令和元年十月十日

〔福田恆存を讀む會〕

吉野櫻雲 

 

『二つの世界のアイロニー』全集二(「人間」昭和二十五年著)

 

 

「そこ(ABすり替への自己欺瞞)にわれわれのアイロニー(皮肉・逆説・反語)がある」

〔難解又は重要文〕:P537下「 」内が恆存文。( )内は吉野注

*「われわれ日本人は、自國のエゴイズム(A)を肯定しえぬがゆゑ互ひに他國の正義(B)にすがりつかねばならなかつたのである。とすればそこ(ABすり替への自己欺瞞)にわれわれのアイロニー(皮肉・逆説・反語)があることを認めねばならず、(中略)」⇒「世界主義(B)か民族主義(A)かといふやうな二者擇一はわれわれのものではない。この課題がすでに外部から與へられたものである。ひとびとはなぜそれに氣づかないのか」⇒P538上「要するに、われわれのまへにあらゆる二者擇一(A領域かB領域か)が、戰術としてではなく、アイロニー(皮肉・逆説・反語)として現れるのである。(中略)アイロニーこそわれわれ自身の現實である」⇒「二つの世界(世界主義B・民族主義A)の對立といふ概念すら外部から與へられたもの〔C2:後楯・護符(西歐概念=上位概念)PP圖「彼我の差」參照〕に過ぎず、われわれはその二つの世界(世界主義B・民族主義A)の對立に對立してゐる(即ち、西歐近代適應異常)といふ事實ではないか」⇒「どちらかを選びとりながら、われわれはどちらにも對立せねばならない。對立とは(中略)日本の宿命〔「(ABすり替への自己欺瞞)にわれわれのアイロニー(皮肉・逆説・反語)がある」PP圖「彼我の差」參照〕にかかはることなのである」。

・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして上文は、小生にはその三年前(昭和二十二年)著作の『肉體の自律性』を想起させられる。

此處で言ふ「われわれのアイロニー」(皮肉・逆説・反語)とは、以下枠文を指し、特に「明治以降の日本人

はあらゆる物質的(A)なこと、肉體的(A)なことに、すべて精神(B)のべールをかぶせ、それをことごとく精神(B)の發動として自己滿足(ルサンチマン的)してきた」を示してゐると小生には捉へられるのである。

 

「肉體の自律性は當然その反面に精神の自律性を前提とする。肉體、あるいは物質で解決すべき事を、精神の重荷とするなかれ――精神には精神のみの解決しうる問題をあてがひ、その領域と大權とを縮小せしめるにしくはない。そのときはじめて精神は自律し、その権威は輝くであらう。

が、ぼくたちは今日までなんと精神を神聖化し、さうすることによつて精神の負荷を重からしめ、結果として精神を侮辱してきたことか。肉體の自律性が確立してゐなかつたからである。明治以降の日本人はあらゆる物質的なこと、肉體的なことに、すべて精神のべールをかぶせ、それをことごとく精神の發動として自己満足してきた。かれらは肉慾を肉慾として是認することをおそれ、それに精神的な衣をかぶせた。物慾を物慾として是認することをおそれ、それに藝術愛や愛國心や愛他心や、その他の主種雑多な大義名分をかぶせた。・・・」(昭和二十二年『肉體の自律性』)

 

 

〔難解又は重要文〕:P543上「 」内が恆存文。〔 〕及び( )内は吉野注

*「ヨーロッパの近代は、よかれあしかれ、その限界點に達し、下降の線を示しながら、同時にそれを超えようとする意思の苦闘を示しつつある。ここにヨーロッパの近代を解く三つの函數が明らかにされる。第一に近代の確立、第二にその限界を超えての下降、第三にその昇降運動を通じてそこから抽象される精神――ヨーロッパはこれを遺産として全世界に殘すであらう(この「抽象される精神」とは以下を物語つてゐるのでは?)。

*「萬人をその胸に救ひとる人格神(C)が、その手をその脚を、さらにその胴體をもぎとられ(客體化)、それらが制度化(F:民主主義・國際法・三権分立等)せられ機械化(F)せられる――で、神(C)は人體を失つて、完全な精神(F)としての抽象化(Eの至大化)を受ける。その精神(F)が文學(E)の領域(B領域)として殘されるといふわけだ」(『近代の宿命』全二P463)。

