平成三十年八月三十日

〔福田恆存を讀む會〕

吉野櫻雲

 

 

西部邁・富岡幸一郎對談「ニヒリズムを超えて」をたたき臺にして「恆存のフィクション論」を考へる》

〔副題〕:PP圖で恆存(c)の思想(D1)を「形ある『物』にして見せる(Eの至大化)」。

 

《西部邁・富岡幸一郎對談「ニヒリズムを超えて」(『正論』1989年:昭和64年:5月号)より》

〔K.K氏:設問〕(上記對談をたたき臺にして)。

    「恆存のフィクション論」(天皇論)との相違。

    平成三十年にあつても恆存のフィクション(假説)論は通じるのか?

  「二人(西部・富岡)は、恆存の樣には、『人間・この劇的なるもの』とは捉へてゐないのでは?頭の中で『かのやうに』(假説)を理解してゐるのでは?恆存は生命力そのものと捉へてゐると思ふ」。

    「大自然」(C)について、日本人には良く理解が出來てゐないのでは?

    集團的自我(A)・個人的自我(B)及び二元論について。

 

 尚、小生は今囘時間的余裕が足りなく、充分な探究が出來なかつたのが殘念であります。當日迄、更なる探究が出來れば幸いであります。

 

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對談:P414

「福田さんはそこに命を賭けてという厳しさを求めているけれど・・」云々について・・・「命を賭けてという厳しさ」とは西部の誤讀に小生には思へる。恆存は「演戯」「お面をかぶる(役を演ずる・自己劇化)」のだと言つてゐるのである(以下參照)。

「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

*何役かを操る各場面でそこから発生する、關係と言ふ「眞實を生かすために一つのお面をかぶる(役を演ずる・自己劇化)」「演戯なしには人生は成り立たない。つまり假説なしには成り立たない」。「眞實といふのは、ひとつの關係の中にある。個々の實體よりはその關係の方が先に存在している。人生といふものは、關係(目上⇔目下・親⇔子・師⇔弟子・國⇔國民、等々)が眞實なんで、一生涯自分のおかれた關係の中でもつて動いてゐる。いろいろな關係を處理していき、それらの集積された關係がその人の生涯といふもの。それを私は演戯だといふ」「われわれがこしらへたものは、相對的であつて絶對ではないといふ原理をちやんと心得て、こいつを絶對化(假説の完璧化・築城の完璧化)しようといふ努力」。(單行本『生き甲斐といふ事』中、對談

「反近代につひて」P195 ・199)。

 

對談:P415

*富岡:「近代日本には超越(C)とか絶對(C)に對しての感性の訓練が全くないといふことがわかつた。つまり神學がない」について・・・そんな事は、恆存はとつくの昔(この對談:約三十年前)に、『絶對者の役割』(昭和三十二年著)で以下の樣に述べてゐる。

日本および日本人』〔難解又は重要文〕P284「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

*「かれらの中世も近世も近代も一つの歴史を形成してゐる(歴史の一貫性)からです。といふことは、かれらがいづれの時代にも共通の全體觀念(C神)を所有してゐるといふことです。(中略)かれらの神(C)は超自然(非相對)のものであり、實證科學(A‘⇒A)によつて、その存在證明を要求されるといふ脅威に出あひながら、最後にはその不在證明をなしえぬ實證科學を拒否できたからであります。

が、日本のばあひ、中世と近世とは、それぞれの時代に全体的觀念(C)の書きかへを要求されてきた。それどころか、戰前(天皇)と戰後(絶對者喪失)とでも、書きかへが必要とされたのであります〔參照文:「戰後の眼に見える絶對者喪失による相對主義の泥沼」(『日本および日本人』全三P198)〕。そんなところに傳統(D1)や歴史(C)の觀念が生じるわけがありません」(日本および日本人』全三P284)

 

 

對談:P416(天皇の問題)

*對するに、「完成せる統一體としての人格」論で考察する恆存の天皇觀

*富岡:P416ヨーロッパの深層にたいする感受性のない人間をつくり出したと。僕は日本の近代と近代化の問題點はそこにあると思つてゐます。(中略)天皇の問題なんかでも結局、僕はそこだと思ふんです」について・・・是も、そんな事(傍線)は、恆存はとつくの昔(この對談:これから約四十年前頃)に、『近代の宿命』『日本および日本人』他で以下の如く指摘してゐる。富岡は「本歌取り」を自分の説と錯覺してゐるやに思へる。

