、立場: C‘)②資本主義社會(場: C‘)③政治的支配力を持つてゐるすべての人(場: C‘)⇒からの關係:①の②は『權力』(D1の至小化)なりが④(△枠)。だから③に對して(D1)④が『權力』(D1の至小化)といふやうに呼べば、」⇒「⑤:權力(F)」⇒E:⑤(F)はその度に『けしからん』(Eの至小化)と言つてゐるのと同じこと〔即ち:權力と呼ぶ(D1の至小化)=けしからん(Eの至小化)〕になつて來る」(⑤への距離不獲得:Eの至大化)⇒④マルクス主義(△枠):②への適應異常。

  「言葉(F)といふものはその人その人(△枠)の個人的な、使ひ易い道具(F)であるといふことは、そ

の言葉(F)を使ふ人(△枠)の感情とか價値觀(主觀)がみんなその言葉(F)の中に含まれてゐるといふ事。だから『權力』(F)といふと、それはただ政治(場: C‘)を支配する(D1の至大化)力だといふ客觀的(Eの至大化)な意味ではなく、『この力はけしからん』(Eの至小化)といふ價値觀(主觀)が完全に含まれてくる」(とは以下「關係論」參照)。

關係論:①政治(場: C‘)⇒からの關係:「◎:①を支配する(D1の至大化)力を」⇒「②權力(◎的概念F)③言葉(F)④道具(F)」⇒E:②といふと、客觀的(Eの至大化)な意味ではなく、『この力(②)はけしからん(Eの至小化)』といふ價値觀(主觀:Eの至小化)が完全に含まれてくる。即ち、③が個人的な、使ひ易い(Eの至大化)④であるといふことは、その③を使ふ(E)⑤(△枠)の感情とか價値觀(主觀:Eの至小化)がみんなその③の中に含まれてゐる(Eの至小化)といふ事」(②③への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑤人(△枠):①への適應異常。

  「假説(前提。場: C‘)を抜きにしては『侵略主義(F)は惡(Eの至小化)だ』といふ考へは出てまいりません。

(中略)國家的侵略(F)はけしからん(Eの至小化)といふ結論を導き出す假説(前提/大義名分。場: C‘)もあり得る(D1)ならば、それを正しい(Eの至大化)とする假説(前提/大義名分。場: C‘)もあり得る(D1)。またある時期(前提。場: C‘)においてそれも自然(D1の至大化)であつたといふ假説(場: C‘)もあり得るし、あらゆる時期前提。場: C‘)において、これが自然(D1の至大化)であるといふ假説(場: C‘)もあり得るし、あらゆる時期(前提。場: C‘)を通じて、これはけしからん(D1の至小化)といふ假説(場: C‘)もあり得る。さういふ假説(場: C‘)、前提(場: C‘)、價値觀(場: C‘)といふものがあつて、そのうちのある一つの價値觀(前提/假説。場: C‘)をとつた場合に、侵略主義(F)といふ言葉が、惡である(Eの至小化)といふ意味をふくんでくる」(とは以下「關係論」參照)。

關係論:①假説(場: C‘)②前提(場: C‘)③價値觀(場: C‘)⇒からの關係:①②③のうちのある一つの③をとつた(D1の至小化)場合に(ある前提/假説を条件とした場合に)、」⇒「④:侵略主義(F)」⇒E:④といふ言葉が、惡である(Eの至小化)といふ意味(即ち、絶對惡ではなく条件付き相對惡といふ事)をふくんでくる」(④への距離不獲得:Eの至小化)⇒國家(△枠):①②③への適應異常。

  「植民地(F)、獨立(F)といふ言葉もさうです。今日私たちは、國家的獨立(F)だとか中立(F)だとか、色々騒いでをりますけれども、みんな前世紀(價値觀/前提。場: C‘)の獨立(F)といふ觀念(F)を用ゐて今日(場: C‘)の獨立(F)を考へてゐる。民族主義(F)といふ言葉でもさうです。民族主義(F)といふ言葉の歴史(價値觀/前提。場 C‘)を辿つてみれば、そこ(價値觀/前提)には随分違ひ(D1の至小化)がある。その違ひは全部價値觀(場: C‘)の相違(D1の至小化)から來てゐるわけです。(中略)極端に考へるならば、時代の價値感(場: C‘)の違ひ(D1の至小化)で言葉(F)の價値感が違ふ(Eの至小化)のだから、それを使ふ人(△枠)の個人の生き方(主觀/教養:E)によつても、その言葉(F)は違つて來る(Eの至大化)といふことが當然考へられる。例へば一つの假説(價値觀/前提。場: C‘)に立つて(D1)ナセルのナショナリズム(F)を認める(Eの至大化)ことが許されるならば、それとは違つた生き方(主觀/教養:E)を假説(價値觀/前提。場: C‘)として、ナショナリズム(F)の善惡を決める(Eの至大化/Eの至小化)行き方も當然認められるわけです。どちらだつてかまはないではないかといふことになつてくる。さうすると何か非常にニヒリスティック(Eの至小化)になり、絶望的(Eの至小化)になつて、一體何(F)が眞實だかわからない(Eの至小化)所に一應行きつくわけです。しかしそれ〔善惡(F)の混迷(Eの至小化)〕が如何に絶望的(Eの至小化)であつても、私はどうしてもそこ〔とは:假説(價値觀/前提。場: C‘)による善惡(F)の混迷(Eの至小化)〕に行きついた(Eの至小化)うへでものを考へなければ(Eの至大化)いけないと思ふのです。だが人々(△枠)は皆勝手(D1の至大化)に、知らないうちにある約束(假説/價値觀/前提。場: C‘)を受け入れて(D1の至小化)、その(約束)通りに言葉(F)を用ゐて怪しまない(Eの至小化)のです。現代(場: C‘)における混亂(D1の至小化)のすべての原因(D1の至小化)は、ここ〔假説/價値觀/前提(場: C‘)不問(D1の至小化)による、言葉(F)の距離不測定(Eの至小化)〕にあると申せませう」・・・上記⑥は何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして更には以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。

*上記『すべての原因(D1の至小化)は、ここ〔 〕』云々文の補足として、以下枠文を擧げて置きたい。その理由は、向後評論(十五年後『せりふと動き』六十六歳)の下地が、既に此處にあるのが窺はれるからである。

全七P300『せりふと動き』より 「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

*場(C‘)から生ずる「關係(D1)と稱する實在物は、潜在的には一つの言葉(F)によつて表し得る」。故にその言葉(F)との附合ひ方(精神の政治學/so called:Eの至大化)によつて、人間は場(C‘)との關係の適應正常化(D1の至大化)が叶へられる。

*そして、⑥項文は以下二つの「關係論」への置き換へがやはり可能である。要するに小生が、前項同樣「關係論置き換へ」を、しつこく當レジュメで企てようとしてゐるのは、

①(物:場 C‘)⇒からの關係:「② 」⇒「③:」(關係的概念F)⇒E:「④ 」⇒(△枠)への論考的整理なのである。それによつて、恆存「提言」の歴史的展開も窺ひ知れると思ふからである。

 

關係論:①前世紀(價値觀/前提。場: C‘)②歴史(價値觀/前提。場 C‘)③今日(前提。場: C‘)④價値觀(前提。場: C‘)⑤時代の價値感(前提。場: C‘)⇒からの關係:「◎:①②において政治的に使用(D1)された」⇒「⑥言葉F群:植民地(F)獨立(F)國家的獨立(F)中立(F)民族主義(F)」(◎的概念F)⇒E:⑥といふ觀念(F)を用ゐて③の⑥を考へてゐる。しかし、そこ(價値觀/前提。場: C‘)には随分違ひ(D1の至小化)がある。その違ひは全部④の相違(D1の至小化)から來てゐるわけです。(中略)極端に考へるならば、⑤の違ひ(D1の至小化)で言葉(⑥F)の價値感が違ふ(とは:Eの至小化=D1の至小化)のだから、それを使ふ⑦(△枠)の個人の生き方(主觀/教養:E)によつてもその言葉(⑥F)は違つて來る(Eの至大化)」(⑥への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦人(△枠):②③④への適應正常。