もし身につけるなら、われわれはこれ(「抽象される精神」)を自分のものとしなければならない。戰爭中の國粹主義者はその第二の函數曲線(西歐近代の「下降」)にのみ眼をつけ、戰後の進歩主義者は第一の函數曲線(「近代の確立」)にのみ注目する。優越感と劣等感とが交替したゆゑんである」。

*「十九世紀末葉から二十世紀の初頭にかけて、西ヨーロッパは第二の函數曲線と第三の函數曲線とのあいだにはげしいもつれあいを示した。近代文明の下降のカーヴに沿つて、西歐のエリートたちはその強靱な知性をもつて、なんとか轉落をくひとめようとつとめたのである。(中略)そのかれが今日アメリカの風土の上で、地平線上どこにも壁を見ない自由の讚歌をうたつてゐる〔即ち、參照『アメリカの自然と生活』のP467上「アメリカ人の前には、科學技術(F)を適用し資本主義(F)を延長せしめうる無限の空間(捨てられる自然)があつた」と言ふ事〕。(中略)西ヨーロッパの知性(「抽象される精神」)は、一九一七年のロシア革命と一九二〇年代のアメリカ機械文明の完成とを契機として、二つの世界(コミュニズムとアメリカニズム)にみごとに肩すかしを食つてしまつたのである。すなはち西ヨーロッパの知識階級人もまた、われわれと同樣に、二つの世界(コミュニズムとアメリカニズム:A領域)といふ第一面的記事と民衆の日常生活(是もA領域)に支へられてゐる第二面的記事(P540下『殺人・強盗・戀愛悲喜劇・ゴシップ・催し物案内』等)とにはさまれて、自分の居場所〔第三函數曲線の「昇降運動を通じてそこから抽象される精神(B領域)」と言ふ獲得遺産〕を徐々に失ひつつあるのだ。が、かれらにとつてなによりも怖ろしいことは、外部にある二つの世界(コミュニズムとアメリカニズム:A領域)と内部にある民衆(是もA領域)とが結託しつつあることであり、その結果、ほんたうにかれらの立場〔『近代文明の下降のカーヴに沿つて、西歐のエリートたちはその強靱な知性(『抽象される精神』)をもつて、なんとか轉落をくひとめようとつとめた』事、即ち上枠文〕がすかされてしまふことにほかならぬ。いまや、コミュニズムとアメリカニズムとの(二つの世界:A領域の)嵐が西歐を吹きまくつてゐる(つまり『抽象される精神:B領域』の荒廢・文化の荒廢と言ふ事では?)。二十世紀においては、ヨーロッパもまた、近代文明( C‘⇒D1)の中心であり推進力であることをやめて、わが極東の島國とおなじく、世界のフリンジ(へり、末端、周辺、外れ)ランドと化しつつあるかにみえる。とすれば、ヨーロッパの近代精神が二つの世界(コミュニズムとアメリカニズム)の政治的=科學的機械(F)文明(D1)に對決しつつ自己を處理(Eの至大化)してゆかねばならぬ運命を、日本の知識階級人も同樣に分擔してゐるといへないであらうか〔「世界のフリンジランド」化とは即ち、別紙PP圖『アメリカの自然と生活』(amerikanoshizentoseikatsu.pdf へのリンク)の左圖西歐と右圖日本の二十世紀的現状がそれを指す。そしてこの状態を脱出するには、評論『醒めて踊れ』で言ふ「近代化の必要條件・・」云々、つまり以下枠文の藝當(關係論)が必要だと言ふのであらう〕。

*「近代化(實在物:D1)の必要條件は技術や社會制度(潜在的言葉:F)など、所謂『ハードウェア』のメカナイゼーション(機械化:F)、システマライゼーション(組織化)、コンフォーマライゼーション(劃一化)、ラショナライゼーション(合理化)等々の所謂近代化(潜在的言葉:F)に對處する精神の政治學の確立(E)、即ち所謂『ソフトウェア』(附合ひ方E:フレイジング・So called)の適應能力(Eの至大化)にある。(中略)それに對應する方法は言葉や概念に囚れず、逆にこれを利用すること、即ち言葉の用法(言葉の自己所有化)にすべてが懸つてゐる。自分と言葉との距離が測定出來ぬ人間は近代人ではない。いや人間ではない」(PP圖『ソフトウェア』參照)。

