平成二十九年六月八日
『福田恆存を讀む會』
吉野櫻雲 發表文
『問ひ質したき事ども「日本よ、汝自身を知れ」』(『正論』昭和五十五年十一月號:六十九歳)
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參考 *『醒めて踊れ』(「新潮」昭和五十一年八月號:六十五歳)。 *『孤獨の人 朴正煕』(「文藝春秋」昭和五十五年一月號:六十九歳)。 *渡韓(昭和五十五年七月:六十九歳)。 *『日本よ、汝自身を知れ』(『正論』昭和五十五年十一月號:六十九歳) *脳梗塞(昭和五十六年五月:七十歳)。 |
だいぶ以前から、評論『醒めて踊れ』の、難解的文章である「ソフトウェアの適應能力」論には惱まされながら、しかし離れる事が出來ずに何度かレジュメにも取り上げて來たのであるが、特に最近この文章の重要性に刮目されるものがあつた。⇒參照圖「ハードウェア&ソフトウェア」software.pdf へのリンク
そして今囘「韓國の問題」についても、この「ソフトウェアの適應能力」論及び參照圖を索引としての探究が可能だと小生には思へた。⇒ 參照圖「韓國の近代化」kankokunokindaika.pdf へのリンク・ 參照圖:韓國への偏見=「借物の言葉」化(Eの至小化)」kankokuenohenken.pdf へのリンク
後進國韓國の場合、「近代化」を行ふには軍の關與が最適切であつたと恆存は言ふ(P343)。但し、當評論の主題とは外れる爲であらうか、韓國の「西歐近代(近代化)適應異常」についてまでは、此處では踏み込んではゐない。韓國においても日本と同樣、いやもつとこの「近代化適應異常」には強烈に曝されてゐるかと思へる。
で、今般(平成二十九年頃)問題になつてゐる「慰安婦像撤去合意」等の紛糾は、當評論(昭和五十五年)で恆存が指摘してゐる「韓國への偏見」とは同質と言ふよりも、小生には、韓國の「西歐近代(近代化)適應異常」に相當するかと思へるのであるがいかがであらうか。
韓國國民に有る、「法治」よりも「情治優先(縁戚優先=仲間意識)」の性質に、儒教的價値觀に束縛されて、西歐近代との「彼我の差」(法とは何か)を認識できない、國民の短所が指摘出來るのではなからうか。つまり以下枠文で謂ふ、「法に對するSo called(距離測定=Eの至大化)」である「法の優先=遵法精神」が確立出來なかつたと言ふ事。要するに「距離が測定(Eの測定=Eの至大化)出來ぬ人間は近代人ではない(D1の至小化=近代化適應異常人)となるのである。⇒參照圖「一元論的思考の國民は、西欧二元論を理解できない」ichigenronshikou.pdf へのリンク
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『醒めて踊れ』文の適用(一部省略)「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「近代化(實在物D1)の必要條件は技術や社會制度(潜在的言葉:F)など、所謂『ハードウェア』のシステマライゼーション(F組織化)、ラショナライゼーション(F合理化)等々の所謂近代化(F潜在的言葉=法・法治國家)に對處する精神の政治學(Eの至大化)の確立、即ち所謂『ソフトウェア』の適應能力(Eの至大化・ 附合ひ方・So called )にある。それ(近代化D1)に對應する方法は言葉や概念(F:法・法治國家)に囚れず、逆にこれを利用すること、即ち言葉の用法(E)にすべてが懸つてゐる(言葉の自己所有化?)。自分と言葉との距離が測定(Eの測定=Eの至大化)出來ぬ人間は近代人ではない(近代化適應異常)。いや人間ではない」(『醒めて踊れ』全七P393上)。⇒參照圖「ハードウェア&ソフトウェア」software.pdf へのリンク |
この「彼我の差」認識缺如即ち「對象との距離感の喪失」について、その對象は日本人にではあるが、恆存は「以下枠文」の樣に書いてゐる。つまり、日本では、本來遠い距離の外來の觀念・思想なるものを、「日本人の長所である美意識」、即ち「E:儀式(美感『祓ひ清めて』に據る和の形成)」の對象にしてしまつたと言ふ事。そして結局は適應出來得たものと錯覺してしまつたのだと。