關係論:①假説(價値觀/前提。場: C‘)②約束(假説/價値觀/前提。場: C‘)③現代(前提。場: C‘)⇒からの關係:「◎:例へば一つの①に立つて(D1)」⇒「言葉F:④ナセルのナショナリズム(F)⑤ナショナリズム(F)」(◎的概念F)⇒E:④を認める(Eの至大化)ことが許されるならば、それとは違つた生き方(主觀/教養:E)を①として、⑤の善惡を決める行き方(Eの至大化/Eの至小化)も當然認められる。どちらだつて(④だらうが⑤だらうが)かまはないではないかといふことになつてくる。ニヒリスティック(Eの至小化)になり、絶望的(Eの至小化)になつて、一體何(F)が眞實だかわからない(Eの至小化)所に一應行きつく。しかしそれ〔善惡(F)の混迷(Eの至小化)〕が如何に絶望的(Eの至小化)であつても、私(恆存)はどうしてもそこ〔とは:①による善惡(F)の混迷(Eの至小化)〕に行きついた(Eの至小化)上でものを考へなければ(Eの至大化)いけないと思ふ〔とは:言葉(F)の善惡を決める(Eの至大化/Eの至小化)には、場(假説/價値觀/前提。: C‘)との關係を見極め(D1の至大化)なければならない、と言ふ事〕。だが⑤は皆勝手(D1の至大化)に、知らないうちにある②を受け入れて(D1の至小化)、その(②)通り(D1の至小化)に言葉(F)を用ゐて怪しまない(Eの至小化)のです。③における混亂(D1の至小化)のすべての原因(D1の至小化)は、ここ〔假説/價値觀/前提(場: C‘)不問(D1の至小化)による、言葉(④⑤)との距離不測定(Eの至小化)〕にある」(④⑤への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑤人々(△枠):①②③への適應異常。

 

〔西歐と日本〕(P28~35)

  「大學の自由・大學管理問題」(P28~P30)の文章は、以下「關係論」に置き換へる事が可能である。

〔(注):小生、この度、「中氣」じやなかつた、「後期」高齢の域に入つたもので、その性か、聊か長文を起こす(原文轉載する)のが大義と相成り、遂にこんな愚策〔(P28~P30)の文章は、云々〕を弄する事となつた。以降の項目も同策を應用致したき所存である。ひとつご容赦願ひたい〕。

《以下「大學の自由・大學管理問題」は、一つの問題(F)を論じてゆく(Eの至大化)とき、その前提(價値觀/假説。場: C‘)となつてゐるものを無視(D1の至小化)したために起る混亂(F⇒混亂Eの至小化)の典型的なもの》

 

〔大學の自由・大學管理問題〕

關係論:①アメリカの大學(價値觀/前提。場: C‘)②社會(價値觀/前提。場: C‘)③學問(價値觀/前提。場: C‘)④廣大なフロンティア(場: C‘)⑤ヨーロッパ(場: C‘)⇒からの關係:⑬(日本△枠)といふのは①と同じもの(D1の至大化)」⇒「言葉(F)群:⑥アメリカ教育制度(六三制:F)⑦アメリカ教育精神(F)⑧戰前(日本教育精神:F)⑨アメリカ大學制度(F)⑩ヨーロッパ大學制度(F)⑪學問(F)⑫戰前(日本の)の大學制度(F)」⇒E:つまり、⑬(△枠)は⑥を受け入れて出來上つた(Eの至大化)。⑭(△枠)は⑧のあり方は間違つてゐた(Eの至小化)、『⑦の方がいいのだ(Eの至大化)』と受け入れた(Eの至大化)。ところが、⑨の根本精神(Eの至大化)はソーシャル・アダプテーション〔とは:社會(價値觀/前提。場: C‘)⇒適應(D1の至大化)〕と言ふ事。ソーシャル・ニーズ〔とは:社會(價値觀/前提。場: C‘)⇒要求に應へる(D1の至大化)〕がその目的である。他方⑩は、極端に言へば③(眞實探究?)の爲(D1の至大化)の⑪といふ態度(Eの至大化)で來た。それ〔③の爲(D1の至大化)の學問といふ態度(Eの至大化)〕が⑫のあり方(Eの至大化)でもあつた。それに對して⑮(△枠)は④を控へて(D1)、この「社會(價値觀/前提。場: C‘)⇒適應(D1の至大化)」するための⑨として出發(Eの至大化)した〔デューイの實用主義的哲學(價値觀/前提。場: C‘)から出發(D1の至大化)してゐる〕。それは、ソーシャル・ニーズ〔②⇒必要〕に應へる(D1の至大化)といふものであつて、アカデミック・ニーズ〔③⇒必要〕に應へる(D1の至大化)といふ⑤からもたらされた⑧の大學(F)觀(Eの至大化)、教育(F)觀(Eの至大化)とは明らかに違つてゐる。従つてその【ソーシャル・ニーズ〔②⇒必要〕の】大學(F)觀(Eの至大化)、教育(F)觀(Eの至大化)を受け入れたならば、③(眞實探究?)の自由(D1の至大化)といふのは二の次〔即ち:アカデミック・ニーズは二番手〕になる。故に③(眞實探究?)の自由(D1の至大化)、アカデミック・ニーズ〔③⇒必要〕を主張(Eの至大化)するは、否定した(Eの至小化)筈の⑧の教育思想(F)、教育理念(F)を持ち出す(Eの至大化)ことになり、(ダブルスタンダードの)矛盾及び混亂(Eの至小化)が生ずる。ただ『③の自由』を叫び(D1の至小化)、言葉(F)を弄んで(Eの至小化)ゐては問題(F)は決して解決しない(Eの至小化)(⑥⑩⑫への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑬今日の大學(日本△枠)⑭戰後の進歩派(マルキスト/リベラリスト△枠) ⑮アメリカ(△枠)⑯ヨーロッパ(△枠):(⑬⑭による①⑤への適應異常)

 

  「文化」といふ言葉について(P30~34)の文章は、やはり、以下「關係論」に置き換へる事が可能である。

〔「文化」といふ言葉について〕

 

關係論:①時代(價値觀/前提。場: C‘)國家(價値觀/前提。場: C‘)③あの國(價値觀/前提。場: C‘)④觀念的な價値(價値觀/前提/假説。場: C‘)⑤『平安朝の文化』(價値觀/前提/假説。場: C‘)⑥過去の時代の集積成果(價値觀/前提。場: C‘)⇒からの關係:①②の身についた生き方(D1の至大化)が文化(D1の至大化)。「◎:⑧(△枠)が『③のカルチュア(D1の至大化)』と言つてゐる時には」⇒「⑦:言葉〔『窓を開けてもよろしいか』(F)〕」(◎的概念F)⇒E:⑨(△枠)の教養(Eの至大化)といふ事と同じ言葉を使つてゐる。教養(Eの至大化)と言ふのは、⑩(△枠)の身についた生き方〔とは:言葉(F)の用法/距離測定。言葉(F)との附合ひ方(精神の政治學/so called:Eの至大化〕。即ち、⑪(△枠)の例で言へば、⑦の用法/距離測定。⑦との附合ひ方(精神の政治學/so called:Eの至大化)。⑦は普段の細かい家庭の躾(Eの至大化)の中で身についた生き方(Eの至大化)。もし本當に文化(D1の至大化)といふもの、教養(Eの至大化)といふものが身についてゐたら(とは:D1の至大化=Eの至大化)、新しい文明(近代化:D1の至大化)の利器(F:近代化概念)が入つて來ても、それにすぐ對應(Eの至大化)することが出來る(とは以下枠文と同意)。

*「場(西洋C‘)から生ずる「關係(文明/文化/近代化:D1の至大化)と稱する實在物は、潜在的には言葉(利器「交通機關」F:近代化概念)によつて表し得る」。故にその言葉(利器「交通機關」F:近代化概念)との附合ひ方(⑦の用法.距離測定(家庭の躾.常識)/精神の政治學/so called:Eの至大化)によつて、人間(△枠)は場(西洋C‘)との關係(文明/文化/近代化:D1の至大化)の適應正常化(對應:D1の至大化)が叶へられる」(全七P300『せりふと動き』より援用)。

つまり、⑪(△枠)の方が⑫(△枠)よりよほど文化(D1の至大化)人ではないかといふことになる。(我々は)文化(D1の至大化)といふものを具體的〔とは:『家庭の躾(Eの至大化)の中で身についた生き方(Eの至大化)』〕な物(⑦F)として受け取つてゐるのではなく(Eの至小化)、④として受け取つてゐる(D1の至小化)わけです。西洋(場 C‘)のものに限らず、⑤といふ場合でも、要するに⑬(△枠)とは縁〔とは:身についた生き方(Eの至大化)〕のない(Eの至小化)、一つの⑥として使つてゐる(D1の至小化)。即ち⑬(△枠)と關係のない(D1の至小化)離れたもの〔高級なもの/便利なもの(價値觀/前提。場: C‘)〕として使つてゐる(D1の至小化)ので、日常の⑭(△枠)の生き方〔『文化(D1の至大化)とは生き方(Eの至大化)』:TSエリオット〕としては使はれてゐない。もし生き方(Eの至大化)として文化(D1の至大化)といふものを考へるなら、〔文化(D1の至大化)と教養(Eの至大化)の二つの意味がある〕カルチュアを教養(Eの至大化)と譯す場合の、教養(Eの至大化)といふ意味もちゃんと通じて來るわけです」(⑫の⑦への距離獲得:Eの至大化)⇒⑧西洋人⑨個人⑩その人⑪お婆さん⑫我々⑬自分⑭私たち(△枠)⑫の①②への適應正常

