平成三十年五月二十四日豫定

〔福田恆存を讀む會〕


『新漢語の問題』:P462文

吉野櫻雲

先日電話で伺ひました、【『新漢語の問題』P462文(以下表:左項)に於ける、下記ご質問①②への、小生が考へられる答へ的な參考資料は、以下表「中央・右」項目の通りであります。

①「人間恢復」の具體的方法。
②恆存はせりふ劇にどう言ふ事を期待してゐたのか。

 尚、以下表の文(左・中央・右)は、全般的に過去の「拙發表文」からのコピーです。參照圖(PP圖)につきましては、以前お渡ししたものを利用しますのでご持參下さい
 

それから、下欄に補足的テーマとして、以下レジュメも載せてあります。ついでにご高覽下さい。

《「現代日本人の非倫理的性格」B⇒C:縱軸缺如)禍して一元論的エゴイズムAA’:横軸)を招來した》

  兩レジュメとも推敲が足りないところがありますが、お許しの程を。

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 左項の『新漢語の問題』の「P462」文は、三年前の評論『醒めて踊れ』(中央項P393)文を言ひ換へたものと小生には理解出來る。

【『新漢語の問題』――近代化試論

昭和五十四年十一月刊)】:六十八歳

『醒めて踊れ』他

 

小生の纏め的見解(拙發表文から)

全七P462「言葉(F)に對する適應異常(Eの至小化)こそ近代化失敗(D1の至小化)の末期症状である。それを克服する以外に、思考力の衰退や道徳觀の頽廢(右項2參照)を食ひ止め、人間恢復への緒を見出す方法は他にあるまい」。

 

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P459「それが出來なかつたのは近代戰(F)といふハードウェアに對應するソフトウェアの近代化(Eの至大化=精神の近代化=so called)が出來てゐなかつたからである」「精神の近代化」の缺如。

P459「(ハードウェア)を處理する手段、方法、組織としてのソフトウェアを有機的に機能せしめる(Eの至大化=so called)段になると、吾々は今日まで常に適應異常(Eの至小化=D1の至小化)を起し續けてきた」。

P461「言葉(F)が文化(D1)を支へ、思考力(E)や道徳(E)や人格(D1教養)を支へ(Eの至大化によつて)、その崩壊を食ひ止め得る唯一の財産だといふ自覺の切掛けすら持たぬ人達が多くなつたからである。なほ始末の悪い事に、さういふ人達が自分にも意味不明な死語(Eの至小化によるF)に近い新漢語や外來語を操りながら、しかもそれを死語と自覺せずに物を書き、それを生業とする傾向がひどくなつて來た。これもまた『言論の自由』(F)といふ近代的概念(F)に對する適應異常(Eの至小化)の一種である」。

*「文化(D1)の根柢は言葉(Fそして言葉の型である「E=正統表記=正假名正漢字」)にある事に氣附いてゐる人が餘りにも少ない。なぜにさうなつたかと言へば、戰後の國語國字改惡(Eの至小化)が徹底した結果、言葉(F)が文化(D1)を支へ、思考力や道徳や人格(いずれもEの至大化)を支へ、その崩壊を食ひ止め得る唯一の財産だといふ自覺の切掛けすら持たぬ人達が多くなつたからである。」(『新漢語の問題』全七P461)。

『醒めて踊れ』全七P393上

昭和五十一年:六十五歳

*「近代化(實在物:D1)の必要條件は技術や社會制度(潜在的言葉:F)など、所謂『ハードウェア』のメカナイゼーション(F機械化)、システマライゼーション(F組織化)、コンフォーマライゼーション(F劃一化)、ラショナライゼーション(F合理化)等々の所謂近代化(潜在的言葉:F)に對處する精神の政治學(Eの至大化)の確立、即ち所謂『ソフトウェア』の適應能力(Eの至大化・ 附合ひ方・So called )にある。 マルクスの言ふ疎外は何も資本主義社會特有のものではなく、共産主義社會、全体主義社會にも生ずるものであり、また有史以來その度を増して來たものである。それ(近代化D1)に對應する方法は言葉や概念(F)に囚れず、逆にこれを利用すること、即ち言葉の用法(E)にすべてが懸つてゐる(言葉の自己所有化?)。自分と言葉との距離が測定(Eの測定=Eの至大化)出來ぬ人間は近代人ではない。いや人間ではない」。

