恆存の「漱石」論(『近代日本文學の系譜』他から) 參照⇒ souseki.pdf へのリンク

 

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〔難解又は重要文〕P23下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「二葉亭」について・・・

『近代日本文學の系譜』全一P14下より「 」内が恆存文。( )内は吉野注

 

二葉亭の「不幸な戰ひ」とは・・

①「彼がロシア自然主義文學から學びとつた藝術概念(リアリズム)は、現實(A)に對する作家の自我擴大(A’)とその意思的な鬪爭(A’⇒A客體化:「彼我の差」higanosa.sozai.pdf へのリンク右圖參照)とを教へず、その外装であり方法であつたにすぎぬ自我(A’)の抑壓と喪失、社會的現實(A)に對する敵視と絶縁とを彼に強制したのである。二葉亭は當然、二元的な態度を採らざるをえなかつた。――内省による心理主義を藝術(B)に、そしてそのやうな藝術概念によつては始めから否定せられざるをえぬものとして、自己主張の役割は日常生活の實行(A)に、といふわけである。かくして現實社會(A)によつて拒絶せられ、逐ひつめられた自我(A’)を、ひるがへつてその作品(B)のうちにもちこむすべ(近代西歐のリアリズム:「彼我の差higanosa.sozai.pdf へのリンク」右圖參照)は、つひに二葉亭の與り(あづかり)知らぬところであつた。二葉亭は藝術(B)の領域から生活(A)を放逐し、また生活の領域から藝術を遮閉し、かくして二つの世界は彼のうちにおいて互に對立し、相譲らざるものとなつたのである。まさに二重生活である」。

 

『獨斷的な餘りに獨斷的な』P546上より「 」内が恆存文。( )内は吉野注

「不幸な戰ひ」・・とは上記評論(P546)の、「二葉亭が身動き出來ずにゐた限界といふものが確かにあつた」が該當する樣に思へる。即ち、それは同頁下、「半ばは自分自身が、半ばは時代が根強く要求してゐる藝術(B)優位説、藝術(B)信仰を何とか身に附けようとして果たせなかつた苦澀」の事を言つてゐるのであらう。

 

〔難解又は重要文〕P23下~25上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

この三頁の文章については、毎度の如く「とは何を言はんとしてゐるのであらうか」と引用し探究すると、煩雑になり長くなるので、此處では引用と同時に直接(吉野注)を評論文に入れる事にした。その上で最重要項目は別枠で探究する事にした。

 

*「漱石においては、職業が――といふより、作家(B)になるまへに教師として社會人(A)たることを志した彼の性格(A’自我)が、實生活に安定(A’⇒A客體化)をもたらし、その結果、自我(A’)の意慾からあらゆる不純な夾雑物が脱落(「精神の政治學」下降による「個人の純粋性Bの静謐」?)し、人間のエゴイズム(A’)がまつたく原型的な純粋さをもつてかれの意識に迫つてきた。漱石はそれを二葉亭の技法、さらにそれを超えてヨーロッパの自然主義的表現方法に託することはできなかつたのである」(とは以下の如し)

「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

ヨーロッパの自然主義的表現方法: 參照:漱石の正義感と西歐「ヒューマニズム」の相違(P2:souseki.pdf へのリンク

それを換言するならば、後述(P24)の、ヒューマニズムの方法論とフローベールの創作方法(心理主義)」が參考となる

*簡略すると、フローベールの創作方法(心理主義)も以下ヒューマニズムと同じ公式なのだと。

①ヒューマニズム(否定因C)(A’⇒A:客體化的意思)+(B―夾雑物)。

フローベール(理想人間像C)=(A’⇒A:客體化的意思)+(B―夾雑物)。

つまり、ヒューマニズムは(否定因C)を根柢に持つと同じく、フローベールも(理想人間像=否定因C)を根柢に持つてゐるのだと。

③漱石(「封建道徳の背後にある道徳そのもの」否定因C)=エゴイズムA’/ 正義感・倫理感B。

 

〔續く⇒〕

「なぜなら彼は實生活によつて解決すべきものはすでに解決してゐたし、それを解決しえてみれば、いまさら自然主義でもなかつた。このばあひ、たしかに職業が彼(漱石)を社會人たらしめたと同時に、この職業の上での成功(A’⇒A客體化)が、社會惡(A)とエゴイズム(A’)とを一つのものとして把握する能力を彼から奪ふ緩衝地帶にもなつてゐたのである。漱石も鷗外とおなじく生涯社會(A)から拒絶されるものとして自己(A’)を考へることがなかつた。社會(A)は優越者としての彼(A’)を容れうる餘地(A’⇒A客體化)をなほ殘してゐるのである(故に「エゴイズムA’は社会惡Aとつながつて」ゐない。それが即ち「現實性の希薄さ」となるのだと)。(中略)漱石に向つて拒絶(否定因?)をもつて對するものは、藤村その他の自然主義作家たちにおけるごとき現實(A)でもなく鷗外におけるやうな人間の運命(D1)でもなく、彼の正義感(B⇒C)であり倫理感(B⇒C)であり、その思想(以下)であつた」。

*漱石も鷗外同樣「封建道徳の背後に道徳そのもの(本質としてのB精神C天)を見てゐた」(「自己劇化と告白」P417)

「この鏡(C:羅針盤)に照して、彼は自己のうちのエゴイズム(A’)が許せなかつたのだ(BC⇔A’)。近代日本の文學史上、彼ほど執拗に、彼ほど強烈に、轉進の道のない戰ひを自我(A’)に對して挑んだものは他にないと言つてよい。彼の倫理感(B⇒C)、彼の思想は、しかも二葉亭の藝術概念のごとき借り物ではなかつた――それは實に彼自身であつた。が、この彼の生理的にともいふべき潔癖な倫理感(B⇒C)は、あまりに潔癖なるがゆゑにかへつてつひに社會惡(A)の根源を見抜くことができなかつた」。(とは以下の如し)

「社會惡(A)の根源」とは以下の内容「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 (參照⇒P1:souseki.pdf へのリンク