 

參考#現代日本人 に,culture(#文化/耕す:養ふ/#教養)が缺如!〕(ツイッター投稾文)

①文化(culture)⇒からの關係:耕す養ふ(culture)⇒②:言葉/物(F)教養(#cultureEの至大化)とはの用法(Eの至大化):#言葉遣ひ #禮儀 #丁寧語 #謙譲 #ヒューモア(Eの至大化)⇒#人間。

 

  〔ヒューマニズムといふことについて〕(P34~35)の文章は、やはり、以下「關係論」

に置き換へる事が可能である。

〔ヒューマニズムといふことについて〕

 

關係論:①現代の日本(價値觀/前提。場: C‘)②ギリシャ・ローマ(價値觀/前提。場: C‘)③中世(價値觀/前提。場: C‘)④神(絶對:C)⑤人間(場: C‘)⑥いつの間(場: C‘)⑦今まで(場: C‘)⑧以前(場: C‘)⇒からの關係:(そもそも『ヒューマニズム』とは)、「◎:②の豐かな文化(D1の至大化)の再發見(ルネサンス:D1の至大化)としての」⇒「言葉(F)群:⑨人文主義(◎的概念F)⑩ヒューマニズム(F)⑪人情(F)⑫人道主義(F)⑬人間主義⑭人間といふ觀念(F)⑮問題(F)」⇒E:⑨から、元來、⑩は出發(Eの至大化)してゐる。①で使はれてゐる⑪⑫とはおよそ異なつた(Eの至小化)もの。従つて、⑩は⑬と譯してもいい(Eの至大化)。これ〔⑩(⑬)〕はその前の③の④中心の生き方(D1の至小化)といふものに對して(D1の至大化)出て來たもの。但し、④を中心とした(D1の至小化)③の生き方(D1の至小化)に反逆(D1の至大化)して、⑤を中心として生きる(D1の至大化)生き方を定めよう(D1の至大化)としたのではなく(D1の至小化)、⑥にか⑯(△枠)のうちに、⑦とは違つた生き方〔とは:②の豐かな文化(D1の至大化)の再發見による?人間主義(F)の生き方(Eの至大化)〕が出てきて、⑭が次第に形作られてきた(Eの至大化)時、③を振り返つて(D1の至大化)『ああ⑦は④中心の生き方(D1の至小化)だつたのだ』といふ事になつたし、それ〔④中心の生き方(D1の至小化)〕に對して、⑰(△枠)の生き方〔とは:②の豐かな文化(D1の至大化)の再發見による⑬の生き方(Eの至大化)〕が、⑧とは異なつた(Eの至大化)ものとして自覺(Eの至大化)されてきたのです。その(⑬の)生き方(Eの至大化)を⑱(△枠)が⑩と名付けた(Eの至大化)までです。従つて、さういふ⑩――人間中心主義(⑬F)といふものを(最初から)⑯(△枠)が持つて(Eの至大化)ゐて、それで④中心の③に反抗(D1の至大化)したといふ考へ方(D1)は明らかに誤り(D1の至小化)です。ともかく⑩といふ言葉(F)一つとりあげて(E)も實に數多くの⑮が出てくる(Eの至大化)。それを①では實に安易(Eの至小化)に、⑫といふやうな誤つた意味(Eの至小化)に使つてゐるので、そこ〔とは:假説/價値觀/前提(場: C‘)不問(D1の至小化)による、言葉(④⑤)との距離不測定(Eの至小化)〕に樣々の混亂(Eの至小化)が生れてくる」(日本人の⑩への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑯ルネサンス人(△枠)⑰自分達(△枠)⑱後世(△枠):(日本人の②③への適應異常)。

 

〔言葉と生き方との分裂〕

この(P36~37)文章は、やはり、以下「二:關係論」に置き換へる事が可能と思へる。

〔言葉(F)と生き方(Eの至大化)との分裂〕

 

關係論:①學校(價値觀/前提。場: C‘)②家庭(價値觀/前提。場: C‘)③本來の日本(價値觀/前提。場: C‘)④子供の時(價値觀/前提。場: C‘)⑤年代(價値觀/前提。場: C‘)⇒からの關係:『◎:⑨(學生時△枠)は、①から家(②)に歸る(D1)と、もう②ではそのやうな言葉〔例:マルクス(F)ニイチェ(F)類〕では口が利けない(一切通用しない:Eの至小化)といふ状況です。⇒「言葉(F)群:⑥父母が話してゐる言葉(F)⑦言葉(F)⑧「來の日本(價値觀/前提。場: C‘)に根ざした身についた(Eの至大化)」以外の言葉(◎的概念F)」⇒E:⑨(△枠)の②で⑥、⑨(△枠)がそれ(⑥)を聞いて育つてきた⑦は、③の生き方(D1の至大化)に根ざした(D1の至大化)、身についた(Eの至大化)⑦です。ところがそれ以外の言葉(即ち⑧)は、④全然聞いたこともない、それ以外の言葉(即ち⑧)が、教育(F)を受ける(E)⑤になつて急に入つてくる(Eの至小化)のです。しかし、親と通じない言葉〔とは:⑧、即ち「not so called/距離不測定(Eの至小化)」の言葉(F)〕を使つてゐて(Eの至小化)、それが一體どうして身につく(Eの至大化)かといふ事を考へざるを得ない(Eの至大化)」(⑧への距離不獲得:Eの至小化)⇒⑨私たち(△枠):②への適應異常。

關係論:①お婆さん(價値觀/前提。場: C‘)②今日(價値觀/前提。場: C‘)③世界(價値觀/前提。場: C‘)⇒からの關係:毎日一緒に暮らしてゐる①に、これ〔民主主義(F)〕が話せないわけがない(D1の至大化)。ところがそれがなかなか大變(D1の至小化)な事。だが、②の⑦(△枠)は、さういふ事(①へ話す事)をしなければならない(D1の至大化)のだと考へる(D1の至大化)ことさへしない(D1の至小化)。⑧(インテリ△枠)の⑤(F)だけが通じる(Eの至大化)③が早く來ればいい(D1の至大化)と思つて生きて來た(D1)。だがさういふ生き方(とは以下枠文參照)では絶對に駄目(D1の至小化)なのです」

*「マルクス主義者(△枠)の言葉(F)といふのは、プロレタリア革命(場: C‘)を起す(D1)といふことを前提として作られた(E)述語(F)であります。従つてその言葉(F)は革命(場: C‘)を起す(D1)のに都合のいい(Eの至大化)やうにして全部こしらへてある」(P23)。

⇒「言葉(F)群:④民主主義(F)⑤言葉(F)⑥「本來の日本(價値觀/前提。場: C‘)に根ざした身についた(Eの至大化)」以外の言葉(新漢語?)」⇒E:⑧(△枠)が本當に(Eの至大化)④(F)といふ⑤(F)を理解(とは:so called/言葉との距離把握:Eの至大化)したならば。即ち、身につけた(Eの至大化)民主主義(F)的な生き方(Eの至大化)といふもの〔とは:『醒めて踊れ』(全七P399)の『日本人の意が姿を裏切る』の逆意を示す〕であれば、お茶を飲みながら話をしてゐる(D1)中にでも、①に傳はらぬわけはない(D1の至大化)〔とは:Eの至大化=D1の至大化〕。大學教育(F:教育制度)をいくら盛んしよう(Eの至大化)と、高校に全員入學(F:教育制度)しよう(Eの至大化)と、日本人(△枠)の生き方〔とは:『本來の日本(價値觀/前提。場: C‘)の生き方(D1の至大化)に根ざした身についた(Eの至大化)』生き方〕(とは以下參照)といふものはさう簡單に變はるものではありません

「現代日本の混亂は、かういふ(「祓ひ清めて和に達する」)ふうに和合と美(両方とも日本的Eの至大化)とを生活の原理(樣式:E)とする民族が、能率や権利義務(西歐的Eの至大化)を生活の原理とする西洋人の思想(個人主義F)と制度(民主主義等F)を受け入れたことから生じてゐるのです」『日本および日本人』P189)。⇒參照圖「ハードウェア&ソフトウェア」
hardeware1.software.pdf へのリンク

