令和元年十月十日

〔福田恆存を讀む會〕

 吉野櫻雲 

全集第三巻:『アメリカの自然と生活』(『婦人畫報』昭和三十二年六月號)

(注:昭和二十八年訪米・『日本および日本人』は昭和三十年著)

 

 當評論を讀んで、思ひつくのは向後の名著『醒めて踊れ』の文章である。今般テーマ「現代日本人への危機感」に對して、いつもの如く、小生の結論は結局其處へと想到してしまふのは、藝がなく聊か面映ゆい。即ち、果たしてそれが「答へ」として良いのか惡いのか・・と。

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《一 アメリカのにほひ》(「さまざまの人工的、科學的に純粋化された鑛植物質のにほひがまぜあはせにされたもの」)

〔難解又は重要文〕P461下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

*「アメリカのにほひ」⇒「消毒藥のにほひ」・「塗りたての漆喰やペンキやワニスののほひ・防臭劑のにほひ」「その他さまざまの人工的、科學的に純粋化された鑛植物質のにほひがまぜあはせにされたもの」「一口にいへば、清潔なにほひであり新しいにほひ」⇒「二十世紀的アメリカのにほひは、容易につかみにくい」⇒「クリーブランドはそのにほひを船内一杯に包んでゐた。それがグランド・キャニオンのエル・ドーヴァ・ホテルにもあつた」。

 

《二 アメリカ文明》:〔都會は自然(「捨てられた自然」)から切りとつた戰利品(A‘⇒A:文明)=アメリカのにほひ=文明のにほひ=生活のにほひ)。

〔難解又は重要文〕P463下~「 」内が恆存文。〔 〕( )内は吉野注。

*「このにほひはアメリカ文明(D1)の象徴である。それは開拓性、人工性、生産性を暗示してゐる。しかしここに私たちが忘れてはならぬことがある。それはこの國の文明の背景をなす自然(C)がいかなるものかといふことだ」⇒「アメリカの自然は沙漠、すなはち『捨てられた自然』であつてこれもまた逆の意味で自然ではない」⇒「アメリカの自然は涯しない空間によつて人を脅す」⇒「ヨーロッパから移住してきたフロンティアたちは(中略)その白生地に自分の夢を描きだす無限の可能性を讀みとつたかもしれぬが、同時に壓迫と脅威を感じてゐたに違ひない」⇒「アメリカにおける完璧に舗装された都會は、人間がむりやりそこだけ自然から切りとつた戰利品(A‘⇒A)なのである」⇒「現代のアメリカは自然と空間にそなへて舗装する。舗装こそアメリカ人の築城法である」⇒P464「アメリカの文明都市は空間に印せられた點なのである」⇒「一歩はみだせば、もうそこは荒れるにまかせた『捨てられた自然(C)』なのだ」⇒「そのなかを一筋の道路が走つてゐる。それも完璧に舗装(文明:D1)されてゐるが、その兩側には、文明(D1)はない」⇒「自然がイギリスやフランスのそれのやうに飼ひ慣らされたものではない」⇒「外部のむきだしの大自然(C)は、屋内の完全に人工化された文明(D1)生活と、まつたく絶縁してゐる」⇒「アメリカの文明(D1)とは、さういふものである。かれらは自然(C)から切りとり、自然(C)を遠ざけ、その内部をいやがうへにも人工化したものである。その自然が荒々しいものであればあるほど、かれらはさうせざるをえなかつた。(中略)決して自然を征服するといふやうな景氣のいいものではない。それは自然の眼をのがれて、その領分をかすめとり、自己を守ることである。『アメリカのにほひ』は、じつはこの文明のにほひである。アメリカ人は自然から切りとつた城壁の内部に、あたかも人間の権利を主張するかのやうに、かならずこのにほひをたちこめさせるのだ。私がこれに郷愁を感じたのは、それが周圍の『捨てられた自然(C)』に對抗して、肌を温めあつてゐる人間の生活のにほひだからである」。

