令和二年七月二十一日
《讀む會:番外編》
吉野櫻雲
《恆存「關係論」で讀む、小林秀雄『プラトンの國家』》
*今囘、小林秀雄の『考へるヒント』(昭和五十四年発行「新訂小林秀雄全集第二十卷」)に再チャレンジしてみました。前囘讀んだ時は、文章の上つ面を撫でる事しか出來ず、何とも取り留めのない「もどかしさ」の讀後感ではありましたが、今囘は、あの恆存の「關係論」(以下)、を活用して讀むと、以前よりは更に深い處に届けた樣な感じがしたのでありました。
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*〔場( C‘)⇒關係(D1)⇒關係を表する附帶的諸概念(言葉F)⇒(言葉F)の遣ひ方で關係(D1)を形のある『物』として見せる(Eの至大化)⇒人間(△枠)〕。 |
「*恆存は、せりふを含め言葉(潛在物:F)の裏(背景)には、關係(D1)と言ふ實在物が存在してゐて、かつ「關係(D1)の方が先行する」又「在るものは關係(D1)だけである」と、その重要性を他の評論も含め以下の樣に記述してゐる。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 ①場( C’)から生ずる「關係(D1)と稱する實在物(近代化=ハードウェア)は、潜在的には一つのせりふ(F:技術や社會制度的言葉、即ち機械化・組織化・劃一化・合理化等々のハードウェア)によつて表し得る」(全七P300『せりふと動き』(當評論:實記載年は昭和五十二年:六十六歳)。 ②「すべてのせりふ(言葉F)において、それ自體の意味内容より關係(D1)の方が先行するといふ事、觀客に見せなければならぬのは、何よりもその關係(D1)なのだといふ事」(P318『せりふと動き』)。 ③「關係(D1)の無いところでは、個(AB及びFも可能)も全く捉へ處も手掛りも無いものとなる。個よりも關係(D1)の方が先に存在し、一つ一つの個(F)は既成の關係(D1)の中に生れて來るのだからである」(P455『フィクションといふ事』)。 ④「『何(F)を喋るか』ではなく『なぜ(D1)喋るのか』の『なぜD1』を『何F』の裏に見せてくれてこそ芝居の面白味があるのです」(参照戯曲場面:P320上~321『せりふと動き』)。 ⑤「せりふ(F)は語られてゐる意味の傳達を目的とするものではない。一定状況の下(場面C’)において、それを支配し、それに支配されてゐる(D1:宿命・關係)人物の意志や動きを表情や仕草と同じく形のある『物』(Eの至大化)として表出する事、それが目的であり、意味の傳達はその爲の手段に過ぎぬ」(全七P345『シェイクスピア劇のせりふ』)。 ⑥「在るものは關係(D1)だけである」(P23上)が、しかもそれを「言葉(F)は客觀的に描寫しない」(P70下)又はし得ないのである。「言葉(F)は對象を描寫するするためのものではない」(P69下)。何故ならば、「事實は語るべきものではなく、ただ在るもの」(62上『批評家の手帖』:拙發表文から)だから。 |
上文特に「在るものは關係(D1)だけである」を參考にして考察してみました。
即ち、評論『プラトンの國家』の以下抜粋文へ、關係論の括弧注( C‘・D1・F・E等)を附す事で、以前は平面的にしか捉へられなかつた文章に、その内容の明確化に加へ、「關係論」的立體感(實體感・實在感)を、小生は得る事が出來たのではあります。
まあ、一種の自己滿足と言つてしまへば言へるものでもありますので、せめて「武漢ウイルス」と梅雨空の氣分轉換にもなれば、“是はもつけの幸ひ”と、ご案内申し上げる次第であります。
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《恆存「關係論」で讀む、小林秀雄『プラトンの國家』》
まず「前説」をしておきます。