*「權利義務の契約(Eの至大化)にもとづく個人主義(F)に馴れない(not so called=Eの至小化)人間が、その制度(F)や法律( F)を移入(Eの至小化)すれば、それはたんなる利己主義を助長する(似而非近代性=近代化適應異常)にしか役だたぬのです」〔『日本および日本人』(全三P192)。

 

そんな事よりさういふ生き方(日本人の生き方:和?美意識?)と言葉(即ち⑥:F)との間の溝〔とは:言葉(F)とのnot so called/距離不測定(Eの至小化)。即ち『日本人の意が(近代化人の)姿を裏切る』〕といふもの、これを埋める(Eの至大化)こと(とは以下枠文參照)を考えねばならぬので、今日⑨(△枠)に課せられてゐる生き方(Eの至大化)、あるいは思想(D1の至大化)といふものの課題はさういふ事であらう」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦インテリ(△枠)⑧自分(△枠)⑨私たち(△枠):①への適應正常。

 

*「場(西洋C‘)から生ずる「關係(文明/文化/近代化:D1の至大化)と稱する實在物は、潜在的には言葉(此處では上記⑥)によつて表し得る」。故にその言葉(⑥:近代化概念)との附合ひ方(精神の政治學/so called/距離測定:Eの至大化)によつて、人間(△枠)は場(西洋C‘)との關係(文明/文化/近代化:D1の至大化)の適應正常化(對應:D1の至大化)が叶へられる」(全七P300『せりふと動き』より援用)。

 

あらゆる思想は惡をもつてゐる〕

この(P38~41)文章は、やはり、以下「關係論」に置き換へる事が可能と思へる。

關係論①『大化の改新』當時(價値觀/前提。場: C‘))②内外(價値觀/前提。場: C‘)③神ながら(自然の心)の道(價値觀/前提。場: C‘)④從來の日本(價値觀/前提。場: C‘)⑤外國(價値觀/前提。場: C‘)からの關係:①の混亂した状態(D1の至小化)、即ち「◎:②(唐/蘇我一族)から迫つてきた危機(當時に於ける「近代化」的危機:D1の至小化)」に對して、⑩(△枠)は、③では切り抜ける(D1の至大化)事の不可能性(D1の至小化)を自覺」⇒「言葉(F)群:⑥儒教(F)⑦殺人(F)⑧謀略(F)⑨惡(F)」(◎的概念F)⇒E:その爲、⑩(△枠)は一所懸命に⑥を勉強(so called/言葉との距離測定:Eの至大化)をした。①の異常な混亂(D1の至小化)を正す(D1の至大化)爲には⑦(F)⑧(F:蘇我一族滅亡)をせねばならない(Eの至大化)。⑦⑧(F)は⑨(F)である。この⑨(F)に耐える思想〔即ち「耐える考へ(Eの至大化)」:so called/言葉との距離測定:Eの至大化〕といふものが⑩(△枠)に必要であつた。しかしさういふ思想〔⑨(F)に耐える思想(考へ:Eの至大化)〕は、④の生き方(即ち③)の中からは生れて來ない。従つて、⑩(△枠)はさういふもの〔⑨(F)に耐える思想(考へ:Eの至大化)〕を求めて⑥(F)に縋つた(Eの至大化)。即ち危機打開策(當時に於ける「近代化」適應:D1の至大化)としての⑥(F:近代化適應概念)探究(Eの至大化)であつた(即ち、D1の至大化=Eの至大化)。従つて神祇伯の家柄(即ち③)に生れながら、⑤の文化(D1の至大化)、思想(⑥F:文化的概念F)に對して非常に寛容な態度(so called/言葉との距離測定:Eの至大化)をもつて臨んだ」(⑥⑦⑧即ち⑨への距離獲得:Eの至大化)⇒⑩藤原鎌足(△枠):①への適應正常。

關係論:①國家(價値觀/前提。場: C‘)②大義名分(價値觀/前提。場: C‘)⇒からの關係:「惡(F)に耐える思想(考へ:F⇒Eの至大化)」と申しましたが、思想(①②⇒思想D1の至大化)といふものはみんなさういふ〔惡(F)に耐える(Eの至大化)〕ものだ(即ち、D1の至大化=Eの至大化)。秩序を守る〔①の安定を守る(D1の至大化)〕爲に、あるいは全體(價値觀/前提。場: C‘)感覺(D1)を④(枠)の内に植ゑつける(D1の至大化)爲に、當然犯さねばならない(Eの至大化)③(F:必要惡)といふものがある(とは以下枠文/關係論參照)。それ(③F)に耐えてゆく(Eの至大化)、それが思想(D1の至大化:即ち惡)といふものだと思ひます。政治(D1)といふものはなんらかの意味で③(F)を犯さなければ(Eの至大化)成り立たない(即ち、D1の至大化=Eの至大化)。ある時は嘘(即ち③F)もつかなけれ(Eの至大化)ば成り立たない(D1の至大化)。政治(D1)に限らずあらゆる思想(D1の至大化)といふものはみんな」⇒「③:惡(F)」⇒E:③を持つてゐます(Eの至大化=D1の至大化)。キリスト教(思想:D1の至大化)すらそれ〔とは:③(F例:魔女/異教狩り)を犯さなければ(Eの至大化)成り立たない(即ち、D1の至大化=Eの至大化)〕を免れない。どんな思想(D1の至大化)でも必ず③(F)を持つてゐる(F⇒Eの至大化)。思想(D1の至大化)において②(絶対C/全體C’)といふものが必要(D1の至大化)になつてくるのも、そのやうな③(F)を(必要惡Fとして)行はなければ(Eの至大化)ならないからなのです。〔②大義名分(價値觀/前提。場: C‘)〕とは以下枠文參照)

*「神(絶對C:大義名分)なくして(D1の至小化)、個人の權利(惡F)は謀れない(Eの至小化)。それを敢へてする(Eの至大化)は惡徳(F)である」(『近代の宿命』)。

思想(D1の至大化)といふもの、一つの生き方〔即ち:③(F必要惡)を行はなければ(Eの至大化)ならない〕といふものは、さういふものであらうかと思ひます(即ち、D1の至大化=Eの至大化)」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④我々(△枠):①への適應正常。

〔參照「關係論」壱〕

《中世(絶對C護持)を基準とすれば、絶對(C)全體喪失(衰退:デクリネイション/必要惡:ネセサリー・イーブル=即ち惡)でしかない近代化(D1の至大化:即ち惡)と言ふ「秩序」を守る(D1の至大化)爲に、その近代化概念(即ち惡概念:F)としての「人間主義(F)個人主義(F)資本主義(F:メカニズム等)」も、矢張り「惡(F)」として犯さねばならない(Eの至大化)と言ふ事。その「關係論」が以下となる》

 

/關係論:①西歐近代(價値觀/前提。場: C‘)からの關係:①から生ずる近代化〔絶對全體喪失(衰退:デクリネイション)/(③必要惡:ネセサリー・イーブル)/ハードウェア〕惡(F)群:人間主義(F)個人主義(F)資本主義(メカニズム等々F:ハードウェア」(③的概念F)E:故に、への「距離測定能力/so called/精神の政治學(Eの至大化)」も、④(F)に耐える思想〔とは考へ:F惡⇒Eの至大化(ソフトウェア)〕と捉へられると言ふ事」(への距離獲得:Eの至大化)國・人間(枠):②③への適應正常。

 

關係論:①明治以後の日本(價値觀/前提。場: C‘)②過去の封建時代(價値觀/前提。場: C‘)③日本(價値觀/前提。場: C‘)④西洋(價値觀/前提。場: C‘)⑤近代の西洋(價値觀/前提。場: C‘)⇒からの關係:①はそのやうな一つの生き方【とは:思想(D1の至大化)といふものは、一つの生き方〔即ち:惡(F必要惡)を行はなければ(Eの至大化)ならない〕】を持たなければならない。②に對して⑥(△枠)はそれ【 】文を持たなければならない〔とは:日本の近代化(D1の至大化)は②に對して必要惡であつたといふ思想(D1の至大化)を持つといふ事〕。更に又④に對しても⑦(△枠)はそれ〔つまり:日本の近代化(D1の至大化)は④に對して必要惡であつたといふ思想(D1の至大化)〕を持たなければならない。即ち⑧(△枠)はこの二重の要求の中に立つてゐるわけです。しかも近代の④は、④そのものとは違ふのですから〔とは:西洋(價値觀/前提。場: C‘)⇒近代化(D1の至大化)といふ事〕、結局④に對して⑦はその生き方を決めねばならないと同時に、西洋の近代〔とは:西洋(價値觀/前提。場: C‘近代化(D1の至大化)といふ事〕に對してもなんとかしなければならないのです。そこに近代〔近代(價値觀/前提。場: C‘)〕を動かしてゆく〔とは:近代化適應(D1の至大化)の〕根本思想(D1の至大化)、哲學(D1の至大化)が生まれてこなければなりません(とは以下「關係論」參照)。何故なら『近代文明を全體としてどう動かすかといふ根本的思想、哲學と言ふものは、明治以後今日まで一つも出來上がつてはいません』(P38)ので」⇒⑥日本の近代(△枠)⑦日本(△枠)⑧我々(△枠):①への適應正常。

