平成二十九年十一月三十日豫定

〔福田恆存を讀む會〕

吉野櫻雲

 

 

《恆存評論を索引として、今日の「形骸化した和」を考察する》

〔副題〕:恆存(C’)の思想(D1)を「形ある『物』にして見せる」(Eの至大化)のがPP圖。

 

評論『日本および日本人』他に基づき、以下内容を考察した。

結論から先に言ふと、現今の日本人は「形骸化した和」(なあなあ主義:Eの至小化)に毒されてゐるのではなからうか、と言ふ事である。それが禍ひして、評論『日本および日本人』著述時代より、今日は、更に「病膏肓に入る」的な近代化適應異常(D1の至小化)に陥つてゐる始末なのである、と推察する。

 

美意識摩耗(Eの至小化)が、「現代日本人の非倫理的性格」更進の原因〕

「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

*「文化(D1)とは私たちの生き方(E)であります。生活の樣式(E)であります」(全五P185『傳統にたいする心構』の「エリオットの辯」より)。

*「文化(D1)があり、傳統(D1)があるところでは、社會が、家庭が、それ(生き方E)を教へてくれる」(『傳統にたいする心構』P190)

*「現代の日本には主體的な生き方や心の働きとしての文化(D1)や教養(D1)がないばかりか、文化(D1)とはそのやうな主體的な精神の型(Eだといふ觀念さへないのです。おそらく日本の全歴史を通じて現代ほど文化(D1)が薄ぺらになり、教養(D1)ある階級を失つた時代はなかつたらう。(中略)私たちはまづその自覺に徹すべき」(全五P187『傳統にたいする心構』)

*大衆社會そのものが空虚なのではなく、文化(D1)を失つた大衆社會が空虚なのである。文化(D1)の無い社會は大衆社會であらうがなからうが空虚である事に變はりはない。が、今日のそれは經濟的繁榮と政治理念の喪失から生じたのではなく、明治以來徐々に行はれて來た傳統文化の破壊(D1の喪失或いは至小化)から生じたのである」 『續 生き甲斐といふ事』 P321)

 

《拙發表文:「『傳統にたいする心構』よりの小生的纏め」から。

*文化(D1)のある處(換言すれば自國の歴史Cとの「適應正常化=非沈湎」が圖れてゐる國)では、「E」を至大化させる「型・仕來り・様式・儀式」が形成されてゐて、その「型・仕來り」が歴史との關係(D1文化)を形ある「物」として生き方に反映(Eを至大化)させてくれるのである。文化(D1)のある國は「仕來りE」を持つが故に、「對象・言葉との距離測定不能(言葉に呪縛)」が原因の、適應異常や狂氣の囘避が可能となるのである。その事柄を「PP右圖」で言へば、「D1の至大化=Eの至大化」と言ふ事になる。「型・仕來り・様式・儀式」は生活・言葉への囚はれから人を救出してくれるのである。更に換言すれば、平生足をさらはれてゐる樣な現實的平面から意識を立ち上がらせてくれる。なぜにそれが可能となるかと言へば、「型・仕來り・様式・儀式」に内在する働き、恆存の文章に從へば、以下枠文のダイナミズムをそれは宿してゐるからなのであると理解する。

「そもそも動作や作用、さらに人間の抽象的な營みを名詞化しようといふ働きそのものが、主體である自分を對象から分離し、距離をつくらうとする衝動なのです」(全三P204『日本および日本人』)

「小生的纏め」も含めるが、上文の文化論や評論『日本および日本人』他から、著述當時(約半世紀前)に於ける現代日本人の非倫理的性格」(全三P78『個人と社會』)とは、以下原因から發生してゐるのだと窺ひ知る事が出來る。

『日本および日本人』全三P198・『個人と社會』全三P78から

 

*「(戰後の眼に見える絶對者喪失による)相對主義の泥沼」+「(戰後、日本文化D1の衰退による)美感・美意識Eの摩耗・喪失化(Eの至小化)」=「現代日本人の非倫理的性格」。

 

恆存評論に據れば、著述當時の現代日本人」は既に「非倫理的性格」(Eの至小化)を來してゐた。それが約半世紀を経て今日、上記の「美感・美意識の摩耗・喪失化(Eの至小化)」は更に進み、追隨して「非倫理的性格」(Eの至小化)も更進され續けたと考へられる(此處が今般レジュメの最重要テーマ)。

この事を、評論『日本および日本人』の文祓ひ清めて和に達する」を借用し換言すると、著述當時はまだ有つた、倫理的代役としての祓ひ清めて」(美意識E)が無くなり、現今は「和」だけしか殘らなくなつた、と言ふ事になる。即ち以下式に。

