平成二十八年 十一月
吉野櫻雲 發表文
發表文:『現代日本文學の諸問題』(昭和二十二年執筆)
〔前發表文:「恆存の『漱石』論」(『近代日本文學の系譜』から)の延長探究として〕
拙發表文:「恆存の『漱石』論」の以下枠文中、「漱石の正義感と西歐『ヒューマニズム』の相違」から、『現代日本文學の諸問題』の前章部分(一~四)にある、「フローベール・個人と社會・藝術家と俗人・近代自我の確立」を更に探究してみたくなつたのが、當レジュメの作成理由である。
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拙發表文:「恆存の『漱石』論」から「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 參照:漱石souseki.pdf へのリンク *「漱石においては、職業が――といふより、作家(B)になるまへに教師として社會人(A)たることを志した彼の性格(A’自我)が、實生活に安定(A’⇒A客體化)をもたらし、その結果、自我(A’)の意慾からあらゆる不純な夾雑物が脱落(「精神の政治學」下降による「個人の純粋性Bの静謐」?)し、人間のエゴイズム(A’)がまつたく原型的な純粋さをもつてかれの意識に迫つてきた。漱石はそれを二葉亭の技法、さらにそれを超えてヨーロッパの自然主義的表現方法に託することはできなかつたのである」(とは以下の如し)
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特に「個人(B)と社會(A)」についての記載である、「二十世紀の現代文學は、フローベールが追ひこまれて一寸の身うごきもできなかつた迷路を、いささかでも打開しえてはゐない」(P57)が、以前から何となく氣になつてゐた。
平成期を含め「二十一世紀」の日本文學(小説群)を全く讀んでゐない小生としては、この「いささかでも打開しえてはゐない」が、その後どうなつてゐつたのかは不明である。が、以下恆存評論から鑑みて、この「本質論的」指摘は、未だ脱してはゐないのではなからうかと存ずる次第である。
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拙發表文:《個人の危機》より「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「個人主義を経験しない(日本)國民が個人の限界(①)を口にするといふことは言語道斷」であると。そして戦後知識人がその欺瞞をしてゐるのだと言ふ。即ち彼等は、戰爭中の個人敗北の後ろめたさを隠蔽すべく、外來思想(新漢語:「個人主義」)の権威を「自己保存の後楯・護符(C2化:參照圖「彼我の差」左圖)」にした、と恆存は指摘する(參照:『近代日本知識人の典型』他)。そして、戰爭中の日本人の「個人の敗北」は、②の「物質(A:暴力・ファシズム)に對する個人の敗北」でしかなく、「①近代自我(個人主義)の敗北」などとは關係ないのだと、その自己欺瞞を恆存は鋭く剔抉するのである。(參照:P602全一『小説の運命Ⅰ』・P61全一『現代日本文學の諸問題』) 『現代日本文學の諸問題』:〔難解又は重要文〕P66上から「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「理想人間像(C:自他への否定因・超自然の絶對者といふ觀念)」をもたぬといふこと」が、西歐のヒューマニズム、それを内包する「個人主義をつひに自分のものとなしえなかつた」(P602全一『小説の運命Ⅰ』)原因なのであり、同じく「近代日本の知識階級はヨーロッパ的な意味においてその個人(B)の極限にゆき」(同頁)つき得ない原因なのである。であるから「理想人間像(否定因)をもたぬ」が故の、「個人主義を經驗しない國民が個人の限界を口にするといふことは、言語道斷」(同頁)なのであり、結果的にはそれは自己欺瞞となり得るのである。 |
そして「今囘評論」探究結果としては、上枠文でも記載したが、以前(平成十七年十月)發表した、拙發表文:《個人の危機》がその手助けとなつた爲、轉載が聊かしつこくなつてしまつたきらいがある。
尚、『現代日本文學の諸問題』の感想としては、後半になる程難解となり探究にはかなり閉口してしまつた。
恆存は、持論の「二元論(個人的自我B・集團的自我A)」を、當評論では「個人(B)對社會(A)」に置き換へ、その「歴史のアイロニー」なるものを、しかも「現代日本文學」上において、我々に展開して見せてくれてゐる。
即ち「ぼくたちは現代日本の特殊な現實に條件づけられながらも、けつきよくは世界的なひとつの課題に直面してゐるのだ。が、それが日本の特殊性といふことに限定されて、それらがつまりはひとつの問題であるといふことにさへ氣がつかない」(P60)、と言ふ但し書きを附け加へながらである。
しかし、實際には「歴史のアイロニー」は西歐の出來事なのである。故に「現代日本の知識階級」は以下の樣にそれに適應異常せざるをえない、と恆存は言ふ。
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〔難解又は重要文〕P66上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *西歐ヒューマニズム(フローベールも)は「否定因C」を根柢に持つてゐる。それに引き比べ、「個人主義をつひに自分のものとなしえなかつた」(P602全一『小説の運命Ⅰ』)、「現代日本の知識階級のヒューマニズム」には、西歐個人主義(西歐心理主義)が持つ、自己に對する「否定因C」(下枠文:公式)を持たない。故にいとも簡單に「背後に自己主張(エゴイズム)をひそませ」る事が可能となるのである。 彼等はむしろ、否定ならぬ「絶對的自己肯定:C”」の爲に、その肯定因として「C2:護符・後楯」を上位概念「世界・社會・階級、大思想」に求めようとする。何故ならば、西歐近代が否定因としての神(C)を背景に持つに對して、前近代日本はそれを持たない。故に後楯による自己欺瞞が可能になるのである、と恆存は指摘するのである(參照『日本の知識階級』全5P369)。 |
この西歐との彼我の差を、堪へず見逃しさうになる缺點を我々日本人は持つてゐる。恆存は、西歐的限界と日本的限界を「パラレル」に描き、その彼我の差を明示する。しかし惜しむべきかな、我々日本人はそれを理解できない。
前述「二十世紀の現代文學は、フローベールが追ひこまれて一寸の身うごきもできなかつた迷路を、いささかでも打開しえてはゐない」は、将にその痛烈なる皮肉とも言へる。
尚、このテーマ、個人(B)對社會(A)の「歴史のアイロニー」は、後年名著『近代の宿命』で、「支配・被支配の自己:(A)」と「神に從屬する自己:(B)」として見事な展開をみせてくれるが、當評論では以下内容に留めてゐる。
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〔難解又は重要文〕P70下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「アルチストは卑俗な社會的効用(社會Aにたいする有用性)から、ジャーナリズム(A‘⇒A)の支配から脱却しなければならない――本質的にも、生活的にも、方法的にも。が、永遠に網の目(A的な)を脱しえぬ人間の存在といふものを考へるならば、藝術(B)のアイロニーとは、ひつきよう歴史(C)のアイロニーであり、人間存在(C歴史⇒D1宿命⇒人間ABといふ)のアイロニーでもある。人間は永遠に試行錯誤の状態からぬけでることはできないのだ」。 〔難解又は重要文〕P71上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「ぼくは前章で人間の實存について、さらに藝術の本質たる實存的性格について語つたつもりなのである。歴史のアイロニーも藝術のアイロニーも、つまりは人間の實存にかかはるところに發生する」。 |
此處では敢へて恆存は深く論究してゐない「歴史のアイロニー」とは、小生思ふにつまるところ以下枠文の事を謂はんとしてゐるのだと思へる。
即ち、「中世教門社會(A)脱出⇒個人(B)價値の追究⇒個人(B)主義は畢竟エゴイズム⇒個人(B)主義の敗北⇒個人(B)は「社會(A)にたいする有用性」としての價値へ顚落。と言ふ西歐歴史の「アイロニー(逆説)」をそれは述べてゐるのだと。
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拙發表文「個人の危機」より「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 「個人の敗北」:二つの要因と結果 個人主義そのものに胚胎する、二つの敗北要因(①神への叛逆と②社會への對立) *『近代の宿命』等を索引にして記載すると、中世においては、神が全てを統一し社會(A)は神の管理組織である教門が支配してゐた。故に個人の「支配・被支配の自己:A」は、教門に奉仕する事によつて(結果として神にも通じる)、それが満たされてをり社會(A)と對立する必要はなかつた。(參照圖:「テキスト」yomukaitekisuto.pdf へのリンクP5) ルネサンスに到つて、その「社會A・個人B・神C」間の均衡に破綻が生じ、個人(B)と社會(A)との對立も始まつたのである。その後「ルネサンス以來五百年間の精神的主題である個人(B)と社會(A)との對立」、換言すれば個人主義の歴史は、「人間が神(C)と自然とに對してその自主性(B:個人の自由と自律性)を奪取したばかりでなく、さらにすすんで支配者(A)にたいして、社會的環境(A)にたいして平等と自由とを宣言した十八九世紀において、ますますその本領を發揮することとなつた」(參照:P599全一『小説の運命Ⅰ』)。 即ち「その本領の發揮」とは、①神(神の死)に對する個人の優位性追求(C”化)と、②神(中世)脱出が齎す、社會(A)に對する個人(B)價値の追求、とをした事を表す。そしてやはりその結果として、以下二つの「個人敗北」の道筋が照らし出されるのである。(注:上記傍線借用文の主語は本文では「散文の運命」であるが、言ひ替へが可能と判斷し「個人主義の歴史」と轉用。參照:P599全一『小説の運命Ⅰ』) ①神(C)否定による個人(B)の優位性追求(C”化)とその敗北。 *「近代自我(個人主義)の限界(とは、下記「個人の特殊性」による自己主張→自己主人公化→自己陶酔:畢竟エゴイズム)」⇒個人(B)の敗北⇒個人(B)の権威の否定⇒「社會(A)的價値の名のもとに一切の個人(B)的なものを否定」⇒個人(B)は「社會(A)にたいする有用性」としての價値へ顚落。 即ち「自我の必然」として浮かび上がつたエゴイズムによつて、個人(B)は「社會(A)の有用性」としてしか、その生き延びる道を見出し得なかつた、と言ふ事になる。 ②社會(A)に對する個人(B)價値の追求とその敗北:(社會=肉體A。個人=精神B。と恆存は見てゐる) 「精神(B)は肉體(A)の保證なくしてその眞實性を自己確認しえぬ」・「物質(A)によつて支へられなければ、その所在も眞實性も保證しえぬ精神(B)のあいまいさ」⇒肉體(A:社會・物質)の優位性⇒精神(個人B)の問題は物質(A)でけりがつく⇒積極的承認(唯物論・社會主義へ)。又は消極的承認(「個人は社會にたいする有用性」へ)。(參照:P458全二『近代の宿命』:P58・62~3全一『現代日本文學の諸問題』)。 ①の「近代自我(個人主義)の限界」は何を齎したか。⇒個人(B)は社會(A)への有用性としての價値へ顚落。(P65全一『現代日本文學の諸問題』) 西歐十九世紀は、「精神の政治學」の均衡(higanosa.sozai.pdf へのリンク)によつて、個人主義(自己主人公化:C”化)の時代こそ「精神の自律性」の保持が可能であると錯覺した。 「精神の自律性」を發揮し、「(西歐)個人主義は個人の純粋性を擁護せんとした」が、結局C(絶對・全體)無くしての「個人の純粋性」は、その特質を發揮し得ず、單なる「個人の特殊性(以下枠内文章)」にと顚落せざるを得なかつた。(參照:P458全二『近代の宿命』)
是は即ち、以下の事を意味する。 個人主義では、精神は「絶對・全體:C」缺如の爲、自己滿足D3・自己撞着に陥り、逆にその自律性を發揮し得ない。結果として肉體の自律性(「支配・被支配の自己」:A)の自己愛的引力に引き摺られ、その必然として更なる「自己主張⇒「自己主人公化⇒「自己陶酔」のエゴイズムに陥つた。そして、結果として自我喪失(自己への適應異常)に到つたのである。 |
尚、これは餘談であるが、今般米國を舞台にした「大統領選擧」なる演目も、是も又「歴史のアイロニー(逆説)」の一齣と言へるのではなからうか。つまり長年扱き使はれて來た、個人(B)は「社會(A)にたいする有用性」としての價値なる主題に疲れた國民が、一つ歴史的に逆行(アイロニー)した主題個人(B)主義は畢竟エゴイズムに返り咲く事で、彼等の慰撫を其處(國家的エゴイズム:A)に見出したのである。
更にこの論理を敷衍するならば、英國のEU離脱を含めた西歐の各種「内向現象」にも、この退行(歴史のアイロニー)が當て嵌まるのではなかろうか、と小生には思へるのである。つまり自由主義(先進國)國民は以下の理想に疲弊したのである。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「近代ヨーロッパは神を見失つた――が、それはただ神の解體と變形と抽象化とを意味するに過ぎぬ。まさにそのための手續きであり過程にすぎなかつたヨーロッパの近代精神(B)とその政治制度・経済機構(A)」。 *「萬人をその胸に救ひとる人格神が、その手をその脚を、さらにその胴體をもぎとられ、それらが制度化せられ機械化(A)せられる――で、神は人體を失つて、完全な精神(B)としての抽象化を受ける。その精神が文學の領域(B)として殘されるといふわけだ」。(『近代の宿命』全二P463・P466) |
疲弊したのである。だが歴史を持つ西歐(米國も含む)は以下の恆存の論に從へば、又回復し立ち上がるのである。