評論『プラトンの國家』の文言中、「巨獣・集團・社會」等を、以下枠文の樣に『關係論』に於ける「場( C‘)」と捉へてみると、別の文言「必然・慾望・力」等を、「巨獣・集團・社會」( 場C’)から生ずる「關係(D1)」として、捉へる事が可能となる。さうすると、その他の文言についても、以下の樣な關聯としての「圖式」に収まるのではなからうかと考へた次第であります。(參照PP圖)puratonnokokka.pdf へのリンク
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*「巨獣( C‘:社會・集團・國家)」⇒「必然・慾望・力(D1)・知識や眞理の尺度(D1):奉仕屈従(D2)」⇒「何處・善惡・正義不正義・自由・平等差別(F:慾望必然的諸概念)⇒「撫でる・意見・學説(E)」⇒「ソフィスト達・大衆・人間(△枠)」。 |
尚、今般レジュメで借用する、『プラトンの國家』の文章(抜粋)は以下のとほりであります。そして、〔 〕( )内に、「關係論」的標語を附してみました。(參照PP圖)puratonnokokka.pdf へのリンク
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「 」内が小林文。〔 〕( )内は吉野注。 *P29「(ソクラテスは言ふ)『どんな高徳な人(△枠)と言はれてゐるものも、恐ろしい、無法な慾望(A&D1)を内に隱し持つてゐる」⇒「『眠る夜、見る夢を觀察してみれば直ぐわかる事だ』と」⇒「さう言ふ人間が集つて集團( C‘)となれば、それは一匹の巨獣( C‘)になる」⇒「みんな(△枠)寄つてたかつて、これを飼ひ慣らさう(D2)とするが、獣( C’)はちと巨き過ぎて、その望むところ(D1慾望)を悉く知る(D2)事は不可能であり、何處(F)を撫でれば(E)喜ぶ(Eの至大化)か、何處(F)に觸れば(E)怒り出す(Eの至小化)か、そんな事をやつてみる(E)」⇒「やつてゐる(E)うちに、樣々な意見や學説(E)が出來上がり、それを知識(D1)と言つてゐるが、知識(D1)の尺度(D1慾望)はこの動物( C‘巨獣)が握つてゐる(C’⇒D1)のは間違ひない事」⇒「であるから、善惡(F)も正不正(F)も、この巨獣( C‘)の力(D1)に奉仕(D2)し、屈從(D2)する程度(D2の至小化)によつて定まる(Eの至小化)他はない」⇒「プラトンは、社會( C’)といふ言葉を使つてゐないだけで、正義(F)の歴史的社會的相對性(即ちE:捉へ方)といふ現代に廣く普及した考へを語つてゐる」⇒「今日ほど巨獣( C‘社會)が肥つた事もないし、その馴らし方(D2)に、人々(△枠)が手を焼いてゐる(D2の至小化)事もない」⇒「小さい集團( C’)から大國家( C‘)に至るまで、争つてそれぞれの正義(F)を主張して(E)互ひに譲る事が出來ない(慾望・必然D1)」⇒「眞理の尺度(D1)は依然として巨獣( C‘)の手にあるからだ」。 P30「ソクラテスは、巨獣( C‘)には、どうしても勝てぬ事をよく知つてゐた」⇒「この徹底した認識(D1の至大化)が彼の死であつたとさへ言つてよい」⇒「巨獣( C‘)の慾望(D1)に添ふ意見(慾望的概念F)は善(F)と呼ばれ(E)、添はぬ意見(慾望的概念F)は惡(F)と呼ばれる(E)」⇒「その慾望(D1)そのものの動きは、ソクラテスに言はせれば、『正不正(F)』とは關係のない巨獣の『必然』(D1)の動きに過ぎない」⇒「〔『巨獣( C‘)の慾望(D1)の必然(D1)の運動は難攻不落』だから〕人間はそんなものに負けてもよいし、勝つた人間もありはしない」⇒「ただ、彼(ソクラテス)は、物の動き(巨獣C’の慾望・必然の動き:D1)と精神の動き〔事實(F)を『徹底的に疑ふ』(Eの至大化)〕とを混同し、必然(D1:巨獣⇒慾望D1)を正義(F)と信じ(Eの至小化)、教育者面したり指導者面(いずれも假面・自己欺瞞:Eの至小化)をしてゐるソフィスト達(知識人△枠)を許す事が出來なかった」⇒「ソクラテスは、大衆(F)の教育(E)だとか、民衆(F)の指導(E)だとかいふ美名(假面:Eの至小化)を全く信じてゐない」⇒「巨獣( C‘)の慾望(D1)の必然(D1)の運動は難攻不