平成二十六年十月九日

『福田恆存を讀む會』

                            吉野櫻雲 發表文


十月選擇評論:全集第六巻所收『現代國家論』(「讀賣新聞」昭和四十年十一月:五十四歳著)

 

 當評論は、讀んで「ストン」と胃腑に収まると言ふ譯にはいかぬ難解な代物であつた。その爲なんとか「理解」の枠に収めようと、いきほひ、以前に作つたPP圖「彼我の差」higanosa.pdf へのリンク を活用したきらひがある。恆存評論に『理解といふこと』があるが、そこで言つてゐる處の、小さな「理解」と言ふ枠に無理矢理押し込んだやうな後ろめたさが漂ふ。まあ是も個人的限界として我慢して戴きたい。

 と、當レジュメ最終纏めの文章を書いてゐる内に、ふと過去のレジュメ中に以下文があつたのを思ひ出した。よつて、此處に附記する。特に傍線部分は、今囘評論にかなり密接に關聯する處かと存ずる。

PP圖「彼我の差」higanosa.pdf へのリンク 左右圖の相違を認識せぬが爲の「近代適應異常」・・・(例)「資本主義」「自然主義文學」。「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

*左右の圖でより認識できる明確な「近代」の相違。恆存はこの點を以下のやうに書いてゐる。(括弧内は吉野注)

 

じじつは絶對に通用しえぬのに通用しうるかのごとき錯覺をいだいたことにまちがひがあつたのだ。ぼくたちはまず第一に、ヨーロッパの近代を本質的に究明して日本に眞の意味の近代がなかったことを知らねばならぬ。第二に、しかもヨーロッパの近代を索引にしなければならぬ近代日本史をパラレル(上記例)にもつたといふ事情も同時に認めなければならない。第三に、この二つの事實を理解しえぬために生ずる混亂(「近代適應異常」)を徹底的に克服せねばならない」(『近代の宿命』)。

 さうなのだ。「通用しうるかのごとき錯覺をいだいた」爲に、西歐近代で實證精神から紡がれた「各種近代概念」が、日本では表象概念(C2:後楯・護符)へと變貌してしまつたのである。

*******************************************

と言ふ事で、今評論も中々の難解にしてかつ手ごはく、そしてどの文章も重要なのであるが、特に以下内容文を此處に取り上げる事とする。更にいつもの如く難解なる内容については、手助けを他評論に仰ぐこととする。(以下文中傍線及び括弧内は概ね吉野附記。「P9圖」云々は「讀む會テキスト」頁を表す。「ABD2」等も同テキスト三頁を參照の程)

 

〔難解又は重要文〕:P166上~~後半二行目迄「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「元來のナショナリズム(國家主義)はフランス大革命から十九世紀後半にかけての近代國家の確立を、即ちヨーロッパ共同體からの國家的自律性を目ざすものであり、その意味において、それは個人の自由といふ觀念と竝行し、互ひに相手を補強促進する協調關係がなつてゐた。そこでは國家と個人との利害が比較的一致する。さういふ兩者の利害關係を他に先んじて調整し得た國を先進國と言ふ。ヨーロッパ大陸ではフランスが革命の流血と他國の侵略といふ荒治療以て最も早くそれに成功したが、イギリスは島國であつて大陸共同體の束縛が緩かつた爲、既にヘンリー八世、エリザベス一世の時代に早くも独立國家への道を歩み始めてゐた。その英佛兩國に比べて他國は著しく遲れを取つた。この事實は重要な意味を持つ。遲れを取つた國々のナショナリズム(國家主義)は先進國のそれの樣に國家と個人との利害は一致しない。對外的には齊しく國家的自律性を目ざすナショナリズム(國家主義)であつても、對内的には個人の自律性を犧牲にし、個人に對して國家への忠誠を要求しなければならなくなる。さういふ羽目に追込まれた國々を後進國と言ふ」・・・この邊の文章は何を言はんとしてゐるのであらうか。「讀む會テキスト」yomukaitekisuto.pdf へのリンクP7P8邊りの事を言つてゐるのであらう。そして傍線部分は、PP圖「彼我の差」higanosa.pdf へのリンクの右圖及び書き込み文(以下)を示してゐるのであらう。

A的(現實的)客體化:「A客體←A”主體」。

即ち、「神に型どれる人間の概念の探究」として齎されたもの・・・資本主義・民主主義・個人主義・自由主義等各種近代概念。そしてナショナリズム(國家主義)も然り。

 

〔難解又は重要文〕:P166上~~後半二行目迄「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「過去四百年に亙る近世近代史は、好むと好まざるとに拘らず、世界的規模によつて押し進められて來た近代化の過程において先進國と後進國との間に醸し出される利害相剋の歴史と單純に割り切る事が出來よう」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。恆存は先の大戰における日本の敗戰もこの論理上で捉へ、P168下で「大東亞戰爭は罪惡なのではなく失敗であつた」と書いてゐる。失敗とは、近代化(先進國化)の爲の方法論(帝國主義・精神主義)的失敗と言ふ事か?記憶が不確かであるが何處かの評論で書いてあつたやうな・・。