「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

*「天皇制によつて近代の確立が未熟に終つたなどといふのはまことにあやふやな觀念論である。むしろ日本の近代がさほど混亂を惹起せずにすんだのは、天皇制の支へがあつたからにほかならぬ。ぼくはその事實をもつて天皇制を擁護しようとするのではもちろんない。むしろそれゆゑにこそ天皇制の虚妄(絶對天皇制の虚妄)なることを立證したいのである」(『近代の宿命』全二P461)。

*「『絶對天皇制』(天皇の絶對C化)が一人の人間(相對界A)を『支配=被支配』(A)といふ二元論(相對A/絶對C)の假説において把へることを甚だ困難ならしめたからである。(中略)國家において天皇を長(をさ:C)とする一つの序列(集團的自我A)しかないとしたら、その序列からはみだした個人の生きる道(個人的自我:B⇒C)は全く鎖(とざ)されてしまふ(「宗權BCは國權Aを超える」が得られない)。が、極端に言へば、さういふ一元論の虚構(相對A界にある人間を絶對C化する事)を信じることによつて日本の近代は成立した(つまり下項で言ふ「西洋流の神Cに對抗し、それに牽制されて」の虚構)、この鎖國に慣らされた小さな島國の上に、たとへさうしてでもそれを成立せしめねばならなかつたのである」(『覺書』全一)。

・・・上文傍線は意味が深い。つまり、「一元論の虚構を信じること」とは、以下の謂ひを物語つてゐるのではなからうか。

*「絶對神(C)のない日本では、つねに相對(A)の世界の中で具體的な人格(A)に絶對者を求めようとする心理があるのではないか」(『西歐精神について』全四P222)。

「天皇は神であるといふとき、その神は、すでに日本流の神でもなければ(此處は重要である。「神道:八百萬の神C」ではなく、相對天皇Cの絶對C化、と恆存は見てゐるのである)、さうかといつてクリスト教的な神(C)でもありません。それが、無意識のうちに、西洋流の神(F)に對抗し、それに牽制されて(Fへのnot so called=Eの至小化)、なんとなく絶對者のやうな色彩をおびてきた(似而非:近代性=近代化適應異常)のであります。(中略)、(上述の)國家主義でもないものが超國家主義的相貌を呈してくる(似而非:近代性=近代化適應異常)。それと同樣に絶對者でもないもの(天皇)が、超絶的な風貌(似而非:近代性=近代化適應異常)を呈してくる(即ちクリスト教「絶對神」への適應異常)」(『日本および日本人』P194)。

*「明治になつて、絶對者(C)の思想(クリスト教精神)を根柢にひめた西洋の思想、文物、人間にぶつかつてみると、對抗上、どうしても絶對者(C)が必要になつてくる。しかも、日本にはそれがないから、なにか手近なものにそれを求めようとする。天皇制もそれですし、プロレタリアートもそれです。元來、絶對(C)ではないもの(相對物)を絶對と見なさうとする」(『日本および日本人』P194上)。參照圖「ハードウェア&ソフトウェア」「祓ひ清めて和に達する」

*「封建時代の日本人は絶對者といふ觀念(觀念上の絶對C)を、まつたく知らなかつた(つまり眼に見える絶對者としての「領主・お上」しか知らなかつた)のです。その反對に、西洋の封建時代は、絶對者の觀念(觀念上の絶對C=神)が徹底的に支配した時代であります。この二つの世界の封建制の差を無視(「彼我の差」喪失=對象との距離感の喪失=not so colled=Eの至小化)して、近代を語ることはできますまい」(『日本および日本人』P194)。

 

恆存の天皇觀と、「完成せる統一體としての人格」論 (注:天皇は絶對者Cにあらず⇒『近代の宿命』最終章)

「完成せる統一體としての人格」論で考察する恆存の天皇觀「 」内が恆存文。( )内は吉野注。  參照⇒PP圖:恆存の天皇觀と「完成せる統一體としての人格」論

 

    「ぼくにとつて問題なのはエゴイズム(A:相對)の處理なのですよ。個人のエゴイズム(A:

