平成三十一年三月七日
〔福田恆存を讀む會〕
吉野櫻雲
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〔恆存・西尾對談(福田恆存對談・座談集:第三巻)テーマ「集團的自我・個人的自我」に關聯して〕 《「關係論」は、「完成せる統一體としての人格」論(關係と言ふ眞實を生かす)の實踐篇なのでは》 〔副題〕PP圖で恆存( C’)の思想(D1)を「形ある『物』にして見せる(Eの至大化)」。 |
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*全集六『覺書』に記載されてゐる、「完成せる統一體としての人格」論での「關係と言ふ眞實を生かす」とは、場( C’)への「非沈湎」形成を言ふのでは。何故ならどちらも「D1の至大化」を意味しているのであるから。
其處で小生思ふらく。この「關係(D1)と言ふ眞實を生かす(D1の至大化)」には、どうした方法が最良なのであらうかと。
*「Eの至大化」(言葉との距離測定・フレイジング・so called・ソフトウェア・精神の政治學等)について記述してある、恆存諸評論(以下枠:文章群)を調べるに、「Eの至大化」(言葉Fへのフレイジング獲得=最適距離把握=so called)こそが、「D1の至大化=場( C’)への非沈湎=關係適應平常化」即ち、「場( C’)との關係と言ふ眞實を生かす(D1の至大化)」最良の手立てと推察できる。以下のどの評論も表現は變はつてゐこそすれ、「Eの至大化」で「場( C’)との關係と言ふ眞實を生かす(D1の至大化)」を恆存は述べてゐる、と讀む事が出來る。
尚、場(C・ C’)が變はれば、關係(D1)は勿論變はる。關係(D1)が變はれば、關係的諸概念(F)も變はつてくる。そして關係的諸概念(F:言葉)への對處方法(Eの至大化=附合ひ方・扱ひ方)も、自ずと變はつて來るのは言ふまでもない。(參照⇒配布濟PP圖「關係論」:E型(潛在物Fの裏に實在物D1を際立たせる型)。
〔「Eの至大化=D1の至大化(適應正常化・非沈湎)」に關する文章群〕(「 」内が恆存文。( )内は吉野注)
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『せりふと動き』他から(傍線部小生補足)。 *場( C’)から生ずる、「關係(D1)と稱する實在物は潜在的には一つのせりふ(言葉:F)によつて表し得る」。故にその言葉(F)との附合ひ方、扱ひ方(Eの至大化・「型にしたがつた行動」)によつて、人間は場( C’)との關係(D1)の適應正常化(D1の至大化)が叶へられる、と言ふ事になる。 |
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『論爭のすすめ』:拙發表文より。 *「言葉の使ひ方を完成(Eの至大化)する術」の必要性として、そのソフトウェア(E)の効果的發揮の問題が取り上げられてゐる。 恆存は言ふ。「その術(E)が磨かれてゐる(Eの至大化)ところでは、對象(F)と言葉(F)と、さらにそれを用ゐる自分との距離(E)が明確に意識されてゐる(Eの至大化)から、僞善的正義感をそれと意識せずに口にすることはないであらう」と。 |
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拙發表文『醒めて踊れ』他から。「 」内が恆存文。( )内は吉野注 *「關係(D1)」を、話し手(△枠)の心とせりふの字面との「距離(E)」の長短操作で「空間に一つの建造物がまざまざと見えて來る」(Eの至大化)やうに。 *恆存は「型にしたがつた行動(Eの至大化)」は、場との關係を適應正常化(D1の至大化)させてくれ(即ち必然感・全體感の獲得)、その結果として、生の充實感(實在感)を人間に齎してくれると言ふのである。つまり、型(Eの至大化:正統表記・有機的祝祭日、等)は、「歴史C=時間的全體Cとの關係(D1)」及び「自然C=空間的全體Cとの關係(D1)」を、即ち場(C全體)との關係を、我々日本人に適應正常化(D1の至大化=非沈湎)させる能力を秘めてゐるのだと恆存は言ふのである。 *「文化(D1)の根柢は言葉(F)にある事に氣附いてゐる人が餘りにも少ない。