*「(西歐)十九世紀後半の自然主義作家にとつて、資本主義社會(A)は彼等の自我(A’)を實生活(A)において拒絶し扼殺するほどに堕落し硬化したのであり、しかもこの社會(A)的事實を彼等ははつきり凝視し、さらにこれを自己(A’)のものとして――いはば社會(A)の醜惡と痼疾とを自己(A’)のそれとして受け容れたのであつた。またそれゆゑの嚴しい自己否定(B⇒C:理想人間像)でもあつた(とは、A=A’として、即ち資本主義社會Aの醜惡と痼疾、堕落と硬化を自己(A’)のもの、換言すれば「エゴイズムと虚榮と俗惡とのかたまり:P20」として受け容れたと言ふ事である)。彼等の自我(A’)はもはや作品(B)以外に主張と正當化との場所(B⇒C:理想人間像)を見いだしえなかつたのである」(P19)。

「たしかに社會人、職業人としての安定した生活(A’⇒A客體化)が禍したものといへよう。彼(漱石)の社會に對する結びつきの健全さ(A’⇒A客體化)は、抑壓された自我の不満(A的不滿)から生ずる不純な濁り(A⇒Bすり替へ的自己欺瞞)を作品(B)から完全に追放(「精神の政治學」下降による「個人の純粋性Bの静謐」?)しえた(即ち「實生活によつて解決すべきものはすでに解決してゐた」:P24)ものの、まさにその純粋さにゆゑに社會惡(A)を背景としてエゴイズム(A’即ち「エゴイズムと虚榮と俗惡とのかたまり」P20)を描出するすべを知らなかつた」。

(吉野注)(參照⇒P1~2:souseki.pdf へのリンク

此處が最重要文である。此處に漱石(正義感)と西歐ヒューマニズムとの「彼我の差」があると恆存は言ふのだ。

「ここでもリアリズム(實證精神「A’⇒A」:即ち、社會惡Aを背景としてエゴイズムA’ を描出する)は開花する機を失つてしまつたのである。社會(A)的行動を失つた人間心理(A’)が漱石の作品の對象(好例著作『門』)であつた。しかし近代ヨーロッパ文學における心理主義の根柢にはヒューマニズムがあつた。このヒューマニズムはたんなる潔癖や封建的な正義感(B「封建道徳の背後にある道徳そのもの」?)では斷じてない。いくたびか述べてきた(下欄枠文)やうに、それは社會(A)的現象を、いな人間(A的現實をすら、改變せんとする意思であり、自然(A)に對してのみならず、人間性(B:後述「純粋な人間性」と同)、自我(Aに對しても自主性を確立せんとしてやまぬ態度(客體化的意思)なのである。が、この際、自我(Aはあくまで社會の一部(A⇒A)として把握されてゐなければならない。エゴイズム(A)は社会惡(A)とつながつて(A⇒A:客體化)ゐなければならない。しかし、漱石の作品の主人公は社會惡(A)とは無縁の――といつて惡ければ、より純粋な形における人間惡(Aに惱んでゐる。漱石は避難所として禪を想ふ(P25)。が、禪の目的とするエゴイズム(Aの克服は――僕たちがそれによつて自我(Aを超えた人間(C的境地:悟り)を想像しうるとしても、彼がエゴイズム(Aのかなたに横たはる社會惡(A’⇔A:非客體)に對していかなる積極的な意思(A’⇒A:客體化的意思)をもつであらうか、それを期待できぬのである」(P25)。⇒(とは以下の如し)

(吉野注)

*つまり、明治の以下現實(社會惡A’⇔A:非客體)に對して、漱石は積極的な意思(A’⇒A:客體化的意思)を持たなかつた、と言ふ事ではなからうか。

 

拙發表文:『獨斷的な餘りに獨斷的な』より「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

*宗教改革の神に先導された西歐の資本主義と異なり、「近代日本(明治)は資本主義をはじめから利己的な惡徳として發展せしめる以外に道はなかつた(經濟的適應異常)。天皇と國家とのためにといふ名目を除外しては。(中略)近代日本の帝國主義は自己(A)を限界づけるなにもの(B國際主義)ももたなかつた(政治的適應異常)。のみならず、天皇や國家の権威は強者の惡徳を正當化した」⇒したがつて「明治の知識階級は政治活動(A)や社會活動(A)のうちに自己(A’)を生かすこと(A’⇒A:客體化的意思)を惡と見なさざるを得なかつた」。

〔續く⇒〕

「ヒューマニズムとはかくのごときものではない。政治(A集團的自我)における自己(Aの権利の主張(A⇒A:客體化的意思と純粋な人間性の自主確立(B「個人の純粋性の静謐」化)とが固く手を握つてゐるところにヒューマニズムの本來の姿がある」。

(吉野注)(參照⇒P1~2:souseki.pdf へのリンク

*この「固く手を握つてゐるところ」。つまり「精神の政治學」最下降によつて、そのAB二側面が同時進行すると言ふ事を、恆存は謂はんとしてゐるのであらう。其處に「ヒューマニズムの本來の姿がある」のだと。この部分が、もう一つの最重要テーマとして浮き上がつてくる樣に小生には思へる。つまり是はかう言ふ事を更に言つてゐるのではなからうか。

 

以下は小生の臆測「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

①ヒューマニズムとは、西歐近代の別表現「神の解體と變形と抽象化」(即ち「神に型どれる人間の概念の探究」)の一つであるが故に、當然それが内包する「否定因C」には、相對界のA(社會惡)もA’(人間惡・エゴイズム)も、更には夾雑物に膨らんだB(精神的自己欺瞞)すらもその俎上に晒されるのだと言ふ事。

②ヒューマニズムも、實證精神(A’⇒A)と同樣に、神は人體を失つて、完全な精神としての抽象化を受けた」處の、その精神の一つなのである。よつて強烈な「否定因C」を内包してゐる。その意味で同類型なのだと言ふ事。

 

*恆存が漱石について言ふ、以下傍線部分を含めての「近代ヨーロッパ文學における心理主義の根柢にはヒューマニズムがあつた。このヒューマニズムはたんなる潔癖(B)や封建的な正義感(B封建道徳の背後にある道徳そのもの」)では斷じてない」(P24)との謂ひは、上記①②を謂はんとしてゐるのではなからうか、と言ふ事。

で、此處まで探究してくると、どうしても、この近代ヨーロッパ文學における心理主義の根柢にはヒューマニズムがあつた」について、小生は更に考へて見なくてはならなくなる。よつてその問題を先考する事とする。