 

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②恆存はせりふ劇にどう言ふ事を期待してゐたのか。・・・

 

『せりふと動き』昭和五十二年

*場面から生ずる、「關係(D1:心の動き)を形のある『物』(E)として見せるのがせりふ(F)の力學」(『せりふと動き』)・・・

(E)フレイジング・So called 」で言葉(F:せりふ)と自己との距離を、「形ある『物』にして把握し、それを目に見える樣に見せる(E)」(=適應正常)ことによつて、場との関係(D1)をそこに具現するといふことに。即ち、話し手の心とせりふの字面との「距離(E)」の長短を測定し、長短の表現(言葉の用法)で關係性を表す。といふことに。

 別な言ひ方をすれば、せりふの力学(距離の長短操作=フレイジング・So called)で、心の動き(関係)を的確に把握(適應正常化)すると言ふ事である。

 要するに、「場との関係と言ふ実在物(D1)を潜在物であるせりふ(言葉(F))を使ひ、そのしゃべり方(E:せりふ廻し・フレイジング・So called) で形化して見せる」と言ふことに他ならない。「なぜなら關係と称する実在物は潜在的には一つのせりふ(問答・対話・独白)によつて表し得るものだから」。

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全七P300『せりふと動き』より「 」内が恆存文。( )内は吉野注。傍線部は吉野加筆説明。

*場( 西歐C’)から生ずる、「關係(D1)と稱する實在物(近代化=ハードウェア)は、潜在的には一つのせりふ(F:技術や社會制度的言葉、即ち機械化・組織化・劃一化・合理化等々のハードウェア)によつて表し得る」。

故にその言葉(F)との附合ひ方(ソフトウェア「フレイジング・So called」の適應能力:E)即ち「言葉の用法」「自分と言葉との距離測定」によつて、人間は場との關係の適應正常化(D1の非沈湎)が叶へられる、と言ふ事になる。即ち「Eの至大化(適正化)=D1の至大化(適應正常化・非沈湎)」と言ふ事になる

場面(C’)から關係(D1)として生ずる「心の動き(D1)を形のある『物』として見せる(Eの至大化)のがせりふの力學(フレイジング:E)」(『せりふと動き』)。

*「すべてのせりふ(F)において、それ自体の意味内容より関係(D1)の方が先行するといふ事、觀客に見せなければならぬのは、何よりもその關係(D1)なのだといふ事」(P318『せりふと動き』)。

*「大事なことはまず相手に掛かつてゐるせりふ(F)一つ一つに鉤を付け、その都度、それを自分の心に引掛けながら言ふ(フレイジング:Eの至大化)、それは必ず動きや姿勢に出る筈のものです(中略)『何(F)を喋るか』ではなく『なぜ(D1)喋るのか』の『なぜD1』を『何F』の裏に見せてくれてこそ芝居の面白味があるのです」(參照戯曲場面:p320上~321『せりふと動き」』)。

 

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シェイクスピア劇のせりふ全集第七巻昭和五十二年十月刊:六十六歳)

 

せりふ(F)は語られてゐる意味の傳達を目的とするものではない。一定状況の下(場面C’)において、それを支配し、それに支配されてゐる(D1:宿命・關係)人物の意志や動きを表情や仕草と同じく形のある『物』として表出する事(Eの至大化)、それが目的であり、意味の傳達はその爲の手段に過ぎぬ」P345)

形骸化した和について:まへがき的補足

〔型喪失(形骸化した和)による、二種の「not so colled(Eの至小化)」とその末路〕

*近代化適應異常が齎した文化衰退、換言すれば自國の「歴史(C)への適應異常」(D1の至小化)は、型喪失(形骸化した和:Eの至小化)と言ふ、以下二項目の「not so colled(Eの至小化)」を招いた。