祓ひ清めて和に達する」―祓ひ清めて(美意識)」=和(美意識E摩耗で形骸化した和)

つまりこの「形骸化した和」(即ちEの至小化とは、日本人の歴史的價値觀「和を以て貴しと爲す」(聖太子)が、祓ひ清めて」(美意識E)なる倫理感を失ひ、唯の「和」と變貌し既成概念化してしまつた結果、今日では有機的な役割を果たさなくなつた。かうした情況を是は示してゐるのではなからうかと小生には思へるのである。參照圖〔評論『日本および日本人』の半世紀後〕hanseikigo.pdf へのリンク

 

「現代日本の混亂(近代化適應異常)」の更進

*更に話を進めると、恆存が『日本および日本人』上で指摘した、近代化適應異常(D1の至小化)による「現代日本の混亂」(以下枠文參照)は、現今、この「形骸化した和」(Eの至小化)の爲にやはり更進され、更なる精神的混迷を我が國民に齎してゐると小生には考へられるのである。

 この「混亂」について評論『日本および日本人』の記述(以下枠文參照)には、日本は「西洋人の思想(個人主義等F)と制度(民主主義等F)」を移植するに際し、日本的方法論祓ひ清めて和に達する」と言ふ「和合と美(両方とも日本的Eの至大化)」で、それに對應してしまつたが爲、混亂(=近代化適應異常)を深めた、云々との内容がある(P189・P192から概略)

現今は、それに加算、「病膏肓に入る」的に、この「形骸化した和」が禍ひし、更なる混亂及び混迷を招いてゐる、と推察する。

*************************************************

と言ふ事で、この問題(更なる混亂混迷)を恆存評論を索引としつつ、小生は考へてみた。

 

恆存は、約半世紀(六十二年)前の昭和三十年(1955年)、『日本および日本人』で「現代日本の混亂」について以下の樣に記述してゐる。「レジュメ」文も混ざつてゐて讀み辛いと思ふが勘辨されたし。

拙發表文:『日本および日本人』:昭和三十年(1955年)著から(一部加筆)

 

〔難解又は重要文〕P189下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

*「現代日本の混亂は、かういふ「祓ひ清めて和に達する」ふうに和合と美(両方とも日本的Eの至大化)とを生活の原理(樣式:E)とする民族が、能率や権利義務(西歐的Eの至大化)を生活の原理とする西洋人の思想(個人主義F)と制度(民主主義等F)を受け入れたことから生じてゐるのです」。

・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。

つまり、「西洋人の思想(個人主義等F)と制度(F)」を、それをso called(精神の政治學:Eの至大化)するに、西歐の方法論(西歐的Eの至大化つまり「能率や権利義務」)ではなく、日本的方法論「和合と美(日本的Eの至大化)」で對應してしまつたと言ふ混亂を、是は指してゐる。

日本文化(D1)が生んだ、「祓ひ清めて和に達する」と言ふ日本特有の型(E)での「so called」では、西歐の近代化(D1)の諸概念(個人主義・民主主義等:F)を「so called(Eの至大化)」することは出來なかつた。「祓ひ清めて和に達する」言う型(E)は日本にのみ適應し、西歐には適應する事が出來なかつたと言ふ事なのである。

更に追論すれば、恆存は、美感・美意識は長所短所「表裏一對」なのだと言つてゐる樣に思へる。この「現代日本の混亂」は、日本人の美感・美意識の短所(「對象との距離感の缺如」:P199)が出た事が原因となつて、西歐との「彼我の差をはつきり認めること(Eの至大化)」が出來なくなつたのだ。と、さう恆存は謂はんとしてゐる樣に小生には思へる。

 

〔難解又は重要文〕P202下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「それぞれの思想がいかに自分と遠い距離にあるか見分けがつかず(Eの至小化)、やはり、べたべたとそれに膠着してしまふのです。それらを、自分が考へてゐたもの、あるいは自分が欲してゐたものとおなじものだとおもひこんでしまふ。自分とのちがひに氣づき、自分との間に一線を引き、それが自分の肌にべたりと貼りついてくるのを却けながら、しかもそれを操るといふことを知らない」。

②「私は、對象との距離感の喪失(Eの至小化=D1の至小化)を、私たち日本人の弱點と見なさざるをえないのです」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。

「 」内が恆存文。( )内は吉野注

 

*上記①②文は、日本人は「自分と遠い距離(Eの至小化=D1の至小化)にあつて」、「彼我の差をはつきり認めること(so called=Eの至大化を把握する事)」(P204)出來得ない對象にまでも、「何にでもべたべた引つ付く自他未分状態の神道的生活態度」(P202概略文)で、近代化(西歐近代)適應をせんとした事を、是は示すのでは。