*恆存はフローベールの創作方法(心理主義)」も、そのヒューマニズムの方法論と同樣なのだ、と謂はんとしてゐる樣に小生には思へる。つまり以下枠文の如くに。

但し、フローベール文學は「ヒューマニズム小説」なのだとは恆存は言つてゐない。個人主義(ヒューマニズムも含む)で、「現實世界(A)で獲得できた自由(A’⇒A客體化)のいかにつまらなく、それがあまりにつまらぬために自由でもなんでもない」。畢竟、近代自我は「自我の必然としてのエゴイズム」でしかなかつたのだと(下欄評論文參照)。

「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 (參照⇒P1~2:souseki.pdf へのリンク

 

ヒューマニズムの方法論とフローベールの創作方法(心理主義)

*簡略すると、フローベールの創作方法(心理主義)も以下ヒューマニズムと同じ公式なのだと。

①ヒューマニズム(否定因C)(A’⇒A:客體化的意思)+(B―夾雑物)。

フローベール(理想人間像C)=(A’⇒A:客體化的意思)+(B―夾雑物)。

つまり、ヒューマニズムは「否定因C」を根柢に持つと同じく、フローベールも「理想人間像=否定因C」を根柢に持つてゐるのだと。

③漱石(「封建道徳の背後にある道徳そのもの」否定因C)=エゴイズムA’÷正義感・倫理感B。

 

〔是①②を文章化するとかうなる〕

*「一片の虚妄にすぎぬと承知してゐればこそ、かれは自己の理想人間像(C:否定因)を語りはしなかつたのであるが同時に、その理想人間像《否定因C(A’⇒A:客體化的意思)+(B―夾雑物)》があつたればこそ實證精神(A’⇒A客體化:創作方法)をしてあれほどまでに自我(代理A’=ボヴァリー夫人)を斬りさいなむことを許したのである」と(全一P475『理想人間像について』)。

彼等(西歐自然主義作家)の自我(A’)はもはや作品(B)以外に主張と正當化との場所を見いだしえなかつた」。

それが故に、フローベールは「現實の醜惡を素材(A)として、美(B夢想家⇒C理想人間像)を志向する創作方法」と言ふ、その「主張と正當化との場所」を見いだす事で、「リアリズムによる自己(A’)否定」を完遂する事が出來た(公式②)のである、と恆存は言ふ。ただそれら美(B夢想家⇒C理想人間像)は、「作品の裏がはからあのリアリスティックな無表情の記述の保證に立つてゐるにほかならない」と。そして、何處にも神を語つてゐないあの小説スタイルこそが「神に型どれる人間の概念(理想人間像C)の探究」(つまり公式②)なのだと、恆存は言つてゐるのである。評論文に據ると以下となる。

*「個人(A’)の敗北を身をもつて敗北してみせること、可能性の天窓は一分のすきもなく完全にとざされ(B―夾雑物=B極小化)、現實世界(A)で獲得できた自由(A’⇒A客體化)のいかにつまらなく、それがあまりにつまらぬために自由でもなんでもない(自我の必然=エゴイズム)といふことを、克明に描寫し證明してやること(それが小説『マダム ボヴァリー』)」であつたと(參照『現代日本文學の諸問題』全一P59)

 この樣に、ヒューマニズムと深く關聯を持つ、フローベールの「理想人間像C」及び自然主義作家達の「自己否定C」とは、十九世紀の時代を背景としてどの樣に出現したものかと言ふと、かくの如し(傍線部分)であると恆存は書いてゐる。

「 」内が恆存文。( )内は吉野注。(參照⇒P1:souseki.pdf へのリンク

 

恆存が『近代の宿命』で言ふ、「神は人體を失つて、完全な精神としての抽象化を受ける」のその精神の一つ、實證精神(A’⇒A)は、それが内包する「否定因C」をもつて、以下の如く「自然に對すると同樣に、自我の必然に、己がエゴイズムに果敢な鬪爭を開始し、それを攻略せんとこころみた(P21)」のである・・・

*「(西歐)十九世紀後半の自然主義作家にとつて、資本主義社會(A)は彼等の自我(A’)を實生活(A)において拒絶し扼殺するほどに堕落し硬化したのであり、しかもこの社會(A)的事實を彼等ははつきり凝視し、さらにこれを自己(A’)のものとして――いはば社會(A)の醜惡と痼疾とを自己(A’)のそれとして受け容れたのであつた。またそれゆゑの嚴しい自己否定(B⇒C:理想人間像)でもあつた(とは、A=A’として、即ちAの醜惡と痼疾、堕落と硬化を自己のもの、換言すれば「エゴイズムと虚榮と俗惡とのかたまり:P20」として受け容れたと言ふ事である)。彼等の自我(A’)はもはや作品(B)以外に主張と正當化との場所(B⇒C:理想人間像)を見いだしえなかつたのである」(P19)。

 だからと言つて、日本自然主義作家達の「文學(B)すらも文明開化の出世主義(A)のネガティーブな吐け口になつてゐた」と言ふ「A⇒Bのすり替へ的逃げ込み」とは、それは全く違ふのである。

で、どう違ふかと言ふと、恆存は當評論中の文章で以下の樣にそれを物語つてゐる。

《參考:P21・22》「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
(參照⇒P1:souseki.pdf へのリンク

 

彼等の自我(A’)はもはや作品(B)以外に主張と正當化との場所(B⇒C:理想人間像)を見いだしえなかつた」(P19)理由・・・

*「ヨーロッパの作家たちが自己(A’)をあへて作品(B)のうちに扼殺したのは、(「社會の醜惡と痼疾とを自己のそれとして受け容れた」爲に)、それ(自己A’)がすでに實生活(A)においても生きる道をもたなかつたからであり、彼等はさういふ自己(A’)を作品(B)のうちに甘やかすことを徹底的に嫌つたからであつた。いや、彼等は自己(A’)のうちに甘やかしうる餘地を見いだしえなかつた――(リアリズム=西歐自然主義と言ふ手段によつて、)それ(自己A’)はエゴイズムと虚榮と俗惡とのかたまり(自我の必然としてエゴイズム)以外のなにものでもなかつたからである。が、日本の自然主義作家は社會に逐われたというより、作家は社會に逐われるものとしてはじめから觀念していたのである――いわばそのような藝術方法をもって社會に對し、それゆえに社會から逐はれたのであった。したがって(ヨーロッパの作家達がした樣には)彼等は社會の惡を自己のものとして受け容れるすべも知らず、たんなる實生活の上での俗世間的な不滿をすら作品のなかにもちこむ(A⇒Bのすり替へ的逃げ込み)ごとき錯誤を犯しかねなかつた。自己否定の文學としてのリアリズム=自然主義が容易に自己主張に通じ(つまり「文學(B)すらも文明開化の出世主義(A)のネガティーブな吐け口になつてゐた」と言ふ事)、そこから私小説への展開が見られたゆえんである」(『近代日本文學の系譜』P20)。

