令和五年三月二十八日

 

吉野櫻雲

 

 

三月二十三日實施:『讀む會』論考の補足

 

先日はお疲れ様でした。

顧みますに、當日、對「設問」應答の際に、二三説明の不足が有る事に氣が附きました。依つて此處にその「補足」を致したくご案内申し上げます。

 

「形のある『物』として見せる」への説明不足〕

*是につきましては、だいぶ以前の話になりますが、以下「關係論」に辿り着くまで、小生も隨分と理解するのに手を焼きました。

*著『#せりふと動き』(ツイッター投稿文から)

關係論:場面(C‘)⇒から關係として生ずる「①心の動き(D1の至大化)」⇒を「②せりふと動き(F)」(①的概念)⇒②への用法(Eの至大化:#フレイジング #距離測定 So called)で、「形のある『物』として見せる(Eの至大化)」⇒場面への適應正常(#役者△修業 は #人間△修業)。

場面(C)から關係(D1の至大化)として生ずる「心の動き(D1の至大化)を形のある『物』として見せる(Eの至大化)のがせりふの力學(フレイジング:E)」(『せりふと動き』)。

○上記傍線部「形のある『物』として見せる」には、以下二つの意味合があります。

①「形のある『物』として見せる」とは、『物』(F:せりふ/言葉)との距離感(Eの至大化)を見せる(即ち、F物/せりふ⇒Eの至大化:距離感/用法)を意味します。

役者(△枠)が、『物』(F:せりふ/人)との距離感を、形(Eの至大化)つまり、せりふの用法「強弱・高低・遠近・粒立て(フレイジング)等」を利用して、觀客に見せる(Eの至大化)事で、場面(C 配役)から生ずる關係(眼に見えぬ心の動き:D1の至大化)を觀客の腦裏に描く、を意味します。配役(場 C‘)からの心の動き(D1の至大化)が、この時(場C)、相手への「押しか、引きか、投げやりか、それともうっちゃりか、等々」の氣分(D1の至大化)を、形(Eの至大化)つまりせりふの用法「強弱・高低・遠近・粒立て(フレイジング)等」を利用して、觀客の腦裏に描く、を意味します(即ち、Eの至大化=D1の至大化)。

 例へば、ハムレット臺詞、『じつと身を伏せ、不法な運命の矢彈を堪へ忍ぶのと、それとも劍をとつて、押しよせる苦難に立ち向ひ、とどめを刺すまであとには引かぬのと、一體どちらが。いつそ死んでしまつたはうが。死は眠りにすぎぬ――それだけのことではないか。(中略)死んで、眠つて、ただそれだけなら!眠つて、いや、眠れば、夢も見よう。それがいやだ』で、上記「押し引き」及びそれへの對應を現すと以下表の樣になります。

場( C‘)からの心の動き(D1の至大化)

臺詞(F)への對應⇒「強弱・高低・遠近・粒立て(フレイジング)等」のいづれか

「引き」の氣分

臺詞(F)『じつと身を伏せ、不法な運命の矢彈を堪へ忍ぶのと』への對應⇒弱・低・遠(Eの至大化)。

「押し」の氣分

臺詞(F)『それとも劍をとつて、押しよせる苦難に立ち向ひ、とどめを刺すまであとには引かぬのと』への對應⇒強・高・遠・粒立て(フレイジング)(Eの至大化)。

「引き」の氣分

臺詞(F)『いつそ死んでしまつたはうが。死は眠りにすぎぬ――それだけのことではないか』への對應⇒弱・低・遠・粒立て(フレイジング)(Eの至大化)。

「引き」の氣分

臺詞(F)『死んで、眠つて、ただそれだけなら!眠つて、』への對應⇒弱・低・遠・粒立て(フレイジング)(Eの至大化)。

「押し」の氣分

臺詞(F)『いや、眠れば、夢も見よう。それがいやだ』への對應⇒強・高・遠・粒立て(フレイジング)(Eの至大化)。

②もう一つの「形のある『物』として見せる」とは、以下①を使つて、眼には見えない「心の動き(關係:D1の至大化)」を、文字通り、觀客の腦裏と言ふ畫面に實際に見える樣、「姿・形ある『物』にして見せる」即ち映像的實像化を意味します