以下表は恆存の言ふ文中の「先進國」「後進國」の概念を整理してみた。

 

國家的自律性

個人の自律性(個人の自由)

先進國

○→補強促進する協調關係    ←

後進國

 

○:

對外的には齊しく國家的自律性を目ざすナショナリズム(國家主義)。

*「先進國に對する劣勢の意識と守勢の立場から、逆に攻撃的姿勢を取り、自國の國家的優位を確立しようとする。その専らの關心事は自律性より優位性。優位性によつてしか、自律性が得られぬから」。

×:

對内的には個人の自律性を犧牲にし、個人に對して國家への忠誠を要求。

*後進國中の最先進國:ドイツ

*後進國(南歐)中の最先進國:イタリア

*後進國(東洋)中の最先進國:日本

 

○:

後進國中の最先進國(日獨伊)三國が第二次大戰では歩調を合せた。

 

←左記「日本」の構圖はPP圖「彼我の差」higanosa.pdf へのリンクの左圖を參照されたし。

×:

 

〔難解又は重要文〕:P166下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「第一の自然發生的なナショナリズム(國家主義)が安定し、先進國がそれを卒業し掛けた時に、第二のナショナリズム(國家主義)が登場した。それは前者が自然發生的であり安定し掛けてゐる事に苛立ち、前者の推し進める近代化の刺激に適應し兼ねる處に生じたものであつて、後進國特有の適應異常現象と解せられる」・・・この邊の文章は何を言はんとしてゐるのであらうか。

*「先進國がそれを卒業し掛けた時」云々とは、先進國が「帝國主義」を卒業し掛けた時、後進國中の最先進國(日獨伊)三國がその「帝國主義」で登場した、と言ふ事では。

*「前者が自然發生的であり安定し掛けてゐる事に苛立ち」云々の「自然發生的」とは、恆存が他の評論でもよく取り上げてゐる西歐の歴史の「統一性・一貫性」の意を含んでゐる樣に思へる(以下參照)。

参考:歴史の意識(西欧)・・・「絶対者のないところに歴史はありえない」のである。

*クリスト教の絶対神による「統一性と一貫性との意識が人間の生活に歴史を付与」した。⇒そしてその神(絶対者)そのものが「近代を過去のアンチテーゼとして成立せしめる歴史的一貫性」を形作つた。即ち西欧は「反逆すべき神」として中世を持つことが出来たのである。「神への叛逆も、じつは千年にわたるながいあいだの神への凝視と沒入とから習得し免許をあたへられた理想人間像にもとづいておこなはれたものである」(P599『小説の運命Ⅰ』)⇒「なぜなら神と言ふ統一原理はその反逆において効力を失うものではなく、それどころか反逆者の群れと型とを統一しさへする」⇒近代西欧精神を「神に型どれる人間の概念の探求」と言ふ形で統一していつたのである。(参照:『近代の宿命』P462、及び同発表文中「西欧歴史的統一性:図解」及び『現代人の救ひといふこと』

*「後進國特有の適應異常現象」とは、日本の場合は「PP圖彼我の差higanosa.pdf へのリンク左右圖の比較を示してゐるのでは。獨伊については、「近代國家」に成り得ぬ状態即ち「讀む會テキスト」yomukaitekisuto.pdf へのリンクP7の状態と「P8:近代國家」確立の差異の事であらうか。

 

〔難解又は重要文〕:P166下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「共産主義もその例外ではなく、正否は別として、後進國近代化の一手段に他ならない」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「PP圖「彼我の差」」右圖中の「實證精神 」の範疇を指してゐるのでは。しかも「神に型どれる人間の概念の探究」のいはば「鬼子」的概念として。

 

〔難解又は重要文〕:P168下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「第二の國家概念は果たして惡なのか。それは單に時代遲れといふ事ではなかつたのか。國家的エゴイズムそのものは惡ではなく、それを主張する方法に誤りがあり、適應異常者の常として、その際に偏執狂じみたへまをやつただけのことではないか。それなら、國家、或は國家的エゴイズムは容認すべきであり、それを補ひ相殺する何物かを吾々は缺いてゐたのであつて、その結果として國家的エゴイズムをさへ滿足せしめられなかつたといふ事になる」・・・この邊の文章は何を言はんとしてゐるのであらうか。

*「第二の國家概念」、即ち以下の後進國が取る國家的エゴイズムを惡ではないと言ふのである。

*對外的には齊しく國家的自律性を目ざすナショナリズム(國家主義)であつても對内的には個人の自律性を犧牲。

*「先進國に對する劣勢の意識と守勢の立場から、逆に攻撃的姿勢を取り、自國の國家的優位を確立しようとする。その専らの關心事は自律性より優位性。優位性によつてしか、自律性が得られぬから」。

 ただ、「それを主張する方法に誤りが」あつたと。「適應異常者の常として、その際に偏執狂じみたへまをやつた」のだと。そしてその原因として「それ(國家、或は國家的エゴイズム)を補ひ相殺する何物かを吾々は缺いてゐた」のだと。つまり、この「相殺する何物か」との關係が重要なのである。それがなかつたから、「へま」(失敗)をやらかしてしまつたのだと、恆存は言ふのであらう。