かかる「近代化適應異常」についての内容は、當然、韓國にも當て嵌まるのだと小生には思へるのである。それと同質の間違ひを韓國は、儒教的價値觀による「情治優先(縁戚優先=仲間意識=國民情緒法?)」で犯してしまつた。と言ふ事を是は物語つてゐるのではなからうか。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *一元論的思考の國民は、西歐二元論文化が産み出した「近代化(物質精神両面)」中の、特に「精神の近代化(Eの至大化)」が理解出來にくい。〔『人間の生き方、ものの考へ方』(P83)からの私的論考〕。 *「権利義務の契約(Eの至大化)にもとづく個人主義(F)に馴れない(not so called=Eの至小化)人間が、その制度(F)や法律(F)を移入(Eの至小化)すれば、それはたんなる利己主義を助長する(似而非近代性=近代化適應異常)にしか役だたぬのです」(『日本および日本人』(全三P192)。 ⇒參照圖「一元論的思考の國民は、西欧二元論を理解できない」 ichigenronshikou.pdf へのリンク ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 以下は拙發表文:『日本および日本人』より「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 〔難解又は重要文〕P202下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 「對象との距離感の喪失」について ①「それぞれの思想がいかに自分と遠い距離あるか見分けがつかず(Eの至小化)、やはり、べたべたとそれに膠着してしまふのです。それらを、自分が考へてゐたもの、あるいは自分が欲してゐたものとおなじものだとおもひこんでしまふ。自分とのちがひに氣づき、自分との間に一線を引き、それが自分の肌にべたりと貼りついてくるのを却けながら、しかもそれを操るといふことを知らない」。 ②「私は、對象との距離感の喪失(Eの至小化=D1の至小化)を、私たち日本人の弱點と見なさざるをえないのです」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。尚、是は次項目P204下と關聯する。
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〔難解又は重要文〕P330「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「軍事政權(F)とはどういふ意味のもの(E:so
called)なのか、またそれはなぜ惡いのか。他方、文民統制(F)と言ふ時、それがなぜ良いのか、またそれはどう言ふ意味のもの(E:so called)か。更に、そのいづれかが惡いとしても、それは現在約二百に近いあらゆる國について共通に言へる事なのか。(中略)一口に國、國家(F)と言ひ、その言葉(F)が同じなら、意味(E=so
called=「自分と言葉Fとの距離」)もまた同じなのか。さういふ事をまともに考へて、新聞人はそれらの言葉(F)を注意深く用ゐて(Eの至大化=so called)ゐるのか」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして更には以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。尚、この文章にも「『醒めて踊れ』の『ソフトウェア』の適應能力論」が繋がつて來ると小生には思へる。
⇒參照圖「韓國の近代化」 kankokunokindaika.pdf へのリンク
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 〔韓國への日本メディアの偏見〕 *「日本の新聞は李承晩大統領、及び張勉内閣時代を『民主主義』(F)といふ『借物の言葉』(Eの至小化)によつて韓國近代化の黄金時代と見、朴政權下の維新體制を獨裁性(F)といふ同じく『借物の言葉』(Eの至小化)によつて非難攻撃して止まない」(P336)。 *「朴正煕大統領を失ひ、朝鮮戰爭以來の危機の中で冷静、沈着、且つ機敏に對處して來た韓國〔即ち、全斗煥氏が斷行した軍事政權は、「韓國の近代化(D1の至大化)、合理化(F)を達成する爲に必要にして止むを得ざることだつた」(P341)〕に對し、日本のジャーナリズムが概ね無理解を通り越して惡意、敵意としか思へぬ態度を示して來た」(P329)。 上記の理由は以下①②③だと恆存は言ふのである。 ①「筋の通らぬ偏見はすべてアクトン卿の言ふ「借物の言葉」(「干からびた合ひ言葉」)に頑迷なほど保守的にしがみ附いてゐる事(Eの至小化)から生じる」(P330)。 ②「借物の言葉」(「干からびた合ひ言葉」)化、即ち參照圖「Fへのnot so called=Eの至小化」の弊害。(P331) ⇒參照圖:韓國への偏見=「借物の言葉」化(Eの至小化)」 kankokuenohenken.pdf へのリンク ③護符・後楯(C2)である外來語への適應異常による偏見(P332)。 ⇒參照圖「日本人の精神主義構圖」nihontekiseishinshugikouzu.pdf へのリンク |