・・・引用が長くなつたが、此處で恆存は何を言はんとしてゐるのであらうか。當項目も小生にはなかなか難しく、よつて明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。

 

〔難解又は重要文〕:P545下「 」内が恆存文。( )内は吉野注

*「ぼくのもくろんでゐることは精神(B)の自律性であり、物質(A)のメカニズムに對處する精神(B)のメカニズムをこしらへあげることである。いひかへれば、物質(A)のメカニズムを楽しむためには、これと一定の距離(Eの至大化)を保たねばならぬ。いかなる距離において、またいかなる角度において、それをもつともよく享受しうるか、これを測定しえたとき、はじめて精神のメカニズムが確立される」。

・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。

そして上記の「精神(B)の自律性」も、〔難解又は重要文〕:P537下で評論『肉體の自律性』を參照文として取り上げた如く、此處でも、「肉體の自律性は當然その反面に精神の自律性を前提とする。肉體、あるいは物質で解決すべき事を、精神の重荷とするなかれ――精神には精神のみの解決しうる問題をあてがひ」云々を想起させられるのである。そして更には以下文もである。

『現代日本文學の諸問題』(P65全一:昭和二十二~三年)他から

 

 

(參照P58・62~3全一『現代日本文學の諸問題』)

拙発表文《「個人の危機」》から「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

「個人(B)の危機」についての恆存の論を要約すれば、以下の通りになる。

「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

《「精神の自律性」不全⇒「個人の敗北」⇒「社會にたいする有用性」としての價値へ顛落⇒個人の危機》とは・・・

*肉體(A)の保證なくして精神(B)は自律性を發揮しえないが、と同時にC(神・絶對・全體)なくしても、精神はその自律性を發揮し得ない。その二つの結果から、精神はその特質である「個人の純粋性」を保持出來ずに、「個人の特殊性」へと顚落してしまふ。將にその二つの結果に、個人が敗北し「社會にたいする有用性」として價値轉落してしまつた理由があるのだと。

「精神(B)は肉體(A)の保證なくしてその眞實性を自己確認しえぬ」:「物質(A)によつて支へられなければ、その所在も眞實性も保證しえぬ精神のあいまいさ」(恆存文)⇒肉體(A:社會・物質)の優位性⇒精神(個人)の問題は物質でケリがつく⇒積極的承認:唯物論・社會主義へ。消極的承認:「個人は社會にたいする有用性」へ。(參照P58・62~3全一『現代日本文學の諸問題』)。

 特に、〔難解又は重要文〕:P545下の括弧注を附した傍線部分、「物質(A)のメカニズムに對處する精神(B)のメカニズム」 「これと一定の距離(Eの至大化)」で、思ひつくのは向後評論『醒めて踊れ』文なのである。

 で、小生が思ふのは、以下の①『醒めて踊れ』文を索引として、②文を赤字の如く置き變へる事が可能なのではと言ふ事なのである。

①「近代化(實在物:D1)の必要條件は技術や社會制度(潜在的言葉:F)など、所謂『ハードウェア』のメカナイゼーション(機械化)、システマライゼーション(組織化)、コンフォーマライゼーション(劃一化)、ラショナライゼーション(合理化)等々の所謂近代化(潜在的言葉:F)に對處する精神の政治學の確立(E)、即ち所謂『ソフトウェア』(附合ひ方E:フレイジング・So called)の適應能力(Eの至大化)にある。(中略)それに對應する方法は言葉や概念に囚れず、逆にこれを利用すること、即ち言葉の用法(言葉の自己所有化?)にすべてが懸つてゐる。自分と言葉との距離が測定出來ぬ人間は近代人ではない。いや人間ではない」。

 