*「十九世紀後半から二十世紀にかけてヨーロッパの作家達が直面したものはなにかといへば、それは、自然に對して人間の自主性を奪取せんとした科學の實證精神が、そのあくなき切先を人間性そのもの、自我そのものにさしむけたところに明瞭な姿を見せることとなつたエゴイズムにほかならなかつた」。(中略)「ヨーロッパの近代作家たちは自然の法則を發見したとおなじやうに自我の必然(エゴイズム)を發見したのであつたが、それゆゑに自然に對すると同樣に、自我の必然に、己がエゴイズムに果敢な鬪爭を開始し、それを攻略せんとこころみてゐる。リアリズムはそのための武器であり、外形の無關心さにもかかはらず、その底には激しい社會的な文化意思が隱されてゐたのである」(『近代日本文學の系譜』P21)。

 と言ふ風に、恆存が語る「漱石(正義感B)と西歐ヒューマニズム、『彼我の差』」(P25周邊)を理解するのに、是だけの文章群が必要となつてくるのである。

 

〔難解又は重要文〕P25上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

そしてすべてを純粋に本質的な内部の問題に還元したところに、日本の近代文化の弱點がある」・・・この邊の文章は何を言はんとしてゐるのであらうか。當文も明確化する爲に一應、小生的見解を下枠文中に括弧で入れてみた。

*「そしてすべてを純粋に本質的な内部の問題に(肉體の問題Aを精神の問題Bにと言ふ事)還元したところ(つまり「精神の政治學」缺如)に、日本の近代文化の弱點がある(⇒『肉體の自律性』參照)」。

 

*上項に續く以下の文章もなかなかの難解文である。よつて此處でも引用と同時に直接「吉野注」を評論文に入れる事にした。その上で最重要項目は別枠で探究する事にした。

〔難解又は重要文〕P25上~26上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「にもかかはらず、僕たちは漱石の文學史的優位を無視することはできない。たしかに彼の自我(A’)は實生活(A)において否定され扼殺される憂目を見なかつた」(とは、以下の消息を言つてゐるのであらう)。

〔漱石と西歐自然主義、彼我の差〕(參照⇒P2:souseki.pdf へのリンク

 

*「社會(A)は優越者としての彼(A’)を容れうる餘地(A’⇒A客體化)をなほ殘してゐる」(P24)。

*それに引き換へ、しつこくも繰り返すが、「(西歐)十九世紀後半の自然主義作家にとつて、資本主義社會(A)は彼等の自我(A’)を實生活(A)において拒絶し扼殺するほどに堕落し硬化したのであり、しかもこの社會(A)的事實を彼等ははつきり凝視し、さらにこれを自己(A’)のものとして――いはば社會(A)の醜惡と痼疾とを自己(A’)のそれとして受け容れたのであつた。またそれゆゑの嚴しい自己否定(B⇒C:理想人間像)でもあつた(とは、A=A’として、即ちAの醜惡と痼疾、堕落と硬化を自己のもの、換言すれば「エゴイズムと虚榮と俗惡とのかたまり:P20」として受け容れたと言ふ事である)。彼等の自我(A’)はもはや作品(B)以外に主張と正當化との場所(B⇒C:理想人間像)を見いだしえなかつたのである」(P19)。

〔續く

「が、彼はその作品(B)を通じて自己(A’)否定を企ててゐる。當然、彼の創作(B)活動そのものには、人間完成(C)を意圖する行爲的意思(BC又はがともなつた。他から與へられた觀念としての藝術活動が、二葉亭をしてその創作活動に第一義の行爲としての實感を覺えしめなかつた」(とは以下の如し)

「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

*「他から與へられた觀念としての藝術活動」・・・とは、「(佛自然主義を輸入した)ロシア自然主義文學から學びとつた藝術概念(リアリズム)」(P23下)の事。

*「二葉亭をしてその創作活動に第一義の行爲としての實感を覺えしめなかつた」・・・とは、以下の事。

①「二葉亭はそれ(實感=セルフ・アイデンティフィケイション=實在感:D3)を藝術や文學(B)によつて達成し得るとは思はなかつた。(中略)彼にとつてセルフ・アイデンティフィケイションはセルフ=自己からは遣つて來ない。『自分の性質ですら能く分らぬ』といふ言葉のうちに、二葉亭は無定形、無限定の自己D1:關係・宿命喪失の自己)を認めてゐたに相違なく、それに居住ひを匡させるもの、即ちセルフアイデンティファイ(自己確認D3=實在感)する物として、實感といふものを考へてゐたとしか思はれない」(『獨斷的な餘りに獨斷的な』:全六P551)

②「二葉亭は當然、二元的な態度を採らざるをえなかつた。――内省による心理主義を藝術(B)に、そしてそのやうな藝術概念によつては始めから否定せられざるをえぬものとして、自己主張の役割は日常生活の實行(A)に、といふわけである。かくして現實社會(A)によつて拒絶せられ、逐ひつめられた自我(A’)を、ひるがへつてその作品(B)のうちにもちこむすべ(近代西歐のリアリズム:「彼我の差」higanosa.sozai.pdf へのリンク右圖參照)は、つひに二葉亭の與り(あづかり)知らぬところであつた。自己の存在を實感(D3)し得る爲には、自分の外に在つて自分の上にのしかかつて來る自分以外の何物か(C的なもの)との出會ひ(D1宿命・關係⇒D2自己劇化)が必要になつて來る。それが『實感で心を苛めてゐないと』とか『實感で試験をせんと』とかいふ言葉になつて表れて來たのではないか」P23下)

 つまり、二葉亭は當時の文學では、C自分以外の何物か:絶對・全體)⇒D1(宿命・關係)⇒D2(自己劇化)⇒C(絶對・全體)⇒D3(實在感)」のプロセスから得られる「實感・實在感」なるものを得る事が出來なかつた、と恆存は謂はんとしてゐるである。

「無限定の自己」の問題は、二葉亭をして「國家(C’),つまり國事に直接參加するといふ行動によつて、枠を失つた自己(無限定の自己)の歪みを匡さう」とさせた。と恆存はそのやうに述べてゐたと記憶する。(參照:全集六『獨斷的な、あまりに獨斷的な』他)

