平成十八年四月三十日
吉野櫻雲
恆存が最後に提言しようとした、「完成せる統一體としての人格」論
(全集六P703~4 『覺書』からの纏め)
new.kanseiseru.pdf(「完成せる統一體としての人格論」圖)
*恆存は、晩年、脳梗塞の後遺症に苦しみながら、「全集六『覺書』」をなんとか記述された。
言はば、この『關係論』は、恆存思想の最重要論究であるので、他評論からの補足すべき部分を更に引用して、
「恆存は何が言ひたかつたのか」(即ち、關係論の眞骨頂)を以下に纏めてみた。
。
以下文の「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「一般の日本人は、自分の子供が戰場に駆り立てられ、殺されるのが嫌だからと言つて、戰爭に反對し、軍隊に反撥し、徴兵制度を否定する。が、これは『母親』の感情である。その点は『父親』でも同じであらう、が、『父親』は論理の筋道を立てる。國家(場面)といふフィクションを成り立たせるためは、子供が戰場に駆り立てられるのも止むを得ないと考へ、そのための制度もまたフィクションとして認める。が、彼にも感情がある。自分の子供だけは徴兵されないように小細工するかも知れぬ。私はそれもまた可と考へる。『父親』の人格の中には國民としての假面(役・自己劇化)と親としての假面と二つがあり、一人でその二役を演じ分けてゐるだけの事である。そして、その假面の使ひ分けを一つの完成した統一體として為し得るものが人格なのである。『私たちはしつかりしてゐない』といふ自覺が、『私たち』をしつかりさせてくれる別次元のフィクションとしての國家や防衛を要請するのである、要するに人格も法も國家も、すべてはフィクションなのであり、迫持(せりもち)、控へ壁などの備へによつて、その崩壊を防ぎ、努めてその維持を工夫しなければならぬものなのである」(P703
全6 『覺書』)「問題は、すべてはフィクションであり、それを協力して造上げるのに一役買つてゐる國民の一人、公務員の一人、家族の一人といふ何役かを操る自分の中の集團的自己をひとつの堅固なフィクションとしての統一體たらしめる原動力は何かといふ事である。それは純粋な個人的自己であり、それがもし過去の歴史と大自然の生命力(時間的全體・空間的全體)に繋つてゐなければ、人格は崩壊する。現代の人間に最も欠けているものはその明確な意識ではないか」(全集六P703~4 『覺書』)。
二役のみならず、何役(國民の一人、公務員の一人、家族の一人)を操る「自己劇化」が出來得る人格として、「完成せる統一體としての人格」論がそこに登場するのである。何役かを操る「自己劇化」を別な表現では、各場面場面で關係的眞實を生かしていくのだ、との内容で恆存は言つてゐる。その究極が「完成せる統一體としての人格」なのだと。
以下恆存文を索引しながらその内容を記載する。
何役かを操る各場面でそこから發生する、關係の「眞實を生かすために一つのお面をかぶる(役を演ずる・自己劇化)」。「演戯なしには人生は成り立たない。つまり假説なしには成り立たない」。「眞實といふのは、ひとつの關係の中にある。個々の實體よりはその關係の方が先に存在している。人生といふものは、關係(目上⇔目下・親⇔子・師⇔弟子・國⇔國民、等々)が眞實なんで、一生涯自分のおかれた關係の中でもつて動いてゐる。いろいろな關係を處理していき、それらの集積された關係がその人の生涯といふもの。それを私は演戯だといふ」。「われわれがこしらへたものは、相對的であつて絶對ではないといふ原理をちやんと心得て、こいつを絶對化(假説の完璧化・築城の完璧化)しようといふ努力」(單行本『生き甲斐といふ事』中、對談『反近代について』P195 ・199)。
即ち要約すれば、各場面場面(國・企業・夫婦・親子・家庭・兄弟・師弟・友達・他者・等)から生ずる、關係と言ふ眞實(目上⇔目下・親⇔子・師⇔弟子・國⇔國民、等々)。その「眞實を生かすために一つのお面をかぶる(誠實・至誠・愛・慈悲、等と言ふ名の宿命的役割を演ずる:自己劇化)」。さうした行動の中に、しかもそれが典型として、別圖「完成せる統一體としての人格論」圖」kanseiseruA.pdf へのリンクの如く「假説の完璧化」が果たせられた場合に、「完成せる統一體としての人格」が現成するのである、と恆存は言ふのである。
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