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*「歴史を持つ社會(A)は、自ら回復しえぬやうな病ひをけつして背負ひこまない。歴史の意識をヨーロッパにはじめて植ゑつけたものが中世であり、そのクリスト教にほかならなかつた。ギリシャに歴史はない。――絶對者のないところに歴史はありえないのである。統一性と一貫性との意識が人間の生活に歴史を賦與する。とすれば、ぼくたち日本人がヨーロッパに羨望するものこそ、ほかならぬ近代日本における歴史性の缺如以外のなにものであらうか」(全二P460『近代の宿命』)。 |
當評論はいずれも深く考察しなければならぬ章ばかりで、特に後半にかけてそれは連續して來るのであるが、如何にせん探究不足の感が否めない。其處で「重要項目」の一つとして下項を擧げておく。
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九 私小説
〔難解又は重要文〕P66上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「社會(A)といふ概念を楯にとつて一歩もうごかうとしない人間――それが大部分なのである。現代日本の知識階級のヒューマニズムといふのがそれだ。かれらは社會(A)的價値を楯にとつて、じつはその背後に自己主張をひそませてゐる――しかもそのこと自體にどうしても氣づかぬのである」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。以下枠文の消息を物語つてゐるのではなからうか。
先に補足するならばつまり、「近代ヨーロッパ文學(個人主義文學)における心理主義の根柢にはヒューマニズムがあつた」のとは反對に、「現代日本の知識階級のヒューマニズム」には、さうした個人主義文學(心理主義)の根柢にある「ヒューマニズム」などと言ふものは缺如してゐると言ふ事。
下枠文「公式」に記載してある樣に、西歐ヒューマニズム(フローベールも)は「否定因C」を根柢に持つてゐる。それに引き比べ、「個人主義をつひに自分のものとなしえなかつた」(P602全一『小説の運命Ⅰ』)、「現代日本の知識階級のヒューマニズム」には、西歐個人主義(西歐心理主義)が持つ、自己に對する「否定因C」(下枠文:公式)を持たない。故にいとも簡單に「背後に自己主張をひそませ」る事が可能となるのである。
彼等はむしろ、否定因ならぬ「絶對的自己肯定:C”」の爲に、その肯定因として「C2:護符・後楯」を上位概念「世界・社會・階級、大思想」に求めようとする。何故ならば、西歐近代が否定因としての神を背景に持つに對して、前近代日本はそれを持たない。故に後楯による自己欺瞞が可能になるのである、と恆存は指摘するのである(參照『日本の知識階級』全五P369seishinshugikouzu.pdf へのリンク)。
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〔難解又は重要文〕P65上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 「心理主義の方法が採用されてきたのは、自我(A‘)が他我(A)にたいして、個人(B)が他の個人(A)にたいして、いひかへれば個人(B)が社會(A)にたいして、自己(B)の眞實性を主張してゐたからである」・・・この「個人(B)が社會(A)にたいして、自己の眞實性」とは何を言はんとしてゐるのであらうか。以下①②の方法論が「自己(B)の眞實性」即ち「個人(B)の純粋性の擁護」に繋がつてゐたと言ふことなのであらう。
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かうした、知識階級のみならず現代日本人に「自己欺瞞」が胚胎する根本原因を考へるに、恆存の以下枠文「近代日本人の悲劇」に想到せざるを得ない。小生思ふらく。恆存評論の「進歩的知識人」や「現代日本人」批判には、「理想人間像(否定因)」缺如と言ふ國民的本質への深ひ凝視が通底してゐるやに思はれる。
即ち詳しく書けば、「理想人間像(C:自他への否定因・超自然の絶對者といふ觀念)」をもたぬといふこと」が、西歐のヒューマニズム、それを内包する「個人主義をつひに自分のものとなしえなかつた」(P602全一『小説の運命Ⅰ』)原因なのであり、同じく「近代日本の知識階級はヨーロッパ的な意味においてその個人(B)の極限にゆき」(同頁)つき得ない原因なのである。であるから「理想人間像(否定因)をもたぬ」が故の、「個人主義を經驗しない國民が個人の限界を口にするといふことは、言語道斷」なのであり、結果的にはそれは自己欺瞞となり得るのである。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「理想人間像(C:自他への否定因・超自然の絶對者といふ觀念)をもたぬといふこと――この事實こそぼくたち近代日本人の悲劇であり、それをぼくたちが一日も早く悟ること以外に、この悲劇からの抜け道はありえない。理想人間像(否定因)のないぼくたちはどんな人間になつてもいいのである、どんな生きかたをしようと大した問題ではないのである、それが社會に迷惑をおよぼさぬかぎりは。それがすなほに國家主義にも共産主義にもついてゆく――」(『私小説的現實について』全一P574上)。 |
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と言ふ事で、今評論も中々の難解にしてかつ手ごはく、そしてどの文章も重要なのであるが、特に以下内容文を此處に取り上げる事とする。更にいつもの如く難解なる内容については、手助けを他評論に仰ぐこととする。
一 フローベール
〔難解又は重要文〕P57上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「十九世紀ヨーロッパ文學はその本質と技法との完成をギュスターヴ・フローベール(一八二一~一八八〇)のうちに見いだしたといつてさしつかへないとおもふ。そこには十九世紀の近代ヨーロッパ精神が百年の歴史を代償としてたたかつてきたいくつかの主題が、もつとも凝縮したかたちで提出されてゐる。二十世紀の現代文學は、フローベールが追ひこまれて一寸の身うごきもできなかつた迷路を、いささかでも打開しえてはゐない。フローベールは行きどまりの岩壁(理想人間像C)=(A’⇒A:客體化的意思)+(B―夾雑物)に背をもたれ、もう破れぬものと覺悟をきめて腰を据ゑてしまつた」・・・この邊の文章は何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして更には、以下枠文の消息をも物語つてゐるのではなからうか。
補足すると、「もう破れぬものと覺悟をきめて腰を据ゑてしまつた」の謂ひは、以下②の方法論によつて「ロマネスク(B)なもの、びつくりするやうな事件、夢想(C)や情熱、これらすべてに死を宣告」させ、畢竟「自我(A’)の必然=エゴイズム」と明確化させた後は、もう「個人の純粋性の静謐(Bの狭小化)」は此處に極まれり、となつてしまつた事をそれは示すのではなからうか。
この樣に、ヒューマニズムと深く關聯を持つ、フローベールの「理想人間像C」及び自然主義作家達の「自己否定C」とは、十九世紀の時代を背景としてどの樣に出現したものかと言ふと、かくの如し(傍線部分)であると恆存は書いてゐる。
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二 個人と社會
〔難解又は重要文〕P58上
(長くなるので箇条書きで記載)「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「十九世紀以來の(中略)精神的主題である個人と社會との對立は、(中略)この主題の展開の方向は、(中略)いまや明瞭なかたちをとつて疑問の餘地なき實踐にむかひつつあるかにみえる」⇒つまり「個人主義の超克」⇒「個人(B)的價値にたいする社會(A)的價値の優位の信仰と主張」。
・・・この邊の文章は何を言はんとしてゐるのであらうか。以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。
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拙發表文:《個人の危機》(西歐と日本の差異を含めて)から。參照文『小説の運命Ⅰ』(昭和二十二年著)「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「個人主義の凋落(それが故の「個人主義の超克」)とともに、たしかに個人(B)の権威はおびやかされ、否定されようとしてゐる。ひとびとは社會(A)的價値の名のもとに一切の個人的なものを否定しようとしてゐる。社會(A)的價値を通じて以外に個人(B)の存在はみとめられない。これが二十世紀の理想であり、そのかぎりにおいて人類は進歩の段階をふみしめつつある。ぼくはそれを疑はない。 「社會(A)が個人(B)を否定して抹殺してかかるならば、まさにその對立と矛盾とこそ好個の題材ではないか。(中略)前世紀においてこの(社會と個人の)對立は個人(B:個人主義)の勝利からその敗北へ、その自意識(「人間如何に生くべき:D2」)の發見とその虚妄(結局自己陶酔:D3)とにをはつた。が、今日、個人は敗北と自我喪失(個人主義は畢竟エゴイズム)とから、この危機(「社會Aが個人Bを否定して抹殺」)におそはれてふたたび個人と社會との對立に直面してゐる。ひとびとは性急に個人(B)の廢棄によつてその解決がもたらされうると信じこんでゐるかにみえる。が、文學者(B)とは自己(A+B)のうちの個人(B)を廢棄しえぬ人間ではなかつたか。とすれば、いかなるイデオロギーのまへにも、なんの氣がねもなく個人(B)に執着し、社會(A)との葛藤を通じていかにしてでも個人を確立しなければならない。(以下も重要文つづく)」(P601全一『小説の運命Ⅰ』)。 (とは、文學者に限らず吾々にとつても、「全體・絶對:C」との黙契を失はない限り個人(B)の存在は失はれない、と恆存は言つてゐるのでは。そして「個人の危機」からの脱出口、或いは「社會との葛藤を通じての個人の確立」に、「全體・絶對:C」との黙契を維持した「完成せる統一體としての人格」論kanseiseruA.pdf へのリンクが、又しても此處に浮かび上がつてくる樣に小生には思へるのである)。 |
更にこの問題(「個人の危機」)については、以前(平成十七年)探究した、以下「拙發表文」が參考になるかと思ふので此處に轉載した(尚上文との重複もあるが許されたし)。
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拙發表文:《此處が解りにくい福田恆存》編「第三彈」より「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *恆存が啓示する「個人の危機」はかなり重要な今日的問題なのであり、それは現代の自由の歪曲、平和の歪曲にと繋がつています。その事は前囘選擇評論『平和の理念』最終章で、「世の中にパンよりも大事な物は何もないといふ甚だ素朴な現實主義の前に吾々は敗退して行かねばならないのです」、と示唆してゐる。即ち「社會的解決で個人の問題は解決」と言ふ事は、以下の如き結論になるのだと。 《「個人(B)は社會(A)にたいする有用性」としての價値へ顚落》 →①自由は精神(B)の問題でなくなる。社會(A)的物質的自由にて解決(物質主義)。 →②社會(A)的平和があれば個人(B)の問題は解決。(平和の最高價値化・絶對平和主義)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 個人の危機:(西歐と日本の差異を含めて) 「個人(B)は社會(A)にたいする有用性」としての價値へ顚落。その二つの理由。 (恆存評論を索引にして:P65全一『現代日本文學の諸問題』他から) *「個人(B)の危機」についての恆存の論を要約すれば、以下の通りになる。
と言ふ事で、上記の「精神の自律性」不全が齎す「個人(B)の敗北」、その二樣相をこれから追ふ事とする。〔參照圖は『福田恆存を讀む會:テキスト』yomukaitekisuto.pdf へのリンク 「個人の敗北」:二つの要因と結果。 個人主義そのものに胚胎する、二つの敗北要因(①神への叛逆と②社會への對立)。 *中世においては、神が全てを統一し社會は神の管理組織である教門が支配してゐた。故に個人の「支配・被支配の自己:A」は、教門に奉仕する事によつて(結果として神にも通じる)、それが満たされてをり社會と對立する必要はなかつた。(參照圖:「テキスト」yomukaitekisuto.pdf へのリンクP5) ルネサンスに到つて、その「社會A・個人B・神C」間の均衡に破綻が生じ、個人(B)と社會(A)との對立も始まつたのである。その後「ルネサンス以來五百年間の精神的主題である個人と社會との對立」、換言すれば個人主義の歴史は、「人間が神(C)と自然とに對してその自主性(B:個人の自由と自律性)を奪取したばかりでなく、さらにすすんで支配者(A)にたいして、社會(A)的環境にたいして平等と自由とを宣言した十八九世紀において、ますますその本領を發揮することとなつた」。 即ち「その本領の發揮」とは、①神(神の死)に對する個人(B)の優位性追求(C”化)と、②神(中世)脱出が齎す、社會(A)に對する個人(B)價値の追求、とをした事を表す。そしてやはりその結果として、以下二つの「個人敗北」の道筋が照らし出されるのである。 (注:上記傍線借用文の主語は本文では「散文の運命」であるが、言ひ替へが可能と判斷し「個人主義の歴史」と轉用。參照:P599全一『小説の運命Ⅰ』)。 ① 〔神への叛逆:神(C)否定による個人の優位性追求(C”化)とその敗北〕 *「近代自我(個人主義)の限界(とは、自己主張→自己主人公C”化→自己陶酔:畢竟エゴイズム)」⇒個人(B)の敗北⇒個人の権威の否定⇒「社會(A)的價値の名のもとに一切の個人(B)的なものを否定」⇒個人(B)は「社會(A)にたいする有用性」としての價値へ顚落。 即ち「自我の必然」として浮かび上がつたエゴイズムによつて、個人(B)は「社會(A)の有用性」としてしか、その生き延びる道を見出し得なかつた、と言ふ事になる。 ②〔社會への對立:社會(A)に對する個人(B)價値の追求とその敗北(社會=肉體A。個人=精神B。と恆存は見てゐる)〕 *「精神(B)は肉體(A)の保證なくしてその眞實性を自己確認しえぬ」・「物質(A)によつて支へられなければ、その所在も眞實性も保證しえぬ精神(B)のあいまいさ」⇒肉體(A:社會・物質)の優位性⇒精神(個人B)の問題は物質(A)でけりがつく⇒積極的承認(唯物論・社會主義へ)。消極的承認(「個人Bは社會Aにたいする有用性」へ)⇒「世の中にパン(A)よりも大事な物は何もないといふ甚だ素朴な現實(A)主義の前に吾々は敗退して行かねばならないのです」。 (參照:P458全二『近代の宿命』・P58・62~3全一『現代日本文學の諸問題』・『平和の理念』最終章)。 上述①記載:「近代自我(個人主義)の限界」は何を齎したか。⇒個人(B)は社會(A)への有用性としての價値へ顚落について。 *西歐十九世紀は、「精神の政治學」の均衡によつて、個人主義(自己主人公化:C”化)の時代こそ「精神の自律性」の保持が可能であると錯覺した(參照圖:「テキストyomukaitekisuto.pdf へのリンクP8・參照圖「彼我の差」higanosa.sozai.pdf へのリンク)。 「精神の自律性」を發揮し、「(西歐)個人主義は個人の純粋性を擁護せんとした」が、結局C(絶對・全体)無くしての「個人の純粋性」は、その特質を發揮し得ず、単なる「個人の特殊性(以下枠文)」にと顚落せざるを得なかつた(參照:P458全二『近代の宿命』)。