その意味を含め、明治は相對(C’)のものを絶對(C)の對象にしなければならなかつた時代的限界があつたとも言へる。

〔續く⇒〕

「のに反し、はじめからリアリズム(A’⇒A:客體化的意思)を放棄してゐた漱石は、自己(A’)の現實に相應したものとしての藝術方法(B)に頼つたがため、」(とは以下の如し)

「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

*「漱石に向つて拒絶(否定因?)をもつて對するものは、藤村その他の自然主義作家たちにおけるごとき現實(A)でもなく鷗外におけるやうな人間の運命(D1)でもなく、彼の正義感(B⇒C)であり倫理感(B⇒C)であり、その思想(以下)であつた」。

*漱石も鷗外同樣「封建道徳の背後に道徳そのもの(本質としてのBC天)を見てゐた」(「自己劇化と告白」P417

「この鏡(C:羅針盤)に照して、彼は自己のうちのエゴイズム(A’)が許せなかつたのだ(BC⇔A’の對立)」(P24)と言ふ事。

〔續く⇒〕

「自己の創作活動を意思的な行爲(BC⇔A’ の對立)たらしめえたのである。しかも、藤村の藝術(B)活動が、自己(A’)主張を通じてたえずまへむきに社會的現實(A)に對してをり、そこにいかんともなしがたい障壁(社會惡A’⇔A:非客體)を見てゐた」(とは以下の如し)

「藤村の藝術(B)活動」とは、以下傍線を參照

 

(拙發表文:『獨斷的な餘りに獨斷的な』他より)「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

*宗教改革の神に先導された西歐の資本主義と異なり、「近代日本(明治)は資本主義をはじめから利己的な惡徳として發展せしめる以外に道はなかつた(經濟的適應異常)。天皇と國家とのためにといふ名目を除外しては。(中略)近代日本の帝國主義は自己を限界づけるなにもの(國際主義)ももたなかつた(政治的適應異常)。のみならず、天皇や國家の権威は強者の惡徳を正當化した」⇒したがつて「明治の知識階級は政治活動(A)や社會活動(A)のうちに自己(A’)を生かすこと(A’⇒A客體化的意思)を惡と見なさざるを得なかつた」。

*(ヨーロッパの作家達がした樣には)彼等は社會の惡を自己のものとして受け容れるすべも知らず、たんなる實生活の上での俗世間的な不滿をすら作品のなかにもちこむ(A⇒Bのすり替へ的逃げ込み)ごとき錯誤を犯しかねなかつた。自己否定の文學としてのリアリズム=自然主義が容易に自己主張に通じ(つまり「文學(B)すらも文明開化の出世主義(A)のネガティーブな吐け口になつてゐた」と言ふ事)、そこから私小説への展開が見られたゆえんである」『近代日本文學の系譜』P20)。と言ふ事。

〔續く⇒〕

「のとは逆に、漱石の自我は職業(A’)を通じてこの藤村が障壁(A)と見たもののうちへ突き抜けてゐた(A’⇒A:客體化)ため、うしろむきに(B領域むきに)自我の心理的な純粋性(B『個人の純粋性の静謐』)がめざされることとなつた」。

 「漱石はこの純粋性(B『個人の純粋性の静謐』)の追求において、己れのエゴイズム(A’)を手のふれえぬもの、改修し超克しえぬものとは見なさず、あくまで彼の意思のもとに解體し、組みたてなほしうるものと考へるのである」。(とは以下の如し)

「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

*「彼の意思のもとに解體し、組みたてなほしうるものと考へる」・・・とは、西歐近代文學の「心理主義」と言ふ方法論(型)を武器に、西歐近代同樣「精神の政治學」最下降による、エゴイズム(A’)の「解體と變形と抽象化」を考へたと言ふ事であらう(⇒以下文參照)。

*「鷗外・漱石の意識してゐたものは、彼等の言説のいかんにかかはらず、要するにヨーロッパ人になることであり、ヨーロッパ精神を身につけることであり、さらにヨーロッパ流の文學概念(「鷗外論ougairon.pdf へのリンク)を確立しようとすることにほかならなかつた(即ち「精神の近代化」と言ふ事では)」 (『文學史觀の是正』P358)。

*「彼等(鷗外・漱石)がともに西歐文學の傳統を深く理解してゐたこと、この傳統のそとには自己の作家活動はもとより個性の完成すらもちえなかつたことが考へられる」(『近代日本文學の系譜』P20下)。

〔よつて小生思ふらく。以下二つの恆存の見事な西歐近代への洞察は、漱石・鷗外の胸中にも去來してゐたのでなからうか、と言ふ事〕

*「近代ヨーロッパは神を見失つた――が、それはただ神の解體と變形と抽象化とを意味するに過ぎぬ。まさにそのための手續きであり過程にすぎなかつたヨーロッパの近代精神とその政治制度・経済機構なのである」(『近代の宿命』全二P466)。

*「萬人をその胸に救ひとる人格神が、その手をその脚を、さらにその胴體をもぎとられ、それらが制度化(A:民主主義・國際法・三権分立等)せられ機械化(産業革命等)せられる――で、神は人體を失つて、完全な精神としての抽象化を受ける。その精神が文學の領域(B領域:心理主義文學・個人主義文學等)として殘されるといふわけだ」 (『近代の宿命』全二P463

〔續く⇒〕

「求道心の眞實性といふがごとき一種の動機論に彼は滿足しえない。藤村は他我(A)とのかかはりを失つた自我(A⇒Bのすり替へ的逃げ込み)の純粋性を信じきつてをり、一方的な自己放出(A⇒Bのすり替へ的逃げ込み)に自我の純粋性を維持せんとしてゐた。が、漱石は他我(A)をしてあへて自我(A’)にかかはりしめ(A⇒A’)、そのかかはりにおいて自我の純粋性(B「個人の純粋性の静謐」)を捕捉しようとしたのである。社會(A)が彼に對立するのではなく、彼の倫理感(B)が、觀念(B)が、思想(B)が、彼の自我(A’)に對立する」。(とは以下の如し)

「 」内が恆存文。( )内は吉野注。(參照⇒P2:souseki.pdf へのリンク

 