落であり、民衆( C’)の集團( C‘)的な言動(『C’⇒D1的』F)は、事の自然な成り行き(必然D1)と同じ性質(『必然D1的』概念F)のものである以上、正義(F)を教へる(E)程容易な事(似非:Eの至大化)があらうか〔即ち、正義(F)は集團( C‘)が作る必然(D1)に靡く、と言ふ事か〕」⇒「この種の教育者〔即ち、集團( C’)⇒必然(D1)⇒正義(『必然D1的』概念F)⇒教育(假面・自己欺瞞:E)⇒教育者(指導者△枠)〕は、必ず成功する(集團C‘側に附く教育者・指導者は勝ちを収める)」⇒「彼は、その口實(E:自己欺瞞)を見抜かれる心配はない」⇒「彼の意見(E)は民衆( 集團C‘)の意見(慾望・必然D1)だからだ」⇒「もし、ソクラテスが、プロパガンダ(宣傳:E)といふ言葉を知つてゐたら、教育(E)とプロパガンダ(E)の混同は、ソフィスト(知識人・教育者:△枠)にあつては必至のものだと言つたであらう」⇒「言ふまでもなく、ソクラテスは、この世に本當の意味で教育(Eの至大化)といふものがあるとすれば、自己(F)教育(E)しかない(『汝自身を知れ』と言ふ事か)、或いはその事に氣づかせるあれこれの道〔アイロニイ(反語法・對話法:Eの至大化)〕しかない事を確信してゐた」⇒「事實(F)を見定めず(Eの至小化)にレトリック(修辞・でつち擧げ:E)に頼るソフィストの習慣(Eの至小化)は、アテナイの昔から變つてゐない、と彼は言ふだらう」。 *P34(プラトン曰く)「政治とは巨獣(集團 C‘)を飼ひならす(D2)術だ、それ以上のものではあり得ない」⇒「巨獣( C’)には一かけらの精神(D1の至大化)もない〔あるのは(D1)力・慾望・必然〕といふ明察だけが、有效な飼ひ方(D2の至大化)を教へる」⇒「この點で一歩でも譲れば、(巨獣 C‘に)食はれて了ふであらう」。とはつまり・・・《巨獣(集團・社會 C’)⇒慾望(D1)⇒(F:慾望必然的諸概念)善惡・正義不正義・英雄・自由・平等差別他⇒徹底的に疑ふ・戰ふ精神・對話法(Eの至大化)⇒ソクラテス(△枠)⇒飼ひならす(D2の至大化:政治)⇒巨獣( C‘集團・社會 )》。 |
*つまり、上枠文を小生的に纏めるとかうなる。
人は(△枠)、集團側( 巨獣C‘)に附くと、集團(巨獣 C’)が生み出す必然(慾望D1)に、その威を借りて自分に都合良く、慾望必然的諸概念(F:唯物論・正義不正義・善惡・自由・人種差別・平等他)を勝手にでつち擧げる(E)事が可能となると言ふ事。卑近な例を擧げると以下の樣になる。
*「巨獣( C‘集團的左派リベラル・左翼)⇒必然・慾望・力・強制・知識や眞理の尺度(D1)⇒(慾望必然的諸概念F)善・正義・人種差別・平等・性奴隷、他⇒Fを「考へさせられてゐる」(Eの至小化)・でつち擧げの意見・學説(Eの至小化)⇒朝日新聞(△枠)」。
*上式を解り易く記載すると、(集團C‘が作る必然D1に從ひ)「事實(F)を見定めず(Eの至小化)にレトリック(修辞・でつち擧げ:E)に頼る」(P31)、朝日新聞等(△枠)の習慣(Eの至小化)と讀み替へる事が出來る。
尚、上式では他にも色々活用が可能かと存ずる次第であります。偶々、本日眼にした産經新聞コラム「緯度経度:黒田勝弘」の韓國問題も以下の様に。
*「巨獣( C‘集團的左派リベラル・左翼)⇒必然・慾望・力・強制・知識や眞理の尺度(D1)⇒(慾望必然的諸概念F)公正・正義・人種差別・平等・性奴隷、他⇒Fを「考へさせられてゐる」(Eの至小化)・でつち擧げの意見・學説(Eの至小化)⇒韓國文大統領他(△枠)」。
更に「中國共産黨・習近平」に例を擧げますと以下のやうにも。
*「巨獣( C‘社會主義國家)⇒必然・慾望・力・強制・知識や眞理の尺度(D1)⇒(慾望必然的諸概念F)善・正義・人種差別・侵略覇權・平等、他⇒Fを「考へさせられてゐる」(Eの至小化)・でつち擧げの意見・學説(Eの至小化)⇒中國共産黨・習近平(△枠)」。
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