*「近代〔近代(價値觀/前提。場: C‘)〕を動かしてゆく〔とは:近代化適應(D1の至大化)の〕根本思想(D1の至大化)、哲學(D1の至大化)が生れてこなければなりません」の「根本思想、哲學(D1の至大化)」について、該當する恆存の論を探すと、十四年後評論『醒めて踊れ』で展開された、以下「關係論」(前述)しか小生には思ひ當たらない。

 

關係論:①西歐近代(價値觀/前提。場: C‘)からの關係:①から生ずる近代化〔絶對全體喪失(衰退:デクリネイション)/(③必要惡:ネセサリー・イーブル)/ハードウェア〕惡(F)群:人間主義(F)個人主義(F)資本主義(メカニズム等々F:ハードウェア」(③的概念F)E:故に、への「距離測定能力/so called/精神の政治學(Eの至大化)」も、④(F)に耐える思想〔とは考へ:F惡⇒Eの至大化(ソフトウェア)〕と捉へられると言ふ事」(への距離獲得:Eの至大化)國・人間(枠):②③への適應正常。

*上述の「根本思想、哲學(D1の至大化)」について、以下「P28」文を含め再考し、該當する恆存の論を探すに、矢張り、向後評論『醒めて踊れ』で展開された、次枠文「P41:關係論」(前述)しか小生には思ひ當たらない。

「 」内が恆存文。〔 〕内は吉野注。

 

*「私はどうしてもそこ〔とは:假説(價値觀/前提。場: C‘)による善惡(F)の混迷(Eの至小化)〕に行きついた(Eの至小化)うへでものを考へなければ(Eの至大化)いけないと思ふのです。だが人々(枠)は皆勝手(D1の至大化)に、知らないうちにある約束(假説/價値觀/前提。場: C‘)を受け入れて(D1の至小化)、その(約束)通りに言葉(F)を用ゐて怪しまない(Eの至小化)のです。現代(場: C‘)における混亂(D1の至小化)のすべての原因(D1の至小化)は、ここ〔假説/價値觀/前提(場: C‘)不問(D1の至小化)による、言葉(F)の距離不測定(Eの至小化)〕にあると申せませう」(P28)。

 

〔難解又は重要文〕「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

*P41「西洋(價値觀/前提。場: C‘)の近代〔近代化(D1の至大化)〕を受け入れてゐる私たち(△枠)の無理な姿勢〔「近代化適應異常(D1の至小化)」の姿勢〕を正しく見きはめて(とは以下枠文參照)、何とかして近代文明に對應し得る〔近代化適應「正常」(D1の至大化)の〕思想(D1の至大化)を作り上げねばならないと思ひます」。

〔上述『正しく見きはめて』とは、以下の樣に見きはめる(so called)事を言つてゐるのであらう〕

*①場(西歐近代)⇒から生ずる關係(近代化:實在物)⇒②言葉(潜在物:關係的概念)〔技術や社會制度的言葉、即ち機械化・組織化・劃一化・合理化等々〕⇒②の用法(so called)成立・自分と言葉との距離測定の成立⇒①との關係の適應正常化(場への非沈湎、即ち近代化適應正常)。

 

『醒めて踊れ』(全七P393上)より。

*「近代化の必要條件は技術や社會制度など、所謂『ハードウェア』のメカナイゼーション(機械化)、システマライゼーション(組織化)、コンフォーマライゼーション(劃一化)、ラショナライゼーション(合理化)等々の所謂近代化に對處する精神の政治學の確立、即ち所謂『ソフトウェア』の適應能力にある。マルクスの言ふ疎外は何も資本主義社會特有のものではなく、共産主義社會、全体主義社會にも生ずるものであり、また有史以來その度を増して來たものである。それに對應する方法は言葉や概念に囚れず、逆にこれを利用すること、即ち言葉の用法(言葉の自己所有化?)にすべてが懸つてゐる。自分と言葉との距離が測定出來ぬ人間は近代人ではない。いや人間ではない」。

 

*上記「何とかして近代文明に對應し得る思想(D1の至大化)を作り上げねばならない」に、論考を重ねながら、小生は今ひとつ判然としない思ひでゐたが、以下『學生との對話』文を讀んで論考を進めることが出來た。

〔學生との對話〕「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

P51「私が日本獨自の思想といふ場合でも、なにも神がかり式に言つてゐるのではありません。日本は明治以後(價値觀/前提。場: C‘)、古今未曾有の經驗(近代化適應)をしたのです。が、そこには大きな無理があつた、その無理を調整する〔とは上記:『對應する方法は言葉や概念に囚れず、逆にこれを利用すること、即ち言葉の用法(言葉の自己所有化?)にすべてが懸つてゐる。自分と言葉との距離』の測定〕のが日本獨自の思想であるといふやうに考へますそれは他國におしつけるやうな性質のものではない。日本だけに通用する、日本人を生かす道でなければなりません。しかし明治以後(價値觀/前提。場: C‘)日本が苦しんできたもの(近代化適應:D1)は、多かれ少なかれ西洋自身(價値觀/前提。場: C‘)の問題(即ち:近代化適應D1)でもあるわけですから、そこ〔とは:近代化適應の無理を調整する〕に生れてくる日本獨自の思想〔とは「F言葉Eの至大化(距離測定)」:言葉の用法/自分と言葉との距離の測定/so called/精神の政治學〕といふものは結果としては世界のためにもなると思ひます。すなはち、西洋(價値觀/前提。場: C‘)でも近代(D1)といふものの弱點〔とは:「衰退:デクリネイション/必要惡:ネセサリー・イーブル」?〕が段々暴露して、化けの皮を現はしはじめてきた、文明開化一點張りで來たのに對して、人間の精神(B)が追ひつけなくなつてきた〔とは例:上記枠文『疎外』、『人間關係の稀薄』『個人主義=絶對全體喪失(衰退)』等?〕のです。それは日本の近代が明治以後(價値觀/前提。場: C‘)苦しんできたもの〔とは例:『無限定(絶對全體喪失)の自己』?〕なので、むしろこちらの方が一足お先に被害を蒙つてゐるのです。原爆を受けた以上に――原爆を受けたことは大したことではないので、その前に日本(△枠)は西洋文明〔西洋(價値觀/前提。場: C‘近代化(D1の至大化)〕といふ原爆を受けて(D1の至小化)その中で苦しみながら〔近代化適應異常(D1の至小化)〕ながら今日(場: C‘)ここまで至つてゐるのです。従つてその中から生み出される思想(D1の至大化)〔とは「F言葉Eの至大化(距離測定)」:言葉の用法/自分と言葉との距離の測定/so called/精神の政治學〕は、結果として西洋(價値觀/前提。場: C‘)に影響を與へる(D2の至大化)ことが出來ると思ひます。しかしそれ〔西洋(價値觀/前提。場: C‘)に影響を與へる(D2の至大化)〕が目的ではないので、あくまでも日本(枠)がどう生きていけばいい(D1)のか、それ〔どう生きていけばいい(D1)のか〕に眞劍に取り組まなければ(D1の至大化)いけないし、そこに必ずや何ものかが生れてくる筈だ、私はそれを日本獨自の思想〔とは:「完成せる統一體としての人格」論の事か?〕と申上げたまでです」。

 上文「傍線部分」を讀んでの結論から言ふと、「近代文明に對應し得る思想(D1の至大化)」とは、小生先述同樣、『醒めて踊れ』で展開された、以下内容(關係論)と再認識した。