*P464下:「アメリカの機械文明を一途に非人間的なものとして輕蔑することはまちがつてゐる。そこでは、文明(D1)が、機械(F:文明概念)でさへ、そのまま生活の體臭をもつてゐる。機械(F)のほうが、荒れるにまかせて『捨てられた自然(C)』より、はるかに人間的なのだ。それは自然(C)から人間を守つてくれる」⇒「建物が自然(C)からアメリカ人の肌を守り、家庭がかれらの心を守る。かれらにとつて、屋内の文明(D1)の居心地よさは、そのまま家庭生活の居心地よさに通じるものである。ニュー・ヨークの、機械化(F)による被害をもつてアメリカ文明(近代 C‘⇒文明D1)そのものを批難するのはまちがひであると同樣に、ニュー・ヨークの、それも一部の放恣な生活をもつて、アメリカにおける家庭の崩壊とみなすのはまちがひである」。

*P465下:「ニュー・ヨークは自己が空間に抗し、空間から切りとつた一點(文明のにほひ=生活のにほひ)であることを忘れてゐる」⇒「自己の城壁を完璧にしすぎたため、その外にある自然の脅威を忘れてしまつたかにみえる。自然の脅威ばかりではない。自然そのもの(C)をも切り捨ててしまつたやうだ。絶縁體そのものがむやみに發達し、機械化(F)によつて、惡意ある自然のみか善意ある自然までもしりぞける。自然(C)なしで暮せるとでもいふかのやうに、機械(F)による絶縁が進捗しつつある〔即ち機械過大評價による、機械Fへの距離感喪失(Eの至小化)〕PP圖『アメリカの自然と生活』參照」⇒「この絶縁體は人間の自然まではじきとばしかねない。人間相互の紐帯は弱化(關係希薄)し、人々は家庭の幸福に不安をいだきはじめる」⇒「ありとあらゆる物質文明を享受してゐるかれら(ニュー・ヨーカー)のせかせかした後姿を眺めて、私はかれらが決して幸福ではないと思つた。私の直感はそこに貧しさを見てとつたのである。そこには生活のにほひがない〔即ち、文明のにほひがない(D1の至小化)。つまり、機械Fへの距離感喪失(Eの至小化)=文明のにほひがない(D1の至小化)=野蠻化と言ふ事では?〕。

・・・以上の文章は、何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして更に詳しくは、PP圖『アメリカの自然と生活』amerikanoshizentoseikatsu.pdf へのリンクを參照されたし。

 

《三 日本では?》

〔難解又は重要文〕P466下「 」内が恆存文。〔 〕( )内は吉野注。

*三領域(ヨーロッパ・アメリカ・日本)に於ける「物質文明」觀の差(PP圖『アメリカの自然と生活』amerikanoshizentoseikatsu.pdf へのリンク參照)。

 

三領域(ヨーロッパ・アメリカ・日本)に於ける「物質文明」觀の差。

ヨーロッパ

*P466下:「ヨーロッパの十八世紀は理性、合理性、合目的性、進歩などの概念が信じられてゐた時代」⇒「十九世紀にいたつて一頓挫をきたした」⇒「科學(F)だの進歩(F)だのといつたところで、大したことなない」⇒「物質文明(D1)が人間の幸福に寄與しうるものにはおのづから限界のあることに氣づいた」⇒「この絶望の裏には科學(F)の行き詰まり(Eの至小化)と同時に、資本主義(F)の行きづまり(Eの至小化)があつた」。

アメリカ

*P467上:「アメリカはそれ(科學の行き詰まり・資本主義の行きづまり)に觸れずにすませることができた」⇒「なぜなら、アメリカ人の前には、科學技術(F)を適用し資本主義(F)を延長せしめうる(Eの至大化)無限の空間(捨てられる自然)があつた」。

日本

*P467上:「自然科學(F)と物質文明(D1)にたいする私たちの期待は底なしである」⇒「突如としてアメリカ文明(D1)が流れ込んできたのだ。機械(F)が次々に送りこまれてきたのだ。十八世紀も十九世紀もあつたものではない。物質文明(D1)は私たちにとつて、たんに同一線を辿る(歴史の繼續性:PP圖參照)先進國の贈物ではなく、まつたく別世界の異質のものだつたのである」⇒「その結果、どういふことが起つたか」⇒「日本人の眼に、機械文明(D1)はあらゆる富(F)を生みだす錬金術(絶對視:Eの至小化)として映じたのである〔即ち「錬金術」視とは、機械化(F)に對する距離感喪失(Eの至小化)=近代( C‘)に對する距離感喪失(文明D1化適應異常・D1の至小化)を是は意味する。同PP圖參照〕」⇒「戰後ばかりではない。戰前においても、いや、明治における近代日本の發足以來、つねにさうだつた(つまり近代化適應異常:D1の至小化)」⇒「アメリカの文明(D1の至大化)は生活の體臭(Eの至大化)をもつてゐる(とは以下と同意では?)。