なぜにさうなつたかと言へば、戰後の國語國字改惡(型の喪失)が徹底した結果、言葉(F)が文化(D1)を支へ、思考力(E:so called)や道徳(E:型)や人格(E:型)を支へ、その崩壊を食ひ止め得る唯一の財産だといふ自覺の切掛けすら持たぬ人達が多くなつたからである」(『新漢語の問題』全七)。 * 恆存は『醒めて踊れ』で、實證精神の範疇である、「So called」「フレイジング」「精神の政治學」をソフトウェア的手段(Eの至大化)と捉へてをり、「精神の近代化」(個人主義の確立)は、ソフトウェアの効果的發揮によつて、その結果として齎されるものと捉へてゐる。 即ち、西歐(場・ C’)との關係(D1宿命)として齎された「近代化」(D1)への適應を、新漢語・外來語(F)の用法(So called:Eの至大化)で正常な關係に「形ある『物』として見せる」(Eの至大化)。それがハードウェアとしての近代化(F:資本主義化・民主主義化・個人主義化・機械化・組織化・合理化等々)に對するソフトウェア(Eの至大化:精神の政治學)としての對處方法なのである。 *場( 西歐 C’)から生ずる、「關係(D1)と稱する實在物(近代化=ハードウェア)は、潜在的には一つのせりふ(F:技術や社會制度的言葉、即ち機械化・組織化・劃一化・合理化等々のハードウェア)によつて表し得る」。故にその言葉(F)との附合ひ方(ソフトウェア「フレイジング・So called」の適應能力:Eの至大化)、即ち「言葉の用法」「自分と言葉との距離測定」によつて、人間は場との關係の適應正常化(D1の非沈湎)が叶へられる、と言ふ事になる。即ち「Eの至大化(適正距離把握)=D1の至大化(適應正常化・非沈湎)」と言ふ事になる。 尚、是を逆にすると、以下の通り。 *「近代化(實在物:D1)の必要條件は技術や社會制度(潜在的言葉:F)など、所謂『ハードウェア』のメカナイゼーション(機械化)、システマライゼーション(組織化)、コンフォーマライゼーション(劃一化)、ラショナライゼーション(合理化)等々の所謂近代化(潜在的言葉:F)に對處する精神の政治學の確立(E)、即ち所謂『ソフトウェア』(附合ひ方E:フレイジング・So called)の適應能力(Eの至大化)にある」。 即ち、西歐(場 C’)との關係(宿命D1)として齎された「近代化D1」への適應を、新漢語・外來語(F)の用法(E:So called)で、適應正常的關係に「形ある『物』として見せる」(Eの至大化)。それがハードウェアとしての近代化(D1及びF:機械化・組織化・劃一化・合理化等々)に對するソフトウェア(精神の政治學)としての對處方法なのであると(⇒PP圖參照「關係と稱する實在物」)。 正しく恆存文に從ふと「言葉と話し手との間に距離を保ち、距離を絶えず變化させ得る能力(Eの至大化適正化)がなければいけない。さういふ能力(フレイジング・So calledによる適應能力)こそ、精神の政治學としての近代化といふものなのである」。であるからして、それが「出來ぬ人間は近代人ではない」と言ふ事になる。 更に恆存は、「それ(近代化や疎外)に對應する方法は(機械化・組織化等々の)言葉や概念に囚れず、逆にこれを利用すること、即ち言葉の用法(Eの至大化)にすべてが懸つてゐる。自分と言葉との距離が測定出來」る樣にする事(Eの至大化)と述べてゐる。つまり距離測定と言ふ「言葉の用法=So called」で、「近代化や疎外」と言ふ關係(D1)への適應を、適應正常的關係に「形ある『物』として見せる」と言ふ事である(即ち、Eの至大化でD1の至大化を圖る事)。 |
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*「完成せる統一體としての人格」論(全集六P703~4 『覺書』から) 〔場( C’)⇒關係(D1)⇒言葉(F)⇒適切距離獲得(Eの至大化):分割表〕