  「形のある『物』として見せる」とは、『物』(F:せりふ/言葉)との距離感(Eの至大化)を見せる(即ち、F物/せりふ⇒Eの至大化:距離感/用法)を意味します。

役者(△枠)が、『物』(F:せりふ/言葉)との距離感を、形(Eの至大化)つまりせりふの用法「強弱・高低・遠近・粒立て(フレイジング)」を利用して觀客に見せる(Eの至大化)事で、場面(C配役)から生ずる關係(心の動き:D1の至大化)を觀客に見せる。

つまり、「形のある『物』として見せる」とは、以下「壱弐」の意味合を持つといふ事です・・・

壱:『物』(F:せりふ/言葉)との距離感(Eの至大化)を見せる(即ち、F物/せりふ⇒Eの至大化:距離感/用法)を意味する。

弐:「壱」を使つて、觀客の眼には見えない、配役C’場)から生ずる「心の動き(關係:D1の至大化)」を、「形のある『物』として見せる」の文字通り、觀客の腦裏と言ふ畫面に實際に見える樣、「姿・形ある『物』にして見せる」即ち映像的實像化を意味する。

上記「壱弐」の意味合を「ハムレット」劇の實例で確認すると、以下黄色文の樣になります。

關係論:①復讐劇(場 C’)⇒からの關係:「②『これが宿命であると言ふ納得のいく行爲の連續で生涯を滿たしたかつた』」と言ふ、眼には見えない意志・心の動き(「押し」の氣分:D1の至大化)を」⇒「③:せりふ『この世の關節がはづれてしまつたのだ。なんの因果か、それを直す役目を押しつけられるとは!』」(②的概念F)⇒E:との距離感(Eの至大化)即ち「強弱・高低・遠近・粒立て(フレイジング)・アイロニー・レトリック等」を使つて、表出する(觀客の腦裏に見せる:Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒ハムレット(△枠):①②への適應正常。

 一つの主題(復讐劇C’)との關係(D1の至大化)、つまりハムレットが意中に秘するこれが宿命であると言ふ納得のいく行爲の連續で生涯を滿たしたかつた』と言ふ意志(D1の至大化)を、各場各場(C’)、上記黄色文で謂ふ「Eの至大化」〔物(F:/言葉)との距離感(Eの至大化)〕を、絶えず保持しながら激しく動き廻る、と言ふこの演劇の筋書き。

そして、その役に成り切つてリアルに演じようとする役者(△枠)。主人公ハムレット(△枠)が内包する精神の強靭性(意志:D1の至大化)を、役者(△枠)が「形のある『物』として見せる(Eの至大化)」には、役者(△枠)も又、ハムレット(△枠)と同樣、場C’)から場(C’)への急激な轉換(D1の至大化)を演じられる精神の強靭性(D1の至大化)と、「Eの至大化」〔物(F:せりふ/人)との距離感(Eの至大化)〕を絶えず保持しながら、激しく動き廻れる、強度の演戯力が必要となる。先述の「壱弐」を驅使し、それが出來たのは、當時で言へばバートンと芥川比呂志であり(恆存評論)、その後は先代松本幸四郎・染五郎となるでせうか(小生考察)。

 無限定(C:絶對喪失)の自己(△枠)となつたハムレットは、『これが宿命であると言ふ納得のいく行爲の連續で生涯を滿たしたかつた』(意志・關係といふ眞實:D1の至大化)を、「形のある『物』として見せ」ながら(Eの至大化)、各場各場(C’)激しく動き廻り、演じ切りかつたのである(出典:『人間・この劇的なるもの』?)。