②「ぼくのもくろんでゐることは精神(B)の自律性精神の政治學E)であり、物質(A)のメカニズム(F)に對處する(E)精神(B)のメカニズム(『ソフトウェア』をこしらへあげること(Eの至大化)である。いひかへれば、物質(A)のメカニズム(F)を楽しむためには、これと一定の距離(Eの至大化)を保たねばならぬ。いかなる距離(E)において、またいかなる角度(E)において、それをもつともよく享受しうる(Eの至大化)か、これを測定しえた(Eの至大化)とき、はじめて精神のメカニズム『ソフトウェア』が確立される(Eの至大化)」。

 小生は何を言ひたいかと言ふと、この昭和二十五年著『二つの世界のアイロニー』は、向後に結實していく恆存思想「關係論」のイントロデュース的意味合ひを、其處に感じ取れると言ふ事なのだ。つまり日本の宿命である「(AB領域すり替への自己欺瞞)と言ふアイロニー(逆説・皮肉)」(參照P537及びPP圖「日本知識人階級」)を正すにも、西歐人と同樣に以下枠文を正す或いは對處するにも、上述の『醒めて踊れ』文(昭和五十一年)や、『日本および日本人』(昭和三十年)で指摘してゐる「關係論」圖的對處(解決)が必要なのだと言ふ事なのである。

「ヨーロッパの近代精神が二つの世界(コミュニズムとアメリカニズム)の政治的=科學的機械(F)文明(D1)に對決しつつ自己を處理(Eの至大化)してゆかねばならぬ運命を、日本の知識階級人も同樣に分擔してゐる」

 是こそがP543で言ふ處の、「戰爭中の國粹主義者はその第二の函數曲線(西歐近代の「下降」)にのみ眼をつけ、戰後の進歩主義者は第一の函數曲線(「近代の確立」と言ふ上位概念C2)にのみ注目する。優越感と劣等感とが交替したゆゑんである」、を超えられる手立てなのであると(上位概念C2はPP圖參照『日本の知識階級』)。そして、今ひとつ探究不足なのであるが、P542で言ふ「有利性と不利性といふことばにふりかへてみたまへ」の「有利性と不利性」なる概念が、先述『醒めて踊れ』の「所謂『ソフトウェア』(附合ひ方E:フレイジング・So called)の適應能力(Eの至大化)」に當たるのではなからうかとも思へるのである。

 尚、『日本および日本人』(昭和三十年)で指摘してゐる「關係論」圖的對處(解決)とは以下傍線部分を指す。

『日本および日本人』「對象との距離感の喪失」P202

*(祓ひ清めて和に達する)で、「それぞれの思想(F)がいかに自分と遠い距離あるか見分けがつかず(Eの至小化)、やはり、べたべたとそれに膠着してしまふのです。それらを、自分が欲してゐたものとおなじものだとおもひこんでしまふ。自分とのちがひに氣づき、自分との間に一線を引き、それが自分の肌にべたりと貼りついてくるのを却けながら(Eの至大化)、しかもそれを操る(Eの至大化)といふことを知らない」。

この昭和二十五年著『二つの世界のアイロニー』の主張、つまり以下①②。

  日本の宿命である「(AB領域すり替への自己欺瞞)と言ふアイロニー(逆説・皮肉)」。

  「ぼくのもくろんでゐることは精神の自律性であり、物質(A)のメカニズムに對處する精神(B)のメカ

ニズムをこしらへあげることである」(是は向後評論の「關係論」へと展開)。

と、その前後期評論に於ける同一テーマの主張とを比較するに、以下表の様にそれが變化或いは發展してゐるのが分かる。要するに『醒めて踊れ』へと結實していくプロセスが讀み取れるのである。

 

「日本の宿命的アイロニー」主張の推移。「精神の自律性」(關係論)主張の推移。「米國觀・西歐觀」の推移(昭和二十五年著『二つの世界のアイロニー』、及び訪米(昭和二十八年)前後期評論に於ける主張の變化或いは發展)

発行時期

各評論的變化内容

昭和二十二年

『肉體の自律性』

 