〔以下①②の西歐近代的公式「A’ 自我⇒A社會:客體化的意思」ではなく、漱石の場合は、社會(A)ではなく「他我(A)をしてあへて自我(A’)にかかはりしめ」即ち、「他我A⇒自我A’」なのだと〕⇒以下③參照

 

西歐ヒューマニズムの方法論とフローベールの創作方法(心理主義)

*簡略すると、フローベールの創作方法(心理主義)も以下ヒューマニズムと同じ公式。

①ヒューマニズム(否定因C)(A’⇒A:客體化的意思)+(B―夾雑物)。

フローベール(理想人間像C)=(A’⇒A:客體化的意思)+(B―夾雑物)。

つまり、ヒューマニズムは(否定因C)を根柢に持つと同じく、フローベールも(理想人間像=否定因C)を根柢に持つてゐるのだと。

③漱石の心理主義(「封建道徳の背後にある道徳そのもの」否定因C)=(他我A⇒自我・エゴイズムA’にかかはらせる)÷(倫理感B・觀念B・思想Bで對立する)。

==⇒つまり「エゴイズム(A’)を彼の意思(B)のもとに解體し、組みたてなほし=⇒(右へ到達せんと意思)=⇒自我の純粋性(B「個人の純粋性の静謐」)の捕捉

〔續く⇒〕

「それゆゑに漱石はこの他我とのかかはりそのもの(他我A⇒自我A’)をば、他我(A)の實體を離れて捉へようとする(P24「彼の意思のもとに解體し、組みたてなほしうるものと考へる」と同?)。彼の心理主義がつひに他我(A)の性格を描寫しえず、正統の意味におけるリアリズム(A’⇒A:客體化的意思)+(B―夾雑物)を完成しなかつた(參照上枠①②)所以である。

 いはば、藤村はひたむきな自己主張(A⇒Bのすり替へ的逃げ込み)において――どうしやうもない自我の必然性の發露(A⇒Bのすり替へ的逃げ込み)において、自我の純粋(B:藝術家小説)にゐることを願つたのであり、漱石はその觀念的明確さ(B倫理感・思想)をもつて自我(A’)の現實にエゴイズムといふ輪郭を刻みつけ(即ち③の方法で)、その線のかなたに(解體・組みたてなほし=「精神の政治學」線の最下降に)自我の純粋性(B「個人の純粋性の静謐」)を信じつつ、そこへ到達せんと意思したのである。藤村は自我(A’)の現實が刻むには硬き石(AA’:客體不可能性)であることを觀念してゐた(それが故の「A⇒Bのすり替へ的逃げ込み」であつた)が、漱石はそれを心理主義といふ道具(③の方法)をもつて刻まうとした。鷗外(「素材Aの必然に隨ひ歩む」:A’⇒Aとは對蹠的(正反對)に、漱石は架空(B倫理感・觀念・思想)を頼らねばならなかつた。彼のフィクション(心理主義:③の方法)は、この意味において、彼の觀念(B倫理感・思想)が到達せんと意思する自我の純粋性(B「個人の純粋性の静謐」)を周圍から指示し暗示せんがために必要なものとして、他我とのかかはり(他我A⇒自我・エゴイズムA’にかかはらせる)を織り上げ、解きほごす(解體・組みたてなほす)作業にほかならなかつた。漱石はこの營みのはてに己が心(B精神)の所在を見失ふに至つた(神経衰弱?)――當然である、他我の實體(Aそのもの)を離れて、それとのかかはりそのもの(他我A⇒自我・エゴイズムA’にかかはらせる)が純粋に捉へうべきはずのものではなく、したがつて自己の純粋性(B「個人の純粋性の静謐」)への到達など期しうるものではなかつた。實はこの地點から近代ヨーロッパの作家達は方法としてのリアリズム(實證主義:下枠①②)へと赴いたのであつたが、(とは以下の如し)

「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

〔近代ヨーロッパの作家達は、以下①②の方法論(實證精神)でなくしては、「精神の政治學」線は最下降せず、「したがつて自己の純粋性(B「個人の純粋性の静謐」)への到達など」はしない、と氣附いてゐた〕

 

西歐ヒューマニズムの方法論とフローベールの創作方法(心理主義)

*簡略すると、フローベールの創作方法(心理主義)も以下ヒューマニズムと同じ公式。

①ヒューマニズム(否定因C)(A’⇒A:客體化的意思)+(B―夾雑物)。

フローベール(理想人間像C)=(A’⇒A:客體化的意思)+(B―夾雑物)。

つまり、ヒューマニズムは(否定因C)を根柢に持つと同じく、フローベールも(理想人間像=否定因C)を根柢に持つてゐるのだと。

〔續く⇒〕

「漱石はこの不安をそのまま表現に託さうとした」。(とは以下の如し)

「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

〔この不安とは〕

「他我の實體(Aそのもの)を離れて、それとのかかはりそのもの(他我A⇒自我・エゴイズムA’にかかはらせる)が純粋に捉へうべきはずのものではなく、したがつて自己の純粋性(B「個人の純粋性の静謐」)への到達など期しうるものではなかつた」を示し、漱石はその不安を「そのまま表現に託さうとした」、と言ふ事なのであらう。

〔續く⇒〕

「フローベールの自我(A’)は他我(A)への完璧な奉仕のかげに傷ついてゐるが、」(とは以下の如し)

「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

フローベールの自我(A‘)否定〕(參照⇒P1:souseki.pdf へのリンク

*「一片の虚妄にすぎぬと承知してゐればこそ、かれは自己の理想人間像(C:否定因)を語りはしなかつたのであるが同時に、その理想人間像《否定因C(A’⇒A:客體化的意思)+(B―夾雑物)》があつたればこそ實證精神(A’⇒A客體化:創作方法)をしてあれほどまでに自我(代理A’=ボヴァリー夫人)を斬りさいなむことを許したのである」(全一P475『理想人間像について』)。

*「個人(自我A’)の敗北を身をもつて敗北してみせること、可能性の天窓は一分のすきもなく完全にとざされ(B―夾雑物、による極小化)、現實世界(A)で獲得できた自由(A’⇒A客體化)のいかにつまらなく、それがあまりにつまらぬために自由でもなんでもない(自我の必然=エゴイズム)といふことを、克明に描寫し證明してやること(それが小説『マダム ボヴァリー』)」であつた。(參照『現代日本文學の諸問題』全一P59)

〔續く⇒〕

「漱石はその作品からいかに他我(A)を解體せんとはかつてゐようとも、その背後では觀念(B倫理感・思想)に對する絶對的な信頼に寄りかかつてゐる」。(とは以下の如し)