でこの問題は、以下の事を意味する。 個人主義では、精神は「絶對・全體:C」缺如の爲、自己滿足・自己撞着に陥り、逆にその自律性を發揮し得ない。結果として肉體の自律性(「支配・被支配の自己」:A)の自己愛的引力に引き摺られ、その必然として更なる「自己主張D2⇒自己主人公C”化⇒自己陶酔(似非實在感D3)」のエゴイズムに陥つた。そして、結果として自我喪失に到つたのである。 *そして西歐十九世紀「近代自我=個人主義」の結論は以下の通りに。
******************************************* 日本的精神主義構圖(日本の特殊性)と「西歐十九世紀構圖」、彼我の差。(參照圖「彼我の差」higanosa.sozai.pdf へのリンク) 〔西歐十九世紀構圖に於ける「個人の敗北」:二つの要因と結果〕 ①神(C)否定による個人の優位性追求(C”化)とその敗北。 *近代自我(個人主義)の限界(とは、自己主張→自己主人公C”化→自己陶酔:畢竟エゴイズム。に據る)⇒個人(B)の敗北⇒個人の権威の否定⇒「社會(A)的價値の名のもとに一切の個人(B)的なものを否定」⇒個人(B)は「社會(A)にたいする有用性」としての價値へ顚落。 即ち「自我の必然」として浮かび上がつたエゴイズムによつて、個人(B)は「社會(A)の有用性」としてしか、その生き延びる道を見出し得なかつた、と言ふ事になる。 ②社會(A)に對する個人(B)價値の追求とその敗北(注:社會=肉體A。個人=精神B。と恆存は見てゐる)。 *「精神(B)は肉體(A)の保證なくしてその眞實性を自己確認しえぬ」・「物質(A)によつて支へられなければ、その所在も眞實性も保證しえぬ精神(B)のあいまいさ」⇒肉體(A:社會・物質)の優位性⇒精神(個人B)の問題は物質(A)でけりがつく⇒積極的承認(唯物論・社會主義へ)。又は消極的承認(「個人(B)は社會(A)にたいする有用性」へ)。 (參照:P458全二『近代の宿命』・P58・62~3全一『現代日本文學の諸問題』)。 〔日本的精神主義構圖(日本の特殊性)に起因するもの〕 ⇒(參照圖「彼我の差」higanosa.sozai.pdf へのリンク左圖) *上述「個人の敗北」①②の説明について恆存が言ふ、更に重要な點を見逃す事は出來ない。 それは何かと言ふと、西歐の場合、個人が「社會にたいする有用性」として價値顚落の理由は、①②の二つとも當て嵌るが、日本の場合は②しか當て嵌らないと言ふ事なのである。 「個人主義を経験しない(日本)國民が個人の限界(①)を口にするといふことは言語道斷」であると。そして戦後知識人がその欺瞞をしてゐるのだと言ふ。即ち彼等は、戰爭中の個人敗北の後ろめたさを隠蔽すべく、外來思想(新漢語:「個人主義」)の権威を「自己保存の後楯・護符(C2化:參照圖「彼我の差」左圖)」にした、と恆存は指摘する(參照:『近代日本知識人の典型』他)。そして、戰爭中の日本人の「個人の敗北」は、②の「物質(A:暴力・ファシズム)に對する個人の敗北」でしかなく、「①近代自我(個人主義)の敗北」などとは關係ないのだと、その自己欺瞞を恆存は鋭く剔抉するのである。(參照:P602全一『小説の運命Ⅰ』・P61全一『現代日本文學の諸問題』) この西歐との彼我の差を、堪へず見逃しさうになる缺點を日本人は持つてゐるのである。 恆存は評論中で、常に西歐的限界と日本的限界を「パラレル」に描き、その彼我の差を明示してゐる。しかし惜しむべきかな、我々日本人はそれを理解できない。其處に更なる「恆存探究」の意義を小生は見出すのである。 |
三 藝術家と俗人
〔難解又は重要文〕P60上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「個人(B)と社會(A)との對立は、したがつて藝術家(B)と俗人(A)との對立といふ、より明確な、より自覺的な、そしてより決定的な主題として提出されることになつたのだ。(中略)マンは、インフェリオリティ・コンプレックス(劣等感:個人Bの社會Aに對する)そのものを作品の主題にしたのである。(中略)トニオといふ純粋な藝術家(B)が作品(B)の主人公として自己のやましさ(劣等感)を感じてゐるのである。社會(A)に對する個人(B)は、ここに藝術家(B)といふ概念のうちに追ひこまれてしまつたのだ。
フローベールも俗人(A)を蔑視して象牙の塔(B)に閉ぢこもらうと決意した。が、かれは個人(B)の概念をあくまで俗人(A)のうちに沈めようと覺悟してゐたのだ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして更には、以下枠文の消息を物語つてゐるのではなからうか。
補足すると、「かれは個人(B)の概念をあくまで俗人(A)のうちに沈めようと覺悟してゐたのだ」とは、端的に言へば「かれの實證主義的(A’⇒A)な批評精神はその作品からあらゆる夢想(C)を放逐し、『ボヴァリー夫人』や『感情教育』を完璧に合理と必然との網目(A’⇒A)にぬりこめつてしまつた」と言ふ事であらう。
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「フローベールは個人(B)の概念をあくまで俗人(A)のうちに沈めようと覺悟してゐたのだ」について「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「個人(B個人の純粋性)の敗北を身をもつて敗北してみせること、可能性の天窓は一分のすきもなく完全にとざされ(B―夾雑物=B狭小化)、現實世界(A)で獲得できた自由(A’⇒A客體化)のいかにつまらなく、それがあまりにつまらぬために自由でもなんでもない(自我の必然=エゴイズム)といふことを、克明に描寫し證明してやること(それが小説『マダム ボヴァリー』)」であつたと。(參照『現代日本文學の諸問題』全一P59)。 *「フローベールにおけるリアリズム(A)の完成(A’⇒A)とは、ロマネスク(B)なもの、びつくりするやうな事件、夢想(C)や情熱、これらすべてに死を宣告することであり、その役割を買つて出たのがかれの批評精神(A’⇒A)にほかならない。(中略)たしかにかれの實證主義的(A’⇒A)な批評精神はその作品からあらゆる夢想(C)を放逐し、『ボヴァリー夫人』や『感情教育』を完璧に合理と必然との網目(A’⇒A)にぬりこめつてしまつた。(中略)さきに追放されたはずのロマネスク(B)や夢想(C)こそが、作品の裏がはからあのリアリスティックな無表情の記述の保證に立つてゐるにほかならない」(『小説の運命Ⅱ』P611下⇒PP圖「ロマネスクとリアリズム」romanesuku.pdf へのリンク)。*「(西歐)十九世紀後半の自然主義作家にとつて、資本主義社會(A)は彼等の自我(A’)を實生活(A)において拒絶し扼殺するほどに堕落し硬化したのであり、しかもこの社會(A)的事實を彼等ははつきり凝視し、さらにこれを自己(A’)のものとして――いはば社會(A)の醜惡と痼疾とを自己(A’)のそれ(A’⇒A)として受け容れたのであつた。またそれゆゑの嚴しい自己否定(B⇒C:理想人間像)でもあつた(とは、「A’⇒A」として、即ちAの醜惡と痼疾、堕落と硬化を自己(A’)のもの、換言すれば「エゴイズムと虚榮と俗惡とのかたまり」として受け容れたと言ふ事である)。彼等の自我(A’)はもはや作品(B)以外に主張と正當化との場所(B⇒C:理想人間像)を見いだしえなかつたのである」(P19・20)。 *で、この「彼等の自我(A’)はもはや作品(B)以外に主張と正當化との場所(B⇒C:理想人間像)を見いだしえなかつた」(P19)理由とはどう言ふことであらうか・・・ 即ち、「ヨーロッパの作家たちが自己(A’)をあへて作品(B)のうちに扼殺したのは、(「社會Aの醜惡と痼疾とを自己A’のそれとして受け容れた」爲に)、それ(自己A’)がすでに實生活(A)においても生きる道をもたなかつたからであり、彼等はさういふ自己(A’)を作品(B)のうちに甘やかすことを徹底的に嫌つたからであつた。いや、彼等は自己(A’)のうちに甘やかしうる餘地を見いだしえなかつた――(「リアリズム=西歐自然主義」と言ふ手段に明確化され)それ(自己A’)はエゴイズムと虚榮と俗惡とのかたまり(自我の必然としてのエゴイズム)以外のなにものでもなかつたからである」と言ふ事になる(參照『近代日本文學の系譜』P20)。 |
〔續く⇒〕(尚、明確化する爲に一應、小生的見解を以下文中に括弧で入れてみた)
「が、マンはそれ(個人B)を藝術家(B)の概念と一致せしめた。をかしなことに――いや、當然なことなのだが――そのために俗人(A)にたいする蔑視と憎惡とはフローベールにくらべて希薄になつた。といふより、もうそこには單純な憎惡や輕蔑は見られない。むしろ反對に、トニオの藝術家(B)は俗人(A)にたいして一種の郷愁を感じ、自己のやましさを羞恥(インフェリオリティ・コンプレックス=劣等感)する。さらに俗人(A)にたいする博大な愛情すらめばえてくるのである。(中略)ぼくはそれを藝術(B)のアイロニー(逆説)と呼ぶのだ。二十世紀文學(B)はこのアイロニー(逆説:俗人Aへの愛情)をはつきり表面化したのである。もつとはつきりいへば、現代(A)における藝術(B)の効用、あるいは藝術家(B)の効用――それが今日さけられぬ問題として前途に横たはつてゐるのだ。そこで、さきほどの課題はつぎのやうにパラフレイズすることもできる――
藝術(B)が社會(A)や人類進歩(A)の歴史に奉仕(社會Aに對しての、藝術Bの効用、藝術家Bの効用)しうるかどうか。現在それが奉仕しえぬものとなつてゐるとすれば、これを奉仕しうるものにたてなほすつもりがあるかどうか。また本來的に奉仕しえぬものときまつたなら、これを抹殺すべしと考へるか、それとも奉仕しえぬといふかたちでじつはそれに奉仕せしめる社會(A)の健康を信ずべきか。あるいは藝術(B)に奉仕を命ずる社會と進歩との觀念(A)を徹底的に默殺してしまふか。
そしてこれらの課題はただに文藝批評や藝術家の領域においてのみならず、藝術家(B)自身がこたへていかねばならぬ現代の主題なのである」。(とは以下の如し。再々重複でしつこくなるが、是も先述『小説の運命Ⅰ』文を參照して貰ふ事となる)
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藝術家(B)自身がこたへていかねばならぬ現代の主題・・・「藝術(B)が社會(A)や人類進歩(A)の歴史に奉仕(社會Aに對しての、藝術Bの効用、藝術家Bの効用)しうるかどうか」云々について。 「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「個人主義の凋落(それが故の「個人主義の超克」)とともに、たしかに個人(B)の権威はおびやかされ、否定されようとしてゐる。ひとびとは社會(A)的價値の名のもとに一切の個人的なものを否定しようとしてゐる。社會(A)的價値を通じて以外に個人(B)の存在はみとめられない。これが二十世紀の理想であり、そのかぎりにおいて人類は進歩の段階をふみしめつつある。ぼくはそれを疑はない。が、それはあくまで政治(A)の理想であり、文學(B)の道ではない。ぼくたちのうちに――ぼくたちひとりひとりの内部に、政治的=集団的自我(A)があり、また文學的=個人的自我(B)がある。個人主義の線にそつての個人(B)の権威は没落しても、個人(B)の存在は永遠に失はれぬであらうし、文學(B)は――文學が存續しうるかぎり、この存在を見うしなつてはならない。(中略) 社會(A)が個人(B)を否定して抹殺してかかるならば、まさにその對立と矛盾とこそ好個の題材ではないか。(中略)前世紀においてこの(社會と個人の)對立は個人(B:個人主義)の勝利からその敗北へ、その自意識(「人間如何に生くべき:D2」)の發見とその虚妄(結局エゴイズム・自己陶酔:似非實在感D3)とにをはつた。が、今日、個人(B)は敗北と自我喪失(個人主義は畢竟エゴイズム)とから、この危機におそはれてふたたび個人(B)と社會(A)との對立に直面してゐる。ひとびとは性急に個人(B)の廢棄によつてその解決がもたらされうると信じこんでゐるかにみえる。が、文學者(B)とは自己のうちの個人(B)を廢棄しえぬ人間ではなかつたか。とすれば、いかなるイデオロギーのまへにも、なんの氣がねもなく個人(B)に執着し、社會(A)との葛藤を通じていかにしてでも個人(B)を確立しなければならない」(P601全一『小説の運命Ⅰ』)。 (とは、文學者に限らず吾々にとつても、「全體・絶對:C」との黙契を失はない限り個人(B)の存在は失はれない、と恆存は言つてゐるのでは。そして「個人(B)の危機」からの脱出口、或いは「社會(A)との葛藤を通じての個人(B)の確立」に、「全體・絶對:C」との黙契を維持した「完成せる統一體としての人格」論が、又しても此處に浮かび上がつてくる樣に小生には思へるのである)。 |
