平成三十年十二月

〔福田恆存を讀む會〕

吉野櫻雲

 

《「さうありたい自己」と「個人主義」を關係論で再探究する》

〔副題〕第?彈:PP圖で恆存(C)の思想(D1)を「形ある『物』にして見せる(Eの至大化)」。

評論『近代の宿命』でも指摘されてゐる、「個人主義の確立と超克」の出來てゐない日本人にとつては、何度考へても、以下の内容は興味深くかつ多大なる含蓄を含んでゐると覺える。よつて「又々、しつこくも」、この問題へと小生は引き込まれてしまつた次第である。

尚、今囘の探究で、更に解り得た内容とは以下である。

#フローベール#チェーホフ に共通する #個人主義(近代自我 自己主人公化)否定。

精神は、個人の純粋性としての静謐を保ち、それを「理想人間像・無執着(絶對・全體)」へと繋いだ。
PP圖⇒chehou.huroveru.pdf へのリンク

「 」内が恆存文。( )内は吉野注。


*恆存の諸作品(『批評家の手帖』『人間・この劇的なるもの』『小説の運命』『理想人間像について』等)から考察するに、西歐近代の個人主義は、人間の本性「物まね・そうありたい自己」を、「自己表現(D2)」として塗り替へたに過ぎないのではなからうかと言ふ事。即ち以下①「物まね・そうありたい自己」を、②の「個人主義」プロセスに塗り替へたのであると。その理由として挙げられるのは、勿論、絶對全體(C)離脱、即ち「中世―神(C)=ルネサンス(及び近代)」なのである。

「手本(C・C’)⇒願望(D1)⇒模倣(D2)⇒それに辻褄を合はせようとする(生甲斐・居心地の良さ・自己滿足D3)」。

近代=手本喪失「神Cの死」即ち「神意(宿命D1)喪失」⇒神の代はりに、自己宿命(D1)演出⇒自己主張(自己表現D2)・自由意思(人間いかに生くべき:D2)⇒自己完成(自己主人公C’化・自己C’全體化・自己C’絶對化)⇒自己滿足・自己陶醉・自己證明による「似非實在感(D3)」。

*つまり西歐近代は、「物まね・そうありたい自己」と言ふ人間の本性(本能A的概念)を、合理・自由・科學なる時代的欲求(實證主義:A’⇒A)で、自由意思・如何に生くべき・自己實現・自己表現(D2)なる「精神B的概念」に置き換えてしまつたのではなからうかと言ふ事。

*「シェイクスピア・セルバンテス・フローベール・チェーホフ」は、いづれも個人主義なるものを否定してゐる。彼等の精神には、その神に叛逆せる時代(ルネサンス・近代)にありながら、なほ「B(精神)⇒理想人間像(C)」を護持せんとする確信と意慾がある。とはつまり、個人的自我(B)は、個人の純粋性(B)としての静謐を保ち、絶對・全體(C)にそれを繋いで行く、と言ふ確信なのであらう。
PP圖⇒goshaichimoku.pdf へのリンク

*彼等は、「物まね」「そうありたい自己」「物事を實際とは違つたふうに見ようとする願望」を、人間の本性と認め主題的に取り上げたが、その個人主義的側面(自己表現D2⇒自己主人公C’化・自己C’全體化)は否定してゐたのである。

*彼等は、西歐近代(ルネサンス含む)が逢着した個人主義を、「近代化」と同じく、絶對・全體(C)喪失による「デクリネイション(衰退)」と見たのではなからうか。つまり「開放さるべき個性(個人主義)の實體とは」、宿命(D1關係)不在、換言すれば「解放されて仕へるべき何物(全體・絶對C)をも持たぬ自我の不安」(『シェイクスピア』全二P27)でしかないのだと・・。

 と言ふ事で、以上の如く探究し得た内容を、恆存評論を索引としつつ下項で記載する。

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〔人間の本性=「物まね」「さうありたい自己」について〕

*恆存は、以下、人間の本性「さうありたい自己」を強調するだけではなく、「B⇒C」(絶對願望)をも、人間本能の一つと捉へてゐた形跡がある(參照⇒講演カセット?又は他)。

以下文、「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

*「物まねは、人間にとつて、すでに幼児から自然のものである。人間が他の下等動物にまさるゆゑんの一は、人間が地上にもつとも物まね的な生きものであり、まづ物まねによつて知りはじめるといふことである。とすれば、萬人が物まねの行爲に喜びを見いだすといふのも、また自然である(アリストテレス『詩學』)」(『人間・この劇的なるもの』全三P547)。

「ボヴァリズム、すなはち物事を實際とは違つたふうに見ようとする願望(TSエリオット)」(『人間・この劇的なるもの』全三P553)。

*「人はなにも立派な行爲や幸福な生活だけを眞似たがりはしない。堕落すればしたで、不幸になればなつたで、それぞれの型(E)を眞似ようとして、歴史(C時間的全體)のなかに、周囲(C’場)に物語や劇や小説(C’場)に、それを探し求める(場面C’の設定=手本)であらうし、自分が下した自己解釋(かう描かれたいと言ふ意識・願望=獨り合點=場面C’から生ずる心の動き=關係D1)を模倣(D2)し、それに辻褄を合はせようとする(生甲斐=居心地の良さ=自己滿足D3)であらう」(『批評家の手帖』P81)。