(注):右項傍線部分を、『二つの世界のアイロニー』では、日本の宿命である「(AB領域すり替への自己欺瞞)と言ふアイロニー(逆説・皮肉)」と主張してゐる。

「精神の自律性」について

*「肉體の自律性は當然その反面に精神の自律性を前提とする。肉體、あるいは物質で解決すべき事を、精神の重荷とするなかれ――精神には精神のみの解決しうる問題をあてがひ、その領域と大權とを縮小せしめるにしくはない。そのときはじめて精神は自律し、その権威は輝くであらう。

が、ぼくたちは今日までなんと精神を神聖化し、さうすることによつて精神の負荷を重からしめ、結果として精神を侮辱してきたことか。肉體の自律性が確立してゐなかつたからである。明治以降の日本人はあらゆる物質的(A)なこと、肉體的(A)なことに、すべて精神(B)のべールをかぶせ、それをことごとく精神の發動として自己満足してきた。かれらは肉慾(A)を肉慾として是認することをおそれ、それに精神的な衣をかぶせた。物慾(A)を物慾として是認することをおそれ、それに藝術愛(B:私小説家が然り)や愛國心(B:絶對主義的愛國心)や愛他心(B)や、その他の主種雑多な大義名分をかぶせた。・・・」(P479全二『肉體の自律性』)。

昭和二十二年

『近代の宿命』

 

「西歐觀①②」及び③「日本の宿命的アイロニー(逆説・皮肉)」記述

①「近代ヨーロッパは神(C)を見失つた――が、それはただ神の解體と變形と抽象化(Eの至大化)とを意味するに過ぎぬ。まさにそのための手續きであり過程にすぎなかつたヨーロッパの近代精神(F)とその政治制度・経済機構(F:民主主義・國際法・資本主義等々)なのである」(『近代の宿命』全二P466)。

②「萬人をその胸に救ひとる人格神(C)が、その手をその脚を、さらにその胴體をもぎとられ(客體化)、それらが制度化(F:民主主義・國際法・三権分立等)せられ機械化(F)せられる――で、神(C)は人體を失つて、完全な精神(F)としての抽象化(Eの至大化)を受ける。その精神(F)が文學(E)の領域(B領域)として殘されるといふわけだ」(『近代の宿命』全二P463)。⇒別圖參照(西歐近代構圖)。

③「ヨーロッパが近代の危機(D1:即ち神C喪失⇒關係D1)に直面したとき、日本もまたおなじことば(近代の危機=關係D1)でじぶんたちの現實(F:日本の現實)を理解(Fへのnot so colled)した。――といふのも、ヨーロッパの主題(神C喪失⇒D1近代の危機)を飜譯してそのままに通用してしまふ現實(F)が、海をへだててパラレルに(表象・後楯の概念として)展開されていたのである。じじつは絶對に通用しえぬのに通用しうるかのごとき錯覺をいだいたことにまちがひがあつたのだ。ぼくたちはまず第一に、ヨーロッパの近代(神C喪失⇒D1近代の危機)を本質的に究明して日本に眞の意味の近代(D1近代化)がなかったこと(日本の現實Fをso colled)を知らねばならぬ。第二に、しかもヨーロッパの近代を索引にしなければならぬ近代日本史をパラレルに(表象・後楯の概念として)もつたといふ事情も同時に認めなければならない。第三に、この二つの事實を理解しえぬために生ずる混亂(近代化適應異常:D1の至小化)を徹底的に克服せねばならない」(P459『近代の宿命』)。即ち「日本の近代史を『近代化(D1)に對する適應異常(D1の至小化)の歴史』として見直す事」(『適應異常について』)」だと。 

昭和三十年

『日本および日本人』

 

*右項「近代化」の内容は、

先述した、日本の宿命である「(AB領域すり替への自己欺瞞)と言ふアイロニー(逆説・皮肉)」で、それに對處した爲に、「近代化」を上位概念(C2)として崇めその結果「近代化適應異常」を冒してしまつたとも捉へられるのではなからうか(上位概念C2はPP圖參照『日本の知識階級』)。

 

近代化適應異常も一つの「日本の宿命的アイロニー」主張。「精神の自律性」(關係論)主張

 