〔難解又は重要文〕P60上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「以上のことから戰後の現代日本文學が當面せねばならなかつたいくつかの問題がひきだせる。ぼくたちは現代日本の特殊な現實に條件づけられながらも、けつきよくは世界的なひとつの課題に直面してゐるのだ。が、それが日本の特殊性といふことに限定されて、それらがつまりはひとつの問題であるといふことにさへ氣がつかない」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。
「けつきよくは世界的なひとつの課題(「つまりはひとつの問題」)に直面してゐるのだ」とは、つまりは「全體・絶對:C」無くしての「個人(B)の純粋性」は、その特質を發揮し得ず、單なる「個人(B)の特殊性(以下二枠文參照)」にと顚落せざるを得なかつた、と言ふことを恆存は言つてゐるのではなからうか。
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參照文:P458全二『近代の宿命』「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「個人主義は個人(B)の純粋性といふものを擁護せんとするが、それはたんなる特殊性を純粋性とみまちがへてゐはしないか。その純粋なる自我(B)にしてもし神(C)に從屬しないとするならば――それならば神(C)から獨立した純粋自我(B)とはいつたいいかなる内容をもつものなのか。それはなにかあると思ひこんでゐるだけで、結局は社會(A)の合理化によつて、あるいは物質(A)の滿足によつてけりのつくもの(先述「個人の敗北」①神への叛逆、參照)ではないのか」。 |
で、その「個人(B)の特殊性」を更に探究すると以下の樣になる。
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一部、拙發表文:《個人の危機》(西歐と日本の差異を含めて)から。參照文『小説の運命Ⅰ』「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 〔個人(B)の特殊性について〕 *西歐十九世紀は、「精神の政治學」の均衡higanosa.sozai.pdf へのリンクによつて、個人主義(自己主人公化:C”化)の時代こそ「精神の自律性」の保持が可能であると錯覺した。 「精神の自律性」を發揮し、「(西歐)個人主義は個人の純粋性を擁護せんとした」が、結局C(絶對・全體)無くしての「個人(B)の純粋性」は、その特質を發揮し得ず、単なる「個人の特殊性(以下枠文)」にと転落せざるを得なかつた(參照:P458全二『近代の宿命』)。
そして是は、以下の事を意味する。 個人主義では、精神は「絶對・全體:C」缺如の爲、自己滿足・自己撞着に陥り、逆にその自律性を發揮し得ない。結果として肉體の自律性(「支配・被支配の自己」:A)の自己愛的引力に引き摺られ、その必然として更なる「自己主張⇒自己主人公化⇒自己陶酔」のエゴイズムに陥つた。そして、結果として自我喪失に到つた、と言ふ事であらう。 *そして西歐十九世紀「近代自我=個人主義」の結論は以下の通りに。
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〔續く⇒〕
「さまざまの課題が入りまじり、たがひに錯綜して、いとぐちをそれぞれべつの方向にむけ、しかも關心の強度はまちまちであり、ひとびとはひとついとぐちをたどりきらぬうちに、めんどうになつて他のいとぐちに手をつけ、かうしていろいろなトピックが取引されながら、つひにそれらが根本においておなじ絲卷に結びつけられてゐることを發見しえないのだ。ぼくはいま論理の飛躍を覺悟のうへで、それらのいとぐちをつぎつぎにたぐつてみようとおもふ」。
四 近代自我の確立
〔難解又は重要文〕P62上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「ここに精神(B)と肉體(A)との對立といふ主題が設定される。精神(B)は肉體(A)の保證なくしてその眞實性を自己確認しえぬのだ。が、そのことこそ近代自我(個人B主義)の敗北を意味してゐるのではないか。(中略)
してみれば、近代自我(個人B主義)の確立といふことは制度的、物質的(いずれもA)に保證されないかぎり、たんなる空念佛にすぎぬ」・・・この邊の文章は何を言はんとしてゐるのであらうか。以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 前述:②社會(A)に對する、個人(B)價値の追求とその敗北(社會=肉體A。個人=精神B。と恆存は見てゐる)。 *「精神(B)は肉體(A)の保證なくしてその眞實性を自己確認しえぬ(P62)」・「物質(A)によつて支へられなければ、その所在も眞實性も保證しえぬ精神(B)のあいまいさ(P63)」⇒肉體(A:社會・物質)の優位性⇒精神(B個人)の問題は物質(A)でけりがつく⇒積極的承認:唯物論・社會主義へ。消極的承認:「個人Bは社會Aにたいする有用性」へ。(參照:P58・62~3全一『現代日本文學の諸問題』:P458全二『近代の宿命』)。 *戰爭中の日本人の「個人の敗北」は、②の「物質(A:暴力・ファシズム)に對する個人の敗北」でしかなく、前述「①近代自我(個人主義)の敗北」などとは關係ないのだと、恆存は自己欺瞞を鋭く剔抉するのである。(參照:P602全一『小説の運命Ⅰ』・P62全一『現代日本文學の諸問題』) |
〔續く⇒〕
「それにもかかはらず、戰後の文學はその第一のトピックとして近代自我(個人B主義)の確立、文學者(B)の戰爭責任(A)、政治(A)と文學(B)といふ問題にしがみついていつたのである」。
五 政治と文學
〔難解又は重要文〕P63上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「ぼくたち文學者(B)にとつてこの戰爭から學ばなければならぬ唯一の問題は、物質(A)によつて支へられなければ、その所在も眞實性も保證しえぬ精神(B)のあいまいさといふことでなければならぬはずである。近代自我(個人B主義)の確立ではない。それは所詮は敗北せざるをえぬものであるといふ、いはば自我(B個人的自我)の本來的な危機と脆弱性――これをどう處理するかが問題なのだ。いまさら社會(A)にたいして個人(B)の權威を確立(近代自我=個人主義の確立)するなどとはアナクロニズムもはなはだしい。個人(B)はみごとに敗北した。敗北せざるをえぬことをファシズム(A物質)の暴力に直面してはつきり自覺したのである。で、敗北せざるをえぬものを棄てるか、あるいはまた敗北においてこれを認め固執するか、そこが問題になる――權威のすがたではない、敗北(近代自我=個人B主義の敗北)のすがたを、確立するとならば確立しなければならないのではないか。
その結果、まさにぼくたちは自己分裂をきたす。二重人格(A・Bの峻別)である。政治(A)におけるこころみと文學(B)におけるこころみとが、ちょうど相反した方向をとるのだ――近代的な政治組織(A)の確立」。(とは以下の如し)
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「近代自我(B:個人主義)の確立といふことは制度的、物質的(いずれもA)に保證されないかぎり、たんなる空念佛にすぎぬ」(P62) |
〔續く⇒P63上〕
「そしてその反面に、あるいはもう屍となり用のなくなつてしまつたのかもしれぬ近代自我(個人B主義)の處理。處理といふのは、社會(A)にたいするその有用性の究明といふことにほかならない。さてこそ、問題はここで明白に出發點と一致した――藝術(B)、ないしは藝術家(B)の効用」。(とは以下の如し)
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先述文 *藝術家(B)自身がこたへていかねばならぬ現代の主題・・・「藝術(B)が社會(A)や人類進歩(A)の歴史に奉仕(社會Aに對しての、藝術Bの効用、藝術家Bの効用)しうるかどうか」云々。(參照:先述、拙發表文「個人の危機」)。 |
六 民主主義文學
〔難解又は重要文〕P63下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「ここにひとつの血路がたしかに存在する。文學(B)の効用――それは社會(A)革命に奉仕すること」・・・とは、重複するが以下文中①の事を言つてゐるのであらう。
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先述:拙發表文「個人の危機」より 〔近代自我(個人主義)の末路〕 *近代自我の必然としてのエゴイズム(個人B主義は畢竟エゴイズム)⇒個人(B)の敗北⇒近代自我(個人B主義)の限界と凋落⇒個人(B)の権威の否定⇒個人B主義の超克⇒「個人(B)的價値に對する社會(A)的價値の優位」⇒個人(B)は社會(A)への有用性としての價値へ顚落。 〔それを二十世紀は「二十世紀の理想」として引き継ぐ〕 ①個人・藝術(B)の社會(A)への奉仕。社會革命に奉仕(民主主義文學=プロレタリア文學の延長として)。(P63全一『現代日本文學の諸問題』) ②社會(A物質)的解決で個人(B精神)の問題は解決。 *自由は精神(B)の問題でなくなる。社會的物質的(A)自由にて解決(物質主義)。 *社會(A)的平和があれば個人の問題は解決(平和の最高價値化。絶對平和主義へ)。 〔①に關聯して、恆存は『近代の宿命』(全二:P457)ではかう言つてゐる〕 「マルキシズムは個人主義をいかに科學的に分析し、歴史的に位置づけたにしても、それ自身の歴史性(テキストyomukaitekisuto.pdf へのリンク:P8)と相對性とをいまだに見ぬきえないでゐるかにみえる。それは個人主義そのものを克服して出てきたものではけつしてない。ただ十八世紀的個人主義(參照:テキストP7文「個人と社會との対立は社會の側から解決される」)がそれによつて否定されてゐるのにすぎず、その意味では個人主義もまた、十八世紀的な社會改革の意圖を超えて出てきたものにほかならない」と。 即ち、マルキシズムは十九世紀「個人主義=近代自我」を克服してはゐないのだと。 |
〔續く⇒P64下〕
「民主主義文學は既成の社會(A)にではなく、きたるべき社會(A)革命に奉仕する。が、政治小説も勸善懲惡小説も、そしてプロレタリア文學も、今日の民主主義文學も、社會(A)的價値を個人(B)的價値のうへにおかうとするかぎりにおいて、なんらのかはりもない。むしろつぎつぎに前者を受けつぎながら、その思想の論理的な強化をはかつてきたのである」。(とはやはり上枠文①の如し)。
七 心理主義の限界
〔難解又は重要文〕P65上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「心理主義がおのれの無力(「近代自我の限界」=個人主義は畢竟エゴイズムと言ふ事)を自覺したとき――まさにそのとき個人(B)の眞實性は危機に見まはれたといへるにほかならない。個人(B)心理そのものの内部に自己を主張しうるにたる眞實性などといふものは、(個人主義は畢竟エゴイズムであるが故に)もうついに發見しえないのだ。パラフレイズ(換言)すれば、個人(B)は社會(A)にたいする有用性によつて評價される、といふことなのである」。
*「心理主義の方法が採用されてきたのは、自我(A’)が他我(A)にたいして、個人(B)が他の個人(A)にたいして、いひかへれば個人(B)が社會(A)にたいして、自己(B)の眞實性を主張してゐたからである」。
・・・上文二つは何を言はんとしてゐるのであらうか。
つまりはこの二つは、心理主義が招いた限界、即ち、以下枠文「近代自我の限界」=個人主義は畢竟エゴイズム=個人(B)の敗北、によるその内の、②社會(A)に對する個人(B)價値の追求とその敗北、を意味してゐるのであらう。
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先述:拙發表文「個人の危機」より「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 「個人の敗北」:二つの要因と結果 個人主義そのものに胚胎する、二つの敗北要因(①神への叛逆と②社會への對立) *『近代の宿命』等を索引にして記載すると、中世においては、神が全てを統一し社會(A)は神の管理組織である教門が支配してゐた。故に個人の「支配・被支配の自己:A」は、教門に奉仕する事によつて(結果として神にも通じる)、それが満たされてをり社會(A)と對立する必要はなかつた。(參照圖:「テキスト」P5) ルネサンスに到つて、その「社會A・個人B・神C」間の均衡に破綻が生じ、個人(B)と社會(A)との對立も始まつたのである。その後「ルネサンス以來五百年間の精神的主題である個人(B)と社會(A)との對立」、換言すれば個人主義の歴史は、「人間が神(C)と自然とに對してその自主性(B:個人の自由と自律性)を奪取したばかりでなく、さらにすすんで支配者(A)にたいして、社會的環境(A)にたいして平等と自由とを宣言した十八九世紀において、ますますその本領を發揮することとなつた」(參照:P599全一『小説の運命Ⅰ』)。 即ち「その本領の發揮」とは、①神(神の死)に對する個人の優位性追求(C”化)と、②神(中世)脱出が齎す、社會(A)に對する個人(B)價値の追求、とをした事を表す。そしてやはりその結果として、以下二つの「個人敗北」の道筋が照らし出されるのである。(注:上記傍線借用文の主語は本文では「散文の運命」であるが、言ひ替へが可能と判斷し「個人主義の歴史」と轉用。參照:P599全一『小説の運命Ⅰ』) ①神(C)否定による個人(B)の優位性追求(C”化)とその敗北。 *「近代自我(個人主義)の限界(とは、下記「個人の特殊性」による自己主張→自己主人公化→自己陶酔:畢竟エゴイズム)」⇒個人(B)の敗北⇒個人(B)の権威の否定⇒「社會(A)的價値の名のもとに一切の個人(B)的なものを否定」⇒個人(B)は「社會(A)にたいする有用性」としての價値へ顚落。 即ち「自我の必然」として浮かび上がつたエゴイズムによつて、個人(B)は「社會(A)の有用性」としてしか、その生き延びる道を見出し得なかつた、と言ふ事になる。 ②社會(A)に對する個人(B)價値の追求とその敗北:(社會=肉體A。個人=精神B。と恆存は見てゐる) 「精神(B)は肉體(A)の保證なくしてその眞實性を自己確認しえぬ」・「物質(A)によつて支へられなければ、その所在も眞實性も保證しえぬ精神(B)のあいまいさ」⇒肉體(A:社會・物質)の優位性⇒精神(個人B)の問題は物質(A)でけりがつく⇒積極的承認(唯物論・社會主義へ)。又は消極的承認(「個人は社會にたいする有用性」へ)。(參照:P458全二『近代の宿命』:P58・62~3全一『現代日本文學の諸問題』)。 ①の「近代自我(個人主義)の限界」は何を齎したか。⇒個人(B)は社會(A)への有用性としての價値へ顚落。(P65全一『現代日本文學の諸問題』) 西歐十九世紀は、「精神の政治學」の均衡によつて、個人主義(自己主人公化:C”化)の時代こそ「精神の自律性」の保持が可能であると錯覺した。 「精神の自律性」を發揮し、「(西歐)個人主義は個人の純粋性を擁護せんとした」が、結局C(絶對・全體)無くしての「個人の純粋性」は、その特質を發揮し得ず、單なる「個人の特殊性(以下枠内文章)」にと顚落せざるを得なかつた。(參照:P458全二『近代の宿命』)