*「F言葉⇒Eの至大化(距離測定)」:言葉の用法/自分と言葉との距離の測定/so called/精神の政治學」。

*「場(西洋C‘)から生ずる「關係(文明/文化/近代化:D1の至大化)と稱する實在物は、潜在的には言葉(此處では上記⑥)によつて表し得る」。故にその言葉(⑥:近代化概念)との附合ひ方(言葉の用法/距離測定/精神の政治學/so called:Eの至大化)によつて、人間(△枠)は場(西洋C‘)との關係(文明/文化/近代化:D1の至大化)の適應正常化(對應:D1の至大化)が叶へられる」(全七P300『せりふと動き』より援用)。

ただ、最後文「そこに必ずや何ものかが生れてくる筈だ、私はそれを日本獨自の思想と申上げた」に、括弧注としても附記したが、「完成せる統一體としての人格」論〔即ち:關係(D1)といふ眞實を生かす(D1の至大化)〕を、小生は思ひ浮かべたのである(深讀みか?)。

しかしながら、恆存は、上文「傍線部分で「言葉の用法を日本獨自の思想」と謳ひ擧げながらも、《學生との對話》後續の「P63」で、以下の樣に應答し、それを學生が誤解するのを防いでゐる。將に、小生が「獨自の思想」に拘るのを戒めてゐるかのやうでもある。

學生G質疑:「現代の混亂を克服するためにな、日本には新しい思想が打ち立てられなければならない。(中略)では具體的にはどのやうな思想が規定されるべきななのか」。

恆存應答:「それは私にはわかりません。私がさういふ思想をもつてゐると思つて話を聞いていただくと、これは買ひかぶられたことになるのです。(中略)私が『自分ではそれだけの立派な思想をもつてゐない』といふのは謙遜だと思はれる方がをられるかもしれないけれども、さうではなく、現代では誰一人としてそんな大それた思想をもつてゐる筈はない、みんなが模索していろいろなことをやつてゐると思ふのです」。

 

*上記質問に對して、恆存は自分の提言を『立派な思想』なんかではなく、『みんなが模索していろいろなことをやつてゐる』範疇の一つでしかないと明示してゐる。そして以下の關係論を『模索』の一例(假説)として擧げる。

以下「 」内が恆存文。( )〔 〕内は吉野注。

 

關係論:①日本人(價値觀/前提。場: C‘)⇒からの關係:①の生き方(D1の至大化)が見つかるには「みんなでゆつくり歩かう(D1の至大化)⇒「②:他人(F)」⇒E:「おれの歩き方(E)はこれが一番歩きいい(Eの至大化)のだとA(△枠)がいふ。B(△枠)はBでこちらの方がいい(Eの至大化)といふ。さういふことを④(△枠)やりながら、A(△枠)の歩き方(E)、B(△枠)の歩き方(E)といふものに、お互ひがつきあつてゆく〔とは:『場(對象: C‘)との關係と言ふ眞實を生かす(D1の至大化)』と同意〕、さうすれば非常に歩みが遅い(Eの至小化)わけですが、無理のない生き方〔場(對象: C‘)への適應正常(D1の至大化)〕なのです。かうして④(△枠)に共通な地盤〔とは:無理のない生き方(適應正常:D1の至大化)〕が出來上つてしまへば――そのときこそ、それが揺がぬものになつてくる〔とは:①の生き方(D1の至大化)が見つかる。即ち「Eの至大化」の確立が「D1の至大化」の確立に繋がると言ふ事〕」。「③(△枠)に忠實(Eの至大化)に――③(△枠)に忠實(Eの至大化)にと言ふのは②のそれぞれ(F)の生き方を尊重(Eの至大化)して、それにつき合つてゆく(Eの至大化)といふ氣風〔ヒューモア(Eの至大化)の意?〕なのですが――それ(氣風)を④(△枠)が養つて(Eの至大化)ゆけばいつか①の生き方〔とは:無理のない生き方(適應正常:D1の至大化)〕が見つかるだらうと思ふのです」。と恆存は言ふ。故に、その言から類推すると、『他人の生き方尊重(Eの至大化)、つき合つてゆく(Eの至大化)』なる模索の典型が、それと同意『關係と言ふ眞實を生かす(D1の至大化)』を主題とした、晩年の「完成せる統一體としての人格」論(PP圖new.kanseiseru.pdf へのリンク)と見なす事が出來るのである」(②への距離獲得:Eの至大化)⇒③自分④みんな(△枠):①への適應正常。

此處まで論考をしてきて、當レジュメ中しばしば記載(近代化適應等々)の「關係論」も、「それは思想ではなく、『他人の生き方尊重(Eの至大化)、つき合つてゆく(Eの至大化)と言ふ、無理のない生き方(適應正常:D1の至大化)』」なる提言の範疇なのであると、小生は、やうやく此處で修正的に判斷出來たのである。

當項論考で長くなつてしまつたが、もう少し話を續けると、この『講義1:惡に耐える思想』は、七年前著作『日本および日本人』(昭和三十年:四十四歳)の以下枠文を下地に、恆存は語つてゐる樣に、小生には受け止められる。更には重複するが、向後(昭和五十一年:六十五歳)の『醒めて踊れ』の思想(先述「關係論」)も、此處(昭和三十七年:五十一歳)では早出、學生向きに、平易『講義』言葉にてそれが展開されてゐるのである。

《平成三十年:拙發表文「距離感の缺如」について。(『日本および日本人』全三P199最終章から)》「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

*「西歐を先進國として、それに追いつかう(近代化D1)といふ立場から、『アジアの前近代的な非人格性』を否定し、西歐の近代精神(西歐二元的文化が生んだ近代化精神)たる個人主義(F近代化概念:D1の別名)を身につけろといふのではない。それこそ、私のいふ距離感の喪失(Eの至小化)にほかなりません。私はあくまで西歐の生きかた(二元論文化)と私たち(一元的文化)との間の距離を認識しろ(『彼我の差をはつきり認めること』:D1の至大化=so called:Eの至大化)といつてゐるのです。眼前にある西歐(C場)を、それに追ひつかねばならぬもの(近代化D1)、あるいは追ひつけるものとして眺めることはまちがつてゐます。まず異質なもの(二元論文化對一元的文化と言ふ「文化の差」。但し文化には優劣はない)としてとらへ、位置づけすること、さうすること(『彼我の差をはつきり認めること』:D1の至大化)によつて『日本および日本人』の獨立(文化の獨立)が可能になるでせう。それ(『彼我の差』認識)を日本人の個人主義の成立とみなす」(P205)。

 

〔『現實』の意味〕

〔難解又は重要文〕「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

*P41「近代の物質文明〔西歐近代化時代(價値觀/前提。場: C‘)〕の生き方(D1)といふものは、いいか惡いかは別問題として、これ〔西歐近代化時代(價値觀/前提。場: C‘)〕が今日最も力を得てゐて(D1の至大化)、それに反抗する(反近代:D1の至小化)人(△枠)すら皆それにひつかかつてゐる(D1の至小化)。さういふ時代〔皆ひつかかつてゐる、西歐近代化時代(價値觀/前提。場: C‘)〕に、やはり私たち(△枠)は本當の意味で日本人(△枠)の生き方(Eの至大化:和合/美意識)、古代の日本人(△枠)の生き方〔先述:『神ながら(自然の心)の道』(價値觀/前提。場: C‘)〕はどうであつたか、それが今(價値觀/前提。場: C‘)の私たち(△枠)の中にどう生きてゐるか〔「美意識」摩耗(Eの至小化)=文化衰退(D1の至小化)の推移〕を考へねばなりません」

・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして更に以下を考へ併せてみた。

*「さういふ時代〔皆ひつかかつてゐる、近代化時代(價値觀/前提。場: C‘)〕の戰後日本とは、恆存各評論を索引とすれば、以下  部分と想定できる(前囘:三月『讀む會レジュメ』から)。そして、「それが今の私たちの中にどう生きてゐるか〔「美意識」摩耗(Eの至小化)=文化衰退(D1の至小化)の推移〕も、以下に讀み取る事が可能である。

 

〔「關係論」での記載〕(ツイッター投稿文から轉載)

#敗戦:絶對(#天皇)喪失からの關係(#相對主義の泥沼 #文化荒廢):言

葉・物(F)」(②的對立概念)⇒③との距離感喪失(Eの至小化)即ち、#美意識(倫理代替)喪失 # #礼節 等,喪失(Eの至小化)〕⇒#現代日本人の非倫理的性格(枠)(への適應異常)⇒④形構築〔手を觸れ心を通はせる形(との距離感獲得:Eの至大化):即ち、仕來り/禮節/謙譲/國語正統表記/美意識/祝祭日/祭祀、等の復活(Eの至大化)」:物(人・言葉:F)」(的概念F)⇒⑥:文化再生(D1の至大化)・愛國心〔防衞心・保守:國への關係(D2の至大化)形成〕國(C)歴史(C)。