 恆存は、「國家的エゴイズム」「個人的エゴイズム」を含めエゴイズムを惡だとしてゐない。エゴイズムと「相殺する何物か」に關しての、恆存思想(當該評論は幾つもあるが、その一つ)を纏めた小生文を思ひ出したので以下添付する。

參考:《此処が解りにくい:付記文》封建制度時代(前近代):集団的秩序の確立してゐる時の職業(『職業としての作家』より)

 

*恆存は、「エゴイズム」を「生の意慾の湧出」「生命力の昂揚(全集:P511)」「すなほな生物の慾望(P507)」「生命慾」と見てゐます。

しかし重要なのは、「エゴイズム」はあくまでも「絶對・全體」との關係を維持する事で、その結果、有機體として「集團的自我・支配被支配の自己」のダイナミズムが成立する。

と、その樣に恆存は捉へてゐるのではなからうかと思へます。即ち「神なくして個人の権利を主張しえない。それをあへてなすことは惡徳である」(『近代の宿命』)と言ふ文がその事を示すと思へます。

 

〔難解又は重要文〕:P168下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「端的に言へば、大東亞戰爭は罪惡なのではなく、失敗だつたのである。失敗と解つてゐなければならぬ戰爭を起した事に過ちがあつたに過ぎない」・・・この邊の文章は何を言はんとしてゐるのであらうか。

*「失敗だつたのである。失敗と解つてゐなければならぬ戰爭を起した事に過ちがあつたに過ぎない」と言ふ、その理由とは何なのか。前文の「それを主張する方法に誤りがあり」、かつ「それを補ひ相殺する何物かを吾々は缺いてゐた」からだと言ふ事なのであらうか。                                                                  

 少し話が逸れるが、此處で小生にひとつ疑問が生じたのである。

恆存は、前項でも「國家的エゴイズムそのものは惡ではなく」と書き、此處でも「大東亞戰爭は罪惡なのではなく」と書いてゐる。がしかし、別評論『人間不在の歴史觀』では、是とは正反對に、以下の樣にエゴイズム」を惡と捉へてゐる(參照:以下枠文中段〔恆存は戰爭を以下の樣に捉へる〕)。

「勿論、私は大東亞戰爭を、いや、戰爭すら否定するものではありません。戰爭は國家的エゴイズムから發するものであり、それがエゴイズムとあれば、國家のものであらうと階級のものであらうと個人のものであらうと、等しく惡ですが背に腹は變へられぬ時があります。また、實際はさうでなくとも、計算違ひや、時のはづみで、さう思込む時があります。(中略)そしてあらゆる戰爭は惡です。随つて、出來るだけ避けるに越した事は無い」(『人間不在の歴史觀』全五P385)。

 さて、一見矛楯したこの問題をどの樣に整理したらよいであらうか、と思ひ惱んだ。

 以下枠文中でも整理的説明を小生は施してはゐるが、恆存は、惡としながらも「大東亞戰爭・戰爭」を否定してはいない。惡である「が、背に腹は變へられぬ時がある」即ち必要惡的概念として、「戰爭・國家的エゴイズム」を肯定してゐるやに思へる。恆存がよく言ふ樣に、この世に「絶對惡」は存在しないからと言ふ事であらうか。同評論で「もともと私は大東亞戰争否定論の否定者」(P381)と書いてある文章を忠實に辿るなら、恆存は、大東亞戰爭・戰爭」を「必要惡」としては否定してゐないと讀む事が可能なのである。

「背に腹は變へられぬ時がある」。即ち必要惡として、大東亞戰爭・戰爭」を否定はしないが、「否定肯定」と「失敗成功」は別な概念であると恆存は言ふのであらう。であるから、「失敗と解つてゐなければならぬ戰爭」として大東亞戰爭を距離を置いて見るのである。

では何故「失敗と解つてゐなければならぬ」と恆存は言ふのであらうか。繰り返すが、その理由は「それを主張する方法に誤りがあり」、かつ「それを補ひ相殺する何物かを吾々は缺いてゐた」からだと言つてゐる樣に讀めるのである。西歐近代への「適應異常」が、その「誤りと缺如」の二つを惹起したのであると言はんとしてゐる樣に思へる。

尚、「適應異常」については、以下枠文でも書いてゐる通り、恆存は「日本の近代史を『近代化に對する適應異常の歴史』」と見てゐる。そして、大東亞戰爭も日露戰爭も適應異常ではありながら、近代化の爲に「近代日本が辿らねばならなかつた」開戰として見てゐる。その點について恆存は、ヨーロッパ列強(先進國)に對し背伸びする日本の「絶望的な惨めさは、そのまま今(大東亞戰爭中)の吾々のものではないか」と以下の樣に言ふのである。

「私はこの戰争(大東亞戰爭)を明治開國以來、近代日本が辿らねばならなかつた一つの運命とみてゐた」。「あれ(日露戰爭)以來、吾々は同じ事をやつてゐるのではないか、ここに血を流した父祖の絶望的な惨めさは、そのまま今(大東亞戰爭中)の吾々のものではないかと」。そしてその「同じ事」、絶望的な慘めさとは、「當時のヨーロッパ列強(先進國)に對し背伸びして力を競はうとする明治の日本の苦しい立場を物語るもの」(P385『軍の独走について』)なのだと。