*何役かを操る各場面でそこから発生する、關係の「眞實を生かすために一つのお面をかぶる(役を演ずる・自己劇化)」「演戯なしには人生は成り立たない。つまり假説なしには成り立たない」。「眞實といふのは、ひとつの關係(D1)の中にある。個々の實體よりはその關係の方が先に存在している。人生といふものは、關係(D1:目上⇔目下・親⇔子・師⇔弟子・國⇔國民、等々)が眞實なんで、一生涯自分のおかれた關係の中でもつて動いてゐる。いろいろな關係(D1)を處理していき、それらの集積された關係がその人の生涯といふもの。それを私は演戯だといふ」「われわれがこしらへたものは、相對的であつて絶對ではないといふ原理をちやんと心得て、こいつを絶對化(假説の完璧化・築城の完璧化)しようといふ努力」。(單行本『生き甲斐といふ事』中、對談「反近代につひて」P195 ・199)即ち要約すれば、各場面場面(C’:國・企業・夫婦・親子・家庭・兄弟・師弟・友達・他者・等)から生ずる、關係(D1)と言ふ眞實(目上⇔目下・親⇔子・師⇔弟子・國⇔國民、等々)。その「眞實を生かすために一つのお面をかぶる(「誠實・至誠・愛・慈悲」等と言ふ名の宿命的役を演ずる:自己劇化)」。即ち換言すると、「せりふと動き」によつて「一つのお面をかぶる(Eの至大化=役を演ずる)」を形成。さうした行動の中に、しかもそれが典型として「PP圖」の如く「假説の完璧化」が果たせられた場合に、「完成せる統一體としての人格」が現成するのである、と恆存は言ふ。 |
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『永井荷風』(文化D1と型Eの關係。つまり、樣式・型Eの存在が文化D1を護持する) *「(混亂した)素材(F)のままの現實に樣式を與へなければ(Eの至大化)ならぬ。それが現代の政治家、事業家、學者、藝術家、すべての人(△枠)に課せられた任務」。參照⇒以下項。 |
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『急進的文學論の位置づけ』 〔難解又は重要文〕:P297下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 ②「(明治の現實は)なまの素材(F)としては混亂してをり、なんの意味をもたぬ現實(F)に主題的完成(型E)を與へるのが文學(E)の意圖であるとすれば、明治日本の現實(F)がその作家たちに美的完成(Eの至大化)を許さぬほど混亂してゐたといふ事實を、ぼくたちはまづみとめてかからねばならない。存在(場 C’)そのものが混亂していたばかりではなく、意識(D1心の動き)も、意識と存在との關聯そのものも、ほとんど收拾つかぬほどの混亂(D1の至小化=沈湎=文化荒廢)を呈してゐた。その混亂の樣相を如實に描きだすことこそ今日の歴史學、あるいは社會科學の任務であらう。それらの科學(A’⇒A)が充分にその責任をはたしえないでゐるがために、文學の領域(B)で粗笨(そほん)な公式的イデオロギー(唯物論・唯物史觀?)がいともかんたんに現實を料理し、作品や文學史を裁斷してゐるのだ」。 |
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『近代の宿命』 *「近代ヨーロッパは神(C)を見失つた――が、それはただ神の解體と變形と抽象化(Eの至大化)とを意味するに過ぎぬ。まさにそのための手續きであり過程にすぎなかつたヨーロッパの近代精神(F)とその政治制度・経済機構(F:民主主義・國際法・資本主義等々)なのである」(『近代の宿命』全二P466)。 *「萬人をその胸に救ひとる人格神(C)が、その手をその脚を、さらにその胴體をもぎとられ(客體化)、それらが制度化(F:民主主義・國際法・三権分立等)せられ機械化(F)せられる――で、神(C)は人體を失つて、完全な精神(F)としての抽象化(Eの至大化)を受ける。その精神(F)が文學(E)の領域(B領域)として殘されるといふわけだ」(『近代の宿命』全二P463)。 |
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『文化とはなにか』 *「文化(D1)とは私たちの生き方(E)であります。生活の樣式(E)」。 |
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『小説の運命Ⅰ』『小説の運命Ⅱ』 *「小説の效用は、まず第一に作者自身が口邊に苦笑をうかべる(Eの至大化=so called・フレイジング)ことによつて、現實(場・ C’)の人生に耐へ(D1の至大化)、みづから(A&B)を救ふこと(D1の至大化)」云々。 |