本來遠い距離である外來の觀念・思想なるものを、「日本人の長所である美意識」つまり「E型=祓ひ清めて和に達する」の對象にしてしまつた、と言ふ事なのでは。そして結局は出來得たものと錯覺してしまつた、所謂「近代化適應異常」(D1の至小化)を、やはり此處でも物語つてゐるのではなからうか

以下の文章がそれを證左してゐる樣に思へるのである

*「私たちの祖先にとつて、道德(B)も、そのもとにあるすべての人間關係(D1)も、けつして精神(B)の問題ではなく、眼に見える物(F)の問題であり、儀式(E)によつて律しうる形(E)の問題(FはEの至大化、「祓ひ清めの樣式」で片附ける。道徳はBCの問題ではなく相對A的處理の問題)だつたのです」(『日本および日本人』P181)。

「現代日本の混亂」(『日本および日本人』執筆當時)についての引用が長くなつてしまつたが、簡略すれば、祓ひ清めて和に達する」の日本的價値觀がそれを招いたと言ふ事なのである。

 

〔現今の更なる「混亂」(更なる近代化適應異常)の原因について〕

冒頭記述の、

祓ひ清めて和に達する」―祓ひ清めて」=和(美意識E摩耗で形骸化した和)

とは詰まる處、我が國民(大衆)は、西歐近代( C’場)への「適應異常」近代化適應異常)のみならず、日本の歴史(C)に對しても、その「適應異常」を冒してゐると言ふ事になる(以下枠文)。

〔日本の歴史への適應異常とは以下の通り〕
⇒參照圖
非文化は、型・樣式を喪失する」hibunkawakatawosousitsu.pdf へのリンク

 

*歴史(C:時間的全體)⇒歴史Cへの適應異常(D1の至小化)が招く「文化D1の衰退(D1の至小化)」⇒既成概念的和(F)⇒「和F」に對する型(美意識「祓ひ清めて」)の摩耗、即ち和(F)の「形骸化(Eの至小化)」(なあなあ主義)。

 

*是を別に表現すると「和」に呑み込まれてゐる(呪縛されてゐる・毒されてゐる)となる。

參照圖「和に呑み込まれてゐる」waninomikomareru.pdf へのリンク左圖

で、この「形骸化した和」(Eの至小化)が、今日我が國民に更なる「混亂」(更なる近代化適應異常)招いたのではなからうかと推察し、「混亂の比較」を以下表にしてみた。傍線部分の違ひに留意されたし。

 

評論『日本および日本人』以前(項目①)と、約半世紀後(今日:項目)に於ける「近代化適應異常」(D1の至小化)の比較〕 ⇒參照圖〔評論『日本および日本人』の半世紀後〕hanseikigo.pdf へのリンク

何が禍ひしたか。 ⇒

我が國民は如何に「近代化適應異常」を招いたか

①評論『日本および日本人』以

・・・「祓ひ清めて和に達する」(Eの至大化)が禍ひして「近代化適應異常」を招いた。⇒右

①「祓ひ清めて和に達する」と言ふ日本特有の型(Eの至大化)で、近代化諸概念(F:近代戰・國家主義・個人主義・西洋流の神等)に適應した爲、齟齬を來し、これら近代化諸概念(F)を「not so called=Eの至小化」してしまひ、結果として、「近代化適應異常」(D1の至小化)を招いた。(『日本および日本人』P192文概略)

②約半世紀後の今

・・・「形骸化した和」(Eの至小化)が足枷となって、更なる「近代化適應異常」を招いた。⇒右

②「祓ひ清めて和に達する」―祓ひ清めて」=形骸化した和(美意識摩耗で形骸化した和)。

*①の「祓ひ清めて和に達する」(Eの至大化)と同床異夢(Eの至小化)の「形骸化した和」は、①同樣、今度も足枷となつて、近代化諸概念としての (F:言論=論争の自由・法治・法の支配等)so called(Eの至大化)出來ない。⇒更なる近代化適應異常(D1の至小化)。

*「形骸化した和」(Eの至小化)を最優先する爲、「近代化諸概念F」としての、民主主義原則「F:政策論爭・理念論爭(言論の自由)・法の支配=法の優先」は、「二の次」或いは敵對的概念と見做される。その爲、「形骸化した和」(Eの至小化)は、當然の事、これら近代化諸概念(F)を「not so called=Eの至小化」してしまひ、結果として、やはり「近代化適應異常」(D1の至小化)を招いた