拙發表文から:〔難解又は重要文〕P191下~2上&194上

*「近代戰(F)に馴れない(not so called=Eの至小化)人間(即ち「和を原理とする」=異質な so called手段を持つ人間)が近代的戰爭(F)に手を出した結果が、殘虐不法な戰爭を招來し(似而非近代性=近代化適應異常=D1の至小化)、國家主義(F)に馴れない(not so called=Eの至小化)國家が國家主義をまなんで超國家主義(似而非近代性=近代化適應異常)になつた。同樣に、権利義務の契約(Eの至大化)にもとづく個人主義(F)に馴れない(not so called=Eの至小化)人間が、その制度(F)や法律(F)を移入すれば、それはたんなる利己主義を助長する(Eの至小化=D1の至小化)にしか役だたぬのです。がその利己主義(Eの至小化=D1の至小化=近代化適應異常)をそのまま日本人の封建的性格と見なすことは誤りですし、さういふ性急さこそ、日本の眞の近代化を妨げてきたのであります」(P192上)。

*「天皇は神であるといふとき、その神は、すでに日本流の神でもなければ、さうかといつてクリスト教的な神でもありません。それが、無意識のうちに、西洋流の神(F)に對抗し、それに牽制されて(Fへのnot so called=Eの至小化)、なんとなく絶對者のやうな色彩をおびてきた(似而非近代性=近代化適應異常)のであります。(中略)、(上述の)國家主義でもないものが超國家主義的相貌を呈してくる(似而非近代性=近代化適應異常=D1の至小化)。それと同樣に絶對者でもないもの(天皇)が、超絶的な風貌(似而非近代性=近代化適應異常=D1の至小化)を呈してくる(即ちクリスト教「絶對神」への適應異常)」(P194上)。

*「明治になつて、絶對者(C)の思想(クリスト教精神)を根柢にひめた西洋の思想、文物、人間にぶつかつてみると、對抗上、どうしても絶對者(C)が必要になつてくる。しかも、日本にはそれがないから、なにか手近なものにそれを求めようとする。天皇制もそれですし、プロレタリアートもそれです。元來、絶對(C)ではないもの(相對物)を絶對と見なさうとする」(P194上)。

⇒參照圖「ハードウェア&ソフトウェア」&「祓ひ清めて和に達する」

*「祓ひ清めること(儀式E)によつて、その支配下から脱するといふ態度からは、いかなる科學(實證精神:A‘⇒A)も發達しなかつたのですが、同樣に、エゴイズム(A)を醜しとして却け、それを(AをF化し)祓ひ清めて和に達する(儀式E:美的潔癖⇒和)といふ態度(非實證精神・非客體化的行爲:NOT「A‘⇒A」)から、道德(B)の問題も、社會(A’⇒A:客體化)の問題も発生する餘地はありませんでした」(『日本および日本人』全三P181)。⇒參照圖「祓ひ清めて和に達する」。

*「對象との距離感の喪失」P202

(祓ひ清めて和に達する)で、「それぞれの思想(F)がいかに自分と遠い距離あるか見分けがつかず(Eの至小化)、やはり、べたべたとそれに膠着してしまふのです。それらを、自分が欲してゐたものとおなじものだとおもひこんでしまふ。自分とのちがひに氣づき、自分との間に一線を引き、それが自分の肌にべたりと貼りついてくるのを却けながら(Eの至大化)、しかもそれを操る(Eの至大化)といふことを知らない」。

*私たちの祖先にとつて、道德(B⇒C)も、そのもとにあるすべての人間關係(D1)も、けつして精神(B)の問題ではなく、眼に見える物(A&F)の問題であり、儀式(E)によつて律しうる形(E)の問題(Fは儀式Eの至大化で片附ける。相對的處理の問題)だつたのです」。

*〔難解又は重要文〕P189下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「現代日本の混亂は、かういふふう(「祓ひ清めて和に達する」)に和合(日本的Eの至大化)と美(日本的Eの至大化)とを生活の原理(儀式樣式Eを生活の原理)とする民族が、能率や権利義務(西歐的Eの至大化)を生活の原理とする西洋人の思想(個人主義F)と制度(F)を受け入れたことから生じてゐるのです」。⇒近代化適應異常。

 