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『日本および日本人』(P191下~2上&194上) *「権利義務の契約(Eの至大化)にもとづく個人主義(F)に馴れない(not so called=Eの至小化)人間が、その制度(F)や法律(F)を移入すれば、それはたんなる利己主義を助長する(Eの至小化=D1の至小化)にしか役だたぬのです」。 |
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『傳統にたいする心構』 *「現代の日本には主體的な生き方や心の働き(D1)としての文化(D1の至大化)や教養(D1の至大化)がないばかりか、文化(D1の至大化)とはそのやうな主體的な精神の型(Eの至大化)だといふ觀念さへないのです。おそらく日本の全歴史を通じて現代ほど文化が薄ぺら(D1の至小化)になり、教養(D1)ある階級を失つた(D1の至小化)時代はなかつたらう。(中略)私たちはまづその自覺に徹すべき」(P187下)。 (以下は小生的纏め) *即ち文化(D1)のある處(換言すれば自國の歴史との「適應正常化=非沈湎」(D1の至大化)が圖れてゐる國)では、「E」を至大化させる「型・仕來り・様式・儀式」が形成されてゐて、その「E:型・仕來り」が歴史(C)との關係(文化D1)を形ある「物」として生き方に反映(Eを至大化)させてくれるのである。文化(D1)のある國は「仕來り・型E」を持つが故に、「對象・言葉(F)との距離測定不能(Eの至小化:言葉に呪縛)」が原因の、適應異常(D1の至小化)や狂氣の囘避が可能となるのである。 |
〔問題點〕:參照⇒《不安・ストレス等(F)への對處方法》「PP左圖」huan.sutoresuenotaisho.pdf へのリンク。
*此處でひとつ問題點に氣が付いた。上記文章群に基づき實踐論として、「Eの至大化=D1の至大化(適應正常化・非沈湎・關係と言ふ眞實を生かす」なる假説の完璧化・築城の完璧化を果たさんとするのであるが、何分にも場(C’)には相手がある事で、しかもそれぞれ難攻不落な處を有する。即ち、場(C’)に對して「D1の至大化(適應正常化・非沈湎・關係と言ふ眞實を生かす)」をする事が實現しにくいのが現實である。では、この難攻不落の場(C’)が齎す、「適應異常化(D1の至小化)」なる以下現象には、凡夫なる我々は如何に對處したらよいのであらうか。
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*場(C’)⇒適應異常化(沈湎・關係と言ふ眞實を生かせない:D1の至小化)⇒適應異常化諸概念(F:不安・ストレス・惱み・苦痛・未解決、等)⇒適應異常化諸概念(F)が心に纏わり付く(Eの至小化)。 |
場( C’)に「關係と言ふ眞實を生かさう(D1の至大化)」としながらも、跳ね返され、結果として「適應異常化諸概念(F:不安・ストレス・惱み・苦痛・未解決、等)」に囚はれ(Eの至小化)、距離測定(so called)が出來ず、それが心に纏わり付き身動きが取れない。圖的には「PP左圖」《不安・ストレス等(F)への對處方法》huan.sutoresuenotaisho.pdf へのリンクの状態を示す。
つまり、先にも記載したが、以下表の、「F:關係(D1)適應正常的諸概念」⇒「Fに對する「Eの至大化(適切距離獲得)」を意圖しながら、意に反して、「適應異常化諸概念(F:不安・ストレス・惱み・苦痛・未解決、等)」⇒「Fに對する『Eの至小化』(適切距離不獲得)」と言ふ逆襲に會ふのである。この逆襲、襲ひかかる「F:不安・ストレス等」には、どう「so called・フレイジング」(Eの至大化)を施したらよいのであらうか。
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「 C‘・C(場)」⇒ |
關係(D1)と言ふ眞實を生かす(D1の至大化)⇒ |
F:關係(D1)的諸概念⇒ |
Fに對する「Eの至大化(適切距離獲得)」 |
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各場面(C‘ ):①企業②家庭③學校等④國⑤會社等⑥友人的共同體⑦會社、等。 |