(個人主義が主張した)「自己表現(自己主張:D2)、あるいは自己解釋(D1)といふのは、自分がさういふもの(自己C’全體化・自己C’主人公化・自己C’完成化であるといふことを意味しない。ただ自分はさうありたい(願望D1⇒模倣D2)といふだけのことだ」(『批評家の手帖』P81)。

後方二文(『批評家の手帖』P81)から察するに、人間の本性「物まね・さうありたい自己」、つまり「手本⇒願望⇒模倣⇒それに辻褄を合はせようとする(生甲斐・居心地の良さ・自己満足D3)」を、西歐近代は以下の「個人主義」に塗り替へたと判斷する事が出來る(結果的には、個人主義は以下末路を辿つたのではあるが)。

〔恆存の言ふ、西歐近代自我(個人主義)の末路〕

(恆存の諸著作から個人主義についての文言を要約すれば、以下の通りになると思ふ)

 

近代=「神Cの死」即ち「神意(宿命D1)喪失」⇒神の代はりに、自己宿命(D1)演出⇒自己主張(自己表現D2)・自由意思(人間いかに生くべき:D2⇒自己完成(自己主人公C’化・自己C’全體化・自己C’絶對化・自惚鏡)⇒自己陶醉・自己滿足・自己證明による「似非實在(D3)感」⇒自己喪失(自己への距離感E喪失・適應異常)。

そして、更に恆存評論を探究するに、ルネサンス・近代の「個人主義文學」は、上述の「自己表現(D2)」と「自己宿命(D1)演出」を主題として、以下二樣相を際立たせたと言ふ事が解る。即ち、その「二樣相」を對象にして、シェイクスピア・セルバンテス・フローベール・チェーホフが、各人各樣、己の文學觀をその時代に展開したのが窺へるのである。

 尚、二樣相の展開を記述する前に、この「さうありたい自己」と「個人主義の自己表現(D2)」の特徴、及び各人の差異を以下表(①②③)で考察してみた。當表で注目したい點は、「シェイクスピア・セルバンテス・フローベール・チェーホフ、そして恆存」、彼等に共通するもの、それは「個人主義否定」と言ふ事である。彼等の精神には、その神に叛逆せる時代(ルネサンス・近現代)にありながら、なほ「B(精神)⇒理想人間像(C)」を護持せんとする確信と意慾があるのが窺へる。とはつまり、個人的自我(B)は、個人の純粋性(B)としての静謐を保ち、「絶對・全體(C)」にそれを繋いだ、と言ふ事なのである。

①:さうありたい自己(PP圖△枠參照:souaritaijiko.pdf へのリンク

*人間の本性「さうありたい自己」(△枠)とは、即ち「手本(C・C’)⇒願望(D1)⇒模倣(D2)⇒それに辻褄を合はせようとする(生甲斐=居心地の良さ=自己滿足D3)能動」。

差異項目

手本(場面C・C’)の設定。

 

宿命(關係D1)

自己劇化(D2)

「自分がさういふもの(自己全體化・自己主人公化・自己完成:C’化 )」。

自己滿足(D3)

「さうありたい自己」:(△枠)

手本。

「なにか(手本:C・C’ )をまねてゐる」。

願望・自己解釋(D1:獨り合點)

模倣(D2)

上記は不問。

*「辻褄を合はせようとする(生甲斐=居心地の良さ=自己満足D3)」・・・「自分が下した自己解釋(D1)を模倣(D2)しそれに辻褄を合せたい(自己滿足D3)」(全五:P81『批評家の手帖』)。

 

②:個人主義の自己表現(D2)(PP圖kojinshugi.pdf へのリンク:△枠參照)

*近代とは手本喪失。「神の死(絶對全體C喪失)」即ち「神意(宿命D1)喪失」⇒神の代はりに、自己宿命(D1)演出⇒自己主張(自己表現D2)・自由意思(人間いかに生くべき:D2)⇒自己完成(自己主人公C’化・自己C’全體化・自己C’絶對化)⇒自己滿足・自己陶醉・自己證明と言ふ似非實在感(D3)。
* 上項を換言すれば、オセローの自己劇化(D2)、即ち「自分を滅ぼすものの正體(死・全體C)をはつきり見きはめ、その上に自分を押しあげ、壯大に祀りあげること、この強烈な個人主義のうちにエリオットはストイズムを見た」( 『人間・この劇的なるもの』全三P555)と言ふ事になる。なほ當文は、「その上(宿命D1の上)に自分を押しあげ(自己宿命D1演出)、壯大に祀りあげること」とも言ひ替へられる。

差異項目

手本(場面C・C’)の設定。

 

宿命(關係D1)

自己劇化(D2)

「自分がさういふもの(自己全體化・自己主人公化・自己完成:C’化 )」。

自己滿足(D3)

個人主義(個人の尊厳):(△枠)

*「手本」はなく自由意思による自己實現(自己C’手本化)。

*又は眞似てゐながら敢へてそれに氣づかうとしない。

「願望」ではなく自己宿命(D1)演出と言ふ概念。

「模倣」ではなく自己表現(D2と言ふ概念

個人主義は、自己表現(D2)で、「自分がさういふもの(自己全體化・自己主人公化・自己完成:C’化 )」になれると定義してゐる。

自己陶醉・自己滿足・自己證明による「似非實在感」。

 