1.和」最優先による、「近代化諸概念」(言論の自由F・理念論爭F・政策論爭F・間接民主制選擧F)へのnot so colled 。⇒「更なる近代的適應異常(D1の至小化)」。

2和」最優先による、「非文化的諸概念」(F:既成概念的和・なあなあ・自己欺瞞・不正(不法)・非倫理・不道義・情治(非法治)等)へのnot so colled。⇒「更なる文化衰退(野蠻化=非近代化:D1の至小化)」。⇒「現代日本人の非倫理的性格」の更進。

 

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*何故日本は、近代化の技術や社會制度としての「資本主義化・民主主義化・個人主義化」「機械化・組織化・劃一化・合理化」等々を選擇するのか。西歐(二元論文化)が近代でそれら概念に客體化して見せた「神に型どれる人間の概念の探究」「神の解體と變形と抽象化」を、日本も「形ある『物』として(それら新漢語の裏に)見せる」と言ふ事が「so called」なのである。であるから、日本は「二元論思考」が是が非にも必要、と言ふ事になる。(拙發表文『シェイクスピア劇のせりふ』より)。

 

西歐が近代で「自然主義」(新漢語)に客體化して見せた「神に型どれる人間の概念の探究」を、やはり明治日本も近代化を移植するに當たつて、同じく「形ある物として(日本自然主義の裏に)見せる」必要があつた。その藝當が「ソフトウェア」としての「So called」なのである。が、現實的可能性としてはそれが出來なかつた。「觀念論⇒唯物論」経緯の不理解は勿論の事、それが故に「自然主義」を單なる「寫實」としてしか移植出來なかつたのである。恆存流に言へば、上記「ハードウェア」に對する精神の政治學としての「ソフトウェア」を持つ事が出來なかつた事にそれは繋がり、此處に西歐近代への文學上「適應異常」が明確に示されていると言へるのである。そして更にそれは今日も(P535上:最終文も同意)と、言ふ事に。(參照:『醒めて踊れ』・『せりふと動き』)

 

*西歐(場C”)との關係(宿命D1)として齎された「近代化D1」への適應を、新漢語・外來語(F)の用法( E:so called)で、適應正常的關係に「形

ある『物』として見せる」(Eの至大化)。それがハードウェアとしての近代化(D1及びF:機械化・組織化・劃一化・合理化等々)に對するソフトウェア( 精神の政治學)としての對處方法なのであると。

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論爭のすすめ

*「その術が磨かれてゐるところでは、對象(場?)と言葉と、さらにそれを用ゐる自分との距離が明確に意識されてゐる(Eの至大化*)から、僞善的正義感をそれと意識せずに口にすることはないであらう」と。それを別の表現に言ひ直すと、「So called」と言ふ、言葉との距離測定能力の確立が出來てゐる(Eの至大化)と同時に、關係形のある『物』として見せるせりふの力学(言葉の使ひ方)(Eの至大化)が出來てゐるなら、と言ひ換へることが可能である。同じ事を更にかう言ふ風にも恆存は表現してゐる。「言葉に定義は不要であり、用法しか無いとしても、その用法に集中力があれば(Eの至大化)、定義せずとも概念の内包、外延に亂れは生じない」(全七P391『醒めて踊れ』)と。〔*(Eの至大化)については「讀む會:テキストP12圖」をご參照の程〕
 以上、三文章の傍線部分に注意し考察すると、「言葉の使ひ方を完成する術」とは、かう言ふことになるのでは。
 So called」で言葉との距離測定を確立し、その上で「ディアレクティック(辧證法・問答法)・レトリック(修辭學)」を驅使して、場との關係を「形のある『物』として見せる」樣に話す事。それが取りも直さず「言葉の使ひ方を完成する術」と言ふことになるのでは。
  さうした言葉の使ひ方の「完成を期す」(P258下)事で、「たがひに自分の方が眞になる事を證明しあふ」可能性としての、論爭の意義(論爭のすすめ』)を恆存は此處に提示するのである。