關係(D1):①目上⇔目下②親⇔子③師⇔弟子④國⇔國民⑤仕事相手・顧客⇔自分⑥友人⇔自分⑦同僚⇔自分、等々。 |
*F:①敬意②孝心③敬愛④國家愛(國防)⑤禮節・謙譲⑥友愛⑦親愛、等々。 |
*左記F概念(①敬意②孝心③敬愛④國家愛(國防)⑤禮節・謙遜⑥友愛⑦親愛)へのベストフレイジング(Eの至大化)を把握。即ち換言すると、「せりふと動き」によつて「一つのお面をかぶる(役を演ずる)」を形成。 |
小生の結論から先に言ふと、要は「囚はれない」が肝要かと。D1の至大化(適應正常化・非沈湎・關係と言ふ眞實を生かす」と言ふ自己劇化は、盡くすべくして盡くす。しかし現實的にはそんな簡單な事ではない。だから後は、「やることやつたら後は何にも考へない」「逆境(C’)に居着かない(非沈湎)」「濟んだ事は過去なり。雑念・妄想と處理する」「二念を繼がない」。つまりそれは、『醒めて踊れ』で恆存が言ふ以下「蠅取紙」の内容と合致する。
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*「精々一本か二本の脚だけを蠅取紙に附けてゐれば足りる。さうしてゐれば、いつでも場(C’)から離れ、個(AB)に還る事が出來る」。 *「場(C’)から場への轉換、場から個(AB)への引揚げに役者個人の強靱な力を必要とする」(全七P398)。 |
是が、「Fへの囚はれ(Eの至小化)からの解放=逆境(D1の至小化)に非沈湎」のコツ。即ち、肥大する「適應異常化諸概念(F:不安・ストレス・惱み・苦痛・未解決、等)」には、ベストフレイジング(Eの至大化)を利かせて、それをシャットアウトする事にある。(參照PP圖《不安・ストレス等(F)への對處方法》huan.sutoresuenotaisho.pdf へのリンク:左圖⇒右圖化)。かうした逆境( C’)から次の場( C’)に飛躍する爲には、ベストフレイジング(ハムレット的獨白?)が必要。「場から場への轉換」(飛躍)のスプリングボードに、獨白的ベストフレイジングが効果を果たす。此方にも今般テーマ「Eの至大化」中の「フレイジング」が役に立つのである。
と、小生はこの惱みへの「解決策は是だ」と、Fへの固着防衛に對して是努めてゐる次第なのであります。かかる方法論は、未だ個人的特殊の分野に入つてしまふきらいがありますが、參考になればと思ひ以下記載させて戴く(まあ、多かれ少なかれ、人は日常かうした「獨白的ベストフレイジング」をやつて、沈湎から頭を切り變へてゐるのではありませうが・・)。
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〔小生流、「獨白的ベストフレイジング」活用による場の転換〕( )内は獨白せず。 ① “「不安・ストレスも過ぎた話は雑念・妄想だ。だから、ウッセウッセ!ウッセウッセ!(うるさいの短縮語)」。と言ふベストフレイジング(Eの至大化)で、各種F概念(不安・ストレス)を縮小・狹小化して、各場各場( C’)に非~沈湎、非沈湎(D1の至大化)” と獨白し、ついでに「PP左圖⇒右圖化」を頭に描く(演劇的像形化)。かかるせりふ廻し(演劇的自己劇化)で、上手くいけば、意識が平板的日常性から立ち上がる(横軸の縱軸化)。 要諦は、「OOOOなる各種ベストフレイジング形成(Eの至大化)で、各種適應異常化概念(F)を縮小狭小化して、各場各場(C’)に非沈湎(D1の至大化)」、と言ふ事にあります。 故に以下②③④も、“「②又は③④と言ふベストフレイジング(Eの至大化)で、各種F概念(不安・ストレス等)を縮小・狹小化して、各場各場に非~沈湎、非沈湎(D1の至大化)”、と小生は頭に描きながら標語的に是を活用してゐるのではあります。 ② 施術中は頭の中でなるべく、「無~」で非沈湎(D1の至大化)。 ③ スイミング・通勤歩行中では、「面~面」で非沈湎(D1の至大化)。 ④ 坐禪では、勿論「無~」で非沈湎(D1の至大化)。 その他、小生は種々なる「ベストフレイジング」を、その場その場(C’)に對應し作成活用してゐるのではありますが、此處での披瀝は「赤面もの」なので控へます。 |
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