〔參考〕

小生發表文:《全集第五巻所收『人間不在の歴史觀』》「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

注:今囘一部修正加筆

 

《福田恆存は先の大戰(或いは「戰争」)をどのやうに捉へたか》(括弧内は吉野注)

*「大東亞戰爭は日本近代化の成果であり、同時に破綻であつて、それを前近代的なものと考へてゐる限り、近代の確立も克服もあつたものではない」「肯定と否定とは兩立させ得ぬものなのか(即ち「成果であり、同時に破綻であると」肯否兩立させ得るものだと、恆存は言ふのである)」(『人間不在の歴史觀』全五P381~2)。

*「私はこの戰争(大東亞戰爭)を明治開國以來、近代日本が辿らねばならなかつた一つの運命とみてゐた」。「あれ(日露戰爭)以来、吾々は同じ事をやつてゐるのではないか、ここに血を流した父祖の絶望的な惨めさは、そのまま今(太平洋戦争中)の吾々のものではないかと」。そしてその「同じ事」、絶望的な慘めさとは、「當時のヨーロッパ列強(先進國)に對し背伸びして力を競はうとする明治の日本の苦しい立場を物語るもの」(P385『軍の独走について』)。

 

〔恆存は戰爭を以下の樣に捉へる〕

*「勿論、私は大東亞戰爭を、いや、戰爭すら否定するものではありません。戰爭は國家的エゴイズムから發するものであり、それがエゴイズムとあれば、國家のものであらうと階級のものであらうと個人のものであらうと、等しく惡です。が背に腹は變へられぬ時があります。また、實際はさうでなくとも、計算違ひや、時のはづみで、さう思込む時があります。(中略)そしてあらゆる戰爭は惡です。随つて、出來るだけ避けるに越した事は無い」(『人間不在の歴史觀』全五P385)。

即ち、

*戰爭=國家的エゴイズム=エゴイズム(國・個人)=惡。故に「聖戰」視は欺瞞。

と言ふ事になる。

「が、背に腹は變へられぬ時がある」(P385)=やむを得ぬ「必要惡」としての肯定。

 そして、「戰爭」と共に「近代化」も恆存は「必要惡(ネセサリーイーブル)」と他の評論にて書いてゐる。

以上から推察するに、このやうに纏める事が出來る。

大東亞戰爭は(日露戰爭をも含めて)日本が辿らざるをえなかつた、必要惡としての「近代化(西歐化)」が招いた一つの経路(「運命」)であり、その結果として「軍は日本近代化の防波堤」となり物質的近代化の「成果」に寄與した。ゆゑに「大東亞戰爭は日本近代化の成果である」と。

そして「破綻」の方の原因は、以下である。

恆存は言ふ。日本の「近代化」は、物質的近代化(西歐化)だけで終はつてしまひ、もう一つの更に重要な「精神の近代化」を缺如した爲の「適應異常」に因るものであると。更には「日本の近代史を『近代化に對する適應異常の歴史』として見直す事を提案する」(『適應異常について』)と言つてゐる。(參照PP圖「彼我の差」higanosa.pdf へのリンク」)

以上から察するに、大東亞戰爭「破綻」の原因は「近代化に對する適應異常」にある、と言ふ事になる。

故に「先の大戰は罪惡なのではなく、失敗だつた」(『現代國家論』P168下)と言ふ事になるのである。

以下の林房雄著『大東亞戰爭肯定論』と一見似てゐるが、植民地化(「東漸する西力」)への抵抗(戰ひ)と、近代化(必要惡)の爲の戰爭と、同じやむを得ぬ戰ひでありながら、概念的相違がそこにあるやうに小生には思へる。

 

恆存の「歴史觀」及び「大東亞戰争」見解。

*「もともと私は大東亞戰争否定論の否定者。(中略)或は林(房雄)氏も私と同じで、單なる否定論の否定を肯定論と銘打つただけかも知れません」(『人間不在の歴史觀』P381)

*戰爭=國家的エゴイズム=エゴイズム(國・個人)=惡。故に「聖戰」視は欺瞞。

「が、背に腹は變へられぬ時がある」(P385)=やむを得ぬ「必要惡」としての肯定。

言ひ換へれば、日露戰爭も大東亞戰爭も「すべてを自分の問題として、自分がその中に這入つて、歴史を生きながら押進めて行くといふ態度を持たねばならない」(『軍の獨走について』P389)と言ふ事なのである。

 「自分がその中に這入つて」とは、氏の以下の文と繋がつていく。

 「歴史家が時代や人物と共に生き、共に迷ふ心の持主でなければならぬのは、言ふまでもなく歴史上の人物が、歴史そのものが、迷ひながら生きてゐるからです」『人間不在の歴史觀』全五P381)。

 「歴史に附合へば附合ふ程、首尾一貫した因果の直線は曖昧薄弱になり、遂には崩壊し去る。そして吾々の目の前に残されたのは點の連續であり、その間を結び附ける線を設定する事が困難になる。(中略)が、歴史家はこの殆ど無意味な點の羅列にまで迫らなければならぬ。その時、時間はずしりと音を立てて流れ、運命の重みが吾々に感じられるであらう」(『乃木将軍と旅順攻略戦』P116)。