 



補足的テーマ

《「現代日本人の非倫理的性格」B⇒C:縱軸缺如)禍して一元論的エゴイズムAA’:横軸)を招來した》

 “だから、かかる政治家や知識人、メディア人種がどんな「御託」を述べようが、所詮は「非倫理的性格」B⇒C:縱軸缺如)が構成する、一元論的エゴイズムAA’:横軸)でしかないのだ”と小生には思へる。

 

〔副題〕第?彈:PP圖で恆存(C)の思想(D1)を「形ある『物』にして見せる(Eの至大化)」。

 

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 〔恆存の言ふ現代日本人の非倫理的性格」とは〕

拙發表文:『日本および日本人』全三P198から

*評論『日本および日本人』を精讀するに、「現代日本人の非倫理的性格」は、以下原因から發生してゐるのであると今囘、解り得た・・・

(戰後の眼に見える絶對者喪失による)相對主義の泥沼」+(戰後、日本文化D1の衰退による)美感・美意識と言ふ型Eの摩耗・喪失化」=「現代日本人の非倫理的性格」(全三P78『個人と社會』)。

以上を鑑み、そして更に以下枠文(・・・)を引用かつ考察するに、現代日本人の非倫理的性格」とは、畢竟「エゴイズム」に逢着するのだと思はざるを得ない

現代日本人の非倫理的性格」の原因である相對主義・文化衰退・型(美意識)喪失は、換言すると一元論と言ふ「横軸:AA’」を示す。つまり「B(精神)⇒C(神・全體)」・「C(神・全體)⇒D1(神意・天命=倫理)」と言ふ、縦軸(二元論)を失つてゐるのである。  

是をやはり式化するとかうなる。

*絶對者の觀念(B⇒C)缺如+倫理(C⇒D1神意・天命)代役の美意識(型E)喪失=「一元論・相對主義横軸:AA’)の泥沼

この「横軸:AA’」(別称:目糞鼻糞を笑ふ)こそが、エゴイズムの特質的形態と言へる。

であるから、相對主義・文化衰退・型(美意識)喪失を温床とする現代日本人の非倫理的性格」と、エゴイズム同じ穴「横軸:AA’」の狢と想定出來る。即ちこの二つは「AA’」なる概念を共有するのである。

かくして「一元論・相對主義AA’)の泥沼では、どう藻搔かうとも、「AA’」のエゴイズムからの脱皮は出來ない。現代日本人の非倫理的性格」から發生する思考は、とどのつまり、以下②文の「どんな思想も主張も(平和の主張も)、たとへそれが全世界を救ふやうな看板をかかげてゐても、所詮はエゴイズム(AA’)にすぎない」となり、それが爲に「いかなる道義も倫理(B⇒C・C⇒D1)もなりたたず、それはなにをしてもいいし、なにをしなくてもいいのだ」(⑥文で言ふAA’の泥沼)に結着してしまふ。是を「現代の宿命」と日本人は肝に銘ずべしなのである。

恆存評論から「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

「なにが惡でも、なにが善でもないといふ現代日本人の非倫理的性格(相對主義AA’)――私の仕事のすべてはその究明に集中されてきたといつていい。平和問題も、この日本人の非倫理的性格(相對主義AA’)から發してゐるのです。(中略)平和(AA’)といふことの華やかなことばのかげには倫理(C)の陰翳がすこしもない(即ち相對主義:AA’の世界の話と言ふこと)。ただ命が大事だといふだけです。こつちの命が大事なら向うの命も大事です(AA’)。向うも生き殘るつもりでやつてゐる。なにをかいはんやであります。個人の生命より大事なものはない(生命第一主義)といふ生きかたは、究極には自他のエゴイズム(AA’)を容認することになる。個人が死ぬにたるもの(C)がなくては、個人の生(AB)の喜びすらないのです。相對主義の考へかた(個人の生命より大事なものはないといふ生きかた)では、どうしても、そこ(自他のエゴイズム:AA’を容認すること)から脱け出られません。それ(相對主義の考へかた)が積極的な理想にまで高まるには、個人倫理の絶對性(BC)と相ふれなければならぬのです。(中略)さらにまづいのは倫理感の稀薄さ(BC缺如即ちAA’)と平和論(相對主義AA’)がなれあひ(同じ穴の狢)になるといふ事實です。」(全三P78『個人と社會』)。