〔難解又は重要文〕P343「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「(日本の場合は)江戸期に耕された土壌があつても五十年を要した近代化を韓國と言ふ、その土壌の全く無い所で、しかも、北鮮といふ(中略)共産主義=全體主義凝り固つた武装集團を前にして、二十年、三十年、軍が直接、間接、政治に關與したとしても、私には少しも不思議とは思へない」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。
つまり、韓國の場合、參照圖及び下枠文内容の「近代化」kankokunokindaika.pdf へのリンクを行ふには、軍、恆存の別表現を借りれば、「軍人の樣に自分を空しうした組織の縱横の關係に適應し得る近代的な個人(P346)」、かつ「一つの有機的な共同體(P342)」でもある、さうした軍の關與の方が最適切であつたと恆存は言ふのである。かかる内容(傍線部分)については、別表現で以下の樣にも書いてゐる。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「軍は他の集團や組織よりも、その(近代化・國家的自覺・進歩的改革の)實を擧げる利點を持つてゐる、といふのは、その有機的結合性と嚴しい訓練において他の組織の追隨を許さず、物事を處理する能力に恵まれてゐるからである」(P337)。 *「(全斗煥氏が斷行した)一見朴正煕氏以上に獨裁的とも見える種々の改革は、軍の權力を笠に着、軍政を布く事を目的とするものではなく、韓國の近代化(D1の至大化)、合理化(F)を達成する爲に必要にして止むを得ざることだつたのである。勿論、それは全軍の支持を得た軍人(一つの有機的な共同體)でなければ出來ぬ事であつた」(P341)。 |
そして日本においても、「明治維新といふ政權交替とその後の近代化は江戸時代の武士によつて行はれた、明治政府は軍事政權である」と。
もし、「韓國(の軍事政權)に文句を言ひたいなら、その前に、『日本よ、汝自身(日本も明治政府は軍事政權であつたと言ふ事實)を知れ。』」と恆存は言ふのである。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「近代化(實在物:D1)の必要條件は技術や社會制度(潜在的言葉:F)など、所謂『ハードウェア』のメカナイゼーション(F機械化)、システマライゼーション(F組織化)、コンフォーマライゼーション(F劃一化)、ラショナライゼーション(F合理化)等々の所謂近代化(潜在的言葉:F)に對處する精神の政治學(Eの至大化)の確立、即ち所謂『ソフトウェア』の適應能力(Eの至大化・ 附合ひ方・So called )にある。 マルクスの言ふ疎外は何も資本主義社會特有のものではなく、共産主義社會、全体主義社會にも生ずるものであり、また有史以來その度を増して來たものである。それ(近代化D1)に對應する方法は言葉や概念(F)に囚れず、逆にこれを利用すること、即ち言葉の用法(E)にすべてが懸つてゐる(言葉の自己所有化?)。自分と言葉との距離が測定(Eの測定=Eの至大化)出來ぬ人間は近代人ではない。いや人間ではない」(『醒めて踊れ』全七P393上)。⇒ 參照圖「ハードウェア&ソフトウェア」software.pdf へのリンク *「言葉(F)と話し手との間に距離(E)を保ち、その距離を絶え間なく変化させねばならぬのと同様に、相手と共に造り上げた場と自分との間(D1)にも距離を保たねばならず、その距離を絶えず變化させ得る能力がなければいけない。さういふ能力こそ、精神の政治學としての近代化といふものなのである」(『醒めて踊れ』)と。 |
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