③:各文人の差異:但しいづれも上述「個人主義」否定

 

差異項目

手本(場面C・C‘)の設定。

 

宿命(關係D1)

自己劇化(D2)

「自分がさういふもの(自己C’全體化・自己主人公C’化・自己C’完成化 )」。

自己滿足(D3)

セルバンテス

(ドン・キホーテ)

「主人公はなにか(手本:C’)をまねてゐる」・・・中世騎士物語を。

 

シェイクスピア(悲劇)主人公が行つてゐる樣な「自己宿命(D1)演出」とは異質。

*ドン・キホーテの「物まねD2」は人間の本性として肯定。

*個人主義的「自己表現(D2)⇒「自己手本C’化・自己主人公C’化・自己C’全體化」とは捉へてはゐないと思へる。

「自己C’全體化・自己主人公C’化・自己C’完成化」ではなく理想人間像(C)希求。

*ドン・キホーテの、夢想探求(ロマネスクB⇒C)による自己滿足D3」を、サンチョの「リアリズム(A:常識)」が批判(批評)。

 

フローベール(マダム・ボヴァリー)

主人公はなにか(手本:C’)をまねてゐる」・・・恋愛小説の主人公(C’)を

シェイクスピア(悲劇)主人公が行ってゐる樣な「自己宿命(D1)演出」とは異質。

個人主義における「自己表現者・自己主人公C’化」のマダム・ボヴァリーを失敗視(否定)。

*逆説的に、B(精神)⇒理想人間像(C)の護持。

マダム・ボヴァリーの個人主義・・・「自分がさういふもの(自己全體化・自己主人公化・自己完成:C’化 )」と錯覺したい欲求。

*個人主義=マダム・ボヴァリーの自己滿足(D3:ボヴァリズム)。

フローベールは「理想人間像(C)があつたればこそ實證精神(A:「創作方法」)をしてあれほどまでに自我(代理「A」としてのボヴァリー夫人)を斬りさいなむことを許したのである」(全一P475『理想人間像について』)。

 

シェイクスピア(悲劇)


(手本:C’)缺如

神の代はりに自己の手による宿命(D1)演出

*「齒ぎしりしてゐる孤獨(宿命缺如)が故の物まね(人間の本性)・・・「宿命D1/自己劇化D2」による必然感・生き甲斐の希求。

*シェイクスピアは、彼等「人間の情念(A)に、たえず懲罰」⇒「劇は究極において倫理的(宗教的:B⇒C)」「死と再生」、即ち個人主義否定。

自己(C’)全體化=「その(死・全體C)上に自分(C’)を押しあげ、壯大に祀りあげる」。

自己美化・自己滿足(似非D3)。

・・・悲劇四主人公は「自分をゆだねるべき死(全體C)にたいして、いささかの信頼感(D3)ももつてゐない」。

 

チェーホフ劇・・・右記行動の喜劇。

恆存曰く「チェーホフ劇は『獨り合點』(D1)を描いてゐる芝居」と。『櫻の園』は喜劇だと。

「なにか(手本:C・C’ )をまねてゐる」。

*「トルストイがかれを『空家』にして去つた」、その空家(神不在)に、クリスト教の代はりに「教養ある自由人の観念」「無執着」が引越してきたと恆存は言ふ。(全二P179『チェーホフ』)

願望・自己解釋(D1:獨り合點)。

*「自己解釋」(D1)を人間の眞實的自己として採用してゐるのではなく、願望(場面C’から生ずる心の動き=關係D1)と言ふ名の、「ただ在るもの」即ち實在物(關係D1)(『批評家の手帖』P62)。

*チェーホフ劇主人公達が、「さうありたい自己」で演ずる「模倣(D2)」。

*チェーホフ思想とは・・・「トルストイ影響脱出後の、(B空家・神C不在)としての精神B」⇒「無執着:C」。結果としての個人主義否定。

「自分がさういふもの(C’化:自己全體化・自己主人公化・自己完成であるといふことを意味しない」。

「辻褄を合はせようとする(生甲斐=居心地の良さ=自己満足D3」・・・「自分が下した自己解釋を模倣しそれに辻褄を合せたい(自己滿足D3)」(全五:P81『批評家の手帖』)。

 

恆存・・・チェーホフ同樣な見解=脱個人主義。

參照⇒「さうありたい自己」文(『批評家の手帖』P81)。

參照⇒「さうありたい自己」文(『批評家の手帖』P81)。

參照⇒「さうありたい自己」文(『批評家の手帖』P81)。

參照⇒「さうありたい自己」文(『批評家の手帖』P81)。

參照⇒「さうありたい自己」文(『批評家の手帖』P81)。

 

 

 と言ふ事で、だいぶ遠まはしになつてはしまつたが、以下「二樣相」(Ⅰ自由・生命慾、Ⅱ孤獨)の展開を記載する。

〔個人主義文學が際立たせた二樣相(Ⅰ自由・生命慾、Ⅱ孤獨)〕

*ルネサンス(Ⅰ自由・生命慾的側面)=中世―神(絶對全體C)