  上述の事柄を恆存の体驗的現象に顯はすとこのやうになる。

「その時私は感じたのです。あたかも明治以後の日本の歴史が眼前を、といふよりは自分の身内を、一瞬のうちに通り過ぎるのを。そして、私はつくづく思ひ知りました、あれ以来、吾々は同じ事をやつてゐるのではないか、ここに血を流した父祖の絶望的な惨めさは、そのまま今(太平洋戦争中)の吾々のものではないかと」(P385『軍の独走について』)。

 

即ちそれらは「近代日本が辿らねばならなかつた一つの運命」の糸で繋がつてゐるのだと。 たしか「 歴史の必然」とも恆存は他の評論で述べてゐる。

 

参考:別評論家の「大東亞戰争」見解。

*小林秀雄:(要約)「反省したい奴は反省したらいい、俺はしない・・・。歴史的必然であ
る」的捉へ方。

*林房雄:「大東亞戰爭は東漸する西力に對する東亞百年戰争の終曲」(『大東亞戰爭肯定論』)。

 

〔難解又は重要文〕:P169上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「大事な事は吾々は吾々の國家を如何にして何處に見出すかといふ事である。戦前の日本においては、現實はともかく觀念の上では、國家は個人に對して絶對なるものであり、優位なるものであつた。明治のナショナリズムは先進國のそれの樣に個人の自由と相補的な關係を持つ事は出來なかつた。この後進國の宿命は戰後においても本質的には變はつてゐない」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。傍線部分は、「PP圖「彼我の差」higanosa.pdf へのリンクの事を言つてゐるのであらう。特に日本については、左圖構造の變革の無さを言つてゐるのであらう。

 

〔難解又は重要文〕:P169上~下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

①「國家に代つて出現した権威が社會であり、階級であり、民主主義であり、平和である。が、これらの概念はいづれも忠誠心を強要する力を持たない。個人は自己のエゴイズムを捨てる場所を失つたのである」。

②「社會は福祉を通じて、階級は賃上げを通じて、民主主義は人権を通じて、平和は生命を通じて、いずれも個人的エゴイズムに奉仕し、吸収されてしまふからである。

・・・①②の文章は何を言はんとしてゐるのであらうか。小生には理解が難しく、よつて上手く的を射てゐるかどうか、定かではないが、一應以下の樣に解してみた。

 是もやはり、「PP圖「彼我の差」higanosa.pdf へのリンク左圖(日本的特殊性=精神主義構圖)の事を言つてゐるのではなからうか。

つまり、國家に代つての、同じく後楯・護符(西歐概念=上位概念)である「社會・階級・民主主義・平和」は、個人主義(個人的エゴイズム優先)時代においては、上位概念に留まる事が出來ない。故に、國家の概念よりも更にそれらは「忠誠心を強要する力を持たない」が爲に、「個人的エゴイズムに奉仕し、(福祉・賃上げ・人権・生命)として吸収されてしまふ」。そして結果的に「絶對的自己肯定」は増長し「個人は自己のエゴイズムを捨てる場所を失つた」といふ事ではなからうか。

*「今日では個人に優先する概念は何處にもない。しかし、人間はエゴイストであると同時に、そのエゴイズムを捨てたいといふ慾求を持つてゐる。それが何處かから與へられる事を願つてゐる」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。即ち、個人主義(日本の場合は似非個人主義ではあるが)の病弊と、人間が持つ二側面「エゴイスト(集團的自我A)」、「エゴイズムを捨てたい(個人的自我B)」を言つてゐるのであらう。

 

〔難解又は重要文〕:P169下~170上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

*「その際、吾々は過去の日本人が一度も考へた事の無い課題に逢着する。それは次の事である。國家は個人に優先する、が、國家に優先するものは何も無いのか。個人は國家の前に自己のエゴイズムを抑へる、が、國家は何の前に自國のエゴイズムを抑へるのか」・・・この邊の文章は何を言はんとしてゐるのであらうか。上記傍線部分については、以下枠文の「宗權は國權を超える」が參考になるのでは。

小生的に説明を附すとかうなる。自由主義國家民主主義國家は、「神に型どれる人間の概念の探究」からなる成果なのであるから、「自國のエゴイズム(A)を抑へる」概念として、その神(C宗權)、言葉を變へれば「国際(他者愛:B⇒C)」という概念を、國家(A)に優先するものとして持ってゐなければならない、といふ事なのでは。無論中世の宗教國家復活を此處で論じてゐる譯ではない。(參照「PP圖「彼我の差」higanosa.pdf へのリンク右圖」)

拙發表文:「個人と社會」の問題・・・自由主義諸國においては「宗權は國權を超える」と言ふ事。(全三P79『個人と社會』から)