 

〔難解又は重要文〕「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

*P41「西洋(價値觀/前提。場: C‘)の近代〔近代化(D1の至大化)〕を受け入れてゐる私たち(△枠)の無理な姿勢〔「近代化適應異常(D1の至小化)」の姿勢〕を正しく見きはめて、何とかして近代文明に對應し得る〔近代化適應「正常」(D1の至大化)の〕思想(D1の至大化)を作り上げねばならないと思ひます」。

*P41「『言葉(F)』に最も端的に現はれてゐるところの混亂(Eの至小化)を本當に自覺する(Eの至大化)こと、すなはち現實(價値觀/前提。場: C‘)をよくみる(D1の至小化)ことなのです」。

・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。尚、上記二文章も、評論『醒めて踊れ』で展開されてゐる、以下「關係論」が該當すると思へる(即ち、Eの至大化=D1の至大化)。

*①場(西歐近代)⇒から生ずる關係〔近代化(D1の至大化:實在物)〕⇒②言葉〔(F潜在物/關係的概念F):技術や社會制度的言葉(F)、即ち機械化(F)組織化(F)劃一化(F)合理化(F)等々〕⇒②の用法(so calledEの至大化)成立・自分と言葉との距離測定の成立(Eの至大化)⇒①との關係の適應正常化〔場への非沈湎(D1の至大化)、即ち近代化適應正常(D1の至大化)〕。

 更に、日本の「混亂」については、以下の《拙發表文:『日本および日本人』》が參考になると思ふ。

*恆存は、昭和三十年(1955年)、『日本および日本人』で「現代日本の混亂」について以下の樣に記述してゐる。

 

拙發表文:『日本および日本人』:昭和三十年(1955年)著から(一部加筆)

〔難解又は重要文〕P189下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

*「現代日本の混亂は、かういふ(「祓ひ清めて和に達する」)ふうに和合と美(両方とも日本的Eの至大化)とを生活の原理(樣式:E)とする民族が、能率や権利義務(西歐的Eの至大化)を生活の原理(樣式:E)とする西洋人の思想(個人主義等F)と制度(民主主義等F)を受け入れたことから生じてゐるのです」。⇒參照圖「ハードウェア&ソフトウェア」

・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。

つまり、「西洋人の思想(個人主義等F)と制度(民主主義等F)」を、それをso called(精神の政治學:Eの至大化)するに、西歐の方法論(西歐的Eの至大化つまり「能率や権利義務」)ではなく、日本的方法論「和合と美(日本的Eの至大化)」で對應してしまつたと言ふ混亂を、是は指してゐる

日本文化(D1)が生んだ、「祓ひ清めて和に達する」と言ふ日本特有の型(E)での「so called」では、西歐の近代化(D1)の諸概念(個人主義・民主主義等:F)を「so called(Eの至大化)」することは出來なかつた。「祓ひ清めて和に達する」と言う型(E)は日本にのみ適應し、西歐には適應する事が出來なかつたと言ふ事なのである。

⇒參照圖「ハードウェア&ソフトウェア」&「祓ひ清めて和に達する」

更に追論すれば、恆存は、美感・美意識は長所短所「表裏一對」なのだと言つてゐる樣に思へる。この「現代日本の混亂」は、日本人の美感・美意識の短所(「對象との距離感の缺如」:P199)が出た事が原因となつて、西歐との「彼我の差をはつきり認めること(Eの至大化)」が出來なくなつたのだ。と、さう恆存は謂はんとしてゐる樣に小生には思へる。

〔難解又は重要文〕P202下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

  「それぞれの思想がいかに自分と遠い距離にあるか見分けがつかず(Eの至小化)、やは

り、べたべたとそれに膠着してしまふのです。それらを、自分が考へてゐたもの、あるいは自分が欲してゐたものとおなじものだとおもひこんでしまふ。自分とのちがひに氣づき、自分との間に一線を引き、それが自分の肌にべたりと貼りついてくるのを却けながら、しかもそれを操る〔とは:so called(Eの至大化)〕といふことを知らない」。

②「私は、對象との距離感の喪失(Eの至小化=D1の至小化)を、私たち日本人の弱點と見なさざるをえないのです」。

・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。

*上記①②文は、日本人は「自分と遠い距離(Eの至小化=D1の至小化)にあつて」、「彼我の差をはつきり認めること(so called=Eの至大化を把握する事)」(P204)が出來得ない對象にまでも、「何にでもべたべた引つ付く自他未分状態の神道的生活態度」(P202概略文)で、近代化(西歐近代)適應をせんとした事を、是は示すのでは。

本來遠い距離である外來の觀念・思想なるものを、「日本人の長所である美意識」つまり「E型=祓ひ清めて和に達する」の對象にしてしまつた、と言ふ事なのでは。そして結局は出來得たものと錯覺してしまつた、所謂「近代化適應異常」(D1の至小化)を、やはり此處でも物語つてゐるのではなからうか。

以下の文章がそれを證左してゐる樣に思へるのである。

*「私たちの祖先(△枠)にとつて、道德(B)も、そのもとにあるすべての人間關係(D1)も、けつして精神(B)の問題ではなく、眼に見える(現實の)物(F)の問題であり、儀式(E)によつて律しうる形(E)の問題〔とは:物(F)は「Eの至大化」、即ち「祓ひ清めの樣式(Eの至大化)」で片附ける。道徳はBC(精神⇒絶對)の問題ではなく相對(A‘⇒A)的處理の問題〕だつたのです」(『日本および日本人』P181)。

⇒參照圖「ハードウェア&ソフトウェア」&「祓ひ清めて和に達する」

 

〔難解又は重要文〕P43「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

*「現代(價値觀/前提。場: C‘)の人々(△枠)の生き方(D1)の中には私たちのおやじ(△枠)の生き方(D1)に限らず、歴史(價値觀/前提。場: C‘)といふもの、すなはち私たちの先祖(△枠)が生きて來た生き方(D1)が現實(價値觀/前提。場: C‘)の中に入つてゐないのです。私はこのことが實にをかしい(D1の至小化)と思ふのです。日本人(△枠)が過去(價値觀/前提。場: C‘)に生きて來た生き方(D1)といふものは、やはり今(價値觀/前提。場: C‘)存在し(D1の至大化)、目に見えてゐる現實(價値觀/前提。場: C‘)と同じ現實(價値觀/前提。場: C‘)であります。形として自分の目に映らないものはもう存在しないと思つてゐる。これは近代主義者(△枠)のよくいふ現實(價値觀/前提。場: C‘)密着(沈湎:D1の至小化)の日本人(△枠)の惡い癖(D1の至小化)です。しかし、目に見えないもの〔とは:先祖・歴史(價値觀/前提。場: C‘)〕でも生きてゐる(D1の至大化)のだといふ事がわからなければ困る(D1の至小化)のです。こうして現代の人(△枠)には歴史(價値觀/前提。場: C‘)といふものが見えなく(D1の至小化)なつて來てゐるのです。私たち(△枠)の目の前にある現實(價値觀/前提。場: C‘)の、本當の力〔とは:歴史(價値觀/前提。場: C‘)の力〕が見えなく(D1の至小化)なつて來てゐるのです。これが私たち現代人(△枠)の弱點(D1の至小化)ではないかと思ひます」。

・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして更には以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。

〔上記傍線部分については、前述の以下文が參考になると思へる〕「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

*「私たちの祖先(△枠)にとつて、道德(B)も、そのもとにあるすべての人間關係(D1)も、けつして精神(B)の問題ではなく、眼に見える(現實の)物(F)の問題であり、儀式(E)によつて律しうる形(E)の問題〔とは:物(F)は「Eの至大化」、即ち「祓ひ清めの樣式(Eの至大化)」で片附ける。道徳はBC(精神⇒絶對)の問題ではなく相對(A‘⇒A)的處理の問題〕だつたのです」(『日本および日本人』P181)。

⇒參照圖「ハードウェア&ソフトウェア」&「祓ひ清めて和に達する」。

 

〔知性の限界と感情〕

〔難解又は重要文〕P44「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

*「感情(A)といふものは人間にとつて非常に大事であります。私たち(△枠)の生活の内おそらく八〇パーセントは感情(A:肉體/本能/無意識/集團的自我)で生きてゐるので、あとの二〇パーセントが知性(B:理性/精神/意識/個人的自我)、それもなけなしの知性(B)で生きてゐる」。