*ルネサンス(Ⅱ孤獨・個人主義的側面)=中世―神(絶對全體C)

 

樣相Ⅰ(自由・生命慾)

*「ルネサンス・近代」文學主人公の、「自由・生命慾」讚歌による個人主義追求。即ち自己表現(D2)による「自己手本C’化・自己主人公C’化・自己C’全體化」・・・當代思想「個人主義」(自己表現D2)は、セルバンテス・フローベールにどう影響したか。恆存は言ふドン・キホーテやエンマ・ボヴァリーは、なにか(手本:C’)をまねてゐる」(『人間・この劇的なるもの』全三P554)と

で、この二主人公の「物まね」が、ただの「個人主義」(自己表現D2)に據るものなのか、それとも人間の本性である「物まね・そうありたい自己」に據るものなのかが探究の對象となる。

 

ドン・キホーテ(セルバンテス)(PP圖參照risouningenzou.pdf へのリンク

*上表にも記載したが、セルバンテスには、「Ⅰ自由・生命慾=人間の本性(物まね):A」肯定と、それと同時に、似てはゐるが非なる時代的風潮の「物まね」、即ち個人主義の「自己表現D2⇒自己手本C’化・自己主人公C’化 ・自己C’全體化」に對する否定が讀み取れる。

セルバンテスはシェイクスピア同樣に、ルネサンスの「絶對全體(C)離脱=個人主義化・近代化」を、「デクリネイション(衰退)」と捉へてゐたのだと推測できる。著作『ドン・キホーテ』には、その「中世騎士物語」物まねの内奥に、反個人主義(反自己表現D2)としての「理想人間像C」希求が窺へるのである。

その「理想人間像C」について恆存はこの樣に記述してゐる。

「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

*「この(ルネサンスの)反撥と驚異とを可能ならしめたものの根柢に、ほかならぬクリスト教精神が存在してゐたことを見のがしてはならない。~~ルネサンス人の理智にとつて一巻の新約聖書があれば充分であつたにそうゐない。~~神への叛逆も、じつは千年にわたるながいあいだの神への凝視と沒入とから習得し免許をあたへられた理想人間像にもとづいておこなはれたものである。~~ルネサンス人の第二の性向に氣づかざるをえない。それは合理(A⇒A)を貴重とする人間の理性のたくましい力(實證精神)である。あらゆる不合理なるもの、叛逆的なるもの、醜怪なるもの、情慾的なるもの、これら一切を過去の(クリスト教が規定した)人間概念のそと(即ち原罪ではない「肯定的=積極的な生命慾」として)に發見しながら、その發見と同時にかれらはそれを統一した人間概念の確立にむかひはじめるのである。そのさいにかれらの基準となつたものは、教門政治や中世的社會秩序といふ外部条件をすつかり脱落せしめた文化遺産としてのクリスト教精神であり、理想人間像(C)にほかならなかつた。セルバンテスの意慾はそこにつながつてゐた」小説の運命Ⅰ』全一P597)。

 

參考:《ルネサンス人の二つの特長ある性癖(積極的な生命慾A+合理を基調とする人間理性:A’⇒A)》拙發表文:〔時代・文人別「理想人間像」の形態と内容〕から

時代・文

理想人間

形態・内

ルネサンス

プロメ

(半神半牛

*二つの特長ある性癖(積極的な生命慾A+合理を基調とする人間理性:A’⇒A

①「肯定的=積極的な生命慾A」・・・「クリスト教(C)の人間概念(精神B主義)によつてわりきれぬあらゆる人間要素(A)に貪婪」かつ「不合理・反逆的・醜怪・情慾的なるもの(A)、これら一切の可能性にたいしてはげしい好奇心」

②「合理を基調とする人間の理性(實證精神:A’⇒A)のたくましい力・・・その「かれらの基準となつたものは、教門政治や中世的社會秩序といふ外部条件をすつかり脱落せしめた文化遺産としてのクリスト教精神(BC:神學⇒次項參照)であり、その理想人間像(C)にほかならなかつた。セルバンテスの意慾(B⇒C)はそこにつながつてゐた」(小説の運命Ⅰ』全一P598)。

③「神(C)への叛逆も、じつは千年にわたるながいあいだの神(C)への凝視と沒入(神學)とから習得し免許をあたへられた理想人間像(C)にもとづいておこなはれたものである」(『小説の運命Ⅰ』全一P599)。

上記から察するに、この「理想人間像(C)」追求者として描かれたのが、主人公「ドン・キホーテ」であり、「セルバンテスの意慾」は其處に通じてゐたのだと考へられる。尚、キホーテ自身にも作者はかく謳はせてゐる。「鉄の時代(ルネサンスの個人主義)に、黄金時代(騎士道=理想人間Cを、否、金の時代を甦らせよう」(『ドン・キホーテ』)と。

セルバンテスが、「物まね・さうありたい自己」を主題的に取り上げた理由は、「理想人間像:C」希求こそが、人間の本性としての「物まね・さうありたい自己」の範疇にあると認識したからではなからうか。そして是は、個人主義の「自己表現D2⇒自己手本C’化・自己主人公C’化 ・自己C’全體化」に對する否定なのでる。個人主義は自己表現(D2)で、「自分がさういふもの(自己全體化・自己主人公化・自己完成:C’化 )」になれると定義してゐるが、理想人間像:C」とは希求對象にはなり得るが、かかる絶對的概念(C)を人間は實現出來ない。セルバンテスは、ドン・キホーテの夢想(騎士道⇒理想人間像C)を、その樣に措定してゐると捉へられる。