 つまり恆存の上文を、解りやすく小生的に言ひ換へてみると、日本文化(D1)が生んだ、「祓ひ清めて和に達する」と言ふ日本特有の型(E)でのsocalledでは、西歐の近代化(D1)の諸概念(F)をsocalledすることは出來なかつた。「祓ひ清めて和に達する」と言う型(E)は日本にのみ適應し、西歐には適應する事が出來なかつたと言ふ事なのであらう。

昭和三十二年

『アメリカの自然と生活』

西歐・米國・日本に於ける「物質文明」觀の差異及び關係論的記述(PP圖『アメリカの自然と生活』amerikanoshizentoseikatsu.pdf へのリンク參照)。

 

*P466下:「ヨーロッパの十八世紀は理性、合理性、合目的性、進歩などの概念が信じられてゐた時代」⇒「十九世紀にいたつて一頓挫をきたした」⇒「科學(F)だの進歩(F)だのといつたところで、大したことはない」⇒「物質文明(D1)が人間の幸福に寄與しうるものにはおのづから限界のあることに氣づいた」⇒「この絶望の裏には科學(F)の行き詰まりと同時に、資本主義(F)の行きづまり(Eの至小化)があつた」。

《アメリカ文明》・・・〔都會は自然(「捨てられた自然」)から切りとつた戰利品(A‘⇒A:文明)=アメリカのにほひ=文明のにほひ=生活のにほひ)〕(P463)。

*P467上:「アメリカはそれ(科學の行き詰まり・資本主義の行きづまり)に觸れずにすませることができた」⇒「なぜなら、アメリカ人の前には、科學技術(F)を適用(Eの至大化)し資本主義を延長せしめうる(Eの至大化)無限の空間(捨てられる自然)があつた」。

日本・・・P467上:「自然科學(F)と物質文明(D1)にたいする私たちの期待は底なしである」⇒「突如としてアメリカ文明(D1)が流れ込んできたのだ。機械(F)が次々に送りこまれてきたのだ。十八世紀も十九世紀もあつたものではない。物質文明(D1)は私たちにとつて、たんに同一線を辿る(歴史の繼續性PP圖參照)先進國の贈物ではなく、まつたく別世界の異質のものだつたのである」⇒「その結果、どういふことが起つたか」⇒「日本人の眼に、機械文明(D1)はあらゆる富(F)を生みだす錬金術(絶對視:Eの至小化)として映じたのである〔即ち「錬金術」視とは、機械化(F)に對する距離感喪失(Eの至小化)=近代( C‘)に對する距離感喪失(文明D1化適應異常・D1の至小化)を是は意味するPP圖參照〕」⇒「戰後ばかりではない。戰前においても、いや、明治における近代日本の發足以來、つねにさうだつた(つまり近代化適應異常:D1の至小化)」⇒「アメリカの文明(D1の至大化)は生活の體臭(Eの至大化)をもつてゐる(とは以下と同意では?)。

*「文化(D1)とは私たちの生き方(E)であります。生活の樣式(E)であります」(全五P185『傳統にたいする心構』の 「エリオットの辯」より)。

一方、日本における文明(D1の至小化)は、むしろ生活の體臭を失つたもの(Eの至小化)である」⇒「その點、ニュー・ヨーカーの生活と似てゐるが、彼らはその苦澀(機械文明の苦澀)を知つてゐる。が、私たちはそのこと(機械文明)に少しの疑惑も感じてゐない」⇒「私たちは機械(F)文明にたいして、すれからしではない。うぶ(Eの至小化)なのである」⇒「日本人は機械文明にあらゆる希望をいだいてゐる」⇒「文明(D1)とはなにか」⇒「それは錬金術(機械Fへの絶對視:Eの至小化)ではない」。

昭和三十五年

『傳統にたいする心構』

アメリカの「自然や物質(F)にたいする支配能力(Eの至大化)」の慢心

 

拙發表文から:〔難解又は重要文〕その5「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

P189下〔文化自信缺如から來るアメリカ人の心の生活の貧しさ。その爲に精神醫學に縋る事への疑問〕・・・「心の生き方をよく心得ぬ(對象・言葉との距離測定不能の意か?)ために起る病氣の治療に、性も懲りもなくまたも物質(F)の處理法(E)である科學(E)を持ちだしたことになる。文化(D1)とは生き方(E)であります。適應異常や狂氣から人を守る術であり、智慧であります。それは科學(物質の處理法E)ではどうにもならぬこと」。