相對)といふのは、ときには國家( C’:上位的相對)の名において押さへなければならない。それなら國家( C’:上位的相對)のエゴイズム(A)といふのは何によつて押さへるかといふと、この原理は、天皇制(非絶對C=A相對)によつては出てこないだらう。日本の國家( C :上位的相對)のエゴイズム(A)を押さへるといふことは、天皇制(C’=非絶對C=A相對)からは出てこない。ぼくは天皇制を否定するんじやなくて、天皇制(C’=非絶對C=A相對)ともう一つ併存する何か(相對Aを超えたるものの何か=C)がなくちやいけない。絶對天皇制(相對Aの絶對C化)といふのは、どうもまづい(中略)西洋の旧約聖書の場合、もちろんセム族といふ一民族の所産で、その限界はあるけれども、とにかく世界創造、人間創造といふ普遍性(C)を持たせてゐる。ところが、日本の神話といふのは、日本列島(A:相對)、日本人の創造(A:相對)しか説明できない(普遍性Cがない)。だからクリスト教につけといふ意味じゃないけれど、やつぱりわれわれは、もう少し二重に生きる道(即ち、「完成せる統一體としての人格」論)を考へなくちやいけない。

天皇制( C =非絶對C=A相對)の必要と、それを超える――優位といふ意味ぢやなくて――他の原理(C)を立てなければならないんだけど、自由主義とか民主主義(近代化概念=相對界A)といふのではだめなんだ。(中略)。

『教皇無謬説』といふのがあるでせう、しかし、教皇(C’=非絶對C=A相對)は事實あやまちを犯してきましたよ。でも、それは地上教會(非絶對C=A相對)のあやまちだよ。たとへば、ジャンヌ・ダルクを魔女扱ひにした。その地上教會(非絶對C=A相對)のあやまちといふのは、後世の同じ地上教會(非絶對C=A相對)がなほすことができる。あるいは地上教會(非絶對C=A相對)は永遠に間違ひしつぱなしになるかもしれない。でも、それは天上教會(C)によつて裁かれる、といふことがある。

しかし、天皇が天上教會(C)なしの地上教會(非絶對C=A相對)の最高権威(即ち天上教會C代はり)とすると、ボロ(A:相對的行爲)を出すわけにはいかない。天上教會(C)のごとく振舞はなければいけない。そこに非常にむずかしさがあるし、ちょつとでもボロを見せれば、大正天皇が勅語をまるめてのぞいた(ボロA的行爲を見せた)といふと、もういけないんだ(絶對Cの相對A的堕落化)。かういふことをやつたら大變なことになつちやふ(天皇無謬Cの崩壊)。天皇(非絶對C=A相對)が絶對にボロ(A:相對的行爲)を出さずに濟むかといふ問題ですね(A相對が相對A的行爲を犯さずに濟むか)」(『文武兩道と死の哲學』:對談・三島由紀夫。昭和四十二年)(P119『滅びゆく日本へ』福田恆存の言葉)。

 

    「専制君主制と立憲君主制とを問はず、かつて貴族階級に擁せられてゐない君主といふもの

はなかつた。天皇の、あるいは一般に君主の、個人的人格は貴族階級によつて形づくられる。天皇は個人になり、個人として生きる場所を、いはば私たちにとつての社會(A)を、華族との交際のうちに見出す。あるいは私たちの社會はその尖端に位する華族(最上位の△枠)において天皇(C’)と接触し、さうすることによつて、天皇(C’)を國民生活(A)のうちに取入れる。それが正常な在り方といふものであらう」(『象徴天皇の宿命』麗評別)P122『滅びゆく日本へ』福田恆存の言葉)。參照⇒PP圖:恆存の天皇觀と「完成せる統一體としての人格」論  tennou.pdf へのリンク

    「日本語の神といふ言葉は西洋人のそれとは異り、絶對(C)的な唯一神を意味しはしない。さういふ抽

象性はないのだ。それはもつと具體的なものの比喩なのである。神とはそもそも最初から『神のごときもの』であり、『尋常(ヨノツネ)ならずすぐれたる徳(コト)のありて可畏(カシコ)き物を迦微(カミ)とは云(イフ)なり』(本居宣長)で、日本人は人間が神になることを少しもをかしいとは思つてゐないのだ。神は私たち人間から隔絶されたものでもなく、人間を拒絶し裁くものでもなく、私たち人間がそれに感情移入できるもの、あへていへばそのためのものだつたのである」(『象徴天皇の宿命』麗評別)P122『滅びゆく日本へ』福田恆存の言葉)。