 

マダム・ボヴァリー(フローベール)・・・マダム・ボヴァリーは「自由・生命慾」(A)謳歌で、恋愛小説の主人公を眞似る。が、フローベールは彼女の個人主義(自己表現D2⇒自己主人公C’化)を、「ボヴァリーの失敗」と見て描いた、と恆存は言ふ(『小説の運命Ⅱ』全一P617他)。
(PP圖參照:risouningenzou.pdf へのリンク

つまりフローベールは、自己のロマネスク(精神B⇒理想人間像C)を表面的には語らない。小説『マダム・ボヴァリー』には、夢想家「B:ドン・キ・ホーテ」も夢想(C)もその作品には登場しない。「サンチョ(常識A)」だけの世界が描かれてゐる。恆存は言ふ「フローベールほど激しい夢想家(B⇒C)はゐない――そのため自分を知つてゐるかれはあまり氣がひけるのでサンチョ(A常識)ばかりの世界を描き、ドン・キホーテ(B)を隠してしまつたのだ。素朴な讀者は、ドン・キホーテ(夢想家:B)とサンチョ(A:常識人)とを竝列してくれなければ笑ふすべを知らず、しかたなく(小説『マダム・ボヴァリー』では)人生訓を抽出して氣をよくしてゐるといふしまつ」(全一P614『小説の運命Ⅱ』)なのであると。

この點に關して、恆存はかうも言つてゐる。「詩人や藝術家は、本質的には、(マダム・ボヴァリーの樣な)個人(C’)主義者たりえないし、素朴に自由の信者(マダム・ボヴァリー)にはなりきれぬ。藝術はつひに形式の枠個人C’は全體Cのまへに滅びなければならないからのがれられぬのだ」(『人間・この劇的なるもの』全三P567)と。(參照⇒以下枠文)。

「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

「劇は本質的に對立の原理にもとづいてゐる。が、それは無限に續いてはならぬ。對立は對立自體を否定しなければならないのだ。個人(C’)は個人に對立する(エゴイズムA)。が、その個人(エゴイズムA&C’)は全體(C絶對)のまへに滅びなければならない」(『人間・この劇的なるもの』全三P569)。

「藝術とは演戯(D2)なのであり、演戯とは絶對(C)に迫る事なのである」(『藝術とはなにか』)。

シェイクスピア(敬虔なるカトリック信者)は劇の圖式(對立の原理)を信じてゐたと同時に、人間の生きかたを信じてゐたのだ。かれは人間の情念(A)に、たえず懲罰の鞭をふるいながら、飽くことなく、それを描きつづけた。(中略)劇といふものが懲罰の儀式。(中略)劇は究極において倫理的(B⇒C)でなければならない。元來はそれ(情念Aに懲罰の鞭)は、宗教的(カトリック:B⇒C)なものであつた」(『人間・この劇的なるもの』全三P574)。

*「個人(C’)が個人の手で生き方を探求すれば、それはただ全體(C)的な生き方への反逆に終るだけのことだ」(『人間・この劇的なるもの』全三P572)。

*「自己劇化は自己(C’)より大いなるものの存在(C:全體・絶對)を前提として、はじめて存在する。自己(C’)は自己を表現しきれぬ(即ち個人主義の自己表現D2は虚妄と言ふ事)ばかりでなく、自己(C’)は自己を劇化(D2)しきれない」(全二P415『自己劇化と告白』)

以上文章群から察するに、シェイクスピアのみならず、セルバンテスもフローベールも(更に言へば、チェーホフ・恆存も)、西歐近代(ルネサンス含む)が逢着した個人主義を、「近代化」と同じく、絶對・全體(C)喪失による「デクリネイション(衰退)」と見たのではなからうか。つまり「開放さるべき個性(個人主義)の實體とは」、宿命(D1關係)不在、換言すれば「解放されて仕へるべき何物(全體・絶對C)をも持たぬ自我の不安」(『シェイクスピア』全二P27)でしかないのだと。(參照⇒以下枠文)

「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

*「近代の目標とした個性の尊厳(自由・個人主義)といふ事が凡人に教へた夢の内容とは、そんなこと(自分の作つた出場でのほんの一時の自己滿足的大見得)だつたのか。そして彼等(個人主義者)の最後に辿りつく慰藉と休息とは、『人の生涯は動きまはる影(自己C’主人公化・自己C’全體化、即ち解放されて仕へるべき何物Cをも持たぬ自我)にすぎぬといふ諦め』以外に何も無いのであろうか。シェイクスピアが『マクベス』を書いたときから三百年のちぼくたち現代人にとつても、いまだ解答は保留されたままなのであらうか」(『シェイクスピア』全二P28)。

かかる考察から、フローベールはマダム・ボヴァリー個人主義(自己表現D2⇒自己主人公C’化)を、「ボヴァリーの失敗」と見て描いたとの、恆存文がより良く理解出來る(以下も參照)。