*「(アメリカ人は)自然や物質(F)にたいする支配能力(Eの至大化)」の慢心から、「自分の心(F)や自他の心(F)の關係にたいする支配能力、あるいは調整能力(E)」を持てない(Eの至小化)でゐる、と恆存は指摘する。

そして「物質(F)の處理法(E)である科學を持ちだした」とはかういふ事なのであらう。本來「心の生き方をよく心得ない(Eの至小化)」或は「コンシャンス(良心・自覺)E」喪失(Eの至小化)に對してなら、上記の「ソフトウェア」的手段(Eの至大化)を用ゐ、言葉(生活・對象:F)との距離間隔(E)を空けるべきなのである。それを處方の過ちを冒し、「ハードウェア」の科學を適用してその結果傷口をより大きくしてしまつた、と言ふ事をそれは意味してゐるのではなからうか。尚この邊の「ソフトウェア」「コンシャンス(良心・自覺)」云々の内容理解に當たつては、以下の文も同質の内容を含むので參考になるのでは。

「虚像への適應を強ひれば、ソフテストウェアである心はコンシャンス(良心・自覺)への求心力を失ひ、人格の輪郭から外へ沁み出し、空のコップのやうな透明人間になつてしまふ。それはもはや人格とは言ひ難い、人格の崩壊であり、精神の頽廢である」(全六P704『覺書』)

昭和五十一年

『醒めて踊れ』

『醒めて踊れ』全七P393上

*「近代化(實在物:D1)の必要條件は技術や社會制度(潜在的言葉:F)など、所謂『ハードウェア』のメカナイゼーション(F機械化)、システマライゼーション(F組織化)、コンフォーマライゼーション(F劃一化)、ラショナライゼーション(F合理化)等々の所謂近代化(潜在的言葉:F)に對處する精神の政治學(Eの至大化)の確立、即ち所謂『ソフトウェア』の適應能力(Eの至大化・ 附合ひ方・So called )にある。 マルクスの言ふ疎外は何も資本主義社會特有のものではなく、共産主義社會、全体主義社會にも生ずるものであり、また有史以來その度を増して來たものである。それ(近代化D1)に對應する方法は言葉や概念(F)に囚れず、逆にこれを利用すること、即ち言葉の用法(E)にすべてが懸つてゐる(言葉の自己所有化?)。自分と言葉との距離が測定(Eの測定=Eの至大化)出來ぬ人間は近代人ではない。いや人間ではない」。

 

〔難解又は重要文〕:P546下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

*「ぼくは日本人としての自覺をあらゆる知識階級人にもつてもらひたい。日本人として、知識階級人として、藝術家として、文學者として、過去のインフェリオリティ・コンプレックスはいつさい抛擲してかからねばならぬ。ひとびとはそれぞれの分野において表現の世界の完成をめざさねばならない」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。

昭和二十三年

『急進的文學論の位置づけ』

拙發表文:〔難解又は重要文〕:P297下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

②「(明治の現實は)なまの素材(F)としては混亂してをりなんの意味をもたぬ現實(F)主題的完成(型E)を與へるのが文學(E)の意圖であるとすれば、明治日本の現實(F)がその作家たちに美的完成(Eの至大化)を許さぬほど混亂してゐたといふ事實を、ぼくたちはまづみとめてかからねばならない。存在(場 C’)そのものが混亂していたばかりではなく、意識(D1心の動き)も、意識と存在との關聯そのものも、ほとんど收拾つかぬほどの混亂(D1の至小化=沈湎)を呈してゐた。その混亂の樣相を如實に描きだすことこそ今日の歴史學、あるいは社會科學の任務であらう。それらの科學(A’⇒A)が充分にその責任をはたしえないでゐるがために、文學の領域(B)で粗笨(そほん)な公式的イデオロギー(唯物論・唯物史觀?)がいともかんたんに現實を料理し、作品や文學史を裁斷してゐるのだ」。

 

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