*「アメリカを筆頭とする自由主義諸國は、たとへ現状では國際間にまで倫理が通用しなくても、本質的には個人倫理の延長に社會や政治を考へてゐる國です。。兩者は永遠に一致しないかも知れない。しかし、いや、それゆゑに、個人倫理の次元を、根源的には宗權を國權の上位に置く、すくなくとも同位に置く、人間觀にもとづいてをります。(中略)まちがひは犯しませうが、本質的な生き方については、昔からなんの變更もありません。が、ソ聯は國家目的、社會目的、階級目的を個人倫理の上に置きます。後者は前者によつて規定されます。私は躊躇なく、自由主義諸國に共感をおぼえる。(中略)いひかへれば、相對の世界に對立する絶對の世界、そして兩者の竝存を認める生き方、それが人間の生きかただとおもふのです。(中略)さういう意味で、私は個人が國家に反抗できる制度ではなく、さういふ哲學がもつとも必要であるとおもひます」・・・とはかういふことでは。西歐では、宗權の客體化としての近代國家設立が始まつた。⇒「神に型どれる人間の概念の探究」としての、自由主義國家・民主主義國家が始まつた。と言へるのでは。

 この「宗權を國權の上位に置く」と言ふ事が日本人には分からない。だから「金以外はドウデモヨイ」(松原正の言)となり、金の問題になると目が塞がれて、國の安危に關する政治課題が見えなくなるのである。恆存の文に隨ふと「吾々は過去の日本人が一度も考へた事の無い課題に逢着する」と言ふ事になる。

尚、論究が先行してしまうが、忘れてしまふといけないので記載しておく。下枠文の「過去の歴史と大自然の生命力(時間的全體・空間的全體・C)に繫つてゐなければ、人格は崩壊する。現代の人間に最も欠けているものはその(B⇒Cの)明確な意識ではないか」の部分は、その事柄を指摘してゐるのである。
參照PP圖:「完成せる統一體としての人格」論kanseiserutouitsutai.pdf へのリンク

*「問題は、すべてはフィクションであり、それを協力して造上げるのに一役買つてゐる國民の一人、公務員の一人、家族の一人といふ何役かを操る自分の中の集團的自己をひとつの堅固なフィクションとしての統一體たらしめる原動力は何かといふ事である。それは純粋な個人的自己であり、それがもし過去の歴史と大自然の生命力(時間的全體・空間的全體:小生注)に繋つてゐなければ、人格は崩壊する。現代の人間に最も欠けているものはその明確な意識ではないか」(全集六P703~4 『覺書』)と。參照PP圖:「完成せる統一體としての人格」論kanseiserutouitsutai.pdf へのリンク

 

〔難解又は重要文〕:P170上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

*「國家的エゴイズムを聖化するにせよ否定するにせよ、その存在に目をつぶりたがるのは、それを認めながら同時にそれを超える價値觀を持たないからである。その弱點はまた次の樣にも言へる。吾々は國家と個人とを對等に見なし得る價値觀を持たなかつた事にあると。成る程、個人の内の或る部分は國家に對して忠實を誓ふ。が、個人の内の他の部分は國家以上の存在に忠誠を誓ひ、その立場から國家を拒否する事もあり得る。が、いづれの場合においても、個人は自己の自由意思に基づいてそれを行ふ。自由気儘にではない、自由意識に基づいてである。その爲には當然、國家と個人との間に一つの價値觀の共有といふ黙契が成立つてゐなければならない」・・・この邊の文章は何を言はんとしてゐるのであらうか。

此處の文章も前項で參考にした、「個人倫理の次元(B⇒C)を、根源的には宗權(B⇒C)を國權(A)の上位に置く」及び「相對の世界に對立する絶對(C)の世界、そして兩者の竝存を認める生き方」に關聯して來ると思へる。

それを超える價値觀」「國家と個人とを對等に見なし得る價値觀」「國家と個人との間に一つの價値觀の共有」の價値觀とは、「相對の世界に對立する絶對(C神)」の事であり、絶對(C)の觀念を持てる事が個人倫理の次元(B⇒C)」を保持する事となる。それを保持する事によつて國權(A)・宗權(B⇒C)への「自由意思に基づく」出入即ち転換的行動が可能となる。この「個人倫理の次元(B⇒C)」を換言すると、「ひとつの堅固なフィクションとしての統一體たらしめる原動力(B⇒C)」と言ふ事になる。丁度參考となる文章を見つけたので以下に記載しておく。

*「フランスのレジスタンス(中略)の自我の強烈さの底には援軍を信じてゐる人々の強さがあつた。フランスの市民もさうですが、自分をも市民をもひつくるめて、ひとつの絶對に支へられてゐるといふことです。それはクリスト教です。(中略)そのクリスト教から習慣づけられた永遠なるもの、絶對的なるものへの信仰であります。私たちにとつて重要なことは、それが國家意識、あるいは愛國心と結びつくといふことです。國家も社會もじつはそれによつて支へられてゐるのです」(個人と社會:全三P77)

 

〔難解又は重要文〕:P170上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

*「吾々は明治以來、常にその事(「國家と個人との間に一つの價値觀の共有といふ黙契」)を怠つて來た。戰前は國家の名において、戰後は平和の名において、國家的エゴイズムだけではなく、個人的エゴイズムもを美名を以て正當化し、兩者の露骨な對立抗争を囘避してきたのである」・・・この邊の文章は何を言はんとしてゐるのであらうか。以下文の括弧注を表すのではなからうか。此處もやはり、「PP圖「彼我の差」higanosa.pdf へのリンク左圖(日本的特殊性=精神主義構圖)の事を言つてゐるのではなからうか。同文に説明補助として以下に括弧注を施してみた。