つまり現今は、①に重ねて、②形骸化した和」(Eの至小化)に據る更なる混亂(近代化適應異常)、及び「病膏肓に入る」的「相對主義の闇」(A’⇔A)と化しているのである。

〔更にしつこく上表の解説〕

*先出「レジュメ」文の繰り返しにもなるが、恆存文(『日本および日本人』)に據れば、①の「祓ひ清めて和に達する」と言う、日本特有の型(Eの至大化)では、齟齬を來し、西歐の近代化諸概念(F)を「so called」することは出來なかつた。つまり、日本文化(D1)が生んだ、「祓ひ清めて和に達する」と言う型(Eの至大化)は日本にのみ適應し、西歐の近代化諸概念(F)には、適應する事が出来なかったのだ(Eの至小化)、と言ふ事なのである。

で、上表②の式、

祓ひ清めて和に達する」―祓ひ清めて」=和(美意識E摩耗で、形骸化した和)

の「形骸化した和」(Eの至小化)と言ふ精神風景では、肝腎の倫理的役割の「祓ひ清めて」が喪失化されてゐるが爲に、「和」のみが最優先されてしまふ。その結果、民主主義(F)の原則F:政策論爭・理念論爭(言論の自由)・法の支配=法の優先」は、二の次或いは敵對的概念と見做され足蹴にされてしまふ。つまり、「和」の最優先は民主主義原則への輕視・機能不全なのであり、將來的には禍根を殘す事(近代化適應異常・相對主義の闇)へと繋がるのである。參照圖〔評論『日本および日本人』の半世紀後〕

極論すれば、非文化(D1の至小化)は、型・樣式を喪失(Eの至小化)するが爲に、その非文化的諸概念(F:既成概念的「和」・なあなあ・自己欺瞞・不正・不法等)への、精神の政治學(自淨作用:Eの至大化)が働かないと言ふ事になる(參照圖:非文化は、型・樣式を喪失する」hibunkawakatawosousitsu.pdf へのリンク)。

 

形骸化した和(なあなあ主義)が齎す今日的現象〕

*上表・上枠文で追究した本質(形骸化した和=なあなあ主義=Eの至小化)が今日、如何なる現象を我が國民(大衆)に齎してゐるかを推察し、以下箇条書きに捉へてみた。

*今日「和を以て貴しとなす」(聖太子)の麗文の裡で、「和」(F)は既成概念化し、堕落、「形骸化」(Eの至小化)したのである。

*上述の傍線部分と一部内容が重複するが、重要な部分なので更に以下の樣に纏めてみた。・・・

今日、我が國民(大衆)は、「形骸化した和(なあなあ主義)」(Eの至小化)と言ふ價値觀に呑込まれ或いは呪縛されて、評論『日本および日本人』での指摘以上に、近代化諸概念(F)を「so called」(Eの至大化)出來なくなつてゐる。つまり、「和」と言ふ概念に沈湎した情治主義に陥り(參照圖「和に呑み込まれてゐる」waninomikomareru.pdf へのリンク左圖)、その爲、普遍的價値でもある民主主義の原則「F:法治(法の支配)・多數決・政策論爭理念論爭(言論の自由)等」が度外視される。「形骸化した和(なあなあ主義)」においては法治・言論の自由より情治が優先事項なのである。此處に精神的頽廢があると言へる。參照圖〔評論『日本および日本人』の半世紀後hanseikigo.pdf へのリンク(項目②)

この結果、過去(評論『日本および日本人』で指摘)の近代化適應異常(D1の至小化)から眼が醒めないままに、今日、我が國民(大衆)は「形骸化した和(なあなあ主義)」(Eの至小化)で、更に病膏肓に入る的に、「近代化適應異常」(D1の至小化)の恥を曝しているのである。

*晩年に恆存が言ひ放つた、「日本はもつと惡くなつてゐる」は、この事なのではと小生には思へる(下欄枠文「リージョナリズム」參照)。

*以下現象は、この「形骸化した和」最優先(即ち民主主義原則は度外視)の好例。

①今般「衆議院選擧」に於ける、小池代表の「排除發言」に對する、國民(大衆)の反撥

②先般「都議選」街頭演説に於ける、安倍首相の「ヤジへの應酬辯舌」(曰く「憎悪や誹謗中傷からは、何も生まれない!」「こんな人たちに負けるわけにはいかない!」)に對する國民(大衆)の反撥