「超自然の絶對者(C)といふ觀念のないところ(相對主義AA’:一元論)ではどんな思想も主張も(平和の主張も)、たとへそれが全世界を救ふやうな看板をかかげてゐても、所詮はエゴイズム(AA’)にすぎない」〔つまり一國平和主義と生命第一主義は同じ穴(エゴイズムAA’)の狢だと〕(『日本および日本人』全三P198)

③「神(超自然の絶對者(C)といふ觀念)なくして個人の權利(エゴイズム:AA’)を主張しえない。それをあへてなすことは惡徳である」(『近代の宿命』全二P463)。

「祓ひ清めること(儀式E)によつて、その支配下から脱するといふ態度からは、いかなる科學(實證精神:A⇒A)も發達しなかつたのですが、同樣に、エゴイズム(A)を醜しとして却け、それを祓ひ清めて和に達する(儀式E:美的潔癖⇒和)といふ態度(非實證精神・非客體化的行爲:NOT「A⇒A」)から、道德(B)の問題も、社會(A⇒A:客體化)の問題も発生する餘地はありませんでした」『日本および日本人』全三P181)

⑤「日本人の道徳觀の根柢は美感。(中略)『汚れてゐない』といふ『醜惡の缺如状態』が積極的な最高の美にもなりうる」(P175上)

⑥[人間關係(D1)を規制する倫理感(B)も、つまりはこの潔癖の美學(Eの至大化)によつて支配されてゐる(本來Bである倫理感をF化した)のです。『みえ』(潔癖の美學=E)もそこから生じたものです。したがつて、強い自我意識(Bの對立としてのA)といふものが形成されにくい状態(非人格性)にある」(187上

恆存はかく言ふ。 

相對を絶した「觀念上の絶對(C)」を持たぬ日本人、即ち「理想人間像(C)のないぼくたちはどんな人間になつてもいいのである、どんな生きかたをしようと大した問題ではない」(『私小説的現實について』全一P574)と。

・・・「自然的な、物質的な、あるいは肉體的な慾望(いずれもA領域の相對主義的慾望)の充足を求め、しかもそれ(相對物)以外のなにものをも慾求しない個體(即ち相對主義の泥沼)にとつて、いかなる道義も倫理(B⇒C)もなりたたず、それはなにをしてもいいし、なにをしなくてもいいのだ」(全二P472『理想人間像について』)と。「要するに、負けなければいい、死ななければいい、行きづまらなければいい(いずれも相對的概念)――さういふことになります」(全三P75『個人と社會』)。「理想人間像(C)のないぼくたち(否定因を持たぬ相對主義的人間)はどんな人間になつてもいいのである、どんな生きかたをしようと大した問題ではないのである」(『私小説的現實について』全一P574)と。

「理想人間像(C)をもたぬといふこと(BC缺如)――この事實こそぼくたち近代日本人の悲劇であり、それをぼくたちが一日も早く悟ること以外に、この悲劇からの抜け道はありえない。       理想人間像(C)のないぼくたち(否定因を持たぬ相對主義的人間)はどんな人間になつてもいいのである、どんな生きかたをしようと大した問題ではないのである、それが社會に迷惑をおよぼさぬかぎりは。それがすなほに國家主義にも共産主義にもついてゆく――」(『私小説的現實について』P574上)。

 