「 」内が恆存文。( )内は吉野注。


フローベールは、自己のロマネスク(理想人間像C)を語らない。彼の方法は、實證精神即ち「現實(リアリズム=ボヴァリー:A)の醜悪を素材として美(B:ロマネスク・夢想家⇒C理想人間像)を志向する創作方法」とならざるを得ない。「ボヴァリーの失敗によつて、(リアリズム)小説批評が完成される」のである。「マダム・ボヴァリーはわたしだ」と言つたのは、「自分の夢をそんな形でしか提出しえなかつたからだ」(P617)。「(B個人的自我の)可能性の天窓は一分のすきもなく完全にとざされ現實世界(A)で獲得できた自由(A)のいかにつまらなく、それがあまりにつまらぬために自由でもなんでもない」といふ創作方法で、逆説的にしかも表面化されずに、夢想(BC)は描かれてゐる(小説の運命Ⅱ全一P611・617から要約)

 

樣相Ⅱ.個人主義主人公の「孤獨」

シェイクスピア悲劇主人公(リア王・マクベス・オセロー・ハムレット)の孤獨・・・彼等の慾してゐるものは、Ⅰの「自由・生命慾」などではない。ルネサンスの一側面「孤獨感(C喪失のB)に堪へ、齒ぎしりしてゐる」からの脱出口として、「宿命D1/自己劇化D2」の物まねで得られる、必然感・實在感・自己美化(D3擬き)を彼等は欲してゐるのである(參照⇒以下枠文)。

「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

*「全體C喪失=宿命(D1關係)喪失」なる「近代理智」(近代化)を、恆存は衰退(「デクリネイション」)と見た(單行本『マクベス』解題:P151)。そして、シェイクスピア自身にも、「(ルネッサンスの子としての)昇騰してやまぬ想像力の自由な羽ばたきの影に何か黒い空洞(近代の孤獨感=全體C離脱)があって、恐らく時折はそこを冷たい風がさつと通り抜けるのが感じられたに相違ない」(『シェイクスピア』P27)のだと鋭く直覺した⇒參照圖『危機と戯れる』kikitotawamureru.pdf へのリンク

エリオットのいふやうに、シェイクスピアほど、創造の秘密とその過程そのもの(「D1宿命・役割/D2自己劇化」=「演戯・物まねといふ人間の本性」)を、執拗に自己の主題としてとりあげた作家はなかつたかもしれぬ」(參照『人間・この劇的なるもの』全三P553~4)。

*恆存曰く「シェイクスピアの悲劇や史劇に登場してくる人物たちのうへに蔽いかぶさる、あのやりきれぬ孤獨感(C喪失のB)はいつたいなにものか。ハムレットもマクベスも、その孤獨感に堪へ、齒ぎしりしてゐるではないか」と。そして個人主義とは「その發想も歸結も、一口にいへば、孤獨といふ觀念にある」(『個人主義からの逃避』)と。

①「孤獨感(C喪失のB)に堪へ、齒ぎしりしてゐる」⇒②「自分を滅ぼすものの正體(死・全體C)をはつきり見きはめ、その(喪失した神・全體C)上に自分を押しあげ、壯大に祀りあげること(自己C’全體化)」。或いは「その上(宿命D1の上)に自分を押しあげ(自己宿命演出)、壯大に祀りあげること」⇒③「自分が自分を認める(自由意思によつて宿命D1を選ぶ)以外、どこにも生きるよすがは求められぬ。シェイクスピア劇の主人公たちが置かれた環境がまさにそれ」⇒④「オセローは最後に自分自身をだまさずには、死んでいけなかつたのだ(自己滿足・自己美化:似非D3)」。

*上記内容、つまり個人主義(四悲劇主人公)は、「神々(C:絶對・全體)」を喪失したが爲に、宿命(D1)は「神々(C絶對・全體)の側から人間に與へるもの」ではなくなり、「個人(C’)がそれ(宿命D1)を選びとらねばならぬもの」(參照『人間・この劇的なるもの』全三P555)となつてしまつた事を示す。

*シェイクスピア悲劇(ルネサンス的孤獨)では眞似る對象は、上述Ⅰ「なにか手本:C’」などではなく、「リア王もマクベスもオセローもハムレットも」その「齒ぎしりしてゐる孤獨(C喪失のB)」から、もつと切實な「自由意思によつて宿命(D1)」を選ばねばならぬ行爲、即ち、願望D1⇒模倣D2」と言ふ人間の本性(物まね・さうありたい自己)であつた。つまり恆存文に據れば、「もしかれらがなにかをまねてゐるとすれば、人間性のより本質的な在りかた(『物まね』)においてである。といふのは、『物まね』(願望D1⇒模倣D2)といふ人間の本性を演じてゐるのだ」(『人間・この劇的なるもの』全三P554)と。

是は、シェイクスピアは個人主義の負の側面である「孤獨(自由の裏面)=宿命D1喪失」を悲劇として描いたと言ふ事になる。悲劇主人公の齒ぎしりしてゐる孤獨(C喪失のB)」「やりきれぬ孤獨感」が欲してゐるものは、個人主義が持つ「自由・生命慾」などでなく、孤獨の慰撫、つまり「宿命D1/自己劇化D2」(願望D1⇒模倣D2)の物まねで得られる、「必然感・實在感・自己美化」(D3擬き)なのであつた。(參照⇒以下枠文)