①②の國民(大衆)の過剰な反撥。是こそが、上述の「形骸化した和(なあなあ主義)」(Eの至小化)と言ふ價値觀に、我が國民(大衆)が呪縛され、毒されてゐる證據なのである。将に「和」に呑み込まれ或いは眼が眩まされ、近代化諸概念(F)を「so called」出來なくなつてゐる(Eの至小化)、が該當する(參照圖:非文化は、型・樣式を喪失する」hibunkawakatawosousitsu.pdf へのリンク項目②)
參照圖「和に呑み込まれてゐる」waninomikomareru.pdf へのリンク左圖)。  

我が國民(大衆)は、「形骸化した和(なあなあ主義)」(Eの至小化)の惡習性で、上記①②どちらをも條件反射的に批判をするから、小池・安倍發言の本旨、つまり民主主義(近代化概念:F)が内包する「理念や政策で政權を爭ふ本質:F」なるものを見失つて、爲にそれをso called」出來ないのである。

 更には、立憲民主黨に情けを掛けた「判官贔屓」にもそれが當て嵌まる。「形骸化した和(なあなあ主義)」は、小池批判の返す刀で、今度は安手の「憐愍(判官贔屓)」に姿を變へたのである。我が國民(大衆)は、まことに低俗な「なあなあ劇(人情劇=平面劇)」に溜飲を降ろし自己滿足し、「民進黨⇒希望の黨⇒排除⇒立憲民主黨」の實體、即ち、野党一流の苦し紛れ的自己欺瞞(相對主義の泥沼)迄には目が届かない。メディアが持ち上げた立憲民主黨の「大躍進」(十六⇒四十八議席)は大噓なり。事實は選擧前「民進黨(八十八議席)」からの「大顛落」(四十八議席)が相場。

メディアも知識人も、我が國民(大衆)の闇「形骸化した和(なあなあ主義)」の惡習性に皆目氣が附かない。國民が持つ因習的「情緒支配、情治」の衆愚に阿り、その蒙昧には全くの無批判、と言ふか啓蒙する能力すら持たない。

*是ではとても、韓國の「情緒・情治主義」を嗤へない。我が國民(大衆)も同じ穴の狢なり。

*「形骸化した和(なあなあ主義)」は、平面・平板への埋没。将に「相對主義の泥沼」。道義心の缺如、即ち非倫理的概念(「現代日本人の非倫理的性格」)なり。

*「形骸化した和(なあなあ主義)」とは、非文化的(D1の至小化)概念・非近代的(D1の至小化)概念・非建設的概念・惰弱的精神、詰まる處、野蠻的概念と言えるのではなからうか。

*「形骸化した和(なあなあ主義)」は、建設的論爭から逃げ不毛化する。「和」に逃げ込めば、麗文「和を以て貴しと爲す」に紛れて、自己欺瞞・自己辯護は隠蔽される。何とも一番始末の惡い概念と言へる。「和」に閉じ籠つてゐれば安心安泰なのだ、日本人は。

 その邊の問題を、恆存は以下の樣にも記述(約半世紀前)してゐる。

拙發表文:《恆存の「近代化とリージョナリズム」に關して》から「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

*「日本の近代化はリージョナリズム(地域主義)からの、或はその基盤たる家族共同體的な場( C’)の原理からの脱却をつひに果し得ず今日に至つてゐる」と。(『醒めて踊れ』全七P395)。

 

*つまり、恆存は日本の地域主義(リージョナリズム)の缺陷を、「その基盤たる家族共同體的な場の原理」即ち「家族共同體的(身内的)場への居附き・沈湎」と捉へてゐる樣に思へる。日本人に於いては「家族共同體的な場の原理」が最優先され、それより高次の當面する第一義的な課題(上述の「近代化諸概念」等)がたとへ其處に存在してゐても、それに對する「論理的潔癖」に基づく意見表明よりも、二次的な「家族共同體的な場」への「和」(形骸化した和・なあなあ)が重要視される、と恆存は言つてゐる、と小生には解釋できる。(參照:『醒めて踊れ』P396上及び『日本および日本人』全三P188)。

 

《後記》

 以上で考察した、「形骸化した和」は當初「なあなあ」として、吾が私的「クラス會」騒動の原因を探究してゐる中で想到した概念であつた。しかしながらこの問題は、あながち、「古稀近くなり愚鈍化した吾が學友のみに是は相當するのだ」、とばかりは考へられなくなつた。「形骸化した和(なあなあ主義)」と言ふ寒々しい精神風景は、今や、我が國民(大衆)全般にも蔓延してゐるのではなからうかと想ひ着いたる次第なのである。私的騒動の「原因探究」にではあつたが、恆存評論『日本および日本人』他を熟讀したお蔭と言へる。

であるが、當考察(假説)は、果たして正鵠を射てゐるでありませうか。

 

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