先述の所詮はエゴイズム(AA’)」にならぬ爲には、恆存は以下枠文の關門を潜る事(「個人倫理の絶對性(BC)と相ふれなければならぬ」)が必要だと言ふのである。「それをぼくたちが一日も早く悟ること以外に、この悲劇からの抜け道はありえない」(上文⑦)のだと・・。

 

①文:「それ(相對主義の考へかた)が積極的な理想にまで高まるには、個人倫理の絶對性(BC)と相ふれなければならぬのです」(全三P78『個人と社會』)

②文:「超自然の絶對者(C)といふ觀念(B⇒C)のないところ(相對主義AA’:一元論)では、どんな思想も主張も(平和の主張も)、たとへそれが全世界を救ふやうな看板をかかげてゐても、所詮はエゴイズム(AA’)にすぎない」〔つまり一國平和主義と生命第一主義は同じ穴(エゴイズムAA’)の狢だと〕(『日本および日本人』全三P198)。

③文:「神(超自然の絶對者といふ觀念:B⇒C)なくして個人の權利(エゴイズム:AA’)を主張しえない。それをあへてなすことは惡徳である」(『近代の宿命』全二P463)。

⑧文:「理想人間像(C)をもたぬといふこと(B⇒C・C⇒D1:缺如)――この事實こそぼくたち近代日本人の悲劇であり、それをぼくたちが一日も早く悟ること以外に、この悲劇からの抜け道はありえない」(『私小説的現實について』P574上)。

 

 是等上文を言ひ換へると、現代日本人は一元論「横軸:AA’」から立ち上がり、「絶對・相對」等の二元論「縱軸:(B⇒C・C⇒D1)」を構築するべきなのだと、小生には受け取れる。更に先走りして言ふと、その理論的構築(日本的二元論)が、つまりは「完成せる統一體としての人格」論(全集六『覺書』)なのだと推察できるのであるが・・。

話を戻すが、では現代日本人の非倫理的性格」が内包する相對主義・非文化=型(美意識)喪失、要するに一元論「横軸:AA’」は、上文の個人倫理の絶對性(BC)と相ふれなければならぬ」の属性(西歐の近代化:關門)とも言へる以下項目を、果たして、充分に檢證し得てゐるのであらうか。

*「神超自然の絶對者といふ觀念:B⇒Cを象れる概念の探究」をなし得てゐるや否や。

*「神超自然の絶對者といふ觀念:B⇒Cの解體と變形と抽象化」をなし得てゐるや否や。

*以下のDHロレンスの二元的愛はどうか。

・・・「吾々は生きて肉(A)のうちにあり、また生々たる實體をもつたコスモス(C)の一部であるといふ歡喜に陶酔すべきではなからうか」「吾々の欲することは、虚僞の非有機的な結合を、殊に金錢と相つらなる結合を打ち毀し、コスモス、日輪、大地との結合(C)、人類、國民、家族との生きた有機的な結合(A)をふたゝびこの世に打ち樹てることにある。まづ日輪と(C)共に始めよ、さうすればほかのことは徐々に、徐々に繼起してくるであらう」(『アポカリプス論』最終章)。ロレンスは「愛は迂路をとらねばならぬ」と言ひ、「その迂路をば宇宙の根源(コスモス:C)を通じること」とロレンスが主張したに對し、恆存は「全體・絶對:C」と言ふに留め、何を選擇するかを各自の判斷に委ねた。尚、「完成せる統一體としての人格」論は「全集六P703~4『覺書』」を纏めての小生の用語である。

*以下『ハムレット』劇上、「叔父ダンカン」のせりふ(カトリック的)發想はどうか。

・・・「この世(A)の事は、金の鍍金を施せば片が附く。だが天(C)ではさうはいかぬ。全てはお見通しだ・・」(『ハムレット』から:譯文概略)。

 答へは勿論「否」なのである。是等の探究をなし得てゐないから、エゴイズムAA’)の自己欺瞞・思ひ上がり・自己滿足・自己瞞着、にのうのうと現代日本人寢そべつてゐられるのである。

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