*「吾々は明治以來、常にその事を怠つて來た。戰前は國家(C2)の名において、戰後は平和(C2)の名において、國家的エゴイズムだけではなく、個人的エゴイズム(C”絶對的自己肯定)もを美名(護符C2)を以て正當化し、兩者の露骨な對立抗争を囘避してきたのである」。

*「個人と國家との關係については頗る舊弊な考へしか持つてをらず、(中略)正に前近代的であり個人主義以前である」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「頗る舊弊な考へ」は左圖(精神主義構圖)に基づくものであり、「前近代的であり個人主義以前」とは、やはり左圖(日本的特殊性=精神主義構圖)を物語つてゐるのでは。そして「個人主義」とは右圖を指す。

その「彼我の差」の根本的原因となるものは、以下枠文に記載されてゐる内容なのであらう。

尚、文中の③は今囘の加筆文である。

拙發表文個人主義からの逃避』より「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

  何故日本は西歐近代を「まねようとしたのにまねられなかつた」のかを、端的に表してゐるのが以下の文である。其處に西歐近代と明治以降日本人の精神性の相違がコントラストに描き出されてゐると言へる。前文三つが西歐近代精神である。


①「科學技術と社會制度の民主化との過程が進むにしたがつて、それまでの精神の領域(B:個人の純粋性)に屬してゐた問題が、逐次物質の領域(A:支配被支配の自己)に移されて、物質の問題として解決されていつた。物慾に克といふ克己の倫理(Bの領域)も、充分に慾望する物質を生産(Aの領域)するといふことで解決されてしまふし、病苦に堪へるといふ美徳(Bの領域)も、醫學の進歩(Aの領域)が徐々にそのやうな精神の無益な負擔を輕減しつつある」(『近代の宿命』全二P453) 

②「近代ヨーロッパは神を見失つた――が、それはただ神の解體と變形と抽象化とを意味するに過ぎぬ。まさにその爲の手續きであり過程にすぎなかつたヨーロッパの近代精神とその政治制度・経済機構」なのである。(參照『近代の宿命』全二P466・「テキスト八圖」)

③「近代化といふのは、先進國からでたものですが、近代化を作つたものは何かと言ひますと、やつぱり過去の歴史の動き(クリスト教の連續性、一貫性、統一性?)、生命力ですね。一つの共同體(クリスト教文化圏?)があつて、その共同體も個人も強い生命力を持つてゐて、無目標で動いていくうちに、近代化といふ一つの道ができたわけなんですね」〔單:『生き甲斐といふ事』對談「近代化について」P173~4より〕。

*それに引き換へ日本は、以下の状況。

肉體の自律性:「肉體の自律性は當然その反面に精神の自律性を前提とする。肉體、あるいは物質で解決すべき事を、精神の重荷とするなかれ――精神には精神のみの解決しうる問題をあてがひ、その領域と大權とを縮小せしめるにしくはない。そのときはじめて精神は自律し、その権威は輝くであらう。

が、ぼくたちは今日までなんと精神を神聖化し、さうすることによつて精神の負荷を重からしめ、結果として精神を侮辱してきたことか。肉體の自律性が確立してゐなかつたからである。明治以降の日本人はあらゆる物質的(A)なこと、肉體的(A)なことに、すべて精神(B)のべールをかぶせ、それをことごとく精神の發動として自己満足してきた。かれらは肉慾(A)を肉慾として是認することをおそれ、それに精神的な衣をかぶせた。物慾(A)を物慾として是認することをおそれ、それに藝術愛(B:私小説家が然り)や愛國心(B:絶對主義的愛國心)や愛他心(B)や、その他の主種雑多な大義名分をかぶせた。・・・」(P479全二「肉體の自律性」:續く文も重要であるが、長いので省略)

*そして、「俗權と宗權との對立抗爭に揉まれて發生してきた近代國家の宿命」とは、西歐近代は「神に型どれる人間の概念の探究」即ち、「近代ヨーロッパは神を見失つた――が、それはただ神の解體と變形と抽象化とを意味するに過ぎぬ。まさにその爲の手續きであり過程にすぎなかつたヨーロッパの近代精神とその政治制度・経済機構」なのである、を示している。(參照『近代の宿命』全二P466)

 

〔難解又は重要文〕:P170下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「先進國は疾くに近代的個人主義やナショナリズムを卒業し、それぞれの國家的エゴイズムを國際秩序の維持といふインタナショナリズムに如何に適應させるかといふ處に新しい國家意識を見出さうと努力している。吾々に今日最も必要なのはさういふ國家意識ではないか」・・・この邊の文章は何を言はんとしてゐるのであらうか。

「近代的個人主義やナショナリズムを卒業し」とは、「PP圖「彼我の差」higanosa.pdf へのリンク右圖を指す。その「神に型どれる人間の概念の探究」 としての更なる「精神の政治學ラインの最下降化 」の徹底齎されたものが「新しい國家意識」即ち、「國際秩序の維持(他者愛:B⇒C)といふインタナショナリズム」になるのであらう。