〔參照文〕

全七P300『せりふと動き』より 

 

*場( C‘)から生ずる、「關係(D1)と稱する實在物は、潜在的には一つのせりふ(F:言葉)によつて表し得る」。故にその言葉(F)との附合ひ方(フレイジング・So called:E)によつて、人間は場( C‘)との關係の適應正常化(D1の至大化)が叶へられる(傍線部分小生の説明的加筆)。

*著『#せりふと動き』(ツイッター投稿文から)

場面⇒から關係として生ずる「①心の動き」⇒を「せりふと動き」(①的概念)⇒への用法(Eの至大化:#フレイジング #距離測定 So called)で、「形のある『物』として見せる」⇒場面への適應正常(#役者△修業 は #人間△修業)。

場面(C)から關係(D1)として生ずる「心の動き(D1)を形のある『物』として見せる(Eの至大化)のがせりふの力學(フレイジング:E)」(『せりふと動き』)。

*「すべてのせりふ(F)において、それ自体の意味内容より關係(D1)の方が先行するといふ事、観客に見せなければならぬのは、何よりもその關係(D1)なのだといふ事」(P318『せりふと動き』)。

*『シェイクスピア劇のせりふ』

「せりふ(F)は語られてゐる意味の傳達を目的とするものではない。一定状況の下(場面C’)において、それを支配し、それに支配されてゐる(D1:宿命・關係)人物の意志や動きを表情や仕草と同じく形のある『物』として表出する事(Eの至大化)、それが目的であり、意味の傳達はその爲の手段に過ぎぬ」(P345)。

 

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〔「言靈」及び、宣長「言語觀」と恆存「演劇的關係論」との一致、に關しての説明不足〕 

〔宣長の『言靈』觀〕

#小林秀雄 著 #本居宣長 二十八章主題 (ツイッター投稿文から)

  #祝詞②#言靈③助辭(#てにをは)④いともあやしき言靈のさだまり⑤#古事記⇒からの關係:  に一番強く發揮された②は、③即ち④に乘じて、⑤に結ばれ(即ち,轉義)⇒⑥#稗田阿礼(# 巫女 #語部)⇒⑥の[#誦習(よみならひ)]に合體する⇒宣長。

 

宣長の歌學

《『言靈』の各文學への變遷》PP圖參照⇒kotodama.hensen.pdf へのリンク

*『言靈』は、『助辭(てにをは)』と言ふ『いともあやしき言靈のさだまり(格)』(心の本質的な連續性)に乘じて、歴史上の『萬葉集』『源氏』等に結ばれ(即ち、轉義D1の至大化)」⇒「①姿:『ますらをぶり』『物のあはれ』等」(合體對象:F)⇒①に合體(即ち、F⇒合體Eの至大化)⇒萬葉歌人・式部(△枠)

*「言語(言靈。物:場 C‘轉義(D1の至大化)姿(F)に合體(Eの至大化)」といふ事。

○二十七章P248關係論言語(物:場 C‘言靈(物:場 C‘環境(物:場 C‘からの關係:といふ自らの衝動を持ち(D1の至大化)、に出會ひ(D1)、「:自發的にこれに處してゐる〔『鋭敏に反應』(轉義:D1の至大化)〕」:姿」(的概念F)E:事物に當つて、己()を驗し、事物に鍛へられて、己の(F)を形成(合體:Eの至大化)してゐるものだ」(⑤への距離獲得:Eの至大化)日本人(枠):への適應正常。

○二十七章P249關係論①言靈(物:場 C‘和歌史(場 C‘歌學の基本(物:場 C‘からの關係:このの營みを、明瞭に辿る事は誰にも出來ないにせよ、「:それ()がを一貫する流れを成してゐるといふのが、にある直觀(D1の至大化)である」:著『詞の玉緒』」(的概念F)E:で究明したのは、が言語を持つてゐるのは、あたかもが肉體を持つてゐるが如きものだといふ事であつた」(⑤への距離獲得:Eの至大化)⇒⑦私達⑥宣長(△枠):①②への適應正常。