*「自分たち(△枠)の感情(A:肉體/本能/無意識/集團的自我)を輕蔑(D1の至小化)してゐるからです。自分たち(△枠)の感情(A:肉體/本能/無意識/集團的自我)を信じて(D1の至大化)、その上に生きてをれば(D1の至大化)、自分たち(△枠)の知性がなけなしの知性(B:理性/精神/意識/個人的自我)だといふことは、はつきりわかります(D1の至大化)。その知性の限界(A/B分岐點)といふものもわかる〔とは:精神の政治學(Eの至大化)?〕わけです。理性(B)と感情(A)の間に、お互に協定を結ばなければならないといふ事なのです」。

*「感情(A:肉體/本能/無意識/集團的自我)といふものをもつと尊重しろ(D1の至大化)といふのは、もつと理性(B:精神/意識/個人的自我)的に強くなれといふことだと言へませう。少しでも理性(B)的に考へるやうにすれば、自分たちがいかに感情(A)のなかに生きてゐるかといふ事もわかつてくる」。

・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして更には以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。

〔最後の項目は、以下文(P479全二『肉體の自律性』)が參考になると思へる〕

 

*「肉體(A)の自律性は當然その反面に精神(B)の自律性を前提とする。肉體(A)、あるいは物質(A‘⇒A)で解決すべき事を、精神(B)の重荷とするなかれ――精神には精神のみの解決しうる問題をあてがひ、その領域と大權とを縮小せしめるにしくはない。そのときはじめて精神は自律し、その権威は輝くであらう。

が、ぼくたちは今日までなんと精神(B)を神聖化し、さうすることによつて精神(B)の負荷を重からしめ、結果として精神を侮辱してきたことか。肉體(A)の自律性が確立してゐなかつたからである。明治以降の日本人はあらゆる物質的なこと、肉體(A)的なことに、すべて精神(B)のべールをかぶせ、それをことごとく精神の發動として自己満足してきた。かれらは肉慾(A)を肉慾として是認する(D1の至大化)ことをおそれ(D1の至小化)、それに精神(B)的な衣をかぶせた。物慾(A)を物慾として是認することをおそれ、それに藝術愛(B)や愛國心(B)や愛他心(B)や、その他の主種雑多な大義名分をかぶせた。・・・」(P479全二『肉體の自律性』:續く文も重要であるが、長いので省略)。

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~〔以下は《學生との對話》抜粋~~~~~~~~~~~~~

 

〔言葉について〕

P55(最終部分)の文章は、以下「關係論」に置き換へる事が可能である。

P55關係論:①當時の經濟的現實(價値觀/前提。場: C‘)⇒からの關係:社會科學(經濟學:D1))の用語であれば、①を根據(D1の至大化)にしてゐる」(D1の至大化)⇒「②:言葉(③經濟:F)」⇒E:②といふのはたとへ社會科學(D1)の中でも曖昧に使はれてゐて(Eの至小化)個人差がずいぶん(Eの至小化)ある。簡單に③學(F)とはいふ(E)けれども、科學(D1)として非常に成り立ちにくい(Eの至小化)要素を含んでゐる。社會科學の用語(F)は客觀的(Eの至大化)であり、その扱つてゐる(E)對象(F)が、まるで自然科學(D1)の物質(F)を扱つてゐるやう(Eの至大化)にすつかり固定したものと考へる(Eの至大化)ところに間違ひ(Eの至小化)がおきる。さうではなく自分(△枠)が扱つてゐる(E)のは個人差を切り捨てた(Eの至小化)一つの『假説』(F:③は假説)であるといふ自覺(Eの至大化)をもつてゐれば、もつと科學的(F)に客觀性が出て來る(Eの至大化)であらう。自覺〔一つの『假説』であるといふ自覺(Eの至大化)〕が失はれればそこにひどい混亂が起る(とは以下枠文と同意)」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒自分(△枠):①への適應正常。

P28「人々(△枠)は皆勝手(D1の至大化)に、知らないうちにある約束(假説/價値觀/前提。場: C‘)を受け入れて(D1の至小化)、その(約束)通りに言葉(F)を用ゐて怪しまない(Eの至小化)のです。現代(場: C‘)における混亂(D1の至小化)のすべての原因(D1の至小化)は、ここ〔假説/價値觀/前提(場: C‘)不問(D1の至小化)による、言葉(F)の距離不測定(Eの至小化)〕にある」。

 

 

講義4 人間の生き方、ものの考へ方(昭和五十五年八月十日:六十九歳)

參考:

『醒めて踊れ』全集第七巻 昭和五十一年:六十五歳

『せりふと動き』全集第七巻(當評論:實記載年は昭和五十二年:六十六歳)

『近代日本知識人の典型清水幾太郎を論ず』(昭和五十五年十月:六十九歳)

 ⇒(全集六P703~4 『覺書』轉載) 

 

〔過去といふもの〕

〔難解又は重要文〕P165「 」内が恆存文。( )〔 〕内は吉野注。

*「自分を衝き動かしてゐる大自然(C)、背後から自分を押し出してゐる自然といふことを申しましたが、私は一人の人間の中には二種類の人間がゐると思ふ。結局は一つのものですけれども、假に一つを集團的自我(A)といふやうに名づけるとすれば、もう一つは個人的自我(B)といふやうに名づけてもよい。この二つを統一して引締めてゐるのが一つの人格なのです。(中略)大自然(C)といふものにつながつて、それ(C)を背後に感じながら(關係:D1の至大化)動いてゐる自分(A+B:△枠)、それが個人的自我(B)である。自分(A+B:△枠)は大自然(C)の一部分、あるいは一尖端と言つてもよい。

個人的自我(B)の背景(D1の至大化)に大自然(C)があるのと同じやうに、集團的自我(A)の背景(D1の至大化)には、日本といふ過去の歴史(C)があります。われわれは日本の歴史(C)といふものの一部分、一尖端にあるわけです。日本の國といふものを一つの樹木としますと、自分はそのうちの一枚の葉である。さういふ意味で、日本の歴史(C)といふものが自分を衝き動かしてゐるといふことが出來ると思ふ」。

・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。尚、上記の内容は、向後の以下「全集六:P703~4 『覺書』」文と同一の事を謳つてゐると捉へられる。

「完成せる統一體としての人格論」から

 

*「問題は、すべてはフィクションであり、それを 協力して造上げるのに一役買つてゐる國民の一人、公務員の一人、家族の一人といふ何役かを 操る自分の中の集團的自己(A)をひとつの堅固なフィクションとしての統一體たらしめる原動力は何 かといふ事である。それは純粋な個人的自己(B)であり、それがもし過去の歴史と大自然の生命力 (時間的全體C・空間的全體C:小生注)に繋つてゐなければ、人格は崩壊する。現代の人間に最も 欠けているものはその明確な意識ではないか」(全集六P703~4 『覺書』)。

注:『覺書六』(七十八歳:平成六十三年~翌年一月記述

 

比較して、聊か違ふ點があるとすれば、以下(枠文左右)である。ただ、兩文も「(C)=(時間的全體C・空間的全體C)」或いは同樣的に、吉野注で附記してゐるが、恆存の二原文では明確な記載はない。恆存「二元論」に於ける「絶對觀・全體觀」から想定し、小生が、「完成せる統一體としての人格論」圖に「(C)=(時間的全體C・空間的全體C)」と構築し記載した迄である。

〔上文〕:P165

*個人的自我(B)⇒大自然(C)に繋がつてゐる。

〔下文〕「全集六:P703~4 『覺書』

*個人的自我(B)⇒過去の歴史(C)と大自然(C)(の二つ)に繋がつてゐる。

*「大自然(C)といふものにつながつて、それを背後に感じながら動いてゐる自分、それが個人的自我(B)である。自分は大自然の一部分、あるいは一尖端」。

*「個人的自己(B)であり、それがもし過去の歴史(C)と大自然(C)の生命力 (時間的全體C・空間的全體C)に繋つて」。

集團的自我(A)の背景には、日本といふ過去の歴史(C)があります。われわれは日本の歴史(C)といふものの一部分、一尖端にある

 

 尚、兩文の年譜を調べてみるに、以下の通り記載は同時期である。

講義4 人間の生き方、ものの考へ方(昭和五十五年八月十日:六十九歳)

②『近代日本知識人の典型清水幾太郎を論ず』(昭和五十五年十月:六十九歳)

 ⇒(全集六P703~4 『覺書』轉載)。 

よつて、小生察するには、②文中の「個人的自己(B)であり、それがもし過去の歴史と大自然の生命力 (時間的全體C・空間的全體C)に繋つて・・」を採れば宜しきかと思へる。

 

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