「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

〔「他我(A)を解體せんとはかる」漱石の實證精神(心理主義)とは〕
(參照⇒P2:souseki.pdf へのリンク

・・・「漱石(鷗外も)の意識してゐたものは、彼等の言説のいかんにかかはらず、要するにヨーロッパ人になることであり、ヨーロッパ精神を身につけることであり、さらにヨーロッパ流の文學概念(「鷗外論」1圖)を確立しよう」(『文學史觀の是正』P358)としてゐたとしても、漱石は以下③の形態である爲、それは「觀念(B倫理感・思想)に對する絶對的な信頼」なのであり、結果としては、前述①②の西歐實證精神とは背離してゐる「心理主義」であつた、と言ふ事なのであらう。

③漱石の心理主義(「封建道徳の背後にある道徳そのもの」否定因C)=(他我A⇒自我・エゴイズムA’にかかはらせる)÷(倫理感B・觀念B・思想Bで對立する)。

=⇒つまり「エゴイズム(A’を彼の意思のもとに解體し、組みたてなほし=⇒(右へ到達せんと意思)=⇒自我の純粋性(B「個人の純粋性の静謐」)の捕捉

 

〔難解又は重要文〕P26下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

此處の文章も、「とは何を言はんとしてゐるのであらうか」と引用し探究すると、煩雑になり長くなるので、「讀み下し」的に引用と同時に直接「吉野注」を評論文に入れる事にした。その上で最重要項目は別枠で探究する事にした。

「鷗外と漱石とが、たとへ末期的な頽廢と病根とをうちに含んでゐた明治三十年代、四十年代の資本主義社會であつたとはいへ、」(とは以下の如し)

(拙發表文:『獨斷的な餘りに獨斷的な』より)「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

*宗教改革の神に先導された西歐の資本主義と異なり、「近代日本(明治)は資本主義をはじめから利己的な惡徳として發展せしめる以外に道はなかつた(經濟的適應異常)。天皇と國家とのためにといふ名目を除外しては。(中略)近代日本の帝國主義は自己を限界づけるなにもの(國際主義)ももたなかつた(政治的適應異常)。のみならず、天皇や國家の権威は強者の惡徳を正當化した」⇒したがつて「明治の知識階級は政治活動(A)や社會活動(A)のうちに自己(A’)を生かすこと(A’⇒A客體化的意思)を惡と見なさざるを得なかつた」。

〔續く⇒〕

「そのわずかに健全なるものに職業を通じてつながつてゐたといふことは、」(とは以下の如し)

「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 (參照⇒P2:souseki.pdf へのリンク

 

*「職業が彼(漱石)を社會人たらしめたと同時に、この職業の上での成功(A’⇒A客體化)が、社會惡(A)とエゴイズム(A’)とを一つのものとして把握する能力を彼から奪ふ緩衝地帶にもなつてゐたのである。漱石も鷗外とおなじく生涯社會から拒絶されるものとして自己を考へることがなかつた。社會(A)は優越者としての彼(A’)を容れうる餘地(A’⇒A客體化)をなほ殘してゐるのである」(P23下)。故に「エゴイズム(A’)は社会惡(A)とつながつて」ゐない。それが即ち「現實性の希薄さ」となるのだと。

たしかに社會人、職業人としての安定した生活(A’⇒A:客體化)が禍したものといへよう。彼の社會に對する結びつきの健全さ(A’⇒A:客體化)は、抑壓された自我の不満(A的不滿)から生ずる不純な濁り(A⇒Bすり替へ)を作品(B)から完全に追放(「精神の政治學」下降による「個人の純粋性Bの静謐」?)しえた(即ち「實生活によつて解決すべきものはすでに解決してゐた」:P24)ものの、まさにその純粋さのゆゑに(西歐自然主義の樣には)社會惡(A)を背景としてエゴイズム(A’「エゴイズムと虚榮と俗惡とのかたまり」P20)を描出するすべを知らなかつた」(P23下附近)。

〔續く⇒〕

「近代日本文學の發展と形成との上に深く必然的な役割をはたしてゐたのである。當事の知識人は、この二人の作家の營みによつて、藝術家(B)が社會(A)から反逆と追放とを酬いられずにすむ、さういふ藝術家の在り方(即ち上枠文)を探りあてることができたといへる。」(とは以下の如し:特に傍線部分)

〔「藝術家が社會から反逆と追放とを」受けた理由は以下の通り〕「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

(拙發表文:『獨斷的な餘りに獨斷的な』より)

〔恆存が書く「自然主義作家・私小説家」に至る流れ。及びその似非實在感

*江戸幕府瓦解(文化政策的な儒教倫理C”の崩壊)⇒規範(D1)喪失⇒無限定性の自己(D1・關係・宿命喪失)⇒明治日本は、宗教改革の神に先導された西歐の資本主義と異なり、「近代日本(明治)は資本主義をはじめから利己的な惡徳として發展せしめる以外に道はなかつた(經濟的適應異常)。天皇と國家とのためにといふ名目を除外しては。(中略)近代日本の帝國主義は自己を限界づけるなにもの(國際主義)ももたなかつた(政治的適應異常)。のみならず、天皇や國家の権威は強者の惡徳を正當化した」⇒したがつて「明治の知識階級は政治活動(A)や社會活動(A)のうちに自己を生かすことを惡と見なさざるを得なかつた」のである⇒加へるに利己心に對する後ろめたさ(日本人の習俗性と封建道徳の残滓)⇒爲に、「完全に私を放棄して政治に身を挺するか(「下級武士の和魂洋才」)、さもなければ頑強に私を固執(自己絶對視)して一點に立ちすくむか(自然主義作家)」の二者擇一⇒それが故の、自然主義作家がした、實生活(A)から文學(B)への逃避。即ち「文學すらも文明開化の出世主義のネガティーブな吐け口になつてゐた」。(と同時に和魂(B)は下級武士(福沢諭吉等)のアクティーブな吐け口と言ふ事なのでは)⇒自己に忠實(D2:自己表現)⇒C”:自己完成といふ名の自己絶對視・自己正當化⇒D3:自分でする自己確認即ちセルフ・アイデンティフィケイション(虚妄の實感)・似非實在感。「テキストP9圖」參照及び『近代の宿命』(全二P463)『私小説的現實について』(全一P571~3)

 