是は即ち、以下の事を意味する。 個人主義では、精神は「絶對・全體:C」缺如の爲、自己滿足D3・自己撞着に陥り、逆にその自律性を發揮し得ない。結果として肉體の自律性(「支配・被支配の自己」:A)の自己愛的引力に引き摺られ、その必然として更なる「自己主張⇒「自己主人公化⇒「自己陶酔」のエゴイズムに陥つた。そして、結果として自我喪失(自己への適應異常)に到つたのである。 |
〔難解又は重要文〕P65上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「が、さうではなく、自我(A’)が、個人(B)が、歴史、普遍性なるもの、絶對者、無、神(いずれもC的概念)にたいして自己を主張せん(D2:自己表現・自由意思・人間如何に生くべき)としたばあいにも、心理主義はその決定的な限界に逢着せざるを得ないのである」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。
尚、當文も前項の枠文、①の「近代自我(個人主義)の限界」は何を齎したか。⇒個人は社會への有用性としての價値へ顚落。の内容を意味してゐると思へる。
つまり、心理主義は以下の方法論によつて、近代自我(個人主義)の限界、つまり「D3:自己陶酔・自己滿足・自己絶對視・自己證明による「似非實在感」。即ち「個人主義は畢竟エゴイズム」に逢着したのである。
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「近代ヨーロッパ文學」のヒューマニズムの方法論と「フローベールの創作方法(心理主義)」 *簡略すると、フローベールの創作方法(心理主義)も以下ヒューマニズムと同じ公式なのだと。 ①ヒューマニズム(否定因C)=(A’⇒A:客體化的意思)+(B―夾雑物)。 ②フローベール(理想人間像C)=(A’⇒A:客體化的意思)+(B―夾雑物)。 つまり、ヒューマニズムは「否定因C」を根柢に持つと同じく、フローベールも「理想人間像=否定因C」を根柢に持つてゐるのだと。 |
〔難解又は重要文〕P65下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「なほ嚴密にいふならば、心理主義がその限界(上枠文:個人主義は畢竟エゴイズム)までゆきつき、しかもなほ自我の個人的價値(B個人的自我)に固執するならば、そのときこそ、それまで對象であつた社會(A)は下方にしりぞき、そのかなたに歴史の概念(C時間的全體感)が、そしてさらにその上方に神や無の絶對者(C)が敵手としてあらはれるであらう」・・・この邊の文章は何を言はんとしてゐるのであらうか。やはり重複の引用となるが、以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。
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先述:拙發表文「個人の危機」より「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 別な脱却方法:個人價値の再構築(恆存の主張) *「一匹(B)と九十九匹(A)」の峻別。即ち「文學(B)的=個人的自我(B)」の追求。「個人(B)は社會(A)にたいする有用性」としての価値へ顚落させるのではなく、「社會(A)との葛藤を通じて個人(B)の確立」を(⇒「以下「重要」文參照)。 重要:『小説の運命Ⅰ』より *「個人主義の凋落とともに、たしかに個人の権威はおびやかされ、否定されようとしてゐる。ひとびとは社會的價値の名のもとに一切の個人的なものを否定しようとしてゐる。社會的價値を通じて以外に個人の存在はみとめられない。これが二十世紀の理想であり、そのかぎりにおいて人類は進歩の段階をふみしめつつある。ぼくはそれを疑はない。が、それはあくまで政治の理想であり、文學の道ではない。ぼくたちのうちに――ぼくたちひとりひとりの内部に、政治的=集団的自我(A)があり、また文學的=個人的自我(B)がある。個人主義の線にそつての個人(B)の権威は没落しても、個人の存在は永遠に失はれぬであらうし、文學(B)は――文學が存續しうるかぎり、この存在を見うしなつてはならない。(中略) 社會(A)が個人(B)を否定して抹殺してかかるならば、まさにその對立と矛盾とこそ好個の題材ではないか。(中略)前世紀においてこの(社會と個人の)對立は個人(B:個人主義)の勝利からその敗北へ、その自意識(「人間如何に生くべき:D2」)の發見とその虚妄(結局自己陶酔と言ふ:D3)とにをはつた。が、今日、個人(B)は敗北と自我喪失(個人主義は畢竟エゴイズム)とから、この危機におそはれてふたたび個人と社會との對立に直面してゐる。ひとびとは性急に個人(B)の廢棄によつてその解決がもたらされうると信じこんでゐるかにみえる。が、文學者とは自己のうちの個人(B)を廢棄しえぬ人間ではなかつたか。とすれば、いかなるイデオロギー(A)のまへにも、またいかなる社会正義(A)のまへにも、なんの氣がねもなく個人(B)に執着し、社會(A)との葛藤を通じていかにしてでも個人(B)を確立しなければならない。それはけつして社會(A)の否定へと道を通じてゐてはならない。社會(A)を肯定し、現代の政治理想(A)を肯定すればこそ、今日の個人(B)の苦惱があり、この切實な苦惱を地盤として小説がなりたたぬはずはない」(P601全一『小説の運命Ⅰ』)。 (とは、文學者に限らず吾々にとつても、「全體・絶對:C」との黙契を失はない限り個人(B)の存在は失はれない、と恆存は言つてゐるのでは。そして「個人の危機」からの脱出口、或いは「社會との葛藤を通じての個人の確立」に、「全體・絶對:C」との黙契を維持した「完成せる統一體としての人格」論が、またしても此處に浮かび上がつてくるのである)。 |
八 觀念の文學
〔難解又は重要文〕P65下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「絶對者(C)を相手にして自己の眞實性を確保しうるかいなかといふやうな文學概念にあつては、《人生いかに生くべきか=D2自己主張》ではなく、《人生(非絶對=相對物:A+B)は生きるにあたひするかいなか》といふかたちで問ひが發せられなければならない。絶對者(C)は『おまへ(相對物:A+B)かおれ(絶對C)か』といふのだ。いひかへれば、この世界(空間的全體=C的概念)を、歴史(時間的全體=C的概念)を、意味づけ價値づけてゐるものは神(C)か自我(相對:A+B)か、といふことである。もし神(C)を信じてゐないとすれば、ぼくたちはこの問ひを無にたいして發しなければならぬ――いつたい意味はあるのかないのか(即ち「何をしてもいいししなくてもいい」と言ふ事では)。
が、答へはどうやら自明であるやうにおもはれる。なぜなら、この問ひの本質は、神(C)はあるのかないのか、無ならば――もう問題はない、無を前提としてなんの意味もありはしないのだ。(中略)歸依とはなにか――社會(A)に屈服するのはいやだが神(C絶對)には從ふといふことではないか。そこ(C絶對)まで突きぬければ、どうして社會(A:相對物)に奉仕するのがいやであらうか――いやであるわけがない」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。
〔難解又は重要文〕P66上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「社會(A)といふ概念を楯にとつて一歩もうごかうとしない人間――それが大部分なのである。現代日本の知識階級のヒューマニズムといふのがそれだ。かれらは社會(A)的價値を楯にとつて、じつはその背後に自己主張をひそませてゐる――しかもそのこと自體にどうしても氣づかぬのである」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。以下枠文の消息を物語つてゐるのではなからうか。
捕捉するならばつまり、「近代ヨーロッパ文學(個人主義文學)における心理主義の根柢にはヒューマニズムがあつた」のとは反對に、「現代日本の知識階級のヒューマニズム」には、さうした個人主義文學(心理主義)の根柢にある「ヒューマニズム」などと言ふものは缺如してゐる。
下枠文(公式)に記載してある樣に、西歐ヒューマニズム(フローベールも)は「否定因C」を根柢に持つてゐる。それに引き比べ、「個人主義をつひに自分のものとなしえなかつた」(P602全一『小説の運命Ⅰ』)、「現代日本の知識階級のヒューマニズム」には、西歐個人主義(西歐心理主義)が持つ、自己に對する「否定因C」(下枠文:公式)を持たない。故にいとも簡單に「背後に自己主張(エゴイズム)をひそませ」る事が可能となるのである。
彼等はむしろ、否定ならぬ「絶對的自己肯定:C”」の爲に、その肯定因として「C2:護符・後楯」を上位概念「世界・社會・階級、大思想」に求めようとする。何故ならば、西歐近代が否定因としての神(C)を背景に持つに對して、前近代日本はそれを持たない。故に後楯による自己欺瞞が可能になるのである、と恆存は指摘するのである(參照『日本の知識階級』全5P369)。
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〔難解又は重要文〕P65上より「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「心理主義の方法が採用されてきたのは、自我(A’)が他我(A)にたいして、個人(B)が他の個人(A)にたいして、いひかへれば個人(B)が社會(A)にたいして、自己(B)の眞實性を主張してゐたからである」・・・この「個人(B)が社會(A)にたいして、自己の眞實性」とは何を言はんとしてゐるのであらうか。以下①②の方法論が「自己(B)の眞實性」即ち「個人(B)の純粋性の擁護」に繋がつてゐたと言ふことなのであらう。
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かうした、知識階級のみならず現代日本人に「自己欺瞞」が胚胎する根本原因を考へるに、恆存の以下枠文「近代日本人の悲劇」に想到せざるを得ない。小生思ふらく。恆存評論の「進歩的知識人」や「現代日本人」批判には、「理想人間像(否定因)」缺如と言ふ、國民的本質への深い凝視が通底してゐるやに思はれる。
即ち詳しく書けば、「理想人間像(C:自他への否定因・超自然の絶對者といふ觀念)」をもたぬといふこと」が、西歐のヒューマニズム、それを内包する「個人主義をつひに自分のものとなしえなかつた」(P602全一『小説の運命Ⅰ』)原因なのであり、同じく「近代日本の知識階級はヨーロッパ的な意味においてその個人(B)の極限にゆき」(同頁)つき得ない原因なのである。であるから「理想人間像(否定因)をもたぬ」が故の、「個人主義を經驗しない國民が個人の限界を口にするといふことは、言語道斷」(同頁)なのであり、結果的にはそれは自己欺瞞となり得るのである。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「理想人間像(C:自他への否定因・超自然の絶對者といふ觀念)をもたぬといふこと――この事實こそぼくたち近代日本人の悲劇であり、それをぼくたちが一日も早く悟ること以外に、この悲劇からの抜け道はありえない。理想人間像(否定因)のないぼくたちはどんな人間になつてもいいのである、どんな生きかたをしようと大した問題ではないのである、それが社會に迷惑をおよぼさぬかぎりは。それがすなほに國家主義にも共産主義にもついてゆく――」(『私小説的現實について』全一P574上)。 (つまりは、以下プロセスを招來する事となる) *「理想人間像(C:自他への否定因・超自然の絶對者といふ觀念)をもたぬといふこと――この事實こそぼくたち近代日本人の悲劇」⇒戰後日本人の「相對主義の泥沼」⇒「現代日本人の非倫理的性格」。 |
〔續く⇒P66上〕
「とすれば、ふたたび創作技法として心理主義が採用されねばならなくなりはしないか――みづからの限界をこころえた心理主義(恆存注:坂口安吾・石川淳・太宰治)が」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。つまり、上枠文の「西歐ヒューマニズム公式」(心理主義技法)の採用をその限界をこころえて、ふたたびすると言ふ事なのでは。
九 私小説