 

・・・上記①②③とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして、上記①②③を統合して考察すると、以下の樣に小生には捉へることが出來る(但し、小生は神道には明るくない)。

*相對界(A)に於ける、貴族(小△枠)と「頂點天皇C’」の設定化。そして、それを超えたるものとして、絶對・全體(C)概念としての天照大神・八百萬の神」。つまり上文①②は、天皇(C’)・「天照大神・八百萬の神(C)」を、二元論的に「完成せる統一體としての人格」論で、恆存は捉へようとしてゐる様に小生には思へる。即ち、一元論的な「神道」の神を、二元論的な場所に位置附けんとしてゐると思へるのである。唯この邊は洵に重要ではあるが、現在の處、考察するに時間がなく、今後更なる探究を必要とする部分である。(參照⇒PP圖:恆存の天皇觀と「完成せる統一體としての人格」論tennou.pdf へのリンク)。

 話を戻すが、その捉へんとしてゐる理由として、以下枠文が反面教師(「一元論の虚構」)として、浮かび上がつて來る(特に傍線部分が重要である)。

「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

*「國家において天皇を長(をさ)とする一つの序列(集團的自我A)しかないとしたら、その序列からはみだした個人の生きる道(個人的自我B⇒C)は全く鎖(とざ)されてしまふ(「宗權BCは國權Aを超える」が得られない)。が、極端に言へば、さういふ一元論の虚構(天皇は神であるといふ事)を信じることによつて日本の近代は成立した、この鎖國に慣らされた小さな島國の上に、たとへさうしてでもそれを成立せしめねばならなかつたのである」(『覺書』全一)。

*「天皇は神であるといふとき、その神は、すでに日本流の神でもなければ(此處は重要である。天皇は「神道:八百萬の神」ではないと、恆存は見てゐるのである。上文の「一元論の虚構」だと)、さうかといつてクリスト教的な神(C)でもありません。それが、無意識のうちに、西洋流の神(F)に對抗し、それに牽制されて(Fへのnot so called=Eの至小化)、なんとなく絶對者のやうな色彩をおびてきた(似而非:近代性=近代化適應異常)のであります。(中略)、國家主義でもないものが超國家主義的相貌を呈してくる(似而非:近代性=近代化適應異常)。それと同樣に絶對者でもないもの(天皇)が、超絶的な風貌(似而非:近代性=近代化適應異常)を呈してくる(即ちクリスト教「絶對神」への適應異常)」(『日本および日本人』P194上)。參照圖「ハードウェア&ソフトウェア」

 

P423

*富岡:「福田恆存はそれ(三島の死)を横目でずつと見ながら安楽椅子(「安楽椅子のペシミスト」文の)に座つてゐたわけで(笑)」について・・・恆存は「横目でずつと見ながら安楽椅子に座つてゐたわけで」はない。三島の死の五~六年後、恆存はある講演(「學生文化会議」主催)で、「三島は自己を近代化することができなかつたから死んだのだ」、と言ふそのやうな發言があつた。

*富岡:「福田恆存の位置にとどまるんでもちょつと前進がない」について・・・この考察には、恆存のフィクション論の最終的結實「完成せる統一體としての人格」論迄には行き届いてゐない、富岡の(西部も)「考察不足」があるやに小生には讀み取れるのである。(冒頭設問①②④⑤と關聯する)。富岡はかうした言を殘したにも拘わらず、没後十年(當對談十五年後?)の「福田恆存を偲ぶ:第一囘シンポジウム」で、壇上に挙がつているのは、どう言ふ事か。小生には解せない處である。勿論「前進がない」などと言ふ失礼な言は殘してゐないが・・。

 

P424

*富岡:「“かのやうに”では日本人の魂は支へきれないんじやないかといふ氣がしますね」について・・・恆存は、個人主義(西歐近代自我)の限界からの脱皮として、「完成せる統一體としての人格」論を我々に提示したのである(參照⇒PP圖)。其處で「かのやうに」(フィクション・假説)論を説き、「日本人の魂を支へる」ものとして、「全體」(時間的全體・空間的全體:C)を以下の樣に展開してゐるのである。やはり此處にも富岡(西部も)の讀解力不足を小生は感じざるを得ない。