○二十八章P268關係論①著『詞の玉緒』(物:場 C‘『てにをは』(物:場 C‘からの關係:で、には、「:係り結びに關する法則的な『ととのへ』、或は『格(さだまり)』と言ふべきものがある」(D1の至大化):『いともあやしき言靈のさだまり(格)』(的概念F)E:は、これ〔法則的な『ととのへ』『格(さだまり)』(Eの至大化)〕を、と呼んだ。國語に、この獨特の基本構造(即ち)があればこそ、國語はこれ()に乘じて、われわれの間を結び(即ち『言靈』の轉義D1の至大化)、『いきほひ』(Eの至大化)を得、『はたらき』(Eの至大化)を得て生きる(即ち、合體Eの至大化)のである、⑤はさう考へてゐた」(④への距離獲得:Eの至大化)⇒⑤宣長(△枠):①②への適應正常。

《上記各文章を鑑みつつ考察するに、宣長『てにをは』言語觀」(以下Ⅰ)と、恆存の「演戯的關係論」(以下Ⅱ)とには、言語觀の一致が窺へる》

:〔二十三章〕P219:宣長の『てにをは』言語觀

『すべて人(物:場 C‘)の語(言葉F)は、同じくいふことも、いひざま(E:型)、いきほひ(E:型)にしたがひて(「Eの至大化」or「Eの至小化」)、深くも(Eの至大化)、淺くも(Eの至小化)、をかしくも(Eの至大化)、うれたくも(Eの至小化)聞ゆるわざ(E:型)にて、歌(かたち:E)は、ことに、心のあるやう(心の動き:D1の至大化)を、ただに、うち出たる趣(Eの至大化)なる物なるに、その詞(F)の、口のいひざま(E:型)、いきほひはし(E:型)も、ただに耳にききとらでは(Eの至小化)、わき(分き?)がたけれ(Eの至小化)ば、詞(F)のやうを、よくあぢはひて(Eの至大化)、よみ人(物:場 C‘)の心(D1)を、おしはかりえて(D1の至大化)、そのいきほひ(E:型)を譯(うつ)すべき(Eの至大化)也』(宣長著『古今集遠鏡』)。

〔上文の「關係論」的表現〕

(Ⅰ)關係論①すべて人・よみ人(物:場 C‘からの關係:①の心(D1)を、「:おしはかりえて(D1の至大化)」:詞・語」(的概念F)E:のいひざま(E:型)、いきほひ(E:型)にしたがひて(「Eの至大化」or「Eの至小化」)、深くも(Eの至大化)、淺くも(Eの至小化)、をかしくも(Eの至大化)、うれたくも(Eの至小化)聞ゆるわざ(E:型)にて、歌(かたち:E)は、ことに、心のあるやう(『心をおしはかり』:D1の至大化)を、ただに、うち出たる趣(Eの至大化)なる物也(即ち、D1の至大化=Eの至大化)。故に、その(③の)いきほひ(E:型)を譯(うつ)すべき(Eの至大化)也」(即ち、Eの至大化=D1の至大化、といふ事)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒宣長『古今集遠鏡』(△枠):①への適應正常。

 

Ⅱ:恆存『演戯的關係論』〕

*『場(C‘)から生ずる、心の動き(D1の至大化)を、形ある物として見せるのがせりふ(言葉:F)の力學(Eの至大化)』(恆存評論『せりふと動き』)。

(Ⅱ)關係論①場( C‘)⇒からの關係:①から生ずる「②心の動き(D1の至大化)」を⇒「③:せりふ(言葉:F)」(②的概念F)⇒E:③の力學(③の用法:Eの至大化)で形(E)ある物として見せる(Eの至大化)」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒役者・人間(△枠):①への適應正常。

 

 

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