「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

「エリザベス朝人(個人主義も)は自由意思によつて宿命(D1)を選ぶ」(『人間・この劇的なるもの』全三P555)。

*だがそれは、「ひとつの斷片に過ぎぬ個人(C’)が全體(C)の必然性(D1)を選び司るといふ論理的矛楯」(P557)に陥る

*なぜなら、本來「宿命(D1)は人間の側で選びとるものでなく、神々(絶對・全體C)の側から人間に與へるものである。が、もし、個人がそれ(宿命D1)を選びとらねばならぬものなら、その最後の仕上げも個人が自分の手でやつてのけねばならぬといふことになる」(參照『人間・この劇的なるもの』全三P555)

*但し、前述文で言ふ「必然感・實在感・自己美化」は、「似非D3」にしか過ぎないと恆存は以下の様にいふ。「自分で編みだした必然性(D1)や、自分で造りあげた宿命(D1)など、自分の死後にまで通用するはずのものではない。かれらは眼前に死(全體C)を見すゑたつもりでいたらうが、死はつねにかれらの背後を不意に襲つてゐる。(中略)かれらは最後に自分をゆだねるべき死(全體C)にたいして、いささかの信頼感(D3:必然感・實在感)ももつてゐないのだ。(中略)ストイズムを頂點とする個人主義の限界がそこにある」(『人間・この劇的なるもの』全三P557)と

 

 處で、シェイクスピアは劇で何をしたかつたのか、と言ふ素朴な疑問があらためて小生には沸いてきた。答へはやはり恆存文に據ればであるが、以下の通りとなる。

「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

*「シェイクスピア(敬虔なるカトリック信者)は劇の圖式(『個人C’は全體Cのまへに滅びなければならない』『必然とは部分C’が全體Cにつながつてゐるといふこと』)を信じてゐたと同時に、人間の生きかたを信じてゐたのだ。かれは人間の情念(A)に、たえず懲罰の鞭をふるいながら、飽くことなく、それを描きつづけた。(中略)劇といふものが懲罰の儀式。(中略)劇は究極において倫理的(B⇒C)でなければならない。元來はそれ(情念Aに懲罰の鞭)は、宗教的(カトリック:B⇒C)なものであつた」(『人間・この劇的なるもの』全三P574)。

つまり、シェイクスピアは、劇による「死と再生」を觀客に見せたかつたのである。恆存は言ふ「シェイクスピアの悲劇には、私たちを死の世界にひきずりこみ、そこからの再生を暗示するミスティシズムがある。(中略)シェイクスピア劇そのものが秘儀であり祭典であつた」(『人間・この劇的なるもの』全三P580)と。尚、更に詳しくは以下をも參照されたし。

〔參照文〕「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

*「passion の語源はpassive 。「情熱(A)」は「受動」。それに身を委ねるは惡しき事と言ふのが聖書の思想(「肉A=感情Aに従ふは罪。肉は神意D1を遂げる處」)。「情熱・肉」に相對するのが精神(B能動的概念)。肉體(A)の受難に対して精神(B)はそれに打克つもの。イエスが「神の子」であるのは肉體(A)の受難に打克つ精神(B)を持つてゐた事。それによつて神(C)と繋がつてゐた。「受難:passion 」とはさうした能動的・積極的概念の象徴」(『シェークスピア劇の魅力』から:要旨)。

*「私たちがシェイクスピア劇から知りうるのは個人主義(絶對全體C喪失)の限界であつて、個人主義文學の限界(次項『個人主義の效用』參照)ではないといふことを」(『人間・この劇的なるもの』全三P558)

「個人(C’)が個人の手で生き方を探求すれば、それはただ全體(C)的な生き方への反逆に終るだけのことだ。個人主義の效用はそこにしかなく、また、そこにおいて永遠に生きつづけるであらう」(『人間・この劇的なるもの』全三P572)。

*「シェイクスピアは、その主人公たちの行動は個人主義的なストイズム自由意思によつて「宿命D1/自己劇化D2」・「願望D1⇒模倣D2」の物まね)を許したとしても、劇の本質も作劇法も、個人主義的なものではありえぬこと(つまり『個人C’は全體Cのまへに滅びなければならない』『必然とは部分C’が全體Cにつながつてゐるといふこと』)を、十分に知つてゐたのだ」(『人間・この劇的なるもの』全三P571)。

「必然とは部分(生)が全體(死)につながつてゐるといふことであり、偶然とは部分(生)が全體(死)から脱落したことである」(P590『人間・この劇的なるもの』)。

*「危機的なもの(中世Cからの離脱D1=ルネサンスの孤獨感:關係D1)がシェイクスピアの中にはあつて、なによりもそれが私の心を引く」。「彼(シェイクスピア:PP圖△枠)が劇場に期待したことは、危機(全體Cからの離脱D1(F=ルネサンスの孤獨D1的概念)から自分(△枠)を救ひ出すことではなく、危機關係D1)と戲れる(D1の至大化)ことであつた(即ち、言葉Fとの距離Eの至大化での「D1の至大化」)。シェイクスピアのせりふ(F)が詩(Eの至大化)でありえたのは、そしてその詩がせりふでありえたのは、彼が言葉(F:自由・孤獨・自我の不安)といふものを危機關係D1)の表明や解決の通路としてではなく、その(言葉Fの)(F:自由・孤獨・自我の不安)中に危機(關係D1)を呼び入れ、それ(危機)と戲れる(Eの至大化D1の至大化)ための場として把握してゐた(「Eの至大化」と言ふ方法で)からである」(『飜譯論』)。⇒參照圖『危機と戯れる』:kikitotawamureru.pdf へのリンク