〔難解又は重要文〕P66下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「私小説の現代的在りかたは私小説の懐疑と否定とのうちにあるのだ。ふたたび出發點の主題との一致がここにあらはれる――個人(B)價値を擁護しうる資格は、その價値の内部的、外部的な危機感の所有者でなければならなかつたはずだ。また、心理主義の限界をおもひしらされたものが、やがてふたたび心理主義へ復歸してゆくやうなかたちで――おなじやうな径路をへて、私小説が方法的に用ゐられるのでなければならぬはずだ。この場合における私小説は、あきらかに過去の私小説とは異つてゐる」・・・重要文として記載した。
十 客觀小説
〔難解又は重要文〕P67上〕「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「近代日本における客觀小説への意圖はすべてみじめな結果に終つてゐる。それはけつして藝術的完成を約束しなかつた。技術的な失敗などといふ甘つたれた自己反省は許されぬ。――まさに《いかに生くべきか》の道をあやまつたにほかならぬ。作品に觀念が露出するのがいけないのではなく、作者の生活そのものがまちがつてゐるのだ。その特權階級が禍根なのである」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。文中「まさに《いかに生くべきか》の道をあやまつたにほかならぬ」「作者の生活そのものがまちがつてゐるのだ」とは、〔難解又は重要文〕P66上で先述した、以下内容を示してゐるのであらう。
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「日本的精神主義構圖」が招く自己欺瞞のプロセス: 即ち、A⇒B ⇒ C” ⇔C2 (西歐概念の後楯化現象) *日本の知識階級は「絶對的自己肯定:C”」の爲に、その肯定因として「C2:護符・後楯」を上位概念「世界・社會・階級、大思想」に求めようとする。何故ならば、西歐近代が否定因としての神(C:理想人間像)を背景に持つに對して、前近代日本はそれを持たない。故に後楯による自己欺瞞が可能になるのである、と恆存は指摘するのである(參照『日本の知識階級』全5P369)。 |
〔難解又は重要文〕P67上〕「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「ぼくとしてはつきりいつておく必要があらう。今日、客觀小説は生活的な虚僞からしか生まれはしない。ただその虚僞がなにか他の眞實に仕へることによつて見のがされるといふだけのことだ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。文中「生活的な虚僞」とは、上枠文の「自己欺瞞のプロセス:即ち、A⇒B⇒C”⇔ C2 」を指し、かつ「その虚僞がなにか他の眞實に仕へる」とは、やはり上枠文の、肯定因として「C2:護符・後楯」を上位概念「世界・社會・階級、大思想」に求めようとするを、示してゐるのではなからうか。
(參照『日本の知識階級』seishinshugikouzu.pdf へのリンク左圖)。
十一 志賀直哉
〔難解又は重要文〕P67下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「かれにしても、まだまだ虐げられたひとびと(A)の味方だつた」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。
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〔拙發表文:「恆存の『漱石』論」(『近代日本文學の系譜』から:⇒P26下) *白樺派の文學(否定因C不在の代替へとして良心B)=(社會惡A⇒自我・エゴイズムA’にかかはらせる)÷(「自己の個人的、本質的な良心の問題(B)として解決」)。 =⇒つまり「社會惡(A)を彼の意思(B)のもとに解體し、組みたてなほし=⇒(右へ到達せんと意思)=⇒自己完成(良心の問題B⇒C’自己完成)⇒(結局は良心Bによつて組み立てられた自己滿足D3と言ふ事であらうか?) |
十二 ふたたび冒頭にかへつて
〔難解又は重要文〕P67下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「個人(B)と社會(A)との對立といふとき、その個人をどこに置いて考へるか――いや作家(B)が個人をどこに置いて生きるか――それが問題なのだ。マンはそれを藝術家(B)のなかに置いた。しかしマンのうちの藝術家(B)は俗人(A)に根を置いてゐる。そのことをかれは自覺してゐた。かれは藝術家(B)といふ概念を表だてながら、その背後でつねに虐げられたひとびと(A)を守つてゐたのだ。が、多くのばあひ逆だ――虐げられたひとびと(A)を楯(ヒューマニズム=C2護符・後楯)にして、その内側では藝術家(B)の、いやいや、インテリゲンツイア(B)の、特權意識(絶對的自己肯定:C”=安全地帶)を擁護(C”⇔ C2護符・後楯)してゐる」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。つまりは、やはり〔難解又は重要文〕P67上〕の枠文「自己欺瞞のプロセス:即ち、A⇒B⇒C”⇔ C2 」を指してゐるのであらう。(參照『日本の知識階級』左圖)。
尚、マンについては、前項目〔難解又は重要文〕P60上の文を參照として以下に轉載する。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「が、マンはそれ(個人B)を藝術家(B)の概念と一致せしめた。をかしなことに――いや、當然なことなのだが――そのために俗人(A)にたいする蔑視と憎惡とはフローベールにくらべて希薄になつた。といふより、もうそこには單純な憎惡や輕蔑は見られない。むしろ反對に、トニオの藝術家(B)は俗人(A)にたいして一種の郷愁を感じ、自己のやましさを羞恥(インフェリオリティ・コンプレックス=劣等感)する。さらに俗人(A)にたいする博大な愛情すらめばえてくるのである。(中略)ぼくはそれを藝術(B)のアイロニー(逆説)と呼ぶのだ。二十世紀文學(B)はこのアイロニー(逆説:俗人Aへの愛情)をはつきり表面化したのである。もつとはつきりいへば、現代における藝術(B)の効用、あるいは藝術家(B)の効用――それが今日さけられぬ問題として前途に横たはつてゐるのだ。そこで、さきほどの課題はつぎのやうにパラフレイズすることもできる―― 藝術(B)が社會(A)や人類進歩(A)の歴史に奉仕(社會Aに對しての、藝術Bの効用、藝術家Bの効用)しうるかどうか。現在それが奉仕しえぬものとなつてゐるとすれば、これを奉仕しうるものにたてなほすつもりがあるかどうか。また本來的に奉仕しえぬものときまつたなら、これを抹殺すべしと考へるか、それとも奉仕しえぬといふかたちでじつはそれに奉仕せしめる社會(A)の健康を信ずべきか。あるいは藝術(B)に奉仕を命ずる社會と進歩との觀念(A)を徹底的に默殺してしまふか」。 |
〔續く⇒P68〕「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「個人(B)は正しさの概念のうちにはない。正しくあらう(B⇒C)としても正しくありえぬもの(試行錯誤:參照⇒P71「人間存在の正しさは、じつは試行錯誤によつて保護されてゐるのだ」)――それが個人(B)の概念だ。正しくありうるならば、それは社會(A)に容認され、社會的價値(社會Aにたいする有用性)を賦與される」。
〔難解又は重要文〕P68上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「優位性の承認にすぎない。自分が正しいといふ自覺のもとに、正しからざるものの立場を守つてやらうといふおせつかいが、すなはちそれだ。このばあひ、正しからざるものはただ利用されるだけにすぎぬといふことを、自他ともに見のがしてはならない。正しくない自己(B)の自覺(恆存注:太宰治)から――ただそれからのみ――文學(B)ははじまる」・・・文中の傍線部分は以下の事(P67下)を言つてゐるのであらう。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「かれ(マン)は藝術家(B)といふ概念を表だてながら、その背後でつねに虐げられたひとびと(A)を守つてゐたのだ。が、多くのばあひ逆だ――虐げられたひとびと(A)を楯(ヒューマニズム=C2護符・後楯)にして、その内側では藝術家(B)の、いやいや、インテリゲンツイア(B)の、特權意識(絶對的自己肯定C”=安全地帶)を擁護(C”⇔ C2護符・後楯)してゐる」(P67下)。 *であるから、「藝術家(B)の、いやいや、インテリゲンツイア(B)の、特權意識(絶對的自己肯定C”=安全地帶)を擁護(C”⇔ C2護符・後楯)」ではなく、「正しくない自己の自覺」即ち「個人(B)は正しさの概念のうちにはない。正しくあらう(B⇒C)としても正しくありえぬもの」から「文學(B)ははじまる」のだと、恆存は言ふのである。 |
十三 實生活
〔難解又は重要文〕P68上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「正しくないといふ自覺(B)は當然、正しくあらう(B⇒C)とする行爲につながらなければならぬ。この實行(A)にたいする責任を放棄して、作品(B)のうちですべてを解決せんとするならば、文學とはただ自己正當化(以下枠文中のD3似非實在感の概念)の論理の辻褄をあはせるといふだけのことにすぎなくなる。やはり自己主張(以下D2)のいやらしさだ。19世紀のヨーロッパはその危險(個人の特殊性:以下枠内プロセス)におちいつてゐた」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。
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個人の特殊性 近代=「神Cの死」即ち「神意(D1宿命)喪失」⇒「神の代はりに自己の手による宿命(D1)演出⇒「D2:自己主張(表現)・自由意思(人間如何に生くべき)⇒「C”:自己完成(自己主人公化・自己全體化・自惚鏡)⇒「D3:自己陶酔・自己正當化・自己滿足・エゴイズム・自己絶對視(似非實在感)⇒「自己喪失(自己への、距離感喪失・適應異常)。 |
〔續く⇒〕
「その作家たちが生活的(A)に無責任だつたいふのではもちろんない。ただかれらはその不安におびえてゐたとはいへる。實生活(A)を消去し抹殺して、作品(B)にすべてを賭けることの不安である」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。補足するならば「實生活(A)を消去し抹殺して、作品(B)にすべてを賭けること」とは、以下①の公式の事であらう。②のフローベールには下欄でも證してゐる如く不安なんぞはなかつたであらう。フローベールほどには「理想人間像C=否定因」で、「消去抹殺」に徹底の出來ぬ作家等は、B領域(作品)に「すべてを賭けること」に不安が殘ると言ふ事ではなからうか。
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「近代ヨーロッパ文學」のヒューマニズムの方法論と「フローベールの創作方法(心理主義)」 *簡略すると、フローベールの創作方法(心理主義)も以下ヒューマニズムと同じ公式なのだと。 ①ヒューマニズム(否定因C)=(A’⇒A:客體化的意思)+(B―夾雑物)。 ②フローベール(理想人間像C)=(A’⇒A:客體化的意思)+(B―夾雑物)。 つまり、ヒューマニズムは「否定因C」を根柢に持つと同じく、フローベールも「理想人間像=否定因C」を根柢に持つてゐるのだと。 〔是①②を文章化するとかうなる〕 *「一片の虚妄にすぎぬと承知してゐればこそ、かれ(フローベール)は自己の理想人間像(C:否定因)を語りはしなかつたのであるが、同時に、その理想人間像《否定因C=(A’⇒A:客體化的意思)+(B―夾雑物)》があつたればこそ實證精神(A’⇒A客體化:創作方法)をしてあれほどまでに自我(代理A’=ボヴァリー夫人)を斬りさいなむことを許したのである」と(全一P475『理想人間像について』)。 *「彼等(西歐自然主義作家即ち①)の自我(A’)はもはや作品(B)以外に主張と正當化との場所を見いだしえなかつた。即ち、①ヒューマニズム(否定因C)=(A’⇒A:客體化的意思)+(B―夾雑物)に。 *「ヨーロッパの作家たちが自己(A’)をあへて作品(B)のうちに扼殺したのは、(「社會(A)の醜惡と痼疾とを自己(A’)のそれとして受け容れた」爲に)、それ(自己A’)がすでに實生活(A)においても生きる道をもたなかつたからであり、彼等はさういふ自己(A’)を作品(B)のうちに甘やかすことを徹底的に嫌つたからであつた。いや、彼等は自己(A’)のうちに甘やかしうる餘地を見いだしえなかつた――(リアリズム=西歐自然主義と言ふ手段によつて、)それ(自己A’)はエゴイズムと虚榮と俗惡とのかたまり(自我の必然としてエゴイズム)以外のなにものでもなかつたからである。 *それが故に、フローベール(上記②)は「現實の醜惡を素材(A)として、美(B夢想家⇒C理想人間像)を志向する創作方法」と言ふ、その「主張と正當化との場所」を見いだす事で、「リアリズムによる自己(A’)否定」を完遂する事が出來た(上記②)のである、と恆存は言ふ。ただそれら美(B夢想家⇒C理想人間像)は、「作品の裏がはからあのリアリスティックな無表情の記述の保證に立つてゐるにほかならない」(『小説の運命Ⅱ』P611下)と。そして、何處にも神(C)を語つてゐないあの小説スタイルこそが「神に型どれる人間の概念(理想人間像C)の探究」(つまり公式②)なのだと、恆存は言つてゐるのである。それを評論文に據ると以下となる。