「吾々に今日最も必要なのはさういふ國家意識ではないか」は、此處では恆存は提言に留まつてゐる。何故なら、西歐先進國との歴然とした「彼我の差」に對して、その超克は至難の業であるからである。根本的解決には「完成せる統一體としての人格」論(參照:讀む會テキストP10)を待たざるを得ないが、その前的手段として「処世術(A)的概念)」で解決できるものは「処世術」でと説いてゐる(以下參照)。

拙發表文《此処が解りにくい福田恆存》より

 

歪んだ日本の近代化(適応異常)を修正する手段として、「精神の政治学」分割線の最下降を示唆するのである。そしてその手段として「処世術(A)的概念)」で解決できるものは「処世術」で、と恆存は説くのである。「カエサルのものはカエサルで」と同じ謂ひである。

日本は物質面のみの模倣(客体化)で済まして、精神(個人的自我:B)から、そこに潜

在する「カエサル(A)」的部分を搾り出して、集団的自我(A)に押し出して行くと言ふ西欧的能動がなかつた。故に「精神の政治学」ラインが下降しなかつた、と言ふ事に繋がるのでは。

 

 

〔難解又は重要文〕:P170下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「ナショナリズムを國家意識と譯さうが民族主義と譯さうが、それは日本固有の文化や價値觀と何の關係も無い。それは對外的に強ひられた日本の一時期の姿勢に過ぎない。西洋に適應する爲の國家意識(P166下「近代化の刺激に適應し兼ねる處に生じたもの」)であり民族感情なのである。西洋に強ひられた姿勢を、ナショナリズムといふ言葉に欺かれて自國本來の姿と見誤るのはをかしい。國家と言ふ概念はその國の歴史に則し、國際情勢の変化に随つて變化する。國家意識や民族感情と國體とは全く別個のものである。前者を後者と混同した爲に吾々は吾々の國體を失つた、或は失ひかけてゐるのではないか。もう一度明治の初心に立ち還らなければなるまい」・・・この邊の文章は何を言はんとしてゐるのであらうか。さてどの樣に解したらよいか、小生には實に難しい内容である。それでも敢へて目鼻を附けようとして努力してみる事とする。しかし的を射ているかどうか甚だ心許ない。よつて以下分割して論考する。

  「ナショナリズムを國家意識と譯さうが民族主義と譯さうが、それは日本固有の文化や價値觀と何の關係も無い」とは、③を參照されたし。

  「對外的に強ひられた日本の一時期の姿勢」とは、ただの「一時期の姿勢」でしかないものを、護符C2:後楯)として祭り上げ、國家即ち「自國本來の姿」と見誤つた

  「國家意識や民族感情と國體とは全く別個のものである」とは、前文で「ナショナリズムを國家意識と譯さうが民族主義と譯さうが」と書いてゐるのから察すると、ナショナリズム(=國家意識・民族感情)と捉へて差し支へないのではなからうか。その樣に見た場合、表象の概念(後楯・護符C2)としてのナショナリズム(國家意識・民族感情:C2)と、「日本固有の文化や價値觀」を持つ國家(文明A+分化B?)とは「全く別個のものである」、と言ふ事になるのではなからうか。

國家(文明A+分化B?)の參考として

「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

*「ある型の文化(B)の上にそれに適合した文明(A)が築かれるのです。たとへ文明が目に見える物質的(A)、客體的なものであり、文化が精神的(B)、主體的なものであるとしても、前者には必ず後者の支へがあり、物質文明もまた精神的である」(P192上『傳統にたいする心構』)

 

  「前者を後者と混同した爲に吾々は吾々の國體を失つた、或は失ひかけてゐるのではないか」とは、表象の概念(後楯・護符C2)を國體(文明A+分化B?)と見誤つたと言ふ事ではなからうか。

⑤「ナショナリズムといふ言葉に欺かれて自國本來の姿と見誤るのはをかしい」とは、此處もやはり、「PP圖「彼我の差」higanosa.pdf へのリンク事を言つてゐるのではなからうか。右圖の「神に型どれる人間の概念の探究」 として齎されたものを、護符C2:後楯)としてそれを「自國本來の姿と見誤」つたと言ふ事では。

  「もう一度明治の初心に立ち還らなければなるまい」とは、以下文の傍線部分を言つてゐるのではなからうか。

全集第三巻所收『戰爭と平和と』

 

〔難解又は重要文〕:P63上下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「個人の生命より大事なものはなにかと問はれると困る。かういふ論文でかんたんに答へられることではありません。それはべつの仕事で答へませう。(中略)昔は個人の生命よりも祖國が大切だといふやうなことをいつた。祖國の爲には死ぬことを辭さなかつたのです。(中略)國や民族の生きかたを守らうといふ氣持ちは是認できます。個人の生命よりも全體の生命を大事にするのが當然でせう。が、戰後、その全體の生命としての國家といふ觀念が失はれてしまつた。ですから。個人の生命より大事なものはないといふのは変態だ」。

 

をはり