〔續く⇒〕

「すくなくとも漱石は當事の社會の高き良心であり、知識階級の煩悶の指導者であつた。と同時に、彼の苦惱と良心(③の方法)とを通じて人々はますます現實と社會惡(A)とから遠ざかり、そのかたはらを巧みに切りぬける一條の道を發見してゐた」。(とは以下の如し)

「 」内が恆存文。( )内は吉野注。(參照⇒P2:souseki.pdf へのリンク

「そのかたはら(A:現實と社會惡)を巧みに切りぬける一條の道」とは・・・

*前述文「職業の上での成功(A’⇒A客體化)が、社會惡(A)とエゴイズム(A’)とを一つのものとして把握する能力を彼から奪ふ緩衝地帶にもなつてゐた」が、そのまま知識階級にも手本となつてゐた、と言ふことであらう。それによつて「實生活(A)によつて解決すべきものはすでに解決してゐた(A’⇒A客體化)」と、「現實と社會惡(A)」については白を切ることが出來たのである、と言ふ事では。

 

「人々はますます現實と社會惡とから遠ざかり」の理由

*「たしかに社會人、職業人としての安定した生活(A’⇒A:客體化)が禍したものといへよう。彼の社會に對する結びつきの健全さ(A’⇒A:客體化)は、抑壓された自我の不満(A的不滿)から生ずる不純な濁り(A⇒Bすり替へ)を作品(B)から完全に追放(「精神の政治學」下降による「個人の純粋性Bの静謐」?)しえた(即ち「實生活によつて解決すべきものはすでに解決してゐた」:P24)ものの、まさにその純粋さにゆゑに社會惡(A)を背景としてエゴイズム(A’「エゴイズムと虚榮と俗惡とのかたまり」P20)を描出するすべを知らなかつた」(P23下附近)。

〔續く

 「いはば、この狹隘な小道職業の上での成功(A’⇒A:客體化)」で「現實と社會惡(A)とから遠ざかる」)を辿ることによつて、近代日本文學における藝術家(B)概念は、はじめて確定されたわけである。白樺派は大いなる二人(漱石・鷗外)の先達の後楯があつて、自己の藝術家(B)を全面的に社會(A)に向つて押しいだすことになんの不安もうしろめたさも感ぜずにすむことができた。彼等は、あらゆる社會惡(A)を自己の個人的、本質的な良心の問題(B)として解決し、」(とは以下の如し)

「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 (參照⇒P2:souseki.pdf へのリンク

 

*白樺派の文學は、「實證精神」即ち、下欄①②の西歐近代的公式「A’ 自我⇒A社會:客體化的意思」ではなく、③漱石の心理主義つまり

③漱石の心理主義(「封建道徳の背後にある道徳そのもの」否定因C)=(他我A⇒自我・エゴイズムAにかかはらせる)÷(倫理感B・觀念B・思想Bで對立する)。

=⇒「エゴイズム(A)を彼の意思のもとに解體し、組みたてなほし=⇒(到達せんと意思)=⇒自我の純粋性(B「個人の純粋性の静謐」)の捕

と言ふ同樣の公式で、ただ上枠の「他我A」が「社會惡A」と塗り替へられ、「倫理感B・觀念B・思想Bで對立する」が「社會惡(A)を自己の個人的、本質的な良心の問題(B)として解決」するに塗り替へられただけの方法論なのだと、恆存は言つてゐる樣に思へる。

社會惡(A)を自己の個人的、本質的な良心の問題(B)として解決」とは、社會惡(A)を「彼の意思のもとに(B領域上で)解體し、組みたてなほし」の謂ひと同等、と小生には捉へられるのである。つまり、白樺派は以下(赤字)に變化しただけと言ふ事になるのである。

白樺派の文學(否定因C不在の代替へとして良心B=(社會惡A⇒自我・エゴイズムAにかかはらせる)÷自己の個人的、本質的な良心の問題(B)として解決」)。

=⇒つまり社會惡(A)を彼の意思(B)のもとに解體し、組みたてなほし=⇒(右へ到達せんと意思)=⇒自己完成(良心の問題B⇒C’自己完成)⇒(結局は良心Bによつて組み立てられた自己滿足D3と言ふ事であらうか?)

 

 

漱石「心理主義」と、西歐ヒューマニズムの方法論・フローベールの創作方法(心理主義)」との彼我の差

*簡略すると、フローベールの創作方法(心理主義)も以下西歐ヒューマニズムと同じ公式

①ヒューマニズム(否定因C)(A’⇒A:客體化的意思)+(B―夾雑物)。

フローベール(理想人間像C)=(A’⇒A:客體化的意思)+(B―夾雑物)。

つまり、ヒューマニズムは(否定因C)を根柢に持つと同じく、フローベールも(理想人間像=否定因C)を根柢に持つてゐるのだと

③漱石の心理主義(「封建道徳の背後にある道徳そのもの」否定因C)=(他我A⇒自我・エゴイズムAにかかはらせる)÷(倫理感B・觀念B・思想Bで對立する)。

=⇒つまり「エゴイズム(Aを彼の意思のもとに解體し、組みたてなほし=⇒(右へ到達せんと意思)=⇒自我の純粋性(B「個人の純粋性の静謐」)の捕

〔續く

そこ(社會惡A÷良心の問題)に心おきなく自己完成(良心の問題B⇒C’自己完成)の修業に耽る安定した場を見いだしてゐたのである。藝術家(B)たることが(西歐自然主義作家等が感じた樣には)彼等になんのうしろめたさも感ぜしめなかつたばかりではない――近代人としてもつとも良心的に生きる道として、彼等は藝術家(B)たる以外にいかなる別の方法もありえないとまで考へざるをえなかつた(即ち「西歐實證精神=リアリズム」は移植出來なかつた)」)。

 

(中略)彼等の家庭生活(A)はまことにほどよく藝術(B)の框を支へてゐた。そこに現れる現實(A)の抵抗は、決して彼等を無益な鬪爭(A’⇒A:客體化的意思)へ、またその結果としての敗北へと誘ふものではなく、むしろそれは彼等の勝利(B的勝利)を、したがつて自我擴大の滿足と自信(自己滿足=似非實在感:D3)とを保證するごときものであり、その意味で藝術のための沃土であつた」。

 

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 とまあ、恆存の「漱石」論を、専一に探究してみたのではあるが、果たして、正鵠を射てゐるであらんや・・。

 

をはり