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〔難解又は重要文〕P68下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「實生活(A)において處理すべき問題を文學(B)の領域にもちこんではいけない、とぼくがいふのは、實生活(A)上の無責任を作品(B)において正當化するなといふことにほかならぬ。さもなければ、生活(A)は安易をきはめ、そこではいかなることも許されてゐながら、作品(B)のうちにのみ懺悔と自責と斷罪とがおこなはれるといふことになる」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。更には以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「日本の自然主義作家は社會(A)に逐われたというより、作家(B)は社會(A)に逐われるものとしてはじめから觀念していたのである――いわばそのような藝術方法(「文學(B)すらも文明開化の出世主義(A)のネガティーブな吐け口」)をもって社會(A)に對し、それゆえに社會(A)から逐はれたのであった。したがって(ヨーロッパの作家達がした樣には)彼等は社會(A)の惡を自己(A’)のものとして受け容れるすべも知らず、たんなる實生活(A)の上での俗世間的な不滿をすら作品(B)のなかにもちこむ(A⇒Bのすり替へ的逃げ込み)ごとき錯誤を犯しかねなかつた。自己(A’)否定の文學としてのリアリズム=自然主義が容易に自己主張に通じ(つまり「文學(B)すらも文明開化の出世主義(A)のネガティーブな吐け口になつてゐた」と言ふ事)、そこから私小説への展開が見られたゆえんである」(『近代日本文學の系譜』P20)。 *⇒參照「彼我の差」higanosa.sozai.pdf へのリンク(即ち、日本の自然主義作家は以下を缺如してゐる) 「近代ヨーロッパ文學」のヒューマニズムの方法論と「フローベールの創作方法(心理主義)」 *簡略すると、フローベールの創作方法(心理主義)も以下ヒューマニズムと同じ公式なのだと。 ①ヒューマニズム(否定因C)=(A’⇒A:客體化的意思)+(B―夾雑物)。 ②フローベール(理想人間像C)=(A’⇒A:客體化的意思)+(B―夾雑物)。 つまり、ヒューマニズムは「否定因C」を根柢に持つと同じく、フローベールも「理想人間像=否定因C」を根柢に持つてゐるのだと。 |
*「現代文學の主題は、じつは二十世紀において藝術家(B)たることの、かかる矛盾にたへぬくことのうちにありはしないか――たへるでもなく、たへぬのでもないところに、自嘲と自虐とが生れる。實生活(A)と藝術(B)、政治(A)と文學(B)、この兩者を峻別せよ(九十九匹A對一匹B)といふのは、つまりはその矛盾にたへぬくための唯一の方法なのである。實生活(A)において處理すべき問題を實生活(A)において處理しようとするこころみは、いふまでもなく、その作品(B)から素材(A)の抵抗を奪ふこと(B―夾雑物=Bの狹小化)となる。藝術(B)にとつてこれほどの危險(「危險な毒素」)はない。正しくはない(B)といふ自覺と同時に、正しくあらう(B⇒C)といふ行爲的責任(A實行/B⇒C)をもたねばならぬのだが、その極限はまさに藝術(B)抹殺を指し示してゐるのだ。二十世紀の藝術(B)はその眞實性の保證を實生活(A)に賭けてゐながら、しかも實生活(A)を完全に切斷してゐなければならない」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。しかし、この邊の文章は小生には難解中の難解である。やはり他評論(『小説の運命Ⅱ』等)の手助けを借りなければ、到底讀み解くことが困難である。よつて、それらを手懸かりに個別に探究を試みる事にする。
①「二十世紀の藝術(B)はその眞實性の保證を實生活(A)に賭けてゐながら」とは、「社會(A)にたいする有用性」の事を言つてゐるのであらう。それは、P60のマン文學で記述の、「二十世紀文學(B)はこのアイロニー(逆説:俗人Aへの愛情)をはつきり表面化したのである。もつとはつきりいへば、現代(社會A)における藝術(B)の効用、あるいは藝術家(B)の効用――それが今日さけられぬ問題として前途に横たはつてゐるのだ」、を指してゐると思へる。
②「二十世紀において藝術家(B)たることの、かかる矛盾」とは、①でも擧げた「社會(A)にたいする有用性」を目的に掲げながら、しかも實生活(A)政治(A)から、文學(B)を「完全に切斷」しなければならない矛盾を指す。「その矛盾にたへぬくための唯一の方法」が、「實生活(A)と藝術(B)、政治(A)と文學(B)、この兩者を峻別」する事(九十九匹A對一匹B)なのだ、と恆存は言ふのである。即ち「實生活(A)において處理すべき問題を實生活(A)において處理しようとするこころみ」が、たへぬくための方法論なのだと。
だが、その方法論は以下と同樣の爲、Bの狹小化(B―夾雑物)を招き、それが爲、別の危險が到來するのだと、言つてゐる樣に思へる。
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*公式① ヒューマニズム(否定因C)=(A’⇒A:客體化的意思)+(B―夾雑物)。 *公式② フローベール(理想人間像C)=(A’⇒A:客體化的意思)+(B―夾雑物)。 |
つまり、「作品(B)から素材(A)の抵抗を奪ふ」が危險に當たる。以下それについて探究をしてみる。
③「その作品(B)から素材(A)の抵抗を奪ふこととなる。藝術(B)にとつてこれほどの危險はない」とは、當評論直後著作『小説の運命Ⅱ』P611下⇒PP圖「ロマネスクとリアリズム」romanesuku.pdf へのリンクでも探究してみたが、以下枠文①②③の事を、それは言つてゐるのではなからうか。
つまり、リアリズム(A’⇒A:此處で言ふ素材A探究)は、「小説の内部に小説(B)の生命をおびやかす危險な毒素」であるが故に「アイロニー」となるのである(さう言へば、マンの「俗人Aへの愛情」も個人Bがする「アイロニー」と恆存は表現してゐる⇒P60)。
上枠文フローベールの方法は、實證精神(A’⇒A:客體化的意思)即ち「現實(リアリズムA)の醜惡を素材として(「作品の裏がは」から)美(B:ロマネスク・夢想家⇒C:理想人間像)を志向する創作方法(公式②參照)」であるが故に、作品(B)からロマネスク(B)を「奪ふこと(B―夾雑物=Bの狹小化)となるのである」と恆存は言ふのである。そしてこの事(その作品Bから素材Aの抵抗を奪ふこと)は「公式①」の場合もやはり同樣とならう。
であるから、Bの狹小化(B―夾雑物)は、「藝術(B)にとつてこれほどの危險はない」と言ふ事になるのである。「小説(B)はロマネスク(B)であると同時にロマネスク(B)を扼殺せんとするもの」。その危險な役がリアリズム(A)だと恆存は言ふのである(以下參照)。
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拙發表文『小説の運命Ⅱ』:PP圖「ロマネスクとリアリズム」romanesuku.pdf へのリンクから「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 ①ロマネスク(B)は、リアリズム(A)からの批判對象。 「小説(B)はロマネスク(B)であると同時にロマネスク(B)を扼殺せんとするもの」。その危險な役がリアリズム(A)。 ②『小説のなかでおこなはれた小説の批評』とは・・・ 小説(Bロマネスク)の中でおこなはれた、リアリズム(A)による、小説(ロマネスク:B)批評、即ち其處に生ずる「アイロニー」の事を指してゐる。リアリズム(A)は「小説(B)の内部に小説の生命をおびやかす危険な毒素」であるが故に「アイロニー」 となるのである。「小説(B)の運命はもともとそのアイロニーにある」と恆存は言ふ。「小説(B)はロマネスク(B)であると同時にロマネスク(B)を扼殺せんとするもの」だと。( 『小説の運命Ⅱ』から要約)。 ③『マダム・ボヴァリー』における「小説の批評」とは・・・ リアリズム(A)の拡大がロマネスク(B)を扼殺していくアイロニーを指す。故にフローベールは、自己のロマネスク(B⇒理想人間像C)を語らない。彼の方法は、實證精神即ち「現實(リアリズム= ボヴァリー: A)の醜悪を素材として(「作品の裏がはから」)美(B:ロマネスク・夢想家⇒C理想人間像)を志向する創作方法」とならざるを得ない。「ボヴァリーの失敗によつて、(リアリズム)小説批評が完成される」のである。 *フローベールは「現實(A)の醜惡を素材(A)として、美(B夢想家⇒C理想人間像)を志向する創作方法」と言ふ、その「主張と正當化との場所」を見いだす事で、「リアリズム(A’⇒A)による自己(A’)否定」を完遂する事が出來たのである、と恆存は言ふ。ただそれら美(B夢想家⇒C理想人間像)は、「作品の裏がはからあのリアリスティックな無表情の記述の保證に立つてゐるにほかならない」(『小説の運命Ⅱ』P611下)と。そして、何處にも神(C)を語つてゐないあの小説スタイルこそが「神に型どれる人間の概念(理想人間像C)の探究」(つまり公式②)なのだと、恆存は言つてゐるのである。 *「フローベールにおけるリアリズム(A)の完成(A’⇒A)とは、ロマネスク(B)なもの、びつくりするやうな事件、夢想(C)や情熱(パッションA?)、これらすべてに死を宣告することであり、その役割を買つて出たのがかれの批評精神(A’⇒A:客體化的意思)にほかならない。(中略)たしかにかれの實證主義的(A’⇒A)な批評精神はその作品(B)からあらゆる夢想(C)を放逐し、『ボヴァリー夫人』や『感情教育』を完璧に合理と必然との網目(A’⇒A)にぬりこめつてしまつた。(中略)さきに追放されたはずのロマネスク(B)や夢想(C)こそが、作品の裏がはからあのリアリスティックな無表情の記述の保證に立つてゐるにほかならない」(『小説の運命Ⅱ』P611下⇒PP圖「ロマネスクとリアリズム」romanesuku.pdf へのリンク)。 |
十四 アヴァン・ギャルド
〔難解又は重要文〕P69上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*(前項目分)「藝術(B)にとつてこれほどの危險はない。正しくはない(B)といふ自覺と同時に、正しくあらう(B⇒C)といふ行爲的責任(A實行/B⇒C)をもたねばならぬのだが、その極限はまさに藝術(B)抹殺を指し示してゐるのだ。二十世紀の藝術(B)はその眞實性の保證を實生活(A)に賭けてゐながら(社會Aにたいする有用性)、しかも實生活(A)を完全に切斷してゐなければならない(AB兩者を峻別)」。〔以下へ續く⇒〕
*「さういへば、アヴァン・ギャルド(前衛)の藝術(B)を定義したことになる。素材(A)の放棄、(Bの)抽象性への昇華、藝術の自殺行爲(前項で探究:Bの狹小化)――が、そのかげで實踐(A實行/B⇒C)への責任をいかにはげしく要求されてゐることか。とはいへ、危險は、實踐(A實行/B⇒C)への責任放棄(A脱出⇒Bへのすり替へ的逃げ込み)によつても――あるいは、そのばあひのほうがかへつてたやすく――アヴァン・ギャルド(前衛B)の方法にすがりつきうるといふことだ。しかし、結果は明白に異る。眞のアヴァン・ギャルドは實生活(A)の装飾品になりうるし(社會Aにたいする有用性)、その娯楽品として社會(A)に奉仕しうる。が、似而非のアヴァン・ギャルド(A脱出⇒Bへのすり替へ的逃げ込み)は不協和音のやうに不愉快な摩擦をおこす」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。
*「(アヴァン・ギャルドが持つ)個人(B)の限界を超えようとする意圖――そこではあきらかに社會的價値(社會Aにたいする有用性)への屈服ではなく、むしろ個人(B)の權威とその孤獨圏(個人の純粋性の静謐=B―夾雑物)とを衞りぬかうとする積極的な意思(フローベール的な?)が、もつとも効果的な、そしてもつとも合理的な戰術を展開しはじめたのにほかならない(恆存注:花田清輝のしごと)」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。此處も明確化する爲に、何とか小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。
十五 ジャーナリズム
〔難解又は重要文〕P69上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「ジャーナリズム(A’⇒A?)の奴隷に甘んじてゐることは、そのばあひ當人がいかに藝術(B)の自律性と藝術家(B)の自由とを衞りぬいてゐるつもりでも、けつきょくは自然發生的(A’⇒A)な、あるいは外部的な偶然(A’⇒A)の機會に翻弄されてしまふことになる。しかも、もつとも大きな危險は、この偶然(A’⇒A)を絶對(C)の運命(D1)と見なし、そこに自己の宿命(C⇒D1)を讀みとらうとする悲壮な決意である。アヴァン・ギャルド(B)はこのやうな隸從を否定するのだ。創作方法(B)をも含めて一切の自己の行爲(D2:自己劇化)を、自己の意思的(D2:自己劇化)な必然性(D3)の線にそつて展開しようとこころみる。外部(A)ではなく、内部(B)に必然性の原理を確保しようとするのだ。個人(B)は社會(A)に敗北しない――いや、敗北してはならないのである」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。
尚「自己の行爲(D2:自己劇化)を、自己の意思的(D2:自己劇化)な必然性(D3)の線にそつて展開しようとこころみる。外部(A)ではなく、内部(B)に必然性(D3)の原理を確保しようとするのだ」とは、その原理の一つは、この章ではそれを物語つてはゐなく、次章「試行錯誤」で取り上げてゐるのではあるが、それは、以下枠文の「C⇒D1⇒D2⇒C⇒D3(實在感・必然感)」の事を物語つてゐるのではなからうか。當項ではあへて「内部(B)に必然性(D3)の原理を確保しようとする」、以下の「C概念=絶對・全體」の役割を棚上げしてゐる樣に思へる。
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參照:拙發表文《恆存の「實在感」についての考察》 絶對・全體(C)⇒宿命・關係(D1)⇒宿命/自己劇化(D2:各場面各場面で「關係と言ふ眞實を生かす」)⇒絶對・全體(C)⇒全體感(時間的・空間的)獲得⇒實在感・必然感・充實感・生き甲斐・幸福感(D3) |