上項目「せりふの中に危機を呼び入れる」「危機に戲れる」とは以下の樣に換言出來る。・・・場(C中世)から生ずる「關係(D1)と稱する實在物(離脱 全體離脱・危機・ルネサンス)は潜在的には一つのせりふ(F「危機」:自由・孤獨・自我の不安)によつて表し得る」。故にその言葉(F:危機 :自由・孤独・自我の不安)との附き合ひ方(Eの至大化)、即ち「型にしたがつた行動(Eの至大化)」による言葉(F:危機 :自由・孤獨・自我の不安)の自己所有化(Eの至大化)で、關係(D1全體離脱・危機)への適應正常(D1の至大化=Eの至大化:危機に戲れる)(Eの至大化によるD1の至大化=危機に戲れる)が叶へられる、と。(全七P300『せりふと動き』)文を利用)。

*「シェイクスピアは、その主人公たちの行動は個人主義的なストイズムを許したとしても、劇の本質も作劇法も、個人主義的なものではありえぬことを、十分に知つてゐたのだ」(『人間・この劇的なるもの』全三P571)。

「必然とは部分(生)が全體(死)につながつてゐるといふことであり、偶然とは部分(生)が全體(死)から脱落したことである」(P590『人間・この劇的なるもの』)。

 

チェーホフの「個人主義」否定

(個人主義が主張した)「自己表現(自己主張:D2)、あるいは自己解釋(D1)といふのは、自分がさういふもの(C’化:自己全體化・自己主人公化・自己完成であるといふことを意味しない。ただ自分はさうありたい(願望D1⇒模倣D2)といふだけのことだ」(『批評家の手帖』P81)。

*恆存曰く、「チェーホフ劇は『獨り合點』(自己解釋:D1)を描いてゐる芝居」と。「『櫻の園』は喜劇」 (昭和四十三年、劇團昴稽古初日の演出の辯) だと。つまり、「手本⇒願望(自己解釋D1)⇒模倣D2⇒それに辻褄を合はせようとする(生甲斐=居心地の良さ=自己滿足D3)」、『獨り合點』(自己解釋D1)の喜劇なのだと。それを新劇團は、左派は左派なりに都合良く取り違へてゐると。(PP圖△枠參照:souaritaijiko.pdf へのリンク

*更に恆存曰く。「チェーホフはやや意識的にシェイクスピアの裏返しをもくろんだ」(參照:全五P76『批評家の手帖』)と。・・・この文は難解であるが、シェイクスピア悲劇の「宿命D1/自己劇化D2」の物まねに對するに、チェーホフは「自己劇化D2」抜きの、「手本⇒願望」の獨り合點(自己解釋D1)を描いてゐると言ふ事なのではなからうか、と小生は今の處判斷する。

この「手本⇒願望」で得られた妄想を自己解釋(D1)する事について、恆存はかく言ふ。

「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

*「人が自分について語る言葉(自己解釋:D1)ほど信用できぬものはない。それが信用できるなら、すなはち自己解釋(D1)に用ゐた言葉が當の自己を寫實してゐると信じられるなら、それならチェーホフの完璧な寫實を信じるがよい(何故なら「チェーホフの戯曲の登場人物はほとんどすべて自己解釋を行つてゐる。自己解釋に熱中し、劇の始めから終りまで自己解釋だけしかしてゐない」からだ)。が、チェーホフ自身はそれを信じてはゐなかつた」。何故なら「チェーホフも言葉をさういふもの(自己解釋D1&自己表現D2=寫實)とは受けとつてゐない」(P81上)からである。

〔チェーホフの「無執着(C)」〕

彼の、夢想(C)或いは

夢想的要素

彼の、夢想(C)を追ふ自己:個人的自我(B)

彼の、現實的常識(A)・集団的自我・・・(クリティックな場)

自己滿足(D3)・・・「それに辻褄を合はせようとする(生甲斐=居心地の良さ=自己滿足D3)」。

チェーホフ

「無執着」・「底意のない眼」。

トルストイの影響から脱した後の精神(B)の「空家(神不在)」。

医者としての實證精神(A)が持つ監視の眼。それと「空き家(神不在)」に堪へる個人的自我(B)の拮抗。即ち、精神の政治學ラインの最下降化。⇒PP圖「彼我の差右圖」と同一型。

*批評家や讀者が錯覺して、チェーホフの寫實の意味と方法を理解が出來なかつた事への「口邊に苦笑」。

チェーホフの寫實「在るがままに描いた」の對象は、「手本⇒願望(自己解釋D1)⇒模倣D2⇒それに辻褄を合はせようとする(生甲斐=居心地の良さ=自己滿足D3)」なのであり、いはゆるリアリズム作家がする樣な、精神(B)をA上(合理實證の世界)に移し、それを物として描いてゐるのではない、と言ふ事。

 

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