拙發表文:《遠藤浩一氏著「福田恆存と三島由紀夫『戰後』」を讀む》から

*國民の一人、公務員の一人、家族の一人といふ何役かを操る自分の中の集團的自己をひとつの堅固なフィクションとしての統一體たらしめる原動力は何かといふ事である。それは純粋な個人的自己であり、それがもし過去の歴史と大自然の生命力(時間的全體・空間的全體:小生注)に繋つてゐなければ、人格は崩壊する。現代の人間に最も欠けているものはその明確な意識ではないか」(全集六P703~4 『覺書』)と。

   そして恆存は、「かのやうに」(フィクション・假説)を「科學的見地・鷗外」との差異を含めて以下の樣に説明してゐる。

〔全六『覺書』(P702~3)より〕

科學的見地

恆存

鷗外

ヒポテジス(假説)

證明(檢證)

「ヒポテジスは事實を證しするためにのみ用ゐられる」

 

事實

フィクション(假説)

 ↓

證明(檢證)不要

「『かのやうに』、すなはち私の言ふ『フイクション』は證明される必要はない

フイクションは虚像ではない、堅固な建造物である。フイクションに適應し、これを維持しようといふ努力は人格を形成する」・「國家もフイクション・人格もフイクション、勿論『拵へ物』の意味ではない、『拵へ物』には違ひないが『創造物』であり『建造物』である」。そして故に、神、義務、国家、神話、歴史、「その他等々の『假説』(D1C”)は全て事實であり、實在なのである」。

「かのやうに」

證明(檢證)不要

「『かのやうに』、すなはち私の言ふ『フイクション』は證明される必要はない

「神が事實でない。義務が事實でない

 

*設問③の「恆存は生命力そのものと捉へてゐると思ふ」について・・・小生思ふらく、恆存の「關係論」そのものが「人間・この劇的なるもの」(ダイナミズム的生命力)を示しているのではなからうか、と。唯この邊も充分なる探究が未だ出來てゐない。「讀む會」當日迄に補足できればとの思いである。尚、この「人間・この劇的なるもの」(ダイナミズム的生命力)を髣髴させる文章として以下三枠文を挙げて、一應の補足とさせて戴く。

『人間・この劇的なるもの』「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

「祭日(F)とその儀式(E)は、人間が自然(C空間的全體)の生理(D1關係)と合致して生きる瞬間を、すなはち日常生活では得られぬ生の充實の瞬間を、演出しようとする欲望から生れたものであり、それを可能(Eの至大化)にするための型(E)なのである。私たちが型(E)に頼らなければ生の充實をはかりえぬのは、既に私たち以前に、自然(C)が型(E)によつて動いてゐたからにほかならぬ。生命が周期をもつた型(E)であると云ふ概念を、私たちは、ほかならぬ自然(C)から學び知つたのだ。自然(C)の生成に必然の型(E)があればこそ、私たちはそれにくりかへし慣れ、習熟することが出來る。そして偶然に支配されがちの無意味で不必要な行動から解放される。何故なら、型(E)にしたがつた行動(Eの至大化)は、その一區切り一區切りが必然であり、それぞれが他に從屬しながら、然もそれぞれがみづから目的と成る。一つの行動が他の行動にとつて、たんなる前提と成り、手段と成るやうな日常的因果關係のなかでは、そのときどきの判斷によつて採用された行動は、たいてい無意味で不必要な結果に終る。個人の判斷が、その必然性の一貫にどれほど緻密な計量をはたらかせようとも、それは殆どつねに偶然の手にゆだねられる」。⇒參照圖「自然とリズムの關係」

*「祭日とその儀式は、人間が自然の生理と合致して生きる瞬間を、すなはち日常生活では得られぬ生の充實の瞬間を、演出しやうとする欲望から生れたものであり」( 『人間・この劇的なるもの』)⇒參照圖「自然とリズムの關係」

「儀式(E)は元來、個人を沒却する場でなければならぬ。人間が個人であることをやめて、生命の最も根源的なるもの(即ち全體C)に歸つていくための通路であつたはずだ」(〔難解又は重要文〕:P588下)

⇒參照圖「自然とリズムの關係」

 

拙發表文《恆存の「實在感」についての考察》:抜粋「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

〔實在感獲得のプロセスを簡略して書くとかうなる〕

①「動作や作用、さらに人間の抽象的な營みを名詞化しようといふする働き」。或は「So called(いはゆる・・)」「フレイジング(役者の場合)」、即ち「與へられら條件の中にある自分の肉體と、それを客體として味はふことによつて、その條件のそとに出ようとする意識」。