此處が實に難しい處である。つまり、「偶然(A‘⇒A)を絶對(即ち似非C)の運命(即ち似非D1)と見なし、そこに自己の宿命(似非:C⇒D1)を讀みとらう」とする似非と、評論『藝術とはなにか』で謂ふ、以下の内容(眞=上枠文)との相違がである。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「藝術(B)とは演戯(D2自己劇化)である」。「演戯(D2自己劇化)とは、絶對的なもの(C觀念上の絶對)に迫つて、自我(個人的自我B)の枠を見いだすことだ」。「何とかして絶對(C觀念上の絶對)なものを見いださうとすること」(『藝術とはなにか』より要旨)。 |
〔續く⇒P69下〕
「アルチスト(藝術家B)とアルチザン(職人A)との區別もまたそこに見いだされるであらう。アルチストはあくまで自我(個人的自我B)の權威と創作方法(B)の自由とを自覺してゐなければならぬ――しかも現代社會の再生産機構(A’⇒A)といふものをはつきり認識したうへで、そのとき、かれらの眼にジャーナリズム(A’⇒A)といふものこそ當面の敵であることがわかつてくるのであり、それに無意識的にこきつかはれてゐるすべての作家がたんなるアルチザン(A)としかみえないのである。
十六 試行錯誤⇒參照〔難解又は重要文〕P68上及び以下
〔難解又は重要文〕P70上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「藝術のアイロニー――
藝術(B)は本來的に無償のものであり、それが自律性を獲得(個人の純粋性の静謐化=B―夾雑物)すればするほど社會(A)と絶縁する。アルチスト(B)たることは――いや、ひとたびアルチストを意思した以上は――ふたたび社會(A)の復歸を期しえないのだ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。更には以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。
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「藝術のアイロニー」とは・・・参照:『三 藝術家と俗人』:〔難解又は重要文〕P60上より「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「個人(B)と社會(A)との對立は、したがつて藝術家(B)と俗人(A)との對立といふ、より明確な、より自覺的な、そしてより決定的な主題として提出されることになつたのだ」。 *「マンはそれ(個人B)を藝術家(B)の概念と一致せしめた。をかしなことに――いや、當然なことなのだが――そのために俗人(A)にたいする蔑視と憎惡とはフローベールにくらべて希薄になつた。といふより、もうそこには單純な憎惡や輕蔑は見られない。むしろ反對に、トニオの藝術家(B)は俗人(A)にたいして一種の郷愁を感じ、自己のやましさを羞恥(インフェリオリティ・コンプレックス=劣等感)する。さらに俗人(A)にたいする博大な愛情すらめばえてくるのである。(中略)ぼくはそれを藝術(B)のアイロニー(逆説)と呼ぶのだ(藝術はその自律性として、「B―夾雑物」を志向する處を「俗人Aに對する博大な愛情」となつたから)。二十世紀文學(B)はこのアイロニー(逆説:俗人Aへの愛情)をはつきり表面化したのである。もつとはつきりいへば、現代における藝術(B)の効用、あるいは藝術家(B)の効用――それが今日さけられぬ問題として前途に横たはつてゐるのだ。そこで、さきほどの課題はつぎのやうにパラフレイズすることもできる―― 藝術(B)が社會(A)や人類進歩(A)の歴史に奉仕(社會Aに對しての藝術Bの効用、藝術家Bの効用)しうるかどうか。現在それが奉仕しえぬものとなつてゐるとすれば、これを奉仕しうるものにたてなほすつもりがあるかどうか。また本來的に奉仕しえぬものときまつたなら、これを抹殺すべしと考へるか、それとも奉仕しえぬといふかたちでじつはそれに奉仕せしめる社會(A)の健康を信ずべきか。あるいは藝術(B)に奉仕を命ずる社會と進歩との觀念(A)を徹底的に默殺してしまふか。 そしてこれらの課題はただに文藝批評や藝術家の領域においてのみならず、藝術家(B)自身がこたへていかねばならぬ現代の主題なのである」。 |
そして更には、「ひとたびアルチストを意思した以上は――ふたたび社會(A)の復歸を期しえないのだ」は、參照⇒一 フローベールの以下を。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *フローベール(理想人間像C)=(A’⇒A:客體化的意思)+(B―夾雑物)。 *「個人(B個人の純粋性)の敗北を身をもつて敗北してみせること、可能性の天窓は一分のすきもなく完全にとざされ(B―夾雑物=B狭小化)、現實世界(A)で獲得できた自由(A’⇒A客體化)のいかにつまらなく、それがあまりにつまらぬために自由でもなんでもない(自我の必然=エゴイズム)といふことを、克明に描寫し證明してやること(それが小説『マダム ボヴァリー』)」であつたと。(參照『現代日本文學の諸問題』全一P59) |
〔難解又は重要文〕P70下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「アルチストは卑俗な社會的効用(社會Aにたいする有用性)から、ジャーナリズム(A‘⇒A)の支配から脱却しなければならない――本質的にも、生活的にも、方法的にも。が、永遠に網の目(A的な)を脱しえぬ人間の存在といふものを考へるならば、藝術(B)のアイロニーとは、ひつきよう歴史(C)のアイロニーであり、人間存在(C歴史⇒D1宿命⇒人間ABといふ)のアイロニーでもある。人間は永遠に試行錯誤の状態からぬけでることはできないのだ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「藝術(B)のアイロニー」・・・前項目(P70上)の冒頭恆存文參照。 *「歴史のアイロニー」・・・小生が思ふに、「歴史のアイロニー」とは、文學的にはフローベールからマンへの轉化。思想的には、個人主義からその敗北(=社會Aにたいする有用性)への推移(試行錯誤?)、と言ふ事であらうか。 |
〔難解又は重要文〕P70下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
(これ以降の文章は極めて難解である。探究が正鵠を射てゐるか否か心許ない)
「いひかへれば、ある段階におけるある行爲の正しさは、つひに相對的(A’⇒A)なものにすぎず、絶對(C)的な正しさを身につけようとするならば、まづ正しさの原理そのものを破壊してしまはねばならぬのである。自我(A+B)の権威と言ふ――が、自我を權威づけてゐるものそのもの(C又はC’⇒D1⇒自我A+B)を破壊せずして眞の權威は獲得できぬ。自己の内部の必然性(必然感:D3?)といふ――が、必然性といふ概念(實在感D3的なもの)そのものを破壊してしまはなければ、眞の自律性は手にはひらないのだ。とすれば、それはたへられぬアイロニーではないか(本來維持すべき「権威・必然性」を破壊してしまふが故に)。なぜなら、自己の正しさも、權威も、必然性(D3)も、すべては自己(A’)そのもののうちにはなく、自己のそとなるもの(C的概念)、自己より大いなるもの(C的概念)によつてささへられてゐるといふことになる。出發點にもどつてしまふのだ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。尚、傍線部分は以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。即ち「C⇒D1⇒D2⇒C⇒D3(實在感・必然感)」の事を。
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參照:拙發表文《恆存の「實在感」についての考察》 絶對・全體(C)⇒宿命・關係(D1)⇒宿命/自己劇化(D2:各場面各場面で「關係と言ふ眞實を生かす」)⇒絶對・全體(C)⇒全體感(時間的・空間的)獲得⇒實在感・必然感・充實感・生き甲斐・幸福感(D3) |
〔難解又は重要文〕P70下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「要するになにもないのである(「自己の正しさも、權威も、必然性D3も、すべては自己A’そのもののうちにはなく、自己のそとなるものC的概念、自己より大いなるものC的概念によつてささへられてゐる」が故に。)。人間は永遠に試行錯誤をくりかへさねばならぬ(「永遠に網の目Aを脱しえぬ人間の存在」と言ふ事)――本質的にも、生活(A)的にも、方法的にも。そして人間存在の正しさは、じつは試行錯誤(「人間存在のアイロニー」?)によつて保證されてゐるのだといふことをおもひしらされるのだ。合理性(A’⇒A)が無(自己のそとなるものC的概念)によつて保證されるといふばからしさである。もしこのばあひ、自己より大いなるものとして神(C)が出現しないとすれば、人間はいつたいどうして絶對(C)の無にたへられようか」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。が、實に難解である。
十七 實存主義
〔難解又は重要文〕P71上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「ぼくは前章で人間の實存について、さらに藝術の本質たる實存的性格について語つたつもりなのである。歴史のアイロニーも藝術のアイロニーも、つまりは人間の實存にかかはるところに發生する」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。以下枠文の消息を物語つてゐるのではなからうか。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「永遠に網の目(A的な)を脱しえぬ人間の存在といふものを考へるならば、藝術(B)のアイロニー(P70上項目の冒頭恆存文)とは、ひつきよう歴史(C)のアイロニーであり、人間存在(C歴史⇒D1宿命⇒人間A+B、といふ)のアイロニーでもある。人間は永遠に試行錯誤の状態からぬけでることはできないのだ」(P70下)。 *「個人(B)は正しさの概念のうちにはない。正しくあらう(B⇒C)としても正しくありえぬもの(つまり試行錯誤=「人間存在の正しさは、じつは試行錯誤によつて保護されてゐるのだ」P71)――それが個人(B)の概念だ。正しくありうるならば、それは社會(A)に容認され、社會的價値(社會Aにたいする有用性)を賦與される」(P68)。 *尚、小生が思ふに、「歴史のアイロニー」とは、文學的にはフローベールからマンへの轉化。思想的には、個人主義からその敗北(=社會Aにたいする有用性)への推移(試行錯誤つまりアイロニー)、と言ふ事であらうか。 |
〔難解又は重要文〕P71上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「個人(B)と社會(A)との對立といふ出發點の主題はここでも究極的な展開をみせてゐる。社會(A)といふ概念が枠づけの觸手を個人(B)のうへにのばその手を拂ひのけて、個人(B)を無の前景に突き放してみるのだ(前章「合理性が無によつて保證されるといふばからしさ」)。もちろんさまざまな方法がある。前途に神(C)の出現を祈るやうな切迫した氣持ち(前章「自己より大いなるものとして神Cが出現しないとすれば、人間はいつたいどうして絶對Cの無にたへられようか」)もあれば」云々・・・この邊の文章は何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。
*「いづれにもせよ、問題は、かれらが一樣に藝術のアイロニー、人間そのもののアイロニーにどこまで氣づいてゐるか、そしてそれを最後までたへぬく切實さをもつてゐるかどうかにかかつてゐるといへよう」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「アルチスト(B)は卑俗な社會的効用(社會Aにたいする有用性)から、ジャーナリズム(A‘⇒A)の支配から脱却しなければならない――本質的にも、生活的にも、方法的にも。永遠に網の目(A的な)を脱しえぬ人間の存在といふものを考へるならば、藝術(B)のアイロニー(P70上項目の冒頭恆存文)とは、ひつきよう歴史(C)のアイロニーであり、人間存在(C歴史⇒D1宿命⇒人間A+B、といふ)のアイロニーでもある。人間は永遠に試行錯誤の状態からぬけでることはできないのだ」(P70下)。 |
十八 批評
〔難解又は重要文〕P72上下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「批評が自己證明(セルフアイデンティフィケーション⇒似非D3實在感)をはたしうるといふこと、その自信こそまさに批評精神と無縁のものなのである。AがAであるといつた瞬間にそれはもうAではなくなるといつた、さういふ不安のうちにのみじつは批評が成立する。現代における批評の優位について語ることこそ、まさに批評家の資格喪失をいみする。個人(B)と社會(A)との對立のアイロニーが、現代における批評(A)と小説(B)との對立のあいだにもみとめられるのだ(つまりリアリズムAとロマネスクBの對立と言ふことか?:參照『小説の運命Ⅱ』)」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。
*「個人の無用性(個人Bは社會Aにたいする有用性としての價値でしかないと言ふ事)、實生活(A)との峻別、さらには對象である藝術(B)作品との乖離(ふがひない小説Bゆゑ)、そして純粋性にまで無際限に昇華しようとする抽象的性格(個人の純粋性の静謐化=B―夾雑物)――そのために批評家はたえずインフェリオリティ・コンプレックス(「うしろめたさ」)に惱まされねばならない」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。
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