令和五年四月六日
吉野櫻雲
アリストテレス『自然學』:「完成せる統一體としての人格論」再論考の補足
*お差し支へなければ、以下設問に對する、貴姉の論考をお聞かせ下されば幸ひであります。
○設問①:〔自然及びアリストテレスへの拘りは何故〕
○設問②〔『文學以前』⇒自然と技術⇒『私の人間論』〕
○設問③〔人間と自然との關係を恆存はどう考へてゐるか〕
*小生論考・・・以下枠文中「大自然の生命力」(空間的全體C)、「完成せる」圖で言へば「大自然(空間的全體C)⇒關係(D1の至大化)」の箇所を、恆存は「アリストテレス『自然學』」を援用し、念入りに説明したかつたのだと推察する(參照PP圖『自然も技術を持つてゐる』shizengaku.pdf へのリンク)。
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以下「 」内が恆存文。( )〔 〕内は吉野注。 〔『覺書六』P704~5:「完成せる統一體としての人格論」抜粋〕 *「(前略)堅固なフィクションとしての統一體たらしめる原動力は何かといふ事である。それは純粋な個人的自己(B)であり、それがもし過去の歴史と大自然の生命力(時間的全體・空間的全體)に繋つて(B個人的自己⇒C大自然:時間的全體)ゐなければ、人格は崩壊する。現代の人間に最も缺けているものはその明確な意識ではないか」。 |
小生が迂闊にも、「完成せる」論で纏め損ねた重要部分、「大自然とは、永遠に技術的なる或物」(P706)を、恆存は、腦梗塞の後遺症に邪魔されながらも、過去評論を覺束なく手探りしつつ、それを何とか吾が國民に説明せんとした。
恆存が、アリストテレスの援用に拘るのは、文學上遺言「完成せる統一體としての人格論」に於ける、最重要なる結論を其處(「大自然とは、永遠に技術的なる或物」)に見い出してゐたからなのだ、と今般遅まきながら推察する。當事それを小生は見逃してゐたのだ。
つまり結論とは、自然は、ただ空間的全體(C)として、「完成せる」圖中の最上部に君臨しているだけなのではなく、自然(C)からも人間(△枠)に、意思(創造力=技術)を送つてゐる(D1の至大化)のだと言ふ事(參照PP圖『自然も技術を持つてゐる』shizengaku.pdf へのリンク)。恆存は「人格崩壊」の危機に瀕してゐる現代日本人の頭に、「完成せる統一體としての人格論」の内容と併せて、何とかそれを送り届けようと、最後の力をふり絞つてゐたのだ。その姿が想ひ偲ばれる。
〔最重要項目『大自然は永遠に技術的なる或物』〕
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*「人間を含む大自然は永遠に技術的なる或物であつて、しかも、これ以外に如何なる物も存在しない」(『覺書六』P706)。 |
上文の「大自然は永遠に技術的なる或物」とは、「大自然(全體C)⇒技術(關係D1の至大化)」と言ふ連續的統一物(C)を指す。そして、人間の「技術(A&B:例『物を煮たり焼いたり』)」とは、自然〔大自然(全體C)の技術(創造力=關係D1の至大化):例『人間の體内における消化現象』〕を模倣(關係:D2の至大化)」し、かつ「大自然の手(技術・創造力:D1の至大化)の届かぬ處を穴埋め(D2の至大化)するのが目的」でもあるのだ、と(アリストテレス『自然學』)。
さうした大昔の賢人の叡智があるにも關はらず、それを忘失した現代の人間は、その結果として、「個人的自己(B)がもし過去の歴史と大自然の生命力(時間的全體・空間的全體)に繋つてゐなければ、人格は崩壊する」の危機に瀕してしまつてゐるのだと。
それを「關係論」で表すと以下の樣になる。
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〔關係論〕 *①大自然(C)⇒からの關係:①は「◎技術〔創造力(自己實現の意思:D1の至大化)〕を持つ」⇒「③:個人的自己(B)」(◎的概念F)⇒E:しかしながら「④は、その③に於いて、①の生命力(空間的全體C)に繋つて(B個人的自己⇒C大自然:空間的全體)ゐない(Eの至小化)」(③への距離不獲得:Eの至小化)⇒④現代の人間(△枠):①への適應正常。 (注:自己實現の意思・・・『文學以前』全四P404參照) |
更に恆存は、次の樣にアリストテレスの『自然學』を援用し、それを代辯する。
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以下「 」内が恆存文。( )〔 〕内は吉野注。
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恆存は、文中傍線部分「「社會生活を整へる(A‘⇒A)のが政治や道徳の技術(有用の技術:A)である」・「〔自然(C)⇒技術・創造力(自己實現の意思:D1の至大化)の〕延長線上にあり〔つまり「宿命(自然の意思:D1の至大化))/自己劇化(D2の至大化)」〕」について、特に、「社會生活を整へる(A‘⇒A)のが政治や道徳の技術(有用の技術:A)である」(『自然學』)の部分を、以下文、つまり集團的自己(A)上で演じられる、「關係と言ふ眞實(目上⇔目下・親⇔子・師⇔弟子・國⇔國民、等々)を生かす」の思想に、それを連結させようとしてゐる樣に思へる。
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「完成せる統一體としての人格論」抜粋:以下は左文に對する小生の「補足説明文」。 *各場面場面(國・企業・夫婦・親子・家庭・兄弟・師弟・友達・他者・等)から生ずる、關係と言ふ眞實(目上⇔目下・親⇔子・師⇔弟子・國⇔國民、等々)。その「眞實を生かすために一つのお面をかぶる(「誠實・至誠・愛・慈悲」等と言ふ名の宿命的役を演ずる:自己劇化)」。 |
連結させる事で、「現代の人間に最も缺けている」弱點(個人的自己上では自然との紐帯を意識出來得ぬ)を、集団的自己上の「眼に見える技術」では、それを補強出來るといふ事。言はば「自然との紐帯の強固なる存在」の意義を、恆存は吾が國民に教えようとしてゐるのではなからうか。『自然學』は「完成せる統一體としての人格論」に於ける主張と共に、「人格崩壊」防衛の手段となり得る、と恆存は訴へてゐるのだと小生は推測する。人間は自然と繋がつてゐる事の證左として、アリストテレスの『自然學』(技術論)を上げてゐるのである。
もし病ひに侵されてゐなかつたなら、恆存一流の名文でそれを記述してゐただろうと想像する。
○〔各PP圖・各「關係論」の不明點。及びその他全般についての感想等〕
以上