②其處に介在する「一人二役」性。・・・動作する(行動する・生きる)自己と、それを見る(味はふ)自己。

③「一人二役」には自ずと意識の集中強烈化が必要となる。

④意識の集中強烈化の効果的實行により「意識は、平面を横ばひする歴史(過去・現在・未來といふ時間的繼續)といふものに垂直に交はる」。即ち垂直交叉して「部分(現在)を部分として明確にとらへる」事が可能となる。

  ↓

集中強烈化により、「意識的に部分(現在)としての自己を味はひ尽くす課程において、全體感(時間的全體感)が象徴的に甦る」。何故ならば「過去と未來とから切り放たれた現在だけが、過去・現在・未來といふ全體の象徴として存在してゐる」からである。「前後に暗黒があればこそ、その間の時間を光として感じることができる」即ち「意識は過去・現在・未來の全體を眺めわたせる地位にありながら、しかも限られた枠のなかだけしか見ようとしないから、その間の時間の経過を強烈に味はふことができる」P532~3のである。

 ↓

⑥さうした「時間的全體感」の獲得により、「(自分の肉體からそつと足をぬいて)上に脱け出た意識は、足下の現實が時々刻々に動いてゐることを(まざまざと)實感」(P532~3)する。即ち「實在感」が其處に成立する。

即ち、動くと同時に見る(或は生きると同時に味はふ)と言ふ「一人二役」が形成する、「時間的全體感(實在感)」の

 

拙發表文《恆存の「型・儀式」に關する考へ方》:抜粋「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

恆存は、「全體:C」或は「共同體:C”」と言ふ場との關係に對する、「型・儀式(E)」の役割をかう語つてゐる。

*「型にしたがつた行動は、行動をそれ自體として純粋に味はひうるやうにしむけてくれる。そのときにおいてのみ、私たちは、すべてがとめどない因果のなかに埋れた日常生活の、末梢的な部分品としての存在から脱却し、それ自身において完全な、生命そのものの根源(全體)につながることができるのだ」(參照:『人間・この劇的なるもの』最終章)。

*人間が平生、「自己のうちで全體と調和しかねて」、それが爲に「生理的には必然かもしれぬが、倫理的には偶然な事故にしかすぎぬ死(即ち全體感、實在感缺如の緩慢的死)」なるものに晒され「倦み疲れてゐる」時、かかる「無際限な平板さから」「まぬかれ、生の充實感にひたるため」に、儀式こそは「その方式であり型」となり得るのである(『人間・この劇的なるもの』前部からの要略)。

 

上文及びその他評論の幾つかから察するに、恆存は、「型にしたがつた行動」即ち「型・儀式」なるものを、全體(C)或は共同體(C”)と言ふ「場との關係を適應正常化」させる機能を持つものと捉へてゐるやうだ。その事を分かりやすく書くと以下の樣になる。(參照「讀む會テキスト:補」3頁右圖)

型にしたがつた行動⇒「行動をそれ自體として純粋に味はひうるやうにしむけてくれる」⇒言葉(物)との距離の至大化(Eの至大化)⇒場との關係を適應正常化(場に沈湎してゐる日常性からの解放:D1の至大化)⇒①場(全體・共同體)に對してなすべきことをしてゐると言ふ「必然感」の獲得。②場(全體或は國・町・家族等共同體)と有機的に繋がつてゐると言ふ「全體感」の獲得。⇒結果として生の充實感(實在感)の成立。

 

何故「場との關係を適應正常化」させる事になるかと言へば、「型にしたがつた行動」即ち「行動をそれ自體として純粋に味はひうるやうにしむけてくれる(=Eの至大化)」行爲に内在する以下枠文の働き、即ち「名詞化しようとする働き(=言葉との距離の至大化:Eの至大化)」がその効果を發揮するのである。その効果性が人間を、場に沈湎してゐる日常性から解放させて呉れる(D1の至大化)。重要な點は、「行動をそれ自體として純粋に味はふ」事が、自分と言葉(物)との距離の至大化(Eの至大化)を形成すると言ふ點なのである。

「そもそも動作や作用、さらに人間の抽象的な營みを名詞化しようといふ働きそのものが、主體である自分を對象から分離し、距離をつくらうとする衝動なのです」(全三P204『日本および日本人』)

 

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