*「文化(D1)とは私たちの生き方(E)であります。生活の樣式(E)であります」(全五P185『傳統にたいする心構』の 「エリオットの辯」より)。

一方、日本における文明(D1の至小化)は、むしろ生活の體臭を失つたもの(Eの至小化)である」⇒「その點、ニュー・ヨーカーの生活と似てゐるが、彼らはその苦澀(機械文明の苦澀)を知つてゐる。が、私たちはそのこと(機械文明)に少しの疑惑も感じてゐない」⇒「私たちは機械(F)文明にたいして、すれからしではない。うぶ(Eの至小化)なのである」⇒「日本人は機械文明にあらゆる希望をいだいてゐる」⇒「文明(D1)とはなにか」⇒「それは錬金術(機械Fへの絶對視:Eの至小化)ではない」。

 

〔難解又は重要文〕P468上「 」内が恆存文。〔 〕( )内は吉野注。

①「それ(文明D1)はまづ第一に、(機械Fによる)手におへぬ自然の生活化(Eの至大化)である」⇒「しかし、私たちの場合、(中略)機械(F)はなかなか生活化(Eの至大化)されない」⇒「機械文明は依然として錬金術(機械Fへの絶對視:Eの至小化)なのである」⇒「もし、機械化(F)といふものの害毒があるとすれば、さういふ考へかた(絶對視:Eの至小化)のうちにある」⇒「機械(F)そのものが惡であるわけがない。惡いのは、それにたいする私たちの意識(Eの至小化=錬金術視自分と言葉との距離測定缺如)である」。

②「私たちのなかには、アメリカの唯物主義(Eの至小化)を笑ふものが多いが、はたして私たちはそれを笑へるであらうか。アメリカの物質文明(D1の至大化)には精神の爪痕(機械Fへの格闘=Eの至大化)がある。が、私たちのそれ(物質文明=Eの至小化)は、精神の怠惰(機械Fへの絶對視:Eの至小化)を物語つてゐる」。

・・・上記二つは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして、更には以下の消息を物語つてゐるのではなからうか(PP圖『アメリカの自然と生活』參照)。

*近代日本は、近代化(文明化:D1)を「錬金術」視(絶對視)して、恆存が別評論(對談『反近代につひて』『シェイクスピア』等)で指摘するが如く、「近代化はネセサリーイーブル(必要惡)・デクリネイション(衰退)」とは捉へられなかつた(即ち「適應異常」)。

「日本の近代史を『近代化(D1)に對する適應異常(D1の至小化)の歴史』として見直す事を提案する」(『適應異常について』)」。

*尚、既に上述の各項目で「關係論的括弧注」を附してきてゐるが、當評論『アメリカの自然と生活』は、向後評論『醒めて踊れ』の以下枠文(關係論)を援用し、その文中「近代化」を「文明化」と讀み直すことで更に良く理解出來る。そして肝腎なのはこの文章こそが、前項枠文で言ふ日本の現状(米國化文明化D1適應異常)からの脱出方法なのであると言ふ事である(PP圖『アメリカの自然と生活』amerikanoshizentoseikatsu.pdf へのリンク『ソフトウェア』參照)。

*「近代化(⇒文明化:D1)の必要條件は技術や社會制度など、所謂『ハードウェア』のメカナイゼーション(機械化)、システマライゼーション(組織化)、コンフォーマライゼーション(劃一化)、ラショナライゼーション(合理化)等々の所謂近代化に對處する精神の政治學の確立、即ち所謂『ソフトウェア』の適應能力にある。(中略)それに對應する方法は言葉や概念に囚れず、逆にこれを利用すること、即ち言葉の用法(Eの至大化=言葉の自己所有化)にすべてが懸つてゐる。自分と言葉との距離が測定出來ぬ人間は近代人ではない。いや人間ではない」(PP圖『ソフトウェア』參照)。

 

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